小林秀雄と庄野潤三

大島 一彦

小林秀雄の第五次全集に「地主さんの絵」と題する文章が二篇ある。どちらも第四次全集には入つてゐなかつたものである。Ⅰは二頁、Ⅱは一頁にも満たない短い物だが、どちらも地主悌助の画業を讃へる平易な気持のよい文章である。小林秀雄と云ふと、一般には複雑難解な文章を書く批評家と想はれてゐるが、このやうな文章を読むと、その底に直き心とでも云ふべきものを隠し持つてゐた人であることがよく判る。昔、吉田健一がその小林論の中で「小林氏は素朴な人である。悪い時代に生れたとも考へられる」と云つてゐたことが思ひ出される。

Iの文章は、「地主さんの最初の個展が、京橋の丸善であつた時、大根を三本描いた絵を美しいと思つて買つた」と云ふのが書出しである。(京橋は日本橋の勘違ひであらう。)書斎に架けて夫人に感想を訊いたところ、夫人は「おや、この大根二本はが立つてゐる」と云つたと云ふ。小林はこれを受けて、「愚にもつかぬ話を持出すやうだが、写生写実と呼んでいゝ地主さんの画風は、言つてみればまあそれほど徹底したものだ。今日に至るまで少しも変らない。その一貫性には驚くべきものがある」と云つてゐる。

或る日、画家の林武が小林邸を訪ねたとき、地主悌助の石を描いた絵を長いこと黙つて見てゐた。地主とはまるで画風の違ふ林がどう云ふだらうかと思つてゐると、林は一言「魔術だね」と云つたと云ふ。小林は林武のこの言葉を非常に面白いと思ひ、「こんな真つ正直な、一目瞭然たる写実主義も、その実際の技術は、他人にはまるで見透しの利かぬ魔術」なのであつて、本物の大根にが立つてゐれば捨ててしまふだけの話だが、「自然を額縁で限り、その中に、自然とはまるで異質の絵といふ一種特別な世界を創り出してみせる絵かきの技術の本質には、当の絵かき自身にとつても見透しの利かぬものがあるに相違ない」と感想を述べてゐる。

地主自身は、自然は在るがままで充実してゐて、これに修正を加へることなど出来るものではないと云ふ考へ方だつたさうだが、小林は「この考への真実性を証明してゐるのは、その絵だけだと思ふ」と云ふ。この小林の言葉は、地主の絵画だけに限らず、自然や現実そのものとジヤンルを問はず「額縁で限」られざるを得ぬ藝術作品の世界との関係について、その最も基本的な、しかしともすると忘れられがちな真実を語つてゐる。画家や作家の自然観や現実観がどのやうなものであれ、その真実性を保証するのはその作品だけなのである。

地主に関する文章のⅡの方で、小林はこんなことを云つてゐる。―写実をカメラに任せてしまつた現代の絵画は、絵画の世界と云ふ独立国の中で実に多様な審美的機能の発明を競つてゐる。自分は絵が好きだから面白く見てゐるが、その最も面白いものにもしばしば疲労を覚えることがある。「恐らく、これは、実物の世界に抗敵せんとする画家の苦しい意識のうちに、私が、知らぬ間に捕へられてゐる為だらうと思はれる。この点で、地主さんの絵は全く反現代的である。この画家の制作動機には、実物への全幅の信頼がある。絵の如きは実物には到底及ばぬといふ、実物を熟視して育てた彼の確信がある。地主さんの絵の静かな魅力は、そこから発してゐるやうに思ふ。」

拙文をここまで読まれた方の中には、これだけで、なぜ私が表題に庄野潤三の名前を記したか、もうお分りの方もゐるかと思ふ。地主悌助の画業を語る小林の言葉を初めて読んだとき、私にはそれが庄野潤三の文業を語る言葉のやうにも読めたのである。勿論これは小林秀雄と庄野潤三をともに愛読して来た私の自分勝手な、云ふならばアナロジカルな読み方で、当の二人には関係のないことである。もし仮に小林が庄野文学を語ることがあつたなら、こんな風な語り方をしたのではなからうか、さう思つたまでである。因みに、私は庄野氏には生前何度かお会ひしたことがあり、あるとき地主悌助の絵が話題になつたことがある。そのとき熊谷守一も話題に出て、氏はどちらも好きな画家だと云つてゐた。熊谷守一には小林も親しみを抱いてゐた筈である。

私はここまで、小林秀雄は実際に庄野潤三の作品を読んだことがあつたらうか、読んでゐなかつたかも知れない、と思ひながら書いて来た。第四次全集にも第五次全集にも庄野に触れた文章は見当らなかつたからである。庄野には小林の選集「栗の樹」について好意的に語つた文章があり(随筆集「イソップとひよどり」に所収)、庄野はそこで小林を「この詩人批評家」と簡潔的確に云ひ切つてゐる。ここで、私は念のために第五次全集のまだ読んでゐなかつた補巻に当つてみることにした。補巻には本巻に未収録のものが入つてゐることを思ひ出したのである。その結果はと云ふと、何と、あつたのである。補巻Ⅲの「第七回新潮社文学賞選後感」は、本文中に受賞者名こそ出て来ないが、紛れもなく、「静物」で受賞した庄野潤三に対する審査員小林秀雄によるかなり好意的な評価の言葉である。これは嬉しい発見であつた。以下がその全文である。

「これはよい作品であると思つた。静物といふ言葉は、画の方の言葉で、たしかに画に通ずる趣もあるが、画に頼つた風なやり方は少しもなく、確かな純粋な文章の組織がある。作者の考へ方とか物の見方とかが現れてゐるといふより、むしろ作者の手なら手が、差出されてゐるやうで、例へば私が、手相見のやうにこれを見て、たしかな、いゝ手相だと感じるものがあつて、それが、ユニックなものと思はれた。小品といふ言葉も評家として私の心に浮ぶが、それは言葉の惰性のやうなもので、取るに足らぬと考へた。」

いかにも小林秀雄らしい見方で面白い。作品は作者によつて差出された手であつて、批評家は手相見がいい手相だと感じるやうに作品の相を感じ、作者の精神の相まで見抜く。確かに庄野潤三はいい精神的手相をした作家だと私も思ふ。

小林秀雄と庄野潤三に互いに心の疏通のあつたことが判つたところで、もう少し続けよう。

庄野潤三に「自分の羽根」と云ふ随筆作品がある。或る年の正月、外が暗くなつてから小学五年生の娘さんと部屋の中で羽根つきをすることになり、羽根をつきながらこの遊びに改めて感心する一方、そのことがきつかけとなつて自分の文学のあり方について思ひを廻らす話である。この遊びに感心するところはこんな風に描かれてゐる。

「娘と私との間を羽根が行きつ戻りつするのを見ていると、最初は木の部分から先に上つて行き、それがいちばん高いところに達するまでに羽根が上、木が下になり、弧をえがいて落ちて来る。その動きがきれいである。/『いいものだなあ』と思いながら、私は打ち返していた。『われわれの先祖はたしかにすぐれた美感を持つていた。お正月の女の子の遊びに、羽子板でこういうものを打つことを考え出すなんて。まるい、みがいた木の先に鳥の羽根をつけて、それでゆつくりと空に飛び上つて行き、落ちて来るまで全部見えるようにこしらえるとは、よく考えついたもんだ』」

ここで「私」は何とか長く打ちつづけようとして大事なことに気が附く。それは自分が打返すときに、落ちて来る羽根を最後まで見ることだ。これがなかなか難しい。ついうつかりして、最後の一つ手前で眼を離してしまふ。以下は、このささやかな体験から得た作家庄野潤三の決意表明である。

「私はこのことを文学について考えてみた。但し一般論として考えるのでなしに、自分が作品を書く場合について考えてみるので、他人に当てはめようというつもりはない。/私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かで読んだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとつて痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。/私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとつて何でもないことは、他の人にとつて大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである。人は人、私は私という自覚を常にはつきりと持ちたい。/しかし、自分の前へ飛んで来た羽根だけは、何とかして羽子板の真中で打ち返したい。ラケットでもバットでも球が真中に当つた時は、いちばんいい音を立てることを忘れてはならない。そのためには、『お前そんなことを書いているが、本気でそう思つているのか』と自分に問うてみること。その時、内心あやふやなら、その行は全部消してしまい、どうしても消すわけにゆかない部分だけを残すこと。」

庄野潤三の読者なら同意してもらへると思ふが、庄野潤三は生涯「自分の羽根」だけを打返しつづけた作家である。地主悌助を評した小林秀雄の言葉を借りるなら、それは「徹底したもの」であり、最後まで「少しも変ら」ず、「その一貫性には驚くべきものがある」。因みに、庄野文学の深い理解者である阪田寛夫はエツセイ「『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』とその著者」の末尾で「一見さりげなく、実は大変な力業―これが庄野さんの全作品の属性である」と云つてゐる。私には彼のプルウストの「失はれし時を求めて」に因んで、庄野潤三の「全作品」を「過ぎゆく時を留めて」と呼んでみたい気持がある。

阪田寛夫には「庄野潤三ノート」と云ふ一冊にまとまつた庄野潤三論がある。久しぶりに取出して覗いてみたら、第一章に庄野が或る座談会で発言した次のやうな言葉が引用してあつた。

「自分の経験はほんとに取るに足らないものだ、自分が一生の間に見ることは幾らもないものだという気持が私にはあります。それだからといつてその取るに足らない私を離れて、フィクションと称して血の通つていない人間に、流行の観念で色づけして小説を書きたいとは決して思わない。(略)そのこれだけのものを大事にして、もつと何か大きな世界、自己中心でない大きな人生、これは歴史といつてもいいですが、そういう大きなものの中に取るに足らない自分を生かす手だてを見出そうとする努力、これは芸術上の努力だと思うんです。」

私がこの言葉を引用しようと思つたのは、先に引用した「自分の羽根」の補足になると思つたこともあるが、読みながら以下に引用する小林秀雄の言葉を思ひ出したからでもある。

「成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝すといふのが、ものを本当に考へる道なのである、生活に即して物を考へる唯一つの道なのであります。……/空想は、どこまでも走るが、僕の足は僅かな土地しか踏む事は出来ぬ。永生を考へるが、僕は間もなく死なねばならぬ。沢山の友達を持つ事も出来なければ、沢山の恋人を持つ事も出来ない。腹から合点する事柄は極く僅かな量であり、心から愛したり憎んだりする相手も、身近かにゐる僅かな人間を出る事は出来ぬ。それが生活の実状である。皆その通りにしてゐるのだ。社会が始つて以来、僕等はその通りやつて来たし、これからも永遠にその通りやつて行くであらう。文学者が己れの世界を離れぬとは、かういふ世界だけを合点して他は一切合点せぬといふ事なのであります。」(「文学と自分」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集)

小林秀雄と庄野潤三はどちらも私が長年愛読して来た文学者であるが、一見する限り二人の作風は非常に対照的であり、二人を関聯づけて論ずるのは難しいだらうと思つてゐた。しかし私が小林の全作品を読んだ第四次全集には入つてゐなかつた地主悌助に関する文章を第五次全集で初めて読んだことで、或る種の予感が働き、書き始めてみた。出来栄えはともかく、書いて行く途中で新たな発見のあつたことが私にとつては大きな収穫であつた。表に現れた作風はそれぞれでも、自分の生活の実状と藝術表現のあるべき姿を見詰める二人の眼は、根本のところで揺るぎなく交叉してゐたのである。

(了)