三十六 「古事記」の文体(カキザマ)
「古事記」は、平城遷都の翌々年、和銅五年(七一二)一月に成ったが、当時の日本に文字は漢字、中国から渡来してまだ間のなかった漢字しかなく、その漢字を用いて日本の歴史を文字化するという天武天皇から元明天皇に引き継がれた大志は太安麻侶によって達成された。だが、宣長が「文体」と呼んでいるその漢字表記は安麻侶一人の創意であったため、安麻侶亡き後は一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた。そういう「古事記」の文章を、というよりまずは文字を、しっかり読み解こうとしていた宣長にとって「序」は大事だった、なぜなら、「序」が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこを言明しているからだった。ということは、「序」で言われていることは、宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は「序」も本文と同じ安麻侶の文であることを確と腹に入れてその解読にかかるのである。……
前回はここまで読んで結んだのだが、これに先立って「本居宣長」の第二十八章には次のように言われていた。
――「古事記」の成立の事情を、まともに語っている文献は、「古事記序」の他にはないのだし、そこには、「古事記」は天武天皇の志によって成った、と明記されている。……
そして小林氏は、
――そこで、「記の起り」についてだが、これは宣長の訓みに従って、「序」から引いて置くのがよいと思う。……
と言って次のように「序」から引く。
――「是に天皇詔りしたまはく、朕れ聞く、諸家の賷る所の、帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまふ。……
「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事象の伝承である。こうした「帝紀」や「本辞」が有力氏族の家々に伝わっていたのだが、それらは正実に違い虚偽が加えられていると聞く、今その虚偽を正しておかないと、何年も経たないうちにどれが正でどれが虚かがわからなくなってしまうだろう、「帝紀」「本辞」は邦家の経緯、すなわち国家組織の根本であり、王化の鴻基、すなわち天子の徳によって世の中をよくするという国政の基礎である、ゆえに今回、「帝紀」を撰録し、すなわち「帝紀」を文章に綴って記録し、「旧辞」を詳しく調べ、偽りを削り、実を定めて後世に伝えようと思う、と天皇は言われた。……
そして、ここからである、宣長は、ここからの記述に心を奪われた。
――時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年是れ廿八、人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習はしむ」。――しかし、事は行われず、時移って、元明天皇の世になったが、「焉に旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔して、稗田阿礼が誦む所の勅語の旧辞を撰録して、以て献上せしむ」という次第であった。……
「舎人」は天皇や皇族に仕えて雑務を行った下級の官吏、「帝皇の日継」は歴代天皇の皇位継承の次第で、「先代の旧辞」の「先代の」は昔からの、「旧辞」は「本辞」と同意である。天武天皇は天性聡明で聞こえていた舎人、稗田阿礼に命じてこれらを「誦み習は」させられた。しかし第四十代天武天皇の代では完成に至らず、第四十三代、天武天皇の姪にあたる女帝、元明天皇が太安麻侶を起用して稗田阿礼が誦む旧辞を撰録させられた、というのである。
小林氏は、続いてこう言っている。
――宣長はこれに、わざわざ次のような註を附している。「こゝの文のさまを思ふに、阿礼此時なほ存在りと見えたり」と。なるほど阿礼の存命は、文中に明記されてはいないが、安万侶にしてみれば、誰にもわかり切っていた事を、特にしるす事はなかったまでであろう。とすれば、宣長の註は、委細しいどころか、無用なものとも思われるが、宣長はそんな事を、一向気にかけている様子はなく、阿礼が存命だとすれば、和銅四年には、何歳であるかを詮議するのである。前文に、阿礼、時に廿八、とあるだけで、天武の代の何年の事だかわからないのだから、はっきりした事は言えないわけだが、しばらく元年から数えれば、六十八歳に当る。「古事記」撰録の御計画のあった時期は、事の実現を見ずに終ったのを思えば、御世の末つかたと考えてよさそうであるから、仮りに、天皇崩御の年から数えれば、五十三歳という事になる、云々。……
宣長のこの「註」に、小林氏が「註」を施す。
――(宣長の/池田注記)註のくだくだしさには、何か尋常でないものがある。それが「序」を読む宣長の波立つ心と結んでいる事を、はっきり感じ取ろうと努めてもいいだろう。言ってみれば、宣長が「序」の漢文体のこの部分に聞き別けたのは、安万侶の肉声だったのだ。それは、疑いようもなく鮮やかな、これを信じれば足りるというようなものだったに違いない。(中略)自分が「古事記」を撰ぶ為に、直かに扱った材料は、生ま身の人間の言葉であって、文献ではない、と安万侶が語るのを聞いて、宣長は言う、――「然るは御世かはりて後、彼ノ御志紹坐ス御挙のなからましかば、さばかり貴き古語も、阿礼が命ともろともに亡はてなましを、歓きかも、おむかしきかも」。――註は宣長の心の動きそのままを伝えているようである。「記の起り」を語る安万侶にとって、阿礼の存命は貴重な事実であり、天武天皇が、阿礼の才能を認められた時、阿礼が未だ若かったとは、まことに幸運な事であった、と考えざるを得なかったであろう。でなければ、どうして「年是れ廿八」などと特に断っただろう。恐らく、宣長は、そういう読み方をした、と私は考える。……
小林氏は、さらに言う。
――上掲の「序」からの引用に見られるように、特定の書名をあげているわけではないが、撰録に用いられた文献資料は記されている。その書ざまによると、一方には、帝紀とか帝皇日継とか先紀とかと呼ばれている種類のものと、本辞とか旧辞とか先代旧辞とかと言われている類いのものとがあったと見られる。実際にどういう性質の資料であったと考えたらよいか、これについては、今日、研究者の間には、いろいろと説があるようであるが、宣長は、後者は「上古ノ諸事」或は「旧事」を記した普通の史書だが、前者は特に「御々代々の天津日嗣を記し奉れる書」であろうと言っているだけで、その内容などについては、それ以上の関心を示していない。……
そして小林氏は、宣長が、稗田阿礼の年齢になぜこうもこだわったかを推察する。
――今まで、段々述べて来たように、「記の起り」の問題に対する宣長の態度は、「序」の語るところを、そのまま信じ、「記」の特色は、一切が先ず阿礼の誦み習いという仕事にかかっている、そこにあったと真っすぐに考える。旧事を記したどんな旧記が用いられたかを問うよりも、何故文中、「旧事」とはなくて、「旧辞」とあるかに注意せよと言う。――「然るに今は旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる、辞ノ字に眼をつけて、天皇の此ノ事おもほしめし立し大御意は、もはら古語に在リけることをさとるべし」。……
――ところで、この「阿礼ニ勅語シテ、帝皇ノ日継及ビ先代ノ旧辞ヲ誦ミ習ハシム」とある天武天皇の大御意を、そのまま元明天皇は受継がれるのだが、文は「臣安万侶ニ詔シテ、稗田阿礼ガ誦ム所ノ勅語ノ旧辞ヲ録シテ、以テ献上セシム」となっている。宣長は「さて此には旧辞とのみ云て、帝紀をいはざるは、旧辞にこめて文を省けるなり」と註している。即ち、「旧記の本をはなれて」、阿礼という「人の口に移」された旧辞が、要するに「古事記」の真の素材を成す、と安万侶は考えているとするのだ。更に宣長は、「阿礼ニ勅語シテ」とか「勅語ノ旧辞」とかいう言葉の使い方に、特に留意してみるなら、旧辞とは阿礼が「天皇の諷誦坐ス大御言のまゝを、誦うつし」たものとも考えられる、とまで言っている。……
第二十八章の、ということは宣長の「古事記」註釈の肝心はここである。すなわち「本辞」「旧辞」の「辞」は文字どおりに「言葉」を意味するのであり、しかも「旧辞」とは文字で書かれていた記録を言っているのではない、家々に文字で書かれて残っていた記録を天武天皇が声に出して「諷誦坐ス大御言」、すなわち天皇が読み上げられた声の調子をも言っているのであり、阿礼はその声の調子もそのまま耳に留め、そのまま口にした、安麻侶はその書き言葉ではない話し言葉を文字に写し取っていった、それが「古事記」の文章なのであり、天武天皇の宿願は「本辞」「旧記」の「削偽定実」はもちろんだったが、日本古来の大和言葉、書き言葉ではない話し言葉として何千年も何万年も生きてきた大和言葉の保全にあったと言うのである。
宣長は続けて言う。
――「此記は、もはら古語を伝ふるを旨とせられたる書なれば、中昔の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書にこそせらるべき」、――言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体の事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……
今回はここまで読んで一区切りとする。次回は「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を目の当たりにさせられる。
(了)