今、「考える」とは何かを考えてみる

近頃、ChatGPTをはじめとする生成型AI(人工知能)に関するニュースを聞かない日はないと言ってよいだろう。先日、ある生成型AIに関するセミナーへ出席する機会があったのだが、米国の司法試験問題について、最新の生成型AIであれば、上位成績の合格解答を書くことができるという話を聞き、大変驚いた。ある大学教授は、自分のゼミの入室試験問題を試しに生成型AIへ入力してみたら、十分合格レベルの解答が出力されたことに驚き、検討していたオンライン試験を中止したという話をしていた。

また、ある経済誌では、羽生善治日本将棋連盟会長が、将棋の強さはもはやAIが人間を上回っており、人間しかできないことは何か、価値を感じてもらえることは何かということを突き詰めるという、本質的な問いを投げかけられていると述べていた。

今年四月に行われた今年度の山の上の家の塾の初回講義で、茂木健一郎塾頭補佐から生成型AIをめぐって、小林秀雄先生の価値はこの時代にますます増すという講義があったことを改めて思い出した。「考える」という人間が誰しも行う基本的行為が揺らぐような時代が突然やって来たことに、正直面食らっている。そうした心の動揺を抱えつつ、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、この機会に「考える」とは何かということについて考えてみなさいと小林先生に言われているような気がして、今回ここに筆を執ってみた。

 

江戸時代前期の陽明学者、熊沢蕃山ばんざんは中江藤樹の第一の門人と言われるが、師である藤樹の学問の態度についてこう記している。

「家極めて貧にて、独学する事五年なりき。しれる人、母弟妹のあるをしり、飢饉の餓死に入なんことを憐みて、ツカヘを求めしむ。其比中江氏、王子の書を見て、良知の旨を悦び、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをる傍輩にも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集102ページ)

ここに出てくる「良知」とは、陽明学の背骨を成す言葉である。『孟子』においては、人には良知という正邪を直感的に判断し、適切に対応することができる完成された心の働きが生まれながらに備わっているとされた。しかし、その「良知」は私欲といったもので曇っていては自分のものとすることができない。本来自分の中にあるものなのに、その潜む力を引き出し、きちんと動かすことは難しいのである。

この蕃山の藤樹回顧に続けて、小林先生は言う、

「当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は『語孟』を、契沖は『万葉』を、徂徠は『六経』を、真淵は『万葉』を、宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、言わば中身を洞にして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である」(同第27集103ページ)

ここで小林先生は、藤樹のほか、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、賀茂真淵、本居宣長という名前を列挙して、学問界の豪傑だとしている。何故、豪傑なのだろうか。

小林先生は、藤樹の学問の姿勢についてこのように記している。

「『我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ』、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、『卓然独立シテ、倚ル所無シ』という覚悟は出来るだろう。そうすれば、『貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ』、そういう『独』の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、『聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ』という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う『人間第一義』の道であった。従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何による。それも、めいめいの『現在の心』に関する工夫であって、その外に『向上神奇玄妙』なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである」(同第27集100ページ)

ここで小林先生が述べているのは、藤樹の学問の姿勢が、他の誰でもない、藤樹にしかできない、彼自身の責任において行う、独自で、唯一無二の古典の信じ方のことであると思う。

これで思い出したのは、小林先生が「学生との対話」の中で、信ずることと知ることについて、このように述べている一節である。

「僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです」(新潮社刊『小林秀雄学生との対話』46ページ)

この小林先生の話は分かりやすい一方で、とても重要なことを述べていると思う。

今日においても、書物、絵画、音楽といったもののうち、長い時を経て、多くの人々に愛好されてきたものが「古典」と呼ばれているという感覚は多くの人々に共有されていると思う。他方、これらの古典には、様々な解釈や解説が行われてきたこともよく知っている。例えば、美術館へ行ったときには、目的の絵を観るより先に、その脇に付された解説を読んでしまい、その上で絵を観るということが私自身当たり前になってしまっている。このように、誰かによって作られた観点を離れ、自分にしかできない古典との向き合い方をするということは、正直、私にとっては非常に難しいと言わざるを得ない。

藤樹の生きた時代でも、当時の古典をめぐる様々な言説、解釈、その中には大家と呼ばれる人のものもあっただろうし、そういうものも読んで勉強していたはずだ。また、良い学問がしたい、名を成したい、という我欲も生まれたかもしれない。だが、それらは良知の上では心を乱す毒であって、藤樹が書を三年も離れたというのは、毒を抜くための、滝に打たれる修行のような時間ではなかったかと想像する。仁斎、契沖、徂徠、真淵、宣長も、それぞれが彼らなりの毒を抜く、心法を練る時間があったのではないだろうか。だからこそ、他人の拵え物からできた「観点」という膜を脱ぎ捨て、自分の真心で古典と交わり、人の心が持つ本来の力を十全に発揮することで、彼等にしかできない信じ方で古典の読みを行い、古典が持つ本来の力を引き出すことができた。それが宣長の場合には、千年もの間、誰も読めなかった「古事記」を読むことができたということになったのではないか。孤独で真剣な古典との交わりというそれぞれの信じる道を突き詰めることで、普遍に至る。こうした非常に困難で険しい道を行った彼等だからこそ、小林先生は豪傑と呼んだのだろう。

 

生成型AIというのは、膨大なデータやパターンを学習することで、情報の特定や予測ではなく、新しいコンテンツを創造することができるものだという。確かにそれはすごいことだと素直に思うが、小林先生が記した学問界の豪傑達のことや、信じることと知ることについての文章を改めて読んでみて、本稿冒頭に記した茂木塾頭補佐による今年四月の講義の意味がより深く分かったような気がした。学問界の豪傑達、そこには小林先生も含めてよいと思うが、彼らは誰かに聞いたのでも、指示されたのでもなく、自分がひっかかり、疑問に感じたり、感動したりしたという心の動きを素直に感じ取り、その直感から自分の責任において、自分の身一つで対象と真心で交わるということを徹底して実行できた人々だと思う。その直感という端緒は、いくらAIに聞いても、出力されることはない。なぜなら、何を、どうしたら直感するかは、一人ひとり独自のものでしかあり得ないからだ。そう考えると、この山の上の家の塾で課される「自問自答」の深さに驚く。よく問うことが即ち答えであるとも言われるが、まさにどう問うかとは、何に心を動かされたかに自分自身で気づくことから始まる。もしかすると、そういう心の動きというのは、将来、脳を流れる電気信号としてスマートフォンのセンサーなどで簡単に感知できるものになるのかもしれない。しかし、たとえ感知できたとしても、何に心が動くかはやはり人によって異なる、その人自身のオリジナルなものだ。生成型AIといったプログラムやコンピュータなどの機械が考えるという行為を助けるとしても、そのきっかけとなる「気づき」は、いつまでもその人次第でしかないのではないか。誰かの作り物の「観点」を離れ、真心で事物と向き合うための、自分にしかできない「気づき」こそが、考えるという行為の核心なのではないだろうか。

この私の考えは誤っているかもしれない。生成型AIに聞いたわけでもない。ただ、私による、私にしかできない「気づき」から生まれたものであることに間違いないのだ。そういう「気づき」に気づくということに鋭敏になり、これに向き合って考えるということを日々の生活の中で鍛錬することはできるはずだ。現代において、自分の考える力を衰えさせないために、今回とても大事なことに気づくことができたように感じている。

(了)

 

物語の魅力とは

本稿が掲載されている『好・信・楽』は二〇二二年(令和四年)秋号である。日本人にとって秋という季節は、米をはじめ多くの作物が収穫期を迎え、その豊かな実りを大いに味わう「食欲の秋」である(もっぱら私はその口だ)。さらに、「読書の秋」としても知られている。戦後、読書の力で平和な文化国家を築こうと、出版社、書店、図書館などが協力し、一九四七年(昭和二二年)以降、秋に「読書週間」を設け、国民的行事として定着してきた。読書と平和にこのような関係があるとは感慨深い。

一口に読書といっても、試験勉強といった必要に迫られて無理に本を読むのは辛いことだが、秋の夜長、静かに古今東西の物語を読み、その世界に没入できることは、何にも代えがたい喜びであると感じる方も多いことだろう。では、なぜ人は物語に惹かれるのか。そんなことを秋の夜長に考えてみることにしたい。

 

「源氏物語」の第二五帖「蛍の巻」では、長雨に降りこめられて絵物語を読む玉鬘たまかずらと光源氏が物語について話し合う場面がある。宣長はこの場面に作者である紫式部の物語に対する本意が表れていると見て、「紫文要領」で詳しく評釈を書いている。

光源氏は物語に夢中になっている玉鬘をからかい、玉鬘は機嫌を損ねる。これを見て源氏は笑い出して冗談を言う。宣長はここに注目し、

 

「物語こそ『神代より、よにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし、これらにこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給』――作者は、その自信を秘めて現さなかった。源氏君を笑わせなければ、読者の笑いを買ったであろう。『人のきゝて、さては、神世よりの事を記して、道道しく、くはしく、日本紀にもまされる物のやうに思ひて、作れるかと、あざけられん事を、くみはかりて、その難を、のがれん為に、かくいへる也』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集144ページ)

 

「紫式部日記」では、「源氏物語」の読み聞かせを聞いた一条天皇が、作者の紫式部は「日本書紀」を読んだに違いなく、本当に学識があるのだろうと言ったのを聞いた左衛門の内侍が、式部のことを学識をひけらかす「日本紀の御局みつぼね」とあだ名をつけて言いふらしたことについて、式部は侍女の前ですらはばかるようなことを、宮中でするものかと反論する。この「日本紀の御局」は、高校の古典の教科書にも登場する有名な箇所であるが、日記のとおり、式部は「白氏文集」といった漢籍や「日本書紀」の愛読者であり、その読書経験が「源氏物語」に生かされていると考えるのが自然ではないだろうか。

 

「騙されて、玉蔓が、物語を『まこと』と信ずる、その『まこと』は、道学者や生活人の『まこと』と『そらごと』との区別を超えたものだ。それは宣長が、『そら言ながら、そら言にあらず』と言う、『物語』に固有な『まこと』である。此の物語は、『世にふる人の有様』につき、作者の見聞を記したものだが、宣長の解によれば、作者が実際に見聞した事か、見聞したと想像した事かは問題ではない。ただ、源氏君に言わせれば、『みるにもあかず、聞にもあまること』と思った、作者の心の動きを現わす。作者は、この思いが、『心にこめがたくて、いひをきはじめたる也』と。宣長の註によれば、『人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共、これはめづらしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせまほしき物也』、『その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり、されば此物語、物の哀をしるより外なし』」(同第27集144ページ)

 

豊かな読書経験から、物語には、「まこと」と「そらごと」の単なる区別を超えた、物語に固有の「まこと」があるということを式部自身が体得していた、ということである。つまり、式部は一人の愛読者として、種々の物語から喜怒哀楽、いろいろな感情が自分の中で湧き上がる経験を多くしたことであろう。その時、物語に書かれていることが本当か否か、何かの事実を下敷きにしているのかどうか、そんなことは考えの外だったに違いない。物語によって揺り動かされる自分の心の動きをただ素直に見つめていたのではないだろうか。その心の動きは式部にしかない固有の、本当の心の動きであり、これが「もののあはれ」である。そうした重大な経験に基づいて、式部は自分も人に語りたい、伝えたいことを、しっかりと他人に届けたいと考え、心を込めて「源氏」という物語を書き上げたのだとは考えられないだろうか。

 

宣長は、「あしわけ小舟」で「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と端的に記しているように、何とも言い難い心の動きを捉えて、自分でも理解し、他人に伝えるには「歌」という形を採ることが最も的確ではないか。小林先生はこう記している。

 

「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。」(同第27集261ページ)

 

こうした考えを式部も持っていたのではないか。だからこそ、人の心の動きを捉える最初で、直接的な形式である歌を中心にした歌物語を、詞花言葉を駆使して作り上げることで、他に類を見ないめでたき器としての「そらごと」が生まれたのではないか。ただ、その器に盛られている「まこと」はその物語にしかなし得ない、本当の心の動きなのである。

 

「物語は、どういう風に誕生したか。『まこと』としてか『そらごと』としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が『物のあはれ』という言葉の姿を熟視したように、『物語る』という言葉を見詰めていただけであろう。『かたる』とは『かたらふ』事だ。相手と話し合う事だ。『かた』は『言』であろうし、『かたる』と『かたらふ』とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし』と言ったのである」(同第27集181ページ)

 

宣長も式部同様、一人の愛読者であった。だからこそ、物語に書かれていることに余計な分析を交えず、素直な信頼の情に基づいて、時を超えて式部と語りあうことができた。それ故、およそ八〇〇年も前に式部が「源氏物語」に込めた「もののあはれ」という「まこと」が、宣長の心にもきちんと再生されたのではないだろうか。

 

ところで、「そらごと」の「まこと」は物語により異なる。とすれば、他人を憎んだりするような、いわば「あしきまこと」を呼び覚ます「そらごと」もあるのだろうか。

私は、それはあると考える。正直に言えば、私自身、人を憎いと思ったことがあるし、そうした感情を持ったことがないという人は稀だろう。「そらごと」次第では、「あしきまこと」が読者の心に生じることは十分あり得ることではないか。では、こうした自分の感情とうまく付き合うにはどうしたらよいのだろう。

 

自分でも確信を持った答ではないのだが、一つ考えられるのは、愛読者であることを続ける、ということではないだろうか。良きにつけ、悪しきにつけ、物語を読むときに自分の中に生じる心の動きが、「そらごと」によるものだとは自覚できるはずだ。そうでなければ空想と現実との区別がつかず、生活することができなくなってしまう。「そらごと」から生じた自分の心の動きを受け止め、なぜそう思ったのかと自分を見つめ直し、受容していく。それは経験を積むことで、よりうまくできるようになると考えられるから、愛読を続けていくことが大事と思われるのだ。つまり、「あしきまこと」に流されてしまうのではなく、反面教師として学び、善く生きるために生かすことができるのではないか。その前提として、人は善なる方向に進みたいと思っている存在である、と信じたいのだが。

 

つらつらと書き連ねてきてしまったが、人が物語に惹かれるのは、そらごとのなかに、良くも悪くも本当の自分の心の動きを捉え、より善く生きたいと願う存在だから、というのが私の結論である。だからこそ、洋の東西を問わず、紙でできた本が液晶画面に変わっても、今日も人々は物語を読み続けているのではないか。この世界には病気や暴力、貧困に苦しんでいる人々がたくさんいる。しかし、私が考えるように人間が物語を必要とする存在であるならば、もう少し希望を持ってもいいのではないか、とも思うのである。

 

(了)

 

宣長と真淵、二人の分かれ道

先の見えないコロナ禍が続き、旅というものに出られなくなって久しい。いきおい、過去の旅を思い出すことが増えた。

私にとって印象深い旅の一つが、二〇一七年(平成29年)十月に池田雅延塾頭と塾生で訪れた三重県のことである。人生で初めて三重を訪れたその週末の二日間はあいにくの雨模様であった。旅の初日には池田塾頭も登壇された「宣長サミット」を傍聴し、県立美術館の「本居宣長展」を観覧した。その夜の当時の本居宣長記念館の吉田悦之館長を交えた宴も大変楽しいものであった。そして、二日目はかねて訪問してみたいと熱望していた松阪の鈴屋遺蹟、妙楽寺の裏山の墓所、本居宣長記念館を訪れることができた。特に、雨に煙る墓所は、「ああ、ここが『本居宣長』の冒頭、絵付きで紹介されているお墓か」と深い感動を覚えたことをはっきりと覚えている。

その松阪で、生涯にわたる出会いをしたのが、本居宣長と賀茂真淵である。「松坂の一夜」として有名なこの出会いを経て、宣長は真淵への入門が認められ、宣長が求めていた「古事記」の研究に向け、「万葉集」を通した古語についての質疑を真淵が受諾した。宣長は憧れの師に入門を果たし、真淵は最大の弟子を得たのだ。しかし、この二人の歩む道はその後大きく分かれていく。最大の分かれ道は「古事記」の読みであった。

 

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第一章に記しているとおり、この本を思想劇として書かれた。私にしてみれば、一種のミステリー小説を読むような、どきどきした気持ちにさせられる。魅力的な数多くの謎がちりばめられており、読者はその謎に引き込まれ、ああではないか、こうではないかと自問自答に導かれるのだ。あの松阪への旅を思い出しながら、山の上の塾への入塾以来、何度手にしたか分からない煤けた付箋だらけの「本居宣長」をまた手にした時、真淵と宣長という、二人の師弟の分かれ道という大きな謎が私を誘っているように感じられた。

 

真淵は一七六九年(明和6年)、「松坂の一夜」から六年後に没した。小林先生は、その真淵の晩年を「万葉集」との戦いに明け暮れたと記す。

「万葉の歌はおよそますらをの手ぶり也」(「にひまなび」)として、「『高きところを得る』という彼の予感は、『万葉』の訓詁という『低きところ』に、それも、冠辞だけを取り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集227ページ)

一方、宣長は「定家卿云、」という契沖の残した言葉をそのとおり実践し、「源氏物語」の美しい言葉が伝えるままを素直に受け取って、自ら味わい尽くすということから決して外れることがなかった。こうして、その一途な「源氏物語」の愛読からは、「物のあはれを知る」ということについての開眼が得られた。

 

この真淵と宣長について、小林先生はこう記す。

「二人は、『源氏』『万葉』の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。『万葉』経験と『源氏』経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった」(同第27集230ページ)

二人のそれぞれひたすらな熟読の態度は、一見すると同じようなところに至ったのではないかというようにも思える。しかし、実際はそうではなかった。「古事記」の読みに至り、それは明らかになった。つまり、冒頭にも記したとおり、真淵には読めず、宣長には読めた。この差はどこから来たのだろうか。

 

差の予兆は、真淵の「源氏物語」に対する態度から見えていた。真淵は「源氏」を物語であって和歌ではないと捉え、「只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」(同第27集187ページ)という態度を離れようとはしなかったのである(*)。しかし、そう言いながらも、真淵ははっきりと「源氏」を軽んじた。「伊勢物語」「大和物語」の下位に立つ、「下れる果」とした。さらに、

「『万葉』の『ますらをの手ぶり』を深く信じた真淵には、『源氏』の如き『手弱女のすがた』をした男性の品定めは、もとより話にならない」(同第27集187ページ)

ここから窺えるのは、真淵の観念であり、決めつけである。作品には序列をつけ、自分が「万葉集」の語釈から発見、獲得したと信じた古代の言葉の読み方のモノサシにこだわる態度である。

では、宣長はといえば、「可翫詞花言葉」という態度を貫いた。「源氏物語」「万葉集」そして「古事記」でも徹底してこれを実践したのである。態度はモノサシではない。だから、時と場合や文脈により変化する言葉の変幻自在さにも柔軟に対応することができた。             

 

「古事記」の読みについて、小林先生は二人の差を明快に記す。

「見たところ同じような解を比べて、二人の仕事から、その内容を推してみると、言語に対する両人の態度の相違が浮かび上って来る。或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方が、真淵には見られないのである。真淵には、神の古義はかくかくのものと、分析的に規定してみせるところで、足を止め、言葉の内部に這入り込もうとしないところがある。言ってみれば、『万葉』の鑑賞や批評で、充分に練磨された筈の、その素早い語感が、此処では、ためらっている。では、何が、彼の鋭敏な語感の自由な動きを阻んでいるか、という事になれば、古道の上で、己れの理想を貫こうとする、彼の意志が考えたくなるだろう。神という古言の、古人の生活に即した使い方の裡に入り込み、その覚束ない信仰を、そのまま受入れて、これにかかずらうというような事は、古道について目覚めた、彼の哲学的意識の許すところではなかった、とも言えようか」(同第28集141ページ)

調べてみると、賀茂神社の末社の神職を代々務めた岡部家の生まれだそうである。真淵は神道の立場から古道を極めようとした。そうした観念的立場が根底にあったことが、「ますらをの手ぶり」に拘泥させてしまったのではなかったのか。そういう思惑や欲が目を曇らせたのではないか。かたや宣長は「可翫詞花言葉」で徹底していた。美しい言葉を味わい尽くそうと必死だった。

「『古事記』という『古事のふみ』に記されている『古事』とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人の意の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は『ふり』と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その『ふり』である」(同第27集349ページ)

宣長は、先ほど引用した「或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方」からぶれることがなかった。だから、「古事記」の言葉から、上古の人々の様々な「ふり」が感得できたのだ。それは、対象を知ろうとする懸命な無私が可能にしたものだ。この無私とは、単に自分を捨てるということではない。真淵の眼を曇らせた手持ちの尺度や観念という自分は捨てても、ひたすらに相手を知りたい、その出会いに心揺さぶられる自分を発見することまでを宣長は忘れはしなかった。これこそが「可翫詞花言葉」を実践する上での大事な急所ではなかっただろうか。

 

宣長は、師と仰いだ真淵の訃報に接し、日記にただ一言、「不堪哀惜」と記した。真淵の、自己の観念に囚われた学問の態度のままでは「古事記」は到底読めなかっただろう。ただ、そういうことを自分に教えてくれたという意味でもやはり師であったという、嘆きや同情や感謝といったものが複雑に詰まった一言であるように私には思える。

 

(*)真淵の「源氏物語」に対する態度については、宣長のそれとの比較も含め、池田塾頭が、「小林秀雄『本居宣長』全景」第三十回(「好・信・楽」2021年秋号)において詳しく論じられているのを参照されたい。

(了)

 

ある友の死

9月に入り、昼間はムッとする暑さに閉口しながらも、朝夕の風に秋の気配を感じるようになった頃、1通の訃報が職場に届いた。ある経済官庁に勤務する同期のI君の死を知らせるものだった。享年47だった。

 

今から20年前、私は初めての係長としてその経済官庁に出向し、これまた初めてとなる法律を作るという仕事をした。「法律を作る」と書いたが、これはやや正確を欠いた表現で、①Aという法律を廃止する、②B~Dという法律を改正する、③A~Dの影響を受け、これらを引用していることで条文番号がズレたりする多数の法律を改正する(霞が関用語で「ハネ改正」と呼ばれるものだ)という内容を1本の法律にまとめる作業に従事した。

この作業は中央省庁に勤務する官僚には避けては通れないものだが、何度やっても慣れない、本当に大変なものだ(付け加えれば、退職までにもう経験したくない)。国会審議に対応することの大変さもあるが、何と言っても大変なのは内閣法制局での条文審査である。

有効な現行法は約2,000本あると言われるが、こうした法体系と矛盾するような法律ができてしまえば、日本社会のみならず、場合によっては世界的に悪影響を与えることにもなりかねない。このため、中央省庁(内閣)が国会へ提出する法律案については、内閣の一組織である内閣法制局の条文審査を受ける必要がある。

具体的には、立法者が意図している内容が適切に条文として表現されているか、使われている用語の意味やそれらの用語から構成されている条文案が既存の法体系と矛盾していないか、などということを一言一句審査されるのである。

また、当時も法律の条文を検索するコンピュータシステムはあったのだが、中央省庁内の閉じたネットワークだけで使えるシステムで、しかも掲載している条文に時々誤りがあるということで、そのままでは条文審査に使えなかった。このため、業界用語的に「黒本」と呼ばれる某出版社の手になる正確な条文が掲載された法律集から必要な条文をコピーし、切り貼りし、過去のこの法律と今回の法律で同じ意図で条文を書き表したいので、過去のこの法律と同じ表現を用います、という「用例集」を作成する必要があった。全体では電話帳くらいの厚さにもなる用例集を人力で作成することは大変な手間であった。

 

こうした内閣法制局に対する作業を総括していたのが、その経済官庁で採用されていた私と同期のI君であった。一連の作業を開始するに当たって、I君と私のいる法案チームで顔合わせをしたのだが、採用後に行われた全省庁合同の研修で一緒になった縁で面識があったこともあり、こちらとしてはある種の気安さと安心感を持っていた。

しかし、そうした私の淡い期待はあっという間に打ち砕かれた。

「説明がまったく論理的ではない」

「意図していることと条文に書かれている内容が合致していない」

「前例としている条文の意味を取り違えており、今回の条文案の前例となっていない」

などと容赦ない指摘を浴びて悶絶し、I君に出された宿題を返すためにタクシー帰りとなることもしばしばであった。正直、「この野郎!」と思うこともあった。

しかしながら、内閣法制局における条文審査にも同行したI君は、我々法案チーム以上に理路整然と、そして熱意のある説明を行い、スムーズな改正作業に大きく貢献してくれた。そんな彼は、自分の役割として当然のことをしたまでという感じで、私や他のチームメンバーがお礼を述べても表情も変えず、特に気にもしない風であった。私はとても同期とは思えない彼の優秀さと落ち着いた物腰、泰然とした態度にいつしか畏敬の念を持つようになっていた。

I君の活躍もあり、無事に法案は法律として国会で成立し、私も親元の役所に戻った。それ以来、仕事上の接点がなく、省庁横断の同期会にもなかなか顔を出せずじまいではあったのだが、彼が国会対応の管理職や中国の専門家として活躍していることは風の噂に聞いており、仕事ぶりの幅の広さに「やはり彼は違うな」との思いを持っていた。そんな矢先の突然の訃報だった。なんでも、昨年秋にガンであることが赴任先の中国で分かり、帰国して療養していたのだという。

 

I君の死を聞き、ここまで書いてきたことが瞬間的に思い出された。いや、脳内に噴き出てきたという方が正確かもしれない。そんな心の動きを感じたのは久しぶりだった。それだけ悲しみが深かった、大きく心が揺り動かされたのかもしれない。

 

小林秀雄先生は『本居宣長』の第十四章で、「明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめをわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」としている(小林秀雄全作品27集151頁14行目から19行目)。

 

私はここを読んでハッとした。宣長さんは、「あはれ」を論じるとき、悲しみを代表的なものだとはしていなかったが、今回I君の死を知った時、まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験したのである。

 

人は誰でも子供の頃には、知ると感じるということが分化をしない、心という完全な認識器官の働きの下に生きることができている。しかし、年を取り、大人になるにつれて段々と「感じる」よりも「知る」という方がより前面に出てきてしまうものだ。それが「大人になる」ということかもしれない。

 

小林先生は続ける。「心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれてウゴく、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わずに保持して行く事が難かしいというところにある」(同27集152頁4行目から8行目)

 

日々の生活は慌ただしい、仕事のこと、家族のこと、お金のこと、病気のことなど、いろいろなことを考えなければ生活はできない。それは、学問と同様、真剣に医業を営んでいた宣長さんも同じだったかもしれない。「あはれ」とは、嬉し悲しと定まりがたい心の動きであり、何かと忙しい日々の生活の中で、心を十全に動かして「あはれ」と正面から向き合うということは宣長さんでも困難だったかもしれない。

 

しかし、宣長さんは「あはれ」をつかみ直す手がかりを得た。それは『源氏物語』との出会いである。歌や物語の表現という具体的な姿を通じて、人は「あはれ」をつかみ直すことができる。日々の生活の中で、バラバラと現れて、消えてしまう「あはれ」ではなく、物語という一筋の脈略の中で人が「あはれ」をはっきりとつかみ直すことができる、物語の力を『源氏』から宣長さんは明確に受け取ったのだ。

 

「彼の『情』についての思索は、歌や物語のうちから『あはれ』という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の『情』と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった」(同27集162頁8行目から12行目)と小林先生は述べている。

 

そして、宣長さんは、「自分の不安定な『情』のうちに動揺したり、人々の言動から、人の『情』の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、『人の情のあるやう』を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示された」(同27集163頁1行目から4行目)という、『源氏』の持つ「あはれ」を尽くした、表現の行き届いた、「めでたさ」に打たれたのだ。

 

大事な友人の死でも、結婚した喜びでも、その時にはこれ以上ないというくらいの心の振幅があって、心に深く刻みこまれたつもりでも、日々の暮らしの中で意外に、薄情なくらいあっけないほど薄れたり、忘れたりしてしまう。

だが、『源氏』は人々にまざまざと情のありようを知らしめる、めでたき器物である。書かれている物語は「そらごと」かもしれないが、その物語を受け取った人に生じる情の動きは「まこと」なのだ。

 

人は忘れるから生きていけるとも言われる。実際、楽しいことと悲しいことを数え上げれば、後者の方が多いかもしれない。だから、忘れるから生きていけるということもあるだろう。しかし、人は『源氏』のような無二の、無上のめでたき器物と交わることで、喜怒哀楽、様々な情の動きが心の中に湧き上がってくる。と同時に、それぞれの人に固有の感情に結びついた思い出も湧き上がってくるはずだ。そういう心の動きの中に、もう今は会えない人々にも会うことができるだろう。そして、また私はI君に出会うこともできるように思う。

(了)

 

本居宣長の冒険

「本居宣長」を読むようになり、2年半が過ぎた。この随筆を書くに当たり、最初の自問自答を読み返してみたが、何とも浅薄な理解で上滑りのものであり、赤面の至りである。といっても、今日現在それほどの進歩はしていないかもしれないが、自分なりの楽しみを見つけて読めるようになったと思う。

 

小林秀雄が書くように、この「本居宣長」は壮大な思想劇だ。いや、むしろミステリー小説であるとさえ言ってよいだろう。随所に謎が埋め込まれ、何とか解いたつもりが、また次の謎に呑み込まれるといった具合だ。そんなところに楽しみが感じられるようになってきたわけだが、とりわけ大きな謎と言えるのは、何故本居宣長が「古事記」を読むことができたのか、であろう。

 

宣長は「古事記」に書かれた、全ての語は稗田阿礼が発した言葉を漢字で表したもの、さらに言えば天武天皇が発した神代の物語の数々を阿礼が覚え、その記憶を太安万侶に語り、記録されたものだとした。読み方のマニュアルといったものはなく、大昔に録音や録画もあるわけがない。いきおい口承しかなかったわけだが、それも間もなく途絶え、本居宣長に至るまで約1,000年もの間、誰にも読めなかったわけだ。それが何故、宣長には読めたのか。

 

この行為は、エジプトのロゼッタストーンの解読に成功したジャン=フランソワ・シャンポリオンと同じであったと言えるかもしれない。私はこれを「思い込み」とさえ言ってもよいと思う。なぜなら、それを証明できる客観的な証拠がないからだ。私にはこう読めると思う、主観でしかないからだ。しかし、これを小林は、

「『古事記序』は、当時、大体どういうような形式で、訓読されていたか、これを直かに証するような資料が現れぬ限り、誰にも正確には解らない。まして、どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.343~344)

と書いている。冒険! なんと的確な言葉であろうか。

 

私は普段、国家公務員として中央省庁で働いている。世にいう官僚である。官僚と聞くと、人はどんなに理屈っぽい奴かと思われるかもしれない。確かに、政策、法案、予算などの立案と執行、政治家をはじめとするさまざまな外部の関係者との調整には、統計など各種のデータを用いながら説明や説得をするということが重要である。しかし、そうした客観性のある仕事をしているはずなのに、いざ「2番じゃダメなんですか?」などと問われると、とたんに説明に窮し、バタッと倒れてしまうのは何故なのだろうかとかねがね不思議に思っていた。それが、この小林が指摘する宣長の「冒険」という言葉に当たり、ハッとした思いがした。

 

(自分で言うのもなんだが、)官僚というのはいわゆるお受験エリートだ。試験が得意で、「ここにデータがありました」「あそこにこんなことを言う学者がいました」などと既に存在する何かを見つけてくることは得意な人種の集まりである。さながら、霞が関はgoogle人間の集団みたいなものかもしれない。また、理屈をこね、調整をすることも得意なので、一応答えらしいものを作り出し、それで政治家や関係者を説得したりして、こうすれば何とかなるだろう、という雰囲気を醸成することはできる。

 

しかし、今日直面している様々な「答の分からない問」や「答のない問」に、ゼロから答を生み出すこととなるとどうだろうか。少子高齢化をどう食い止めるか、自治体消滅の危機からどう抜け出すか、新興国との競争にどのように勝ち抜いていくか。先に解いてくれた先達のいない、日本が世界で最初に答を見つけていかないといけない難問、いわゆる国難だ。最後に決めるのは政治としても、こうした難問にまずは答案を作成する責任は官僚にあるだろう。しかし、それが十分にできてはいないのが実情だ。

 

とは言え、私は何も「これだ!」という思い込み≒冒険が必要だとして称揚したいのではない。それでは「アメリカ人は弱虫だ」「ソ連が和平を仲介してくれるだろう」などと、自分たちの都合のよい思い込みや願望に基づいて国を誤らせた軍部をはじめとする大日本帝国の官僚機構と変わらなくなってしまう。

 

ひるがえって、宣長の「古事記」の解読を考えてみると、地道な資料の収集と主観を排した冷徹とも言える分析の行きつく先に、冒険という名の跳躍があるのではないか。それこそが宣長に「古事記」を解読することを可能とした原動力なのではないか、ということに思い至る。そして、その根底には宣長の私(わたくし)を排した透明な心と、知るためにどう問うかは自分次第との確固とした意志の存在があったはずだ。

 

小林はこう述べている。

「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ」(同第27集p.349)

 

これは大変なことだ。実証や分析を超えた冒険に飛び込むタイミングを誤り、それが早すぎれば、単なる思い込みや願望と変わらなくなる。官僚が安易に行えば国を誤らせるかもしれない。しかし、主観を突き詰めれば客観になるというような境地に至るまでに考え抜かなければ、誰も解いたことのない問への答をつかむことなど到底できないのではないだろうか。

 

しかし、どうすればそんなことができるのか。それは、やはり考えて考え抜く、ということしかないのではないか。これだけ変化のスピードが早い今日において、じっくりと考えるということは本当に難しい。いろいろなことをコンピュータに任せることができても、それは与えたデータの処理しかしてくれない。何故なら、コンピュータにはデータを超えた跳躍、冒険ということはできないからだ。だから、コンピュータに任せられることは任せるにしても、現在の日本を取り巻く様々な難問には、真摯に向き合い、時間をかけて考え抜くしかないのだろうと思う。一人の人間だけではとても無理だし、世代をまたぐような時間がかかるかもしれない。それでも考え抜くことを受け継いででも、考え続けるしかないのだろう。

 

その営為の先に、こうではないか、という一筋の光のような理屈と仮説が見えてくるはずだ。小林はこうも述べている。

「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。(中略)歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない」(同第27集p.350~351)

 

無論、官僚は歴史家ではない。だから、全く同じということはないかもしれないが、これまでの役人生活での実感から言って、考え方の枠組みに大きく異なることはないように思う。この小林の言を官僚に置き換えれば、全力で様々な国民の考えや生活に思いを巡らす、思い込みや主観を捨て、透明なまっすぐな心持ちで理解する。それこそが己を知り、本当の意味で国民を知る、ということになると言えるのではないだろうか、と。(これは政治家にも求められることだろう。)

 

コンピュータやインターネットといった様々な技術の発達は、これまで埋もれていた膨大なデータの把握を可能とし、こうした「ビッグデータ」を分析することで、私たちの生活はより一層豊かで、便利になるはずである。しかし、実際の私たちは、こうしたとても一人の人間には理解と処理の不可能なデータの奔流に翻弄され、考えること自体がどんどん疎かになっているのではないだろうか。そう思えば、小林の言う歴史を知ることとは何か、さらに言えば考えることとは何か、ということは、現代に生きる私たちすべてに等しく突きつけられている、我が事として考えなければいけない大きな宿題になっていると思うのだ。

 

また、現代の人々の多くは、老若男女を問わず、学校や会社、あるいは家庭でも、宿題、課題、ノルマといった期限のあるものに追い立てられて生活をしている。そんな中で考えに考え抜くという行為の実行自体が非常に困難だ。時間をかけて考え抜いて、「こうだ!」という主観的な答が普遍性を帯びる客観的なもの、つまりは「正解」に至るという経験は自分にはできないかもしれない。しかし、とても答の出なさそうな問でも、あきらめずに考え続ければ必ず答は出る。それを可能とするのは自分次第なのだ、それを少なくとも実行した本居宣長という人間がいたということを知っていることは、人が生きていく上で大きな希望ではないだろうか。宣長と小林はその大事さを教えてくれているように私には思える。

 

※本稿はあくまで個人としての見解であり、所属する組織とは一切関係ありません。

 

(了)

 

歌を詠み、いにしえにつながる

新年間もない2017年1月8日。冷たい雨の中、私は東京・天王洲アイルにいた。1年前に亡くなった英国のロックスター、デビッド・ボウイの世界巡回中の大回顧展が日本での初日を迎えたのだ。歌舞伎や京都を愛し、山本寛斎や大島渚との交流など日本とゆかりの深い彼の展覧会とあって、幅広い世代の熱心なファンが詰めかけ、大変な熱気であった。

私がいわゆる“洋楽”に関心を持ち、10歳で初めて買った洋楽のシングルレコードがボウイの「ブルージーン」という曲で、シンセサイザーやホーンの目立つ華やかな曲調に大人の音楽を感じたものだ。

回顧展にはボウイがライブで着用した衣装、写真、スケッチなど様々な物や映像などが展示されていたが、一際目をひいたのが彼直筆の歌詞や譜面だ。ボウイ自身の手から数々の名曲が綴られた場面が目に浮かぶようで、一体彼はその時何を考え、どんな気持ちで歌詞や音符を書きつけたのだろうと思った。

そこで頭に浮かんだのが、和歌のことだ。音楽好きではあるが、残念ながら音楽の素養が皆無の私には作詞、作曲といったことは到底できない。しかし、自らの気持ちを文章ではなく、何かもっと象徴的なものにまとめてみたいという欲求を漠然と抱いていた。

そんな折、近代日本を代表する批評家、小林秀雄を学ぶ場との出会いがあった。代表作の一つである「本居宣長」を十二年かけて読もうという大変な取組をしているのだが、その学びの中で歌会が行われていると知り、「これだ!」と思ったのだ。

聞けば4年前、「本居宣長」の熟読が始まったばかりの頃、講義の後でひとりの塾生が池田塾頭に尋ねた、もののあわれを知るには、どうすればいいのですか、と。塾頭は、その問いに、和歌を詠むことです、と答えた。このやりとりを傍で聞いたもうひとりの塾生がその日のうちにメールで呼びかけ、あっという間に歌会が発足した。以来、3カ月に一度のペースで会がもたれている、というのである。

記憶をたどれば、中学生か高校生の頃、国語の授業で和歌を詠んだ気がするが、今や何を詠んだのかも全く覚えていない。言うなれば、詠歌の真似事だったように思う。そんな私が改めて詠歌に取り組んでみようと思い、手を挙げて参加したのだが、これが苦しい。「三十一字に収めないといけない」という形式に縛られ、歌会は毎回苦労の連続で正直疲れてしまい、「詠歌ってそもそも一体何なんだ?」と参加を少々後悔するようにまでなってしまった。

そんな折、「本居宣長」を読んでいると、宣長は、人が持って生まれたままの「まごころ」は、事によりうれしかなしと動く、これに対して私たちは、受身で、無力で、私たちを超えた力の言うがままになるしかない、その心の動きを言葉でとらえようとすることで心がしずまっていって歌となり、感情が具体化、客観化され、人生にとっての意味が認識されるのだと言う(第三十七章)。

また、美しい景色を見たり、人との別れがあったり、何らかのきっかけで心が動く。この力は圧倒的で、人はそのなすがままにされているしかないが、何もしなければ単なる心の動揺であり、これを言葉で捉えようとすることで歌となり、その動揺がしずまると言う。自分の拙い詠歌の経験からも「そうそう!」と思わず膝を打った。

さらに、ハッとさせられたのが、この詠歌という行為は、神代の人々が神に出会った直接的な喜怒哀楽の感情を、神の命名ということで表現した行為と同じものだという小林秀雄の言葉だ。小林はこう言っている、神に名前をつけるという行為は、「『事しあれば うれしかなしと 時々に』動いて止まぬ、弱々しい、不安定な、人のまごころという、彼の『まごころ』観の、当然の帰結だったからである」(第三十九章)。

これを読んで気づいた。なぜ詠歌という行為が今日まで絶えることなく続いてきたのか? それは日本人なら朝は「おはよう」と挨拶し、夜は「こんばんは」と挨拶するのと同じように、歌を詠むということは、日本人の歴史の中で当たり前に行われてきた、理屈を超えたことであって、一見神代の時代とは無縁と思える21世紀の私にも自分事として追体験が可能な、まさに日本人の歴史を現代に生きる己れの中に思い起こすことができる行為なのではないだろうか?

この私の気づきを、塾頭に尋ねたところ、大筋ではそのとおりとされた上で、二つ指摘された。

まずは「まごころ」のことで、「まごころ」と一口に言っても、誠心誠意、思いやり、欲望などと、人と時代によりその意味するところは様々だが、ここで宣長が言う「まごころ」とは、人間誰もが生まれながらに有するあるがままの心の意である。この意味での「まごころ」は、時代が移り、人が変っても変ることがない……。

二つめは、神代の神の命名と詠歌は、根源は同じだが何から何まで同じというわけではない。神代の神の命名は、「可畏かしこきもの」(事物、現象、事件)に向かい、畏、恐惶、恐懼などの感情、あるいは認識を言葉にしたものである。歌を詠む気持ち、心持ちがこれと同じならば、今日の詠歌であっても神の命名と同じと言える……。

であれば、詠歌が「もののあはれ」を知る近道とするなら、「もののあはれ」の核心は「可畏きもの」であると理解してよいかと重ねて尋ねたところ、塾頭からは「そのとおりだよ」とうなずきながら返事があった。

私の理解も加えるならば、神の命名というしるしは、より大きな心の動きとしての「もののあはれ」をとらえる歌へと発展した。さらに、歌はより多くの情報伝達が可能な文章となり、それらの集合体としての物語へと発展した。そして、「源氏物語」という日本文学史上の一大傑作を生んだ。

日本人がたゆまず続けてきた、心の動きを残そうという様々な行為の遺産の上に私たちの現在がある。この脈々と続いた大河の源泉には神の命名があり、歌を詠むことを通じて日本人の文化の原点に立ち戻ることができるのではないか? そう思うと、詠歌の意義ということに自分なりの理解と納得が得られ、「よし、改めて取り組んでみようか」と元気が出る気がしたのだ。

外国人の、しかもロックスターであるデビッド・ボウイの展覧会に来て、小林秀雄が論じた詠歌のことを考えるというのも不思議なものだ。しかし、案外両者は似た者同士なのかもしれない、と私は思った。

デビッド・ボウイは、「ジギー・スターダスト」の煌びやかなグラムロック、「ステイション・トゥ・ステイション」のソウルミュージック、麻薬中毒からの復活に苦闘したベルリン3部作(「ロウ」、「ヒーローズ」、「ロジャー」)、そして大ヒット「レッツ・ダンス」に始まる1980年代を代表するポップスター……と、彼のイメージは時代とともに目まぐるしく変化した。

小林秀雄も、ランボオ、ドストエフスキイ、モオツァルト、ゴッホ、本居宣長と論じ、詩人、小説家、音楽家、画家、学者と様々、大批評家が変幻自在に論じ尽くしたようにも見える。でも、ちょっと待てよ。

小林秀雄は己れの人生と真剣に向き合い、まさに一生懸命に生きた人たちを論じ続け、「じゃあ、君たちはどう生きるんだい?」と問いかけ、そういう彼の問いかけが多くの人々をとらえて離さない。デビッド・ボウイも自分がやりたいと思う音楽と真剣に向き合い、作品を作り続けたからこそ、今も世界中でファンを増やし続けている。

二人とも、自分自身にいろいろなものをぶつけてみて考えた人たちで、そこから反射して見えた光は様々だったし、作品に現れた表面だけを見ていると一見バラバラに見えるかもしれないが、その核にある自分というものは終生不変だった。不断に変り続ける、しかし変らない―そうした強さを持った二人だったのではないだろうか。

  Ch-ch-ch-ch-changes      変わるんだ
  Turn and face the strange 振り返って個性に向き合え

Changes/デビッド・ボウイ

(了)