編集後記

新年第一号となる今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組が注目したのは、「才学に公の舞台を占められて、和歌は楽屋に引込んだ」という小林秀雄先生の一言である。それでは和歌は、引き込んだ楽屋で何をしていたのか? 「本居宣長」を片手に、四人のおしゃべりはさらなる深みへと降りて行く。対話の質も回を重ねるたびに熟成が進み、かつ鋭敏さも増しているようだ。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、田中佐和子さん、溝口朋芽さん、荻野徹さん、松宮研二さん、入田丈司さんが寄稿された。

田中さんは、フランスに駐在していた五年間、言葉や身振りなども含めて、意識的にフランス人になり切ったという。裏腹に「日本語からは突き放され」てしまった…… 帰国後、日本語との復縁を図ろうとする未だ暗い道筋を照らし出してくれたのが、「本居宣長」に記されている小林先生の言葉であった。その道筋こそ、宣長が明らめた「言辞の道」である。田中さんが取り戻しつつある大切なものとはいったい何か?

溝口さんは、時間をかけて、「本居宣長」の全編にわたって登場する「しるし」という言葉を眺め続けてきている。これまでも、その前後の文章から大いなる気づきを与えられたようで、本稿では、宣長の「源氏物語」経験に関して、第二十四章に登場する「明瞭な人間性の印し」という言葉に的を絞った。では、「明瞭な人間性」とは何か? 小林先生の文章を丹念に追っていくと、聞こえてきたのは、小林先生の導きの言葉であった。

「巻頭劇場」でおなじみの荻野さんは、「自問自答」についても、十八番おはこである対話劇のかたちでまとめられた。批評家である小林先生は、紀貫之のみならず、本居宣長も、紫式部も批評家である、と書いている。そのうえで、わけても「紀貫之が批評家であるとは、いかなる意味か」という問いが話題となっている。「古今和歌集」仮名序も片手に味わっていただきたい名対話、もう一つの劇場をお愉しみいただきたい。

松宮さんは、E.H.カーの「歴史とは何か」を新訳で読み返し、「歴史家は絶えまなく『なぜ』と問い続けています」という一節に眼がとまった。そこでこう思った。宣長なら、「なぜ」とは言わないだろう、と。その直観を、松宮さんはどのようにして得たのか? ヒントは、カーと小林先生が同じく引用していた、イタリアの歴史家クローチェによる言葉にあった…… そこにいたのは、「四人の歴史家」であった。

入田さんは、「紫式部という作家の創造力とはどのような力なのだろうか?」という自問を立てた。ヒントだと直知した、小林先生の文章があった。先生が宣長について、「『よろづの事を、心にあぢはふ』のは、『事の心をしる也、物の心をしる也、 物の哀をしるなり』と言う」との一文である。先生の言葉に沿って思いを巡らせ行くと、私たちが良く生きるためのヒントもまた、見えてきたようだ。

 

 

「様々なる意匠」という作品は、小林先生が二十七歳の時に書いた文壇デビュー評論として名高い。ただ、「意匠」という言葉からして難解だと感じるのは、今回「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんだけの実感ではなかろう。しかし、第二節冒頭の言葉に注目してみると、そのことばが油然として生気を帯びてきたという。まさに同感するところ大である。今だからこそ、読み返してみよう!

 

 

小林秀雄先生は、小中学生に向けた「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)の冒頭で、絵や音楽が解るようになるためには、「頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものでは」なく、「何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」と述べている。その教えに沿って、新年早々ホールに足を運んだ。お目当ては、マーラーの交響曲第七番である。彼の楽曲はとにかくのお気に入りで、CDでは何度も聴いてきたのだが、この曲に限っては自分の身体がうまく馴染めていないことに、もどかしさを覚えてきていた。演奏の機会も少ない曲だけに、まさに時機到来だ。

無心に聴いた。八十分近い演奏が終わって、私は大きな感動の波のなかにいた。CDでは聴き取りにくい弦楽器のコル・レーニョ(弓で弦をたたく奏法)のニュアンスや、この曲ならではのテノールホルン、マンドリンやギターの繊細な音色も鮮明に届いた。そして何よりも、八十分の演奏が一瞬の出来事のように感じられた。

本番を前に、指揮者はこの曲についてこう語っていた。――喜び、悲しみ、妬み、怒りなどが混ざりあったドロドロした感情を、イタコ状態で表現する必要がある。それも、イタコの語りをメモしているような感じの指揮はつまらない。自分の口でしゃべっているようでなくてはならない。本番ではそれを目指します。

なるほど面白い例えだ。指揮者や演奏家は、作曲家の魂を表現するという意味では、死者の「口寄せ」をする青森のイタコのような存在である。そう指揮者が言うのであれば、自分だってイタコの語りを第三者的にメモする感じではなく、直かに全身で演奏を受けとめよう、そう決意して席に着いたことも奏功したのかも知れない。いや、まさにこういう聴き方こそ、小林先生が勧めていたものではなかっただろうか……

そこでこう決意した。今年もまた何事においても、そのような態度で作者達に向き合っていこう。

 

 

連載稿のうち、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」及び、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

(了)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ

「源氏物語」の「蛍の巻」で、絵物語に熱中する玉鬘たまかずらのもとを源氏君が訪れ、物語について語り合う場面がある。そこで小林秀雄先生が「会話中の源氏の一番特色ある言葉」として紹介しているのが、「(元来物語というものは)神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、ただ、かたぞばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という文章である。(「f本居宣長」第十六章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収)

これは、「物語の作者というものは、口の上手な、嘘をつき慣れた人なんだろうね……」、という源氏の言葉に機嫌を損ねた玉鬘が、立腹気味に「私には本当のこととしか思われません」と返したことに対し、源氏が笑いながら、少し冗談めかして「ぶしつけに物語のことを悪く言ってしまった、『日本書紀』など及ぶところではなく、物語にこそ人の世の真理を含む詳しいところが書いてあるよね」と返したシーンである。

そこで小林先生は、このように言っている。「彼女(坂口注;紫式部)は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは『神代よりよにある事を、しるしおきけるななり』という言葉は、其処から発言されている……」

そのあとに続くのがこの言葉である。

「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」。

簡明率直にして、それこそ底が深い泉のように感じられるこの言葉に先生が込めた深意について、本居宣長と紫式部という人物と向き合いながら、思いを巡らせてみたい。

 

 

先生は、「飲んでいる」と書いている。そこに私は、式部の、「物語の生命」の源泉に対する強い確信と当事者たらんとする強い意思を感じる。それでは、彼女のそのように強い気持ちは、どのようにして育まれたのだろうか? 宣長は、その思いの強さをどのように受け止めたのか? さっそく二人の肉声を聴いてみよう。

宣長は、「紫文要領」において、「古き物語どもの趣き、それを見る人の心ばへなど」が「源氏」の巻々に見えるという十二の例を引いている。ここでは、そのうち三例を引く。

まずは、蓬生よもぎふの巻から。

―はかなき古歌ふるうた・物語などやうの御すさびごとにてこそ、つれづれをもまぎらはし、かかる住ひをも思ひ慰むるわざなめれ。(坂口注;慰めることができるのである)

『かかる住ひ』とは、末摘花すえつむはなの心細くさびしき住ひなり。さやうのことをも慰むるは、古物語に同じさまのこともあれば、わが身のたぐひもありけりと(坂口注;古物語に自分と同じ様子の事がらも書かれているので、自分のような境遇の人もいるのだと)、思い慰むなり。

次に、総角あげまきの巻から。

―げに古言ふることぞ人の心をのぶるたよりなりけるを(同;のびのびさせる手段であるということを)、思ひ出で給ふ。

この『古言』は古歌のことなれど、物語も同じことなり」。

最後に、胡蝶の巻から。

―昔物語を見給ふにも、やうやう人の有様、世の中のあるやうを見知り給へば、……

すべて物語は、世にあることの趣き、人の有様を、さまざま書けるものなれば、これを読めばおのづから世間のことに通じ、人の情態こころしわざを知るなり。これ、物語を読む人の心得なるべし」。

そのうえで宣長は、こう概括している。

「それ(坂口注;物語)を見る人の心も、右に引けるごとく、昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また、今の物の哀れをも知り、(坂口注;物語を読む人は、昔の出来事を今の出来事に引き比べて、昔の人が感じていたもののあはれを体感し、また自分の現在の身の上を昔と比べることで、自らが感じている「もののあはれ」を再認識し、悲しみを慰め、これを晴らす)

右のごとく巻々に古物語ふるものがたりを見ての心ばへを書けるは、すなはち今また『源氏物語』を見るもその心ばへなるべきことを、古物語の上にて知らせたるものなり。(同;そういう気持ちであるということを、古物語に託して読者に教えているのである)右のやうに古物語を見て、今に昔をなぞらへ、昔に今をなぞらへて読みならへば、世の有様、人の心ばへを知りて、物の哀れを知るなり」。(傍点筆者)

 

続いて、式部の肉声を「紫式部日記」から聴いてみよう。夫の源宣孝のぶたかとの死別(1001(長保三)年)、一条天皇の中宮彰子しょうしのもとへの出仕(1005(寛弘二)年)を経た、一〇〇八(寛弘五)年十一月中旬に記した回想である。

「年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋にゆきかふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにとばかり、行くすゑの心ぼそさはやるかたなきものから、、おなじ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけどほき、たよりどもをたづねてもいひけるを、ただこれをさまざまにあへしらひ、、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかりのがれたりしを、さも残ることなく思ひ知る身のうさかな」(傍点筆者)

これを口語に訳してみれば、次のようになろう。

夫が亡くなってから幾年か、私は涙に暮れながら夜を明かし日を暮らした。花の色も鳥の声も空しく、この身はただ物憂い日々を過ごしているだけだった。春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪などを目にするに付けても「そんな季節になったのか」とだけは分かるが、心中はただ「いったいこれからどうなってしまうのだろう」とそのことばかりで、将来の心細さはどうしようもなかった。私には、取るに足りないものではあるけれど物語についてだけは、語り合える友たちがいた。同じ心を抱き合える人とはしみじみと思いを述べた手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも連絡を取り、私はただこの「物語」というものひとつを手掛かりに、様々の試行錯誤を繰り返しては、慰み事に寂しさを紛らわした。私など、世の中を生きる人の数には入らない。それは分かっているが、さしあたってこの小さな家の中で暮らし、気心の知れた仲間と付き合う世界では、恥ずかしいとかつらいとかいう思いを味わうことを免れていた。(*1)

 

文意よりも、その姿を虚心にながめてみると、宣長が直覚したように、彼女自身が、物語そのもの、そして物語について語り合う仲間たちの存在に大いに助けられながら、なんとか日々の生活を重ねて来ることができた、そう痛感している姿が眼に浮かぶ……

さて、先に引いた「紫文要領」からの引用は、「古物語」に特化したものであり、「源氏物語」において、「物語」という言葉は、談話、雑談、親しい人との語らい、など多種多様なニュアンスで使われている(*2)。また、式部が暮らしていた当時、語り合われた題材は、物語だけではなく、歌もその対象であった。「歌がたり」と言われ、ある歌やその歌にまつわる話をめぐって語り合うことが、盛んに行われていたのである(*3)

例えば、式部は、こんな歌を詠んでいる。

「わづらふことあるころなりけり。『かひ沼の池といふ所なむある』と、人のあやしき歌語りするを聞きて、『こころみに詠まむ』といふ

世にふるに などかひ沼の いけらじと 思ひぞ沈む そこは知らねど」

これは、式部が病気をしていた時、人が「かい沼の池という所があって……」と、不思議な歌にまつわる話をするのを聞いて詠んだ歌である(「紫式部集」)

また、「源氏物語」にも「歌語り」の場面は多い。

例えばこれは、光源氏が紀伊守の屋敷を訪れた際、源氏の御座所おましどころの西側の部屋から、若い女性たちのおしゃべりする声が聞こえてきた時のことである。

「ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿の宮の姫君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。くつろぎがましく、歌じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」(帚木の巻)

(源氏君は)別段のこともないので、途中までで聞くのをおやめになったが、いつしか式部卿の宮の姫君に源氏が朝顔の花をお贈りになった時の歌などを、少し文句を間違えて言うのも聞こえてきた。有閑婦人気取りで、何かと言えば歌を口にすることよ、やはりがっかりする手合いだろうな……(坂口注)

 

機会を改めて詳しく検討するつもりであるが、このような「歌語り」については、実体としては平安期を遡る古代からあったと言われている。ちなみに、「歌語り」というわけではないものの、先ほど引いた式部の日記にある「花鳥の色をも音をも」という言葉は、「後撰ごせん和歌集」(*4)にある歌に見える。(夏212番)

花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かるる身は 過ぐすのみなり

花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ。(坂口注)

作者は、式部の祖父、藤原雅正まさただである。彼女の一族は、藤原氏の中でも名門の北家ほっけに属しており、直系の曽祖父である藤原兼輔かねすけは従三位中納言、もう一人の曽祖父である藤原定方さだかたは右大臣という高位にあった。ところが、雅正の代から一変、凋落の一途をたどったと言われている。

ちなみに、兼輔の歌も「御撰和歌集」に収録されている。入内した娘、桑子そうしが帝の醍醐天皇の寵愛を受けられるかどうかが心配でたまらず、帝に奉ったものだ。

人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな

子を持つ親の心ときたら、暗くもないのに迷ってばかり。子を思うがゆえに、分別をなくしてしまうのです。(同)

「源氏物語」の中で、この歌の趣旨が背景にあると思われる箇所は、二十六に及ぶ(*5)。彼女自身も、夫の没後は女手一つで娘の賢子けんしを育て上げており、兼輔が感じていた痛いような思いを自らのものとしていたのであろう。(*6)

 

ところで宣長は、「紫文要領」のなかで論を進めるにあたり、式部の「気質」「性質」にまで目を配っている。ここで、式部が「日記」のなかに記している、ある出来事を紹介しておきたい。

中宮彰子が、一条天皇の二男となる敦成親王を出産した年(1008(寛弘五)年)新嘗祭にいなめさいでのこと。内裏の数ある祭のなかで最も華やかな出し物となるのが、四人の童女による「五節ごせちの舞」である。帝をはじめとする衆目を浴びながら舞を披露する童女たちを見て、式部は、彼女たちが感じている、顔から火が出るような心持ちを想像し、そこに自らが初めて内裏に出仕した当時の心持ちを重ね合わせる。我が心が我が心を見つめる…… そのまま、こう独りごつ。―今や宮仕えにもすっかり馴れて、あれほど恥ずかしくて嫌だった、人と直かに顔を合わせることもすっかり平気になってしまった。私は一体これからどうなってしまうのだろう、末恐ろしくも思われ、眼前の舞も上の空になってしまった……

式部は、他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていたようだ。そうであればなおさら、「古歌」や「物語」に対する彼女の思い入れの強さも、さらによく理解できよう。

 

このように、「古歌」や「物語」については、式部自身が人一倍親しみ、「昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また己が身の上をも昔にくらべてみて、今の物の哀れをも知り、憂さをも慰め、心をも晴らす」という、その功徳もよくよく体感していたことがわかる。かてて加えてその功徳は、上古の人々から、「古歌」や「物語」において体感され、平安の「今、ここ」の世に至るまで、連綿と受け継がれてきているものであることを、彼女は鋭く直観していたように思う。

 

 

本稿で熟視した、「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」という言葉の少しあとで、小林先生はこのように語っている。

「物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、ただ、かたそばぞかし』と言ったのである」。

 

本稿では、物語の生命の源泉に向けて、宣長も直覚していた式部の気質に光を当てるかたちで論じてきたが、さらなる深みへと降りて行く必要があるように思われる。

 

 

(*1)山本淳子「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)

(*2)藤井貞和氏によれば、「『源氏物語』のなかに『物語、おほむ物語、古物語、昔物語、物語絵、物語す』などの辞例が二百二十余りある」。(『物語論』、講談社学術文庫)

(*3)「『歌がたり』とか『歌物がたり』とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す」(「本居宣長」第十八章、「小林秀雄全作品」第二十七集所収)

(*4)村上天皇の命による、「古今和歌集」に次ぐ第二の勅撰和歌集。

(*5)井伊春樹編「源氏物語引歌索引」(笠間書院)による。

(*6)賢子は藤原道長の兄道兼みちかねの子兼隆との間に女子をもうけた後、時の東宮(皇太子)の皇子みこ乳母めのととなった。その皇子はのちの後冷泉天皇で、その功績により三位さんみという高位を授与された。

 

【参考文献】

・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子校注)

・「紫文要領」『本居宣長集』(同、日野龍夫校注)

・「紫式部日記・紫式部集」(同、山本利達校注)

・清水好子「紫式部」岩波新書

・藤井貞和「物語史の起動」青土社

・山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」朝日新聞出版

(了)

 

編集後記

おなじみの、荻野徹さんによる「巻頭劇場」は、「元気のいい娘」の甥っ子が驚いたように発した、(友だちの)「ユータにもバーバがいる」という言葉から始まる。今回の四人の談話のテーマは、まさに「言葉」である。宣長は言葉の転義に注目した。この談話も、まるで生き物のように広がり、深まっていく。ゆうたくんの心の世界も、今回の直知をきっかけに、大きく大きく成長を遂げていくことだろう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、片岡久さん、冨部久さん、鈴木美紀さん、越尾淳さんが寄稿された。

片岡さんが注目したのは、「本居宣長」の冒頭で紹介されている、小林秀雄先生が折口信夫氏の自宅を訪れた別れ際、駅の改札越しに折口氏から投げかけられた「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉である。片岡さんには、さらなる自問が湧いた。その前段で「古事記伝」の読後感が言葉にならないことをもどかしく感じ、それを「殆ど無定形な動揺する感情」と表現した小林先生の真意とは……?

一方、冨部さんも、「本居宣長」の最後に小林先生が綴っている一文を踏まえ、片岡さんと同じ折口氏の言葉に着目した。冨部さんは、池田雅延塾頭から、「本居宣長」や「モオツァルト」など、小林先生の作品の冒頭近くにおかれる身近なエピソードは、「結論です」と聞いて驚いた。しかしそれは、ただの結論ではなかった。先生の全集を紐解くことで、新たに見えてきたものがあった。

鈴木さんは、従来から「神世七代」が一幅の絵と見える宣長の眼が気になっていた。今年に入り、大切な学びの友の急逝に接し、在原業平の歌を思い出した。その歌を、繰り返し、繰り返し眺めてみた。近くには、契沖の「大明眼」があった。中江藤樹の眼には、「論語」の「郷党篇」が孔子の肖像画と映じていた。その心法が伊藤仁斎の学問の根幹をなしていた。そして、私たち塾生が「本居宣長」を十二年半かけて読んでいる意味が、鈴木さんの眼に映じてきた。

越尾さんは、「源氏物語」の「蛍の巻」において、光源氏と玉鬘との間で交わされる物語論に、宣長が紫式部の物語観を読み取ろうとしたことを小林先生が紹介されているくだりから、丁寧に本文を追っていく。越尾さんは、式部の豊かな読書経験から、物語には「まこと」と「そらごと」の単なる区別を超えた、固有の「まこと」があるということを彼女自身が体得していた、という。そこには、人がおのずと物語に惹かれてしまう本質があった。

 

 

村上哲さんは、宣長が門弟からの「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」という疑問に答えた「小手前の安心と申すは無きことに候」という言葉に注目している。そこから思いを馳せたのは、子を思う親のまごころだ。そこに「安心」はあるのか? 村上さんが向き合ったものは、その宣長の言葉そのものというよりも、むしろその言葉の姿、その答えを返した宣長の姿ではなかったか?

 

 

石川則夫さんによる「特別寄稿」のテーマは、前号に続き「物語」についてである。わけても今号では「その人間生活全般への拡張を見通せれば……」とのことである。そこには、「宣長が『物語』という用語について思い描いていた特殊な意味あい」があり、「宣長は『源氏物語』から非常に抽象度を高めた人間心理の原理論を抽出している」という。ぜひ「本居宣長」を手許において、じっくりと味読いただきたい。

 

 

今号も、手前味噌ながら、収穫の秋にふさわしく実り多き号となった。改めて全稿を読み直してみると、ある言葉や人物に着目し、たっぷりと時間をかけ向き合い続けた結果として、そんな豊饒な実りが育まれたのではないかと思われてくる……

 

実り多き、と言えば、この場を借りて、もう一つの大きな実りを紹介したい。この「小林秀雄に学ぶ塾」(通称、山の上の家の塾、鎌倉塾)の姉妹塾、兄弟塾として、池田雅延塾頭が講師(語り部)を務める「私塾レコダl’ecoda」の新しいホームページ 『身交ふ(むかう)』が、九月末に公開された。

「私塾レコダl’ecoda」の今後の日程や申し込みの手続きはもちろん、過去の講義概要や、塾生同士の交流の場である「交差点」など、盛りだくさんなコーナーが設けられている。本誌『好・信・楽』で築き上げてきた雰囲気を共有する姉妹誌、兄弟誌という位置付けであり、気軽にお立ち寄りいただき、お手許でさまざまにご愛顧いただければ幸いである。

 

本塾では、「私塾レコダl’ecoda」とも緊密に連携を図りながら、「本居宣長」を読む営みを、さらに豊かな実りをねがいつつ、留まることなく続けていきたい。早くも本年最後の刊行を迎え、引続き読者諸賢のご指導とご鞭撻を心底よりお願いする。

 

 

杉本圭司さんの連載「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、杉本さんの都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、杉本さんとともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

編集後記

盛夏のなかでの刊行を迎えた今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から開幕する。いつもの四人は、いつもの「本居宣長」に加えて、法隆寺の宮大工棟梁であった西岡常一つねかずさんらのお話が聞き書きされた「木のいのち木のこころ<天・地・人>」という本の話題で盛り上がっている。くだんの「元気のいい娘」によれば、読後感がそっくりなのだという…… なぜそうなるのか? 四人の対話も、旋回しながら、さらなる深みへと進んでいくようだ……

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さん、北村豊さん、松広一良さんが寄稿された。

小島さんは、小林秀雄先生が「本居宣長」の中で「人間にとって言葉とは何か?」という問いについて思索を深めていることに接して、幼い頃、看護師であったお母様と、ある患者さんのお宅を訪問した時のことを鮮明に思い出した。その記憶を抱きつつ、荻生徂徠や宣長の言語観を汲みつくす先生の思索に時間をかけて向き合ってきた。小島さんは、宣長が言っている「物」の感知という経験の深意を、「しるし」としての言葉の本質を、いよいよ直知されたように思う。

北村さんの自問は、宣長が古学の上で扱った上古の人々の「宗教的経験」の具体的な内容についてである。北村さんは、国学者である宣長の旧邸に仏壇があったことに関する、大正天皇皇后の率直な疑問に対して、「熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思って……」と案内者が応答したエピソードを紹介している。人間は「知恵より経験の方が先」だという小林先生の言葉も踏まえて、その案内者の言葉を、よくよく噛み締めたい。

松広さんが注目したのは、宣長が長い遺言書に書いた「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」という小林先生の言葉である。その「思想」とは何か? なぜ「そうなるより他なりようがなかった」のか? 松広さんは、二つの着眼点からその深層を追究していく。その謎解きの行方やいかに……

 

 

村上哲さんによれば、「本居宣長」を何度も読み返すなかで「存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉」がある。それは、「死」という言葉である。村上さんは、「『死』のあとに残されたものと如何に向き合うかということ」が、「本居宣長」で提示されている問いの一つだと言う。それでは、「あとに残されたもの」とは一体何なのか? 読者のお一人おひとりが、自らの実体験を思い出しながら、村上さんの話に耳を傾けてみていただければと思う。

 

 

石川則夫さんに特別寄稿いただいている「『本居宣長』の<時間論>」も連載五回目を迎える。前回までは、柳田国男が示す歴史観に関し、「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することについて論じてこられた。今回からは、そのことが「『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか」について、いよいよ本編開始となる。文中で紹介されている小林先生の著作はもちろん、折口信夫氏の「死者の書」も座右に置いて、じっくりと向き合いたい。

 

 

今号は、ご覧の通り「『本居宣長』自問自答」を中心に、全体として生と死にまつわる論考が多く、期せずして特集号となった観がある。小林先生にも、それこそ「生と死」という題名の論考があり、「死は前よりしも来らず。かねて後に迫れり。……沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」(生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである)という兼好法師の考えを紹介している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)。

生と死については、それ以外にも、「還暦」という論考の中で、こう述べている。

「私達の未来を目指して行動している尋常な生活には、進んで死の意味を問うというような事は先ず起らないのが普通だが、言わば、死の方から不思議な問いを掛けられているという、一種名付け難い内的経験は、誰も持っている事を、常識は否定しまい。この経験内容の具体性とは、この世に生きるのも暫くの間だ。或は暫くの間だが確実に生きている、という想いのニュアンスそのものに他なるまいが、これは死の恐怖が有る無いというような簡明な言い方をはみ出すものだろうし、どんな心理学的規定も超えるものだろう。日常生活の基本的な意識経験が、既に哲学的意味に溢れているわけで、言わば哲学的経験とは、私達にとって全く尋常なものだ、という事になる。ただ、このような考え方が、ひとえに実証を重んずる今日の知的雰囲気の中では、取り上げにくいというに過ぎない。人の一生というような含蓄ある言葉は古ぼけて了ったのである」。

 

私事ではあるが、大正の時代から一世紀を越えて生きた祖母が初春に亡くなり、先だって郷里で初盆供養を行ってきた。改めて祖母との思い出を、その一生を振り返り、本堂での読経を終えて外に出ると、クマゼミの蝉時雨に包まれた。その刹那、はっとした。音も時間も止まった。眼に飛び込んできたのは、抜け殻につかまって羽化せんとしている真白の若蝉だった。

 

(了)

 

 

横ざまに並ぶ、神々のカタチ
―宣長が観た古人の生死観

「古事記」の冒頭にある「神世カミヨ七代ナナヨ」の伝説ツタヘゴトにつき、令和三(2021)年度の小林秀雄に学ぶ塾における自問自答を踏まえた論考において、私は本居宣長の(*1)を紹介した上で「上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである」と記し擱筆した(「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、本誌2021年夏号所載)。

その伝説ツタヘゴトにつき、小林秀雄先生は「本居宣長」五十章で、このように言っている。

「彼等(坂口注;神代を語る無名の作者達)の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次ツイデ」は、時間的に「タテ」につづくものではなく、「ヨコ」ざまに並び、「同時」に現れて来るカタチを取って映じていた」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)。

しかも、この、「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るということについては、四十八章と五十章の二箇所でも、次のように言及されている。

高天原たかまのはらに、次々に成りす神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、ツギニ何の神、ツギニ何の神とある、そのツギニという言葉は、―『ソレに縦横のワキあり、縦は、仮令タトヘば父のノチを子のツグたぐひなり、横は、の次にオトの生るゝたぐヒなり、記中にツギニとあるは、皆此ノ横の意なり、されば今ココなるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美いざなみノ神とある次まで、皆同時にして、指続サシツヅ次第ツギツギに成リ坐ること、兄弟の次序ツイデの如し、(父子の次第ツイデの如く、サキノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふることナカれ)』、―と言う。『神世七代カミヨナナヨ』の神々の出現が、古人には『同時』の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様よこざまに並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。『天地初発時アメツチノハジメノトキ』と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の『時』は、『天地ノ初発ノ』という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、『時』の縦様の次序は消え、『時』は停止する、とはっきり言うのである」。(同)

「『神世七代』の伝説ツタヘゴトを、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、『天地アメツチ初発ハジメの時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである」。(同)

一方、宣長自身も、「古事記伝」の中で、このことに三度みたび言及している(*2)

このように、小林先生も宣長も重ねて強調している「神代を語る無名の作者達」の眼には、神々が「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るように見えていたということ、「神代七代」の伝説ツタヘゴトが、一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知できるように語られているということが、具体的にどういうことなのか、というのが今回の自問である。

 

今一度、冒頭に紹介した小林先生の言葉をながめてみよう。

「神々の生き死にの「序次ツイデ」は、時間的に「タテ」につづくものではなく、「ヨコ」ざまに並び、「同時」に現れて来るカタチを取って映じていた」。

カタチ」とある。ここで、令和三(2021)年十一月に有馬雄祐さんが、本塾の中で行った、「かたち」という言葉の用例分析を思い出したい。有馬さんは、「物の『かたち』は、あるがままのココロが物に直に触れることで観えてくるもの」、「コトワリが介在する以前の事物の純粋な知覚経験」と言っている(*3)。それでは、ここでいう「カタチ」とは何か? 宣長は何を観たのか?

用例分析の通り、小林先生は、本文において「かたち」という言葉を、「かたち」、「形」、「性質情状」、「像」というように使い分けていて、「像」という字で「カタチ」と読ませているのは、五十章のみである。先に紹介した先生の文章の中に、こんな言葉がある。

「『天地アメツチ初発ハジメの時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている……。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映った」。宣長が見ていたものは、「間違いなく、上古の人々が抱いていた、揺るがぬ生死観であった」。

それでは、宣長には、なぜ「その主題の『像』」、すなわち上古の人々の「生死の経験」、「生死観」を観ずることができたのか? 小林先生は、これを「宣長の第二の開眼」と捉えたうえで、「開眼は、『記紀』の『神代の巻』から直かにもたらされたものだが、これは『源氏』の熟読によって、彼が予感していたところが、明瞭になった事だった、と言えるのである」と述べている。

続けて、宣長の「源氏」論における「雲隠の巻」について詳述する。「雲隠」とは、「幻の巻」と「匂兵部卿におうひようぶきようの巻」との間に置かれた、名のみあって本文のない巻のことである。「幻の巻」では、翌年に出家を控えた源氏の一年間の動静が描かれ、次の「匂兵部卿の巻」との間に八年間の空白が置かれている。源氏の最期については、後の「宿木やどりきの巻」において、「二三年ばかりの末に世を背きたまひし嵯峨の院」と、出家後二三年で亡くなったことが、静かにそれとなく語られるのみである……

 

そこで小林先生は、「主人公の死は語られはしなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかったのである。宣長は、作者式部の心中に入り込み、これを聞き分けた」と断言したうえで、「繰返して言おう」と述べて、こう続ける。

「……われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。……己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下ろしている……愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確かめる事によって完成した」。

そして、そのような、上古の人々の意識が、悲しみの極まるところで、「無内容とも見えるほど純化した時、生ま身の人間の限りない果敢無はかなさ、弱さが、内容として露わにならざるを得なかった。宣長は、そのように見た。『源氏』論に用意されていた思想の、当然の帰結であった、と見ていい」。「宣長の第二の開眼」もまた、第一のそれと同じく「源氏」から来たのである。

 

その後、小林先生は、「古事記」で語られている、伊邪那美神いざなみのかみの死に向き合う伊邪那岐神いざなぎのかみの嘆きについて、宣長が「生死イキシニの隔りを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける」と註した想いを汲んだうえで、このように言っている。

「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。そう言う宣長によれば、「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは……各人が完了する他はない……。しかし、其処に要求されている……直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであった……。そして、死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける。休む事のない生の足どりが、「可畏カシコき物」として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない……」。

すなわち、そのように生死を観ずることもまた人性の基本構造であり、古人の「心ばへ」をわが「心ばへ」とする者は、宣長であれ小林先生であれ私達であれ、自身の「心ばへ」が古人のそれと同様に、人性として生死を観じている、ということに思い至らざるを得ない。

 

 

以上、本文から離れぬよう小林先生の言葉を追ってきたものの、これだけでは十分に肚に落ちたとは言い切れず、若干理屈が先立った感もある。改めて本文に立ち還ってみたい。

そうすると、伊邪那岐と伊邪那美の最後の別れの場面の後にある、先生の言葉が大きく気になり始めた。これまで十数回も向き合ってきて、不覚にも読み飛ばしていた一文である。

「神代を語る無名の作者達は、『雲隠の巻』をどう扱ったか。彼等にとって、『雲隠の巻』は、名のみの巻ではなかった。彼等は、その『詞』を求め、たしかに、これを得たではないか」。

 

小林先生は、「古事記」の「神世七代」の伝説ツタヘゴトを語り合ってきた古人が、後の世に生きた紫式部の「源氏物語」に遺された「雲隠」をどう扱ったか、と書いているのである。時系列が完全に逆転しているようだ。しかし、その直前には、こう書かれている。

「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。

だとすれば、上記の一文は、宣長の「心ばへ」に乗り移った無名の作者達は、「雲隠の巻」をどう扱ったか、と読めば、その含意がわかるような気もしてくる……

いや、そう理屈張らなくても、この前後の文章を、眺めるように、繰り返し繰り返し読んでみると、その逆転が、不思議なこと、辻つまの合わないこととは思えなくなってくる。前後には、こんな記述が続いて現れる(以下、傍点筆者)。

「宣長は、ここ(坂口注;伊邪那岐神の嘆きの件)の詳しい註の中で、契沖になら、『万葉集、巻二』から歌を一首引いている。高市皇子たけちのみこ薨去こうきょを悼んだ(坂口注;柿本)人麿の長歌は有名だが、これにつづく短歌で、『或書反歌』とあるもの、―「哭沢なきさはの 神社もり神酒みわすゑ 禱祈いのれども わがおほきみは 高日たかひ知らしぬ」―『万葉』の歌人が、伊邪那岐命の嘆きをサマは、明らかであろう」(*4)(*5)

「今度は、伊邪那岐の嘆きだが、それより、ここで注意すべきは、嘆きを模倣するのは、万葉歌人ではなく、宣長自身であるところにある(*6)。……この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、に相違ない」。

 

これらの文章の連なりを、「生死イキシニの隔りを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける」という宣長の嘆きの声とともに、眺めるように、それこそ「古事記」の伝説ツタヘゴトや「萬葉集」の長歌を、音として聴くような感覚で読んでみると、神代を語る無名の作者達、萬葉の歌人、紫式部、契沖、宣長、それぞれの「心ばへ」が、横一線に並んでいるように観えては来ないだろうか……

逆に言えば、そのように「横ざま」に観えてくる時の私たちの心持ちは、学生時代に、歴史の試験で覚えた時のような、例えば縄文→弥生→奈良→平安→鎌倉……という人為的に設定された時代区分による時系列的な整理として想起する時のそれとは、大いに異なっているようには感じられないだろうか……

小林先生は、そういう感覚を、その微妙なところを、読者になんとか伝えようとして、あえてこのような書き方をされたのではないかとさえ思えてくる。

 

 

本稿の冒頭で、昨年度の「自問自答」についての拙稿における結語部分を紹介した。それが、「神世七代」の伝説ツタヘゴトを、古人の生きがいという側面から光を当てたものだとすれば、本稿は、古人が死をどのように観じてきたのか、という側面から照射したものとなる。

そこから浮かび上がってくるものは、古人たちが長い時間をかけて見つめ続けてきた、のみならず、私たちでもそうせざるをえない宿命にある、「死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様」なのである。

 

 

(*1)(「神代一之巻・天地初発の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)

天地初発之時アメツチノハジメノトキ。於高天原成神名タカマノハラニナリマセルカミノミナハ天之御中主神アメノミナカヌシノカミツギニ高御産巣日神タカミムスビノカミツギニ神産巣日神カミムスビノカミ此三柱神者コノミハシラノカミハ並独神成坐而ミナヒトリガミナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

ツギニ国雅如浮脂而クニワカクウキアブラノゴトクニシテ久羅下那洲多陀用弊琉之時クラゲナスタダヨヘルトキニ如葦牙因萌騰之物而成神名アシカビノゴトモエアガルモノニヨリテナリマセルカミオノミナハ宇麻志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコジノカミツギニ天之常立神アメノトコタチノカミ此二柱神亦独神成坐而コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

上件五柱神者別天神カミノクダリイツバシラノカミハコトアマツカミ

ツギニ成神名国之常立神ナリマセルカミノミナハクニノトコタチノカミツギニ豊雲野神トヨクモヌノカミ此二柱神亦独神成坐而コノフタバシラノカミモヒトリガミニナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキツギニ成神名宇比地邇ナリマセルカミノミナハウヒジニノカミかみツギニ妹須比遅邇神イモスヒジニノカミツギニ角杙神ツヌグヒノカミツギニ妹活杙神イモイクグヒノカミツギニ意富斗能地神オホトノヂノカミツギニ妹大斗乃弁神イモオホトノベノカミツギニ淤母陀琉神オモダルノカミツギニ妹阿夜訶志古泥神イモアヤカシコネノカミツギニ伊邪那岐イザナギノカミ神。ツギニ妹伊邪那美神イモイザナミノカミ

上件自国之常立神以下カミノクダリクニノトコタチノカミヨリシモ伊邪那美神以前イザナミノカミマデ併称神世七代アハセテカミヨナナヨトマヲス

(*2)「ソレに縦横のワキあり、縦は、仮令タトヘば父のノチを子のツグたぐひなり、横は、の次にオトの生るゝタグヒなり、記中にツギニとあるは、皆此ノ横の意なり、されば今ココなるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美いざなみノ神とある次まで、皆同時にして、指続サシツヅ次第ツギツギに成リ坐ること、兄弟の次序ツイデの如し、(父子の次第ツイデの如く、サキノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふることナカれ)」(同上)

父子相嗣オヤコアヒツグ如く、前の神の御代過て、次ノ神の御代とつづけるには非ず。上にも云る如く、此ノ七代の神たちは、追次オヒスガひて生リ坐て、伊邪那岐伊邪那美ノ神までも、なほ天地の初の時なり。(「同・神世七代の段」同)

「天之御中主ノ神より此ノ二柱ノ神までは、さしつづきて次第ツギツギに同ジ時に成リ坐て、此ノ時もすなはちかの国稚浮脂クニワカクウキアブラノ如クニシテ漂蕩タダヨヘる時なり。(「同・淤能碁呂嶋オノゴロシマの段」同)

(*3)関連論考として、有馬雄祐「『かたち』について」、『好・信・楽』2021年秋号(通巻30号記念号)所載

(*4)(「神代三之巻ミマキトイフマキ・伊邪那美命石隠の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)

故爾伊邪那岐命詔之カレココニイザナギノミコトノリタマハク愛我那邇妹命乎ウツクシキアガナニモノミコトヤ謂易子之一本乎コノヒトツケニカヘツルカモトノリタマヒテ乃匍匐御枕方ミマクラベニハラバヒ匍匐御足而哭時ミアトベニハラバヒテナキタマフトキニ於御涙所成神ミナミダニナリマセルカミハ坐香山之畝尾木本カグヤマノウネヲノコノモトニマス名泣澤女神ミナハナキサハメノカミ葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也イヅモノクニトハハキノクニトノサカヒヒバノヤマニカクシマツリ

……○泣澤女ノ神。萬葉二ノ巻に、哭澤之ナキサハノ神社爾三輪須恵モリニミワスエ雖祷祈イノレドモ我王者ワガオホキミハ高日所知奴タカヒシラシヌ、【昔かく人の命を此ノ神に祈りけむ由は、伊邪美ノ神のかむあがリ坐るを哀みたまへる御涙より成リ坐る神なればか】

(*5)「萬葉集」二の巻所収のこの歌(二〇二番歌)については、参考まで、伊藤博氏による解説(「萬葉集釋注」一、集英社)も付しておく。

―二〇二の歌も「或書の反歌一首」とあるのによれば、反歌として機能したのであり、これは、長歌の異文系統の反歌だったのではないかと思われる。

哭沢の神社やしろ神酒みきかめを据え参らせて、無事をお祈りしたけれども、そのかいもなく、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。

というこの歌は、確実に皇子薨去こうきょ直後の詠である。左注によれば、「類聚歌林るいじゅうかりん」には、檜隈女王ひのくまのおおきみが哭沢の神社で霊験のないのを怨んだ歌として伝えるという。

檜隈女王は伝未詳。死をとどめようとする祈りは死者にえにし深い女性が行なう習いであった。……この女性は、高市皇子の娘または妻のいずれかであろう。……遺族の慟哭をいくらかでも鎮めてやりたいとの心やりから、薨去直後のその歌を人麻呂の殯宮あらきのみや挽歌ばんかに包み込んだことから、この異伝が生じたのであろう。

(*6)(「神代四之巻ヨマキトイフマキ・夜見國の段」、同)

最後其妹伊邪那美命身自追来焉イヤハテニソノイモイザナミノミコトミミヅカラオヒキマシキ爾千引石引塞其黄泉比良坂スナハチチビキイハヲソノヨモツヒラサカニヒキサヘテ其石置中ソノイハヲナカニオキテ各對立而度事戸之時アヒムキタタシテコトドヲワタストキニ伊邪那美命言イザナミノミコトノマヲシタマハク愛我那勢命ウツクシキアガナセノミコト爲如此者カクシタマハバ汝國之人草ミマシノクニノヒトクサ一日絞殺千頭ヒトヒニチカシラクビリコロサナトマヲシタマヒキ爾伊邪那岐命詔ココニイザナギノミコトノノリタマハク愛我那邇妹命ウツクシキアガナニモノミコト汝爲然者ミマシシカシタマハバ吾一日アレハヤヒトヒニ立千五百産屋チイホウブヤタテテナトノリタマヒキ是以一日必千人死ココヲモテヒトヒニカナラズチヒトシニ一日必千五百人生也ヒトヒニカナラズチイホヒトナモウマルル

……○汝ノ國ミマシクニとは、此ノ顕國ウツシグニをさすなり。ソモソモ御親生成給ミミヅカラウミナシタマヘる國をしも、かくヨソげに詔ふ、生死イキシニの隔りを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける。

 

 

【参考文献】

・『源氏物語』(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子 校注)

【備考】

坂口慶樹「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、「好・信・楽」2021年夏号

 

(了)

 

編集後記

今号から、編集長という立場で、本誌の制作に携わることになりました。本誌は、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌です。微力ではありますが、塾の名に恥じぬよう、小林秀雄先生が「還暦」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)で言われている「細心な行動家であり、ひたすらこちら側の努力に対する向う側にある材料の抵抗の強さ、測り難さに苦労している人」、そんな筆者一人ひとりとともに、精魂込めて、時間をかけて、一号一号、世に送り出していく所存です。読者諸賢の倍旧のご指導とご鞭撻を切にお願い申し上げます。

 

 

さて、今号も荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開けよう。いつもの四人の男女によるおしゃべりが始まった。テーマは、小林秀雄先生も、本居宣長も、一生を通じての中心命題として向き合った「人生いかに生きるべきか」である。それは、言葉というもの、生々しい感情と分かちがたい経験というものと、切り離してしまうことはできない……

アンパンマン・マーチも聞こえて来た。

「そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも……」

 

 

今号には「事局観想」という部屋を設け、安達直樹さんが「コロナ禍下で読むカミュの『ペスト』―小林秀雄『ペスト』Ⅰ・Ⅱとともに」と題する論考を寄稿された。安達さんは二つの言葉に眼を付けた。一つは、小林先生が言っている「人生が作られている根本条件」としての「不条理」、換言すれば「空想か忘却によってしか出口のない現実の人間の状態」である、二つめは「具体的な経験を抽象的に扱うことに慣れてしまった私たち」が陥る陥穽としての「抽象」である。そこには、先生が終生通じて大切にされてきたものがあった。タイトルの通り、「ペスト」Ⅰ・Ⅱとともに、熟読玩味いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さん、庄宏樹さん、泉誠一さんが寄稿された。

越尾さんは、「本居宣長」について、一種のミステリー小説を読むような、どぎどきした気持ちにさせられる、と言う。今回の自問自答にいざなわれたのは、「(賀茂)真淵と宣長という師弟の分かれ道という大きな謎」である。本文を追っていくと、師たる真淵の訃報に接し、「不堪哀惜」とだけしたためた宣長の、胸中深くへと誘われていく。

庄さんが初めて「本居宣長」を手にして印象に残ったのが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まり候」という言葉である。庄さんは、「徂徠先生答問書」を紐解き、徂徠の言う「事実」という言葉の含みを体感した。学問が歴史に極まると信じていたのは、徂徠が生涯かけて誠実に向き合い続けた孔子もまたそうであった。庄さんによれば、その孔子自らが体験したことを、徂徠もまた自ら追体験しようと試みていた。その徂徠の深意とは……?

泉さんは、「本居宣長」の刊行時、小林先生が本の帯で言っていた「宣長の述作から、私は、宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考えるといふ、宣長の肉声だけである」という意味が、当初はわからなかったと言う。しかし、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼン」と七転八倒していると、小学生の時の自然観察の体験がまざまざと蘇ってきた。それこそ「之ヲ通ゼント」した鬼神が、ついに立ち現われた瞬間だったのではなかったか。

 

 

石川則夫さんには、2021年秋号に続き「『本居宣長』の<時間論>へ Ⅳ」を寄稿いただいた。石川さんは、今後の論考を進めていくうえで「再読を迫られた西村貞二の記述の中に、看過することの出来ない言葉、小林秀雄の発言を見出した」と言っている。それを端的に言えば、「文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい」という言葉である。石川さんは「回り道かもしれない」と書いているが、熟読必須の回り道だと直観した。

 

 

本塾生の後藤康子さんが、三月三日に急逝されました。諸般の状況のため、きちんとしたお弔いの場に参列することが叶わず、うまく言葉にならない、もどかしい感情を抱えたまま、時間だけが過ぎて行きました。しかし、ようやく本塾で、音楽を愛する仲間と、素読を続けてきている仲間とともに、リモートではあるものの後藤さんの思い出を、感じ、語り合うことができました。

音楽も、素読も、後藤さんには、中心メンバーとなって活動を引っ張っていただきました。後藤康子さん、あなたが「源氏物語」を音読するときの、紫式部の謙抑な気質を思わせる端正な肉声は、私たちの身体の中に生き続けています……

 

 

三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

ご 挨 拶

前編集長 池田 雅延

 

本誌『好・信・楽』は、今号から編集長の任を坂口慶樹兄に継いでもらうこととしました。

実質的にはもう何号も前から坂口兄が編集長を務めてくれていて、令和3(2021)年秋号の創刊30号記念号も坂口兄の采配によって生れた誌面でしたが、本年2月、本誌の母体である「小林秀雄に学ぶ塾」が茂木健一郎さんによって開かれてから10周年を迎えたのを機として新たな10年、20年に向かって再びスタートを切ったのです。

10年と言えば、「小林秀雄に学ぶ塾」の「『本居宣長』精読12年」も本年4月、10年目に入り、マラソンに譬えれば32キロ地点にかかったかというあたりです。本誌編集長の任を坂口兄に託したあとの小生は、これからの3年という歳月、本誌の「『本居宣長』自問自答」にますます力篇を送り込むべく微力を尽くします。

坂口兄にならって小生も、小林先生の「還暦」から引き、あらためての自戒とします、先生は坂口兄が引いた文の後にこう言われています。

―成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。……

坂口編集長ともども、本誌にいっそうのご助力を賜りますようお願いします。

 

(了)

 

編集後記

2022年の第1号、通巻第31号となった今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。いつもの四人の男女による、おしゃべりのテーマは、「おしゃべり」についてである。小林秀雄先生や宣長さんの考えを現代口語によって表現する、荻野さんが発明した、この対話劇は「古今集の歌どもを、ことごとく、今の世の俗言サトビゴトウツせる」ことを成した本居宣長の「古今集遠鏡とおかがみ」を彷彿とさせる域にある。

わけても今号では「『本居宣長』自問自答」において、「生きた言葉」が生まれる源泉まで遡行している入田丈司さんのエッセイと合わせて、両稿のマリアージュ(共鳴する味わい)の妙も含めて愉しんでいただければと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、吉田宏さん、冨部久さん、入田丈司さん、小島由紀子さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

吉田さんが立てた自問は、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ」、そう悟るに至った、という小林秀雄先生の含意についてである。暗中模索するなか、「悟る」という言葉に目を付けた。すると、その反面として「議論」という言葉が目に入る。本文からけっして目をそらさず考え続けていくと、「みづからも歌をよむ」ことを推奨し続けた宣長の姿が目に浮かんできた……

冨部さんは、今般の自問自答にあたり、先述の「古今集遠鏡」をひも解いてみた。古言を自由奔放に現代語訳しているのかと思いきや、訳出法を仔細に記している宣長の気質に直かに触れることができた。さらに、宣長が十代後半で詠んだ歌を辿っていくと、歌と学問が、宣長のなかで共存している様が見えてきた。「古事記」註解という難行のなかでこそ、歌を詠み「遠鏡」を記した、彼の心持ちがまざまざと実感できた。

小島由紀子さんは、「伊勢物語」と「古今集」の両方に収められている在原業平ありはらのなりひらの一首に眼を付けた。そこで、契沖による「伊勢」の注釈書「勢語ぜいご臆断おくだん」と、冨部さん同様に「古今集遠鏡」の原文をひもとき、同じ歌について記されたくだりを読み込んだ。リアルな業平の姿が眼前に浮かぶところ、小島さんが、宣長の言う「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」さまに直観したものは何か?

入田さんは、特に何かの目的があるわけではなく、ただ「心にこめがたい」という理由で人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来るという認識に、なぜ宣長は達することができたのか、という自問を立てている。自身の実体験も踏まえながら、小林先生の文章を丹念に辿っていくと、「生きた言葉」が生まれるためには、が必要であることが見えてきた……

溝口さんが長年抱き続けてきている自問は、本居宣長の言う「シルシとしての言葉」とはどういうことか、である。そこを今回は、声として発せられた言葉ということに留意して本文中の用例分析を行っている。「古事記」に身交むかう宣長のすがたも思い浮かべてみた…… そこはかとなく、文字なき時代に古人が発していた声が聞こえてくる。古言に証せられた宣長さんの喜びの肉声もまた、聞こえてきたようだ。

 

 

「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんは、さる大学の教壇に立って、Ⅾ・H・ロレンスの短編小説を精読することにした。しかし、時短や効率重視の世に生きる学生は、短編物を半年かけて精読するという講義に興味を持ってくれるのだろうか……? 活路へのヒントは、小林先生の「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)にあった。そこには「対象を安易に『わかる』ことへの強い戒め」があった。学生諸氏の反応やいかに?

 

 

新春早々の金曜夜、わけもなく音楽が、わけてもモーツァルトの曲が聴きたくなり、埼玉の演奏会場まで足を運んだ。メインの交響曲もさることながら、「フルートとハーブのための協奏曲」(ハ長調、K.299)が、とりわけ美しく印象的だった。この曲は、パリに滞在中のモーツァルトが音楽の家庭教師をしていた貴族からの依頼で、父がフルート、娘はハープを、各自がソリスト(独奏者)として演奏する趣向で作曲したものだ。その日はちょうど、世界的に活躍中のベテランの男性フルーティストと、若き女性のハープ奏者による共演であり、往時に演奏した父と娘と、その作曲家の心持ちにも思いを致しながら、ソリスト二人とオーケストラの円熟した演奏とアンサンブル、そのマリアージュの妙に感じ入ってしまった。

本誌今号のなかでも同様に、作品が共鳴し合うさまを感じ取り、味わっていただければ幸いである。

 

さて、円熟と言えば、小林秀雄先生に「還暦」という文章があり(同第24集所収)、先生は、円熟するには「忍耐」が必要で、円熟は固く肉体という地盤に根を下している、と述べ、このように続けている。

「忍耐とは、癇癪持かんしゃくもち向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えはないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である」。

これらの言葉の含意は深い。大江公樹さんのエッセイにあるように、安易にわかったようなふりをしない方がよいのであろう。

 

ともかくも2020年が明け、「小林秀雄に学ぶ塾」の「本居宣長」精読熟読12年という宿願成就まで、ほぼ3年となった。小林先生が「時間に関する慎重な経験の仕方」と言うところの「忍耐」をさらに重ね、通巻40号へと歩む本誌も円熟という信頼をその「忍耐」に寄せていきたい。

本年は、小林秀雄先生の生誕120年の年である。

読者諸賢の無病息災をお祈りしつつ、変わらぬご指導とご鞭撻を切にお願いする。

 

 

なお、三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によってやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

 

ボードレールと「近代絵画」Ⅴ
―フランソワ・ポンポン展を観て

慶雲きやううん三年丙午ひのえうまに、難波なにはの宮にいでます時
志貴皇子しきのみこの作らす歌
  葦辺あしへ行く 鴨のがいに 霜降りて
  寒きゆふべは 大和し思ほゆ
     「萬葉集」巻第一 六十四番歌(*1)

 

 

フランソワ・ポンポン(François Pompon、1855-1933)というフランス人動物彫刻家の、日本初となる回顧展が、二〇二一年から二二年にかけて巡回中である。パリのオルセー美術館を訪れた方は、なめらかな外観をした、実物大の「シロクマ」の彫刻を覚えておいでかも知れない。私は昨夏、最初の巡回会場となった京都市京セラ美術館を訪れ、強い印象を受けていたところ、その後同館を幼いお嬢さんとともに訪れた友人から、思わぬ言葉をもらうことになった。お嬢さんの反応も含めてなのか、「少々物足りなかった」というのである。感性高く、俳優、演出家でもある彼女の言葉としては、少し残念ではあったが、その言葉がどうしても頭に残り、巡回先の名古屋、そして群馬県の館林にも、足を運んでみた。そうすると、作品を重ねて観るにつけ、その理由がおぼろげながらも明瞭になり、むしろ重要な示唆さえ含むのではないかと考えるにいたった。さらには、これまで、この「ボードレールと『近代絵画』」のシリーズ(Ⅰ~Ⅳ)において考えてきたことの応用問題を提示されているように思うところもあり、以下に綴ってみることにする。

 

 

ポンポンは、一八五五年、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれた。家具職人であった父の工房で見習いとして働き始め、十五歳になるとディジョンに出て、墓石を彫る大理石職人見習いとして働きながら、夜間は美術学校で学んだ。二十九歳からは、様々な彫刻家のもとで下彫りの仕事を始めた。三十三歳の時には、ヴィクトル・ユゴー(*2)の「レ・ミゼラブル」に登場する貧しい少女コゼットが、重い水桶を持ち上げる姿を彫った石膏立像をサロンに出品し三等を受賞する。その後、悲願の公的買い上げを目指し、ブロンズや大理石でも出品を重ねたものの却下が続き、フランス国家認定の彫刻家という最高位を得ることは、ついに叶わなかった……

しかし、拾う神は現れた。オーギュスト・ロダン(*3)である。彼は、この作品を一目見るなり、試用期間も取らず、即ポンポンを下彫り職人として採用した。ポンポンは工房長まで務め上げ、一八九六年、四十一歳までロダンのもとで働いた。四年後、国による買い上げを再度請願するも叶わず、以後人物像の出品はほとんど見られなくなる。ロダンのもとも離れ、彫刻家サン=マルソー(*4)を手伝うようになったポンポンは、四十七歳の頃から、サン=マルソーのアトリエがあったノルマンディーの片田舎で家畜とともに過ごし、塑像として制作するようになった。一九〇六年、五十一歳の時には、彫刻「カイエンヌの雌鶏」を初出品。しかし、独特のなめらかな表面をした鶏に対する聴衆の反応は、笑い、であった。その後も、「モグラ」「仔牛」「鵞鳥」「ほろほろ鳥」などの動物作品を出品するが、評価は芳しくなく生活も苦しかった。第一次世界大戦後、いっそう貧窮したポンポンは、パリの動物園を制作場所と定めて、放し飼いにされた動物たちを眺め続けた。評価は徐々に上がり始め、一九一九年、六十四歳にして初の個展を開催することができた。二年後には最愛の妻ベルトを亡くす。しかし翌年の一九二二年、サロン・ドートンヌ(*5)に出品した大石膏の「シロクマ」が、大きな、大きな評判を呼んだ。よわい六十五の秋、突如として、偉大で独創的な動物彫刻家として賞賛を受けることになったのである。

 

 

ここで、動物彫刻、もう少し大きく捉えて、芸術のなかでの動物の位置付けについて、留意しておくべきことがある。日本とヨーロッパとの明確な違いについてである。

まず、日本人にとって、動物が主役となっている作品は、古くからある、ごく当たり前のものと言えよう。例えば、京都の高山寺には、中興開祖の明恵上人が愛玩した「木彫りの狛児くじ(子犬)」(鎌倉時代)がある。志賀直哉氏が「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と記しているように、尻尾を振ってこちらに飛び込んでくるような生気溢れる像である。加えて同寺では、今や世界的に有名となった「鳥獣人物戯画絵巻」(平安~鎌倉時代)も蔵している。その頃からは、花鳥を主題とする宋元画の輸入も始まり、室町時代には、日本人の手になる花鳥画も制作された(能阿弥「花鳥図屏風」等)。江戸時代になると、明清画が輸入され、例えば中国人花鳥画家、しん南蘋なんぴん(*6)の細密画法による花鳥画に、多くの日本人画家が大いなる刺激を受けた。動物画は、円山応挙(*7)の子犬図や伊藤若冲(*8)の鶏図など、その後も大きく花開き続けたことは周知の通りである。

さらには、日本における、古代からの人々と動物との関係、飛鳥の頃に伝来したとされる十二支のことも含む日常生活における関わり合いについても、丁寧に踏まえておきたいところであるが、本稿では紙幅の都合上割愛する(*9)

 

 

一方、ヨーロッパにおいては大きく状況が異なり、動物を主役にした美術は、非常に少なかった。その理由については、絵画の世界の約束事として、画中の動物には大きく二つの役割があったためだと言われている(*10)。その一つは「象徴」である。例えば、鳩は平和、犬は貞節を意味した。もう一つは、動物は「物語の脇役」、ということである。聖書や神話が描かれた絵においては、あくまで神や人物が主役で、動物は脇役でなければならなかった。その背景には、「神を頂点に、人間、動物の順に優れたものとするキリスト教に由来する西洋の世界観」があった。いわば作家の前には、制作の大前提条件として、そのような約束事、すなわち社会的な通念があった、というわけである。先に述べた江戸期の動物絵画に対して、十九世紀末、ジャポニスムに沸くヨーロッパの人々は大きな衝撃を受けたという(*11)。彼らがいかに長い時間、そんな通念のもとにあったのかが感得できよう。

彼の地において、そのような通念が見直されるのは、十九世紀半ば、写実による力強い動物彫刻を制作した、アントワーヌ・ルイ・バリー(*12)の登場まで待たねばならなかった。ポンポンは、バリーが亡くなった一八七五年、ちょうど動物芸術に対する人々の態度の潮目が変わりつつある頃、パリへ出てきたということになる。

 

 

ここで、ポンポンの作品に向き合ってみよう。

まず、「餌をついばむ雄鶏」(1907、ブロンズ)。地面の餌をついばもうと大きく首を垂れている。どの角度から見ても「生きている」。しかも、写真のように切り取られた、一瞬間の切断面ではない。今まさに、餌をついばんでいるのだ。いや、さらに近づけば、次の瞬間、急に首を上げ、威嚇の声を発するのでは? という緊張感を、さらには神々しさまでも感じさせる。そこに訳出された連続する動勢ムーヴマンは、彼がロダンから学んだものであった(*13)。ちなみに、後年、大胆に省くことになる体表の羽の表現は、まだ確認できる。

続いて、「カラス」(1929、ブロンズ)。本物のカラスは、例えば、道を歩いていて至近距離で遭遇すると、それなりの威圧感を覚えるものだが、それと同じ圧を感じる。ポンポンは田舎でカラスを見た際、かつてケージの中のカラスを忠実に写し取ろうとした試作が失敗した理由を、このようにして悟ったという。―「ぎくしゃくと、地面に横たわるくらいの角度で移動するカラスは、頭のてっぺんから尻尾までまっすぐの線を描いていた。この歩くことで描かれる線、すなわち動きの線が足りなかったのだ」(*14)。彼は、動物の動く姿を凝視し続けた。何度も、何度も、何度も…… その時間をかけた繰り返しこそが、この臨場感を産み出した。

もう一つ、とりわけ印象深かったのが「雄鶏」(1913-1927、ブロンズ)である。もはや羽や鶏冠とさかの皺など、体表に微細な表現はない。右足に重心をかけながら、胸を張る雄鶏。威嚇の瞬間なのか、早朝、群れ一番の雄たけびを上げようとする刹那なのか…… そのとき、ある影像が私の脳裏に浮かんだ。伊藤若冲の『動植綵絵さいえ』にある「南天雄鶏図」である(*15)。確かに構図はそっくりである。しかしそんなことを遥かに超える、真を見抜き、真を現わし得ているところに出現した、躍動感、いやそういう言葉が空疎に聞こえるほどの、雄鶏の生命そのものを、両作から同様に直観した。絵画と彫刻、細密とその省略という見かけの違いはあれど、各自がそれぞれの気質をもとに永年の労苦の末に噛み出し、彫り出した「すがた」、「かたち」に、同じような感動を覚えたのである。

若冲は、庭に数十羽の鶏を飼い、その形状を極めるのに何年も費やした。彼自身が、「旭日鳳凰図」という作品に、こんな自賛を書き込んでいる(*16)

「花鳥草虫オノオノ霊有リ、真ヲ認メマサニ始メテ丹青ニ賦ス」。

花鳥草虫にはおのおの「霊(固有の生気)」が宿る。観察を尽し、その「真」を認識したのち、作画にかかるべきだ、そう言っているのである。

一方、若冲同様、あまり多くの言葉を後世に残していない寡黙なポンポンには、こういう言葉があった。

「動く動物は、より生命力のある形態を与えてくれる」。

私がポンポンの手になる動物たちに向き合って直観したものは、この「より生命力のある形態」であり、若冲の言う「霊」であり「真」であったのではなかっただろうか。

 

 

このようにポンポンは、動物芸術が、「象徴」や「脇役」という通念から逃れ、ようやく自由になりかけた時代において、動物単体での純粋な表現に徹した。言い換えれば、動物を動物そのものとして彫り上げたのだ。彼には、「シロクマ」や「雄鶏」という名前すらもはや余計なものだったのかも知れない。さらには、表面の微細の表現は思い切って捨て去り、外観のなめらかな線と、内部にある筋肉の塊りの大きな動きによって、動勢と同時に迫真性と崇高性を表現し、そこに生命そのものを観じさせてくれている。

小林秀雄先生は、近代絵画の運動について、「根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」と言ったうえで、その予言的な洞察を行った最初の絵画批評家こそ、ボードレールであったと述べている(「近代絵画」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十二集所収)。かような意味合いにおいて、ポンポンはボードレールの予言の延長線上に現れた、という言い方もできよう。彼もまた、「象徴の森」を横切った一人だったのである(*17)

ちなみに、ボードレールが、その予言を行う上で見抜いたのが、「周囲の人々より余程進んだ時計を持っていた画家達の感覚」であり、その一人がドラクロワ(*18)であった。彼は、初期の動物画家としてもよく知られており、パリの動物園に足繫く通い、ライオンやトラを描いた数は四百点にも及ぶ(*19)。その時の同行者は、先述の動物彫刻家バリーであった。バリーはロダンの師でもあり、若きロダンは、バリーの息子と連れ立って動物園へ通い、動物をよく研究していた(*20)。そして今更言うまでもなく、ポンポンはロダンの工房で沢山のものを身に付けた。ロダンはある日、ポンポンにこう言ったそうである。

「自らの個性は自然を写すことによって見えてくる……生命は、夢の中でもなく、想像の中でもなく、ただ生物の中にしか見つけることができない……光のもとで最初に彫刻がなすべきことは、最も忠実に自然を写すことである……よく構成し、面に置き換えることである……」(*21)

 

 

さて、冒頭で触れたように、友人からの「少々物足りなかった」という、思わぬ展観評をもとに思いを巡らせてきたが、やはりそれは、幼児を連れては長居できない彼女にとって、やむを得ないことだったように思う。というのも、ポンポンの作品を味わうには一定の時間をかける必要があるからだ。そもそも彼が、独自の動物彫刻スタイルを結実させるまでに長い時間をかけた。その労苦の末に、彼の作品には、心を静めてゆっくりと向き合うなかでこそ感得できる動勢や崇高性、ひいては生命そのものが生まれた。加えて、今や巷間あふれる動物キャラクターに慣れ切った私たちは、つい「かわいい!」と感情移入したくなる心持ちから、意識的に離れる必要がある。

それでも彼女には、だいじょうぶ!と伝えたい。きっとお嬢さんは、短時間ではあっても身体全体で、作者が魂を込めて再現した動き、神々しさ、生命そのものを直かに感じていたはずである。その感覚は、意識にのぼらずとも身体が覚えているに違いない。

そもそも、ポンポン自身が、「自分は美術館のために作品を作ってきたわけではない」、そう言っていたのである……

 

 

(*1)―枯葦のほとりを漂い行く鴨の羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮は、とりわけ故郷の大和が思われる、の意(伊藤博「萬葉集釋注」集英社)。志貴皇子は天智天皇の皇子。「羽い」とは、背中にたたんだ左右の羽の交わるところ。伊藤氏は「鴨の羽がいに置く霜に早々と目をつけた鋭さは驚くべき観察である」と評している。

(*2)Victor Hugo、1802-1885、フランスの詩人、小説家、劇作家。

(*3)Auguste Rodin、1840-1917、フランスの彫刻家。作品に「考える人」、「バルザック」など。

(*4)René-de-Saint-Marceaux、1845-1915、フランスの彫刻家。作品に「マリー・バシュキルツェフの胸像」など。

(*5)毎年秋にパリで開催される展覧会。前衛芸術家・新進芸術家を積極的に紹介する。

(*6)生没年不詳、中国(清)の画家。1731年に来日、細密画法を主軸とする迫真的表現の花鳥画は、僧鶴亭や宋紫石という日本人画家により長崎から上方と江戸に紹介された。

(*7)1733-1795、日本の画家。作品に「雪松図屏風」、「朝顔狗子図杉戸」など。

(*8)1716-1810、日本の画家。作品に「動植綵絵」三十幅、「鳥獣花木図屏風」など。

(*9)太田彩「語られる動物、語る動物」、『どうぶつ美術館―描かれ、刻まれた動物たち』(三の丸尚蔵館展覧会図録No.30)、濱田陽「日本十二支考 文化の時空を生きる」中公叢書など。エピグラフ(*1)でも紹介したように、「萬葉集」にも多くの動物が詠まれており、田中瑞穂氏によれば、約4,500首のうち、77種、873首に及んでいる(「万葉の動物考」、『岡山自然保護センター研究報告』第6号)

(*10)音ゆみ子「動物の絵 ヨーロッパ」、府中市美術館『動物の絵 日本とヨーロッパ』講談社

(*11)当時、画家で美術評論家のアリ・ルナンは、こんな言葉を残している(*10)。「(日本美術の動物についての)第一印象は、西洋の芸術の中ではごく小さな役割しか割り当てられていない『獣』を、日本人が偏愛することへの驚きだ。いわば、ヨーロッパ人は常に目を上に向け、崇高なものだけを見てきた。外の世界や、足元で生きている生き物に、それらがこの地上に私たちと同じように生きているにもかかわらず、目を向けようともしなかったのだ」(「芸術の日本」1890年1月号)。

(*12)Antoine Louis Barye、1795-1875。フランスの彫刻家。自然史博物館の教授として動物学の描画のコースで教えた。作品に「鰐を襲う虎」、「蛇を押しつぶすライオン」など。

(*13)ロダン「よい彫刻の重要な美点は動勢―le mouvementを訳出するにあるという事は確かです。……見る人が私の彫像の一端から他端へ眼を映してゆくと、彫像の姿勢の展開してゆくのが見えるのです。私の作品のいろいろ違った部分を通して、筋肉の働きの発端から完全な成就までを追ってゆく事になるのです」(「ポール グゼル筆録」『ロダンの言葉抄』、高村光太郎訳、岩波文庫)。

(*14)「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」美術デザイン研究所

(*15)同様の構図の絵は、「仙人掌群鶏図」(西福寺)の一面にもある。

(*16)若冲との親交の深かった相国寺の僧大典による「若冲居士寿蔵けつめい」にある言葉(辻惟雄「若冲」講談社学術文庫)。

(*17)ボードレールの「悪の華」にある言葉。「自然は神の宮にして、生ある柱/時をりに 捉へがたき言葉を漏らす。/人、象徴の森を経て、此処を過ぎ行き、/森、なつかしき眼相まなざしに 人を眺む」(鈴木信太郎訳。「悪の華」<交感>)。

(*18)Eugène Delacroix フランスの画家。1798-1863年。作品に「キオス島の虐殺」、「母虎と戯れる小虎」など。

(*19)沖久真鈴「なぜドラクロワとバルザックは動物に関心を示したのか―félin ネコ科の猛獣をめぐって」、『AZUR』第18号(成城大学仏文会)

(*20)エレーヌ・ピネ「ロダン 神の手を持つ男」遠藤ゆかり訳、創元社

(*21)リリアーヌ・コラ「フランソワ・ポンポン(1855-1933)」、『フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家』美術デザイン研究所

 

【参考文献】

「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」美術デザイン研究所

松下和美・神尾玲子「フランソワ・ポンポンを知る―群馬県立館林美術館 作品・資料コレクションより―」群馬県立館林美術館

辻惟雄「日本美術の歴史」(補訂版)東京大学出版会

今橋理子「江戸の動物画 近世美術と文化の考古学」東京大学出版会

 

(追記)

フランソワ・ポンポン展は、群馬県立館林美術館のあと、以下の通り巡回予定。

2022年2月3日(木)~3月29日(火)  佐倉市美術館

2022年4月16日(土)~6月12日(日) 山梨県立美術館

 

(了)

 

 

編集後記

今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。

いつもの四人による対話は、元気のいい娘が「やばい」と断言する、「姿は似せ難く、意は似せ易し」という本居宣長の逆説的な言葉から幕を開ける。その深意について、自らの思いを懸命に伝えようとする江戸紫が似合う女は、小林秀雄先生による「ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか」という言葉を挙げた…… 娘は、スマホをオフにすることにした…… はたしてその理由とは?

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、本田悦朗さん、田中佐和子さん、橋本明子さん、荻野徹さん、そして橋岡千代さんが寄稿された。

本田さんは、「なぜ、中江藤樹は戦国の遺風の残る荒れ野のような時代に、近世学問の濫觴らんしょうとなり得たのか」という問いを立てた。「独」という言葉に、そして、その言葉を藤樹がいかに「咬出かみいだ」したのか、ということに注目する。小林先生は、彼の孤立の意味よりも「もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ」と言っている。そこで本田さんが紹介している藤樹の逸話も、じっくりと味わいたい。

田中さんの問いは、「なぜ宣長は、紫式部を思想家と見たのか」ということである。もちろん小林先生が用いる「思想」という言葉には留意が必要であり、田中さんは、先生が三木清氏との対談のなかで語っている「思想というものは、人に解らせる事の出来ない独立した形ある美なのだ、思想というものも、実地に経験しなければいけないのだ……」という言葉に注目している。式部が「物語」という言葉に見出したものはなにか? 田中さんの語るところに、静かに耳を傾けてみよう。

橋本さんは、小林先生が言う「無私を得る」という言葉について思索を巡らせている。「小林秀雄全作品」第27集の帯の言葉が目に入った。――己れを捨てて/学問をすれば/おのずと己れの/生き方が出てくる。そこで橋本さんは、「模倣される手本と模倣する自己」との関係性、例えば、「論語」と伊藤仁斎との緊張した関係のなかでこそ真の自己の発見があると小林先生が考えていたのではないか、ということに思い至る……

「巻頭劇場」でおなじみの荻野徹さんは、同劇場と同じ対話劇の手法で書くことを試みている。くだんの元気のいい娘は、小林先生が、紫式部が創作のうえで物語の「しどけなく書ける」形式を選んだことについて、古女房の語り口を「演じる」・「この名優」・「演技の意味」というような表現を使っているところに興味を持った。語り手と聞き手との関係、そのことを自覚していた式部…… 本稿もまた、対話劇だからこそ読者の心に届くものがある。

橋岡さんが注目したのは、「風雅に従ふ」という宣長の言葉である。山の上の家の塾での自問自答を通じて橋岡さんは、宣長の「道」を理解するためには、彼が言っている「小人の立てる志」という「俗」を知るべきであることに気付かされた。「家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむとも」という宣長の歌を再び眺めてみた。彼が「学問」に向かう姿勢が、小林先生の「本居宣長」執筆の根幹にあったものが見えてきた。

 

 

「『かたち』について」を寄稿された有馬雄祐さんは、本居宣長が使った「かたち」という言葉を、小林先生が使うときに一体何を意味しているのか、と問うている。荻生徂徠は、実理と空理を区別し、空理に陥ることへの警鐘を鳴らした。小林先生は、眼前のすみれの花を黙って見続けよと忠告した。宣長は、「古事記」という「物」に化するという道を行った。そして有馬さんは、ベルクソンを愛読してきた小林先生の深意へと、さらなる一歩を進める。本稿は「物質と記憶」の素読を長く続けてきている有馬さんが到った、一里塚である。

 

 

飯塚陽子さんは、パリに住んでいる。冷たい雨音、バルコニーで熟した苺、寂しがり屋の猫、深いクレバスの底へ…… そして、小林秀雄著「作家論」の最後の章が…… もはやこれ以上の付言は不要であろう。飯塚さんによって綴られた言葉を、詩を読むように、意味を取ろうとすることもなく、ゆっくりと味わってみていただきたい。ただただ言葉として、その姿のままに……

 

 

石川則夫さんの「特別寄稿」は、前稿「続『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ」(本誌2021年夏号)の続編である。石川さんは、前稿の結びを次のように締めくくられていた。「柳田国男の『山宮考』から『先祖の話』まで引きずって来たこだわりは、我々の心身の奥底までも支配し、制御している<時間>という思想を如何にして崩していくかというところにあったのである」。話は、小林先生の「おっかさんという蛍」から、志賀直哉さんの「死を得る工夫」、そしてバッハ夫人のある「確信」を経て、いよいよ「本居宣長」という作品へと向かう……

 

 

2017(平成29)年6月に刊行開始した本誌は、今号で通算30号の節目を迎えた。ここで改めて、本誌をご愛読いただいている読者諸氏に心からのお礼を申し上げたい。

さて、刊行第一号となった2017年6月号の「巻頭随筆」に、吉田宏さんが以下のように書いていた。

「この同人誌『好・信・楽』は、“小林秀雄に問うという奇跡”にでくわした多士済々の塾生たちの小林秀雄への質問・自答と、塾頭の『小林先生ならこうお答えになるに違いない』という返答の、真摯なやり取りであふれるだろう。感動は確かにあったのだ。『本居宣長』という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る上でこれほどの同行者はもう二度と現れない。きっと多くの人たちが、塾生一人ひとりの生きた学問の足取りの音を、また小林秀雄の著作をその生涯にわたり『好み、信じ、楽しんで』きた塾頭の声を聞き取り、受け取ってくれると信じている」。(「小林秀雄に問うという奇跡」)

 

秋も深まる時季に刊行を迎えた今号も、手前味噌ではあるが、多士済々の筆者による多彩な内容が溢れる誌面となった。しかしながら、「『本居宣長』という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る」には、手応えを掴みつつある感触を覚えながらも、いまだ道半ば、と言わざる得ない。同じ号で茂木健一郎さんが言っていた「小林秀雄さんから、池田雅延さん、そして『山の上の家の塾』の塾生たちへの魂のリレー」のたすきの重みを、塾生一人ひとりが改めて全身で感じ取り、艱難辛苦に留まることなく、前を向いて走り続けて行きたい。次の走者は、必ず待っている。

引き続き、読者諸氏のご指導とご鞭撻を、心よりお願いする。

(了)

 

ボードレールと「近代絵画」Ⅳ
―「ボードレールはマネより先輩なのである」

異様な風体 ぎこちない歩調であつた。
雪の中でも泥濘でも あがきながら進んで行つた
その有様は 古靴で死者を踏みにじるかのやうで
無関心といふよりも 世界に敵意を抱いてゐた。

シャルル・ボードレール

「七人の老爺」、『悪の華』より(*1)

 

「サロンを敵とする戦は、マネから始ったが、この戦は、マネを崇拝する新しい画家達によって、執拗に続けられたのである」。これは、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)のルノアール論の中に書かれている小林先生の言葉である。モネ、セザンヌ、ルノアール、ドガ、ゴッホ、ゴーガン、いずれの画家も、戦の先鋒マネを仰いだ。しかし小林先生は、こうも言っている。そのマネよりも、ボードレールの方が先輩なのだ、と。

本稿は、そんな二人の交わりについて、「先輩」という言葉の、字面の意味よりもさらに深くまで掘り、味わってみようという試みである。なお、引用した手紙は、書簡類を丹念に整理されている吉田典子氏の論文「ボードレールとマネ関係資料」(*2)による。

 

 

一八四二年、二十一歳の詩人ボードレールは、亡父の遺産を相続し、継父と母から独立して生活を始めた。当時のフランス文壇は、ラマルチーヌ、ヴィクトル・ユゴー、ヴィニーらによるロマン主義(*3)の全盛期であった。ヴァレリイ(*4)は、当時のボードレールが自らに課した「問題」について次のように言っている。「大詩人たること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」という決意が必然的にボードレールの裡にあり、「のみならずそれは本質的にボオドレールでした、それは彼の国是でした。創造の領域はまた矜持の領域でもあり、ここにおいては、他と異なる必要は存在自体と不可分です。ボオドレールは『悪の華』の序文草案に書いています、『高名の詩人たちが久しい以前から詩的領域の百花繚乱たる諸州を分有してしまった、云々。ゆえに私は別なことをしよう……』。要するに彼は、彼の魂と与件との状態によつて、ロマン主義と称される体系、ないしは無体系に対し、益々はっきりと対立するに到らせられ、強いられるのであります」。

ヴァレリイは続ける。「ボオドレールはロマン主義の最大の巨匠たちの作品と人物のうちに間近に観察される、ロマン主義のあらゆる弱点と欠隙けつげきとを、認知し、確認し、過大視することに、最大の関心―死活に関する関心―を持ちます。ロマン主義は全盛期にある、従ってこれは必滅である、と彼は独り言を言い得たでしょう」。

そう独語しながら、ボードレールは一八四〇年代初頭から、のちに『悪の華』に収められる詩を、止まることなく書き溜めていった。それは、「最も純粋な状態に置かれた詩とはどういうものかを、熱烈に追求」(*5)する最初の戦であった。一八四八年には、異常な感激を覚えたというエドガー・ポー(*6)の作品の翻訳を開始、「笑いの本質」やドラクロワ論などの美術批評も次々に発表し、名声は徐々に高まっていく。

そして一八五七年六月、ついに「詩人の心血を注いだ最初にして最後の詩集」(*7)が上梓された。ところが、直後の七月には、「フィガロ」紙上に『悪の華』の非道徳性を非難する論文が掲載され、公共道徳びん乱の容疑で検察庁による捜査も開始された。八月には裁判所での判決が下り、三百フランの罰金刑が課されたのに加え、六詩篇の削除が命ぜられたのである。

この事件は、鈴木信太郎氏が述べている通り、「十数年にわたる歳月を費して一つ一つ創作していった詩篇を、『悪の華』に集大成した時、いかなる秩序を自ら描いて排列したのだろうか。創作年代的順序によったのではないことは明らかであるが、無秩序で構成のないものとは考えられない。……こういう緊密な構成が感じられる連続から、六誌篇が削除を命ぜられた。これは鎖の環が六個所で断ち切られた感をボオドレールに与えたに相違ない」ことであった。(*1)

彼は『赤裸の心』に、こんな短い言葉を刻んでいた。―「『悪の華』の事件。誤解に基く屈辱。あまつさえ訴訟」(*7)

その胸中や、察するに余りある……

 

こんな境遇にあったボードレールのもとに、クーデターを通じ皇帝の位を獲たナポレオン三世と対峙すべく英領ガーンジー島に亡命、独裁者とのペンによる孤高の戦いを続けていたユゴーから、「あなたの『悪の華』は星のようにまばゆく輝いている」という賞賛と激励の手紙が届く。ユゴー以外にも、ヴィニーやサント・ブーヴ(*8)からも同様の手紙が来たが、彼らが「良俗から非難される詩集を敢て公に批評をする勇気も行為も持ち合わせてはいなかった」という鈴木氏の弁は、ボードレールの胸中にこそあったものではなかったか。

 

 

同じ一八五七年頃、二十代半ばの画家エドゥアール・マネは、古典的かつ保守的な指導を旨とするクチュール(*9)のアトリエでの六年間の修行を脱し、フランスはもとよりアムステルダム、ヴェネツィアやフィレンツェの美術館を訪れ、ティツィアーノやルーベンス、ベラスケスという巨匠たちの作品の模写に明け暮れていた。

一八五九年、マネはサロン(官展)に「アブサンを飲む男」という作品で初挑戦したものの、審査員は一人を除く全員が反対票を投じた。その唯一の賛成者こそ、マネが、「クチュールとは別種の人間で、自分の意志を自覚し、それを率直に表明する男」と評したドラクロワ(*10)である。唯一の慰めだった。ちなみに、当時はまだ画家個人が展覧会を開くという習慣はなく、発表の場としては、十七世紀にルイ十四世による王立アカデミーの事業のなかで設立された、官設の「ル・サロン」があるのみであった。

続いてマネは、一八六一年のサロンに、「スペインの歌手(ギタレロ)」と「オーギュスト・マネ夫妻」という作品を送ったところ、なんとか「佳作」としての入選を果たした。彼にとっては初の勝利であり、周囲に若い画家が集まり始める。しかし、その悦びは長くは続かなかった。

一八六三年、サロンに対する若い画家たちの憤懣の声を聞いていたナポレオン三世は、突如、落選作を展示する「落選者展」を開いた。好奇の目とともに殺到した群衆は、嘲笑する暴徒と化した。わけても彼らの目当ては、マネの「草上の昼食」だった。その画の大胆さ、斬新さが群衆をいたく刺激した。「マネ! マネ!」、会場に響き渡る群衆の声は、彼が待ち望んでいた賞賛ではなく、敗者侮辱の怒声だった。

それでもマネは、裸体画をあきらめない。ティツィアーノ(*11)による「ウルビーノのヴィーナス」に着想を得て、「オランピア」を描き上げ、六五年のサロンに出品する。審査委員は、当初「下劣」として拒否したが、お情け半分、見せしめ半分で、展示は許された。しかし、ここでも「群衆は、腐敗した『オランピア』の前で死体公示所にいるように押し合っていた」(*12)。作品が傷つけられんばかりの状況に、当局は最後の部屋の大きな扉の上という高い場所に移動せざるをえなかったが、それでも群衆の激情は収まることがなかった。喫茶店に座れば、若い給仕は頼みもしないのに、彼のことが書き立てられた新聞を目の前に持ってきた。通りを歩けば罵詈雑言の嵐に遭遇するか、好奇の、しかし冷ややかな眼に眺められる日々が続いた……

 

 

そんななか、マネはたまらず、既に家族ぐるみでも懇意となっていたボードレールへ手紙を書いた。当時ボードレールは、生まれ、育ち、愛したパリを離れ、多額の負債から逃れるようにベルギーのブリュッセルに移り住んでいた。全集の版権を売り、講演で資金を稼ごうという目論見もあった。

―親愛なるボードレール、あなたがここにいて下さればと思います。罵詈雑言が雨あられと降りそそぎ、私はかつてこんな素晴らしい目に遭わされたことはありません。……私のタブローについてのあなたのまともなご判断がいただきたかったです。というのも、こうした非難の声のすべてが私を苛立たせるからで、誰かが間違っているのは明らかだからです。……そちらでの滞在が長引いて、きっと疲れていらっしゃるでしょう。早く戻ってきていただきたいです。これはこちらにいるあなたの友人皆の願いです。……フランスの新聞や雑誌がもっとあなたの作品を載せてくれるといいのですが。この一年の間にお書きになったものがあるでしょうから。(*13)

 

ボードレールは、すぐに返事を書く。

―私は、またしてもあなたのことをあなたに語らなければなりません。あなたの価値をあなたに示してみせなければならないのです。あなたが求めているのはまったく馬鹿げたことです。嘲弄の的にされている、からかいの言葉に苛立つ、人びとには正当な評価をする能力がない、等々、等々。あなたは、自分がそういう状況に立たされた最初の人間だとでも言うのですか? あなたは、シャトーブリアンやワーグナーよりも才能があるというのですか? しかし、彼らだってずいぶん嘲弄ちょうろうされたではありませんか? 彼らはそのために死んだりはしませんでした。あなたがあまり慢心しすぎないために私が言いたいのは、この人たちは、各自が自分のジャンルにおいて、しかもきわめて豊かな一世界の中で、それぞれ亀鑑であるのに対し、、ということです。私があなたにこうした無遠慮な言い方をするのを恨まないで下さい。あなたに対する友情はよくご存じの通りです。……私は衰弱して、死んでしまっています。二、三の雑誌に掲載すべき『散文詩』を山とかかえていますが、もうこれ以上先には進めません。子どもの頃、世界の果てで暮らしていた時のように、実体のない病気に苦しんでいるのです。(*14)

 

さらに、この返事を書いた直後、ボードレールは、マネの知人で、彼を擁護しているため人々から侮辱を受けている、という手紙を書いてきたムーリス夫人に宛てて、このように書いていた。

―マネにお会いになったら、次のことを伝えて下さい。小さなもしくは大きな業火、嘲弄、侮辱、不当といったものは、すばらしい事柄で、もし不当さに対して感謝しないなら、恩知らずということになるでしょう。彼が私の理論をなかなか理解できないことはよくわかります。画家たちというのは、いつもすぐに成功が訪れないと気が済まないのです。でも本当に、マネは非常に輝かしい軽やかな才能があるので、気を落としてしまったら可哀想です。……それに彼は、不当さが増せば増すほど、状況が改善されるということに気がついていないようです……(あなたはこうしたことすべてを、快活な調子で、彼を傷つけないようにおっしゃるすべを心得ておられるでしょう)。(*15)

 

このように、マネを力強く励まし、ムーリス夫人にはその声音まで指示するこまやかな心配りを見せていたボードレールだが、自身の健康は肉体的にも精神的にも衰えるばかり、資金獲得も目論見通りには進まず、八方塞がれた境涯にあったことは、彼の文面にある通りであった……

そんな、自らの肉体の衰弱が進むなか、力を振り絞るようにして綴られた彼の言葉を追ってみると、その力の源泉には、マネへの心からの友情に加えて、あの、『悪の華』事件で自らが受けた「誤解に基く屈辱」がまざまざと蘇ってきたこと、さらには、吉田典子氏も言っているように、「芸術の老衰のなかでの第一人者」という言葉が自分ごとでもあるという、強い自負があったに違いない。そこに傍点を付したのはボードレールであった。

いや、そういう紙背にあるボードレールの気持ちは、手紙を受け取ったマネには、痛すぎるほど直知できたに違いない。

 

 

ここに述べた、ボードレールから「マネへの心からの友情」には、単に心友であるということ以上の意味合いがある。小林先生が、「近代絵画」のボードレール論のなかで言っているように、「ボードレールがマネに認めた新しいリアリズムとは、ボードレール自身の詩のリアリズムと同じ性質のものを指す……伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識をもって人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生という『象徴の森』を横切る筈である。……こういう世界は、歴史的な或は社会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現れる。……詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である、とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物にも頼らない詩の世界の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。そういう性質の画家の魂を、彼はマネに見たのである。マネの絵に、意識的な色感の組織による徹底した官能性を見た。絵は外にある主題の価値を指さない、額縁の中にある色の魅惑の組織自体を指す」。

 

マネには、中学生の頃から揺るがない信念があった。絵画の授業でかぶとを付けた手本の模写を拒絶し、隣の席の子の顔を描いた。その信念は、「自分は見たままを描く」という、終生変わらない口癖と化した。わけても主題が強要される歴史画は大嫌いであった。

彼が、王立アカデミーにアトリエ教室が設置されたことについて、このように述べているくだりがある。

「そこに特許をもつ眼鏡屋を入れれば、たんに競争心が麻痺するだけではないことが人びとにはわからなかったのだ。問題は、この眼鏡屋がある特定の度数の入った眼鏡を使うことに馴れて、その眼鏡を無闇と学生の鼻の上に掛けてやりたがるようになったことだ。こうして、現に、遠近いずれの眼鏡がよく見えるかの処方に応じて、遠視や近視の世代が誕生してしまった。だが、多くの学生たちの中には、あるとき外に出て、彼ら自身の目でものを見始め、突然、これまで習ったのとはまるっきり別に見えるのにびっくりする者もいる。こういう学生は、彼らが成功しないかぎり追放される。しかし成功すれば、アカデミーはそれを自分たちの成功だと声高に数え上げるだろう」。(*16)

マネには、伝統や約束、通念という、アカデミーやサロンの審査員が強要する「眼鏡」は、はなから不要だったのである。その態度は、一八八三年、壊疽えそした左足を膝下から切断するという緊急手術を経て息を引き取るまで、一貫して変わるところはなかった。

 

 

一八六七年五月二十四日、パリで開かれた第二回万国博覧会の作品展からも締め出されたマネは、自ら多額の費用をかけて個展を開き、その落成式が行われた。しかし、せっかく自力開催できたものの、上述の「眼鏡」を嫌悪する一部の若い画家たちを除いて、大衆からは見向きもされることなく、幕は閉じた……

 

同年八月三十一日、シャルル・ボードレールは母の腕に抱かれて逝った。

その約一ケ月前、母オービック夫人が、マネの友人で、のちにボードレール全集を編集するアスリノーに宛てた手紙が残されている。ちなみに、その頃のボードレールは、脳梗塞に伴う右半身不随に失語症も併発し、明瞭な発声ができない状態にあった。

―シャルルは画家のマネさんに会いたがっています。残念ながら私は住所を知らないので、マネさんに手紙を書いて、友人が大声でお名前を呼んでいることを知らせることができないのです。(*17)

 

そのときマネの耳に、先輩ボードレールが、我が身に鞭打つように絞り出した声が、届いていたのであろうか。

 

 

 

(*1)鈴木信太郎訳「悪の華」岩波文庫

(*2)吉田典子「「ボードレールとマネ関係資料」、『近代』118(神戸大学)

(*3)romantisme(仏)は、一八世紀末から一九世紀にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。合理主義によって失われた人間性と自然を回復するために、理性よりは感情、完成された調和よりは躍動する個性が重視された。ラマルチーヌ(Alphonse de Lamartine 1780-1869年)、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo 1802-1885年)、ヴィニー(Alfred de Vigny 1797-1863年)はフランスの詩人。

(*4)Paul Valéry フランスの詩人、思想家。1871-1945年。引用は「ボードレールの位置」、佐藤正彰訳、(*1)より。

(*5)小林秀雄「現代詩について」、『小林秀雄全作品』第7集所収。

(*6)Edgar Allan Poe アメリカの詩人、小説家。1809-1849年。詩に「大鴉」、詩論に「ユリイカ」など。

(*7)辰野隆「ボオドレエル研究序説」全国書房

(*8)Charles-Augustine Saint-Beuve フランスの批評家。1804-1869年。近代批評の創始者。

(*9)Thomas Couture フランスの歴史画・肖像画家。1815−1879年。

(*10)Eugène Delacroix フランスの画家。1798-1863年。作品に「キオス島の虐殺」、「アルジェの女たち」など。

(*11)Tiziano Vecellio 1488,90頃-1576年。イタリアの画家、ヴェネツィア派の巨匠。

(*12)フランスの批評家ポール・ド:サン=ヴィクトールの評。アンリ・ペリュショ「マネの生涯」河盛好蔵・市川慎一訳、講談社

(*13)1865年5月初め、マネからボードレールへの手紙。(*2)に所収(手紙は以下同様)。

(*14)1865年5月11日、ボードレールからマネへの手紙。シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand 1768-1848年)はフランスの作家、政治家。ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883年)はドイツの作曲家。

(*15)1865年5月24日、ボードレールからポール・ムーリス夫人への手紙。

(*16)アントナン・プルースト「マネの想い出」藤田治彦監修、野村太郎訳、美術公論社。なお、著者は、「失われた時を求めて」の著者マルセル・プルーストとは別人。

(*17)1867年7月20日、ボードレールの母オービック夫人からアスリノーへの手紙。

 

【備考】

坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ―我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅱ―不羈独立の人間劇」、同2021年春号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅲ―『エヂプト』の衝撃」、同2021年夏号

 

(了)