契沖と熊本Ⅰ

坂口 慶樹

一、はじめに

 

契沖(*1)は、江戸時代前期の真言宗の僧侶にして古典学者であった。学者として最大の功績は、徳川光圀(*2)の依頼による「万葉集」の訓詁くんこ注釈であり(「万葉代匠記」初稿本・精撰本)、現在でも、契沖より前の注釈は旧注、契沖以後の注釈は新注と呼ばれていることからも、彼の研究がいかに大きな画期をもたらしたかがわかる。例えば、伊藤いとうはく氏によると、「万葉集」巻八から巻十の歌、九三三首のうち、契沖が旧注時代の古いみから新たな訓みを示し(改訓)、それがそのまま現代に至るも定説化している歌(定訓)が三一七首、約三分の一強もあるのだ。これには、現代の万葉学者である伊藤氏も、驚愕せざるを得ないことだと言っている(*3)

契沖による、現代にも生きている大きな成果は、古典の注釈に留まらない。わが国で昭和二十一年(1946)まで正式に使われていた歴史的仮名遣いの原型を確立したのも契沖である(契沖仮名遣い)。その著書「和字正濫抄しょうらんしょう」は、「万葉集」や「日本書紀」など豊富な出典を挙げていることに加え、従来から使われてきた「いろは歌」に替えて、現代の日本人が小学校低学年で習う「五十音図」の原型を載せており、その命名も契沖による。ちなみに、契沖仮名遣いをさらに発展させたのが本居宣長(*4)で、その後、明治政府によって、契沖と宣長による歴史的仮名遣いをもとに再整理が行われ、公式採用されたのが、いま私達が使っている現代仮名遣いである。

このように、今日の私たちが、難解な万葉仮名のみで遺されていた「万葉集」を楽に読めるようになったのも、日常的に苦もなく仮名文が書けるのも、契沖のおかげが大なのである。

とはいえ、以上述べてきたことは、あくまで一般論、教科書的な記述に過ぎない。契沖との出会いが、本居宣長という人間とその人生にとって、とりわけ彼の「源氏物語」論や「古事記」を読み解いた学問の道にとって、かげがえのない機縁であったことは、小林秀雄先生の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)で、詳しく述べられている通りである。

宣長自身、二十歳過ぎ頃の京都での遊学時代を、このように振り返っている。

「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断ぜいごおくだん(*5)などをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきもあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……」(「玉かつま」二の巻)

そんな彼の述懐を、小林先生は、次のように評している。

「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)

なお、契沖が「万葉代匠記」という大きな仕事をなした経緯については、「小林秀雄に学ぶ塾」池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』を読む(九)第六章 契沖の一大明眼」(私塾レコダ l’ecodaホームページ「身交(むか)ふ」)に詳しく述べられているので、ぜひ参照されたい。

 

さて、私が契沖のことを深く知ったのは、小林先生の「本居宣長」を通じてであるが、さらなる機縁があった。契沖には、快旭かいきょくという弟がいた。家系図には「肥後熊本不動院五世住」とあるように、熊本で僧侶として終生を送った。調べてみると、不動院は、現在の熊本市中央区西唐人町にしとうじんまちにあった。そこは、慶長年間に加藤清正(*6)が戦略的な町割り(都市計画)を施した城下町の風情が、今でも色濃く感じられる地域であり、くしくも私の生家からは目と鼻の先にある。

快旭の名を知るなり、現在の熊本市消防局西消防署の裏手にあるその場所へ、さっそく行ってみた。伽藍の類いはすでにない。駐車場の一角に、朽ちて散乱した墓石群が埋もれていた。先年の大地震の影響もあったのだろう。無惨な光景が広がるなか、夏蜜柑の木だけが陽の光を浴びて、青々とした葉を茂らせていた。

快旭についてもっと知りたくなった。東京の自宅に戻り関連文献に当ってみると、彌富破魔雄氏による「契沖と熊本」という論文(以下、彌富氏論文)を中核とする「契沖と熊本」(快旭阿闍梨墓碑保存会、昭和四年(一九二九)五月発行)という書籍の存在を知った。しかし、熊本のみならず、全国の古本屋でも流通は絶えていた。そこで国立国会図書館で閲覧したところ、快旭のことはもちろん、快旭と契沖、契沖と熊本の関わりについても、さらに深く知ることができた。

 

これらの機縁を活かさぬ手はあるまい。また、我がふるさとの熊本に、しかも当時の中心街の一画に、現代にも通じる国語学において大いなる功績のあった契沖の弟が、僧侶として終生を過ごしたということを知る者は、皆無に近くなりつつあるのではあるまいか…… そんな思いにかられること五年、ようやく本腰を入れて、彌富氏論文の紹介に加え、契沖とその家族や親族の、熊本との関わりについても統一的に整理し、残しておこうと本稿の執筆を決意した。おそらくこれは、「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸賢や『好*信*楽』の読者諸氏にはもちろん、熊本と由縁のある皆さんにとって大いに意味のある書き物になるだろうという思いも、心の片隅にはある。

 

以上のように、本稿は、「契沖と熊本」などの諸資料の紹介も含め、熊本にまつわる契沖の伝記的内容、及び彼の関係者との関りの内容を中心として、あくまでも「参考資料」として寄稿するものである。とはいえ、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である本誌への寄稿であることを確と念頭におき、できるかぎり小林先生の大著、「本居宣長」の文章にも目を配りながら進めていくつもりである。

 

二、契沖の家族・親族

 

さて、その小林先生の「本居宣長」には、契沖の遺文(「契沖文詞」)から、彼が家族について、その思い出を振り返るように語る言葉が引かれている。

―「元宜もとよしは、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何せうか(*7)に似たる事の有ければ、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、太郎元真は、えだちの数に有けるとぞ。せうと元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそり(*8)の子のやうなれば、それがもとより、氏族の中より、やしなひて、家をつがすべきよしを、兄がまだ定かなりける日、いひおこせけるに、我はかく病ふせりて、はかばかしく、ゆづりあたふべき物もなければ、ともかくも、思ひあへず。さあれ、しかるべからむとならば、なからむのちにも、はからふべしと、こたへたれば、いかにも、かれこそはからはめと、またさだまれる事なければ、いふにたりねど、父が名さへ、ゆべければ―近江のや 馬淵まぶちに出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父」。

元宜とは、契沖の祖父、下川又佐衛門元宜である。下川家は、近江の馬淵(現、滋賀県近江八幡市)の出身で、加藤清正に仕えた。清正の信頼はきわめて厚く「肥後入国以来、国許くにもと留守居役として何かにつけ清正を支えてきた片腕」(*9)の一人であった。嫡子ちゃくし元真も、父の留守居役としての役目を引き継ぎ、二代目又佐衛門として清正の子忠広に仕えたが、家中の構造問題の解決がままならず、寛永九年(一六三二)に幕府の改易処分を受け(*10)、下川家も没落してしまう。

そんな元宜の末子であり元真の弟にあたるのが契沖の父、元全である。元全は、通称を善兵衛といい、安藤為章ためあきら(*11)による伝記「契沖阿闍梨行実」によれば、善良な人物であったらしい(*12)。父元宜との死別後は兄の元真に養われ、加藤家改易後は、しばらくして尼崎あまがさき城主、青山大蔵少輔に仕え、契沖はその頃、尼崎で生れたようだ(*12)

一方、契沖の母である元全の妻は、細川家の家臣、はざま七太夫の娘であった。七太夫は、細川家が加藤家改易後の肥後熊本に配されるより前、豊前小倉にあった時に仕えて八百石を食んだという(「円珠庵文書断簡」)。また、彌富氏論文によれば、契沖母の母、つまり契沖の祖母は、片岡右馬允うまのじょう(清左衛門)という人物の姪にあたる。この右馬允うまのじょうは、加藤清正に仕え、加藤姓を頂いたのち、契沖の祖父又座衛門元宜とともに重臣として加藤家を支えた人物である。右馬允うまのじょうは、加藤清正が支城として確保した阿蘇内牧うちのまき城の城代となり、慶長九年(一六〇四)に没した後は、その子正方まさかたが右馬允として城代を引き継ぎ、慶長十七年(一六一二)には、同じく支城の八代やつしろ城代に異動した。この加藤正方こそ、のちに松尾芭蕉が傾倒した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師(「談林派」)でもある西山宗因そういん(*13)の師匠、加藤風庵ふうあんであり、加藤家改易にあたり、契沖の伯父である下川元真の一族同様に没落した人なのである。この宗因と契沖との関りについては、章を改め詳しく触れることにしたい。

さてこうして、契沖の父元全と母の間には八人の子がいたと言われている。うち二人は早世しており、残る六人のうち系図では四人の名前が確認できる(「寛居雑纂ゆたいざっさん」)。契沖のほか、兄の元氏(如水)、弟の快旭、そしてその弟の多羅尾平蔵である。また、系図にない二人のうち、妹の一人が知られている。

兄の元氏は、「若くから、長子として崩壊した一家を担って奮闘し、主家閉門後は、仕を求めて武蔵までさまよったが、得る所なく、一家成らず、妻子なく、零落の身を、摂津に在った契沖の許に寄せた。契沖は、今里妙法寺(*14)の住持をして母を養っていた。兄は……母親の死後、契沖が円珠庵(*15)に移っても、常に傍らにあって、契沖の仕事を助けて終った。宣長を動かした『勢語臆断ぜいごおくだん』も、如水の浄書によって世に出たものである」(「本居宣長」第七章)

また、彌富氏論文によれば、契沖よりも十二歳若い快旭は、契沖が十一歳で出家した後に生まれ、青年時代に、縁故のあった熊本の地に下り来て、契沖にならって出家したものと推定されている。

このように契沖は、兄弟が散り散りになってしまった惨状を念頭に、「せうと元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやう」と言っているのである。

なお、契沖の父元全は、長男の元氏が仕えていた松平大和守直矩なおのり(*16)が越後村上にあった頃、元氏と同居しており、かの地で亡くなった。契沖が大阪生玉いくたまの曼荼羅院の住職をしていた二十五歳の年のことである。その時、契沖が詠んだ歌が五首遺されている(「漫吟集類題巻第十二 哀傷歌」)

帰る山 越ゆべき人の いかにして この世の外に 道はかへけん

雲ゐ路も 猶同じ世と 頼みしを さてたにあらで 別れぬるかな

定めなき 身の行末と しら露の 山にや消ん 野にやおかまし

この世には 唐土もろこしまでの 別れだに なほあふことを 頼みやはせぬ

聞きなれし 生まれずしなぬ ことわりも 思ひ解かばや かかる歎きに

もはや彼の地から山を越して帰ってくることのない亡父に対する、契沖の心の底からの歎きの声が聞こえてくるようだ。

 

本章の最後に、もう一つ、契沖と熊本との関係を紹介しておきたい。肥後藩士で国学者・歌人でもあった中島広足ひろたり(*17)という人物がいる。本居宣長の鈴屋すずのや門人の一人である長瀬真幸(*18)に学び、晩年は藩校時習館で教えた。彼の自筆の書に「橿園かしぞの随筆」があり、その中に「さるゆかりによりて、契沖のおばなる人、吾国(坂口注;肥後)の木山氏に嫁せり。さてこそいよいよ吾国にはゆかり出来て、常に文の行き交ひたえざりしなり。さて某木山氏も歌よむ人にて、やがて契沖の門人となりて、添削をうけたり。今の木山直秋も歌このみておのが友なり……」というくだりがある。契沖の「姨」という人が、熊本の木山氏に嫁いだというのである。ちなみに、久松潛一氏は、その「姨」を、元宜の娘であろうと推定している(*19)

その木山直秋の祖父、木山直平の自筆になる「契沖家集」という歌集がある。彌富氏論文によれば、同集の巻末識語に「此集は、法師契沖詠歌也。熊府ゆうふ住木山直平の父直元、和歌を契沖氏に学ぶ云々」とある。さらに、その跋文ばつぶんには「そのかみ契沖みづから云々、余が先人直元、其の門に遊びて、数年言問ひ交はせし消息、作文、和歌、余が家に残れり……」とあるのである。

そうなれば、広足のいう「某木山氏」とは直元ではないか、ということになるが、契沖よりも三十歳も若い直元の年齢を踏まえると、契沖の姨が嫁いだという点で難がある。彌富氏も、「姨」を契沖の一族の関係者という意味に解する余地もあろう、と言うに留め、明確な結論は出していない。

ともかくも、ここまで概観してきた通り、まさに彌富氏が言うように「契沖の父系も母系も、共に肥後に深い因縁が結ばれて」いて、「契沖は、肥後の国難が生んだ人」だったのである。

 

(*1)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)

(*2)寛永五年(一六二八)~元禄十三年(一七〇〇)

(*3)伊藤博「『み』か『し』か」『契沖全集』月報4(岩波書店)。伊藤氏は、契沖の改訓として以下のような具体例を挙げている。「万葉集」巻九の笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の長歌(「国歌大観」一七八七番歌)に「色二山上復有山者」という万葉仮名による原文について、旧注が「イロイロニヤマノヘニアタマアルヤマハ」という意味不明の訓みであったところ、「山上ニ復山有」が「出」であり、通して「色ニ出デバ」と訓むことを指摘したのが契沖であり、その訓みが今でも新注として享受されている。

(*4)江戸中期の国学者。享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)

(*5)「余材抄」は「古今和歌集」の注釈書。「勢語臆断」は「伊勢物語」の注釈書。

(*6)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)。天正十六年(一五八八)に豊臣秀吉により肥後北半国の領主に抜擢された。秀吉の命により文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)まで朝鮮へ出兵。慶長五年の関ヶ原合戦では、徳川家康を総大将とする東軍についた。その頃までに熊本城の普請に着手していた。

(*7)前漢(紀元前二〇六年~西暦八年)の政治家。武人としてよりも民政官として漢王朝の基礎をつくった。

(*8)ジガバチの古名。幼虫は羽化すると、巣穴を出て単独で行動する。

(*9)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

(*10)加藤家改易後の肥後熊本には、豊前小倉の細川忠利が配された。

(*11)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保一年(一七一六)。新介。徳川光圀に招かれ、修史のために創設された彰考館の寄人となり『大日本史』『釈万葉集』等の編纂に従事。契沖から直接「万葉集」の注釈の指導を受けた。水戸家でもっとも契沖と深い関係にあった(福田耕二郎「水戸の彰考館」(水戸史学会))。

(*12)久松潜一「契沖」『人物叢書』、吉川弘文館

(*13)慶長二年(一六〇五)~天和二年(一六八二)。連歌師として大坂天満宮連歌所の宗匠に就任。俳諧師としては談林派の祖。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。「上に宗因なくんば我々が俳諧今もつて(坂口注;松永)貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也」という芭蕉の言葉がよく知られている(「宗因から芭蕉へ」八木書店)。

(*14)現在の大阪市東成区大今里にある真言宗の寺。

(*15)現在の大阪市天王寺区空清町にある真言宗の寺。

(*16)寛永十九年(一六四二)~元禄八年(一六九五)。慶安二年(一六四九)から越後村上藩主であったが、寛文七年(一六七七)播磨姫路藩に転封。その後、親族である越後高田藩の御家騒動時の調整の不手際を指摘され閉門の上、天和二年(一六八二)に豊後日田藩に国替を命じられた。

(*17)寛政四年(一七九二)~文久四年(一八六四)

(*18)明和二年(一七六五)~天保六年(一八三五)。真幸の子幸室が著した「肥後先哲偉蹟続篇」によれば、細川藩士の家に生まれ、八歳の頃から藩校時習館助教草野潜溪に学び、後、漢学者永広十助に師事。鹿本の天ノ目一(アメノマヒトツ)神社神官帆足長秋に宣長の「神代正語」「直日霊」等を示され、これに学ぼうと決意、寛政五年(一七九三)、父正常の東上の機会に、遊学の願を出し、宣長門下に入った。寛政八年(一七九六)には宣長の許に滞在し、「古事記」「源氏物語」の講義を聴講している。賀茂真淵門人の加藤千蔭、村田春海との交際もあった。「長瀬真幸書入萬葉和歌集」も伝わっており、千蔭校本、春海(真淵)校本、本居宣長校本の三系統の校本によって墨色を変えたかたちで書入れられ、この種の本としては最も濃密な、いわば当時の諸注集成的な要素をもっている(以上、久保昭雄「肥後萬葉論攷」武蔵野書院)。「本居宣長と鈴屋社中」(錦正社刊)によれば、五一二名の門人の一人として記載がある。

(*19)久松潛一「契沖の生涯」(創元社)

 

【参考文献】

・釘貫 亨「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)

 

(つづく)