編集後記

前号でご案内の通り、本誌は今号より、季刊誌として改めて出帆することとなった。塾生一同、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌という名に恥じない、さらなる誌面の充実に向けて決意を新たにしたところであり、読者の皆さんには、引き続きご指導とご鞭撻を、心よりお願いする次第である。

 

 

まずは、前号に続き石川則夫さんに「特別寄稿」を頂いた。まさに続編という位置付けであり、前号も含めて味読いただきたい。今号では、小林先生の柳田国男観が、時系列で精緻に繰り広げられている。それは、先生の「講演文学」として名高い「信ずることと知ること」が、二度にわたる講演と加筆を経て定稿版へと至る過程でもある。改めて「お月見」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)という作品も読み直したくなった。

 

 

巻頭劇場は、もちろん荻野徹さんである。今回は、くだんの娘がノリノリのラップで口ずさんでいた、「宣長は、『古意を得る』ための手段としての、古言の訓詁くんこや釈義の枠を、思い切って破った」という言葉から幕が開く。さて「ふたつの訓詁」を中心に展開する今回の対話劇、果してどのような大切りを見せるのか、東西東西(とざいとーざい)、ご注目!

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さんと渋谷遼典さんが寄稿された。お二方とも、主題は、小林先生が言っている「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」についてである。

越尾さんは、本塾での自問自答に立った後、突如、同僚の方の訃報に接することとなった。そういう状況の中で、「まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験した」と言う。心からの哀悼の意を表しつつ、越尾さんが真心を込めて綴られた言葉を静かにかみしめたい。

渋谷さんは、小林先生が「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」と呼ぶ、その「『全的な認識力』の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない」点に着眼し自答を試みている。わけても、「全的な認識力」という先生の言葉遣いから「自ずから思い出された」として、渋谷さんが紹介しているベルグソンの文章には、ぜひお目通しいただければと思う。

 

 

今号の「考えるヒント」は、「本居宣長」において、小林先生が使っている二つのキーワードの用例探索特集である。

溝口朋芽さんは、山の上の家の塾の自問自答のなかで、入塾以来、自らのテーマとしてきた本居宣長の「遺言書」へさらに近づく手掛かりとして、「精神」という言葉に注目した。十箇所の用例を精査するなかで、それらの言葉は宝玉のように輝きを増してきた。さらには、一連の宝玉を貫く一筋の緒も見えて来た。なお、溝口さんも言及している通り、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景二十五 精神の劇」(本誌2020年5・6月号掲載)も併せてお読みいただければ、さらに理解を深められることと思う。

その溝口さんの自問自答が深耕される姿に触発された橋本明子さんは、「想像力」という言葉に眼を向けた。それはちょうど、今般の新型コロナウイルス禍の影響を受け、橋本さんの職場でも、想像力を駆使する必要に迫られた時のことであった。そこで橋本さんが見出した「考えるヒント」とは何か?

 

 

今回、橋本さんが引用された『学生との対話』(新潮社刊)に、先生のこのような発言がある。

「イマジネーションは、いつでも血肉と関係がありますよ。イマジネーションというのは頭全体を働かせることですね。頭や精神というのは、常に肉体と直接に触れ合うものです。僕も経験してきたことだが、イマジネーションが激しく、深く働くようになってくると、嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね……」。

 

塾生一同、先生が言うところの「想像力イマジネーション」を我が物とし、本誌読者の皆さんの心にも身体にも響く言葉を求めて、新たな歩みを進めていきたい。

(了)

 

ピカソの「問題性」

天才とは意に随って取戻される幼年期に他ならない。……
顔にせよ、風景にせよ、光、金泥、塗料、きらめく布、化粧
に飾られた美女の魅惑等、それが何にせよ、新奇を眼前に
する小児らの動物的に恍惚とした凝視は、この深い楽しげ
な好奇心の所為となさなければならぬ。

シャルル・ボードレール「近代生活の画家」(*1)

 

 

以前、箱根、彫刻の森美術館(ピカソ館)(*2)を訪れた時、ベビーカーに乗った女児が、両親と一緒に入ってきた。絵の前に来ると、「これなんだろうねー」と甲高い声を上げる。ただ、それだけである。そして、次の絵の前にくると、同様に「これなんだろうねー」と言う。私は、その繰り返しを心地よく耳にしながら、ピカソがねた「みみずく」の陶器と、静かに向き合っていた。

 

 

小林秀雄先生は、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を書き終えて、「先年、外国旅行をした時、絵を一番熱心に見て廻った。当時得た感動を基として、近代絵画に関する自分の考えをまとめてみたいと思い、昭和二十九年の春から書き始め、毎月雑誌に発表して今日に至った」(*3)と記している通り、その執筆動機は、「絵画についての疑い様のない感動」(「ピカソ」、同)が基にある。ところが先生は、ピカソについて、気の置けない大岡昇平さんとの対談で、「ほんとうは好きじゃないんだよ。ただ問題性があって別なところで好きなんだ」(*4)と述べている。つまり、心底では必ずしも好きになれないが、別なる問題性に心動かされてピカソ論を書いた、しかも連載にして17回にも及んだ(*5)。それでは、小林先生が眼を付けたピカソの「問題性」とは一体何なのか? 紙幅の許すところで、考えを深めてみることにしたい。

 

 

小林先生は、ピカソ論の前半で、美術史家ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」の説について、エジプトでの実体験に基づき、多くの紙幅を割いている。この説は、本誌前号(2020年5・6月号)「のがれるゴーガンの『直覚』」でも書いた通り、人間の芸術意欲を駆動する深因について、心理学者リップスの「感情移入の概念」、すなわち、人間側の「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(傍点筆者)を、ロマン主義(*6)が愛好した審美的直観を理論的に再構成したもので、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これをすべての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」として退しりぞける。

ヴォリンゲルはむしろ、ピラミッドに代表されるエジプトの芸術様式が示すように、そこには「生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがあ」り、「われわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である」という「抽象作用の概念」こそ第一義、とするのである。

 

そこで小林先生は、ヴォリンゲルが言う意味合いでの抽象芸術という言葉に、ピカソが反対する理由はなかったという前提で、このように述べている。

「二十世紀の抽象芸術は、明答は得られないにせよ、様に見える。歴史は二度繰返さないが、とは考えられよう」(傍点筆者)。

先生は、ピカソの「実在感から出発しない様な絵はない」という主張と同様、「美術史に最初に現れた抽象的芸術の作者達も実在感から出発した」と言う。作者たるエジプト人らは、「到るところに不思議を見、危険を見て生活していた。彼等に迫る世界の像は、混沌として、不安定であり、これを取り鎮める合理的な世界の解釈は、彼等の能力を超えたものだったから、彼等は、この大敵に対し本能的に身構えをする他はなかったのだが、この身構えこそ彼等の造形力であり、具象のまどわしから逃れて意識の安定を得んとする道であった」。

それならピカソは、何に対し「不思議」や「危険」を見て、身構えたのか……

 

彫刻の森には、「貧しき食事」(1904年)という、印象的なエッチング(銅版画)があった。一組の男女がテーブルに肘をついてすわっている。ともに瘦身である。机上には、酒瓶にコップと、カチカチのパンが二かけ。盲目なのか男は目をつぶり、口を半開きにしたまま、左手を女の肩に回しているが、その指は長くて細い。実に表情的な指だ。私は、秘めた恨めしさを静かに醸し出す、日本の古い幽霊画でも見ているような心持になった。

これは、1901年から04年末までのピカソの作風、いわゆる「青の時代」の作品である。小林先生は、その時代の代表作「自画像」(1901年)について、「孤独なしには、何一つ為し遂げることは出来ない。私は、かつて私の為の一種の孤独を作った」というピカソの言葉にある「孤独」を語っているのだと言う。さらに、そういう作者自身の姿を扱うのに、青の色調、精神医学者ユングが言う「冥府の色」を必要とした、というのも、「名附けようもない自分自身に出会った一種の恐怖に由来すると言ってもいいからである」と言っている。

「貧しき食事」に描かれた男女から、私が感得したものもまた、ピカソが覚えた、そういう一種の恐怖の意識だったのだろうか? いや、小林先生の言う通り、「ピカソの内的体験は、やはり謎にとどまる」だろうし、ピカソから「私には自分を自分流に知る事で手一杯だ」と一蹴されそうなので、さらなる詮索はやめておこう。

 

 

幸いにも、私達は今でも、ピカソが制作する状況を、映像を通じて観ることができる。小林先生もピカソ論の冒頭で、鑑賞後「言葉のない感動が、尾を引いていて、口をきくのもいやだった」と言う、クルーゾー監督による映画「ミステリアスピカソ」(*7)である。

こんなシーンがあった。ピカソは、唐突に「見ててくれ、驚くものを描くから」と言うと、花束を描き始めた。……花束は、そのまま魚のうろこと化す。……魚は、鶏の羽の模様に変わる。すると突然、画面を黒く塗りつぶし始めた。最終的に出来上がったのは、不気味にわらうアルルカン(道化)の顔であった。

別のシーンである。彼は、海水浴場と思しき絵を描き始めた。画面は、何度も何度も書き直されていく。一度や二度ではない、書き直しの永劫回帰である。

ピカソの声が拾われる。

「これはひどいな、まったくだめだ」。

書き直しは続く。

「ますます悪くなる 心配かい? 心配無用だ。最後にはもっと悪くなる……」。

ついに、当初の絵とは似ても似つかない物に変わり果ててしまった。

「またひどくなった。剥ぎ取ってしまおう」。

今度は修復の繰り返しが始まる。

「少しはよくなったか」

ようやく出来上がりか、と思われた瞬間……

 

「これもただ一枚の絵。今ようやく、この絵の全体をイメージできた」。

「新しい画布で、すべてを描き直そう」。

 

このシーン、映画では10分弱に編集されているが、実際の撮影は8日間にも及んだという(*8)

 

もう一つ、小林先生がピカソ論を書くうえで大事にしていた書籍がある。まずは、先生が抱いていたピカソの印象も含めて、そのことがよく分かると思う一節を紹介したい。

「サバルテスというピカソの秘書が書いた『親友ピカソ』(*9)という本がある。先日、訳者の益田義信君から贈られて読んで、大変面白かった。いつか『ライフ』誌上に、何か特殊な発火装置めいたもので、空中に絵を描いているピカソの実に鮮明な写真が出ていたが、毛の生えていない大猿の様な男が、パンツ一枚で、虚空を睨んでいたが、その異様な眼玉には驚いた。こんな眼つきをした男は、泥棒、人殺し、何を為出かすかわからぬが、議論だけはしまい、と感じたが、益田君の訳書を読んでみると、やはりそんな風な人に思えた」。(「偶像崇拝」(同、第18集所収))

続いて、同書の中の一節を引く。前述の映画と相まって、ピカソの実際の制作時の特徴が、よくわかるのではないかと思う。

「彼の心は天も地も彼を抑え引きもどすことも出来ぬ程、急速に一つのことから他へと移って行く。どんな場合でも、人をして話の源を忘れさせてしまうのが常である。彼の無数の幻想の一つを、形につくり上げにかかる時は、話題を全然変えてしまうこともある。何度岐路にはいって話を中絶したことだろう。……彼が時々私にする話の形式は、彼の創作形式と比較せざるを得ない程よく似ている」。

 

 

ピカソには狂的な蒐集癖しゅうしゅうへきもあった。紙くず、骨のかけら、マッチ箱…… あらゆる実物で、ポケットは一杯になって破れ、部屋中に散乱していた。サバルテスが指摘しても、「棄てねばならぬ理由が何処にあるか」と譲らない。小林先生は、この奇癖に興味を持ち、「殆ど彼の制作の原理だ」とまで断言する。「頭脳は、勝手な取捨選択をやる、用もない価値の高下を附ける。みんな言葉の世界の出来事だ、眼には、それぞれ愛すべきあらゆる物があるだけだ。何一つ棄てる理由がない」のである(「偶像崇拝」)。

先生は、ピカソが、「美とは、私には意味のない言葉だ。その意味が何処から来たのか、どこへ行くのか誰も知らないのだからな」と言ったことを踏まえ、このように続けている。

「恐らく彼は、自分の蒐集癖が、『美』の抑圧への、深い反抗に発している事をよく感じているのである」。「自分の心底深く隠れている蒐集の理由だけが正当で、大事なのである」。

 

であるならば、この、ピカソのなげきの声も、さらに深く感得できよう。

「誰もが美術を理解したがる。何故、鶯の歌を理解しようとはしないのか。何故、人々は理解しようとはしないで、夜や、花や、廻りのいろいろな物を愛するのか。ところが、絵画となると、理解しなければならないのだそうである。画家は必要から制作している事、彼自身は、世界の些々たる分子に過ぎない事、説明は出来ないにしても、私達に喜びを与える沢山の他の物に比べて、絵を特に重要視するには当たらぬ事、そういう事を世人が何よりも先ず知ってくれればよいのだが」(「声明」1935年)。(「近代絵画」)

私には、彼が「自らの作品も、頭脳で理解せず、眼でみたまま愛してくれよ」、そう訴えているように聞こえる。そうなると、ピカソ作品の特徴を、キュービズムという外附けの枠組みで分類したり、作品の表題や第三者の解説で理解することも無用ということになる。彼の絵を見て、わからない、と嘆くこともないのだ。

 

確かにピカソは、「我々がキュービスムを発明した時、キュービスムを発明しようという様な意向は全くなかった。が明かしたかっただけだ」(傍点筆者)と言っている。ところが小林先生は、次のように続けるのである。

「ピカソが実際に行ったところは、寧ろ内部からの決定的な脱走だったと言った方がいい。ロマンティスムが育成して来た『内部にあるもの』は、次第に肥大して、意識と無意識との対立とな」る。しかし彼にとって、「意識と無意識が対立する様な暇はな」く、「絶えず外部に向って行動を起こす」。眼前にある対象物に向かって仕事をする。対象物に激突したピカソは「壊れて破片となる」。そこには「平和も調和も」なく、「恐らくはそれは自然をがものとなし得たという錯覚に過ぎなかった」のであろう。

 

先に、ピカソの制作のリアルな有り様を、映画やサバルテスの文章を通じて紹介したが、それらこそまさに、ピカソによる「内部にあるもの」からの脱走、すなわち、彼が対象物に激突して破片と化す様だったのではあるまいか。さらには、そこで私達は、対象を己の所有物と感じたいと欲する「感情移入」の拒絶、すなわち小林先生が言う「ヴォリンゲルの仮説の応用問題」を目の当たりにしていたのではあるまいか。

 

 

ピカソは晩年、子供たちを見ると、このように言っていたという。

「私があの子供たちの年齢のときには、ラファエロと同じように素描できた。けれどもあの子供たちのように素描することを覚えるのに、私は一生かかった」(*10)

さて、彫刻の森の女児は、相変わらず「これなんだろうねー」を繰り返している。

ふと思った。ピカソの作品を味うには、表題や解説の言葉に頼らない注意力を保ちながら、あの女児になりきって観ていくのがよいのかも知れない。

鶯が歌うように、「これなんだろうねー」とだけ繰り返しながら……

 

 

(*1)ボードレール「ボードレール 芸術論」(佐藤正彰・中島健蔵訳、角川文庫)

(*2)彫刻の森美術館(神奈川県足柄下郡箱根町ニノ平1121)
※ピカソ館は1984年に開館。2019年に全面リニューアルされた。

(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収

(*4)「文学の四十年」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収

(*5)向坂隆一郎「『近代絵画』前夜」、『この人を見よ 小林秀雄全集月報集成』新潮社小林秀雄全集編集室編

(*6)ロマンティスム。18世紀末から19世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。

(*7)「ミステリアスピカソ-天才の秘密」Le mystère Picasso、DVD発売;シネマクガフィン、販売:ポニーキャニオン

(*8)この作品「ラ・ガループの海水浴場」(第一作)は、東京国立近代美術館に所蔵されている。

(*9)「親友ピカソ」(美術出版社)

(*10)ローランド・ペンローズ「ピカソ その生涯と作品」(高階秀爾・八重樫春樹訳、新潮社)
※出典確認は、彫刻の森美術館の黒河内卓郎さんにお世話になりました。記して感謝申し上げます。

 

 

【参考文献】

 マリ=ロール・ベルナダック、ポール・デュ・ブーシェ「ピカソ 天才とその世紀」高階絵里加訳、創元社

(了)

 

編集後記

新型コロナウイルス禍がいまだ収束しないなか、深刻な豪雨被害を受けられた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 

 

今号には、本誌2019年11・12月号の「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」に引き続き、石川則夫さんに「特別寄稿」いただいた。今回は、「『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとする」目論見の前段として、小林秀雄先生と柳田国男氏との交流の具体的な様相が、最新の研究成果も踏まえ、その端緒から克明に詳らかにされている。本塾生はもちろん、すべての読者にとってきわめて大きく興味を惹かれるテーマであるだけに、一読者として次回以降の本格山行に同道できることが、今から待ち遠しくなる。

 

 

巻頭随筆は、新田真紀子さんが寄稿された。小さな命を身に宿したとき、新田さんが思い出したのは、近くに住むお祖母さんと毎月行っていた手紙のやり取りである。塾頭の勧めもあって、「ゴッホの手紙」を久しぶりに読み返し、新田さんが新たに感得したことは、小林先生が言うところの「告白」の深意であった。まさに私信を読ませてもらうかのように、新田さんの言葉を玩味したい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島由紀子さんと本田正男さんが寄稿された。

比叡の山から降りる途中、小島さんが思い出したのは、「源氏物語」宇治十帖において、入水後、横川よかわの僧都の助けを得て、叡山の麓、小野の里に移された浮舟の姿であった。そのまま、小島さんの眼は、同帖について評し了えた宣長が詠んだ一首につき、小林先生が記した、この言葉へと向かう――「作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである」――「宣長の夢」とはいかに……

本田さんは、弁護士として、司法修習生を受け入れる折、自分が法廷への提出書面作成のうえで大切にしていることを何だと思うか? という問いを提示しているという。法廷弁論が書面中心となるなかで、本田さんが、そこに映ずる「言葉の姿」にまで細心の注意を払うのは、なぜなのか? 「本居宣長」への自問自答を通じて、本田さんが感得したところに着目したい。

 

 

「美を求める心」に寄稿された橋岡千代さんの足を止めたのは、竹の枝にうずくまる二羽の雀が描かれた地味な墨絵であった。その絵と一心に相向かう橋岡さんの脳裏に、小林先生が言う「観」という言葉が去来する。橋岡さんが、「観」について論じている小林先生の言葉を書き写すことで、観る側が感じることの肝要さを繰り返す先生の言葉の深みをいっそう強く感じた、その自問自答の姿を観じていただきたい。

 

 

今般のコロナ禍という状況下、山の上の家の塾は、やむをえず3月より休会となっていた。しかし、「私たちは、もうこれ以上、今次の災禍に抑圧されてばかりはいられない」という思いも抑えがたく、あくまでの一時避難として鎌倉から場所を移し、「3密」を完全回避するかたちで、7月より再開することができた。同様に、池田塾頭による各種講座も順次再開されており、先日は「小林秀雄と人生を読む夕べ」も開かれた。テーマは「文学と自分」(『小林秀雄全作品』第13集所収)、その中で、小林先生がこのように述べているくだりが、強く印象に残っている。

「……二宮尊徳は思想という言葉は使っていない。大道と言っておりますが、大道はたとえば水の様なもので、世の中を潤沢して、滞る処のないものだが、書物になって了えば水が凍ったようなものだ、その書物の註釈というものに至っては、氷に氷柱つららがぶら下がった様なものだ。『氷を解かすべき温気うんき胸中になくして、氷のままにて用ひて、水の用をなす物と思ふは愚の至なり』と言っております。大切なのは、この胸中の温気なのである。空想の世界の広大さに比べて、確実な己れの生活の世界の狭さを知れとは、この胸中の温気の熱さを知れという事に他なりませぬ」(傍点筆者)。

 

コロナ禍という非常時における今次の塾の再開も本誌発行の継続も、本塾に関わるすべての者の、小林秀雄先生に学びたいと一貫して希う「胸中の温気」によるものである。

本誌は次号より季刊誌となって生まれ変わる。しかし、執筆者の「胸中の温気」に、これまでと変わるところは一切ない。引き続き、読者の皆さんのご指導ご鞭撻を切にお願いする。

(了)

 

のがれるゴーガンの「直覚」

ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。
のがれよう! 彼方へ遁れよう! すでに感じる、鳥たちが
未知の泡立ちと ひろがる空のはざまにあって陶酔しているのを!

ステファヌ・マラルメ「海の微風(Brise Marine)」(*1)

 

ポール・ゴーガンは、1848年、パリで生まれた。父クロヴイスは、反君主制主義者のジャーナリスト、母アリーヌは、ペルーの太守、ボルジア家の血を引く、空想的社会主義の女性闘士フローラ・トリスタンの娘であった。翌年家族とともにペルーに渡り、55年に帰国。65年には見習い船員となり、海軍勤務を経て、71年まで海の男として働いた。その後、株式仲買人に転身し、73年、25歳で、デンマーク人のメット・ガッドと結婚、この頃から仕事の合間に絵を描くようになる。76年の官展(サロン)での入選を経て、82年の株式市場の大暴落の影響もあって翌年には失職し、画家として生計を立てることを決意した。ただしこれは、生涯にわたる生活困窮のはじまりでもあった。

最愛の家族とも別居し、1886年には、ブルターニュのポン・タヴェンに滞在。翌年、パナマに渡るも、マラリアや赤痢に苦しみ、カリブ海のマルティニーク島に移って制作に励んだ。88年、再びポン・タヴェンに戻り、10月からは、アルルでゴッホとの共同生活を行うが、たった二か月で破綻したことは周知の通りである。そして、三たびのブルターニュでは、鄙びた海辺の村ル・プールデュに赴いた。この頃から、ゴーガンの画風が変わっていく。それまでは、印象派の長老ピサロや、敬愛するドガやセザンヌの影響を受けているものが多かったが、輪郭線を入れたり、ベタ塗りのような描法も大胆に取り入れて行った。

彼は、友人のシュフネッケル宛に、こんな手紙を書いている。

「あなたはパリが好きだが、私は田舎がいい。私はブルターニュが好きだ。ここには荒々しいもの、原始的なものがある。私の木靴が花崗岩の大地に音をたてるとき、私は、絵画の中に探し求めている鈍い、こもった、力の強いひびきをきく」。(1888年2月)

小林秀雄先生が言っているように、「ゴーガンがゴーガンになったのは、ブルターニュに於いてである」。(「近代絵画」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)

 

 

ところで、小林先生は、セザンヌ論(同)の最後を、このような言葉で締めくくっている。

「『神経の組織が、ひどく弱ってしまった。油絵をやるだけで、どうにか生きのびている』。これは、(セザンヌ発出の;筆者注)子供宛の手紙(1906年)の一節であるが、同じ文句が、ゴッホやゴーガンの手紙のなかに見附かっても、誰も驚くまい。二人は、絵画への信仰と同時代への不信と叛逆とに於いて、セザンヌの真の弟子であった」。

二人の、セザンヌへの態度について先生は、ゴーガン論(同)のなかで、こう言っている。

「自然に対するセザンヌの信仰を、ゴッホは忠実に受けついだが、ゴーガンは、冒険し、叛逆した。ゴーガンは、セザンヌの感覚の微妙さを知らなかったわけではない。セザンヌを、相も変わらず自然という『古風なオルガンをひいている』(*2)信心家と見なしたかったのである。ゴーガンにとって、色彩とは感覚であるよりもむしろ意味であった。セザンヌが純粋と信じている感覚も一つの意味に過ぎない、文明人の言葉に過ぎない。成る程ゆるぎない程に見える古い感覚かも知れないが、それはせいぜいギリシアまでとどいているに過ぎない。エジプトはどうするか。ペルシア人は、カンボジア人は。ゴーガンを悩ましたものは、ボードレール流の『象徴の森』であったが、それは、もっと気難かしい美の歴史の遠近法を持っていた」。

 

ギリシアまで? エジプトは?

小林先生が言う「美の歴史の遠近法」の内容も含めて、ゴーガンの冒険と叛逆のあり様を探る旅に出てみることにしたい。

 

 

小林先生は、1952(昭和27)年12月から翌年7月にかけて、今日出海ひでみ氏と欧州、エジプトを旅し、2月の末に、エジプトから空路ギリシアのアテネに入った。(*3)そこで先生は、「エヂプトとギリシアの美の姿の相違について、を経験した」と言い、その感覚について「その後、ヴォリンゲル(*4)の有名な『抽象と感情移入』を読んだ時、当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして、面白く思った。私は、美学というものを、あまり好まないのだが、ヴォリンゲルの本には、美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人ののようなものが、感じられて面白く思ったのである」と述べている。(「ピラミッドⅡ」、同第24集所収、傍点筆者)

 

ここで、ヴォリンゲルの考えについて概括しておきたい。彼は、人間の芸術意欲を駆動するものとして、「感情移入の概念」と「抽象作用の概念」の二つに峻別する。前者は、「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」であり、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これを凡ての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」(同)とする。そこで、後者こそ第一義とするものであり、その内容については、小林先生の言葉に耳を傾けてみるのが、理解への早道であろう。

「ヴォリンゲルは、ギリシアとエヂプト芸術様式の相違を、原理的に対立した芸術意欲の結実と考えなければ承知しなかった。ピラミッドが、単に知的な構成を持つと言っても何にも言ったことにはならぬ。この力強い様式には、生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがある。それはわれわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である。彼等の芸術意欲にとっては、感情移入など問題ではなかった。問題ではなかったどころではなく、彼等は、生命感情を否定し、これから逃れようと努力したのである。ロマンチストのルッソオが考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、制作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」。(同)

 

後段の、読者にも自らにも、断言するが如く畳みかけるような先生の語り口に、今から2,500年前のギリシアの文化と、そこからさらに2,500年程遡ったエジプトの遺跡を眼の当たりにして、体感された「非常に激しい感覚」というものが、感じられないだろうか。

わけても、直近、大地震や大型台風、そして新型コロナウイルス禍という自然の災厄に直面してきた者として、「人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない」、という言葉を忘れまい。

 

 

ゴーガンは、好きだと言っていたブルターニュから、のがれた。

1891年、ポリネシアのタヒチへの出発直前に行われた『エコール・ド・パリ』紙のインタビュー記事が残っている。

「私はひとりになるため、そして文明の影響から逃れるために出発するのです。私が創造したいのはシンプルな芸術です。……そのために私は無垢な自然のなかで自分を鍛え直さなければならない。そして未開人たちだけとつきあい、彼らと同じ生活をする。私はそこで、子供のように自分の頭の中にある観念を表明してみたいと思います。この世で唯一正しく真実である、プリミティブな表現手段によって……」。

 

タヒチに到着した彼は、首都パペエテから80km離れたマタイエアに移り、13歳の現地の女性テハアマナと同棲した。1893年にはフランスにいったん帰国し、パリのラフィット街で初の大展覧会を開催、詩人ステファヌ・マラルメとの交流も深まった。

1895年にはタヒチに戻る。97年に最愛の娘アリーヌの訃報に接し絶望。妻メットとの文通もついに途絶えた。そんななかで、大作「私達は何処から来たか、私達は何か、私達は何処に行くのか」を成し、その後自殺を試みるも、果たすことはできなかった。

 

 

ここで再び、芸術意欲に関する小林先生の言葉に戻ろう。引き続いて先生は、ゴーガンが、ブルターニュやマルティニーク島、そしてタヒチなどの原始芸術に、画家としての「突破口を見つけた」ことについて、「ヴォリンゲルの理論も、同じ身振りから出たものだ」(同)と断言している。その背景にあったのは、タヒチから、ダニエル・ド・モンフレー(*5)に宛てたゴーガンの手紙(1897年)のなかにある、「どんなに美しくあろうと、ギリシア人は大きな誤りをやったのだ。君達の眼前に、ペルシア人を、カンボジア人、エヂプト人を捉えてみよ」という一言であった。

「ゴーガンののうちに、どんなに当時の文明に対する嫌悪の情が働いていたにせよ、彼の無私な直覚には動かせぬものがあったであろう。ヴォリンゲルの仮説は、恐らく同じ直覚の上に立つものである。彼の仕事は、体系をなしてはいない。やはり一つのの、美術史上の資料に基く、出来得る限りの解明であった」。(「ピカソ」、同前)

 

改めて、ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」は、1908年に「まるで絵画の革新運動に狙いでもつけた様に」(同)出版されたものである。まさに、その革新運動に大きな影響を与えたのが、感覚的な写実が極端に走ってしまった印象主義の難点を、それぞれの個性的なやり方で乗り超えて進もうとした、セザンヌ、そしてゴッホとゴーガンであった。さらに、その運動は、ピカソのキュービスム(*6)、マチスのフォーヴィスム(*7)の他、未来派(*8)、表現派(*9)、抽象派(*10)、超現実派(*11)というように、主義主張が乱立展開していく。だが「どんなに多くの流派を競おうと、これらすべてのものには、前世紀の絵画に見られなかったと言うだけで、がたしかにある」(同)と小林先生は言っている。

ゴーガンの直覚もまた、そういうところに、先んじて触れていたのではなかったか。

 

 

ゴーガンは、タヒチからも、さらに遁れた。

1901年、千数百キロ離れたマルキーズ諸島のヒヴァオア島に移住し、最後の力を振り絞って創作に打ち込んだ。02年、人生最後の作品群を制作する一方、先に現地に進出していた役人や憲兵、宣教師らと激しく対立した。遁れても遁れても、純然たる未開の地はなかったのである。健康状態の悪化は止まらず、モルヒネ注射や内服薬が手放せない状況であった。

そして、1903年5月8日、ついに力尽きる。54歳であった。

 

その一か月前、彼は、著作「ノア・ノア」を共著したシャルル・モーリス宛にこんな手紙を遺していた。

「僕たちは、物理や、化学や、自然の研究によってひきおこされた芸術上の錯乱の時代をへてきたばかりだ。野蛮性を失い、本能―想像力といってもいい―を失った芸術家たちは、自分たちの生み出すことのできなかった創造的な要素を見出すために、あらゆる小径に迷い込んでしまった。その結果、一人でいると駄目になってしまうので、臆病になり、無秩序な群れをなして行動するようになったのさ…… しかし、僕には、自分自身のものであるこのほんのわずかなものの方がいいんだ。このわずかなものが、他の人々に利用されて大きなものにならないと、どうして言えよう? ……」。(1903年4月)

 

ゴーガンは、独り、さらに遠くへと遁れた。「ほんのわずかなもの」だけを遺して……

 

 

(*1)「マラルメ 詩と散文」(松室三郎訳、筑摩書房)

(*2)「『カルタをする二人の男』をセザンヌは何枚も描いているが、そのうちの傑作とおぼしいものがルーヴルにあって、私はそれを見た時に実に美しいと思った。『セザンヌは、セザール・フランクの弟子である。いつも古風な大オルガンを鳴らしている』という何処かで読んだゴーガンの言葉を思い出した」。(「セザンヌ」同)

(*3)この時の旅行の様子は、「ギリシア・エヂプト写真紀行」として、新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集、冒頭の口絵の後に、小林先生撮影の写真と文章が所収されている。

(*4)ドイツの美術史家、1881-1965年

(*5)フランスの画家、1856-1929年

(*6)立体主義。二十世紀初め、フランスに興った美術運動。対象を幾何学的にとらえて画面構成する技法。ピカソ、ブラックなど。

(*7)野獣主義。主観的感覚の表現に自由な色彩を用い、奔放な筆触が特徴。マチスをはじめ、ルオー、ヴラマンクなど。

(*8)二十世紀初頭、イタリアを中心に興った。キュービスムを動的に推進し、機械文明の感覚を表現するなどした。ボッチョーニ、セヴェリーニなど。

(*9)第一次世界大戦前のドイツに始まる。作者の感情、思想、夢などの主観的表現を通して事象の内部生命に迫ろうとした。カンディンスキーなど。

(*10)抽象美術。現実世界を再現したり、想起させたりすることのない美術の総称。二十世紀の初頭、キュービスム、フォーヴィスムなどが発展したかたちで現れた。カンディンスキーなど。

(*11)1920年代、フランスに興った。フロイトの深層心理学や超常現象への関心を背景に、無意識の世界や衝動の表現を目的とした。ミロ、ダリら。

 

 

【参考文献】

フランソワーズ・カシャン「ゴーギャン――私の中の野生」田辺希久子訳、創元社

高橋明也「ゴーガン」六燿社

ダニエル・ゲラン編「ゴーギャン オヴィリ」岡谷公二訳、みすず書房

(了)

 

編集後記

はじめに、本誌読者の皆さんが、このたびの新型コロナウイルス禍の影響を、少なからず受けておられることとお察しし、心からお見舞い申し上げます。加えて、同禍の影響を本誌編集部も受け、スタッフの足並みが乱れ当初の意のままに対応できなかったため、発行が遅れてしまったことを、心よりお詫び申し上げます。

 

 

さて今号では、とりわけ「美を求める心」に注目されたい。今年の2月初旬、東京で開かれた東京都交響楽団(*1)第896回定期演奏会の特集である。

最初に、本塾ともご縁の深い、同楽団のソロ・コンサートマスター、矢部達哉さんに、「明晰なファンタジー、ロトの指揮」(*2)と題してご執筆いただいた。その内容は、通常、客席からは決して計り知ることのできない、舞台上での指揮者とコンサートマスターとの間の機微である。その機微を、本誌において、ここまで精しく語って下さった矢部さんに、心からの敬意と感謝の気持ちを表したい。読者の皆さんには、ふだん矢部さんが会話をされるときの感じそのままに綴られた穏やかな語り口を、それこそホールで鳴る音に身を任せるのと同じように、じっくり味わっていただければと思う。

 

その演奏会が開かれた、上野の東京文化会館の客席に、杉本圭司さんがいた。今回のエッセイ「音楽を目撃する」は、杉本さんが終演後、矢部さんに出した感謝の思いを伝えるメールが元になっている。紙背から、その感動の大きさ、こころ動くさまが立ち上がってくる。そこで杉本さんが「目撃」したものは、ロトの指揮の舞いの見かけの形ではなく、その「舞い」が、「そのままオーケストラが奏でる音楽として十全に鳴る様」であった。

 

 

もはや本誌の人気の「まくら」とも言える荻野徹さんの「巻頭劇場」は、落語に「もののあはれ」を聴き取る対話から始まる。「娘」は、本居宣長が「源氏物語」に感じたものと同じものがそこに在ると言う。対話は、宣長さんが言う「道」にまで及ぶ。それでは、荻野さんによる「寄席通い」の一席、ご存分にお愉しみを! 今号は「巻頭寄席」である。

 

 

荻野徹さんは、「『本居宣長』自問自答」にも寄稿されている。今回の問いは、神や神代について、「はきはきと語る賀茂真淵」の「内容の曖昧さ」が由来するところの「問題自体の暗さ」、その「暗さ」とは何かである。宣長には、恩師である真淵の学問上の限界が、その心中までもが見えていた。どうしてこんなことになったのか……。荻野さんの「発明」に注目されたい。

 

 

有馬雄祐さんは、「考えるヒント」において、映画の登場人物が、自分自身が何者であるかに気付く瞬間、‘character-defining moment’に関するスピルバーグ監督のスピーチを契機として、生命の創造性と、人間一人ひとりが生きている意味について思いを巡らしている。その手がかりは、スピルバーグ監督と哲学者のベルクソンがともに説く、「直観」のささやきに耳を傾けるところにあると言う。

 

 

改めて「美を求める心」に話を戻したい。今号の矢部さんと杉本さんのエッセイを合わせ読むことで、私は、自分までもが東京文化会館の大ホールに同席し、そこで奏でられる音楽を「目撃」していたかのような錯覚に陥ってしまった。そこに、今回の演奏会場に宿っていた力の凄まじさを感じざるを得ない……。

その夜、壇上にいた矢部さんは、「ロトを通じてラヴェル(*3)と繋がる聴衆のひとりとして、その音楽を聴きました」と言う。客席にいた杉本さんは、ロトと、矢部さんはじめ演奏家の皆さんによる「作曲家の創造の意思に肉薄し、これを再生しようとする誠実と熱情」を感得した。それは、まさに矢部さんが言っているように「時空を超えて音楽と演奏者と聴衆が繫がり合う」一夜であり、その場に居合わせた全ての人たちが、作曲家ラヴェルの心魂と直に触れることができた瞬間だったのであろう。

 

小林秀雄先生は「本居宣長」の中で、こう記している。

「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずからあやある声の『カタチ』となって捕えられる」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p264)

 

杉本さんが、この演奏会で「音楽のもっとも初源的な発生の瞬間に立ち会えたかのような」感動を覚えたと言っているように、矢部さんや杉本さんが、演奏中に感得し「目撃」したものは、ロトの指揮の形を通じて現出した、ラヴェルが自らの叫びや震えを見定めた、その「カタチ」だったのではなかっただろうか。

 

 

(*1)東京都交響楽団:東京オリンピックの記念文化事業として1965年東京都が設立(略称:都響)。定期演奏会などを中心に、小中学校への音楽鑑賞教室(50回以上/年)、青少年への音楽普及プログラム、多摩・島しょ地域での訪問演奏、ハンディキャップを持つ方のための「ふれあいコンサート」や福祉施設での出張演奏など、多彩な活動を展開している。(出典:『月刊都響』2020年1・2月号)

(*2)ロト:フランソワ=グザヴィエ・ロト(François-Xavier Roth)、1971年パリ生まれ、カリスマ性と進取の気性で最も注目を集めている指揮者の1人。ケルン市音楽総監督として同市のギュルツェニヒ管とオペラを率い、ロンドン響主席客演指揮者も務めている。(同上)

(*3)ラヴェル:ジョセフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)、1875-1937年、バスク系フランス人の作曲家、バレエ音楽『ダフニスとクロエ』や『ボレロ』、『スペイン狂詩曲』、『展覧会の絵』のオーケストレーションなどで知られている。

(了)

 

編集後記

令和二(2020)年が始まり、本誌も創刊後3回目の春を迎えようとしている。

昨年の12月には、紅葉が盛りを迎えていたなか、小林秀雄に学ぶ塾の有志で、小林先生にゆかりの深い神奈川県奥湯河原の温泉宿「加満田かまた」を訪れた。今号の巻頭随筆には、その幹事役を務めた森康充さんが、紀行文を綴っている。先生が愛された「年越しの宿」の雰囲気を、行間から滲み出るものも含め、汲み取っていただければ幸いである。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、松広一良さん、冨部久さん、小島奈菜子さんが寄稿された。

松広さんが着目したのは、小林先生が本文(第27章)で、紀貫之に対して使っている、二つの「批評家」という言葉である。松広さんも言及している通り、本誌2019年9・10月号の橋岡千代さんによるエッセイ「批評家の系譜」では、小林先生が、本居宣長と紫式部を「批評家」と呼んだ趣旨が論じられており、この両篇を併せ読まれることで、先生が「批評家」と評する際の、その微妙なトーンの違いを味わっていただければと思う。

冨部さんは、小林先生が言う歴史を味うことと、宣長が言う歌を味うことの違いとともに、歴史と歌を、それぞれ「思い出す」ということに関し、その行為において共通するものについて思いを馳せている。宣長の「うひ山ぶみ」を熟読してみた冨部さんの眼には、小林先生の「歴史を知ることは、己を知ることだ」という言葉に繋がるものが映じてきた。

小島さんが注目したのは、古人達が使っていた、物と一体となった言葉である。彼らは「シルシ」としての言葉の力により、目には見えない神の姿を捉えた。言葉は、その機能である「興観の功」により、新しい意味を生み出していくとともに、物の「性質情状アルカタチ」を心中に喚起し、言霊の世界を作り上げる。その先に、ベルクソンの後ろ姿が見えてきた。

 

 

数学者である村上哲さんは、小林先生が「本居宣長補記 Ⅰ」の最終段落において言及している「虚数」という言葉の使いように驚いた。本居宣長が「暦法というものを全く知らぬ、人間の心にも、おのずから」備わっている暦の観念である「真暦」すなわち、古人なら誰でも行っていた「来経ヨミ」という「わざ」につき考え尽くしたところに関するくだりである。その感動を、村上さんは自らの「ウタ」へと昇華させた。

 

 

「人生素読」に寄稿された飯塚陽子さんは、現在、パリの大学院で文学を学んでいる。生の鋭い感覚と緩慢な死の気配とを同時に感じさせるその街は、墓参の日、濃霧に包まれていた。そこに眠っているのは、早逝した女性ヴァイオリニストである。彼女の奏でる音、「生きた何か」に救われてきた飯塚さんは、こう自問自答する。文学には、霧に沈んだ精神を掬い上げ、その精神に翼を与えることは、出来ないのだろうか……

 

 

冒頭で触れた、旅館「加満田」のある湯河原温泉の歴史は古い。箱根火山の一部をなす湯河原火山由来の温泉であり、「万葉集」に、

 

足柄あしがりの 土肥とひ河内かふちに づる湯の 世にもたよらに ろが言はなくに

 

と詠まれている。「土肥の河内」とは、今日の湯河原町の湯河原谷である。この歌は、巻第十四「あづまうた」に収められた相聞歌そうもんか、すなわち恋心など個人のこころを伝える歌であるが、歌意は、足柄の湯河原谷に湧きゆらぐ湯のように、ちらっとでも不安げにゆらぐ気持ちをあの娘が漏らしたわけでもないのにな……であり、まさに恋する「あずま男」の切ない気持ちが詠まれている。そんな「あずま男」の揺れ動く心持ちを思いながら、湯けむり立つなか浸かった「加満田」の朝湯は格別であった。

 

 

ところで、「万葉集」といえば、冨部久さんも紹介している通り、鎌倉の「小林秀雄に学ぶ塾」とは別に、東京・神楽坂の「新潮講座」において、池田雅延塾頭による「『新潮日本古典集成』で読む萬葉秀歌百首」と題した講座が、2020年4月より新たに始まる。小林先生の本の編集担当と並行して同「集成」の「萬葉集」も担当し、15年間にわたり5人の校註の先生方による註釈討議にも同席し続けた池田塾頭ならではの話に、大きく期待が高まっている。詳しくは、新潮講座のホームページを参照されたい。

(了)

 

セザンヌの「実現レアリザシオン」、リルケの沈黙

きみはボードレールの「腐肉」という前代未聞の詩のことをおぼえているかね。今なら僕はあの詩がわかると言いきれるかもしれない。……この恐ろしいもの、一見ただ胸の悪くなるようなものの中に、存在するすべてのものに通じる<永遠に存在するもの>を見ること、これが彼に課せられた使命だったのだ。
ライナー・マリア・リルケ「マルテの手記」(*1)

 

「実に不思議なことだ」。

この言葉が、ずっと気になっている。小林秀雄先生が、永井龍男さんとの対談で繰り返している、セザンヌ(1839-1906)についての発言である。

「セザンヌという人は、死ぬまで、まっとうな職人で押し通したんだ。芝居っ気なんか、てんでないね。まわりを見まわすようなところはないですね。考えているのは、要するにかんなのことだけだよ。どういうふうに刃を入れたら柱に吸い付くか、また吸いつかないかって、それだけですよ。死ぬまでそれだけですよ。……特にいい画をかき出してから、世間なんかと何の関係もないです。弟子もなし、友人もなし。世界の情勢も、フランスの情勢も何にも彼は知りはしなかった。全然引っこんでいて、画は出来上がったんです。そんなものがどうして全世界に訴えるのかね。と考えこまない奴は、僕は馬鹿だと思う」(「芸について」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収、傍点筆者)

 

 

2019年夏、東京、上野の国立西洋美術館は、「松方コレクション展」で沸いていた。三年前にフランスから帰還し、修復を受けたばかりのモネ「睡蓮、柳の反映」を目玉に、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ムンク等の作品が目白押しであった。

そんな名作が並ぶなか、ごく小ぶりの水彩画三点に強く惹き付けられた。セザンヌの水彩画である。いずれも、デッサン(素描)と色彩が気持ちよく溶け合っている。その一つ、「水差しとスープ容れ」は、容器や果物様の丸みの集合だけで構成されている。丸みと丸みがやさしく共鳴し、中身のスープの香りさえ伝わってくるようだ。縦横の明確な直線も見られず、必ずしも細部まで描き込まれていないにも拘わらず、自然な奥行を感じるなか、静物一つひとつの質量とともに、作品全体としての確たる安定感と統一感を覚える。

セザンヌの晩年の手紙には「実現レアリザシオン」という言葉が頻出するが、まさにこれだと直観した。小林秀雄先生は、「近代絵画」(「セザンヌ」、同第22集、以下、「本作」)でこう述べている。

「彼の語るところ、自然の研究とか感覚のréalisationとかいう言葉が、しきりに現れるが、それは、当時の常識的な意味とはよほど異ったものだと考えられるので、彼が自然の研究という時に、彼が信じていたものは、画家の仕事は、人間の生と自然との間の、言葉では言えない、いや言葉によって弱められ、はばまれている、にある、そして、それは決して新しい事ではない、そういう事だったと言えるだろう」(傍点筆者)

 

そんなセザンヌの水彩画に触れた感想を、小林先生が、「恐ろしく鋭敏な詩人」と評するリルケ(1875-1926)は、手紙にこう記している。

「なにもかもすべてを呼びさましてくれました。実に美しいものです。油絵と同様に確かなもの、油絵は重厚ですが、軽やかです。数枚の風景画、ごく軽く鉛筆の輪郭、そのところどころにいわばアクセントをつけ、確認したものとして、たまたま色彩いろがつけられています。一列に斑点が並んでいますが、それは見事なものでして、筆のタッチは確実、旋律がひとつ映っているようでした」(*2)

リルケが、セザンヌの画と本格的に向き合い始めるのは、彼の死の一年後、1907年の10月に開催されたサロン・ドトンヌ(*3)での「セザンヌ回顧展」からであるため、これは、その直前の、あくまで直観的な感想ということになる。

 

 

昨秋は、横浜美術館で、セザンヌの「りんごとビスケット」という静物画を見た(*4)。台上には14個の果物、右端には、淡い色合いのビスケットが2枚載った皿が半分だけ描かれている。まずは近接して見る。果物のみならず、台、皿、床、壁も含めて、画面の殆どが、小林先生も本作で紹介している「画面に平行した、平たい、段階をなして並列している小さなプランである」独特の筆触タッチから出来ている。その面が、一つの塊をなして大きな面を形作り、それらの組み合わせにより、自然な立体感が創出されている。

逆に少しずつ画面から離れて見ると、タッチの跡は消えて、果物の重量感が増してくる。引き込まれ無心に見ていると、赤や黄色、そしてオレンジ色の果物一つひとつが鳴り始める。室内楽の合奏のように、調和ある響きが心地よく聞こえてくる……

小林先生は、このような感覚を読者に伝えようと、「リルケの言葉を借りたくなる」としてこう言っている。

「リルケは、セザンヌの絵の魅力を夫人に説明しようとして、いろいろな風に手紙で書いているが、それは、いつも色と色との純粋な関聯かんれんという一と筋の道を辿たどって書いている。彼の言葉はあたかもセザンヌの辿った道を極力模倣しようと努めている様に見えるが、リルケは、遂に、『色の内分泌作用』という面白い言葉を見附けている」(同前)

リルケは、あたかも、生物の消化器官内で、食物の内容に応じて無意識的に行われる消化酵素の分泌調整機能のように、「それぞれの色の内部で、他の色との接触に耐える為に、強化と弱化との分泌が、実に自然に行われている様だと言う」のである。

 

 

さて、小林先生が、本作の要所で、その直覚したところを取り上げるリルケは、プラハ生れのオーストリアの詩人である。二十代前半から欧州諸国を旅し、パリでは、1903年に、心酔した彫刻家ロダン(1840-1917)の評伝を発表。邸宅に寄宿するなど親密にしていたリルケが、ロダンに宛てたこんな手紙が残っている。

「いかに生くべきか? そして貴方は答えて下さいました、『仕事をすることによって』と」(*5)

ロダンに、質朴な手仕事の粋を見出し、芸術家として生きる態度を学んだリルケが、次に傾倒することになるのが、当時、既に他界していたセザンヌであった。つまり、先に紹介した、リルケの手紙は、まさにそういう時期にしたためられたものだったのである。そこで、リルケは、セザンヌの何を模倣しようと努めたのか。小林先生の言葉に耳を傾けてみよう。

「リルケの考えでは、画家にしても詩人にしても、存在とか実存とか呼ばれているものに対する態度によって、その真偽がわかるのである。これは態度であり良心であって、単なる観察ではない。『存在するもの』に、愛らしいものも、いとわしいものもない。選択は拒絶されている。『腐肉』(*6)も避けられぬ。だから、大画家にとって、見るとは自己克服の道になる。熟考も、機知も精神的自由さえ安易な方法と思われる様な職人的な努力になる。セザンヌが、自然の研究だ、仕事だ、と口癖の様に言っていたという事は、画家は、識見だとか反省だとかいうものを克服してしまわねば駄目だという意味なのである。これは、意志とか愛とかいうものの、一種れつな使用法の問題だとも言えるので、リルケはいかにもリルケらしい言い方で、それを言っている。『私はこれを愛する』と言っている様な絵を画家は皆描きたがるが、セザンヌの絵は『此処にこれが在る』と言っているだけだ、と言う」(同前)

 

 

上野の東京都美術館では、本作でも紹介されている「カード遊びをする人々」(カルタをする二人の男)と、じっくりと向き合う時間を持つことができた。(*7)

不思議な画である。背広、机、そして奥の壁など、一つひとつの物は、必ずしも明度の高い色ではない。にも拘わらず、光が溢れている。遠くから離れて見ても、その輝きは変わるところがない。「光は絵の内部からやって来る様だ。……凡ては色の関係から来る。全体の調和が、画面を万遍なく巡回する光を生む」(同)。これもまた「内分泌作用」の一つなのであろう。

改めて画面と向き合ってみる。カード遊びに興じる二人の会話が聞こえてくる…… さらに時間をかけて向き合う。会話は途絶え、無言のゲームが続く。私は沈静感に浸り、画面に吸い込まれる。自らの感覚も無くし、ただ静寂のみが、そこに在る……

 

このような感覚を、小林先生は、こう表現している。

「彼等は画中の人物となって、はじめてめいめいの本性に立ち返った様な様子であるが、二人はその事を知らず、二人の顔も姿態も、言葉になる様なものを何一つ現してはいない。ただ沈黙があり、対象を知らぬ信仰の様なものがあり、どんな宗教にも属さぬ宗教画の感がある」(同)

 

展示室のこの画の前には、大きな人だかりができていた。観客一人ひとりが、近くのパネルにある詳細な解説文の内容も忘れてしまったかのように、無心に視入っていた、いやむしろ、画面に視入られていた、とさえ私には見えた。観客たちは、セザンヌが、「感覚の実現レアリザシオン」すなわち、言葉が阻んでいる、自然との「直かな親近性の回復」、「直かな取引」を行うさまに見入っていたように感じたのである。それは、セザンヌの心眼に映じていたものに見入ること、セザンヌ本人と一体化することであるとも言えよう。

リルケもまた、同様にセザンヌの作品と向き合った。その時リルケは、何を思っていたのか? 鋭敏な彼は、小林先生のように「実に不思議なことだ」と考え込まなかったであろうか?

 

ちなみに、同じ部屋の片隅では、セザンヌが、画家のベルナールに宛てた手紙の肉筆にも触れることができた。野外での製作中、雷雨に打たれたことが原因でその生涯を閉じることになる約二年前、当時65歳のセザンヌは、このように認めていた。

「画家は自然の研究のために全身全霊をささげ、教えとなるような絵を制作するよう努めなければなりません。芸術についてのお談義はほとんど無用です。仕事をすることで固有の技能が進歩します。それだけで、世の馬鹿者どもに理解されないことの十分な埋め合わせになります」(*8)

あたかも一つの絵画作品のような、しっかりとした筆記体の姿が美しかった。ベルナールに導かれて書いた、という面もあったのかもしれないが、その手跡から、人間と自然との間には、私心も言葉も介在無用だという、彼の強い信念を汲み取ることができた。

 

 

その後リルケは、「むろんぼくには大変な魅力のある試み、セザンヌについて書くという試みには慎重であらねばならないのだ」(*9)と手紙に書いていた通り、ロダン論に続けてセザンヌ論を著すことを断念するに至る。それに続く言葉にも注目したい。

「私的な観点から絵を理解する人間は、絵について書く資格はないのだ。事実以上のことや、事実以外のことをその絵で体験したりすることもなく、こころ静かにその絵があるがままにあるその存在を確認することを知っているならば、その絵にたいし、もっと正当な立場にあることは確かなことだろう」

 

詩人リルケは、セザンヌ論について「正当な立場」を堅持し、沈黙を守った。

1910年には、セザンヌの作品に出会う前の1904年、ローマの仮寓で最初の一行を書き始めてから少しずつ執筆を進めてきた「マルテ・ラウリツ・ブリゲの手記」(通称「マルテの手記」)が出版された。見ること、生きること、愛すること、及びそれらに胚胎している死というものについて、身を以て綴った書である。彼は、ひそかにこんな手紙を残していた。

「ブリゲの死、それこそセザンヌの生、晩年三十年の生に当る」(*10)

この書は、一世紀以上を経た今でも多くの読者を得て、世界中で読み継がれている……

 

(*1) リルケ「マルテの手記」高安国世訳、講談社文庫、「腐肉」については、(*6)を参照。

(*2) 「リルケ美術書簡」、塚越敏編訳、みすず書房
パウラ・モーダーゾーン-ベッカー宛、1907年6月28日付

(*3) ベルギーの建築家ジュールダン、ルドン、カリエール、ボナール、ドニ、ルオー、マチスらによって、国民美術協会による「サロン・ナシオナル」の保守性に対抗し、1903年に結成された「秋の展覧会」

(*4) オランジュリー美術館コレクション「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」

(*5) アンジェロス「リルケ」富士川英郎・菅野昭正訳、新潮社

(*6) ボードレールの詩集「悪の華」に収録された詩。真夏に恋人と見かけた、道端で腐敗しつつある動物の死体を歌う。「セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦していた」。(本作)

(*7) コートールド美術館展。本作で紹介されているものは、ほぼ同じ構図のオルセー美術館蔵のもの。ちなみに同展は、愛知県美術館(2020年1月3日~3月15日)、神戸市立博物館(同3月28日~6月21日)でも開催予定。

(*8) 1904年5月26日付、「エミール・ベルナールに宛てたセザンヌの手紙」永井隆則訳、『コートールド美術館展 魅惑の印象派』図録、朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション

(*9) 同前、当時の妻クララ宛、1907年10月18日付

(*10) クララ宛、1908年9月8日付

 

【参考文献】

リルケ「マルテの手記」大山定一訳、新潮文庫

高安国世「わがリルケ」新潮社

 

(了)

 

編集後記

日本中が沸いたラグビーワールドカップの興奮も冷めやらぬなか、早いもので、本誌も令和元(2019)年の締めを迎えた。そんな今号は、読者の皆さんには、もはやお馴染みとなった荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。先日、荻野さんとの立ち話で、当劇場の話題になった時、「本居宣長」で小林秀雄先生が仰りたかったことを伝えようと模索しているうちに、自ずとこのような対話形式に落ち着いた、という趣旨の話を伺った。今回のお題目は、「めでたき器物」。その言葉がたたえる含みを、じっくりと玩味いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、泉誠一さんと入田丈司さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

泉さんの自問自答は、契沖の「大明眼」と言われるものが、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読むうえで「絶対不可欠だった何かだ」という直覚に始まる。その直覚を端緒とし、「本居宣長」の熟読熟視を通じて泉さんが体感したものは、在原業平の辞世の句が、読み人知らずの歌のように思えてきたことだと言う。そこで、泉さんの眼に現れてきたものは何か?

入田さんは問う。小林先生が言う、宣長の「物語の中に踏み込む、全く率直な態度」とは何か、さらには、そのような態度がなぜ大切なのか…… 続けて、思いを馳せる。言葉では直接には表現できない、「言葉の奥に潜むものに読者が感応する」ために必要な態度とは、私たちが、非言語芸術である音楽を愉しむ態度に重なるのではあるまいか……

溝口さんは、折口信夫氏が、面談の別れ際で小林先生に言った「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉に注目して自問自答を行った。しかし、そこから聞えて来たのは、小林先生の声である。「先を急ぐまい」、その言葉にしたがい、「源氏物語」の「帚木ははきぎ」を音読してみた…… 一定の時間をかけて、手順を踏まなければ感得できないものが、そこにはあった。

 

 

石川則夫さんには、國學院大学大学院生の皆さんと松阪を訪問されたおりの、本居宣長記念館の吉田悦之館長との会話を発端とする「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」という貴重な論考を寄せて頂いた。伊勢神宮の内宮ないくうは荒木田氏、外宮げくう渡会わたらい氏が世襲の宮司職であったが、その荒木田氏の墳墓の地、山宮跡に館長が行かれたのだという。石川さんは、「実に生々しい場所なんです」という館長の実感に、奥深い力を感じた…… 圧巻必読、興奮必至の「特別寄稿」である。

 

 

北村豊さんによるエッセイは、「模倣」という方法論から始まる。本居宣長は、契沖を模倣した。契沖は、仙覚の方法を受け継いだ。北村さんは、直観で選んだ小林先生のCD講演録(新潮社)で、契沖研究の第一人者である久松潜一氏が、國學院大学で小林先生を講師として紹介する声を聴いた。はたして、そのCDの解説を書かれていた方は…… 無私なる模倣は奇縁を引き寄せる。

 

 

本誌前号(2019年9・10月号)の当欄でもご案内した、杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』の書評を、杉本さんの盟友でもある三浦武さんが寄せられた。三浦さんは、杉本さんに学んだ第一が「熟読」、すなわち「敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為」にあると言う。

年の瀬の慌ただしさにかまけて、我を見失いそうになる時季を迎えた今、三浦さんが引かれた小林秀雄先生のこの言葉を、一呼吸入れて、改めて噛みしめておきたい。

――批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。

 

さて、来たる令和2(2020)年、2度目となる東京オリンピックの開幕を迎える。前回は昭和39年(1964)、その年に小林先生が書かれた「オリンピックのテレビ」という文章(『小林秀雄全作品』第25集)を、読み返してみたくなった。

 

読者のみなさま、よいお年をお迎えください。

(了)

 

語釈は緊要にあらず端緒としての契沖「百人一首改観抄」

本居宣長は、「玉勝間」(二の巻)において、若かりし頃を、こう思い出している。

亡父の家業を継ぎ、家運挽回に努めていた義兄は病死、江戸の店は倒産した。そこで自分は、母のすすめもあり、二十三歳の時、医術を習うべく京都遊学に出た。

「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖(*1)といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、……」

この告白について、小林秀雄先生は「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」と評している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.56)。

私は、「宣長の自己発見の機縁」となった契沖という人間に、さらに一歩近づいてみたいという思いが募り、その機縁の端緒となった「百人一首改観抄」(以下、同抄)をひもとき、幾度となく眺めてみた。

 

 

そこには、読者に対して、上から教え諭すような姿勢は一切なかった。仏教的にも儒学的にも、そんな気配は皆無である。小林先生の言うとおり、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」る、その「直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」のだから、これらをいっさい排して見る、という姿勢で貫かれていた。この、古典にむかう態度を、宣長は「大明眼」と呼んだ。

「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、……ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(あしわけをぶね)

 

私自身が、同抄に触れて、まさに目が覚めたように感じたのは、一首一首について相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する契沖の綿密な眼差しであった。具体例を示したい。

鎌倉右大臣、すなわち源実朝にこんな歌がある。

 

世の中は 常にもがもな 渚ぐ 海人あま小舟をぶねの 綱手つなて悲しも

 

眼の前の渚を、漁夫が小舟を漕いでゆく、その綱手引くさまを、実朝は、「悲しも」と詠んでいる。だがこの「悲し」は、今日私たちが言う「悲しい」ではなく、「ああ、趣きがある、心惹かれるなぁ」というような感慨である。そのことと相俟あいまって、契沖が着目するのは、「世の中は 常にもがもな(ずっとこのままであって欲しい)」という言葉である。

さっそく彼は、「まず本歌の心をあらあら注すべし」として、実朝が本歌取りの技法で取りこんだ本歌三首を示す。

 

河上の ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常娘子とこをとめにて

(万葉集 巻第一、吹黄刀自ふきのとじ

 

荒磯辺ありそべに つきて漕ぐ海人あま から人の 浜を過ぐれば 恋しくありなり

(万葉集 巻第九、雑歌)

 

陸奥みちのくは いづくはあれど 塩釜の 浦ぐ舟の 綱手つなて悲しも

(古今集 巻第二十、よみ人しらず)

 

契沖は、第一の本歌について言及する(*2)。「ゆつ」すなわち神聖なこれらの岩々は、岩であるがゆえに草も生えず永遠にある、自分の命もいつまでもあって欲しい、仙女のように老いることなくこの山川を眺めていたいから、が歌意である。神々しい景色を見て長寿をねがうというのには、そこを愛でる気持ちがあるのだと言う。実朝の歌の「常にもがもな」も、こういうところから出ていて、歌としての大意も「万葉集」の歌と同じく、長寿を希うことで眼前の光景を讃えているのである……。

このように第二、第三の本歌も同様に読み解いていった最後、彼は、実朝の歌全体についてこのように言う。

「旅に出て、えもいはずおもしろき浜づらを行くに、渚につきて綱手引きて漕ぎゆく漁夫あまの釣舟の、様々のめ(海藻)を刈り、魚を釣り、貝を拾ふを見るに、飽かず珍かにおぼゆる故に、かくて常にここにながめをらばやと思ふによりて、世の中は常にもかなと、ながき命のほしくなるなり」。

 

続けて「万葉集」から、「おもしろき所などにつきて命を願ひたる類」として、以下の三首を引く。

 

我がいのちも 常にあらぬか 昔見し きさの小川を 行きて見んため

(万葉集 巻第三、大伴旅人)

 

万代よろづよに 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内かふちの 大宮所おほみやどころ

 

人みなの 命も我も み吉野の 滝の常盤ときはの 常ならぬかも

(万葉集 巻第六、笠金村かさのかなむら

 

命長らえて、昔見た小川をもう一度訪れてみたい……、激流渦巻く吉野川にある離宮は、見続けても飽きることなどありはすまい……、皆の命も我が命も、滝の不動の岩のように永遠にあってくれないものか……、そんな趣旨の歌を列挙することによって、「常にもがもな」という心、ずっとこのままであって欲しいと祈るような心情を、その言葉の持つ含みまで込めて、読者に眼のあたり見させてくれているのである。

さらに契沖は、「枕草子」に記された清少納言の言葉までも引くのだが、ここでは、その詳細は割愛する。ともあれ、このように語釈や自らの勝手な解釈は避け、先行する歌や随筆という具体的な作物を連ねることで、作者の心持ちへの近接に徹する彼の態度は、作者が己の「思フ心」を、どのようにことばをととのえて表現しようとしたかに肉薄し、自得せんとするものだと言えよう。

 

 

以上のことを念頭に、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、宣長の「うひ山ぶみ」から引かれた、こんな文章が眼に飛び込んできた。

「『語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひかごと、多きぞかし』

これと殆ど同じ文が『玉勝間』(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教えではなく、余程彼の言いたかった意見と思われる。古学に携る学者が誘われる、語源学的な語釈を、彼は信用していない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、という彼のはっきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵(*3)を受けて、『語釈は緊要にあらず』と言う宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭かんとう(*4)にあったと言ってもよい」(同p268-269)。

「うひ山ぶみ」が著されたのは、畢生の大作「古事記伝」を擱筆かくひつした後、宣長六十九歳の時点であることも踏まえれば、これはまさに、長年にわたる確信に確信を重ねたうえで到達した、鋭角的な断言と受け留めてよい。

わけても、宣長の、この言葉を熟視したい。

「諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」。

この教えこそ、先ほど私が同抄を読んで感得した、「相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する」契沖の態度に、重なってはこないだろうか。

 

 

宣長は、県居あがたゐ大人うしとして敬愛する賀茂真淵に学んだ。その教えは、「学問の要は、『古言を得る』という『低き所』を固めるにある、これを怠って、『高き所』を求めんとしても徒事である」ということであった。ここで「真淵の言う『低き所』とは、古書の註釈、古言の語釈という、地道な根気の要る仕事」であり、小林先生は「宣長は、この道を受け、いよいよ低く、その底辺まで行ったと言ってもよい」と言い切る。その「底辺まで行った」ということは、例えば、宣長が「古今集遠鏡とおかがみ」を成したことで具体的に示されている。

古典原典の直接研究を旨とする「古学」の血脈にある宣長が、「古今集」の歴代初の現代語訳者となったのである。この、一見不可解な営為の動機については、「物の味を、みづからなめて、知れるがごとく、いにしへの雅言ミヤビゴトみな、おのがはらの内の物としなければ」(「古今集遠鏡」一の巻)、と小林先生が紹介しているとおりであり、ここにも「宣長の言語観の基本的なものが現れている」と先生は言っている(同、p267)。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも聞ゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、、そのいきほひをウツすべき也」(傍点筆者)。

そういうことを通じて、「古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬ」、例えば「『万葉』に現れた『言霊』という古言に含まれた、『言霊』の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかり合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである」。まさに宣長は、「古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働き方の中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ」、そう考えていたのである。

 

先に、私が熟視対象とした宣長の言葉は、以上のような冒険的な成果と、それらを基にする言語観を踏まえた鋭角的な断言だったのである。このような道筋を経て、私は、次のような自問自答に想到した。

「宣長の自己発見の機縁」となった契沖が著した「百人一首改観抄」は、宣長をして、古言の語源学的な語釈を信用せず、「古人の用ひたる所」を重視する、即ち言葉の転義に着目する態度を我が物とせしめた、端緒の一つとなったのではなかろうか。

もちろん、宣長が「わきまへさとった」このような態度は、この一書だけでも、契沖の教えのみによるものでもなく、生得的なものも含めてさまざまな機縁があったことには、十分留意する必要がある。加えて契沖は、語釈をすべて捨て去っていたわけではない。これは、「契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった」と小林先生が書いているとおり、確と認識しておくべきことである。

 

 

この自問自答のあと、小林先生による「実朝」(同、第14集)を再読する機会があった。失念していたが、先に同抄から引いた実朝の歌について、語釈や註釈をされることもなく、このように評されていた。

「この歌にしても、あまり内容にこだわり、そこに微妙で複雑な成熟した大人の逆説を読みとるよりも、いかにも清潔で優しい殆ど潮の匂いがする様な歌の姿や調しらべの方に注意するのがよいように思われる。実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである」。

改めて、思うところがあった。「やすらかに見る」ということ、そして、語釈を緊要とはせず、作者や登場人物の心中をいかに思いはかろうか、という姿勢は、「モオツァルト」や「ゴッホの手紙」はもちろん、この「本居宣長」という著作でも現れているとおり、小林先生もまた我が物とされていた、批評の態度ではなかったか。

 

 

 

(*1) 江戸前期の国学者、真言僧。1640-1701

(*2) 万葉集では、「十市皇女とをちのひめみこ、伊勢神宮に参赴まゐでます時に、波多はたの横山のいはおを見て、吹黄刀自ふきのとじが作る歌」との詞書が付いている。すなわち、吹黄刀自という女性が、十市皇女の立場で詠ったものである。

(*3) 賀茂真淵、江戸中期の国学者、歌人。1697-1769

(*4) 百尺もある竿の先端、の意で到達している極点、極致のこと。

 

【参考文献】

「百人一首改観抄」『契沖全集』第九巻、岩波書店刊

「萬葉集」新潮日本古典集成

 

(了)

 

編集後記

9月末に開かれた「小林秀雄に学ぶ塾」に、以前、本誌にも寄稿されている熊本在住の本田悦朗さんから、うれしい秋の実りが届いた。段ボールを開けると、でっぷりと実った栗が、艶やかに輝いていた。鎌倉の山の上の家に、熊本の山の香りがふわりと広がった。

 

 

「巻頭随筆」に寄稿された大江公樹さんは大学院生である。福田恆存氏の文章を読んで、自らの「發生の地盤」とは何か、と氏に問いかけられた。さらに、小林秀雄先生の文章を読んで、自らの問い方の不徹底を教えられた。その後も小林先生に学び続けるうちに、福田氏と小林先生が、同じように保持してきた姿勢に気付かされたという。その姿勢とはいかに?

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、安田博道さんと橋岡千代さん、そして橋本明子さんが寄稿された。

コトバハ事トナラフ」、「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」…… 安田さんが、荻生徂徠の言葉を追うなかで感得したのは、言葉に対する強い信頼のほとばしりである。この信頼は、徂徠から宣長へしっかりと受け継がれた。安田さんは、さらに自問を加える。言葉への信頼は、小林先生こそが最も強く受け継いだのではなかったかと。

「批評家の系譜」というエッセイで、橋岡さんが注目したのは「(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明した」という小林先生の言葉である。先生が「大批評家」という意図は、宣長さんが直観力、洞察力、認識力を駆使したところにあると見る。そこから橋岡さんの眼に映じてきたものは、宣長に近代批評の父サント・ブーヴを重ねる小林先生の姿であった。

山の上の家での質問を終えた橋本さんは、宣長が学んだ、伊藤仁斎と徂徠がいう「俗」なるものをわが物とすべく、小林先生の「学問」、「天という言葉」、そして「徂徠」という文章を紐解いた。さらには、松坂・魚町にあった当時の本居家の情景を思い出してみた、すると、そんな「俗」のなかから宣長が紡いだ言葉が、その色彩が、鮮やかに浮かび上がってきた。

 

 

有馬雄祐さんは、人工知能にとって、小林先生が言うところの「常識」を働かせることこそが難しいという。私たちが長い時間をかけて築きあげてきた、俊敏でやわらかい「常識」の源流にまで目を向けると、そこには「独特の直観とでも言うべき私達の感覚」に行き着く。有馬さんに、大いなる「考えるヒント」をもらった。

 

 

「表現について」は、作曲家の桑原ゆうさんが、本年7月に開催された個展について寄稿された。主題は、演奏会が終わるたびに桑原さんが陥る「ぽかん」という奈落についてである。その正体を突き詰めてみると、作品が「独自性を持った生き物」のように思えてきたという。私は個展会場に足を運び、その作品達に身をゆだねてみた。桑原さんが、小林先生の「本居宣長」を熟読し、わけても「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずからアヤある辞が、歌の根本」という宣長の直観を糧として作曲されてきたことが、ひしひしと感じられる演奏会であった。

 

 

本誌に「ブラームスの勇気」を連載されていた杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』が、九月末に新潮社から刊行された。単行本として改めて手に取ってみると、またひと味ちがう「すがた」を感じた。本誌読者の皆さんには、杉本さんが十四年という歳月をかけた実りを、その精魂と情熱とともに、ぜひお手もとで感じていただきたい。

加えて、新潮社の雑誌『波』(2019年10月号)には、当塾にもご縁の深いヴァイオリニストの矢部達哉さん(東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター)が、杉本さんの新刊について寄稿されている(「私はあなたに感謝する」)。矢部さんの穏やかな語り口は、あたかも珠玉の演奏を聴くかのようだ、あわせてお愉しみいただければ幸いである。

(了)