小林秀雄と庄野潤三

小林秀雄の第五次全集に「地主さんの絵」と題する文章が二篇ある。どちらも第四次全集には入つてゐなかつたものである。Ⅰは二頁、Ⅱは一頁にも満たない短い物だが、どちらも地主悌助の画業を讃へる平易な気持のよい文章である。小林秀雄と云ふと、一般には複雑難解な文章を書く批評家と想はれてゐるが、このやうな文章を読むと、その底に直き心とでも云ふべきものを隠し持つてゐた人であることがよく判る。昔、吉田健一がその小林論の中で「小林氏は素朴な人である。悪い時代に生れたとも考へられる」と云つてゐたことが思ひ出される。

Iの文章は、「地主さんの最初の個展が、京橋の丸善であつた時、大根を三本描いた絵を美しいと思つて買つた」と云ふのが書出しである。(京橋は日本橋の勘違ひであらう。)書斎に架けて夫人に感想を訊いたところ、夫人は「おや、この大根二本はが立つてゐる」と云つたと云ふ。小林はこれを受けて、「愚にもつかぬ話を持出すやうだが、写生写実と呼んでいゝ地主さんの画風は、言つてみればまあそれほど徹底したものだ。今日に至るまで少しも変らない。その一貫性には驚くべきものがある」と云つてゐる。

或る日、画家の林武が小林邸を訪ねたとき、地主悌助の石を描いた絵を長いこと黙つて見てゐた。地主とはまるで画風の違ふ林がどう云ふだらうかと思つてゐると、林は一言「魔術だね」と云つたと云ふ。小林は林武のこの言葉を非常に面白いと思ひ、「こんな真つ正直な、一目瞭然たる写実主義も、その実際の技術は、他人にはまるで見透しの利かぬ魔術」なのであつて、本物の大根にが立つてゐれば捨ててしまふだけの話だが、「自然を額縁で限り、その中に、自然とはまるで異質の絵といふ一種特別な世界を創り出してみせる絵かきの技術の本質には、当の絵かき自身にとつても見透しの利かぬものがあるに相違ない」と感想を述べてゐる。

地主自身は、自然は在るがままで充実してゐて、これに修正を加へることなど出来るものではないと云ふ考へ方だつたさうだが、小林は「この考への真実性を証明してゐるのは、その絵だけだと思ふ」と云ふ。この小林の言葉は、地主の絵画だけに限らず、自然や現実そのものとジヤンルを問はず「額縁で限」られざるを得ぬ藝術作品の世界との関係について、その最も基本的な、しかしともすると忘れられがちな真実を語つてゐる。画家や作家の自然観や現実観がどのやうなものであれ、その真実性を保証するのはその作品だけなのである。

地主に関する文章のⅡの方で、小林はこんなことを云つてゐる。―写実をカメラに任せてしまつた現代の絵画は、絵画の世界と云ふ独立国の中で実に多様な審美的機能の発明を競つてゐる。自分は絵が好きだから面白く見てゐるが、その最も面白いものにもしばしば疲労を覚えることがある。「恐らく、これは、実物の世界に抗敵せんとする画家の苦しい意識のうちに、私が、知らぬ間に捕へられてゐる為だらうと思はれる。この点で、地主さんの絵は全く反現代的である。この画家の制作動機には、実物への全幅の信頼がある。絵の如きは実物には到底及ばぬといふ、実物を熟視して育てた彼の確信がある。地主さんの絵の静かな魅力は、そこから発してゐるやうに思ふ。」

拙文をここまで読まれた方の中には、これだけで、なぜ私が表題に庄野潤三の名前を記したか、もうお分りの方もゐるかと思ふ。地主悌助の画業を語る小林の言葉を初めて読んだとき、私にはそれが庄野潤三の文業を語る言葉のやうにも読めたのである。勿論これは小林秀雄と庄野潤三をともに愛読して来た私の自分勝手な、云ふならばアナロジカルな読み方で、当の二人には関係のないことである。もし仮に小林が庄野文学を語ることがあつたなら、こんな風な語り方をしたのではなからうか、さう思つたまでである。因みに、私は庄野氏には生前何度かお会ひしたことがあり、あるとき地主悌助の絵が話題になつたことがある。そのとき熊谷守一も話題に出て、氏はどちらも好きな画家だと云つてゐた。熊谷守一には小林も親しみを抱いてゐた筈である。

私はここまで、小林秀雄は実際に庄野潤三の作品を読んだことがあつたらうか、読んでゐなかつたかも知れない、と思ひながら書いて来た。第四次全集にも第五次全集にも庄野に触れた文章は見当らなかつたからである。庄野には小林の選集「栗の樹」について好意的に語つた文章があり(随筆集「イソップとひよどり」に所収)、庄野はそこで小林を「この詩人批評家」と簡潔的確に云ひ切つてゐる。ここで、私は念のために第五次全集のまだ読んでゐなかつた補巻に当つてみることにした。補巻には本巻に未収録のものが入つてゐることを思ひ出したのである。その結果はと云ふと、何と、あつたのである。補巻Ⅲの「第七回新潮社文学賞選後感」は、本文中に受賞者名こそ出て来ないが、紛れもなく、「静物」で受賞した庄野潤三に対する審査員小林秀雄によるかなり好意的な評価の言葉である。これは嬉しい発見であつた。以下がその全文である。

「これはよい作品であると思つた。静物といふ言葉は、画の方の言葉で、たしかに画に通ずる趣もあるが、画に頼つた風なやり方は少しもなく、確かな純粋な文章の組織がある。作者の考へ方とか物の見方とかが現れてゐるといふより、むしろ作者の手なら手が、差出されてゐるやうで、例へば私が、手相見のやうにこれを見て、たしかな、いゝ手相だと感じるものがあつて、それが、ユニックなものと思はれた。小品といふ言葉も評家として私の心に浮ぶが、それは言葉の惰性のやうなもので、取るに足らぬと考へた。」

いかにも小林秀雄らしい見方で面白い。作品は作者によつて差出された手であつて、批評家は手相見がいい手相だと感じるやうに作品の相を感じ、作者の精神の相まで見抜く。確かに庄野潤三はいい精神的手相をした作家だと私も思ふ。

小林秀雄と庄野潤三に互いに心の疏通のあつたことが判つたところで、もう少し続けよう。

庄野潤三に「自分の羽根」と云ふ随筆作品がある。或る年の正月、外が暗くなつてから小学五年生の娘さんと部屋の中で羽根つきをすることになり、羽根をつきながらこの遊びに改めて感心する一方、そのことがきつかけとなつて自分の文学のあり方について思ひを廻らす話である。この遊びに感心するところはこんな風に描かれてゐる。

「娘と私との間を羽根が行きつ戻りつするのを見ていると、最初は木の部分から先に上つて行き、それがいちばん高いところに達するまでに羽根が上、木が下になり、弧をえがいて落ちて来る。その動きがきれいである。/『いいものだなあ』と思いながら、私は打ち返していた。『われわれの先祖はたしかにすぐれた美感を持つていた。お正月の女の子の遊びに、羽子板でこういうものを打つことを考え出すなんて。まるい、みがいた木の先に鳥の羽根をつけて、それでゆつくりと空に飛び上つて行き、落ちて来るまで全部見えるようにこしらえるとは、よく考えついたもんだ』」

ここで「私」は何とか長く打ちつづけようとして大事なことに気が附く。それは自分が打返すときに、落ちて来る羽根を最後まで見ることだ。これがなかなか難しい。ついうつかりして、最後の一つ手前で眼を離してしまふ。以下は、このささやかな体験から得た作家庄野潤三の決意表明である。

「私はこのことを文学について考えてみた。但し一般論として考えるのでなしに、自分が作品を書く場合について考えてみるので、他人に当てはめようというつもりはない。/私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かで読んだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとつて痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。/私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとつて何でもないことは、他の人にとつて大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである。人は人、私は私という自覚を常にはつきりと持ちたい。/しかし、自分の前へ飛んで来た羽根だけは、何とかして羽子板の真中で打ち返したい。ラケットでもバットでも球が真中に当つた時は、いちばんいい音を立てることを忘れてはならない。そのためには、『お前そんなことを書いているが、本気でそう思つているのか』と自分に問うてみること。その時、内心あやふやなら、その行は全部消してしまい、どうしても消すわけにゆかない部分だけを残すこと。」

庄野潤三の読者なら同意してもらへると思ふが、庄野潤三は生涯「自分の羽根」だけを打返しつづけた作家である。地主悌助を評した小林秀雄の言葉を借りるなら、それは「徹底したもの」であり、最後まで「少しも変ら」ず、「その一貫性には驚くべきものがある」。因みに、庄野文学の深い理解者である阪田寛夫はエツセイ「『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』とその著者」の末尾で「一見さりげなく、実は大変な力業―これが庄野さんの全作品の属性である」と云つてゐる。私には彼のプルウストの「失はれし時を求めて」に因んで、庄野潤三の「全作品」を「過ぎゆく時を留めて」と呼んでみたい気持がある。

阪田寛夫には「庄野潤三ノート」と云ふ一冊にまとまつた庄野潤三論がある。久しぶりに取出して覗いてみたら、第一章に庄野が或る座談会で発言した次のやうな言葉が引用してあつた。

「自分の経験はほんとに取るに足らないものだ、自分が一生の間に見ることは幾らもないものだという気持が私にはあります。それだからといつてその取るに足らない私を離れて、フィクションと称して血の通つていない人間に、流行の観念で色づけして小説を書きたいとは決して思わない。(略)そのこれだけのものを大事にして、もつと何か大きな世界、自己中心でない大きな人生、これは歴史といつてもいいですが、そういう大きなものの中に取るに足らない自分を生かす手だてを見出そうとする努力、これは芸術上の努力だと思うんです。」

私がこの言葉を引用しようと思つたのは、先に引用した「自分の羽根」の補足になると思つたこともあるが、読みながら以下に引用する小林秀雄の言葉を思ひ出したからでもある。

「成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝すといふのが、ものを本当に考へる道なのである、生活に即して物を考へる唯一つの道なのであります。……/空想は、どこまでも走るが、僕の足は僅かな土地しか踏む事は出来ぬ。永生を考へるが、僕は間もなく死なねばならぬ。沢山の友達を持つ事も出来なければ、沢山の恋人を持つ事も出来ない。腹から合点する事柄は極く僅かな量であり、心から愛したり憎んだりする相手も、身近かにゐる僅かな人間を出る事は出来ぬ。それが生活の実状である。皆その通りにしてゐるのだ。社会が始つて以来、僕等はその通りやつて来たし、これからも永遠にその通りやつて行くであらう。文学者が己れの世界を離れぬとは、かういふ世界だけを合点して他は一切合点せぬといふ事なのであります。」(「文学と自分」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集)

小林秀雄と庄野潤三はどちらも私が長年愛読して来た文学者であるが、一見する限り二人の作風は非常に対照的であり、二人を関聯づけて論ずるのは難しいだらうと思つてゐた。しかし私が小林の全作品を読んだ第四次全集には入つてゐなかつた地主悌助に関する文章を第五次全集で初めて読んだことで、或る種の予感が働き、書き始めてみた。出来栄えはともかく、書いて行く途中で新たな発見のあつたことが私にとつては大きな収穫であつた。表に現れた作風はそれぞれでも、自分の生活の実状と藝術表現のあるべき姿を見詰める二人の眼は、根本のところで揺るぎなく交叉してゐたのである。

(了)

 

松原正先生と小林秀雄

「今度の松原の文章はなかなかいい」と、或るとき小林秀雄が云つた。僕が何でそんなことを知つてゐるかと云ふと、松原先生から直接伺つたからである。先生は師の福田恆存から聞いたらしい。福田恆存が何かの用で小林秀雄に会つたとき、たまたま小林は「中央公論」に載つた松原先生の文章を読んでゐて、福田恆存にさう云つたのだと云ふ。先生はその話を僕になさつたとき、羞みながらも嬉しさうであつた。先生は晩年、小林秀雄の仕事に全面的には共感してゐなかつたやうであるが、小林秀雄その人に対する敬愛の念は最後まで揺るがなかつた。

先生は学生時代に縁あつて福田恆存に師事することになつたが、当時は小林秀雄に心酔してゐて、福田恆存は名前を知つてゐるぐらゐだつたと云ふ。それで最初の頃は小林秀雄に会はせてくれと大分師に強請つたらしい。師にしてみればあまり面白い話ではなかつたらうが、それでも師は苦笑ひするだけで、別に嫌な顔はしなかつたと云ふ。先生が学生時代に実際に小林秀雄に会ふ機会が得られたかどうかは聞洩らしたが、何れにせよ、卒業後師の紹介で東京創元社に勤めることになり、そこで念願が叶ふことになつた。当時小林秀雄は創元社の編輯顧問をしてゐたからである。

尤も先生は師に親炙するにつれて狐が落ち、創元社に勤める頃はさほど熱狂的な小林フアンではなくなつてゐたと云ふ。それでも流石は小林だなと思はせられることが何度かあつた。

或る日、先生は特にやることもないので、社の与へられた机に向つてT・S・エリオツトの「古典とは何か」と云ふ本を読んでゐた。小林は二週間に一度社にやつて来たが、たまたまその日が出社日で、先生に「何を読んでるんだい」と声を掛けた。先生が本をお見せすると、「面白さうだな。貸してくれ。俺英語も読めるんだよ」と云ふので、お貸しした。二週間後に「いかがでしたか」と訊いたら、「贅沢なことを云つてやがんな」と云ふのがその返辞だつたと云ふ。

先生は小林のこの返辞に驚き、いたく感服したと云ふ。エリオツトによれば、イギリスの本当の古典文学はイギリスにはなく、古代のギリシアとロオマの文学、特にウエルギリウス、さらには中世のダンテがそれに当る。従つてイギリスの文学者はそれらを研究してそこから養分を吸収しなくてはならない。それがイギリスに於いてヨオロツパの伝統を活かすと云ふことだ。先生の見るところ、我が国にはどう逆立ちしてもそんな伝統はない。にもかかはらず、西洋の文学や哲学を研究する者の中に「贅沢なことを云つてやがんな」と云ふ苛立ちを感ずる者もゐない。先生は、一読でその苛立ちを覚えた小林の鋭敏な感性に驚き感服したのである。

先生は創元社に二年ほどゐて退社なさつたが、その際に鎌倉の小林家へ後輩の編輯者を連れて挨拶に伺つた。晩御飯を御馳走になつたあと、大分聞し召した小林が「おい、モオツアルトを聴かしてやらうか」と云ふので、「お願ひします」と答へると、書斎からSPレコオド用の手巻蓄音機を持つて来て、自分で巻いて、有名な嬉遊曲のメヌエツトをかけてくれた。聴きながら小林が「どうだ、いいだらう」と云ふから、先生が「いいですね」と相槌を打つと、急に小林の顔色が変つて、「てめへらに藝術なんか解つてたまるか」と云つたと云ふ。先生は内心、ほら来た、小林の取巻連中はみんなこれでやられるんだ、と思つたが、どうせ自分は社を辞めるんだし、何も遠慮することはないと思ひ直して、「しかし先生、モオツアルトは藝術のつもりで書いたのでせうか」と口答へした。次にどんな言葉が出て来るかと緊張したが、案に相違して小林は口を噤んで何も云はなかつた。ただ黙つて酒を飲んでゐた。その姿を見たとき、先生はやつぱり小林は偉いなと思ひ、人徳を感じたと云ふ。若造の云ふことでもそのとほりだと思へば一切言訳をしないと云ふのは、さう誰にでも出来ることではない。

僕はこの話を先生から伺つたとき、先生も偉いと思つた。これが俗な心の持主なら、天下の小林秀雄を相手に一本取つたと得意になるところだらうが、そこに相手の偉さと人徳を認めた先生も偉かつたのである。

先生は晩年小林秀雄の仕事に全面的には共感してゐなかつたと先に書いたが、それは小林が晩年本居宣長に入れ揚げて西洋から足を洗つた(と先生に見えた)ことが不満だつたからである。先生は西洋の精神と日本の精神の根本的な違ひを最後まで論じ、その違ひを認識した上で常に両者から眼を離さずにゐることの大事を説いて倦まなかつた。勿論、先生も本居宣長は偉い人だと思つてゐたし、小林秀雄がキリスト教は解らないと告白したことも率直な人徳のなせる業だと認めてゐた。しかし今日の日本の置かれた状況を考へれば、本居宣長だけでは救ひにならないと云ふのが先生の考へであつた。先生が最後に向つたのが、西洋精神と最後まで対峙しつづけた夏目漱石であつた理由はそこにあつた。しかし小林秀雄がドストエフスキイ論を完結させ得なかつたやうに、先生の夏目漱石論も完結はしなかつた。そこに、戦後日本の精神状況を見据ゑつつ、絶えず難問にぶつかつては誠実に考へようとした一人の日本人の、誠実なるがゆゑの精神の苦渋を見るのは決して僕だけではないであらう。

以上、折に触れて松原先生から伺つたいろいろなお話の中から、小林秀雄に関するものに焦点を当ててみた。先生はのちに講演でもここに採上げた話題の幾つかに触れられ、その記録は「福田恆存の思ひ出」の題で先生の全集第二巻に収められてゐる。また、小林がエリオツトの「古典とは何か」を読んで「贅沢なことを云つてやがんな」と云つた「贅沢なこと」については、岡田俊之輔氏が「習慣、伝統、正統―T・S・エリオツトと小林秀雄」と云ふ論文(「英文学」第九十四号)で詳述してゐるので、参照されたい。

―もう何年前になるのだらうか、小林秀雄が亡くなつたとき、或る日松原先生にお会ひすると、先生は「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」と云ふ在原業平の歌を口にされて、「死ぬと云ふのは結局かう云ふことなんだらうね」と感慨深げに仰有つた。勿論これは先生がまだまだお元気だつた頃の話である。先生が亡くなられたと聞いたとき、妙にこのときのことが思ひ出され、業平の歌が数日脳裡を離れなかつた。

(『英文学』<早稲田大学英文学会>第百三号<平成二十九年三月>より転載)

 

【編集部注】

松原正氏は早稲田大学名誉教授、2016年、86歳で死去。専門は英米文学。保守派の評論家としても活躍した。圭書房から全集が刊行中。

なお、本稿の転載については、筆者大島一彦氏の許諾を得ています。

 

「分るとは苦労すること」について

大分以前の話だが、或る新聞の文化欄が小林秀雄の生誕百年を記念して特輯記事を組んだことがあつた。その記事のことを今でも忘れずにゐるのは、その中に小林が生前語つてゐたことに触れた箇所があつて、そのことについて暫し考へ込んだことをよく憶えてゐるからである。

確か見出しだか惹句だかに「分るとは苦労すること」とあつて、小林が生前よく口にしてゐたといふのは次のやうなことであつた―何でも苦労せずに手つ取り早く分りたいといふのは現代の病気で、分るといふことは苦労するといふことと同じなのだ。

このやうな言葉に接すると、大抵の人はこんな風に受止めるのではなからうか―大事な問題はさう簡単に分るものではない、苦労しなければ分らない、その代り然るべき苦労をすれば何れ分るやうになる、と。勿論、私も最初のうちはさう考へたが、もし考へがそこで止つてゐたら、やがてこのことは頭から消えて、この記事のことも忘れてしまつたであらう。

そのうちに、この考へ方はあまりにも常識的に過ぎるのではなからうか、小林秀雄がそんな凡庸なことを云ふだらうか、といふ思ひに捉へられた。すると、こんな思ひが脳裡をよぎつた―小林は、分りたかつたら苦労せよとか、苦労すればきつと分るとか、そんな次元のことが云ひたかつたのではなかつたのではないか、文字どほり、分るといふことは分らうと思つて苦労することと同義だと云つてゐるのではないか、敢へて云へば、苦労した結果分つても分らなくてもいいので、苦労するといふ体験そのものが大事なのだ、その体験が自覚されれば、それが分るといふことなのだ。

これは大袈裟に云へば私にとつて一つの啓示であつた。

或るとき小林の次のやうな言葉が眼に止つた

「凡そものが解るといふ程不思議な事実はない。解るといふ事には無数の階段があるのである。人生が退屈だとはボードレールもいふし、会社員も言ふのである。」(「測鉛Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第集所収』)

小林秀雄の全集はひととほり読んでをり、作品によつては繰返し読んでゐるから、この言葉にも出会つてゐた筈だが、読み流してゐたらしい。これが眼に止つたのは、右の「啓示」を得たあとだつたからである。今にして次の引用文の意味がよく分るのも同じ理由からである。

「骨折り損のくたぶれ儲けといふ事がある。これは骨さへ折れば、悪くしたつてくたぶれ位は儲かるといふ意味である。現実的な骨折りをすれば、くたぶれだつて現実的な内容をもつてゐる。その内容はいつも教訓に溢れてゐる。」(「批評に就いて」、同第3集所収)

小林秀雄の文章が難解だとはよく云はれることで、私も決して易しいと思つたことはないが、最近はさほど難解だとは思はなくなつた。と云ふよりも、これは分らないなと思つても、分らないことが分つたと思ふやうになつたのである。つまり、苦労して得たのは「くたぶれ」だけだつたとしても、それを「骨折り損」とは思はなくなつたと云ふことである。勿論、小林の文章を読むからには、小林の分つたところまで分りたいとは思ふが、分るといふことの「無数の階段」のどの辺に自分がゐるか、問題は常にそこにある。

分ることに無数の階段があるなら、分らないことが分ることにも無数の階段がある。例へば、小林の「モオツァルト」は難しくてよく分らないとは、西洋古典音楽に関する知識が皆無に近い読者甲も、一応の知識があつて主要な作曲家それぞれの曲のイメージが想ひ浮べられる読者乙も云ふであらうが、甲と乙では難しさや分らなさの度合と質がまつたく異る筈である。しかし甲にしても乙にしても、諦めずに苦労して、なぜ自分には分らないのか、その依つて来る原因が摑めたなら、それだけでも相当なことが分つたことになるだらう。少くとも一種の自己認識を得たことにはなるだらう。それなら確かに「教訓に溢れ」た「くたぶれ」を「儲け」たのである。

小林秀雄の文章が一般に難しいと思はれてゐるおそらく一番の理由は、批評文であるのに物事を理路整然と説明してくれる文章ではないところにあると云つてよいであらう。小林の文章は自身の経験を読者と分たうとする、つまり読者の経験と想像力に訴へて直接悟らせようとする。批評的散文で書かれてはゐるが、発想は詩人の発想なのである。従つて小林の文章が分るか分らないかは、読者の方に自らの経験に照して思ひ当る節があるかないか、或は読者の想像力が刺戟されて小林の体験的知覚にまで迫れるか否かに依る。

最近、小林と三島由紀夫の対談「美のかたち」を読返す機会があつたが、これも以前は読み流してゐた次の一節が新たに印象に残つた

「……ドストエフスキイの小説を愛して、何度も読んでるとね、ドストエフスキイの魂のフォームつていふものが判るでせう、ああ、これだ、といふ。それには言葉はないですよ。それを言葉にしようと思ふと、一つの別のフォームの発明を要する……。人に説明するつていふことは、これはフォームを発明する事ではない。人の判断に訴へることなんだから。説明ではダメなものがあるでせう。やつぱりドストエフスキイの精神のフォームを画家みたいに描いて、一目で見えるやうにする工夫が要るわけだな。」

小林は少し前の所でかうも云つてゐる

「フォームはフォーマリズムには関係がないのです。フォームの形式といふ訳はいけないですね。姿と訳した方がまだいい。言葉は詩となる時だけフォームを持ちます。」

のちに小林は「本居宣長」の第三十二章で、荻生徂徠の「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」に触れて、「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」が詩であり、「言語は物の意味を伝へる単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と云つてゐる。

以上の引用文から分ることは、小林自身、散文を書いてゐても、文章表現に働く詩の機能を常に自覚してゐたといふことである。

ところで、これは余談だが、このやうな小林秀雄の文章に、丸谷才一がときどき苦情を云つてゐたのを憶えてゐる。小林の文章は気合で云ひ切つてしまふことの多い文章で、それは散文本来のあるべき姿ではない、かういふ文章を教科書に採用したり、試験問題に使用するのは考へものだと云ふのである。このことについて、長年小林の著作の編輯に携はつて来た新潮社の池田雅延氏から面白い話を伺つたことがある。或るとき何人かの編輯者が小林秀雄を囲んで懇談してゐたが、談たまたま丸谷の発言に及び、皆がまつたくもつて怪しからんと憤りの口吻を漏らすと、当の小林が、いや、丸谷の云つてることは正しい、と云つたので、皆は呆気に取られたと云ふのである。そのとき小林は、まあ、丸谷には俺の文章は分らんだらう、とも云つたさうである。

小林は既に「国語といふ大河」(同第21集所収)といふエッセイで、自分の文章が試験問題や国語教科書に向かないのは「当人が一番よく知つてゐる」と書いてゐたから、編輯者を前にして奇を衒つてみせた訳ではないだらう。それでも往年小林の文章は多くの教科書や試験問題に採用された。その辺の経緯については正直に書いてゐる

「……国定教科書によつてたゝき込まれた教科書神聖の実感は、今もなほ、私の心に厳存してゐるらしく、自分の文章が国語のお手本になるのは名誉なことだと思ふのである。さて、諾否を求められた、こま切れにされた自分の文例がいつも気に食はない。私だつて、もう少しましな文章は、他に書いてゐる、と考へてみるが、こちらからそんなことを進言する筋もない。さりとて、はつきり拒絶する理由もない。とくに、教科書にのるのらぬは、本の売行きにも大いに関係があることを考慮に入れゝば、なほさらのことである。気が進まぬまゝに、放つておくと催促がくる。……えゝいめんだうだ、みんな諾にしておけ、で出してしまふ……。」

余談はさておき、「分るとは苦労すること」といふ言葉に触発されて、以上私なりに苦労してみたが、最後に、特に苦労した訳ではないが何年も掛つて「分るといふことの無数の階段」をほんの少しだけ昇つた話を書いて終りにする。

それは小林が「高野山にて」と「偶像崇拝」(ともに同第18集所収)の冒頭で触れてゐる高野山明王院の「赤不動」に関するもので、小林はこれを「つまらぬ絵」だとはつきり云ひ切つてゐる。園城寺の「黄不動」にも劣るし、青蓮院の「青不動」とは比べものにもならないと云ふ。三十年以上も昔これを初めて読んだとき、私はそれらの絵の存在すら知らなかつたから、ふうん、と思つただけで、そのままになつてゐた。二、三年前、家内が京都に行く用があり、青蓮院にも行くと云ふので、ふと思ひ出し、もし見られたら「青不動」をよく視て、写真を売つてゐたら買つて来るやう頼んだ。家内は、護摩の煙に遮られてよく見えなかつたと云ふ。私は写真を見ただけだが、一応のイメージは得た。つい最近、テレヴィジョンの或る番組を見てゐたら、高野山の「赤不動」が映つた。たまたま録画してゐたので、小林の言葉を思ひ出しながら繰返し視てみたが、何だか顔が漫画のやうであまり怖くない。どちらも本物を見た訳ではないから、小林の言葉が分つたとは云へない。「黄不動」は写真すらまだ見てゐない。今のところこれだけの体験である。存在すら知らなかつた頃に比べれば、三十年以上掛つてほんの少しだけ階段を昇つた訳だが、小林秀雄の言葉の力がこちらの関心を途切れさせなかつたのだと思つてゐる。

(了)