ブラームスの勇気

「私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった」と、彼は足掛け五年にわたった「ゴッホの手紙」の最終章最終節に書いているが、この作品の構想と執筆には、いくつかの紆余曲折がある。

小林秀雄が「烏のいる麦畑」の複製画を観た「泰西名画展覧会」は、読売新聞社の主催、文部省の後援で、昭和二十二年三月十日から二十五日までと、翌昭和二十三年二月二十五日から三月十五日までの二回にわたって東京上野の都美術館で開催されている(二回目は三月十七日から二十六日まで国立博物館表慶館で延長された)。「ゴッホの手紙」の第一回が発表されたのは、二度目の展覧会が終った九ヶ月後であるが(『文体』第三号、昭和二十三年十二月発行)、前年十二月に発行された同誌復刊第一号の編集後記には、次号、小林秀雄の「ゴッホ」が掲載されることがすでに予告されているから、彼が上野に足を運んだのは第一回展覧会の二週間の間であり、その年のうちにゴッホ論の執筆を構想していたことがわかる。

「烏のいる麦畑」に感動した小林秀雄は、どうかしてこの複製画を手に入れたいと思い、知人の画商達に会う毎にそのことを話したと自身書いているが、友人の青山二郎には、「誰か、アレを貰って来て呉れたら、ゴッホを僕は書くんだがなア」と言っていたという(青山二郎「小林のスタイル」)。あるいはそれは、第一回展覧会の半年後、『文學界』昭和二十二年九月号に掲載された辰野隆、青山二郎との鼎談の席でのことだったかもしれない。この鼎談で、辰野隆が青山二郎に「画家からテクニックを抜いたら何が出来るだろう」と問うたのに対し、青山が、「その点、ゴッホはどうかな」と切り返すと、小林秀雄が「そりゃ大変なテクニシャンさ」と応じ、辰野隆の言葉を引き取った上で次のように発言している。

 

辰野 ゴッホは全世界を改め得るほどの健康なものを持ってたね。
小林 持ってた。病的なものじゃない。色はいかにも錯乱してるけど、感じは静かなんですよ。健康なんだ。まわりが病人どもに満ちていたから、ひどいところに追いつめられたんだ。

 

これが、小林秀雄がゴッホについて語った最初であった。「色はいかにも錯乱してるけど、感じは静かなんです」と言った時、彼の眼前に、「全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞って」いるあの「一種異様な画面」が浮かんでいたことは間違いないだろう。その小林秀雄の「誰か、アレを貰って来て呉れたら……」という呟きを、青山二郎は宇野千代に伝えたのだという。すると彼女は田舎まで跳んで行って、その複製画を持ち主から貰って来た。『文体』は、もともと宇野千代が弟正雄と創刊した文芸誌である。彼女は小林秀雄にゴッホ論を書かせる目的でその絵を手に入れたのだった。都美術館の広間で観たままの絵が、薦包で小林秀雄のもとに届けられたことは、「ゴッホの手紙」の中にも書かれている。

『文体』復刊第一号の編集後記で予告された「次号」(第二号、昭和二十三年五月発行)にはしかし、「ゴッホの手紙」は掲載されず、その直前に『時事新報』に発表されたばかりの「鉄斎」(「鉄斎 Ⅰ」)が再掲された。小林秀雄自身、「丁度、長い仕事に手を付け出していた折から、違った主題に心を奪われるのは、まことに具合の悪い事であった」と書いている通り、この頃、二度目の「罪と罰」論の執筆に集中していたということもあっただろう。しかし「それは気の持ち様でどうにでもなる」とも言っているように、二つの作品は並行して執筆された様である。「『罪と罰』について」(「『罪と罰』について Ⅱ」)が『創元』第二輯に発表されたのはその年の十一月であるが、「ゴッホの手紙」の第一回が『文体』第三号に掲載されたのはその翌月であった。

「ゴッホの手紙」の「第一回」と書いたが、この作品はもともと長期連載を前提として始まったものではない。『文体』第三号には四百字詰め原稿用紙五十三枚分が掲載され、文末に「未完」と記されているが、編集後記には、「この論述は更に次号に頂く続稿を俟って完結される筈」と書かれている。書き始めた当初、おそらく彼は百枚程度の、丁度「モオツァルト」と同じくらいの長さの作品を構想していたものと思われる。

ところが次の『文体』第四号(昭和二十四年七月発行)では、原稿用紙三十五枚ほどが掲載され、またしても文末に「未完」と記された。そしてこの後、『文体』が休刊となったことで、「ゴッホの手紙」は二回分掲載されただけで打ち切りとなってしまう。その後、一年半の空白期間を置いて、『芸術新潮』昭和二十六年一月号にあらためて冒頭から掲載され、以後は、昭和二十七年二月号までの十四ヶ月間、毎月休みなく連載されて、同年六月に新潮社より上梓された。単行本一冊分となる連載としては、戦前の『ドストエフスキイの生活』以来、二作目となった。

以上が、「ゴッホの手紙」の構想と執筆のおよその経緯だが、この作品にはもう一つの忘れてはならない重要な動機が存在する。ゴッホが残した厖大な書簡の読書体験である。「烏のいる麦畑」の複製画が宇野千代から届けられた後のことであったようだが、小林秀雄は式場隆三郎からその書簡全集を借用し、殆ど三週間、外に出る気にもなれず、食欲がなくなるほど心を奪われたのである。

 

書簡の印象はと言えば、麦畑の絵に現れたあの巨きな眼が、ここにも亦現れて来て、どうにもならぬ。ボンゲル夫人は、序文の冒頭に、ゴッホの弟の母親宛の手紙の一節を引いている。「彼(ヴィンセント)は、何んと沢山な事を思索して来たろう、而も何んといつも彼自身であったであろう、それが人に解ってさえくれれば、これは本当に非凡な著書となるだろう」、いかにもその通りである。僕は解った。だから「彼自身」の周りをぐるぐる廻る。「彼自身」が、サイプレスの周りを廻った様に。

 

ゴッホを巡る小林秀雄の「螺階的な上昇」がここに始まる。書簡全集が存在しなくても、彼はゴッホについての批評作品を書き残したかもしれないが、書簡がなければ、その内容はまったく異なったものになったであろう。そしてこの「The Letters of Vincent van Gogh to his brother」という「非凡な著書」との出会いにこそ、小林秀雄の批評文学を「ゴッホの手紙」の前と後とに分つ決定的な一線があったのであり、この度の「螺階的な上昇」には、「モオツァルト」や「『罪と罰』について Ⅱ」を書き終えた小林秀雄の予期し得ないものがあった。

モーツァルトにも厖大な書簡全集が存在する。小林秀雄は「モオツァルト」の中でその何通かを取り上げ、中でも一七七七年七月二日にパリで母親を失ったモーツァルトが父親に宛てた二通の手紙を、この音楽家の魂が紙背から現れて来るものとして紹介した。しかしその手紙はまた、「凡庸で退屈な長文」でもあり、「この大芸術家には凡そ似合わしからぬ得体の知れぬ一人物の手になる乱雑幼稚な表現」で書かれていた。モーツァルトにおいては、「手紙から音楽に行き着く道はない」。だから小林秀雄は、「音楽の方から手紙に降りて来る小径」を見付ける他なかった。そして確かに、彼は、その「小径」の先に「モオツァルト」を聴き分けたのだった。

ドストエフスキーについても、その私生活の記録においてはほとんど同じことが言えるだろう。実に三十年以上もの歳月をかけた彼のドストエフスキー探求の最初の動機もやはり、この作家の「思想と実生活」の間に潜む、ある断絶の超克の問題にあった。彼のドストエフスキーを巡る遍歴は昭和八年、三十一歳の年から始まったが、その翌年一月に発表された「文学界の混乱」の最後で、この年立て続けに発表することになる最初の「罪と罰」論および「白痴」論を予告するかのように、次のように書いている。

 

僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている。広大な深刻な実生活を生き、実生活に就いて、一言も語らなかった作家、実生活の豊富が終った処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎっている作家、而も又娘の手になった、妻の手になった、彼の実生活の記録さえ、嘘だ、嘘だと思わなければ読めぬ様な作家、こういう作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思っている。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思っている。

 

ところがゴッホの手紙は、少なくとも小林秀雄にとっては、モーツァルトやドストエフスキーに見られたような(というより、あらゆる芸術家や作家に多かれ少なかれ見られるような)「思想と実生活」の断層を認めることが不可能な、完全に連続したものとして現れた。ゴッホの「思想と実生活」は、彼に言わせれば、「手紙の終るところから、絵が始まり、絵の終るところから手紙が始まる」というより他ないものであり(「ゴッホ書簡全集」)、「絵にあらわれた同じ天才の刻印が、手紙にも明らかに現れている」(「近代絵画」)という驚くべき様相を呈していた。ゴッホに「実生活の秘密」はない。すべては白日の下に晒され、作品の血となって流れ込み、キャンバスの深い傷口から流血する。そしてこの事実は、小林秀雄に対して、「ゴッホ」という考えを断固として拒絶したはずである。このような芸術家を描くのに、「述べて作らず」以外のどのような方法があり得ただろう。彼にとって本当に「意外」だったのは、連載が予期せず長くなったという一事ではなかった。

 

私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは書き進んでいくにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。

 

この評伝を読んでいくと、一八八八年十月、ゴーギャンがアルルに到着する頃から、すなわちゴッホの最初の発狂場面を描写するあたりから、見る見る著者の「諸観念」が消え失せ、「批評的言辞」が去って行くのがわかる。小林秀雄は、ゴッホという「彼自身」の周りをぐるぐる廻り続ける。やがて彼自身、本居宣長というサイプレスの周りを廻ることになる様に。ブラームスのれる変奏曲が、その彼の螺旋運動の彼方で鳴り出そうとしていた。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた―(「ゴッホの手紙」)

 

この「一種異様な画面」が突如として小林秀雄の前に現れ、愕然としてその前にしゃがみ込んでしまったのは、「モオツァルト」を発表した三ヶ月後の昭和二十二年三月、上野の東京都美術館で開催された「泰西名画展覧会」を見に行った時のことであった。彼が眼にしたのは、ゴッホが自殺する直前に描いた「烏のいる麦畑」の複製画であった。

翌年十二月、小林秀雄は「ゴッホの手紙」の連載を開始する。右の一節は、その第一回の劈頭に描かれたものであった。この黙示録的なビジョンもまた、彼を見舞ったベートーヴェン流の「元気のいい、リズミカルなインスピレーション」の一つであり、白洲正子の言う「きらきらしたもの」の典型と言っていいだろう。何よりこの海原の背後で鳴っている「全管弦楽」とは、疑いもなくベートーヴェンの交響曲の、嵐のようなアレグロ・コン・ブリオである。しかも「ゴッホの手紙」では、彼を見据えたこの「或る一つの巨きな眼」に続いて、「モオツァルト」の執筆動機となったもう一つの「一種異様な画面」が出現する。

 

あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明皙な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。

 

描かれたものは、同じく「空には黒い雲が走り」、「一面に三角波を作って泡立」つ海原であり、感動が、突然、「海の方から、山の方からやって来」るという、インスピレーションの爆発風景であった。二つの風景が酷似しているのは、ゴッホとモーツァルトのアナロジーゆえではないだろう。この「一種異様な画面」が、当時、二人の芸術家に感応して鳴動する小林秀雄の批評精神のパースペクティブそのものだったからである。そして彼は言うのだ、「モオツァルト」という作品が書き上ったということは、自分にしてみれば、「何事かを決定的に事」(傍点原文)であったと。この「何事かを決定的に」る事こそ、ベートーヴェンの音楽の基本原理であり、「運命の喉首を締め上げてみせる」と言ったこの作曲家の本源的な生き方ではなかったか。

坂本忠雄氏が伝え聞いたところによれば、「モオツァルト」を執筆していた時、小林秀雄はベートーヴェンをよく聴いていたという(高橋英夫『疾走するモーツァルト』)。事実、この作品にはモーツァルトとベートーヴェンとが限りなく接近する瞬間が何度かあり、しかも歩み寄るのはいつもモーツァルトである。しかし小林秀雄は、モーツァルトをベートーヴェンのように描こうとしたわけではなかったはずだ。モーツァルトを描こうとする彼の批評精神の立ち現れ方そのものが、ベートーヴェンの音楽の生成の力学に限りなく近かったのである。つまり、小林秀雄は、「モオツァルト」をのである。

 

もはやモオツァルトというモデルは問題ではない。嘗てモオツァルトは微塵となって四散し、大理石の粒子となり了り、彫刻家の断固たる判断に順じて、モオツァルトが石のなかから生れて来る。(「モオツァルト」傍点原文)

 

ロダンのモーツァルト像について小林秀雄が書いたこの一節は、そのまま、彼自身の「モオツァルト」の執筆過程を語ったものであり、それはまたベートーヴェンの変奏曲、中でもその最後にして最高の精華であり、小林秀雄も生前愛聴したという「ディアベリ変奏曲」の作曲過程を思い起こさせる。

この変奏曲でベートーヴェンが使用した主題は、楽譜出版商アントン・ディアベリのワルツのテーマであった。ディアベリから自作の主題による変奏曲を依頼されたベートーヴェンは、その主題を「靴屋の継ぎ革」と呼んだと伝えられるが、実際、表向きは至極凡庸な三拍子ハ長調のテーマを、彼はいきなり最初の変奏で、もはやワルツでも何でもない四分の四拍子の、剥き出しの和声の連結のようなものに解体してしまう。「一皮剥けばこれが君のワルツの正体だ、変奏に値しない」と吐き捨てるかのようである。

ところがそうやっていったん叩き壊されたディアベリの主題が、続く第二変奏から再び四分の三拍子に戻っておもむろに蘇生し始め、変幻自在に姿を変えて行くのである。ある時はモーツァルトのオペラのパロディーとなり、ある時はバッハを彷彿とさせる厳粛なフーガとなり、ある時はほとんどショパンを先取りした抒情歌ともなる。そして三十三番目の最終変奏において、あろうことかベートーヴェン自身の最後のピアノ・ソナタの、同じくハ長調の変奏主題によく似たテーマに生まれ変わり、幕を閉じる。まさに、嘗てあった主題は微塵となって四散し、主題が石のなかから生れて来るのである。ちなみにベートーヴェンは、この変奏曲を通常の「Variationen」ではなく、「変容」や「変質」の語感が強い「Veränderungen」と命名して出版した。

一方、同じ変奏曲といってもブラームスの変奏曲、たとえば「ディアベリ変奏曲」と並んでこのジャンルの最高峰の一つである「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」ではそのようなことは起こらない。全体としては「ディアベリ変奏曲」同様、主題が刻々と性格を変えながら展開する所謂「性格変奏」の体を成しつつも、根幹において元の主題の構造を守り続け、全二十五の変奏のうち八曲を除けばすべてヘンデル主題と同じ変ロ長調、四分の四拍子、十六小節で進行する。三十三の変奏中九曲しかオリジナル通りの構成をとらない「ディアベリ変奏曲」とは大きな違いである。ブラームスの場合、各変奏はそれぞれどんなに個性的な相貌を呈していても、元の主題の上にがっちりと根を下ろしているのである。

「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」は、ブラームスが二十八歳の時に作曲した作品であるが、ブラームスはこういった傾向をさらに強めていき、やがてパッサカリアとかシャコンヌと呼ばれる作曲形式を好むようになっていく。パッサカリアあるいはシャコンヌとは、バロック時代に愛好された形式で、短い主題を低声部で何度も繰り返しながら、その上に新たな楽想を次々と組み上げていく、これも一種の変奏曲である。低声部で繰り返される基本主題をバッソ・オスティナート、日本語では「固執低音」あるいは「執拗低音」と呼ぶが、小林秀雄が「本居宣長」について、「音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いている」と語ったのは、まさにこのバッソ・オスティナートの執拗な繰り返しの上に文章を編んでいくことを指していたとも言えるだろう。少なくとも「本居宣長」には、「何事かを決定的に」るというような書きぶりは全く見られない、むしろ、最初に掴んだ主題を如何にずに持続させるかというところに、彼の神経は集中しているように見える。

「ゴッホの手紙」と同じく、「本居宣長」の連載第一回の書き出しも、本居宣長について書こうと考えた最初の動機、彼の批評の変奏主題が提示されるところから始まる。それは、戦争中に読んだ『古事記伝』の読後感であり、その「殆ど無定形な動揺する感情」であり、以来、彼の心の中に棲みついた「宣長という謎めいた人」であった。「モオツァルト」が、あの「殆ど無定形な自然」のビジョンによって始まったように、小林秀雄の批評精神は、いつも彼を動揺させる無定形の「謎」の現出によって発動し、その「謎」をめぐって「螺階的に上昇」した。

しかし「モオツァルトという或る本質的な謎」(「モオツァルト」)の円周を廻ろうとした小林秀雄は、何よりもまず、K.五九三のニ長調クインテットによって与えられたあの感動をることから始めたはずである。「モオツァルト」の中で、彼はこの昭和十七年の「ある五月の朝」の経験について、一言も触れてはいない。無論、彼が、最初に掴んだビジョンを捨てた、あるいは否定したということではない。その痕跡は、たとえば第一章の「凡そ音楽史的な意味を剥奪された巨大な音」として、あるいは第二章末尾の「海が黒くなり、空が茜色に染まるごとに」「威嚇する様に鳴る」ポリフォニーとして残響している。だが四年の歳月をかけて、最終的に石のなかから生み出されたのは、同じ弦楽クインテットでもト短調、K.五一六の、「かなしさは疾走する」という全く新たな、モーツァルト像であった。

二年後に書き出された「ゴッホの手紙」でも、彼は、美術館の閑散とした広間で自分を見据えた「或る一つの巨きな眼」を決定的にるつもりで筆を執ったに違いない。ところが連載を進めて行くにしたがい、その「眼」をようとする彼の文章にある変化が生じた。彼自身の地の文が徐々に消えていき、ついにはほとんどゴッホの手紙の翻訳だけで文章を構成していくという、彼自身の言い方で言えば「述べて作らず」の方法によって書き進められることになったのである。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

小林秀雄が文化勲章を受賞したのは昭和四十二年十一月、「本居宣長」の連載が開始されて二年半が経過しようとしていた頃であった。彼の周りには、連日、報道関係の人間や来訪者たちが押し寄せ、しばらくは仕事が出来なくなった。原稿に向かおうとしても、祝い客や電話で気持ちが切断される、それが一番困ったと、彼は妹に語ったそうである(高見澤潤子『兄 小林秀雄との対話』)。

仕事に精神を集中してじっと考えていると、彼の頭には、いつも音楽が聞こえて来たという。その音楽をまたじっと聴いているうちに、書こうとする言葉なり、表現なり、構想なりが出てくる。ところがそういう時に、電話だとか訪問客だとか、外部から雑音が入ると、その音楽はぷつりと切れて消えてしまう。後でまた取り掛かろうとしても、もう一度最初からやり直さなければならなくなる、というのである。

この時、小林秀雄の中で鳴っていた音楽とは、誰の何という曲ではなかったことは勿論だが、彼が自ら想い描いた、ある具体的な旋律や和声でもなかっただろう。娘の白洲明子氏によれば、小林秀雄が原稿に向かっている時、音楽がかかっていたことはなかったという(「父 小林秀雄」)。原理的に、それは不可能であったはずだ。

彼の中に生じていたのは、おそらく、音楽が旋律や和声といった肉体を持つ以前の、あるいはその肉体の彼岸にあるところの、持続し、展開していく音楽の流れそのもの、音楽的に移ろう時間のあやそのものであったと思われる。彼もまた、「何よりもまず音楽を」(ヴェルレーヌ「詩法」)と希った叙情詩人の血を引く文学者の一人であった。彼の批評は、音楽の精神から誕生する。その文章は、音楽の如く歌い、思考し、感じようとするのである。

「音楽の精神からの」誕生とは、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』の初版のタイトルに冠した言葉である。ニーチェもまた、九歳の時に作曲を始めたというほど大変音楽を愛した人で、ワーグナーとの運命的な出会いと離反を経て作曲の道から遠ざかった後年になっても、「私は本質的に音楽家である」と断言して憚らなかった哲学者であった。小林秀雄は若い頃からニーチェを愛読し、最晩年になっても敬愛の情を失わなかったが、そのニーチェについて、次のように書いたことがあった。

 

彼の様な、抒情が理論を追い、分析が情熱を追う、高速度な意識には、音楽の速度しか合うものがない。(「ニイチェ雑感」)

 

「音楽家ニイチェ」を評したこの一文は、そのまま、小林秀雄自身の「高速度な意識」を象った言葉でもある。「音楽の速度」で考え、「音楽の速度」で文章を紡ぎ出すという点で、小林秀雄の文章にもっとも近いのは、あるいはニーチェの文章であったかもしれない。そして六十六歳を迎えようとしていた小林秀雄が語った、「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、自らの意識と文章を駆るその彼の「音楽の速度」が、ベートーヴェンのそれから、ブラームスのそれへと、言わばギア・シフトした、ということでもあった。

 

前回引用した坂本忠雄氏の一文には、「本居宣長」の連載中、小林秀雄が、「年を取ってくると、手に唾をつけないと縦糸と横糸がしっかりと織れない。それを読者に覚られてはならないよ」と述懐したことが書かれていたが、「音楽談義」の中でも、彼はそのことについて次のように語っている。

―もう六十になると、若い頃みたいな、元気のいい、リズミカルなインスピレーションというものは起こらないし、もっと細かく起こるし、長続きしない。これを続けなければならないとなると、ブラームスみたいな、ブラームスでやらないといけないということがわかるのです、だからブラームスをよく聴きます。ベートーヴェンなんかではとてもやれるものではない。……

そしてブラームスを、「本質的に老年作家だ」と断じている。

この「老年作家ブラームス」の話題に続けて、彼は、「モオツァルト」に書いた四十年前の「病的な感覚」について語り始める。二十六歳のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時に、突然、頭の中で、モーツァルトのト短調シンフォニーの主題が鳴った。その九小節のアレグロ主題は、彼が自ら思い浮かべたものではなく、はっきり聞こえてきたという。

一方、彼は、ああいう経験は若い頃にしかできないものだとも付言する。それは、あのような「インスピレーション」は、もはや今の自分には起こらないという意味であると同時に、それを、嘗ての「モオツァルト」のような文章ではとても書けるものではない、ということでもあっただろう。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」、「ブラームスのように肌目が細かく、っている」とは、今はそういう文章を好むようになったという、単に審美上の問題として言われた発言ではなかった。老境に入った小林秀雄にとって、ブラームスの音楽は、自らのインスピレーションと文章を持続させるためにぜひとも倣わなければならないものとして聴かれていたのである。

 

「本居宣長」におけるその彼の文体の変化について、白洲正子が、小林秀雄と交わした次のような会話を伝えている。

ある時、彼女は小林秀雄に向かって、「今度の宣長は今までの作品とは違って、きらきらしたものが一つもない、だから本を伏せてしまうと、何が書いてあったか忘れてしまう、何故でしょうか」と尋ねたことがあった。すると小林秀雄は、「そういう風に読んでくれればいいのだ。それが芸というものだ」と答えたという。

またある時、嘗ての「無常という事」のような、ああいうものが自分はもっと読みたい、書いて下さいと言うと、彼は首を振り、あれは僕にはもうやさしい、いつでも書ける、だから書かないのだ、と言ったそうである(「小林秀雄の眼」)。

白洲正子の言う「きらきらしたもの」こそ、小林秀雄が言った、「若い頃みたいな、元気のいい、リズミカルなインスピレーション」であり、それはまたベートーヴェンの音楽の、とりわけ壮年期のシンフォニーやソナタ群にもっとも特徴的に表れているものでもある。太平洋戦争が始まった翌年以降立て続けに執筆された「無常という事」「西行」「実朝」などの諸篇から、終戦の翌年発表された「モオツァルト」を経て、「ランボオ Ⅲ」「『罪と罰』について Ⅱ」「中原中也の思い出」あたりまでの、四十歳代の小林秀雄が書いた文章は、生き馬の目を抜く鮮やかなレトリックと直観とが随所に迸っており、まさに「きらきらした」という形容が相応しい。たとえば、「『罪と罰』について Ⅱ」の終結部コーダは次のような文章で綴られていた。

 

ラスコオリニコフは、監獄に入れられたから孤独でもなく、人を殺したから不安なのでもない。この影は、一切の人間的なものの孤立と不安を語る異様な(これこそ真に異様である)背光を背負っている。見える人には見えるであろう。そして、これを見て了った人は、もはや「罪と罰」という表題から逃れる事は出来ないであろう。作者は、この表題については、一と言も語りはしなかった。併し、聞えるものには聞えるであろう、「すべて信仰によらぬことは罪なり」(「ロマ書」)と。

 

一方、その三十年後に書かれた「本居宣長」の結語も、同じく読者への呼びかけで終わる。

 

もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

ここだけ読み比べてみても、両者の文体に如何に大きな隔たりがあるかが感得できるだろう。しかも、連載終了後に書き下ろされた「本居宣長」最終章のこの結語は、この作品の中でも、小林秀雄が最後の最後に一つ見得を切ってみせたというような、ベルクソンの最後の著作『道徳と宗教の二源泉』の結語について彼自身が言った言葉を借りれば、「一種予言者めいた、一種身振のある様な物の言い方」(「感想」)をした数少ない箇所の一つなのである。「本居宣長」では、こういう物の言い方は努めて抑制されている。

それ故にまた、この作品には白洲正子が言ったような、「本を伏せてしまうと何が書いてあったか忘れてしまう」性質があることも事実であろう。小林秀雄自身、「本居宣長」を刊行した後の講演で、そのことを次のように、半ば冗談めかして語ったことがあった。

 

私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずと出来る工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んで了う。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちはある。それが四千円で買える、書肆しょしとしても大変な割引です、嘘だと思うなら、買って御覧なさい、……(「本の広告」)

 

彼が凝らしたこの文章の「工夫」はしかし、「本居宣長」の連載開始とともにいきなり始まったわけではなかったはずだ。その直前には、六年間に及ぶベルクソン論の連載と中絶という大いなる紆余曲折があったし、事実、その第五回で、彼は、「私の文章は、音楽で言えば、どうもフーガの様な形で進むより他ない」とも書いている。フーガもまた、一つの主題が複数の声部に織り込まれながら、何度も循環するように進展するという点で、彼が坂本忠雄氏に語った、「音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いている」という言葉に通じる楽曲形式である。しかもその「フーガの様な形」をした文章について、彼は、戦後間もなく行われた「コメディ・リテレール」座談会で、すでに次のように発言しているのである。

 

例えば、バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上がる。あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難しい。文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。

 

ここで言われているのは、主題の「繰返し」ということよりも、ある単一の主題から様々な経過句パッセージや他の声部が派生していく、その「音の共鳴性」や「即興」性についてであるが、小林秀雄の批評精神が常に描こうとする一種の変奏形式あるいは循環形式は、おそらく、彼の生得のものであり、ひいては彼の生き方そのものでもあった。

次に引用するのは、「様々なる意匠」で文壇デビューする二年前、二十五歳の時に発表され、後に自ら「僕の最初の評論」と呼んだ文章にある一節である。ここで言われた「螺階的な上昇」こそ、その後展開されることになる彼の批評文学の、一貫して変わらぬ方法論であり、彼の全生涯を図らずも予言した言葉であった。

 

人間は同じ円周をどの位廻らねばならないか! こうして人間はささやかな円周の食い違いを発見して行くのだが、この発見は常に最も非生産的な、或は愚劣以外の何物とも見えない忍耐を必要とするのである、沈黙を必要とするのである。(「芥川龍之介の美神と宿命」)

 

「『本居宣長』はブラームスで書いている」と言った時、小林秀雄は、自分にとって何か全く新たな、未知のものに着手したわけではなかった。むしろ、ここにきて、彼の生得、彼の天賦を、自覚的に、意識的に、延長しようとした、またその必要と要求を強く感じるようになった、ということだったに違いない。そしてこの彼の自覚の発端となったのは、「本居宣長」の連載開始ではおそらくなかった。その最初の啓示は、先に引用した「『罪と罰』について Ⅱ」が発表された翌月開始された、「ゴッホの手紙」の連載中に訪れたものと思われる。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

小林秀雄のレコードラックは、伊豆の大島を望む南面の居間の、庭に向かって左の隅に置かれてあった。編集者が原稿の打ち合わせなどで訪ねると、彼はきまってそのラックを背にした椅子に腰掛け、応接したという。

鎌倉八幡宮の裏山に建ち、全山の緑に取り巻かれた彼の旧宅は、「山の上の家」と呼ばれていた。小林秀雄は、四十六歳の年から三十年近く、生涯で最も長い時間をここで過ごした。「ゴッホの手紙」、「私の人生観」、「『白痴』について Ⅱ」、「近代絵画」、「感想」(ベルクソン論)、「考えるヒント」など、彼の後半生の作品のほとんどが、この空間から生み出され、畢生の大作となった「本居宣長」も、全六十四回の連載のうち、第六十回までがここで執筆されている。七十四歳となる年の一月、小林秀雄はこの家を知人に譲ったが、その時レコードのごく一部だけを手元に残し、あとは長らく使用したオーディオ装置と一緒に、ラックごと「山の上」に置いていったのだった。

そのレコードラックに残された千枚を超えるレコードを閲覧する機会に恵まれたときのことを、高橋英夫氏(「小林秀雄のレコード」)と前川誠朗氏(「小林秀雄とレコード」)がそれぞれ書いている。それらは一枚を除いてすべて戦後のLPで、「モオツァルト」を執筆していた頃に所有していた厖大なSPレコードはすでになかった。作曲家では、やはりモーツァルト、そしてベートーヴェンとバッハが飛び抜けて多かったが、彼が自ら買い求めたレコードではない、編集者が持ち込んだものやレコード会社から献呈された見本盤なども多かったというから、およそ「小林秀雄のレコードコレクション」とは呼べない、雑然たるレコード群であった。毎日音楽を聴かない日はないと自ら語った小林秀雄は、しかし、その雑然たるレコードラックの中から、日々LPを取り出しては音楽を聴き続けたのである。

さて、それらのLPレコードを作曲家別に数えていく中で、高橋氏がこれは貴重な発見ではないかと思ったのは、上記の三人に次いで、ブラームスのレコードが相当な数出てきたことであった。「ひょっとすると小林さんは、隠れブラームス派かな?」とまで思ったそうである。そしてブラームスを何かかけてみようと思い立ち、偶々手にした交響曲第一番のレコードをジャケットから抜き出したところ、盤面が汚れていて、何度もかけた跡が明瞭だったという。

 

生前、小林秀雄は、ブラームスについては一行も書き残さなかった。唯一、五味康祐との対談「音楽談義」の中に、「あの人(ドビュッシー)はドイツではワーグナーよりブラームスと近い人じゃないですか」という発言があるのみである。

その小林秀雄が、実はブラームスに深く傾倒していたという事実をはじめて示唆したのは、学生時代から彼の音楽生活を間近で眼にしていた大岡昇平であった。小林秀雄が亡くなった時、「文學界」の追悼特集号で行われた大江健三郎との対談(「伝えられたもの」)で、大岡昇平は、「小林さんはモーツァルトのほかに、ブラームスも好きだった」と伝えている。ある時、自分がモーツァルトのオペラのメロディの美しさを言ったところ、「ブラームスだって美しい」と怒られたことがあったという。

その四年後、ステレオサウンド社から「音楽談義」のカセットテープが発売され、大岡昇平の証言が裏書きされることとなった。六十四歳の時に記録されたこの録音には、小林秀雄が活字として発表した対談録では削除されていた発言が多く含まれていたが、その中に、ブラームスについての彼の熱烈な言葉が収められていたのである。

彼はまず、自分は音楽を聴かない日はない、自分の文章も音楽に影響を受けていると断った上で、今連載している「本居宣長」は、と語り出す。それを受けて、五味康祐が「先生の文章は難しいです」と返すと、小林秀雄は、自分の文章は少しも難しくはない、あれはブラームスの音楽が難しいようなもので、ブラームスのように肌目が細かく、っているのだと言う。っているとは、織物をるという意味の「織る」に、道がれるという意味での「折る」が重ねられているようで、緻密な織物を織っていくように、音楽の諸声部が表に現れたり裏に隠れたりしながら交錯する、あるいは深い森の径を歩んで行くように、主題が脇道へ逸れたり元の道へ戻ったりしながら進行する、その様を、「テーマは随分先に出るが、一度出てもれて、またどこかで出る」という言い方で表現するのである。

この「『本居宣長』はブラームスで書いている」という彼の言葉に連なる証言として、小林秀雄のもっとも身近にいた編集者の一人であり、「本居宣長」の連載を担当した元新潮社の坂本忠雄氏が、小林秀雄から直に聞いた話を交えながら書いている。氏によれば、それは、「本居宣長」は変奏で書いている、ということであると言う。

 

連載は延々と続き、先生は時に「年を取ってくると、手に唾をつけないと縦糸と横糸がしっかりと織れない。それを読者に覚られてはならないよ」と述懐されることもあったが、後から考えれば連載半ばに達した頃、「ブラームスの音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いているんだ」と言われた。幸い私は言わんとされていることがすぐに感知できた。(「ブラームスと原稿料」)

 

そしてブラームスの音楽に変奏が執拗に現れることの例として、弦楽六重奏曲第一番、ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第四番が挙げられている。

坂本氏が感知した、「本居宣長」は変奏で書いているとは、小林秀雄自身、この作品の中で繰り返し言及したところでもあった。たとえば第三十五章は、「『人に聞する所、もつとも歌の本義』という主題については、まだまだ変奏が書けそうな気がする」と結ばれているし、坂本氏も引用している第四十七章には、「私としては、同じ主題に、もう一つ変奏を書くように誘われた、という事である」ともある。さらに単行本にする際には削除された連載第五十五回の末尾にも、「どうも、又脇道に逸れた様子で、元に戻らねばならないが、これも、宣長の得た古道という実に単純で充実した主題を考えていると、おのずからその変奏の如きものがいくつでも心に浮んで来るという事でもあるのだ」との断りがある。その他、「変奏」という言葉を使っていなくとも、ある主題を繰り返し繰り返し、その都度語り口を変えながら書き継いでいくという書法は、この作品の全篇にわたって見られるもので、その変奏の重層性は、連載の回を重ねるにしたがって増す一方であった。

「本居宣長」は、確かに巨大な変奏曲の様相を呈している。そして小林秀雄自身、そのことをはっきり意識しながら、連載十一年半、推敲一年をかけたこの長編を書き継いでいったことは間違いないだろう。しかし彼が言った、「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、この作品を変奏曲のように書き進めるという一事だけを指していたわけではなかった。ブラームスが変奏曲を得意とした作曲家であったことは事実だが、この作曲形式は、ブラームスの発明でも専売特許でもない。そもそも変奏曲の大家といえば、誰をおいてもベートーヴェンを挙げなければならないだろう。ブラームスは、ベートーヴェン以後に現れた変奏曲の大家の一人であり、小林秀雄もそのことは承知していたはずである。ところが「音楽談義」の中で、彼は、、とも語っているのだ。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、批評の文章をただ変奏形式で綴るということではなかった。同じ変奏形式でも、ベートーヴェンの変奏形式ではなく、ブラームスの変奏形式でらなければならないという意味であった。そしてそれは、「本居宣長」の連載とともに、彼の批評が、ベートーヴェン的なものからブラームス的なものへと移り変わりつつあった、ということでもあったのである。

 (つづく)