杖の導くもの

今年の冬は寒かった。
近所のばあばは、
「こんな冬は、私が嫁に来て以来初めてだ」
と言っていたから、記録的な寒さの年だったんだろう。
だからなのか、今年の春は、ことさらに春が来たよろこびを、木々の力強い芽吹きに感じる。

 

秋から初冬にかけて、山の木々は生きて行くために必要な栄養を作るための葉を落とし、根から水を取り込むのをやめ、風雪に耐える準備をする。最低限の命をつなぐ機能だけを残して、水分すら体の中に取り込むことをやめ、まるで枯れ木になってしまったかのような姿で、じっと春を待つ。どんなに寒くても、自らを温めることもせず、その場から脱げ出すこともせず、ただじっと春を待つのだ。山の木々にとっての春の訪れは、どれほどの喜びか。
そして、まだまだ寒く、冬真っ只中だと人間が感じている立春の頃になるとまた少しずつ地中から水を吸い、芽吹きの準備を始める。
水仙が咲き、福寿草が咲き、まるで灯りがつくように里山に黄色が加わって、紅白の梅が咲き、本格的な春を迎えて、桜があっという間に散り山が色でいっぱいになる頃には、全ての木々が一斉に淡い緑の葉を伸ばす。
春を迎えゴクゴクと水を取り込み、抑えていた喜びを芽吹きという形で一気に吹き出すように山の色を変えてゆく。
新緑で覆われた山々は白く輝き、くすくすと笑い声が聞こえるかのよう。
鶯も、随分と上手に鳴けるようになってきた。
吹き渡るやわらかな風もキラキラと私を包み、
冬の間、キュッと締めていた私の心をふわりとほどいてゆく。
春がなんとなくいつも夢の中にいるように感じるのは、寝起きの草木の陽気ないたずらで、嬉しくて嬉しくて仕方がない木々たちが、春だよ春だよと遠くの仲間と歌っているからに違いない。

 

 

そんな、喜びいっぱいの春の山から、今年は不思議なご縁で一本の木をいただいた。根付職人である私にとって、それはなんだか特別な意味を感じずにはいられない木だ。
明日にも桜の開花宣言という膨らみきった蕾が弾けそうな3月のある日、池田塾の特別講座として三重県松阪で行われた勉強会に私も参加させてもらった。
その中で訪れた、本居宣長の山の上のお墓のそばでひろわれたその木は、真ん中で少し折れ曲がっているものの、まるで杖にするために切られたかのような形で、山の間伐材として落ちていた。

 

その杖を持った池田塾頭は、それまでの少し辛そうな山歩きの様子が嘘のように、ニコニコ山を歩いている。
本居宣長のお墓近くで拾われた杖が、本居宣長を愛した小林秀雄先生の最後の編集者だった池田塾頭を助けている。
それだけで、作品の中に物語を作っていく根付職人にとってその杖は特別な杖となる。
世界で一本しかない、特別な杖なのだ。
そして、私は根付の職人で、本居宣長の愛した鈴を現代でも作っていた職人さんを取材したことがきっかけで、職人の道に進むこととなったという背景を持っている。この木で本居宣長の愛した鈴を彫ってみたら? と、本居宣長や2年前に亡くなった鈴職人さんに言われているような気がして仕方がなかった。
「根付を彫りたいから、山を降りたらこの杖をいただけませんか?」
まもなく山を降りきるというところで、池田塾頭に思わずお願いした。
そうして私の元にこの木がやって来た。

 

 

私たち木彫をするものにとって、寄り添わなければならない大切なこと。それは、木は生きていたということ。
生きていた木を使って、私たちは彫らせてもらっている。
どれ一つとっても同じものはなく、その木が育ってきた環境や、経てきた経験、持って生まれた性質で、その生成りが全く違うものとなる。
工業製品となると、この個性は迷惑なもので、その性質をいかに殺して使うかを考えるのだけれど、私たち根付の職人はその個性とのにらめっこから仕事が始まる。手作りのものは一本一本の木に向き合って、なるべく命を頂いたその木の全てを無駄なく使っていくのだ。
先日いただいた杖になっていた木も、
この木は何の木なのか。柔らかいのか、堅いのか。
繊維の感じはどうなのか。細かな彫りは可能なのか。
どこで育った木なのか。この山は養分の多い山なのか、日当たりはどうなのか。
この木はいつ切られたものなのか。水をたっぷり吸いこんでいる季節に切った木は乾燥の途中で中の水が腐ってしまうため使えない。
どのくらい、山の中に放置されていたのか。どんな状況で放置されていたのか。すでに微生物が侵食し中がボロボロになってしまっている可能性もある。
それらを全てクリアした上で、節の有無、鹿に食べられた傷跡、伊勢湾台風で水につかったなどの木が経てきた歴史、せっかちで急いで成長したなどの木の性格、木肌の美しさなどと向き合い、ようやく作品づくりとなる。
全てが順調に思った通りの作品が作れるわけではないのだ。
私はこの杖から運命の鈴を彫れるだろうか。

 

 

答えは、この杖の太さなら早くても2年後。
それまではじっと木が乾燥するのを待つしかない。
ゆっくりと、水分を吸ったり吐いたりしながら、
この木が少しずつ水分を吐き出していくのを待つ。
全ては、自然がゆっくりとちょうどいい具合にしていってくれるのだ。

 

 

あとは2年後。
桜が咲いたら刃物を入れよう。

 

 

「ありがとう。自分のやってきたことが初めて日の目を見たよ。ありがとう、ありがとう」

私の手を握って、涙を流しながら伝えてくれた鈴職人さんの言葉が、私の人生を変えました。

 

私は当時、NHKのキャスターでした。

『東海の技』という東海地方のものづくりの職人さんを紹介するコーナーを担当していました。

様々な職人さんにお会いし取材をさせていただく中で、職人さんが作り出すものの素晴らしさ、伝統工芸が代々受け継いできている日本人が大切にしている思い、職人さんの生き方や覚悟のようなものに魅了されて、この仕事にどんどんのめり込んでいきます。一方で、取材させていただいた多くの伝統工芸で、後継者がおらず、まもなく失われてしまうという事実もまた知ることとなるのです。

「なんてもったいない。伝統工芸は、資源の少ない日本で世界に誇れる未来への大きな財産、資源なのに」

と、強く強く思い、なんとか後継者が出てこないものか、どうしたらこの伝統工芸を守ることができるのだろうと、放送人として、そして伝統工芸に魅了されたファンとして日々考えるようになっていました。

 

そんな時、出会ったのが先ほどの職人さんの言葉でした。まだ25歳の社会に出て間もない私に、涙を流してお礼を言ってくれる職人さんの言葉。50年以上今の仕事をしてきて、私が取材させていただいて、今回初めて、親戚の人や近所の人から「素晴らしい仕事をしていたんだね」と、声をかけてもらったんだ、日の目を見たんだと涙ながらに言ってくださる姿に、私もおもわず苦しくなって、一緒に涙を流していました。

「どうして、こんなに仕事一筋で頑張っている職人さんが、50年以上も日の目をみることなく、まだ出会って数回の私に対して涙を流さなければならないんだろう」

と、やるせなく、切なく、悔しかったのです。

 

職人の抱える問題の一つに、“職人の地位が低い”という点がありました。

私が取材をさせていただいた職人さんの中には、目の前で

「ちゃんと勉強しないとあんな風になっちゃうよ」

と、こちらを向きながら通りすがりの母親が幼い息子に言っている様子を見たことがあるという人。

また、

「弟子入りを希望して来る人は、刑務所を出た人か障害のある人しかいなかった。それらの人がいけないというわけではないけれど、俺たちのやっている仕事はそんなに嫌な仕事なのか? 別に東大を出た人が、職人に憧れて職人になったっていいだろう?」

と、訴える職人。

特にバブルの頃、とてもみじめな思いをしたという職人の声を多く耳にしました。

 

その背景には、

「多くを語らず、出来上がった製品の素晴らしさで周りを納得させる」

という古くからの日本人の美徳を多くの職人が守っていることがあるような気がします。もはや職人や手づくり・ものづくりが身近でなくなったいま、その手作りの製品の手業の素晴らしさまで、想像出来なくなっている現状がそうさせているのではないでしょうか。

それを解決するためには、誰かが(職人の地位が自分に関係のないメディアなどの第三者ではなく)、

「職人って、ものづくりって、こんなに素晴らしく素敵な仕事なんだ」

と、発信することが必要なのではないかと思ったのです。

その言葉が次世代を担う若者の目に触れたら、長く続いてきた伝統工芸の未来は変わるのではないかと。

誰か、勇気を出してもっと発信する職人が出てきたらいいのに……。

大御所の職人さんが、もっと前にどんどん出てきたらいいのに……。

 

そんな話を人間国宝などに指定されている職人さんに話しても、共感はしてくれるものの、自分は昔から前に出るのは苦手だから誰かにやってもらってと、動き出す人はいませんでした。誰かじゃなくて、みんなが自分のこととして動かないと!

 

誰かじゃなくて。。。

そうか、誰かと思っていたのは私だったのか。

何ができるかわからないけれど、私がやればいいのか。

 

こうして私は、特に尊敬していた根付の師匠のところへ通うようになりました。

(了)