物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ

坂口 慶樹

「源氏物語」の「蛍の巻」で、絵物語に熱中する玉鬘たまかずらのもとを源氏君が訪れ、物語について語り合う場面がある。そこで小林秀雄先生が「会話中の源氏の一番特色ある言葉」として紹介しているのが、「(元来物語というものは)神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、ただ、かたぞばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という文章である。(「f本居宣長」第十六章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収)

これは、「物語の作者というものは、口の上手な、嘘をつき慣れた人なんだろうね……」、という源氏の言葉に機嫌を損ねた玉鬘が、立腹気味に「私には本当のこととしか思われません」と返したことに対し、源氏が笑いながら、少し冗談めかして「ぶしつけに物語のことを悪く言ってしまった、『日本書紀』など及ぶところではなく、物語にこそ人の世の真理を含む詳しいところが書いてあるよね」と返したシーンである。

そこで小林先生は、このように言っている。「彼女(坂口注;紫式部)は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは『神代よりよにある事を、しるしおきけるななり』という言葉は、其処から発言されている……」

そのあとに続くのがこの言葉である。

「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」。

簡明率直にして、それこそ底が深い泉のように感じられるこの言葉に先生が込めた深意について、本居宣長と紫式部という人物と向き合いながら、思いを巡らせてみたい。

 

 

先生は、「飲んでいる」と書いている。そこに私は、式部の、「物語の生命」の源泉に対する強い確信と当事者たらんとする強い意思を感じる。それでは、彼女のそのように強い気持ちは、どのようにして育まれたのだろうか? 宣長は、その思いの強さをどのように受け止めたのか? さっそく二人の肉声を聴いてみよう。

宣長は、「紫文要領」において、「古き物語どもの趣き、それを見る人の心ばへなど」が「源氏」の巻々に見えるという十二の例を引いている。ここでは、そのうち三例を引く。

まずは、蓬生よもぎふの巻から。

―はかなき古歌ふるうた・物語などやうの御すさびごとにてこそ、つれづれをもまぎらはし、かかる住ひをも思ひ慰むるわざなめれ。(坂口注;慰めることができるのである)

『かかる住ひ』とは、末摘花すえつむはなの心細くさびしき住ひなり。さやうのことをも慰むるは、古物語に同じさまのこともあれば、わが身のたぐひもありけりと(坂口注;古物語に自分と同じ様子の事がらも書かれているので、自分のような境遇の人もいるのだと)、思い慰むなり。

次に、総角あげまきの巻から。

―げに古言ふることぞ人の心をのぶるたよりなりけるを(同;のびのびさせる手段であるということを)、思ひ出で給ふ。

この『古言』は古歌のことなれど、物語も同じことなり」。

最後に、胡蝶の巻から。

―昔物語を見給ふにも、やうやう人の有様、世の中のあるやうを見知り給へば、……

すべて物語は、世にあることの趣き、人の有様を、さまざま書けるものなれば、これを読めばおのづから世間のことに通じ、人の情態こころしわざを知るなり。これ、物語を読む人の心得なるべし」。

そのうえで宣長は、こう概括している。

「それ(坂口注;物語)を見る人の心も、右に引けるごとく、昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また、今の物の哀れをも知り、(坂口注;物語を読む人は、昔の出来事を今の出来事に引き比べて、昔の人が感じていたもののあはれを体感し、また自分の現在の身の上を昔と比べることで、自らが感じている「もののあはれ」を再認識し、悲しみを慰め、これを晴らす)

右のごとく巻々に古物語ふるものがたりを見ての心ばへを書けるは、すなはち今また『源氏物語』を見るもその心ばへなるべきことを、古物語の上にて知らせたるものなり。(同;そういう気持ちであるということを、古物語に託して読者に教えているのである)右のやうに古物語を見て、今に昔をなぞらへ、昔に今をなぞらへて読みならへば、世の有様、人の心ばへを知りて、物の哀れを知るなり」。(傍点筆者)

 

続いて、式部の肉声を「紫式部日記」から聴いてみよう。夫の源宣孝のぶたかとの死別(1001(長保三)年)、一条天皇の中宮彰子しょうしのもとへの出仕(1005(寛弘二)年)を経た、一〇〇八(寛弘五)年十一月中旬に記した回想である。

「年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋にゆきかふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにとばかり、行くすゑの心ぼそさはやるかたなきものから、、おなじ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけどほき、たよりどもをたづねてもいひけるを、ただこれをさまざまにあへしらひ、、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかりのがれたりしを、さも残ることなく思ひ知る身のうさかな」(傍点筆者)

これを口語に訳してみれば、次のようになろう。

夫が亡くなってから幾年か、私は涙に暮れながら夜を明かし日を暮らした。花の色も鳥の声も空しく、この身はただ物憂い日々を過ごしているだけだった。春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪などを目にするに付けても「そんな季節になったのか」とだけは分かるが、心中はただ「いったいこれからどうなってしまうのだろう」とそのことばかりで、将来の心細さはどうしようもなかった。私には、取るに足りないものではあるけれど物語についてだけは、語り合える友たちがいた。同じ心を抱き合える人とはしみじみと思いを述べた手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも連絡を取り、私はただこの「物語」というものひとつを手掛かりに、様々の試行錯誤を繰り返しては、慰み事に寂しさを紛らわした。私など、世の中を生きる人の数には入らない。それは分かっているが、さしあたってこの小さな家の中で暮らし、気心の知れた仲間と付き合う世界では、恥ずかしいとかつらいとかいう思いを味わうことを免れていた。(*1)

 

文意よりも、その姿を虚心にながめてみると、宣長が直覚したように、彼女自身が、物語そのもの、そして物語について語り合う仲間たちの存在に大いに助けられながら、なんとか日々の生活を重ねて来ることができた、そう痛感している姿が眼に浮かぶ……

さて、先に引いた「紫文要領」からの引用は、「古物語」に特化したものであり、「源氏物語」において、「物語」という言葉は、談話、雑談、親しい人との語らい、など多種多様なニュアンスで使われている(*2)。また、式部が暮らしていた当時、語り合われた題材は、物語だけではなく、歌もその対象であった。「歌がたり」と言われ、ある歌やその歌にまつわる話をめぐって語り合うことが、盛んに行われていたのである(*3)

例えば、式部は、こんな歌を詠んでいる。

「わづらふことあるころなりけり。『かひ沼の池といふ所なむある』と、人のあやしき歌語りするを聞きて、『こころみに詠まむ』といふ

世にふるに などかひ沼の いけらじと 思ひぞ沈む そこは知らねど」

これは、式部が病気をしていた時、人が「かい沼の池という所があって……」と、不思議な歌にまつわる話をするのを聞いて詠んだ歌である(「紫式部集」)

また、「源氏物語」にも「歌語り」の場面は多い。

例えばこれは、光源氏が紀伊守の屋敷を訪れた際、源氏の御座所おましどころの西側の部屋から、若い女性たちのおしゃべりする声が聞こえてきた時のことである。

「ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿の宮の姫君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。くつろぎがましく、歌じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」(帚木の巻)

(源氏君は)別段のこともないので、途中までで聞くのをおやめになったが、いつしか式部卿の宮の姫君に源氏が朝顔の花をお贈りになった時の歌などを、少し文句を間違えて言うのも聞こえてきた。有閑婦人気取りで、何かと言えば歌を口にすることよ、やはりがっかりする手合いだろうな……(坂口注)

 

機会を改めて詳しく検討するつもりであるが、このような「歌語り」については、実体としては平安期を遡る古代からあったと言われている。ちなみに、「歌語り」というわけではないものの、先ほど引いた式部の日記にある「花鳥の色をも音をも」という言葉は、「後撰ごせん和歌集」(*4)にある歌に見える。(夏212番)

花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かるる身は 過ぐすのみなり

花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ。(坂口注)

作者は、式部の祖父、藤原雅正まさただである。彼女の一族は、藤原氏の中でも名門の北家ほっけに属しており、直系の曽祖父である藤原兼輔かねすけは従三位中納言、もう一人の曽祖父である藤原定方さだかたは右大臣という高位にあった。ところが、雅正の代から一変、凋落の一途をたどったと言われている。

ちなみに、兼輔の歌も「御撰和歌集」に収録されている。入内した娘、桑子そうしが帝の醍醐天皇の寵愛を受けられるかどうかが心配でたまらず、帝に奉ったものだ。

人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな

子を持つ親の心ときたら、暗くもないのに迷ってばかり。子を思うがゆえに、分別をなくしてしまうのです。(同)

「源氏物語」の中で、この歌の趣旨が背景にあると思われる箇所は、二十六に及ぶ(*5)。彼女自身も、夫の没後は女手一つで娘の賢子けんしを育て上げており、兼輔が感じていた痛いような思いを自らのものとしていたのであろう。(*6)

 

ところで宣長は、「紫文要領」のなかで論を進めるにあたり、式部の「気質」「性質」にまで目を配っている。ここで、式部が「日記」のなかに記している、ある出来事を紹介しておきたい。

中宮彰子が、一条天皇の二男となる敦成親王を出産した年(1008(寛弘五)年)新嘗祭にいなめさいでのこと。内裏の数ある祭のなかで最も華やかな出し物となるのが、四人の童女による「五節ごせちの舞」である。帝をはじめとする衆目を浴びながら舞を披露する童女たちを見て、式部は、彼女たちが感じている、顔から火が出るような心持ちを想像し、そこに自らが初めて内裏に出仕した当時の心持ちを重ね合わせる。我が心が我が心を見つめる…… そのまま、こう独りごつ。―今や宮仕えにもすっかり馴れて、あれほど恥ずかしくて嫌だった、人と直かに顔を合わせることもすっかり平気になってしまった。私は一体これからどうなってしまうのだろう、末恐ろしくも思われ、眼前の舞も上の空になってしまった……

式部は、他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていたようだ。そうであればなおさら、「古歌」や「物語」に対する彼女の思い入れの強さも、さらによく理解できよう。

 

このように、「古歌」や「物語」については、式部自身が人一倍親しみ、「昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また己が身の上をも昔にくらべてみて、今の物の哀れをも知り、憂さをも慰め、心をも晴らす」という、その功徳もよくよく体感していたことがわかる。かてて加えてその功徳は、上古の人々から、「古歌」や「物語」において体感され、平安の「今、ここ」の世に至るまで、連綿と受け継がれてきているものであることを、彼女は鋭く直観していたように思う。

 

 

本稿で熟視した、「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」という言葉の少しあとで、小林先生はこのように語っている。

「物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、ただ、かたそばぞかし』と言ったのである」。

 

本稿では、物語の生命の源泉に向けて、宣長も直覚していた式部の気質に光を当てるかたちで論じてきたが、さらなる深みへと降りて行く必要があるように思われる。

 

 

(*1)山本淳子「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)

(*2)藤井貞和氏によれば、「『源氏物語』のなかに『物語、おほむ物語、古物語、昔物語、物語絵、物語す』などの辞例が二百二十余りある」。(『物語論』、講談社学術文庫)

(*3)「『歌がたり』とか『歌物がたり』とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す」(「本居宣長」第十八章、「小林秀雄全作品」第二十七集所収)

(*4)村上天皇の命による、「古今和歌集」に次ぐ第二の勅撰和歌集。

(*5)井伊春樹編「源氏物語引歌索引」(笠間書院)による。

(*6)賢子は藤原道長の兄道兼みちかねの子兼隆との間に女子をもうけた後、時の東宮(皇太子)の皇子みこ乳母めのととなった。その皇子はのちの後冷泉天皇で、その功績により三位さんみという高位を授与された。

 

【参考文献】

・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子校注)

・「紫文要領」『本居宣長集』(同、日野龍夫校注)

・「紫式部日記・紫式部集」(同、山本利達校注)

・清水好子「紫式部」岩波新書

・藤井貞和「物語史の起動」青土社

・山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」朝日新聞出版

(了)