昨年の「『本居宣長』自問自答」においては、生成型AI(人工知能)への驚きを契機として、人にとって「考える」こととは何なのかについて考えてみた。このような根本的な問いは答えの出るものではなく、人生をかけて考え続けるものだと思っている。ただ、そうした重い問いと並行して、小林秀雄先生が記した中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、賀茂真淵、本居宣長といった学問上の豪傑たちのことを思い続けるにつけて、だんだん彼らが世界を席巻するK-POP(韓国のポピュラー音楽)グループのような「かっこいい」存在に感じられてきた。何故彼らはかっこいいのだろう。先回りして言ってしまうと、それは他人や時勢に合わせない、おもねらない、自主独立の道を行ったからだと思う。五十歳を過ぎてもなお、変わっている、天の邪鬼と言われて生きてきた私が彼らに惹かれない訳がない。
と、ややくだけた書き出しになってしまったが、せっかくいただいたこの機会に、彼ら豪傑たちになぜ惹かれるのか、そしてそのかっこよさはどこから来ているのかについて書いてみたい。
当時のいわゆる「学問」とはどのようなものであったか。具体例として、「古今伝授」と言われるものがある。これは「古今和歌集」の読み方や解釈を秘伝として相伝したものだ。当然、当時には録音や録画はないから、口伝や文書で伝えていくしか方法はない。しかし、「古今和歌集」の成立から百年も経つと歌の本文や解釈に疑問が生じ、様々な解釈が行われるようになった。これを、現在の岐阜県郡上市辺りを治めていた東氏の九代当主、常縁が切紙による伝授方法を取り入れた古今伝授の形式を確立したと言われている。
この古今伝授がいかに高い権威を持っていたかを示すのが、以下の戦国時代の逸話だ。東常縁の後、古今伝授はいくつかの流派に分かれるが、慶長年間に細川幽斎が分かれた古今伝授を集大成する。その後、慶長五年(1600)に幽斎は時の智仁親王に古今伝授を始めるが、関ケ原の戦いを控え、幽斎は居城としていた田辺城へ戻る。その城を敵方である石田三成方が包囲した。この時、古今伝授の断絶を恐れた後陽成天皇が勅命を発し、城の包囲が解かれたという。
歴史的なエピソードとしては確かに面白いが、では古今伝授そのものに藤樹らが行った「学問」があったか、と言えばそうではないだろう。古今伝授は、それを行う貴族など高位の者たちが自分たちの特別な地位を保つためのアクセサリーのようなもので、中身ではなく、身につけていること、秘中の秘として代々伝えていくことに重きが置かれていた。
しかし、豪傑たちはそんなことはしなかった。小林先生は言う。
「彼等が、所謂博士家或は師範家から、学問を解放し得たのは、彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集119ページ)
ここに記されている豪傑たちの学問上の態度は、官家や博士家のそれとは全く異なるものであることが分かる。子孫や弟子のためなどではなく、客観主義といった分析めいたものもない。自分の内面から湧き上がる使命感に基づき、歴史からの呼びかけに身一つで応じる姿がそこにある。まるで一対一の真剣勝負のような姿が目に浮かぶ。
「ここで既に書いた徂徠の言葉を思い出して貰ってもいいが、彼は、歴史は『事物当行之理』でもなく『天地自然之道』でもないという、はっきりした考えを持っていた。彼に言わせれば、歴史の真相は、『後世利口之徒』に恰好な形に出来上っているものではないのであった。これは、歴史の本質的な性質が、対象化されて定義される事を拒絶しているところにある、という彼の確信に基く。この確信は何処で育ったかと言えば、それは、極く尋常な歴史感情のうちに育ったと言うより他はない。過去を惜しみ、未来を希いつつ、現在に生きているという普通人に基本的な歴史感情にとって、歴史が吾が事に属するとは、自明な事だ。自明だから反省されないのが普通だが、歴史がそういうものとして経験される、その自己の内的経験が、自省による批判を通じて、そのまま純化されたのが徂徠の確信であった、と見るのが自然である」(同、第27集118ページ)
現代に生きる私でも持っている、人として生きていればごく普通の歴史感情が、彼らが学問へ向かって駆動するエネルギーの核となっているということに素直に感動を覚える。それは私自身も彼らと同じ核を持っているならば、彼らの学問をする姿勢を真似ることはできるように思えるからだ。
一方で、同じようなことができた学者が他にたくさんいたわけではない。小林先生の言う豪傑たちが他の学者と違うことができたのはなぜだろうか。そこに豪傑とそうでない人を分ける秘密があるのではないか。
続けて小林先生はこう記している。
「彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えずに行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る」(同、第27集120ページ)
誰に強制されたものでもない。名を成したいというものでもない。家業のためでもない。ただただ己の身一つで歴史へ真っ直ぐに身を投じるその自発性や内発性から学びに対する強い使命感が生じ、彼らの身体中が緊張で漲っていながらも悦びに満ちていることが感得される。これこそが凡百の学者連中と豪傑を分けるポイントに違いない。小林先生はそう感じ取ったのではないだろうか。そう思い至ることができたのは、他でもない小林先生自身の歴史との向き合い方が彼らと同じだったからではないか。だからこそ、「私は想わずにはいられない」という強い共感を感じさせる言葉を用いて記されているのではないだろうか。私にしてみれば、小林先生が記した豪傑たちのリストに小林先生ご自身を付け加えたい。
翻って考えてみると、自分の人生における学びというのは、受験であったり、進級であったり、資格取得であったり、就職であったりと何らかの具体的利益を目的として行ってきたことが大半だということに改めて気づき、愕然とする。ただ、小林先生の記すような本来の学問の姿に立ち返っていることがあるとすれば、私にとっては読書がそうかもしれない。
暇つぶしのための読書がないわけでもないが、今までの人生を振り返れば、小林先生をはじめとして、太宰治、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、三浦哲郎……自分は何で生きているのか、どう生きればいいのか、そんな時に手に取った本はその後も何度も手に取って、眺めるともなく読んでいることを思い出す。これらの本の中に「答え」が書かれていないことを私は知っている。しかし、これらの本と素直に向き合うたびに、「人生如何に生きるべきか」という答えの出ない問いとともに、前を向いて生きていく力が湧いてきたことが何度もあった。私にはぼんやりとしかできないこの行為をずっと真剣に、一途に持続して実行できたのが、小林先生の言う豪傑なのではないだろうか。
「本居宣長」の中で、宣長の「源氏」による開眼は、研究ではなく、愛読であったという単純な事実の深さを繰り返し思う、とも小林先生は記している。豪傑たちと同じスタートラインには立てても、到底彼らの到達点にはたどり着けない。同じ人間として生まれても、ポップスターにはなれないのと同じように。だが、彼らのかっこよさの秘密は分かったように思える。例え豪傑にはなれなくても、愛読という行為は私にも可能だ。日々の様々な事を言い訳にせず、豪傑たちにまねび、愛読し、考えるということをもっと真剣に行いたい。今年の「読書の秋」をそのまたとない機会にしたい。
(了)