きょう―言語の本能としての比喩の働き

小島 奈菜子

小林秀雄の『本居宣長』には、我々現代人が忘れている言語の本来の力について、江戸時代の国学者たちの考え方が詳述されている。主軸は、第三十二章以降で描かれる荻生徂徠おぎゅうそらいの言語観だ。本居宣長が熟読していた徂徠の代表作『論語徴ろんごちょう』の、「陽貨ようか第十七」の注釈にある「きょう」と「かん」という二つの働きが、言葉の力の源泉であると言う。言葉は本来、人が物事に対峙したときに生じた心の動揺を、身振りや発声などで表現し認識する行為だった(第三十六章など)。その時点では言葉と意味とは分割されず表裏一体であるが、発明した当人以外の者には、言葉の形(肉声、身振り)とその意味とは別のものに見える。「きょう」は言葉に意味を結びつける力であり、「かん」の力によって言葉から物の姿を受取る。つまり「きょう」によって言葉が成り、「かん」によって伝達・認識されるということだ。このことが、第三十二章に次のように書かれている。

宣長が書写した「論語徴ろんごちょう」の全文は、「詩之用」は、「きょう之功」「かん之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「オヨソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観きょうかんこうとは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。

徂徠が、「引たとえ類」という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテマズ」と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、―「典常てんじょうヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、イヨイヨ出デテ愈新タナリ。タトヘバマユイトクガ如ク、コレスヰシンクニ比ス」と徂徠は言っている。「観之功」の方も同様で、「得失ヲ考見スル」というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、「黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ」、「観トハ是ナリ」とある。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.126行目〜太字は引用者による、以下同)

 

きょう之功」である「言語の本能としての、比喩の働き」は、「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」と小林秀雄は言う。「普通の意味での比喩」とは、「雪のように白い」とか、「鳥のように自由」など、「〜のように」と比喩であることを明示して物になぞらえる表現方法のことだ。そのような「意識的に使用」される比喩とは違う、「本能としての」比喩の働きとは、どのようなものだろうか。

徂徠が採用した「引たとえ類」(譬えを引いて類似したものを連ねて言う)という古注について、中国文学者の吉川幸次郎の著書『論語』に、「詩経しきょう」の例を引いた以下の解説がある。

古注に引く孔安国こうあんこくの「引譬連類」。それならば、比喩と連想による婉曲な、しかしそれだけに有効な伝達、ということになろう。「詩経」の詩がもつ比喩の要素は、二つの面から指摘される。一つは、歌謡そのものが比喩的表現に富むことであって、ことに多いのは、たとえば開巻第一の「関雎かんしょ」の詩で、「関関かんかんたる雎鳩しょきゅうは、河のに在り」と、仲のよい礼儀ただしい鳥の様子が、そのつぎに「窈窕ようちょうたる淑女は、君子のとも」と、主題が明示されるにさきだってある、というごとき表現である。この種の表現は、もっともしばしば「詩経」に見え、「詩経」に特有なものとして、「詩経」注釈家から、きょう」、冒頭の暗喩、と呼ばれている。ここの「可以興」も、それと連絡するとすれば、比喩的な表現が、詩の特殊な効用として可能である、ということになる。

(筑摩書房刊吉川幸次郎全集 第四巻『論語』陽貨第十七p.565)

 

きょう」が『詩経』に特有な、「主題が明示されるにさきだ」つ「冒頭の暗喩」である、とは具体的にどういうことか。同じく吉川幸次郎の『詩経国風』に一層詳しく、次のように書かれている。

きょう」と呼ばれる一種の比喩の技法は、やはり「詩経」にのみ普遍であり、後世の詩には稀である。すなわち、ある主題を歌うにさきだち、歌わんとする主題と似た現象を、自然の中に見いだし、それによって歌いおこす技法、それが「きょう」である。関雎かんしょ」の第一章はその例であって、関関かんかんとなかよくよびかわす雌雄の雎鳩みさごの鳥が、河の中洲にいるということが、窈窕ようちょうとものしずかなむすめが、おのこつれあいたるべき、その比喩として、まず歌われている。「桃夭とうよう」の詩の三章、またすべてそうである。ぎらぎらとかがやく桃の花、ふくれたその果実、ふさふさとしたその葉、すべては若く美しい花嫁の比喩として、まず歌われている。それは自然と人間との微妙な交響を、意識的に、あるいは意識せずして、指摘するものである。

こうした「興」の技法に対し、まっすぐに事がらをのべた部分は「」と呼ばれる。つみぐさをする女房が、「芣莒ふいのくさをる、いさされ之れをる」といい、うれいをいだく貴婦人が、麦ばたけの中に車をはしらせて、「けば、芃芃ほうほうたるむぎ」というのは、「賦」である。また単なる比喩は「」と呼ばれる。わたしの心は洗濯しない着物のよう、「こころうれうるは、あらわざるころもごとし」というのは「比」である。「」と「」と、前にのべた「きょう」、この三つの修辞法のいずれかに、「詩経」のすべての行は属するとされる。

(筑摩書房刊吉川幸次郎全集 第三巻『先秦篇』「詩経国風」解説 p.32)

 

ここで言われているように、比喩的な表現ではあるけれども「〜の如し」などとは言わない、普通の比喩ではないものが「きょう」と言われており、それには「意識せずして指摘する」ものも含まれているという。これは『本居宣長』第三十二章の太字部分で言われている「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」という言い方に通じるものだ。吉川氏も同様に「言語の本能としての比喩の働き」について書いていると言えるだろう。

上記二つの文章中に例があるように、『詩経』の「冒頭の暗喩」は、自然の風物(仲の良い鳥のつがい)を表す言葉が、人の世における物事(よい女性がよい男性と連れ合うこと)を表す言葉の前に置かれている。両者は「似たもの」であると直観的に捉えられており、これを「暗喩」と言い表すのは、『詩経』研究における慣例のようだ。「言語の本能としての比喩」が、通常の比喩ではないことを言い表す上で、「暗喩」という語はこのように使われている。

「言語の本能としての比喩」について考えるもうひとつの糸口として挙げられているのが、賀茂真淵かものまぶちの『冠辞考かんじこう』だ。「きょう」についての詳しい記述の直後に、次のように触れられている。

て、ここで、真淵まぶちの「冠辞考かんじこう」について書いたところを、思い出してもらってもいいと思う。「冠辞考」は、宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究であった。宣長の思想に大きく影響したものであった。真淵の文から浮び上って来るものは、やはり徂徠の言語観である。真淵が冠辞の名の下に直面したのは、徂徠の言う、詩に於ける「興之功」に他ならなかった。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.15 11行目〜)

 

 

再読を促されている「真淵まぶちの『冠辞考かんじこう』について書いたところ」は第十九章にあり、第三十二章の「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」と同じ意味合いで「メタフォーア(隠喩)」と言う語が使われる。第十九章には「きょう」という語は現れないが、「言語の本能としての比喩」は以下のように、万葉集においても見られる。

かんむりが頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。真淵の用語で言えば、「おこすことば」と「たすけことば」という別々のものが、たがいに相映じ、両者の脈絡は感じられるが、決してあらわにではない。真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸ざんがいをとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性をおおうわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。

ところで、この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗へんぱな傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙かんげきを埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言みやびごともて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。

(第十九章 「小林秀雄全作品」第27集 p.21 98行目~)

 

 

ここで言われている「おこすことば」と「たすけことば」のあり方は、吉川幸次郎氏が『詩経』の「冒頭の暗喩」と言っているものと同じく、いずれも徂徠の言うところの「きょう」であり、小林秀雄はこのメタフォーアを「具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像」と言っている。「誰にも共通の知覚が求めたいという願い」があればこそ、誰にとってもわかりやすい物、目に見えたり耳に聞こえたりする物についての表現を借りて、古人達は胸の内を言葉にした、ということだ。学者である賀茂真淵や吉川幸次郎の記述よりさらに一歩踏み込み、古人の胸の内を推して「なぜこのような表現方法が生まれたのか」まで小林秀雄は考察しているのである。

暗喩は隠喩とほぼ同じ意味で使われる語であり、上の文章に「メタフォーア」の脚注として「隠喩。ある観念を表わすために、それに類似、共通した性質を示す別の観念を持つ言葉を用いることをいう」とある。意識的にせよ無意識的にせよ、「似ている」「共通する」と感じたものごとを、別の観念の表現と並べて用いるのが「言語の本能としての比喩」であり「きょう」なのだ。吉川氏の言葉で言えば「自然と人間との微妙な交響」が、「万葉集」の時代の人々にも「言語の意味体系の生長発展に、初動を与えた」。そればかりか、現代の散文で使われている語も「遠い昔のメタフォーアの残骸ざんがい」で成り立っているのが「言語学の常識」である、と言われているが、これは例えば言語学者フンボルトの『言語と精神』に記述がある(注1)。どんな語も源泉には、「きょう」の力で生まれた感性的な言語像があったということだ。

きょう」の力は、古代中国においても日本においても同じように働いていた。だからこそ、『論語徴ろんごちょう』における徂徠の言語観と『冠辞考かんじこう』における真淵の言語観は、他の点でも共通している。

「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、あだこともとに冠ら」す、―調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、しかも表現を求めてまぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安からのがれようとするのは当たり前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であってもさしつかえあるまい。或いはこの何処どこからとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊のたすくる国」「言霊のさきはふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来れるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。

(第十九章 『小林秀雄全作品』第27集p.21 814行目〜)

 

なぜ言語において「よそほひ」の発生が必至であるのか。「私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じて」いる(上記p219)、つまりまず形を作ることで、「歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事にな」り、意味はあとからおのずと備わるということだ。「誰にも共通の知覚が求めたいという願い」が、類似していると感じられる物事、見えたり聞こえたり触れたりして感受できる物事を表す言葉をまず求める。例えば第十九章に登場する枕詞「あしびきの」を『枕詞辞典』(高科書店刊、1989年p20)で引いてみると、「万葉中期には、すでに原義が不明になっていて、当時の語源解釈からこのような文字(足引、足曳)を当てるようになったと推定される」と書かれているものの、「山はあえぎつつ足を曳いて登るからとか、山の裾の長くえた義とかいう」とあり、運動感覚や視覚と結びついて想像されている。これは吉川氏の『論語』の解説で言われている「類似」よりも「連想」に該当するが、「直接感性に訴えて来る」という点は共通している。

第三十二章にあるように、『冠辞考かんじこう』は「宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究」だったが、そこまで熟読した上で宣長はあらためて「冠辞」を「枕詞」と言い直している。第十九章の最後に「玉勝間たまかつま」から引用されているのがそれだ。

「是を枕としもいふは、かしらにおく故と、たれも思ふめれど、さにはあらず。枕はかしらにおく物にはあらず。かしらをさゝゆるものにこそあれ。さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて、アヒダのあきたる所を、さゝゆる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、アキたるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも、そのでうにてぞ、いひそめけんかし」(八の巻)

(第十九章 「小林秀雄全作品」第27集 p.220 18行目~)

 

 

太字部分にあるように「物が浮いて、間のあいている所を、支える物」だから「まくら」ことばなのだ、と彼が言うのも、同じく徂徠の言う「きょう」の力が考えられていたから、と言えるだろう。「アヒダのあきたる所」という宣長の言い方を、小林秀雄は二つ前の段落で「この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性をおおうわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう」と言っている。その「裂け目」を埋め、「暗所」を明らめることで下支えするのが、類似や連想によって感性的な物と繋ぐ「言語の本能としての比喩」なのだ。徂徠自身はこのことを、「タトヘバマユイトクガ如ク、コレスヰシンクニ比ス(繭から糸をき出すように、たきぎに火がつくように)」と物にたとえていた。冒頭に引いた第三十二章のあとで、小林秀雄は次のように言う。

言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観にもとづいて、徂徠が、興観きょうかんの功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、あるいは、これに耳を傾ける者に、くものはなかろう。この事を念頭に置いて、興観の功の説明を締めくくる、徂徠の言葉を読むべきだ、と私は思う。

詩人は「類ニ触レテシ、従容ショウヨウトシテ以テ発ス」と、彼は言う。其処そこに、一旦いったん、意味附けの端緒をつかめば、彼はもうこの緒を手離しはしないだろう。ただの記号に成り下った、ばらばらな単語も、その繭から抽き出す緒で、連結されれば、新たな意味の脈絡を生み、実物のあじわいを取戻す。こういう事を行う詩人のうちに入込んだ徂徠の発言が、「天下ノ事、皆ナ我レニアツマル」という風な言い方になるのは、全く自然な事だと言ってよかろう。そういう言い方は、外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方に他ならないからである。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.13 14行目〜)

 

 

徂徠の「類ニ触レテシ」という言葉にある「」とは、通常の「詩を作る」という意味とともに、吉川氏が「詩経国風」について言うところの「まっすぐに事がらをのべ」ることでもあるだろう。表現したい当の物事を言葉にする前に、類似している物事を「まっすぐに」述べることで「従容ショウヨウ(ゆったり)トシテ」言葉を継ぐことができるのは、それが「意味附けの端緒」になってくれるからなのだ。

ここで言われている「歌うたう者」と「耳を傾ける者」との間で営まれる「言語生活」については、徂徠の言葉では「諷咏ふうえい相ひ為す」、「唱酬しょうしゅう相ひけて」という言い方で、「きょう」と「かん」に続く「ぐん」と「えん」の注釈にある(注2太字部分)。この二つは、「きょう」と「かん」の働きが言語生活にどのように作用するかを言った項で、少し後で小林秀雄は「健全な言語生活を営むものは、誰も、語る事が即ち語り合う事である事を承知している」とも書いている(第28集p.152行目〜)。徂徠がここで考えているのは人同士の対話のようだが、「きょう」によって見出された「新しい意味」が、「かん」によって「物の姿を、心に映し出」す、この二つの働きが一人の身の上で起きることによって、「歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事にな」るのではないか。「きょう」によって言葉を生み出し、「かん」によって自ら認識することで、歌におのずと意味が宿る、小林秀雄はこのことを「語る事が即ち語り合う事である」と言っているのではないだろうか。これは主に第三十五章以降で「人に聞する所、もつとも歌の本義」を主題として深められているので、稿を改めて考えたい。

 

注1:フンボルト『言語と精神』より

概念と音声という異質のものを結合するためには、音声と結びついている物体的音響を一応度外視し、単に表象そのものの前で結びつけるとしても、それでも、概念と音声とが出会うことのできるような第三者による媒介が必要となるのである。この媒介者は明らかに感性的な性質を持っている。理性フエルヌンフトには(そのヌンフトという部分をみれば分るように)受取る・考えるネーメン(という動詞の名詞化)という表象が潜み、悟性フエルシユタントには(シュタントというシュテーエンの名詞形が含まれていて)立っている・存続しているシユテーエンという表象が、花・開花ブリユーテには内なるものが外に向って湧き出すヘルフオールクヴエシンという表象がそれぞれ蔵されていることを思えば、媒介者が感性的なものであることは明らかになろう。【中略】

個々の言語の語を詳しく調べてみると、多くの細かい点においては例外があるにせよ、個々の言語の持つ関連性を貫いて束ねているさまざまな糸の筋目を認識し、その言語における普遍的な働き方を、大づかみな輪郭にすぎないにせよ、個性に即して示すことができる。そうすると、具体的な語から、いわば根幹となっている直観および感受へと上ってゆくという努力がなされることになる。つまり、そういう直観や感受に基づき、どんな言語においても、その言語に生気を与えている守護神とでもいうべき精神ゲニウスに従って、多くの個々の語の中で音声と概念とが媒介されていることになるのである。

(法政大学出版局刊『言語と精神−−カヴィ語研究序説』ヴィルヘルム・フォン・フンボルト p160 ()内は原注)

 

 

注2:荻生徂徠『論語徴』陽貨第十七 全文

のたまはく、「小子せうしなんを学ぶことき。詩はもつきょうく、以てくわんす可く、以てぐんす可く、以ってゑんす可し。之れをちかくしては父につかふまつり、之れを遠くしてはきみに事ふまつる。おほ鳥獣てうじう草木さうもくる」と。

「詩は以てきょうし」、孔安国曰く、「興は、たとへを引き類をつらぬ」と。「以って観す可し」、鄭玄じょうげん曰く、「風俗の盛衰を観る」と(以上、古註)。後漢は前漢を去ること未だ久しからざれども、孔説は鄭の能く及ぶ所にあらず。いかいはんや朱子を大氐たいてい詩は性情をひ、諷詠を主とし、類に触れて賦し、従容しょうようとして以て発す。げんは典則にあらず、旨は微婉びえんに在り。繁繁雑雑、零零碎碎、大小具在し、左右さいうみなもとふ。ゆゑにその義きはまり無く、大いに它[他]経の比にあらず。然れどもその用は興と観とに在るのみ。興なる者は、そのみずから取るに従ひ、展転してまざる、是れなり。観なる者は、黙して之れを存し、情態の目に在る、是れなり。朱註の「志意を感発す」とは、観なり、興にあらざるなり。「得失を考見す」といふは、僅かにその是非のけんのみいずくんぞ以て「観」の義を尽くすけん乎。凡そ諸々もろもろの政治風俗、世運の昇降、人物の情態、朝廷に在りては以て閭巷りょかうを知るく、盛代に在りては以て衰世を識る可く、君子に在りては以て小人を識る可く、丈夫じょうぶに在りては以て媍人ふじん[婦人]を識るく、平常に在りては以て変乱を識るべく、天下の事、皆な我れにあつまる者は、「観」の功なり。『書』は聖賢の大訓り、しかうして礼楽は乃ち徳の則なれども、いやしくも詩之れがたすけを為すにあらずんば、則ち何を以て能くれを性情に体し周悉してのこさざらん哉。「興」以てれを取るに及びては、則ち或ひはせい或ひは反、或ひはぼう或ひはそく、或ひは全或ひは支、或ひは比或ひは類、典常と為らず、「類に触れて以てちゃうじ、引きて之れを伸ばし(易、繋辞上)、愈々いよいよ出でて愈々新たなり。たとへばまゆいとくが如く、れをすゐの(火の)しんくに比す。取ること我りする者は天下に施すし。是れ「興」の功なり。礼楽れいがく典誥てんこうは、教法はらず。し詩以て之れがたすけを為すこと有らずんば、則ち何を以てく事物に応酬して変化尽くることからん。此れ詩の用、全く是の二者に在るなり。「以てぐんす可く、以ってゑんす可し」は、皆な詩を用ふるゆゑんの方なり。「羣」は、孔安国曰く、「群居相ひ切磋せっさす」と。「怨」は、孔安国曰く、「上の政を怨刺ゑんしす」と(以上、古註)。けだし此の二者は、皆な「興」「観」を以て之れを行ふ。事なきときは則ち群居して切磋す。諷咏ふうゑい相ひ為すときは、則ち義理窮まり無し。黙して之れを識るときは、則ち深く道にふ。此れ「羣」にあらず。事あるときは則ち「ぶんしゅとして譎諫けっかんす」(詩、大序)。或ひは唱酬相ひ承けて以て之れを引く者は「興」なり。或ひは言はずして賦して以て之れを示す者は「観」なり。「言ふ者は罪なく、聞く者は怒らず」(詩、大序)。此れ「怨」にあらずや。朱註の「和して流れず、怨みて怒らず」は、皆な詩に関すること無し。「之れをちかくしては父につかへ、之れを遠くしては君に事ふ」も、亦た皆な「興」「観」「羣」「怨」を以て之を行ふ。「多く識る」といふに至りては、乃ち「その緒余しょよ」、旧註(朱註)之れを尽せり。

(平凡社刊『論語徴2』東洋文庫576陽貨第十七p.289〜291()内は原注、[]内は引用者注旧字体漢字は一部置き換え)

 

(了)