慶雲三年丙午に、難波の宮に幸す時
志貴皇子の作らす歌
葦辺行く 鴨の羽がいに 霜降りて
寒き夕は 大和し思ほゆ
「萬葉集」巻第一 六十四番歌(*1)
フランソワ・ポンポン(François Pompon、1855-1933)というフランス人動物彫刻家の、日本初となる回顧展が、二〇二一年から二二年にかけて巡回中である。パリのオルセー美術館を訪れた方は、なめらかな外観をした、実物大の「シロクマ」の彫刻を覚えておいでかも知れない。私は昨夏、最初の巡回会場となった京都市京セラ美術館を訪れ、強い印象を受けていたところ、その後同館を幼いお嬢さんとともに訪れた友人から、思わぬ言葉をもらうことになった。お嬢さんの反応も含めてなのか、「少々物足りなかった」というのである。感性高く、俳優、演出家でもある彼女の言葉としては、少し残念ではあったが、その言葉がどうしても頭に残り、巡回先の名古屋、そして群馬県の館林にも、足を運んでみた。そうすると、作品を重ねて観るにつけ、その理由がおぼろげながらも明瞭になり、むしろ重要な示唆さえ含むのではないかと考えるにいたった。さらには、これまで、この「ボードレールと『近代絵画』」のシリーズ(Ⅰ~Ⅳ)において考えてきたことの応用問題を提示されているように思うところもあり、以下に綴ってみることにする。
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ポンポンは、一八五五年、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれた。家具職人であった父の工房で見習いとして働き始め、十五歳になるとディジョンに出て、墓石を彫る大理石職人見習いとして働きながら、夜間は美術学校で学んだ。二十九歳からは、様々な彫刻家のもとで下彫りの仕事を始めた。三十三歳の時には、ヴィクトル・ユゴー(*2)の「レ・ミゼラブル」に登場する貧しい少女コゼットが、重い水桶を持ち上げる姿を彫った石膏立像をサロンに出品し三等を受賞する。その後、悲願の公的買い上げを目指し、ブロンズや大理石でも出品を重ねたものの却下が続き、フランス国家認定の彫刻家という最高位を得ることは、ついに叶わなかった……
しかし、拾う神は現れた。オーギュスト・ロダン(*3)である。彼は、この作品を一目見るなり、試用期間も取らず、即ポンポンを下彫り職人として採用した。ポンポンは工房長まで務め上げ、一八九六年、四十一歳までロダンのもとで働いた。四年後、国による買い上げを再度請願するも叶わず、以後人物像の出品はほとんど見られなくなる。ロダンのもとも離れ、彫刻家サン=マルソー(*4)を手伝うようになったポンポンは、四十七歳の頃から、サン=マルソーのアトリエがあったノルマンディーの片田舎で家畜とともに過ごし、塑像として制作するようになった。一九〇六年、五十一歳の時には、彫刻「カイエンヌの雌鶏」を初出品。しかし、独特のなめらかな表面をした鶏に対する聴衆の反応は、笑い、であった。その後も、「モグラ」「仔牛」「鵞鳥」「ほろほろ鳥」などの動物作品を出品するが、評価は芳しくなく生活も苦しかった。第一次世界大戦後、いっそう貧窮したポンポンは、パリの動物園を制作場所と定めて、放し飼いにされた動物たちを眺め続けた。評価は徐々に上がり始め、一九一九年、六十四歳にして初の個展を開催することができた。二年後には最愛の妻ベルトを亡くす。しかし翌年の一九二二年、サロン・ドートンヌ(*5)に出品した大石膏の「シロクマ」が、大きな、大きな評判を呼んだ。齢六十五の秋、突如として、偉大で独創的な動物彫刻家として賞賛を受けることになったのである。
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ここで、動物彫刻、もう少し大きく捉えて、芸術のなかでの動物の位置付けについて、留意しておくべきことがある。日本とヨーロッパとの明確な違いについてである。
まず、日本人にとって、動物が主役となっている作品は、古くからある、ごく当たり前のものと言えよう。例えば、京都の高山寺には、中興開祖の明恵上人が愛玩した「木彫りの狛児(子犬)」(鎌倉時代)がある。志賀直哉氏が「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と記しているように、尻尾を振ってこちらに飛び込んでくるような生気溢れる像である。加えて同寺では、今や世界的に有名となった「鳥獣人物戯画絵巻」(平安~鎌倉時代)も蔵している。その頃からは、花鳥を主題とする宋元画の輸入も始まり、室町時代には、日本人の手になる花鳥画も制作された(能阿弥「花鳥図屏風」等)。江戸時代になると、明清画が輸入され、例えば中国人花鳥画家、沈南蘋(*6)の細密画法による花鳥画に、多くの日本人画家が大いなる刺激を受けた。動物画は、円山応挙(*7)の子犬図や伊藤若冲(*8)の鶏図など、その後も大きく花開き続けたことは周知の通りである。
さらには、日本における、古代からの人々と動物との関係、飛鳥の頃に伝来したとされる十二支のことも含む日常生活における関わり合いについても、丁寧に踏まえておきたいところであるが、本稿では紙幅の都合上割愛する(*9)。
一方、ヨーロッパにおいては大きく状況が異なり、動物を主役にした美術は、非常に少なかった。その理由については、絵画の世界の約束事として、画中の動物には大きく二つの役割があったためだと言われている(*10)。その一つは「象徴」である。例えば、鳩は平和、犬は貞節を意味した。もう一つは、動物は「物語の脇役」でなければならなかった、ということである。聖書や神話が描かれた絵においては、あくまで神や人物が主役で、動物は脇役でなければならなかった。その背景には、「神を頂点に、人間、動物の順に優れたものとするキリスト教に由来する西洋の世界観」があった。いわば作家の前には、制作の大前提条件として、そのような約束事、すなわち社会的な通念があった、というわけである。先に述べた江戸期の動物絵画に対して、十九世紀末、ジャポニスムに沸くヨーロッパの人々は大きな衝撃を受けたという(*11)。彼らがいかに長い時間、そんな通念のもとにあったのかが感得できよう。
彼の地において、そのような通念が見直されるのは、十九世紀半ば、写実による力強い動物彫刻を制作した、アントワーヌ・ルイ・バリー(*12)の登場まで待たねばならなかった。ポンポンは、バリーが亡くなった一八七五年、ちょうど動物芸術に対する人々の態度の潮目が変わりつつある頃、パリへ出てきたということになる。
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ここで、ポンポンの作品に向き合ってみよう。
まず、「餌をついばむ雄鶏」(1907、ブロンズ)。地面の餌をついばもうと大きく首を垂れている。どの角度から見ても「生きている」。しかも、写真のように切り取られた、一瞬間の切断面ではない。今まさに、餌をついばんでいるのだ。いや、さらに近づけば、次の瞬間、急に首を上げ、威嚇の声を発するのでは? という緊張感を、さらには神々しさまでも感じさせる。そこに訳出された連続する動勢は、彼がロダンから学んだものであった(*13)。ちなみに、後年、大胆に省くことになる体表の羽の表現は、まだ確認できる。
続いて、「カラス」(1929、ブロンズ)。本物のカラスは、例えば、道を歩いていて至近距離で遭遇すると、それなりの威圧感を覚えるものだが、それと同じ圧を感じる。ポンポンは田舎でカラスを見た際、かつてケージの中のカラスを忠実に写し取ろうとした試作が失敗した理由を、このようにして悟ったという。――「ぎくしゃくと、地面に横たわるくらいの角度で移動するカラスは、頭のてっぺんから尻尾までまっすぐの線を描いていた。この歩くことで描かれる線、すなわち動きの線が足りなかったのだ」(*14)。彼は、動物の動く姿を凝視し続けた。何度も、何度も、何度も…… その時間をかけた繰り返しこそが、この臨場感を産み出した。
もう一つ、とりわけ印象深かったのが「雄鶏」(1913-1927、ブロンズ)である。もはや羽や鶏冠の皺など、体表に微細な表現はない。右足に重心をかけながら、胸を張る雄鶏。威嚇の瞬間なのか、早朝、群れ一番の雄たけびを上げようとする刹那なのか…… そのとき、ある影像が私の脳裏に浮かんだ。伊藤若冲の『動植綵絵』にある「南天雄鶏図」である(*15)。確かに構図はそっくりである。しかしそんなことを遥かに超える、真を見抜き、真を現わし得ているところに出現した、躍動感、いやそういう言葉が空疎に聞こえるほどの、雄鶏の生命そのものを、両作から同様に直観した。絵画と彫刻、細密とその省略という見かけの違いはあれど、各自がそれぞれの気質をもとに永年の労苦の末に噛み出し、彫り出した「すがた」、「かたち」に、同じような感動を覚えたのである。
若冲は、庭に数十羽の鶏を飼い、その形状を極めるのに何年も費やした。彼自身が、「旭日鳳凰図」という作品に、こんな自賛を書き込んでいる(*16)。
「花鳥草虫各霊有リ、真ヲ認メ方ニ始メテ丹青ニ賦ス」。
花鳥草虫にはおのおの「霊(固有の生気)」が宿る。観察を尽し、その「真」を認識したのち、作画にかかるべきだ、そう言っているのである。
一方、若冲同様、あまり多くの言葉を後世に残していない寡黙なポンポンには、こういう言葉があった。
「動く動物は、より生命力のある形態を与えてくれる」。
私がポンポンの手になる動物たちに向き合って直観したものは、この「より生命力のある形態」であり、若冲の言う「霊」であり「真」であったのではなかっただろうか。
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このようにポンポンは、動物芸術が、「象徴」や「脇役」という通念から逃れ、ようやく自由になりかけた時代において、動物単体での純粋な表現に徹した。言い換えれば、動物を動物そのものとして彫り上げたのだ。彼には、「シロクマ」や「雄鶏」という名前すらもはや余計なものだったのかも知れない。さらには、表面の微細の表現は思い切って捨て去り、外観のなめらかな線と、内部にある筋肉の塊りの大きな動きによって、動勢と同時に迫真性と崇高性を表現し、そこに生命そのものを観じさせてくれている。
小林秀雄先生は、近代絵画の運動について、「根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」と言ったうえで、その予言的な洞察を行った最初の絵画批評家こそ、ボードレールであったと述べている(「近代絵画」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十二集所収)。かような意味合いにおいて、ポンポンはボードレールの予言の延長線上に現れた、という言い方もできよう。彼もまた、「象徴の森」を横切った一人だったのである(*17)。
ちなみに、ボードレールが、その予言を行う上で見抜いたのが、「周囲の人々より余程進んだ時計を持っていた画家達の感覚」であり、その一人がドラクロワ(*18)であった。彼は、初期の動物画家としてもよく知られており、パリの動物園に足繫く通い、ライオンやトラを描いた数は四百点にも及ぶ(*19)。その時の同行者は、先述の動物彫刻家バリーであった。バリーはロダンの師でもあり、若きロダンは、バリーの息子と連れ立って動物園へ通い、動物をよく研究していた(*20)。そして今更言うまでもなく、ポンポンはロダンの工房で沢山のものを身に付けた。ロダンはある日、ポンポンにこう言ったそうである。
「自らの個性は自然を写すことによって見えてくる……生命は、夢の中でもなく、想像の中でもなく、ただ生物の中にしか見つけることができない……光のもとで最初に彫刻がなすべきことは、最も忠実に自然を写すことである……よく構成し、面に置き換えることである……」(*21)
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さて、冒頭で触れたように、友人からの「少々物足りなかった」という、思わぬ展観評をもとに思いを巡らせてきたが、やはりそれは、幼児を連れては長居できない彼女にとって、やむを得ないことだったように思う。というのも、ポンポンの作品を味わうには一定の時間をかける必要があるからだ。そもそも彼が、独自の動物彫刻スタイルを結実させるまでに長い時間をかけた。その労苦の末に、彼の作品には、心を静めてゆっくりと向き合うなかでこそ感得できる動勢や崇高性、ひいては生命そのものが生まれた。加えて、今や巷間あふれる動物キャラクターに慣れ切った私たちは、つい「かわいい!」と感情移入したくなる心持ちから、意識的に離れる必要がある。
それでも彼女には、だいじょうぶ!と伝えたい。きっとお嬢さんは、短時間ではあっても身体全体で、作者が魂を込めて再現した動き、神々しさ、生命そのものを直かに感じていたはずである。その感覚は、意識にのぼらずとも身体が覚えているに違いない。
そもそも、ポンポン自身が、「自分は美術館のために作品を作ってきたわけではない」、そう言っていたのである……
(*1)――枯葦のほとりを漂い行く鴨の羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮は、とりわけ故郷の大和が思われる、の意(伊藤博「萬葉集釋注」集英社)。志貴皇子は天智天皇の皇子。「羽交い」とは、背中にたたんだ左右の羽の交わるところ。伊藤氏は「鴨の羽がいに置く霜に早々と目をつけた鋭さは驚くべき観察である」と評している。
(*2)Victor Hugo、1802-1885、フランスの詩人、小説家、劇作家。
(*3)Auguste Rodin、1840-1917、フランスの彫刻家。作品に「考える人」、「バルザック」など。
(*4)René-de-Saint-Marceaux、1845-1915、フランスの彫刻家。作品に「マリー・バシュキルツェフの胸像」など。
(*5)毎年秋にパリで開催される展覧会。前衛芸術家・新進芸術家を積極的に紹介する。
(*6)生没年不詳、中国(清)の画家。1731年に来日、細密画法を主軸とする迫真的表現の花鳥画は、僧鶴亭や宋紫石という日本人画家により長崎から上方と江戸に紹介された。
(*7)1733-1795、日本の画家。作品に「雪松図屏風」、「朝顔狗子図杉戸」など。
(*8)1716-1810、日本の画家。作品に「動植綵絵」三十幅、「鳥獣花木図屏風」など。
(*9)太田彩「語られる動物、語る動物」、『どうぶつ美術館――描かれ、刻まれた動物たち』(三の丸尚蔵館展覧会図録No.30)、濱田陽「日本十二支考 文化の時空を生きる」中公叢書など。エピグラフ(*1)でも紹介したように、「萬葉集」にも多くの動物が詠まれており、田中瑞穂氏によれば、約4,500首のうち、77種、873首に及んでいる(「万葉の動物考」、『岡山自然保護センター研究報告』第6号)
(*10)音ゆみ子「動物の絵 ヨーロッパ」、府中市美術館『動物の絵 日本とヨーロッパ』講談社
(*11)当時、画家で美術評論家のアリ・ルナンは、こんな言葉を残している(*10)。「(日本美術の動物についての)第一印象は、西洋の芸術の中ではごく小さな役割しか割り当てられていない『獣』を、日本人が偏愛することへの驚きだ。いわば、ヨーロッパ人は常に目を上に向け、崇高なものだけを見てきた。外の世界や、足元で生きている生き物に、それらがこの地上に私たちと同じように生きているにもかかわらず、目を向けようともしなかったのだ」(「芸術の日本」1890年1月号)。
(*12)Antoine Louis Barye、1795-1875。フランスの彫刻家。自然史博物館の教授として動物学の描画のコースで教えた。作品に「鰐を襲う虎」、「蛇を押しつぶすライオン」など。
(*13)ロダン「よい彫刻の重要な美点は動勢――le mouvementを訳出するにあるという事は確かです。……見る人が私の彫像の一端から他端へ眼を映してゆくと、彫像の姿勢の展開してゆくのが見えるのです。私の作品のいろいろ違った部分を通して、筋肉の働きの発端から完全な成就までを追ってゆく事になるのです」(「ポール グゼル筆録」『ロダンの言葉抄』、高村光太郎訳、岩波文庫)。
(*14)「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」美術デザイン研究所
(*15)同様の構図の絵は、「仙人掌群鶏図」(西福寺)の一面にもある。
(*16)若冲との親交の深かった相国寺の僧大典による「若冲居士寿蔵碣銘」にある言葉(辻惟雄「若冲」講談社学術文庫)。
(*17)ボードレールの「悪の華」にある言葉。「自然は神の宮にして、生ある柱/時をりに 捉へがたき言葉を漏らす。/人、象徴の森を経て、此処を過ぎ行き、/森、なつかしき眼相に 人を眺む」(鈴木信太郎訳。「悪の華」<交感>)。
(*18)Eugène Delacroix フランスの画家。1798-1863年。作品に「キオス島の虐殺」、「母虎と戯れる小虎」など。
(*19)沖久真鈴「なぜドラクロワとバルザックは動物に関心を示したのか――félin ネコ科の猛獣をめぐって」、『AZUR』第18号(成城大学仏文会)
(*20)エレーヌ・ピネ「ロダン 神の手を持つ男」遠藤ゆかり訳、創元社
(*21)リリアーヌ・コラ「フランソワ・ポンポン(1855-1933)」、『フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家』美術デザイン研究所
【参考文献】
「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」美術デザイン研究所
松下和美・神尾玲子「フランソワ・ポンポンを知る――群馬県立館林美術館 作品・資料コレクションより――」群馬県立館林美術館
辻惟雄「日本美術の歴史」(補訂版)東京大学出版会
今橋理子「江戸の動物画 近世美術と文化の考古学」東京大学出版会
(追記)
フランソワ・ポンポン展は、群馬県立館林美術館のあと、以下の通り巡回予定。
2022年2月3日(木)~3月29日(火) 佐倉市美術館
2022年4月16日(土)~6月12日(日) 山梨県立美術館
(了)