誰にとっても、生きるとは

荻野 徹

いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する四人の男女。今日は、第二十四章の最後の二頁が話題のようだ。

 

元気のよい娘(以下「娘」) 甥っ子のお付き合いでテレビ見てたら、アンパンマン・マーチが流れて来て。ちょっとまいったな。

凡庸な男(以下「男」) ああ、「何のために生れて、何をして生きるのか」っていうあれね。やなせたかしさんの言葉は深いけど、そんなに大げさに考えなくていいんじゃない。

娘 でもね、「宣長が求めたものは、如何に生くべきかという『道』であった」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集125頁)っていうけど、実はピンとこないんだよね。

江戸紫が似合う女(「女」) どういうことかしら?

娘 「人生いかに生きるべきか」って、なんか重々しくて。もっともらしい辞世の句をありがたがるような感じ。でも、宣長さんも小林先生も、そんなの嫌いでしょ。

男 そうだね。具体的な道徳律を主張するのでも、道徳とは何かみたいな抽象的思弁を弄するのでもない。

女 自分という人間がどのように作られているのかをみつめること、それがよりよく生きることにつながる、ということじゃないの?

娘 でもさあ、生きるとは何か、人生とは何かなんて、みんなホントに分かってるのかなあ。普通の暮らしをしていて、いちいちそんなこと考えてないよ。

女 そうね、普通の人の、普通の暮らし、というものが、確かにあるのよね。太古の昔、原始人のころから、営々と繰り返されている人々の暮らし。そのそれぞれが、人生であったのよね。

娘 小林秀雄という名前を聞いたことがないような人にだって、人生はあるのでしょう。

女 頭の中で考えているだけではなくて、手を動かし、足を運んで、外の世界とかかわっている。何かを獲得したり、痛い目にあったり、恐れ悲しんだり、喜び勇んだりする。そうやって、みんな生きているんだわ。

生意気な青年(以下「青年」) 手ごたえってどういうことかなあ。恐れとか、喜びとか、結局、頭の中のことに過ぎないんじゃないの?

女 そうではないのよ、この間、私達は、むだ話をするのが好きだ、っていう話をしたわよね。

男 宣長さんが、「見るにもあかず、きくにもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」って言ってるやつだね。(同276頁)

女 外界とのかかわり、たとえば、北風に凍えて「寒い、寒い」と言葉にすれば、皮膚への温度刺激という現象が私たちの生活のひとこまというか、大げさに言えば、経験というものになるのでしょう。

男 小林先生は「生の現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印はなかろうし、(略)、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又基本的な人生経験であろう」(同頁)と仰っているね。

女 だから言葉の問題なの。国語というものは、そういうお喋りが、気の遠くなるような歳月をかけて、膨大に蓄積されて、できあがった大きな海のようなものだと思うの。そして、どんなにささやかで、自分だけの秘め事のような心の動きも、言葉の大海のどこかには、それにふさわしい言葉があるんじゃないかって。

青年 どうやって見つけるのさ。グーグル検索みたいにはできないよね。

女 単語や文の意味の問題じゃないの。口調とか、間合いとか。それに、見つける、というより、自ずと見つかるんだわ。

青年 そんなことってあるのかな。

女 たとえば、思わぬ出会いがあんまり嬉しくて、相手の名前を繰り返すばかりで言葉が続かなくなるみたいなこと。思ったように言葉を操ることはできなくても、それはそれで、その人の心の中を現わしていると思わない? こういうのが、国語の働きなんだと思うわ。

青年 そんなあやふやなものを、経験といっていいのかなあ。あの、お分りだと思うけど。近代科学は、時間、長さ、質量などの物理量の関係を、一貫性のある単位の体系の下、数式として表現することによって、世界を客観的に記述できるようになったのですよ。

男 魔術からの解放だね。ヤハウェの怒りとか、菅原道真の祟りとか、そういう超自然的なものの意思を介在させずに、人間は世界を理解できるようになった。そういう物理的な世界、合法則的な世界に、僕らは生きている。

青年 外部を認識するに当たって、感情で目を曇らせてはならない。事物は万人にとって無色なものだよ。こういう合理的思考に基づく近代科学こそが、僕たちの文明生活の生みの親でしょう。

女 もちろん、近代科学の成果を否定するつもりはないし、科学者でなくても、安全で健康な生活を送るには、仰るような意味での合理的な思考が必要だわ。でも、人間の心はどうなのかしら?

男 人間の心理だって、科学的な研究の対象だよ。

女 それは、数値として処理できる要素だけを拾い出してその要素間の関係を分析すれば、なんらかの法則性を見出せるということでしょう。

男 でも、そういう科学っぽいもの言い方は、結構浸透しているよね。たとえば、他人の行動について、承認欲求を満足させるためだとか、同調圧力に屈したとか、抽象的な概念で十把一絡げに説明しようとする。

娘 でも、人の心って、そんなに単純じゃないよ

青年 確かに、人の心の奥底とか、簡単には分からない。でも、分からなくてもいいんだよ。外部から観察可能な行動や、第三者とも共有できる価値観をベースにして世の中のルールを作っていくというのは、因習にとらわれない自由な社会の前提だよ。肚の底まで分かり合う関係を求められたら、重たくってやってられない。

男 政治も、経済も、法律も、抽象的な人間像を前提に組み立てたられた近代的な仕組みに支えられている。仕組みはみんな明治以来の輸入品だけど、それなしにやっていられないよ。

女 でもそういうのって、道具でしょう。日常の社会生活を円滑に遂行し、人々の幸せな暮らしを実現するための道具。道具なしには生きていけないけど、道具を使うことが生きることではないでしょう。そういう道具がなかった大昔から、日本人は、日本語で生まれ育ち、社会生活を送っていたんだわ。

青年 和魂洋才とかいいたいわけ。

女 民族とか言語に優劣をつけているんじゃないの。でも、私たち自身のこと、よく考えて。和服を脱いで洋服に着替えるみたいに、日本語を脱ぎ捨てるわけにはいかないでしょう。生きることと、日本語を使うことは区別できないわ。

青年 そうはいったって、何国人であろうと、同じウイルスに感染して死に、同じ薬が効いて命が助かるんだよ。

女 健康とか病気とかは、病理検査の結果から推知される体内の物理現象にすぎないのかもしれない。でも、私たちにとっては、気持ちがいいとか悪いとか、身体に何となく宿る感覚が出発点でしょう。そういう漠とした感覚が、さわやかだとか、つらいとか言った言葉を脳裏に浮かべることで、しっかりとした輪郭を持ち、自分でもあとで思い出したり、ほかの誰かに伝えたりできるものになる。そういう、身体の感覚とも心の動きとも判然としないもやもやが、言葉に出会い、喜怒哀楽といった感情と分かちがたいものとなる。それが私たちにとっての経験というものじゃないかしら。

娘 人々がおしゃべりをするなかで、見るにもあかず、聞くにもあまり、心に込めがたくなって、あふれ出るのは、そういう喜怒哀楽の「情で染められた」物なんだね。

女 長い年月の中で、そういう「情で染められた」物が積もり積もって、国語という大海の中で、伝えごととか、物語とかいうものになる。そんなふうに生まれた物語だからこそ、そこには、人が生きるということの「ありよう」が記されている、ということではないかしら?

娘 宣長さんは、物語のことを、そんなふうに考えていたということかな?

女 ええ。そして、同じ国語の大海に揺られて生まれ育った日本人ならば、太古の物語に潜んでいるはずの「情で染められた」物を探し当てることを通じて、太古の人生のありようを知ることができる、宣長さんはそんなふうに信じていたのではないかしら?

娘 そういう作業を通じて、誰にとっても生きるとは何かということが、解明されていくのかな。でも……

女 でも?

娘 まだ、「生くべきか」の「べき」が残ってるからさあ。

女 難しいわ。もっと勉強しないと。さきほどのアンパンマン・マーチ、こう続きますわ、「こたえられないなんて、そんなのはいやだ」。

 

 四人の話は、とりとめもなく、延々と続いていく。

 

(了)