「古事記」はいつから古典だったのか?

松広 一良

『本居宣長』第九章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集)で、小林秀雄氏(以下、氏と略)は「仁斎は『語孟』を、契沖は『万葉』を、徂徠は『六経』を、真淵は『万葉』を、宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った」と書いている。しかし宣長が「古事記」を読み始めた頃、「古事記」は漢文体ではないことから内容があきらかではなかった、だからこそ宣長は「古事記伝」を著したのであり、したがって古典という言葉をいわゆる辞書的な一般的な意味でとらえると、「古事記」は宣長が読み始めた時点では古典とは言えなかったのではないか、というのがそもそもの疑問だった。読解不可能なものを古典とは呼べないだろうと思うからだった。

 

そこで、まず氏が古典という言葉を『本居宣長』のなかでどのように使っているかを見てみた。上述の『本居宣長』第九章の引用の直前に「当時、古書を離れて学問は考えられなかった……。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ……」とある。他にも第六章に「……それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈……」、「宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を『我物』にする事……」とあり、これらの箇所で、氏は古典という言葉を古書という言葉とほぼ等価に使っている。この場合「古事記」は多くの人が認める古書であることから上述の疑問そのものが存在し得ないことになる。

 

次に氏が古典という言葉そのものについて論じているところを見てみた。『本居宣長』第十三章で氏は「源氏物語」を指して「幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えてくる、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。機会がどんなに稀れであろうと、この機を捕えて新しく息を吹き返そうと願っているものだ。物の譬えではない。不思議な事だが、そう考えなければ、ある種の古典の驚くべき永続性を考える事はむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒険であった」と書いている。これを読むと古典とは「豊かな表現力を持った傑作」か否か、また「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」あるいは「新しく息を吹き返そうと願っているもの」か否かがポイントになる。

 

まず第一点の「豊かな表現力を持った傑作」についてだが、それはいわゆる辞書的な一般的な意味に近いように思われる。そこで表現力という言葉がどんな意味を持つのかを『本居宣長』での用例にあたって調べてみた。すると、第十八章で氏は「……生き生きとした具体化を為し遂げた作者の創造力或は表現力を……」と書いており、ここでは表現力という言葉を創造力という言葉とほぼ等価に使っている。そこで「古事記」が「豊かな『創造力』を持った傑作」と言えたかどうかについて調べてみた。

 

「古事記序」は唯一「『古事記』の成立の事情を、まともに語っている文献」であり、且つ「古事記」本文とは異なり「純粋な漢文体」で書かれているため読解可能なものだが、そこには『本居宣長』第三十章にあるように「古事記」が「漢字による国語表記の、未だ誰も手がけなかった、大規模な実験」の産物と記されており、具体的には漢字を使って日本語をどう書くか、その表記上の苦労が並大抵ではなかったこと、また太安万侶おおのやすまろが漢字による日本語表記を試みたことが記されている。そうした日本語表記上の発明があったことを踏まえれば「古事記」が「豊かな『創造力』を持った傑作」であることは明らかであり、したがって「豊かな表現力を持った傑作」というのも当然ということになる。この場合冒頭に述べた疑問は氷解する。

 

つぎに第二点の「古事記」が「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」「新しく息を吹き返そうと願っているもの」と言えたかどうかを「古事記序」を通じて調べてみた。「古事記序」には『本居宣長』第二十八章にあるように「古事記」が「天武天皇の志によって成ったと、明記」されており、その天武天皇の意は『本居宣長』第二十九章にあるように「『古語』が失われれば、それと一緒に『古のマコトのありさま』も失われるという問題にあった」。すなわち『本居宣長』第三十章にあるように「日本書紀」における「書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基づいて」おり、「その『偽リヲ削リ、実ヲ定メテ』これを後世に遺さねばならぬ」というものだった。以上を読むと「古事記」は「我が国の古伝古意」を求める人にとって、たとえ内容の把握が困難であろうと「再読三読」も辞さずと思えるほどのものと映っていたことが容易に想像される。では宣長にはどう映っていたのか。

 

宣長は『本居宣長』第二十三章にあるように「『古言を得んとする』一と筋の願いに駆られた」人だった。それは何より「古意を得んが為」だった。そして『本居宣長』第二十八章にあるように「『古事記』は、ただ、古えの事を伝えた古えの語言コトバを失わぬ事を、ムネとしたもの」であり「日本書紀」のように「わが国の古伝古意を、漢文体で現す無理」とは無縁であることを宣長は「詳しく、確かに語った最初の学者」だった。また宣長は天武天皇の「古事記」にかける思いを『本居宣長』第三十章にあるように天武天皇の「哀しみ」と呼んだが、その「哀しみ」とは「本質的に歌人の感受性から発していたが、又、これは尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった」。そして「哀しみ」には「当時の政治の通念への苦しい反省ではあったであろうが、感傷も懐古趣味もありはしなかった」のであり、「漢文で立派な史書を物したところで……これを読むものは……極く限られた人々に過ぎず、それもただ、知的な訓読によって歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる史書に接していたわけではない。そのような歴史を掲げ、これに潤色されている国家権威の内容は薄弱……。天皇の『削偽定実』という歴史認識は、国語による表現の問題に、逢着せざるを得なかった」のだった。以上のような「古事記」の成立事情を踏まえると、宣長自身にも「古事記」が「再読三読」も辞さずと思えるほどのものと映っていたのは明らかである。

 

宣長は『本居宣長』第二十九章にあるように「古事記」の研究を「これぞ大御国の学問の本なりける」と「古事記伝」に書いていた。宣長にとって「古事記」は「そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の『言語モノイヒのさま』」だった。彼は上代人の「言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が『古事記』であると見ていた。その複雑な「文体」を分析して、その「訓法ヨミザマ」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた」。「『古語』が失われれば、それと一緒に『古のマコトのありさま』も失われる」、そう見て取っていたのだった。以上のことから宣長にとって「古事記」が「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」「新しく息を吹き返そうと願っているもの」であることは明らかだ。

 

そうであれば、宣長にとって「古事記」ははじめから古典だったことも明らかであり、冒頭に掲げた疑問は愚問あるいは氏に対する言いがかりにも等しいものだったことになる。「古事記」は宣長が読み始めた時点ですでにして古典だったのであり、宣長は「古事記伝」を書くことによって「古典への信を新たにする道を行った」と言えるのである。

 

(了)