奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年六月号

発行 平成三十年(二〇一八)六月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

本誌『好・信・楽』は、今号をもって、創刊一周年を迎えることができました。読者の皆さまはもちろん、これまで寄稿頂いた皆さまに、心から感謝申し上げます。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、駒木崇宏さんと橋岡千代さんに寄稿頂いた。

駒木さんは、小林先生の「本居宣長」の文章や講演での語りに接してみて、自身が抱いていた、国語という教科や文字というものへの嫌悪感に向き合い、それらが解消されていく様を、飾ることなく綴られている。

橋岡さんは、「宣長の森」の中を歩いてきて、「言語表現の問題」という「不思議な木」に出会った。そこで立ち止まり、子育てや詠歌など、実生活上での経験も踏まえ、小林先生がいうところの「意識」、さらには「もののあはれを知るとは何か」という認識論にまで思いを馳せておられる。

お二人の、「自問自答」の歩みは続く…

 

 

3月17日から二日間の日程で、塾生有志が、本居宣長記念館の吉田悦之館長による「宣長十講」の講義「宣長学に魅せられた人々」を聴講すべく、松阪を訪れた。今号では、その二日間について特集を組み、館長によるご講義や記念館でのお話、そして妙楽寺の奥墓を前にして感じたことを、四人の方に寄稿頂いた。

安達直樹さんは、吉田館長が松阪という土地に「宣長の魂」を伝えようとされている姿を見て、小林秀雄先生が「教師」について語った言葉を思い出し、教師と弟子の共鳴が、「倦まずおこたらず」連綿と続いていくことの大切さを感得された。

小島由紀子さんは、館長のお話の一言一句にこころ動かされるとともに、初訪問となる松阪の地で、野辺に咲くすみれのように、いたるところに在る宣長さんの姿を体感され、「必ずまた松阪へ、山桜の奥墓へ」と自らに誓われた。

新田真紀子さんは、此の地で聴く館長のお話ぶりの中に、宣長さんの肉声を聴き取られたようである。そんな今回の体験を、「まるで時間旅行をしているようだった」と表現する。

荻野徹さんは、宣長さんの全人格がほとばしり出るような館長のお話に触れて、小林先生がいう「歴史に正しく質問しようとする」姿を、しかと見て取られている。「広告」という体裁とともに味読頂きたい。

 

 

「人生素読」には、石川則夫さんに、諏訪紀行を寄せて頂いた。小林先生と交流のあった女将さんとのやりとりも含めて、みなとや旅館に宿泊されていた先生の姿が目に浮ぶようである。「諏訪には京都以上の文化がある」という、先生の言葉の持つ奥行きと幅の広さに、直に触れてみたくなった。

 

 

「美を求める心」には、伊勢根付職人である梶浦明日香さんが寄稿された。梶浦さんは、職人の置かれた現状を目の当たりにし、「自分のこととして」自ら職人の世界に飛び込み、歩み出された。その一瞬の気付きこそ、茂木健一郎さんが、巻頭随筆で述べられた「エピファニー」そのものであろう。加えて、一本一本の木に、命を頂いている、その個性と向き合うという気持ちは、まさに小林先生が、職人について語るときに大切にされていたものでもある。

 

 

そんな梶浦さんの原稿を読んでいて、小林先生が「眼高手低」という言葉について書かれた「還暦」という文章を思い出した。

「芸術家は、観念論者でも唯物論者でもない。心の自由を自負してもいないし、物の必然に屈してもいない。彼は、細心な行動家であり、ひたすら、こちら側の努力に対する向う側にある材料の抵抗の強さ、図り難さに苦労している人である。彼の仕事には、たまたま眼高手低の嘆きが伴うというようなものではない。作品が、眼高手低の経験の結実であるとは、彼には自明な事なのである。成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処そこには、どうしても円熟という言葉で現わさねばならぬものがある。何かが熟して来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)

 

本誌「好・信・楽」も、塾生一同でこれから少なくとも七年間は続けていく、山の上の家での「『本居宣長』自問自答」の取り組みとともに、「眼高手低」の歩みを進めてまいります。

読者の皆さまの、ご指導とご鞭撻を、引き続きよろしくお願い申し上げます。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十三 起筆まで(上)

 

1

 

この小文も、連載を始めて満一年になった。「『本居宣長』全景」と題して書き始めたが、最初の一年は全容のデッサンを進めるつもりでいた。そこで、「思想」「劇」「道」「もののあはれ」「詞花言葉」といった、小林氏が特に力をこめて語っている言葉とその周辺のスケッチから手を着けたのだが、これから二年目、三年目、四年目と何度も同じ言葉に立ち返り、それらの線を強めていくとともに、初めのうちはあえて写し取ることを控えて通った言葉の姿も順次描き重ねる、そういうふうに進めていこうと思っていた。

ところが、この一年、全容のデッサンを進めているうち、いまさらのように強く思い当ることがあった。「本居宣長」は、小林氏六十年の批評活動の集大成であると言われ、私ももちろんそう思っていたが、今回、所どころをわずかに写し取ってみるだけでも、この言葉は小林秀雄山脈のあの峰でも光っていた、この言葉はあの山裾で咲きかけていた、そういう心当りが相次ぐのである。そうした折々の心当りが、この小文にボードレールやワグナーや自然主義やといった、本居宣長とはおよそ無縁と思われる人や事柄をいきなり呼び込むことになったのだが、前回、紫式部の「詞花言葉」とワグナーの「音の行為」のことを書いていたとき、小林氏が「本居宣長」の第一章で言っている次の言葉が浮んだ。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

小林氏にとって、自分の思想の一貫性は自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信じる事は、氏の「本居宣長」について書きたいという希いと区別し難いのである。だから、この小文には、まだまだ意想外の人や事柄が参入すると思われるのだが、これも元はといえば、小林氏が本居宣長と出会うに至った氏の個性がそうさせるのである。

そういう次第で、この一年、私はひたすら「本居宣長」の全容に向きあってきたが、満一年の節目を機とし、今回と次回、小林氏が「本居宣長」を『新潮』に書き始めた昭和四十年から約三十年を遡り、氏が「本居宣長」の筆を起すに至ったその道を辿ってこようと思う。

 

2

 

小林氏の「本居宣長」は、

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。……

と始まり、

―戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

と続く。

まずは、この文中の「戦争中」である。今日では「戦争」は昭和十六年(一九四一)十二月からの太平洋戦争と受け取られるのがふつうだが、ここで言われている「戦争中」は、太平洋戦争より四年早く、日中戦争が勃発した昭和十二年七月からの時代を指している、と解し得るのである。

昭和十七年六月、小林氏が『文學界』に載せた「無常という事」に、次のように書かれている(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。

―晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。……

「無常という事」のこの一節が、小林氏が本居宣長に言及した最初である。「鷗外」は森鷗外、「あの厖大な考証」とは、「澁江抽斎」「伊沢蘭軒」など鷗外が晩年に著した史伝のことだが、ここから推せば、小林氏は遅くとも昭和十七年五月には「古事記伝」を読んでいた。しかしその読み始めは、太平洋戦争が始った昭和十六年十二月より後ということはないだろう。「古事記伝」は、本居宣長が三十五歳の年から六十九歳の年まで、三十年以上もの歳月を注いだそれこそ膨大な注釈書である、半年やそこらで読んだと言えるような本ではない。したがって、小林氏は、昭和十六年十二月より前にこれを読んだと思われるのだが、そのことは、「無常という事」の、「『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた」という、いくらか時間の経った過去を振り返る口調からも言えるだろう。

 

ではその日中戦争のさなか、何が小林氏に「古事記」を読もうと思わせたかである。

氏自身は、「古事記」を読もうとした動機を一言も書き残していないが、少なくとも読書の一環としてとか、文筆家の教養としてとかといったことからではなかっただろう。昭和九年三十二歳の四月、雑誌『若草』のアンケート「わが愛読の日本の古典」に答えて、「愛読出来る程日本文学の古典には親しんでおりません」とそっけなく言っているが、実際この頃、小林氏の頭はドストエフスキーでいっぱいだった。同年二月から七月にかけては「『罪と罰』についてⅠ」を発表し、九月から翌十年七月にかけては「『白痴』についてⅠ」を発表、十年一月、『文學界』の編集責任者となり、自ら「ドストエフスキイの生活」を十二年三月まで連載した。これを見るだけでも、日中戦争より前の時期、小林氏には興味も意識も「古事記」に振り向ける余裕はなかったと思われるのだが、その小林氏が、日中戦争が始ってからの時期、「古事記」を読んだのである。しかも、「よく読んでみようとして」、「それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』で」と、わざわざ手間暇のかかる読み方で読んだのである。

小林氏が言っている「戦争中」に、「日中戦争」の含意はあるか、それとも単に時期を言っているだけかということはあるが、氏が昭和十二年の夏以降、日中戦争を背にして発表した「戦争について」「杭州」「満洲の印象」「事変の新しさ」といった戦地の探訪記や社会時評を見るかぎり、少なくとも「古事記」への志向を間接的にも窺わせるような記述はない。したがって、そこはひとまず措き、別の目で年譜を追ってみると、昭和十二年四月、「ドストエフスキイの生活」の雑誌連載を終えた翌月に、「『日本的なもの』の問題Ⅰ」と「同Ⅱ」を相次いで書いている(同第9集所収)。そしてその「Ⅰ」では、「最近盛んに日本的なものとか、日本の民族性とかに就いて文壇で議論が行われている」「大事な点は問題自体にあるより問題の起り方にあるのであって、民族性とは何かという様な抽象的な問題ではない。/その起り方を考えると『日本的なるもの』という今日の問題は『大衆的なるもの』という問題と引離しては考えられぬ。純文学者達の『大衆的なるもの』に就いての様々な苦痛と離しては考えられぬ」と言い、結論としてこう言っている。

―最近の外来文学思想は、わが国の文学の封建的残滓ざんしと戦うにはまことに有力な武器として役立った。その意味での「日本的なるもの」の克服の為に新しい文学は苦労して来たのだが、この武器は民衆の獲得というそれ以上積極的な仕事では皆失敗して了ったのである。そういう最近の文学運動を既成概念なしに反省してみた処に、学んだ文化と現実の文化との食違いが明かに浮び上り、何も彼も僕等の手で作り直さねばならないという気運が生じたのであって、この点「日本的なるもの」の問題は新しい人間観念の確立という「ヒュウマニズムの問題」とも関聯かんれんしているし、又一方かかる気運が未だ明日への可能性の範囲に止り、何等なんら確固たる主張の上に立っていない点で、「現代の不安」の問題にも関聯している。だが今日の「日本的なるもの」の問題は、独り文壇に止まらずあらゆる文化の分野に同様な気運が動いている以上、日本人が日本人として再生する為に、この問題は、僕等が協力して発展させねばならぬものを孕んでいるのである。……

ここで言われている「わが国の文学の封建的残滓」とは、主には坪内逍遥が「小説神髄」で否定した勧善懲悪小説と、黄表紙、洒落本、滑稽本など戯作と呼ばれた小説類の名残りと解していいだろう。

そして「Ⅱ」では、「四月号の雑誌には、所謂『日本的なもの』に関する論文が非常に多かった」と書き起し、三木清の「知識階級と伝統の問題」等の数篇を次々論評して、「僕は、今日の日本的なものの問題も、現代の不安という問題の一環として考えざるを得ない」と再び言い、次いでこう言っている。

―民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい。日本というものの自分独特のイメエジを信じ、これを作品によって計画的に証明しようと努めている作者は、少くとも新しい文学者の間では林房雄一人きりだ。そして彼の仕事は今始ったものではないし、成しとげられるのに未だ長い時間を要する。……

林房雄は、小林氏とともに『文學界』創刊に力を尽すなど、氏と肝胆相照らす仲の作家だった。

それまで、日本の古典には親しんでいないと言っていた小林氏を、突如「古事記」へと駆り立てたものは、このあたりに潜んでいたかと想像してみることは許されるだろう。小林氏は、「古事記」をよく読んでみることで、「現代の不安」という問題に向き合い、小林氏自身の「文学者としての日本についての創造的なイメエジ」を抱こうとしたのではなかったかということである。

 

3

 

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると突然「一言芳談抄」の一節が心によみがえり、その文章の節々が心に滲みわたったという小林氏自身の体験から書き起されている。

「一言芳談抄」の一節とは、こうである。

―「或云あるひといはく、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれていはく生死しやうじ無常の有様を思ふに、此の世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり。云々。……

「かんなぎ」は、神楽を奏するなど神に仕えることを務めとする者、「なま女房」は若い女、「十禅師」は「比叡の御社」すなわち日吉山王ひえさんのうの七社権現のひとつ、十禅師社のことである。

「一言芳談抄」のこの文が、突然小林氏の心によみがえった。氏はその体験を、自分自身でも不思議がり、あれやこれやとひとしきり思い返していくのだが、その直後に文体を一変させて言う。

―歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた……。

この文章に、先ほど引いた、「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ……」が続くのである。

 

小林氏が、日本の歴史に真剣に取組み始めたのは昭和十年頃のことである。氏は、ボードレール、ランボーをはじめとするフランス文学や、ドストエフスキーをはじめとするロシア文学に熱中して青春時代を過ごしたが、三十代に入るや日本の歴史をまったく知らずにきた自分を恥じ、自分自身が日本史を勉強しようと昭和十一年、教鞭を執っていた明治大学で「日本文化史研究」を開講した。氏自身の勉強は、主として吉田東伍の「倒叙日本史」を熟読することによって行われたと私は氏から直かに聞いた。

小林氏の日本への急旋回、これには、島崎藤村の「夜明け前」が与っていたかと思える節もある。「夜明け前」は、昭和七年一月に第一部が刊行され、昭和十年十一月に第二部が刊行されて完結したが、小林氏は翌十一年五月、『文學界』の編集責任者として同誌に同人による「夜明け前」の合評会を載せ、編集後記として「『夜明け前』について」を書いた(同第7集所収)。「夜明け前」は、明治維新前後の動乱期に、平田篤胤の国学を信奉する知識人として信州馬籠に生き、ついには時代に抗しえず狂死した藤村の父をモデルに描いた長篇小説だが、小林氏は、「『夜明け前』について」で、

―この小説は詩的である、この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい。作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしている。……

と言い、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢れていること、歴史の複雑な流れが綿密に客観的に描かれていることに感服したと言っている。

そして、事のなりゆきから言えば、小林氏が後年、「古事記」を読もうとして宣長の「古事記伝」で読んだという経緯には、「夜明け前」に描かれていた平田篤胤の国学が作用したかとも考えられなくはない。

 

それとは別に、昭和十三年十月、「歴史について」を『文學界』に書き、同十四年五月、これに加筆して全五章とした新たな「歴史について」を『文藝』に発表、この全五章の「歴史について」を序として、『ドストエフスキイの生活』を刊行した。

「無常という事」で、「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから」と言っている「以前」は、ほぼ昭和十年一月、「ドストエフスキイの生活」を書き始めてから十四年五月、『文藝』に「歴史について」を書くまでの間のことと受け取ってよいように思われる。「ドストエフスキイの生活」は、ひとくちでいえばドストエフスキーの評伝である。ということは、「ドストエフスキーの歴史」である。全五章の「歴史について」を書き上げ、これを「ドストエフスキイの生活」の序に据えることによって、小林氏は歴史とは何かをはっきり腹に入れたのである。

宣長の「古事記伝」も、おそらくはこれと並行して読まれたと思われるのだが、「無常という事」の四か月後、昭和十七年十月、『文學界』に載った座談会「近代の超克」ではこう言っている。

―僕はここ数年、日本の歴史を読んで、歴史の解釈だとか、歴史観だとか、そういう風なものがみんな詰らなくなってきた。われわれの解釈だとか、あるいは史観というようなものではどうにもならんものが歴史にある。歴史というものはわれわれ現代人の現代的解釈などでびくともするものではない、ということがだんだん解ってきたのです。そういうところに歴史の美しさというものを僕ははじめて認めたのです。……

―たとえば鎌倉時代というようなものがどういう時代で、平安時代という時代のどういう結果で生じて、それがその次の時代にどういう風に影響していった、という風に歴史を観てもとうてい鎌倉時代というものは解ることができないので、鎌倉時代という一つの形が、僕らのそういう風な因果的解釈にしろ、弁証法的解釈にしろ、どういう解釈でもいいですが、そういう風な解釈で如何に説明してもびくともしないような、なんというのかなァ、鎌倉時代というものの形ですよ。それが感じられるということが大事だということが解ってきたのです。……

―富士山をどのように解釈しようが、あの富士山の形は動かすべからざるものだということが画描きには必要なことでしょう、それと同じく歴史的の事実というものもそういう風に見えてこないといかんという非常に大事な秘密があるので、鎌倉時代の美術品がわれわれの眼の前にあってその美しさというものはわれわれの批判解釈を絶した独立自足している美しさがあるのですが、そういう美術品と同じように鎌倉時代の人情なり、風俗なり、思想なりが僕に感じられなければならぬ。そしてそれは空想でも不可能事でもない。……

 

小林氏は、歴史というものが、こういうふうにわかったと言うのである。だが、氏が、「無常という事」でも「近代の超克」でも言っている「歴史の形」「歴史の美しさ」には、なおかつ戸惑いが消せない向きも少なくないだろうと思う。小林氏は、「歴史の形」も、「動かし難い形」と言うのだが、私たちには歴史は流動する、あるいは激動する、そういう「動」の観念が先にある、ということもある、またたしかに「歴史のロマン」などという言い方をして、歴史に一種の郷愁ともいえる「美」を覚えることはあるが、小林氏に「歴史は美しい」といきなり言われても、どこをどう見れば美しいのかと、すぐさま共感、納得とはいかないというのが本音だろう。

小林氏の文章には論理の飛躍が多く、それが氏の文章が難解とされる要因のひとつだとはよく言われるところだが、たとえばここでの「動かし難い形」、そして「動じないものだけが美しい」という言葉の出方を指して論理の飛躍が言われるのであれば、それはそうかも知れない。だが小林氏の文章は、散文と見えはするが詩や音楽として書かれている。個々の言葉の語意によってではなく、複数の言葉の共鳴や交響によって、一語一語では現わしきれない感動や思想を伝えようとする。「無常という事」は、そういう小林氏の手法を一番に代表する作品なのである。

それと同時に、「無常という事」は、その一と月前、昭和十七年五月に同じ『文學界』に書かれた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)が序説となっている、ということも重要だ。「無常という事」は、「『ガリア戦記』」との共鳴、交響を聴いて初めて聞える音楽なのである。少なくとも小林氏の論理の糸は、「『ガリア戦記』」に発している。氏の文章は、そういう読み方を求めてくるところがある。氏は、「ガリア戦記」を、昭和十七年二月に岩波書店から翻訳が出たのを機に初めて読んだと言っている。

 

「ガリア」は、古代ローマの時代に、ほぼ今日のフランス領にあたる地にあったケルト人の居住域で、「ガリア戦記」はローマの武将ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が、そのガリアを討つため向かった遠征の報告書である。ということは、「ガリア戦記」は歴史の記録であるのだが、「『ガリア戦記』」の冒頭、小林氏はこれを初めて読んで面白かったと言った後、次のように言っている。

―ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮した。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮すのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。……

―美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、あたかもそれは僕に言語障碍を起させる力を蔵するものの様に思われた。……。

ここで言われている、「美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく……」が、「無常という事」では「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」となるのである。

―さて、「ガリア戦記」について書き始めたのを忘れたわけではない。それは、文学というより古代の美術品の様に僕に迫り、僕を吃らせたので、文章がおのずからこんな風な迂路を描いた。……

―シイザアの記述の正確さは、学者等の踏査によって証明済みだそうだが、彼等が踏査に際し、地中から掘起して感嘆したかも知れぬロオマの戦勝記念碑の破片の様に、戦記は僕の前にも現れた。石のザラザラした面、強い彫りの線、確かにそんな風に感じられる、現代の文学のなかに置いてみると。……

―昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱いを受けていた時分、文字というものは何んと言うか余程目方のかかった感じのものだったに相違ない。今、そういう事を、鉛の活字と輪転機の御蔭で、言葉は言わば全くその実質を失い、観念の符牒と化し、人々の空想のうちを、何んの抵抗も受けず飛び廻っている様な時代に生きている僕等が、考えてみるのは有益である。……

以来、小林氏は、歴史の記録や古典と向きあうときは、それらを云々するための言葉探しを急がず、それらが美術品、たとえば一個の壺と同じように見えてくるまでただ見続ける、眺め続けるという態度に徹するようになった。

歴史の記録や文学は、言葉でできている。したがって、それらについて何か言おうとすれば、糸口はすぐ見つかる。相手の言葉がすべて糸口になる。俗に言う「相手の言葉尻を捉える」のと同じ原理で、気の利いた一言二言は容易に言えるのである。だが、壺は、言葉でできてはいない。だから当然、言葉を発しない。にもかかわらず美しい壺は、優れた文学とまったく同じに自分を捉えて組み敷く。組み敷いて超然としている。この不可思議な美の力を前にしては一言も発しえない。そういう無力を棚上げにしたまま文学を云々するなどは烏滸おこのきわみである。小林氏は、この強いられた沈黙に、前人未到の批評の可能性を予感したのである。

おそらく、「ガリア戦記」を読んで、「無常という事」を書く頃には、小林氏には「古事記」も「ガリア戦記」と同じように見えていただろう、「ガリア戦記」が「文学というより古代の美術品のように」迫ってきたのと同様に、「古事記」は日本古代の縄文土器や埴輪のように見え始めていただろう。

 

4

 

そういう次第で、小林氏が「無常という事」で言っている「動かし難い形」とは、石器や土器や美術品に通じる「物」の形である。歴史もそういう「物」だと言うのである。だから歴史は、「見れば見るほど動かし難い形と映って来る」のであり、「いよいよ美しく」感じられるのであるが、では、歴史が「物」であるとはどういうことだろう。

先に引いた「『日本的なもの』の問題Ⅱ」で、小林氏は「民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい」と言ったが、「無常という事」の翌年、昭和十八年十月に発表した「文学者の提携について」ではこう言っている。

―伝統に還れという声が高い。しかしそういう高い声のうちに、伝統はまるで生きていない。どうしてそういうことになったかというと、伝統は観念じゃない、伝統は寧ろ物なのであるという簡単な事実を皆忘れているところから、そういうことになると僕は思う。……

そして、こう言う。

―伝統は物だ、と僕は申し上げたが、伝統は物質だと言うのではない。物という字は元来、存在という意味の字です。伝統は物であるとは、伝統とは存在する形だという意味であります。……

小林氏が、何に拠って「物という字は元来、存在という意味の字です」と言っているかはいまのところ定かでないが、氏が常に座右に置いていたと思われる『言海』は、「物」を説明して、「凡ソ、形アリテ世ニ成リ立チ、五官ニ触レテ其ノ存在アルヲ知ラルベキヲ称スル語」と言っている。ここから推せば、小林氏の言わんとするところは、「『物』とは、現実に、具体的に、存在するものという意味だ」となるだろう。したがって、氏が歴史は物だというときの「物」も、現実に、具体的に存在し、私たちの五感で捉えられるもの、という意味である。

 

こうして小林氏は、自分が会得した歴史に対するこの感覚を、何とか周囲にわかってもらおうと、歴史を古代ローマの遺物に譬えたり、鎌倉時代の美術品に譬えたりしているのだが、最後に到達して最も自信に満ち、最も語気を強めて言っているのは「死んだ人間」という「物」、および「死んだ人間」の「形」である。

「無常という事」は、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんなことを或る日考えた」と言った後、さらにもう一度、次のように転調する。

―又、或る日、或る考えが突然浮び、偶々たまたま傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物しろものだな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」……

これを承けるようにして、「近代の超克」ではこう言うのである。

―歴史を如何に現代的に解釈しても、批判しても、歴史の美というものには推参することはできない。歴史が美しいのは、歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が、われわれの解釈を絶した形で在ったということなのです。そういう風な形が見えて来ることが歴史がわかるという事だ。……

ここで氏は、「歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が……在ったということなのです」と言っている。歴史とは、死んだ人間のことだと言うのである。しかもその人間は、「いた」のではない、「在った」と言うのである、すなわち、「物」として「存在していた」「存在している」と言うのである。

そこを、「無常という事」では、次のように言った。

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

「無常という事」の翌月、昭和十七年七月に発表した「歴史の魂」には、これが講演録であるということもあって「無常という事」の趣旨がより平易に説かれているのだが、そこでは鷗外の「伊沢蘭軒」に関してこう言っている。

―伊沢蘭軒という何物にも動じない、びくともしない形がある。(蘭軒は)そういう形をちゃんと歴史の上に残して死んでしまったのです。今更もうどうすることも出来ない。彼等の遺した姿は儼然としているのです。……

歴史とは、「死んだ人間」のことである、その「死んだ人間」が、どういうふうに死んでいるか、そこに目を凝らせば、たしかに歴史は「物」だと見えてくる。ところが、現代人は、「死んだ人間」を見ようとはしない。これが、「無常という事」の結語になる。

―この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。……

「仏説」とは仏教の教義ということで、仏教では、万物は生滅・変化し、永遠に変らないものはないということを「無常」と言う。またそこから派生して、人の世の変りやすいこと、人の命のはかないことをも「無常」と言う。このいわゆる「無常観」は、津々浦々まで浸透し、「無常」と聞けば誰もが仏教を想起するほどだが、小林氏は、そうではないと言う。この世は無常であるとは、人間がこの世を生きるとはどういうことか、それを言い当てた生々しい言葉だと言うのである。

仏説は、ひとことで言えば物事の終焉あるいは消滅に焦点を絞っているが、小林氏は、今まさに生きている人間が、生きているがゆえに置かれている一種の動物的状態、無秩序状態、それが「無常」ということだと言うのだ。「一種の動物的状態」とは、氏が川端康成に話した、「生きている人間というものは仕方のない代物だ。何を考えているのか、何を言い出すのか、しでかすのか、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがない」、そういう人間の生かされ方である。生きている人間は、寸刻といえども同じ様態で安定することはない、すなわち、ずっと変りがない、一定不変である、という意味での「常」が「無い」、これがすなわち「無常」ということだと小林氏は言うのである。

だが、そういう人間にも、安定するときがくる。人間は、死ぬや否や、本来の意味で豹変する。生きている人間に比べて、「死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ」、それほどの豹変ぶりを見せるのである。

しかし、

―現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

鎌倉時代の若い女が、なぜそんなことをするのかと人に問われて答えた言葉、「この世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり」は、脈絡もなく秩序もなく、自分で自分がわからないまま生きていくしかないこの世のことはもうどうでもよい、でもどうか、死んだ後の来世では、心も身体も人間としてしっかり出来上がった私にして下さい、そういう祈りであると小林氏は読んだ。

「常なるもの」は、もはや言うまでもあるまい、「死んだ人間」である、しっかりと人間になった人間の形である。それを現代人は見失った。なぜか。歴史を因果的解釈だの弁証法的解釈だのといった現代の歴史観で、あるいはそれほど大掛かりではなくとも現代人の理解の及ぶ範囲でのみ好き勝手に解釈し、そういう解釈に解釈を重ねるばかりで、歴史に現れている退っ引きならない人間の相、人間として完成し、もはや微動だにしない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからである。この「思い出す」ということについては、次回、稿を改めて見ていくことにする。

 

宣長は、そういう解釈をいっさい排して「古事記」を読んだ。「古事記」のなかで、「死んだ人間」はどういうふうに死んでいるか、そこをしっかり思い出すためにおよそ三十五年をかけた。小林氏が「本居宣長」を単行本として世に送ったのは昭和五十二年である、氏が「無常という事」を書いて初めて「古事記伝」に言及した昭和十七年から数えるなら、氏も三十五年をかけて本居宣長を読んだのである。

(第十三回 了)

 

ブラームスの勇気

十三

ソ連作家同盟の招待を受け、小林秀雄が安岡章太郎、佐々木其一とともに横浜港を出航したのは、昭和三十八年六月二十六日、結果的にこれが最後の回となったベルクソン論「感想」の第五十六回が『新潮』に掲載された月であった。安岡章太郎の『ソビエト感情旅行』によれば、津軽海峡を廻ってナホトカ港へ到着したのが二十八日、そこからシベリア鉄道支線の夜行列車でハバロフスクへと向かい、翌二十九日の夕方、当時世界最大の旅客機でモスクワへ飛んだ。ジェット機は西へ、つまり太陽を追いかけて飛んで行く。モスクワまでの八時間、機内には、いつまでも西日が射し続けていたという。

小林秀雄が、八ヶ月前に亡くなった正宗白鳥の言葉を思い出していたのは、そのモスクワへ向かう機中でのことであった。亡くなる数ヶ月前、雑談していると、何かのことでロシア旅行の話になった。すると八十を超えたこの老作家が、話の途中でふと横を向き、遠くの方を見るような目になって、「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」と独語するように言ったという。正宗白鳥が欧米漫遊の途についたのは、その四半世紀前のことである。無論、正宗さんの心中は知る由もなかったがと断りつつ、小林秀雄は、どうしてだか、「ああ、この人はラスコオリニコフのことを考えているのだ」と感じたという(「ネヴァ河」)。

夏の西日が充満するシベリアの上空で、ラスコーリニコフのことを考えていたのは、しかし小林秀雄の方ではなかったか。「七月のはじめ、猛烈に暑いさかりのある夕方ちかく」、S横丁の屋根裏部屋から表通りに出た一青年を追って、彼はこの国ヘ来たのである。モスクワへ到着し、ジャズの騒音と男女の踊りで賑わうペキン・ホテルの大食堂で、彼はネヴァ河を見たいとしきりに思っていた。

嘗て「聖ペテロの町」と名付けられ、当時「レーニンの都市」と呼ばれたロシア北西の街へ到着したのは、その五日後の七月四日、やはりギラギラとした西日が射す白夜の夜であった。連日の雨模様だったモスクワとは打って変わって、一夜明けると、レニングラードは一片の曇なき青空である。ところが、この旅行中いつも一番最後に起きてくる小林秀雄が、その日に限っていつまでたっても起きてこない。心配した安岡章太郎が様子を見に行くと、部屋は既にモヌケの殻であった。ガスパジン小林は今朝早い時刻に一人で出て行ったと鍵小母さんデジュールナヤが言う。彼は六時前には起き出し、ひとりネヴァ河を見に行ったのだった。

一行が宿泊したホテル・ヨーロッパは、ネヴァ河から直線距離にして一キロ半余りのところにある。早朝、ホテルを抜け出した小林秀雄は右に折れ、ネフスキー大通りをデカブリスト広場まで一直線に歩いて行ったに違いない。二六〇年前、この街を建設した大帝の騎馬像が、その広場の中で、ネヴァ河に向かって躍り上がるように建っていた。

 

空は青く晴れ、ネヴァ河は、巨きな濁流であった。私は、デカブリストの広場に立ち、ペトロパヴロフスク要塞の石のはだを見ていた。背後には、名高い「青銅の騎士」が立っている。プウシキンが歌ったのは、この濁流だ。エヴゲニイをのみこんだこの同じ濁流である。それは、「青銅の騎士」という謎めいた詩に秘められている詩魂をながめるような想いであった。(「ネヴァ河」)

 

ソ連作家同盟からの慫慂を受けるにあたり、小林秀雄には、この閉された社会主義国家に対する政治的関心があったわけではなかった。彼に言わせれば、「漠然たる旅情の如きものが動いたというまでのこと」だった。だが、彼の中で動いたその「旅情の如きもの」とは、ただ外国を旅する者としてのそれではなかった。その「旅情」は、四十年近く歩み続けた彼自身の、文学の旅への情であった。さらに言えば、彼を文学者にしたところの西洋近代という異国に対する客愁であった。ソビエト旅行の真の目的を、彼は次のように書いている。

 

自分が文学者になったについては、ロシアの十九世紀文学から大変世話になった。この感情は、私には、きわめて鮮明なものであり、私には、私なりのロシアという恩人の顔が、はっきり見えていたのである。ネヴァ河が見たい、というのも、言うまでもなく、ここから発する。ドストエフスキイの墓詣りはして来たいものだ、そんな事を思う。(同前)

 

同じことを、彼は出発直前に行った鼎談(「文学と人生」)でも語り、帰国後に発表したもう一つの紀行文(「ソヴェトの旅」)にも書いている。そして、「ドストエフスキイという作家を読んで、私は、文学に関して、開眼したのです」とあらためて告白した。六十一歳の時であった。

戦前、中山省三郎に宛てた「私信」によれば、小林秀雄がはじめてドストエフスキーの重要作品に一通り接したのは、同人誌に小説を発表し始めた旧制高等学校時代であった。ところが批評家として文壇に出た頃、偶然の機会に「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」を読み返し、まるで異なった人の手になる作品を読む思いがして、ほとんど赤面するほど驚嘆した。そして、ドストエフスキーの全集を熟読し、この作家についての長い評論を書こうと決心したのである。その「長い評論」が、その後どのような野心をもって書き始められ、書き継がれたかは、既に見たとおりである。彼は、モスクワのトレチャコフ美術館で観たペローフのドストエフスキーの肖像画の前で動けなくなったという。そしてレニングラードで案内されたこの作家の住居にも、ラスコーリニコフが斧を盗んだという門番小屋や「白痴」のラゴージンが住んでいた家の窓にも、同じように感動した。

アレクサンドル・ネフスキー大修道院内にあるドストエフスキーの墓にたどり着いたのは、白夜の日射しも弱まり、あたりに薄墨色の空気と赤みがかった光とが交差し合う時刻だったという。小林秀雄は、黒花崗岩の墓に、「極く自然に頭を下げた」とだけ記している。その時、同行した安岡章太郎が、墓の前に立つ彼を写真に撮ろうとしてカメラを向けた。ファインダーの中で、小林秀雄は、はじめ少し照れたような笑いを浮かべ、それから意識して口を固く結んだそうである。ここだと思って安岡はシャッター・ボタンを押したが、フィルムが切れて、シャッターは動かなかった。

早朝のサンクト・ペテルブルクを流れるネヴァ河の濁流を前にして、小林秀雄の心を領していたのは、「青銅の騎士」の詩人の詩魂だけではなかっただろう。先に引用したくだりに続けて、彼は、「プウシキンの詩魂は、ドストエフスキイに受け継がれた」と書いている。小林秀雄にとって、そのドストエフスキーの詩魂とは、「罪と罰」第二編第二章に現れる次のくだりに結晶するものであった。この長い一節を、彼は戦前と戦後に書いた二つの「罪と罰」論のいずれにも、自らの翻訳によって引用し、これを「ラスコオリニコフの歌」と呼んだ。その「歌」を、この時、彼が思い出さなかったはずはないだろう。あの一種鬼気に充ちた「壮麗なパノラマ」を眺めるために、この恐ろしく孤独な青年が百度は立ったというニコラエフスキー橋が、「青銅の騎士」を背後に立つ小林秀雄の左手に、はっきりと見えていたはずである。

 

彼は二十コペイカの銀貨を掌に握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はコバルト色をしていた。それはネヴァ河としては珍らしい事だった。寺院の円屋根はこの橋の上から眺めるほど、つまり礼拝堂まで二十歩ばかり距てた辺から眺めるほど鮮やかな輪郭を見せる所はない。それが今燦爛たる輝やきを放ちながら、澄んだ空気を透かして、その装飾の一つ一つまではっきりと見せていた。鞭の痛みは薄らぎ、ラスコオリニコフは打たれた事などけろりと忘れて了った。ただ一つ不安な、まだよくはっきりしない想念が、今彼の心を完全に領したのである。彼はじっと立ったまま、長い間瞳を据えて遥か彼方を見つめていた。ここは彼にとって格別なじみの深い場所だった。彼が大学に通っている時分、大抵いつも―といって、おもに帰り途だったが―かれこれ百度くらいは、丁度この場所に立ち止って、真に壮麗なこのパノラマをじっと見た。そして、その度にある一つの漠とした、解釈の出来ない印象に驚愕を感じたものである。いつもこの壮麗なパノラマが、何んとも言えぬうそ寒さを吹きつけて来るのであった。彼にとっては、この華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に充ちているのであった―彼はその都度われ乍ら、この執拗な謎めかしい印象に一驚を喫した。そして自分で自分が信じられぬままに、その解釈を将来に残して置いた。ところが、今彼は急にこうした古い疑問と怪訝の念を、はっきり思い起した。そして、今それを思い出したのも、偶然ではない気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止ったという、ただその一事だけでも、奇怪なあり得べからざることに思われた。まるで、以前と同じ様に考えたり、つい先頃まで興味を持っていた同じ題目や光景に、今も興味を持つ事が出来るものと、心から考えたかのように……彼は殆ど可笑しいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締めつけられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足元に、こういう過去の一切が―以前の思想も、以前の問題も、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何も彼もが見え隠れに現れた様に感じられた……彼は自分が何処か遠い処へ飛んで行って、凡百のものが見る見る中に消えて行くような気がした……彼は思わず無意識に手を動かしたはずみに、ふと掌の中に握りしめた二十コペイカの銀貨を感じ、掌を開いてそれを見詰めていたが、大きく手を一振りして、水の中に投げ込んで了った。彼は踵を転じて帰途についた。彼は、この瞬間、剪刀はさみか何かで、自分というものを、一切の人と物とから、ぷっつりと切り放したような思いがした。(「『罪と罰』について Ⅱ」より)

 

脚下を流れるコバルト色のネヴァ河の深い水底に、ラスコーリニコフの過去の一切が見え隠れに現れたように、小林秀雄もまた、その濁流の水底に、それまでの彼の一切の思想や、問題や、印象や、そして「彼自身」が現れるのを見なかっただろうか。彼は、この「歌」に、ほとんどボードレールの抒情詩の精髄を感じると書いていた(「『罪と罰』について Ⅰ」)。小林秀雄を文学者にしたのは、ドストエフスキーであった。だがその彼を批評家にしたのは、ボードレールである。この十九世紀パリの詩人の著書を読んだという事は、「私の生涯で決定的な事件」(「ボオドレエルと私」)であり、「ボオドレエルという人に出会わなければ、今日の私の批評もなかったであろう」と彼は書いている(「詩について」)。一八二一年、奇しくも同年に生れたヨーロッパ近代文学の二人の「恩人」によって、小林秀雄は文学に開眼し、批評精神を眼醒まされ、「彼自身」になったのであった。

そしてその「彼自身」の、一切が、ネヴァ河の深い水底に揺らめくのを見た時、小林秀雄もまた、自分というものを、身を切る思いで何かから切り放さなかっただろうか。それは、彼がその中で生を受け、育まれ、またこれと闘い続けた、西洋近代という謎めいた「壮麗なパノラマ」そのものではなかったか。この旅行から帰国した後、彼は五年間連載し続けたベルクソン論を封印した。学生時代から愛読し、「私が熟読した唯一の西洋の大哲学者」(「ベルクソン全集」)と語ったこの思想家もまた、小林秀雄を「彼自身」にしたもう一人の「恩人」であった。そして同じく中絶したままとなっていた二度目の「白痴」論に、短い一章を加筆して、彼の言葉で言えば、「首のないトルソ」として上梓したのである。三十年間続いたドストエフスキーについての小林秀雄の「長い評論」は、ここで終止符が打たれた。その覚悟を定めたのは、彼が、「青銅の騎士」を背後にネヴァ河を眺めた時ではなかったか。

四日後、一行はレニングラードからヤルタへ飛び、そこからキエフへ廻って再びモスクワに戻った。その後、小林秀雄は安岡章太郎と佐々木基一をモスクワに残し、ひとりパリへ発った。彼が、モンパルナス墓地にあるボードレールの墓を訪れたかどうかはわからない。だがその後、パリからさらにザルツブルク、ウィーンを巡り、ワーグナーの「リング」を聴くために訪れたバイロイトにおいて、期せずしてこの詩人の墓の前に立つことになる。

(つづく)

 

クマガイモリカズは、考える葦である

「或朝の事、自分は一ぴきの蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきを這い回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向うつむきに転がっているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」

 

中学生の時に新潮文庫で読んだ、志賀直哉氏の「城の崎にて」のこの一節は、私の体の奥深くに息づいていて、今でも何かの拍子にそれを思い出すと、頭の中がひんやりとしてくる感じを覚える。その文庫の表紙絵が、熊谷守一氏による「赤蟻」だった。守一氏は、志賀氏との親交が深く、例えば「志賀さんとは生成会で何度か会いましたが、鳥や虫や生きものの話題になると話が合った。植物の話もなかなか詳しかったが、わたしほど詳しくはありませんでした」と言っている(「蒼蠅 新装改訂版」、求龍堂)。

 

 

昨冬は、12月から3月にかけて、東京国立近代美術館において、熊谷守一氏(1880-1977)の大回顧展「生きるよろこび」(以下、本展)が開催された(その後、愛媛県美術館に巡回)。加えて、池袋の千早にある豊島区立熊谷守一美術館(以下、美術館)も含め集中的に足を運んでみたので、感じてきたことを綴ってみたい。

 

1.「轢死」(1908年、岐阜県美術館蔵)

当時の東京美術学校(現、東京芸術大学)近くの踏切(現、日暮里駅付近)で目の当たりにした、女性の飛び込み自殺を題材とした初期の作品である。ただ、画面の劣化が激しく全面真っ黒の様相で、初めて観た時には、横たわる女性の姿など、すこしも判別できなかった。しかし、会場に通うたびに、その姿は徐々に浮かび上がり、4度目には、はっきりと見て取ることができたことは不思議な体験であった。事件当日に描かれたスケッチと合わせて観ていくと、画家がその場で受けた衝撃と、その後、見知らぬ女性の孤独な死を見定めていった心持ちが伝わってくる。娘のかやさんが、こんなことを書いていた。

「地面を這う蟻や、花に来る虻をじっと見つめて描いたと言われる守一ですが、結局はひとの生と死を見つめて描いたと思われる。人の生を大事にするから生きとし生けるもの虫や猫などにまなざしが行く」(「モリはモリ、カヤはカヤ」、白山書房)

画家は、志賀直哉氏が、屋根の上に横たわる蜂を見入るがごとく、その女性の死を、静かに見つめていたのではあるまいか、私はそんなふうに思った。

 

2.子どもたちの死

人の死を目の当たりにした、ということでは、守一氏が、幼い次男を亡くした、まさにその瞬間を衝動的に描いた作品「陽ノ死ンダ日」(大原美術館蔵)も忘れられない。あまりに哀しい画である。彼の嗚咽が聞こえてくる。初めて本作を目撃した私は、ただただ立ち尽くすしかなく、涙が溢れて止まらなかった。彼の言葉を引いておく。

「苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに、“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました。『陽の死んだ日』です。早描きで、三十分ぐらいで描きました」(「蒼蠅 新装改訂版」)

 

さらに、守一氏は、1947年、67歳の時に、長女の萬も亡くしている。萬は、戦時中の学徒動員による過労がたたり、肺結核を患い寝たきりとなっていた。その病中の萬を描いた作品群も本展にあったが、私が、より心動かされたのは、美術館で観た「仏前」(1948年)という、萬の供養に捧げられた作品である。氏らしい黄土色を背景に、両脇には仏具のようなものが置いてある。中央には、漆黒の盆の上に、白い卵が三個。氏の庭飼いの鶏が産んだものだという。

ベタ塗りの、ただそれだけの画である。しかし私は、三尊像のように、凛として微動だにせぬ盆上の白い卵三個に、深いかなしみを見定めようとしている、画家の心の動きを感じた。それは、前述の「陽ノ死ンダ日」の衝動的なかなしみとは別種の、より深いところを静かにゆっくりと流れている波動のようなものである。自ずと私は、かなしみの卵に向かい、と掌を合わせていた。

 

3.二つの「ひまわり」

守一氏の作品は、年代による画風の変化も見どころである。そのことについて、本人は、このように言っている。

「私の絵が長い間にずいぶん変わってきているので、どうしてそんなに画風が変わったのか、とよく聞かれます。しかしこれには『若いころと年とってからでは、ものの考え方や見方が変わるので、絵も変わった』としか答えられません。自然に変わったのです」(「へたも絵のうち」、平凡社ライブラリー)

1928年に描かれた「ひまわり」という画があった。作品名とは裏腹に、くすんだ水色を背景に咲くひまわりの黄色は暗い。筆致もせわしなく、少々粗っぽくも見える厚塗りの油彩である。何かきっかけがあって衝動的に描いたものではないかと直覚したが、確認すると、前述の「陽ノ死ンダ日」と同年の制作であった。

一方、約40年後の1967年に描かれた「向日葵」(静岡近代美術館 大村明氏蔵)という作品もある。より明るい水色を背景に、四輪のひまわりは、花も葉も、単純簡明な形にデザインされたようだ。ただ、よく観ると、中央の管状花の部分が、一輪だけ、他のオレンジ色とは異なり黄緑色に塗られている。このことにより、絵全体にリズムが生まれ、ひまわりの生命感をいっそう感じさせる。昭和天皇が、守一氏の作品を観て「子供の絵か」と訊いたという話を、本人も披露しているが、ただの単純簡明とはいかない所もまた、守一作品の面白さなのである。

例えば、後年になると、いわゆる「影」を意識的につけた作品は少なくなる。一見平板に見えてしまうのである。しかし彼は、その理由について、こう語っている。

「影がたくさんありますわね。あの影をよしてしまうんですわ。色の寄せ集めでけっこう代用すると思います。実際影ってものは、陰気なもんでしょう。そこを影のない色を寄せ集めれば、困るほど影が出てくる。そのほうが、実際の影より陰気じゃないですわ」(「ディアローグ・1」『みづゑ』第780号)

 

4.熊谷守一の書

守一氏は、多くの書も残した。

美術館に「古佛坐無言」(1975年)という書があった。じっと眺めていると、字の全体が古佛と化し、黙々と只管しかん打座たざしているように見えてくる。私が目にしたものは、もはや外形的な文字の形ではない。むしろ書の内面から浮き上がってきた、性質情状あるかたちとも呼ぶべきものである。

書について、守一氏は、こんなことを語っている。

「何時だったか、わたしに信心の心があるかって聞かれたことがあります。実際に仏様を拝んだり、地獄極楽の世界を信じたりするのでなしに、こういうのが信心かなと、自分の心に思うことはよくあります。そういう意味では信心の心があると思います。『南無阿弥陀仏』の字にしても、信心があるのとないのと、書いた人で違います。見ればわかります」(「蒼蠅 新装改訂版」)

揮毫に臨み、題材となる字を聞いて「自分の心に思うこと」を、性質情状として、文字に表したのが、まさに彼の書なのであろう。「かみさま」、「すずめ」、「なのはな なのはな いちめんの菜の花」など、揮毫のすべてが、そのように出来上がっているように感じる。

ちなみに、志賀直哉邸(渋谷区東)に掲げられていた扁額「直哉居」も、守一氏の手になるものであった。

 

5.喜雨(制作年不詳)

1956年、76歳の時、守一氏は軽い脳卒中の発作を起こした。この頃から、外出も叶わなくなり、千早の自宅内だけが、すべての活動の場となった。したがって、後年の作品の題材に、元々好んでいた、猫や鳥などの動物や、蟻や蝶などの昆虫、そして草花が多くなるのは自然の流れでもあった。本人によれば、「遅い昼食のあとは夕方まで昼寝です。以前はよく庭にむしろを敷いてそこに寝ました。地面の高さで見る庭はまた別の景色で、蟻たちの動きを見ているだけで夕方になったときもあります」という。

写真家、土門拳氏に師事した藤森武氏は、最晩年の守一氏を撮影された方で、当時の守一邸について、このように言っている。

「庭もとても小さいんですが、先生が掘った深い池があって、僕は見た時、防空壕の穴かと思いました。もうだいぶ水が枯れてしまいましたが、魚なんかもいたらしいです。その掘った土が大きな築山になって、先生はその下にムシロをしいて寝転がって、虫や鳥を観察するんですね。『蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだよ』と言っていましたが、築山から降りてくる様子をじっと見ていたからわかったんじゃないかと思います」(「目の眼 2018年2月号」、目の眼)

守一氏は、もはや蟻や鳥を観察しているのではなく、自らが庭の動植物と化していたのだろう。少なくとも、観察されていた蟻には、そのように見えていたに違いあるまい。そうでなければ、家ネズミを飼い馴らすことなど、通常の人間には至難の業であるからだ。確かに彼は、人間というものに対して、こんな懐疑の念を表明していた。

「人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです」(「へたも絵のうち」)

 

そんな守一邸の跡地に建った美術館に、「喜雨」という素描があった。作品名の通り、6匹の蛙が、慈雨を喜んでいるという、単純簡明なものだ。大ざっぱな鉛筆描きにも拘わらず、蛙たちが喜び踊る様を観ていると、何故かこちらまで心が浮き立ってくる。観ると、感じると、動くが一体化したような、その不思議な感覚は、仮に、守一氏が「喜雨」と揮毫した書があったとして、それを観て直覚するものと同じものなのであろう。

私は、そんなことを思いながら、彼の、こういう言葉を思い出していた。

「川には川に合った生きものが棲む。上流には上流の、下流には下流の生きものがいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいとわたしは思うのです」(「蒼蠅 新装改訂版」)

「私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、一番楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません」(「へたも絵のうち」)

 

彼にとって、自宅から外出できないということは、制約でも、監獄でもなかった。むしろ自宅や庭にあった小さな森には、限りない宇宙が広がっていた。そのなかで、愛する動植物たちとともに棲んだ熊谷守一は、見て、感じて、考え、描いた。かつ、それらの動きは、すべてが同時性をもって一体化していたように思う。

 

 

「人間は考えるあしだ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では、葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一たまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。

パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難しかったであろう」

 

これは、小林秀雄先生の「パスカルの『パンセ』について」という作品の中の言葉である(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。難しい文章であり、頭ではわかったつもりでも、その理解に、うまく身体が付いていかないことを、ずっともどかしく覚えていた。今回改めて、熊谷守一氏の作品や言葉と、じっくりと相まみえてみたことにより、そこで小林先生が言わんとしたところを、体感できたように思った。

私は、確信した。クマガイモリカズは、考える葦であると。

 

 

私たち塾生にとって大切な学び舎である、小林先生の旧居、山の上の家の応接間にも、そんな守一さんの書が掲げられていた。その書は、先生が京都の骨董屋で一目見て気に入り、貰ってきたものだという。多くの来客を迎えてきたその書の白地は、今では、煙草の煙で茶色に変色してしまっている。そこには、こんな言葉が、書かれていた。

 

「ふくはうち をにはそと」

 

 

【参考文献】
* 「別冊太陽 小林秀雄」(平凡社)
* 「目の眼 2018年2月号」(目の眼)

 

【参考情報】
愛媛県美術館「熊谷守一 生きるよろこび」 4/14(土)~6/17(日)
豊島区立熊谷守一美術館「熊谷守一美術館33周年展」 5/11(金)~6/24(日)
志賀直哉旧居(奈良市高畑町)
 ご遺族から寄贈された扁額「直哉居」が、入口に掲げられている。

(了)

 

杖の導くもの

今年の冬は寒かった。
近所のばあばは、
「こんな冬は、私が嫁に来て以来初めてだ」
と言っていたから、記録的な寒さの年だったんだろう。
だからなのか、今年の春は、ことさらに春が来たよろこびを、木々の力強い芽吹きに感じる。

 

秋から初冬にかけて、山の木々は生きて行くために必要な栄養を作るための葉を落とし、根から水を取り込むのをやめ、風雪に耐える準備をする。最低限の命をつなぐ機能だけを残して、水分すら体の中に取り込むことをやめ、まるで枯れ木になってしまったかのような姿で、じっと春を待つ。どんなに寒くても、自らを温めることもせず、その場から脱げ出すこともせず、ただじっと春を待つのだ。山の木々にとっての春の訪れは、どれほどの喜びか。
そして、まだまだ寒く、冬真っ只中だと人間が感じている立春の頃になるとまた少しずつ地中から水を吸い、芽吹きの準備を始める。
水仙が咲き、福寿草が咲き、まるで灯りがつくように里山に黄色が加わって、紅白の梅が咲き、本格的な春を迎えて、桜があっという間に散り山が色でいっぱいになる頃には、全ての木々が一斉に淡い緑の葉を伸ばす。
春を迎えゴクゴクと水を取り込み、抑えていた喜びを芽吹きという形で一気に吹き出すように山の色を変えてゆく。
新緑で覆われた山々は白く輝き、くすくすと笑い声が聞こえるかのよう。
鶯も、随分と上手に鳴けるようになってきた。
吹き渡るやわらかな風もキラキラと私を包み、
冬の間、キュッと締めていた私の心をふわりとほどいてゆく。
春がなんとなくいつも夢の中にいるように感じるのは、寝起きの草木の陽気ないたずらで、嬉しくて嬉しくて仕方がない木々たちが、春だよ春だよと遠くの仲間と歌っているからに違いない。

 

 

そんな、喜びいっぱいの春の山から、今年は不思議なご縁で一本の木をいただいた。根付職人である私にとって、それはなんだか特別な意味を感じずにはいられない木だ。
明日にも桜の開花宣言という膨らみきった蕾が弾けそうな3月のある日、池田塾の特別講座として三重県松阪で行われた勉強会に私も参加させてもらった。
その中で訪れた、本居宣長の山の上のお墓のそばでひろわれたその木は、真ん中で少し折れ曲がっているものの、まるで杖にするために切られたかのような形で、山の間伐材として落ちていた。

 

その杖を持った池田塾頭は、それまでの少し辛そうな山歩きの様子が嘘のように、ニコニコ山を歩いている。
本居宣長のお墓近くで拾われた杖が、本居宣長を愛した小林秀雄先生の最後の編集者だった池田塾頭を助けている。
それだけで、作品の中に物語を作っていく根付職人にとってその杖は特別な杖となる。
世界で一本しかない、特別な杖なのだ。
そして、私は根付の職人で、本居宣長の愛した鈴を現代でも作っていた職人さんを取材したことがきっかけで、職人の道に進むこととなったという背景を持っている。この木で本居宣長の愛した鈴を彫ってみたら? と、本居宣長や2年前に亡くなった鈴職人さんに言われているような気がして仕方がなかった。
「根付を彫りたいから、山を降りたらこの杖をいただけませんか?」
まもなく山を降りきるというところで、池田塾頭に思わずお願いした。
そうして私の元にこの木がやって来た。

 

 

私たち木彫をするものにとって、寄り添わなければならない大切なこと。それは、木は生きていたということ。
生きていた木を使って、私たちは彫らせてもらっている。
どれ一つとっても同じものはなく、その木が育ってきた環境や、経てきた経験、持って生まれた性質で、その生成りが全く違うものとなる。
工業製品となると、この個性は迷惑なもので、その性質をいかに殺して使うかを考えるのだけれど、私たち根付の職人はその個性とのにらめっこから仕事が始まる。手作りのものは一本一本の木に向き合って、なるべく命を頂いたその木の全てを無駄なく使っていくのだ。
先日いただいた杖になっていた木も、
この木は何の木なのか。柔らかいのか、堅いのか。
繊維の感じはどうなのか。細かな彫りは可能なのか。
どこで育った木なのか。この山は養分の多い山なのか、日当たりはどうなのか。
この木はいつ切られたものなのか。水をたっぷり吸いこんでいる季節に切った木は乾燥の途中で中の水が腐ってしまうため使えない。
どのくらい、山の中に放置されていたのか。どんな状況で放置されていたのか。すでに微生物が侵食し中がボロボロになってしまっている可能性もある。
それらを全てクリアした上で、節の有無、鹿に食べられた傷跡、伊勢湾台風で水につかったなどの木が経てきた歴史、せっかちで急いで成長したなどの木の性格、木肌の美しさなどと向き合い、ようやく作品づくりとなる。
全てが順調に思った通りの作品が作れるわけではないのだ。
私はこの杖から運命の鈴を彫れるだろうか。

 

 

答えは、この杖の太さなら早くても2年後。
それまではじっと木が乾燥するのを待つしかない。
ゆっくりと、水分を吸ったり吐いたりしながら、
この木が少しずつ水分を吐き出していくのを待つ。
全ては、自然がゆっくりとちょうどいい具合にしていってくれるのだ。

 

 

あとは2年後。
桜が咲いたら刃物を入れよう。

 

 

「ありがとう。自分のやってきたことが初めて日の目を見たよ。ありがとう、ありがとう」

私の手を握って、涙を流しながら伝えてくれた鈴職人さんの言葉が、私の人生を変えました。

 

私は当時、NHKのキャスターでした。

『東海の技』という東海地方のものづくりの職人さんを紹介するコーナーを担当していました。

様々な職人さんにお会いし取材をさせていただく中で、職人さんが作り出すものの素晴らしさ、伝統工芸が代々受け継いできている日本人が大切にしている思い、職人さんの生き方や覚悟のようなものに魅了されて、この仕事にどんどんのめり込んでいきます。一方で、取材させていただいた多くの伝統工芸で、後継者がおらず、まもなく失われてしまうという事実もまた知ることとなるのです。

「なんてもったいない。伝統工芸は、資源の少ない日本で世界に誇れる未来への大きな財産、資源なのに」

と、強く強く思い、なんとか後継者が出てこないものか、どうしたらこの伝統工芸を守ることができるのだろうと、放送人として、そして伝統工芸に魅了されたファンとして日々考えるようになっていました。

 

そんな時、出会ったのが先ほどの職人さんの言葉でした。まだ25歳の社会に出て間もない私に、涙を流してお礼を言ってくれる職人さんの言葉。50年以上今の仕事をしてきて、私が取材させていただいて、今回初めて、親戚の人や近所の人から「素晴らしい仕事をしていたんだね」と、声をかけてもらったんだ、日の目を見たんだと涙ながらに言ってくださる姿に、私もおもわず苦しくなって、一緒に涙を流していました。

「どうして、こんなに仕事一筋で頑張っている職人さんが、50年以上も日の目をみることなく、まだ出会って数回の私に対して涙を流さなければならないんだろう」

と、やるせなく、切なく、悔しかったのです。

 

職人の抱える問題の一つに、“職人の地位が低い”という点がありました。

私が取材をさせていただいた職人さんの中には、目の前で

「ちゃんと勉強しないとあんな風になっちゃうよ」

と、こちらを向きながら通りすがりの母親が幼い息子に言っている様子を見たことがあるという人。

また、

「弟子入りを希望して来る人は、刑務所を出た人か障害のある人しかいなかった。それらの人がいけないというわけではないけれど、俺たちのやっている仕事はそんなに嫌な仕事なのか? 別に東大を出た人が、職人に憧れて職人になったっていいだろう?」

と、訴える職人。

特にバブルの頃、とてもみじめな思いをしたという職人の声を多く耳にしました。

 

その背景には、

「多くを語らず、出来上がった製品の素晴らしさで周りを納得させる」

という古くからの日本人の美徳を多くの職人が守っていることがあるような気がします。もはや職人や手づくり・ものづくりが身近でなくなったいま、その手作りの製品の手業の素晴らしさまで、想像出来なくなっている現状がそうさせているのではないでしょうか。

それを解決するためには、誰かが(職人の地位が自分に関係のないメディアなどの第三者ではなく)、

「職人って、ものづくりって、こんなに素晴らしく素敵な仕事なんだ」

と、発信することが必要なのではないかと思ったのです。

その言葉が次世代を担う若者の目に触れたら、長く続いてきた伝統工芸の未来は変わるのではないかと。

誰か、勇気を出してもっと発信する職人が出てきたらいいのに……。

大御所の職人さんが、もっと前にどんどん出てきたらいいのに……。

 

そんな話を人間国宝などに指定されている職人さんに話しても、共感はしてくれるものの、自分は昔から前に出るのは苦手だから誰かにやってもらってと、動き出す人はいませんでした。誰かじゃなくて、みんなが自分のこととして動かないと!

 

誰かじゃなくて。。。

そうか、誰かと思っていたのは私だったのか。

何ができるかわからないけれど、私がやればいいのか。

 

こうして私は、特に尊敬していた根付の師匠のところへ通うようになりました。

(了)

 

諏訪には京都以上の文化がある
―下諏訪・みなとや旅館

都会の夏、8月の炎暑が漸く鎮まって、初秋の気配に包まれる頃になると紺碧の秋空にこころ惹かれてしかたがなくなる。しかしそれはいつでも信州の秋の澄み切った、どこまでも遙かに高い大空なのだ。中学生からの山好きだったところから、北、南、八ヶ岳といった高山の気が身体のどこかにしみ込んでいるのかなとも思うが、山々の頂から天空へと拡がる蒼天への憧れは齢を重ねても消えることはない。だから、世間の夏休みが終わり、残暑も漸く落ち着いたころ、つまり9月の半ばを過ぎるとなんとなくそわそわしてしまう。中央線でも、中央自動車道でも、立川、八王子を離れていよいよ山に向かっているといつでも気分の高揚を禁じ得ない。さて、秋の信州のどこかへ行きたいな、と思いつつ温泉情報など見ていると、そういえば下諏訪温泉に小林秀雄お気に入りの宿があったはずだと思い出した。「別冊太陽」か「芸術新潮」あたりだと思っていて探してもそれらしい記事は見当たらず、いろいろ探索した末に『作家と温泉♨️ お湯から生まれた27の文学』(河出書房新社 2011・1)なる小冊子に掲載されているのを見出した。「小林秀雄と美と温泉」の3ページ分の文章に、奥湯河原の加満田、湯布院の玉ノ湯、そして下諏訪温泉のみなとや旅館、この3軒がごく簡単に紹介されていた。

下諏訪温泉のみなとや旅館には、「諏訪には京都以上の文化がある、下諏訪には鎌倉に似たよき路地がある」という小林秀雄自筆の書が掲げられているとあり、さらにこの宿の温泉を「綿の湯わたのゆ」と命名したとも書かれている。このことは長い間なんとなく気にはなっていたものの、訪れる機会もないまま何年も経ってしまっていた。長野県、というより信州といえば軽井沢から上田、佐久近辺の文学館や美術館に立ち寄ることはたまにはあって、そこで食事となるとやはり自然に蕎麦を、という流れで、いろいろな店を巡りつつ山々と高原の景物に親しんだことはあるし、諏訪大社の四社を巡ったこともあったが、諏訪周辺に宿泊しようという気持ちには到らなかった。そうしたところ、昨年の9月末に信州のどこかに1泊して、たまにはのんびりと未知の温泉巡りでもしようと思い立った。そこでせっかくの機会、それでは小林秀雄ゆかりの温泉を訪ねてみようという気になったわけである。

上田菅平インターを降りて千曲川を渡り、松本街道143号線を道なりに青木村を過ぎるころ、田沢温泉という島崎藤村ゆかりの宿がある、その裏手に有乳湯うちゆという共同湯(午前6時から営業!)があり、これがツルツルヌルヌルの名湯で、大のお気に入り、上田駅からはクルマで3、40分ほどかかるが絶対にオススメである。ゆっくり浸かってから下諏訪へ向かう。沓掛温泉、鹿教湯温泉を通過して長門町から中山道142号線へ入って南下、和田峠を旧道トンネルでくぐり抜け、水戸天狗党の浪人塚を過ぎて降っていくと左手に諏訪下社の御柱祭で注目される木落し坂がある。さらに降ると下社春宮、そのまま進めば下社秋宮に出るが、直前のかめや旅館の手前を右折すると、下諏訪温泉みなとや旅館に着く。以上は私の寄り道ルートだから、中央線利用ならば下諏訪駅下車で徒歩10分の距離である。下社秋宮の門前に位置する温泉宿は5~6軒はあるだろうか。それぞれが古い歴史を感じさせる旅宿、旅籠という姿で、ここが中山道と甲州街道の合流点となっている。往時の中山道を往き来する者にとって、街道中唯一の温泉宿であり、難所である和田峠を越えてきた旅人にはなによりの湯浴みであったろうことは想像に難くない。下社秋宮の大鳥居下には神湯なる温泉が湧き出していて、この豊富な源泉が各旅館にも引かれているようである。

さて、みなとや旅館は木造2階建てのすっきりした姿である。部屋は2階に5つあるようだが、現在は3部屋3組のみで満室となる。この日は他に1組だけ。期待の温泉、小林秀雄命名するところの「綿の湯」へは順番に案内があってから入浴する。部屋はごくふつうの和室、冷蔵庫はなく、トイレと洗面所は共同である。だから、こうした施設だけみれば一昔前の商人宿に近いので何も知らない一見の客は驚くであろう。しばらくして入浴の時間、若女将さんが案内してくれる。玄関を出て庭の中へ入っていくと湯殿がある、庭湯という湯槽は1つのみだから、まぁ家族風呂というところである。扉を開けて入ると目の前に3畳弱ほどの広さの湯槽があるのみ、手前に脱衣場がありシャンプー類もおいてはあるが、カランもシャワーもないので手桶で湯槽から湯を浴びるしかない。無色透明の湯が溢れだしている湯槽の底には白い玉石が敷き詰められていて清らかである。やや熱めの湯は、たしかにやわらかくしっとり肌に馴染む感じがして大変心地よい。そして、この湯殿には屋根がかかっているのみで玄関、脱衣場以外の3方周囲には壁がない。簾がかかっていたものの、つまりは広めの庭に湯槽が切ってあるだけなのである。風通しはすこぶる良すぎて9月末くらいでちょうど良いのだから、冬になったらどうなるのかと心配になるようなお風呂である(この正月に宿から年賀状が届いたら「内湯ができました」とあった)。「綿の湯」をすっかり堪能して夕食。予備知識皆無だっただけにそのメニューに一驚した。メインは馬肉料理、馬刺しと桜なべでご飯。そして他のおかず類はすべて地の物である。諏訪湖のワカサギ、鮒の甘露煮、山菜の煮付けなど数種類、蜂の子に蝗にザザ虫、川エビなどなど。少しずつだが種類豊富で馬刺しの量が多めなのもあって満腹になる。どこの旅館でも出てくるマグロやサーモンの刺身類、天ぷら類、焼き物やら茶碗蒸しの類いなどいっさい出さないという潔い食事。ほぼ年間通して同じメニューだそうで、今なら地産地消などと言ってエコを気取る風があるが、みなとやは諏訪湖と周囲の山の物しか料理にしないのである。酒類は、エビスビールの大瓶とお酒(燗酒)のみの模様で、日本酒の銘柄も告げられないがおいしい酒だった。ちなみにザザ虫のなんたるかはよく知っていたけれど、販売しているものを見たこともなかったので初めて食し、こんなに美味いものかと感心した。1~3月の漁期にだけ採取できるという。

さて食事が始まると、テーブル横に女将さんが自分用の椅子を寄せて坐り、給仕と会話の相手をしまいまで続けるのである。白洲次郎、正子夫婦のことから里見弴、岡本太郎、永六輔などなどしゃべりだしたら止まらない。「小林秀雄先生には申し訳ないことをしました。お電話をいただいても満室でお断りしなければならないことの方が多かった」と言う。秋深くなると「山のきのこが食べたいのだが」と電話が来たとのこと。女将は昭和2年生まれの小口芳子さん。白洲次郎が初めて来たときに「君たちの仕事はこの諏訪湖をきれいにすることだ!」と言われたのが忘れられないとも話された。昭和の高度成長期には諏訪湖周辺にも大きな工場が出来てきて、諏訪湖が非常に汚れていたのだと言う。白洲夫妻の住まいである鶴川の武相荘や、鎌倉の小林邸、里見邸へもたびたび招待されたこと。小林邸(山の上の家でない方)へ行ったらルオーのパレットの絵を見せられて「良いだろう」って言われたけれど、自分には善し悪しが全然分からないのでずっと黙っていたこと。小林先生が亡くなられた際には弔問に訪れたが、ちょうどおおぜいの客が帰ったところに上がったので、奥様としんみりお話ができたこと等々、女将さんの昔話は夕餉の時間では終わらない。翌朝、まず「お風呂どうぞ」の電話で起こされて入浴の後、朝食、これも地の物尽くしで蕎麦の実の粥が美味、この時も給仕されながら昔の話は延々と尽きない。

ところで先の小林秀雄の言葉「諏訪には京都以上の文化がある」のエピソードは、宿のホームページに紹介されている。

 

小林……諏訪には京都以上の文化がある。

白洲(正子)……小林さん今、えらいこと言ったわよ、これは、あなたの家のことを言ってるのよ。証拠に書いとくから、紙もっていらっしゃい。(昭和55年5月)

 

おそらく夕食をしながらの会話だろうか。この、ふとした小林のつぶやきを白洲正子が聞き逃さずにいたおかげで、この言葉はみなとや旅館に残されているのであった。

では、仮にその時を夕食時としておくと、先に紹介したこの宿の料理に端を発した感想だという想定ができるかもしれない。一見したところ地味で、特別なところも見えない食材やその調理のしかたなどは、この諏訪の人々の長年の暮らしからごく自然に産み出されて来た調理方法で完成されたものであり、その結果としての味覚の数々なのだ。どこぞの名高い遠方からわざわざ手間暇かけて運び込んだ高級食材をふんだんに使用しているような、たとえば超一流の料亭料理とはまったく逆を向いた料理と言える。諏訪の気候風土に逆らわずその季節ごとの旬の食材を収穫し、そのたびごとに保存調理したり、その時にすかさず味わったりという工夫はこの土地で暮らしている人々の知恵として育まれてきた生き方そのものであったはずだ。

つまり、こうした人間の自然な生き方に寄り添った食事というものこそが文化というものなのだ、ということなのかもしれない。この諏訪と京都とを、「文化」を軸として対照させて述べるところ、「えらいこと言ったわよ」と受け止めた白洲正子の直観は誤っていない。

もちろん食事のことに止まらないとも言えよう。諏訪大社の存在、「地響きたてて曳かれる御柱は巨竜のようだ」と岡本太郎が感動して通い詰めた御柱祭のことは言うまでもないが、「京都以上の文化」というのは、諏訪四社を核として長大な時間を貫流している文化総体をも含み込んでいるのかもしれない。もし、この諏訪という土地に折り重なった膨大な時間の源を思うならば、京都という場所は、やはり東京と同じ一つの人為的な都市に過ぎないのであろう。

みなとやの夕食を終えてもう一風呂入った後に、丹前を着込んで秋宮前の大社通りをぶらぶら下り、路傍のベンチに座って夜景を眺めながら缶ビールを飲んでいると、ぽつりぽつりとこの町の人々が行き過ぎていく。ふと見ると手に懐中電灯を持ち、足下を照らしながら歩いて行くのである。夜道は闇のままなのだ。

翌朝出立の時、見送ってくれた女将さんに四社巡りをすると言うと、上諏訪大社の前宮と本宮の間にある資料館を是非見ろと言われた。言われるがまま訪ねてみて、また一驚した。そして文化というものについて何かを突きつけられた想いがしたのであった。これについてはいろいろ込み入った話になるので稿を改めて書いてみたい。

(了)

 

松阪の旅(広告)

松阪旅行の効能のことは、世人のよく知るところであり、一々ここに挙げるに及びませんが、しかるに、およそ旅行と言いましても、方角は同じでも、時期の佳悪により、また行程の精粗により、その効能に格段に優劣があり、これまた世人のほぼ知るところとはいえ、いざ旅に出るに際し、そんなにも吟味することなく、グループ・ツアーともなれば、殊更、時期の佳悪も、行程の精粗も知ろうとはせず、同じ方角ならどれも同じと思い込み、しっかり吟味をしないというのは、粗忽の至りでございましょう。

 

そこで今回ご紹介いたしますのは、過日催行いたしました「松阪うしの旅」、いえ、ウシといっても松阪牛ではなくて、松阪で大人うしたちに出会う旅でございます。

第一日目、まず訪れましたのが、松阪公民館で行われていた『宣長十講』平成29年度最終回、吉田の大人(吉田悦之・本居宣長記念館館長)による「宣長学に魅せられた人々」という講義です。

ここで、吉田大人は、鈴屋の大人(宣長)の「物まなび」が育っていく様子を、宣長の周囲にいた人々の側から、お話ししてくださいました。とりわけ、「松坂の一夜」において縣居の大人(賀茂真淵)に出会い学者として出発する前、宣長の学問の揺籃期における嶺松院会を中心とする松坂の人々の深い教養は、驚くべきものです。豆腐屋、文具店、木綿問屋などの若旦那たちが、昼間の仕事を終え、学問を楽しみにやってくる。宣長と彼らとのやりとりが、手に取るように、目に見えるように語られます。安永年間にタイムスリップしたかのごとし。

たとえば、須賀直見。もと豆腐屋を営み、これを稲懸棟隆(のちに宣長の養子となる大平の実父)に譲り文具店主人となったこの人物は、20代そこそこで、自宅にて、宣長とともに、「二十一代集」の校合会読を始め、さらに「栄花物語」、「狭衣物語」へと読み進みます。もし長命であれば大平ではなく彼が宣長の養子になったであろうと大平自身が後に述懐したとされる直見は、「狭衣」の校合会読を終えたその三日後に、35歳の短い生涯を終えるのです。なんたる学識、なんたる壮烈。普段感情をあらわにすることの少ない宣長も、いづちにいけむ、いづちにいけむ、と何首もの歌を詠まずにいられない。たとえば(注1)

 

我をおきて いづちにいけむ 須賀の子は 弟とも子とも 頼みしものを

 

宣長の嘆きやいかばかりか。直見はまた、「すみれの花をめで、野べに行きて摘みもし、根からも掘り持て来て、庭に植えられし」(大平の述懐)(注2)、などという、おとめちっくな御仁でもありました。その没後20年余、「源氏物語玉の小櫛」の執筆を終えたばかりの宣長は、こう歌うのです。(注3)

 

なつかしみ またも来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも

 

野べに咲く一輪の美しい花に目をとめた晩年の宣長の胸中には、直見と過ごした校合会読の日々が去来したのではないでしょうか。

そして、宣長という存在がなければ、歴史に名をとどめることもなかったかもしれぬ、直見という学問好きの町人の短い生涯もまた、「宣長という独特な生まれつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために周囲の人がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇」(注4)の一幕といえましょう。直見はまだ、生きているのです。寛政9年の宣長とともに、そしてまた、吉田大人を通じて、平成の松阪公民館の私たちの目の前に。

 

ああ、吉田大人とは何たる人物でしょう。俗に「切れば血の出る」云々というけれど、この方のお体からは、どくどくと血潮が流れ出るのではなく、ノリナガ・ノリナガ・ノリナガ……という不思議な音とともに、宣長の全人格とでもいうほかない巨大な何かが、ほとばしり出ているのではないか。いったい吉田の大人はいつの時代の人なのか。いつの間にか、私たちまで、安永年間の松坂に導かれているのではないか。

 

そういえば、鈴屋大人の没後140年、小林の大人(小林秀雄)は次のように書いています。

 

<歴史は決して二度と繰り返しはしない。だからこそ僕らは過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。……(子供に死なれた)母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。……母親の愛情が何も彼もの元なのだ、死んだ子供を今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ。>(注5)

 

どなたか鎌倉に行かれる機会があれば、池田の大人にこう質問してくださいますか。宣長への愛情が、あるいは無私の信頼が、吉田大人をして、時空を超え、宣長に推参せしめているのではないでしょうか。「歴史に正しく質問しようとする」(注6)とは、このような姿をいうのでしょうか。

 

はてさて、初日第一行程のご紹介に紙幅を費やしてしまいましたが、このたび、当社が提供いたしております松阪ツアーは、まず第一に、訪問先を吟味し、いずれも極上のものを選び用い、なおまた、体験コースとしても、奥墓参拝から、「古事記伝」音読に至るまで、いずれも物まなびの道のとおり、少しも手抜きすることなく、念には念を入れ、その効能が格別に発揮されるよう、プログラムしております。かつまた、ご代金も、世のカルチャーセンター並みよりずいぶんと引下げ、売り弘めるものでございます。(終)

 

(注1~3)宣長の和歌と大平の述懐は、吉田悦之氏の講演レジュメから引用。
(注4)小林秀雄「本居宣長」(『小林秀雄全作品』第27巻所収)40頁
(注5)小林秀雄「歴史と文学」(『小林秀雄全作品』第13巻所収)211・212頁
(注6)小林秀雄「本居宣長」(『小林秀雄全作品』第27巻所収)59頁

(了)

 

宣長を体感する旅

「そんなこんなで1時間ですね、どんどんしゃべっちゃうもんでね」

講義が終わりに近づき、吉田悦之館長がこう言われたとき、受講者の方々から笑いがおきたが、私はその笑いで、あっという間に時が経過していたことに気づいた。

さかのぼること4時間前、勤めている学校の補習授業を終えたその足で、東京駅から新幹線に飛び乗った。松阪駅からタクシーを飛ばしてもらって、会場である松阪公民館にすべりこんだのがちょうど14時。すでに会場は満席だったため、隅にあったパイプ椅子をそっと出して、息を切らせながら着席した。そこまでして今回の松阪行きを決めたのは、吉田館長の「宣長十講」を拝聴したかったからである。

館長の講義は、宣長がどのように生きてきたかだけでなく、その当時の人々の暮らし、息遣いまでが想像できる内容で、まるで時間旅行をしているようだった。

 

宣長といえば、古文の授業では『玉勝間』や『源氏物語玉の小櫛』などを題材にする。今年のセンター試験でも『石上私淑言』が出題されたが、大学でも毎年、入試問題として多く出題される。私は中高一貫校で国語を教える身であるが、授業中はどうしても文法事項や意味理解が主となってしまい、文面の背景にある考え方を深く追うこともなく時間が過ぎていく。吉田館長の講義の余韻に浸っていた私は、はっと自分のことを振り返り、「生徒たちにとって私の授業はさぞかし長いものだろう……」と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

2日目には本居宣長記念館の収蔵庫を拝見する機会に恵まれ、館長からたくさんの資料を見せていただいた。そこで驚いたことは、宣長の字の細かさと丁寧さである。電気がなく明かりと言えば蝋燭だけの時代に、しかも筆字である。この文字を見たときに、ふと随筆『玉勝間』の一節が思い出された。

―常に筆とる度に、いと口惜しう、言ふかひなく覚ゆるを、人の請うままに、面なく短冊一ひらなど、書き出でて見るにも、我ながらだに、いと見苦しうかたくななるを、人いかに見るらむと、恥づかしく胸痛くて、若かりし程に、などて手習ひはせざりけむと、いみじうくやしくなむ……。

現代語に訳してみればこうなる。

―いつも筆をとるたびにとても残念で情けなく思われるのだが、人が望むままにあつかましく短冊一枚など、書きしるしてみるにつけても、自分自身でさえとても見苦しくみっともないので、人はどのように見ているのだろうと恥ずかしく胸が苦しくて、若かったころになぜ習字をしなかったのだろうと悔やまれてならない……。

授業でこの部分を扱うと、「宣長さん、すごい人なのに字は下手なのね」と反応する生徒もいれば、「謙遜しているんだよ、そんなこと言っている人に限って字が上手なんだから」という生徒もいる。ただ、この丁寧な字を見る限り、「恥づかしく胸痛く」なるほど字が下手だとは思えなかった。国語の便覧や解説書のようなものをみても、当然のことながらそれに関する記述は見当たらない。そもそも受験指導とは関係のない内容だからだろう。しかし、それを知ることで、古典への親しみがわくのは確かだった。筆者を知ることで古典の世界がさらに広がるからである。昨日の「宣長十講」の惹きつけるようなあの講義。1時間をあれほど短く感じさせることのできる吉田館長だったら、どういう返答が返ってくるのだろう。私は思いきって聞いてみることにした。

「いや、それはね、本当に字が下手だと思っているんだと思いますよ、大きな字を見てごらんなさいよ、ほら、勢いがないの。しかも震えているでしょう?……」

記念館にあるスクリーンを拡大してみせ、わかりやすく説明してくださった。ふう~んとこちらが納得して話が済みそうになったとき、思い出したかのようにこうおっしゃった。

「あとね、謙遜とか、そういう、心に思ってないことを口に出すってことはね、彼はしないと思いますよ……」

小林秀雄は『本居宣長』の中で、

―実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。

と述べている。まさにそこに書いてあることが、宣長の全てであり、「謙遜」などの余計な解釈はいらないのである。そして館長の言葉は、いかに私自身が解釈だらけで日々過ごしているかを思い知らされる言葉でもあった……。

 

「……もうひとつ、館長、お聞きしたいんです。蘭学について宣長は医者としてどのように、思っていたのでしょうか?」

前野良沢とは人を介して手紙のやり取りをしたそうだが、宣長は悪いところを切ったり、切ったところを縫ったりする西洋医学とは距離を置きたいと考えていたようである。それよりもまずは「元気」(人が本来持っている治癒力)を高めることのほうが大切だと考えている人だった、と分厚い文献を見ながらご教示いただけた。現代の医学で、ある意味問題視されている部分を、的確に言い当てている宣長の考え方にますます感服したのである。

この話を聞いて、池田雅延塾頭がおっしゃっていたあるエピソードを思い出した。

「小林先生はね、自分がちょっとでも風邪ひいたかな? と思ったら、とにかく寝るの。どんなに高熱が出ても西洋医学の薬はいっさい服まず、うんうん唸りながらも部屋を暖かくして蒲団をかぶり、自分の身体が回復するのを待つんだよ」

これこそ宣長のいう「元気」に基づいた小林秀雄の行動であろう。西洋医学の薬は服まなかったといわれる彼は、自身の治癒力を信じていたのである。

 

吉田館長の話しぶりは、あくまでも客観的かつ冷静で、自分の想像だけで発言することはない。だからこそ、その背後に宣長がいるような、宣長が自身の思いを吉田館長に言わせているような、そんな気がしてならないのである。

幸運にも2日間とも天候にめぐまれ、タクシーの車内や宣長記念館、街中を歩いていても松阪の人々の優しさにふれた。また、松阪は食べ物も素晴らしい場所。このような場所で長い年月をかけて、名もなき人々が精神の研鑽を積み、その中のひとりとして宣長が生まれたのは必然であるように思われた。

(了)

 

松阪へ、『恩頼図』の中へ

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした―」

三月十七日、松阪公民館で本居宣長記念館・吉田悦之館長のお声が響いた。『宣長学に魅せられた人々』と題し、宣長さんを巡る人々を約三十名も登場させたご講義終盤のことだった。江戸時代の松坂へと誘われタイムスリップした気分で、ふと資料最終ページの『恩頼図』を見ると、図の中央部の円がすうっと球体に膨らんだように見え、はっとした。

この『恩頼図』は、宣長さんの学問の系譜を表し、上中下と三つに分かれた瓢箪のような形をしていて、次のように名前や著作名が書かれている。

上部…先人や師の名前(堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家など)

中央…宣長さんの位置を示す円のみが中央に描かれている

下部…門人や著作の名前(棟隆、直見、大平、道麿、千秋、『古事記傳』、『玉勝間』など)

宣長さんの死後、養子の大平おおひらが門人に頼まれ図示したという。上部には十五、下部には六十二もの書き込みがあるが、中央の宣長さんの部分は空白になっている。その真っ白い平面の円がすうっと膨らむように見えたのだ。

 

ご講義の中で、吉田館長はこの『恩頼図』に書かれた人々の生身の声を、書簡や文献をもとに生き生きと蘇らせていかれた。

上部に書かれた師の堀景山は「この男は見所があるぞ」と直観し、『日本書紀』や契沖の『百人一首改観抄』を貸し与える。賀茂真淵は生涯一度の対面ながら、「万葉集を直接教えてやりたい。江戸に抜け出してこい」と訴え、自身の学問の継承を望む。

下部に書かれた門人は宣長さんの元に次々と押し寄せる。松坂の嶺松院歌会では、いながきむねたかが「なぜ人は歌を詠むのか、もののあはれとは何か」と問う。田中道麿は美濃から松坂まで一晩中歩いてきて「直接質問できたおかげで、生まれ変われた」と歓喜する。

横井千秋は「『古事記伝』を理解できたわけではないがこの世に広めたい、これこそ大事だ」と私財を投げうって刊行費を出資する。ほうらいひさたかは『古事記伝』を書き写し「古典の注釈でこれほど詳しく考えた人はいない、尊い世の宝となるはずだ」と確信する。

一方で、儒者のいちかわかくめいは、『古事記伝』の「なほびのみたま」の草稿「みちといふことあげつらひ」を批判した『まがのひれ』を刊行する。宣長さんは『くずばな』を書き、「『古事記伝』の中で都合の良いところだけ持っていくのは駄目だ、すべて是かすべて非かどちらかだ、『直霊』が分からなければ駄目なのだ」と激しく反論する。

小林先生は『本居宣長』第二章でこう書かれている。

「或る時、宣長という独自な生まれつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである……」

吉田館長もこの部分をご講義冒頭で読み上げられ、「まさに思想の劇なんです」とおっしゃった。

もう一度『恩頼図』を見ると、思想劇の中心である宣長さんを示す球体は、上部とも下部とも繋がりつつも、動じないような、それでいて内部は動き続けているような量感を感じさせた。

 

「ここが宣長さんの頭の中です」

翌日、吉田館長に記念館の収蔵庫に入れていただいた。厚い防火ドアを抜けると、左手には千数百枚もの版木が、中央や右手には膨大な書物や巻物が並んでいた。ここが『恩頼図』中央の内部……と思った瞬間、ほの暗く静謐な空間の先はどこまでも奥深く続き、その虚空にも多くのものが漂っているように見えた。

ここに飛び込んで小林先生は『本居宣長』を……、そして吉田館長は『宣長にまねぶ』を、池田塾頭は「小林秀雄『本居宣長』全景」をお書きになっている。ここにはどれだけの文字と、それを生み出した目に見えないものがあるのかと思うと足がすくんだ。

吉田館長が貴重な直筆の『枕の山』を開いてくださった。宣長さんが遺言書を書いた後、愛してやまない桜を詠んだ歌を三百首以上も綴ったものだ。その文字はごく小さくあまりに細く、だが絹糸のように生々しいものだった。ふとそこにあるすべての文字が脈打っているように感じた。

収蔵庫を出ると、その脈動に感応するかのように、来館者の方々が陳列ケースのガラスに額を押し当て資料に見入っていた。記念館主催の『古事記伝』素読会では、松阪の方々が難解な古語を朗々と読み上げていた。記念館近くの路上では、散歩中の男性二人が「おや、スミレが咲いてるよ」「これは、何のスミレかな?」と足を止めて語り合っていた。

「あ、宣長さん、須賀直見……」と思った。その姿に、吉田館長のご講義を思い出したのだ。

「須賀直見は『源氏物語』の読み合わせにも最初から参加し、信頼された弟子ですが、三十五歳の若さで亡くなりました。その三日前、宣長さんは枕元で『狭衣物語』を読み聞かせました。『我をおきて いづちにいけむ 須賀の子は 弟とも子とも 頼みしものを』という歌を詠んで嘆いていますが、ここまで激しく感情を表した歌は、ほかにありません。直見は野辺に咲くスミレを掘って庭に植えるほどスミレが好きでした。男性でスミレの花を愛おしむなど軟弱と見る向きもありますが、宣長さんは六十八歳で『源氏物語玉の小櫛』九巻を書き終えた末に、『なつかしみ またも来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも』と詠み、スミレの咲く春野を『源氏物語』にたとえて三十年以上も前に直見と読んだことを懐かしんでいます」

その時、宣長さんの眼差しが浮かんだ。自画像のきりっとした目元とは違ったものが見えた気がした。

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした――」

吉田館長のお言葉が蘇る。

「松阪に行くと、これからの学びが立体的になりますよ」

今回の松阪旅行幹事の山内隆治さんのお言葉も蘇る。『恩頼図』の中央内部で足がすくみはしたものの、宣長さんのことをもっと知りたいと思った。そして、ここ松阪に宣長さんはたしかに生きて、今も松阪のいたるところに……と実感した旅だった。

 

帰途につく前、松阪城址から宣長さんの眠る山室山の奥墓の方角を探し、皆でその方向をしばらく見やった。前日の奥墓でのことを思い出した。

池田塾頭が宣長さんの墓石の前でこうおっしゃった。

「では、しばらくそれぞれ目を閉じて……」

その言葉に、皆の呼吸がすっと揃った。次の瞬間、光が消え、音が失せ、無が広がった。思わずかすかに目を開けると、墓石と山桜の幹が見え、その空間を包むように立つ皆の気配を感じた。ふっと小林先生の『本居宣長』最終第五十章の一節が浮かんで、息がつけ、また目を閉じた。

「死は『千引石』に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来る……此の世の生の意味を照し出すように見える」

第一章では、小林先生はこうお書きになっている。

「彼には塚の上の山桜が見えていたようである」

必ずまた松阪へ、山桜の頃に奥墓へ……と、思っている。

(了)