編集後記

盛夏のなか刊行を迎えた本誌2021年夏号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組の対話は、小林秀雄先生の文壇登場作「様々なる意匠」、そして同作と一流雑誌『改造』の懸賞評論第一位を競った宮本顕治氏の「『敗北』の文学」を読んだ男女の話から始まる。対話のキーワードは、「思想」という言葉だ。はたして若き小林先生の論文は、二位でよかったのか、それともいけなかったのか……

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「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さんが寄稿された。溝口さんは入塾以来、宣長さんが描いた「遺言書」と向き合い続けている。その中で熟視を重ねてきたのが、小林先生が使う「精神」という言葉であり、本誌2020年秋号では、緻密な用例分析も行っている(「『本居宣長』における『精神』について』)。そこで今回は、「遺言書」全文に接してみた。宣長さんの肉声が聞こえてきた。「そこにはこれまで見えていなかった『何か』があった」。

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村上哲さんは、「本居宣長」を読み続けてきたなかで、自らの眼に強く残る宣長の姿があると言う。それは、宣長が「学問の上で、人をたずね続け」る姿である。彼は、「源氏」や「古事記」の愛読者として、その「語り部」の言葉に真剣に耳を傾けた。「生活感情に根を下ろし、生き生きと動く言葉」をもって、語り合いを続けた。しかしそれは、言うほど容易いことではない。そこにある困難をこそ知るべきだと、村上さんは注意を促している。

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作曲家である桑原ゆうさんは、楽譜にも、「譜づら」という言葉があると言う。わけても興味深いのは、コンピューター上の浄書ソフトを使うだけでは、けっして善い「譜づら」にならず、骨の折れる手作業というものが、どうしても必要になるということである。そこに、宣長さんの歌論と、それを評する小林先生の言葉が重なり合う。作曲家の目指す、善い「譜づら」に向けて続く「闘い」の、リアルな現場を体感しよう。

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石川則夫さんの「特別寄稿」は、前稿「『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ」の続編である。石川さんは、とある新聞の投書欄の文章を見て、これぞ柳田国男が「先祖の話」において摑もうとしている<歴史>という言葉の姿か、と思い至る。それは、「人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在」だと言う。「本居宣長」の<時間論>が、いよいよ近づいてきた。

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石川さんは、その今号掲載稿の終盤で、「小林秀雄が書いて来た文章を、全集を通して思い浮かべてみると、その折々に特権的な言葉、つまり様々な作品、文章を通してあちらこちらに思い当たる用語がある。それぞれ異なる対象について言葉を連ねつつ、何回も反復して現れ、そのたび毎に特徴的な強いイメージを喚起する文体を形成している、そういう言葉である」と書いている。例えば、本稿の主題である「時間」はもちろん、「歴史」や「言葉」、「姿」、「形」などが思い浮かぶ、と言うのである。

今号においても、荻野さんは「思想」、溝口さんは「精神」、村上さんは「言葉」、そして桑原さんは、「姿とこころ」という言葉について、追究している。「小林秀雄の辞書」にある、これらの言葉も、寄稿者諸氏の眼光紙背に徹する、たゆまぬ熟読によって、本誌が刊行を重ねるたびに、その輪郭と全貌が、よりはっきりと、さらなる拡がりを持って体感できるようになってきていることが、改めて感得できた。

「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物に関する言葉です」とは、小林先生の言葉である(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)。続けて先生はこう言っている。

「作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらをねがう筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事ができませぬ」。

「小林秀雄の辞書」にある「愛読者」という言葉もまた、小林先生ならではの深みと拡がりを持っているようだ。

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三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんに都合があり、残念ながら休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、次号からまた倍旧のご愛読をお願いします。

(了)

 

ボードレールと「近代絵画」Ⅲ
―「エヂプト」の衝撃

私が青空に君臨する姿は、さながら、不可解なスフィンクス。
私は、雪の心を、白鳥の白さに結び合わせる。
線を動かす運動は、私の忌みきらうところ、
ついぞ泣きもせねば、笑いもせぬ、この私。

シャルル・ボードレール

「美 La Beauté」、『悪の華』より(*1)

 

1953年2月、小林秀雄先生は、エジプト奥地の砂漠にある神殿やピラミッドなどの遺跡を巡った。「ギリシア・エヂプト写真紀行」では、ルクソール神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿、サッカラの階段ピラミッドなど、生れて初めて扱ったニコンのカメラで撮影された写真も見ることができる。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)

旅の記録は、文章のみでも残されており、ナイル川(*2)と建築・彫刻類が、とりわけ印象的だったようである。まずは、ナイル川について―「肥沃なナイルの流域と漠然と考えて来たが、とんでもないことだ。緑の麦畑と気味悪く赤茶けた砂漠との境界線は、ただただ使用可能なナイルの水の量ではっきりと定まるのである。もう一杯バケツの水があれば砂漠に向ってもう一本麦を植えることが出来る。町の街路樹も芝生も、緑のものはことごとく、ナイルから引かれた鉄管による、絶え間ない散水によって生きている。砂漠との戦いは五千年以来同じように続いている」(「エヂプトにて」、同20集)。

続いて、古代エジプト人による建築・彫刻について―「彼等は、よく均衡のとれた健全な感覚で、正直に、ごく当たり前なものを作ったに相違ない。僕は、エヂプトの建築や彫刻に、不気味な、人を威圧するようなものを想像して来たが、ややグロテスクな感じのあるものはごくごく少数の例外であって、すべては、真面目で、静かで、優しいのである。ピラミッドの強い大きな直線から墓の壁面に描かれた小さな魚や踊子の線に至るまで、同じ精神が一貫している」(同)。 

さらには、建築・彫刻などエジプト芸術が語りかけて来るものは、「ナイル一本にすがって、他の世界を知らずに生きつづけて来て、完全に表現を終えて滅んだ民族の心だな。あんなに単純で力強く、完全な様式が、あんなに長い間一貫して継続したという事は、芸術史上他にない」と、感慨深げに語っている(「美の行脚」、同21集所収)。

小林先生が現地で直観されたように、エジプトでは古代から、国土の約九割が砂漠のため、彼の地で日々の生活を営む人々の生殺与奪の権は、すべてをナイル川が握っていた。毎年繰り返される氾濫により沈泥シルトが堆積すると、畑は肥沃な土地として新たに蘇る。加えて、灌漑用の水源、南北を結ぶ主要交通路、食料となる魚の宝庫、さらには建築構造物たる日干し煉瓦の素材となる大量の泥の供給源としても利用し尽くされた。実際に使われた暦も、ナイルの動きを基準として、氾濫期アケトから始まり、水が引き堆積土に満たされた沿岸の土地に種を撒く播種期ペレト、家族総出で刈り入れを行う収穫期シェムゥの三期に分かれていた。

まさにすべては、ナイルの賜物であった半面、上流地域での降水量によっては、干ばつや大洪水に見舞われることもあれば、落ちて急流に流されたり、水草に絡まり水死することもあった。流域で共存する動物もやっかいな存在であった。獰猛なワニやカバに襲われることも多く、東風が運ぶイナゴの大群、ウズラなど野鳥の大群の襲来も大きな悩みの種であったようだ。(*3、4)

 

ところが、先生の感慨はそれだけに留まらなかった。エジプトの空港からギリシアに飛ぶと、着いたその日にアクロポリスに登った。その際、「エジプトとギリシアの美の姿の相異について、を経験した」と言っているのである。(「ピラミッドⅡ」、同24集所収)

 

 

その「非常に激しい感覚」を、帰国後の小林先生の胸に、まざまざと蘇らせたものこそ、ヴォリンゲルによる著作「抽象と感情移入」(*5)であった。先生は、そこに「当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして」、「美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人の叫びのようなものが」(同前)感じられたと言っている。

ヴォリンゲルによれば、近代美学は、対象の形式からではなく、対象を観照する者の主観の態度から出発する方に理論の重点が移り、感情移入説で頂点に達した。この説は、リップス(*6)によって包括化され、その内容は「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(同)であり、「美的享受は客観化された自己享受である」という言葉で、簡潔に表現された。

彼は、その感情移入説が、時代と場所を問わず常に芸術的創造の前提であったとは言えないという立場を取り、むしろ人間の抽象衝動から出発する。ここで抽象衝動とは、生命を否定する無機的なもの、結晶的なもののうちに、より一般的にいえば、あらゆる抽象的な合法則性と必然性のうちに美を見出すことを言う。言い換えれば、「感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているのに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生まれた結果」であって、これこそ、あらゆる芸術の初期に出現するものと確信し、その次の段階として感情移入に移行していくこともあり得よう、そう考えたのである(「抽象と感情移入」)。

そこで原始民族は、「混沌不測にして変化極りなき外界現象に悩まされ」、「無限な安静の要求を持つに至った」。換言すれば、「外界の個物をその恣意性と外的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによってし、それによって現象の流れのうちに」(同、傍点筆者)に至ったのである。ヴォリンゲルは、その永遠化や静止点を見出すことの具体的な成果物として、描写が平面化されたエジプトの浮彫や、観照者がその前に立つと二等辺三角形の鋭く区切られた面のみが見えるピラミッドに見、叫んだ。同様に小林先生も、叫ぶがごとくに書いている。

「ロマンチストのルッソオ(*7)が考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、製作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」(「ピラミッドⅡ」)。

 

そんなヴォリンゲルの理論について、小林先生は、画家ゴーガンと同じ身振りから出たものだということを、次のような言葉で述べている。

「ゴーガンは絵画上の自然主義が、印象主義という形で行詰った時、当代文明に対する嫌悪の赴くがままに、何処に連れて行かれるかも知らず、原始芸術に突破口を見附けた。……美的享受とは、客観化された自己享受であるという考えが通念化されて、美に関する常識的な自己満足のうちに行詰った時、また、そういう考えを生んだ、人間中心の、思い上がった合理主義の世界観の行詰りを感じた時、彼(坂口注;ヴォリンゲル)にその突破口を教えたものは、今更のように彼の驚きを新たにしたピラミッドの姿であった。それは彼に、美は己惚うぬぼれ鏡ではないことを、はっきり語っていた。砂漠の中に、屹立したその客観的な様式は、人間と自然とのもっとも切実な、もっと根源的な対決の経験から、美が生まれた事を語っていた」。(同)

 

 

さて、「近代絵画」(同、第22集所収)の冒頭において、小林先生は、近代絵画の運動を「画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」と定義付け、そのように、題材の語る言葉よりも、物言わぬ色彩や形の魅力に向けて発展するであろうという、ボードレールの予言について書いている。それは、彼が「詩は単に詩であれば足りる」ことを直覚したうえで、同様に、画壇においても「絵画は絵画であれば足りる」という先駆的な画家が出現し始めていることを直観したということでもあった。そこで、小林先生は、ヴォリンゲルの抽象衝動仮説は、ボードレールの言わんとした、芸術意欲の自律性、純粋性の上に立っている、と言うのである。

ならばボードレールは、一体何に対して、どのような不安や恐怖を覚えたのであろうか、加えてそれらへの「静止点」をどこに見出したのであろうか、前々稿から引き続き、小林先生の恩師、辰野ゆたか氏の「ボオドレエル研究序説」を座右に置いて見て行きたい。

 

フランスの四大浪漫派詩人中の一人であるヴィニー(*8)は、「『牧人の家』の一節において、自然をして、『人は我を母と呼ぶ、されど我は墓なり』と云わしめた。自然は偉大である。然し冷酷である。人間の如何に悲痛な叫びにも断じて耳を傾けず、人間の苦悩を見ようともしない。『傲然ごうぜんとして巡る自然は蟻の群れの如き人類を決して顧みない』」。辰野氏は、ボードレールが、自然というものに対してヴィニーの衣鉢を伝えていると思う、と述べたあと、このように続けている。

「彼(坂口注;ボードレール)は水のように澄んだ晩秋の空を眺め、かもめのように白帆しらほの浮ぶ海原を見渡しながら、茫漠たる快感の裡に恐るべき力を認め、如何なる『感』にも勝る『無限感』の鋒鋩ほうぼう(坂口注;刃物の切先)の鋭さを痛感して、

ああ、芸術家は永遠に苦悩するのか。然らずば、永遠に美を回避しなければならぬのか。自然よ、慈悲を知らぬ美しき妖女、常に勝ちほこる敵、我を放せ、我が欲望と自矜じきょうとを誘惑いざなうことをめよ。美の探求は汝と闘う芸術家が、敗るるに先だって揚ぐる悲鳴である

と歎いた(散文詩「芸術家の祈り Le Confiteor de l’artiste」)」

 

さらに、彼の詩作に現れた風景について、このように述べるのである。

「彼が想像力をたくましくするに従って、自然の生命が漸く稀薄になり行き、醒めた風景が次第に眠りに赴くが如くに思われる。……ボオドレエルは自然の有する狂暴なる生命を怖れ憎むが故に、その生命を出来る限り弱めて、自然の形式の美のみを極力味わんと欲したのである。彼は遂に『美』(坂口注;冒頭エピグラフに抜粋提示)をして『我は石の夢の如く美し……我は線の位置を移すうごきむ』と叫ばしむるに至った。『線の位置を移す動を忌む』事は、生命を憎む事に他ならない。生命を有せざる自然はボオドレエルには限りなく美しく眺められたのである」。

これこそまさに、ボードレールが苦悩するなかで見出した「静止点」であったのか。

それは、彼が咬出かみだした詩そのものであった。

 

―自然は一宇の露堂にして、生ある柱
時ありて 幽玄の語を洩らす、
人、象徴の森を辿りて、かの堂に入れば、
森は慈眼にして人を目送もくそう

「交感 Correspondances」(「悪の華」より、辰野隆訳)

 

 

「近代絵画」に話を戻そう。小林先生が、ヴォリンゲルが言うところの「抽象」から生まれる、「本質的に装飾的なもの」、換言すれば、各自がそれぞれの「静止点」として見出したところについて言及しているのは、ゴーガンによる「無私な直覚」に留まらない。

セザンヌについては、「感情移入の道を果てまで歩いた事について、独特の体験を持っていたに違いない様に思われる。は、彼の凝視の裡に、自ら姿を現したのである」(傍点筆者)と書いている。セザンヌが、ヴェルナールという画家に宛てた手紙にある「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」という、巷間では既に本意を離れて教条化してしまっているような言葉があるが、それは知的に頭の中で編み出されたものではなく、先駆者の孤独を賭けた、苦行のような修練の末に姿を現しえたものであることが、改めて実感できよう。

ゴッホについても、「恐らく、彼の執拗な自然観察は、その限度まで達したのであり、ヤスパースが言う様に、存在のある根源的な疑わしさの経験が、彼を驚かしたのは間違いない様である。彼は、視覚経験の上での、何か汚れのないプリミティヴィスムとも言う様なものに捕えられて、が、其処に、必然的に現れて来る」(傍点筆者)と言っている。確かに、この孤独な独習画家が「糸杉」の画について弟テオドールに宛てた手紙に、こんな言葉があった。「僕の考えは糸杉でいつも一杯だ。向日葵のカンヴァスの様なものを、糸杉で作り上げたいと思っている。僕が現に見ている様には、未だ誰も糸杉を描いたものがないという事が、僕を呆れさせるからだ。線といい、均衡といい、エヂプトのオベリスクの様に美しい」(No569、「ゴッホの手紙」、同20集所収)。(*9)

 

最後に、擱筆にあたり留意しておきたいことが二つある。

一つは、小林先生が、ヴォリンゲルの抽象衝動仮説を無二の教条の如くにして、すべてを説明しようとしたわけではない、ということである。先生はむしろ、一日のうちにエジプトからギリシャに飛んだことで覚えた「非常に激しい感覚」、その衝撃と重なり合う彼の仮説の真髄を、あくまで補助線として引くことで、ボードレールが予言したことを、画家一人ひとりがその気質に応じて演じ切った人間劇を、より立体的に、より深い処で、読者に体感してもらおうと意図していたのではなかっただろうか。

 

そしてもう一つ、この仮説の真髄は、小林先生が若い頃から体感体得していた感覚とも、強く響き合っていたように思われる。

「『大海の無感覚に反感を起こさせる』と言ったがボードレルをひとえにデカダン(*10)とけなす者は、先ず自分のさつま芋のような神経が、自然の美をつかんで居るか如何か確かめるがよろしい。ボードレルは自然の美の鋭さに堪え切れなかったに過ぎぬ。情緒の色眼鏡なんかで、自然の美を胡麻化そうとする処に自然描写の失敗がある」。

 

小林秀雄、二十二歳の時の独白である(「断片十二」、同1集所収)。

 

 

(*1)阿部良雄訳、ちくま文庫

(*2)長さ6,650km。ビクトリア湖を水源とする白ナイルと、エチオピアのアビシニア高原のタナ湖から流れ出す青ナイルが、ハルツーム付近で合流し、いくつも急流を経て地中海に注ぐ大河。

(*3)吉村作治「貴族の墓のミイラたち」平凡社ライブラリー

(*4)ドナルド・P・ライアン「古代エジプト人の24時間」、大城道則監修、市川恵里訳、河出書房新社。ちなみに、古代エジプト人は、ミイラ作りにおいて、肉体と知性と感情の中心である心臓だけをそのまま残した。その心臓は、死後の審判の場で、真理と不変の調和たる「アマト」の羽根と天秤にかけられる。そこで両者が釣り合わなければ、ワニの頭に豹の体、カバの足を持つ、怪物アムムトの餌食となってしまうと考えられていた。

(*5)ヴォリンゲル(Wilhelm Woringer)「抽象と感情移入―西洋芸術と東洋芸術」、草薙正夫訳、岩波文庫。原著初版は、1908年出版。ヴォリンゲルは美術史家。1881-1965年

(*6)Theodor Lipps ドイツの心理学者。1851-1914年。

(*7)Jean-Jacques Rousseau フランスの啓蒙思想家。1712-1778年。

(*8)Alfred de Vigny フランスの詩人、1797-1863年。「牧人の家 La Maison du Berger」 は詩集『運命』所収。

(*9)ピカソについての言及は、拙稿「ピカソの『問題性』」(本誌2020年冬号)を参照されたい。

(*10)décadent(仏語)、退廃的な。

 

【備考】

坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ―我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅱ―不羈独立の人間劇」、同2021年春号

同「「セザンヌの『実現レアリザシオン』、リルケの沈黙」、同2020年1・2月号

同「のがれるゴーガンの『直覚』」、同2020年5・6月号

同「ピカソの『問題性』」、同2020年秋号

(了)

 

上ツ代の人が実感した「生き甲斐」

本居宣長は、「古事記伝」の冒頭(一之巻)で、このように言っている。「此記(筆者注;『古事記』)のマサれる事をいはむには、先ヅ上ツ代に書籍フミと云物なくして、ただ人の口に言伝へたらむ事は、必ズ書紀の文の如くには非ずて、此記のコトバのごとくにぞ有けむ」。つまり、まだ文字というものがなかった上ツ代、いわゆる上古の時代、人々が口伝えしてきた言葉は、「日本書紀」ではなく「古事記」の詞のようであった、その点で「古事記」に軍配を上げたい、そう言い切るのである。

そんな「古事記」で目に付くのが、あまたの神の御名みなである。例えば、新潮社刊「日本古典集成」版には、巻末に三百二十一柱にも及ぶ神名かみのみなの釈義が付されている。具体例を示そう。

・ 大綿津見おほわたつみの神:「偉大な、海の神霊」

・ 正鹿山津見まさかやまつみの神:「正真正銘の、山の神霊」

・ 正勝吾勝まさかつあかつ々速日かちはやひ天之忍穂耳あめのおしほみみみこと:「まさしく立派に私は勝った、勝利の敏速な霊力のある、高天の原直系の、威圧的な、稲穂の神霊」

・ 建比良鳥たけひらとりの命:「勇敢な、異郷への境界を飛ぶ鳥」

・ 木花之このはなの佐久夜毗売さくやびめ:「桜の花の咲くように咲き栄える女性」

宣長は、上古の人々がそのように取り交してきた「神(迦微カミ)」という言葉について、神社に祀られている御霊みたまや人に対しては言うまでもなく、「鳥獣トリケモノ木草のたぐひ海山など、其余ソノホカ何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微カミとは云なり」と言っている。(「古事記伝」三之巻)

そこで小林秀雄先生は、古人が神を直知し命名する行為について、宣長が確と捉えたところを、このように述べている。

「天照大御神という御号ミナを分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己れの具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。この素朴な経験にあっては、空の彼方に輝く日の光は、そのまま、『尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物』と感ずる内の心の動きであり、両者を引離す事が出来ない」。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収、「本居宣長」四十一章)

 

以上のことを踏まえ、本稿でまず熟視したいのが、上古の人々により語られてきた伝説ツタヘゴトについて、小林先生が書いているくだりである。

「上ッ代の人々に必至であった、広い意味での宗教的経験は、現実には、あたかも神々の如く振舞う人々の行為として、語られたのである。宣長の『古学の眼』が注がれたのは、其処であった。彼等は、基本的には、そういう語り方以外の、どんな語り方も知らなかったし、又、そういう語り方をしてみて、はじめて、世にも『アヤシき』『可畏カシコき』物を信ずるという容易ならぬ経験が、身について、生きた知慧として働くのを覚えた、と言ってもよかろう。それなら、更に進んで、そのように語る事により、生活の意味なり目的なりが、しっかりとつかまれ、のは、決定的な事だった、と言えよう」。(四十九章、傍点筆者)

わけても、ここで言われている「生き甲斐として実感されるに至った」とは具体的にどういうことなのだろうか。本稿では、あえて「生き甲斐」の内容に的を絞り、我が事としても体感、体翫たいがんすべく、できる限り深耕してみたい。

 

 

ここで、「漢語に固有な道具としての漢字」が外部から持ち込まれる以前、すなわち未だ文字を知らなかった古代日本人の生活に思いを馳せてみることにしよう。例えば、漢字導入以前の、縄文(*1)の人々は、衣食住で言えば食料獲得に、より多くの時間を割いていたようである。近くの山野に分け入ってはシカやイノシシを追い(狩猟)、クリやクルミ等の木の実やキノコ類を採った(採集)。内湾では回遊するイワシ等の魚類を、浜辺ではアサリ・ハマグリ等の貝類を獲った(漁労)。ヒョウタンやマメ類は、栽培種も出現していた。後・晩期になると、稲作も始まっていたようである(原始的農耕)。

もちろん、良いことずくめではない。地域によっては、自然環境の悪化に伴う豊かな森の消失のみならず、集団の肥大化や衛生環境の悪化等に翻弄され、無人に近いほど衰微してしまった集落もあった。

ともかくも、自らの周りに広がるあらゆる自然と直かに向き合う時間や、自然の変化に直接的な行動変容を強いられることが、現代の我々よりも格段に多かったのである。

 

小林先生は言う。「上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、『その性質情状アルカタチ』を見究めようとした大人達の努力に、(筆者注;宣長は)注目していたのである」。(同)

彼等は、そういう努力のなかで、「自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、そのあじわい」を覚えたし、「其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の『性質情状カタチ』を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍ら」した。そこで先生は、このように続ける。「これこそ人生の『マコト』と信じ得たところを、最上と思われた着想、即ち先ず自分自身が驚くほどの着想によって、誰が言い出したともなく語られた物語、神々がさなければ、その意味なり、価値なりを失って了う人生の物語が、人から人へと大切に言い伝えられ、育てられて来なかったわけがあろうか」。

自らの思いを読者に投げかける、啖呵を切るような言い方が、もう一つ続く。

「誰のものでもない自分の運命の特殊性の完璧な姿、それ自身で充実した意味を見極めて、これを真として信ずるという事は、己の運命は天与のものという考えに向い、これを支えていなければ、不可能ではないか。このような事に、誰が『たゞ信ずるかほして居』る事が出来ようか」。

 

 

以上により、上古の人々が「充実感」を覚えるに至る背景には、眼前の自然や事物に直かに接し、そこで感知した『性質情状アルカタチ』について、一人ひとりが、自分なりの着想でもって言葉として表現する行為と、それを相手に語り伝えて行く行為の二つがあることが確認できた。

さて、本書通読のたびに感じていたことは、小林先生が、この二つの行為について、様々に言及を重ねているということである。以下、具体例を示すことで、古人が感じた「生き甲斐」の内容をさらに深めてみたい。まずは前者、自ら直観したことを言葉で表現する、ということについて示す。

・ 古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己れの感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、とすれば、言語が生れて来る基盤は、其処にある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。(三十三章、傍点筆者)

・ 少し反省してみるなら、この場合、自分は、或る意図なり意味なりを伝える単なる道具として、言葉を扱っているのではないという、それくらいの事は、すぐに解って来る筈だ。喜びは、言ってみれば、言葉とは私だ、と断言出来る喜びだ。言葉の表現力を信頼し、、その喜びである。(三十九章、同)

・ 上古の人々は、を、誰でも心に抱いていたであろう、恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕らえられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。(同)

 

一方、後者の、相手に語り伝えて行く、ということについては、以下の通りである。

・ (筆者注;語の「いひざま、いきほひ」という)その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に翻訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、からであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。(二十三章、同)

・ そういう言語の機能がなければ、日常言語の生気ある円滑な進行は、たちまち停止する事に注意するなら、表現上の目立つ意識的な技巧など、すっかり洗い落した所で、およそ言語というものがその本質を、その持って生れて来たがままの表現性の骨格を、露わしているのが、見えて来るのに気付くであろう。誰もこの骨格に捕えられているが、これを逃れようとは思わない。その裡にいて、。まるでそれは、私達の心の骨格と言ってもいい程である。互に語り合うとは、そういう心を互いに見せ合う事だろう。(四十二章、同)

 

つまり、神の命名をはじめとする古人の言語による自己表現は、身体感覚や、対象物との直接的な接触感と表裏一体のものであり、また、その表現された言葉が語られ、伝えられていくところでは、人々の相互の信頼感や安心感といったものが自ずと醸成されているのである。

 

 

「古事記」の冒頭、「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」は、十二柱の神の御名みなが並ぶだけである。このくだりについて、小林先生が述べている言葉に耳を傾けてみたい。

「宣長は、神の名について綿密な註釈、神の名を誦む音声の上げ下げまでに及ぶ、非常に綿密な註釈をしているが、何故そういう事をしたかというと、神の名が、当時の生活人の大事な、生きた思想を現わしていると考えたからだ。『古事記』の筆者が、『天地初発アメツチノハジメ之時』から神の名を次々に挙げているのは、神の命名という神代の人々の行為を記するという考えに基く。そういう考え方が、今日の人々にはなかなか納得出来ない。何故かというと、事物の知的な理解が、非常に発達して、その中にいる者には、事物の理解以前に、先ず事物に名をつけるという行為があるという事は、普通忘れられている。物に名があるのは解り切った事として無視されている。(中略)物の言語化、物の印象を言葉で言い現わす一番簡単な行為が、物に命名する事でしょう。神の名は、ある非常に強い物の印象を、どう言語化したものかという、切実な人間経験の現れなのです。名とは全然新しい発想であり、発明だった。従って、神様の名前から、その時代の人々の宗教的経験の性質がわかる事になる」(「新年雑談」、同、第26集所収)。

 

最後に、宣長が詠んだ「神代一之巻」を掲げる。

ゆっくりと黙読したい。

 

天地初発之時アメツチノハジメノトキ於高天原成神名タカマノハラニナリマセルカミノミナハ天之御中主神アメノミナカヌシノカミツギニ高御産巣日神タカミムスビノカミツギニ神産巣日神カミムスビノカミ此三柱神者コノミハシラノカミハ並独神成坐而ミナヒトリガミナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

 

ツギニ国雅如浮脂而クニワカクウキアブラノゴトクニシテ久羅下那洲多陀用弊琉之時クラゲナスタダヨヘルトキニ如葦牙因萌騰之物而成神名アシカビノゴトモエアガルモノニヨリテナリマセルカミオノミナハ宇麻志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコジノカミツギニ天之常立神アメノトコタチノカミ此二柱神亦独神成坐而コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

上件五柱神者別天神カミノクダリイツバシラノカミハコトアマツカミ

 

ツギニ成神名国之常立神ナリマセルカミノミナハクニノトコタチノカミツギニ豊雲野神トヨクモヌノカミ此二柱神亦独神成坐而コノフタバシラノカミモヒトリガミニナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

 

ツギニ成神名宇比地邇ナリマセルカミノミナハウヒジニノカミかみツギニ妹須比遅邇神イモスヒジニノカミツギニ角杙神ツヌグヒノカミ次妹活杙神ツギニイモイクグヒノカミツギニ意富斗能地神オホトノヂノカミツギニ妹大斗乃弁神イモオホトノベノカミツギニ淤母陀琉神オモダルノカミツギニ妹阿夜訶志古泥神イモアヤカシコネノカミツギニ伊邪那岐イザナギノカミ神。ツギニ妹伊邪那美神イモイザナミノカミ

上件自国之常立神以下カミノクダリクニノトコタチノカミヨリシモ伊邪那美神以前イザナミノカミマデ併称神世七代アハセテカミヨナナヨトマヲス

 

これこそ、上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである。

 

 

(*1)いわゆる縄文時代は、今から約1万2,000~3,000年前から、約2,300年前までの1万年強続いた。

 

【参考文献】

本居宣長撰、倉野憲司校訂「古事記伝」岩波文庫

岡村道雄「縄文の生活史」改訂版、『日本の歴史01』講談社

中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書

(了)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕を開ける。お題は、学問に向かう態度についてである。「本居宣長」という作品の主要なテーマに、人間にとって「言葉とは何か」「歴史とは何か」「道とは何か」という問いがあり、今回は、「言葉」と「歴史」を話題として、読者が向かうべき態度について深掘りされる。回が進むにつれて男女四人の対話の内容も深化している、我々「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生も遅れを取ってはなるまい……

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、亀井善太郎、北村豊、安田博道、松広一良。溝口朋芽、鈴木美紀の六氏が寄稿された。

亀井善太郎さんは、小林秀雄先生による「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」という言葉に注目する。そこには、古人が神に直かに触れているという直観や、その内容を「内部から明らめようとする努力」があり、亀井さんは、そういう直観を明らめようと努力する行為が、ごく身近なところにあったことを思い出した。

北村豊さんは、小林先生が「『古事記』の『神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ』は、神の名しか伝えていない。『古事記』の筆者が、それで充分とした」と言っている、その仔細について、本文を辿りながら思いを馳せている。「本居宣長補記 Ⅱ」にある、伊勢二所大神宮の祭神に関する宣長の考証について、先生が語っている言葉にも耳を傾けてみた。その仔細が体感できた。

安田博道さんは、第40章から42章、そして49章で使われている「信じる」という言葉に着目し、用例検討を行っている。宣長と上田秋成、各々が使う「信ずる」という言葉の源泉の違いが見えてくる。さらには、使用数にも目を向けてみると、読者の読みやすさを慮る小林先生の「仕掛け」のようなものも、浮かび上がってきた。

松広一良さんが立てた問いは、画期的な古代日本語研究と狂信的な排外的国家主義という宣長の二重性について、巷間言われている、所謂「宣長問題」に関し、小林先生がそのような二重性を否定した理由についてである。本文を辿って行くと、その背景には、宣長の「源氏物語」体験があったことが見えてきた。

そんな宣長の「源氏」体験について、小林先生は「本質的な新しさ」と表現しているが、溝口朋芽さんが本稿で追究したのは、その体験がどのように新しかったのか、という自問である。ヒントは、宣長に歌の道を示した先達、契沖から「そっくりそのまま宣長の手に渡った」、「定家卿云ていかきょういわく可翫しかことば詞花をもてあそ言葉ぶべし」という言葉にあった。

鈴木美紀さんは、第40章で展開される、宣長と、「常見の人」であることをやめない秋成との論争を通じて浮かび上がる、「古学の眼を以て見る」という宣長の言葉にスポットライトを当てている。朝焼けモルゲンロートの輝きに包まれ、ヒマラヤに昇る太陽に向かう登山家のリアルな映像を通じて、日神ヒノカミと申す御号ミナを口にする古人の心持ちにも、思いを馳せてみた。

 

 

今号でも、石川則夫さんに「特別寄稿」いただいた。前稿「続・小林秀雄と柳田国男」(本誌2020年秋号掲載)では、「本居宣長」の完成にむけた数年間に、柳田国男氏の学問が小林先生の文章に流れ込む、その動きの追跡に挑まれた。今回からは、その動きがどのような姿=文体を取って現れるのかが主題となる。まずは、柳田氏の「先祖の話」から聞こえてくる声に耳を傾けつつ、石川さんの先導に身を委ねてみたい。

 

 

晩春から初夏へ。水仙から桜、ツツジや藤、山吹へと、ほのかに感じられる花の香も移りゆくなか、本誌は2021(令和3)年春号刊行の運びとなった。私達「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生は、新型コロナウイルス感染症への対応に、気を抜けないきびしい状況が続いているなかでも、決してとどまることなく、学びの歩みを続けている。今号では、「『本居宣長』自問自答」において、六輪の学びの花が、大きく開いた。

 

センずるところ学問は、ただ年月長くウマずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、オコタりてつとめざれば、功はなし。……不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又イトマなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことのオソきや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、ヤムることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」(うひ山ぶみ)

 

新年度も、宣長さんの、この言葉を胸に抱きながら、九巡目となる「本居宣長」の自問自答に挑み続けて行きたい。どのような花を咲かせられるのか、読者の皆さんの変わらぬご指導とご鞭撻を、切にお願いする次第である。

(了)

 

ボードレールと「近代絵画」 ⅠI
不羈独立アンデパンダンスの人間劇

何故なら それは 主よ、正に 人間の尊厳を
われらが示すことを得た無上の証左 あかし だからだ、
世から世に流転るてんして、御身の永遠の岸辺に
消えてゆく この熱烈な嗚咽むせびなき こそは。

シャルル・ボードレール

「灯台」、『悪の華』より(*1)

 

小林秀雄先生による「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を読み進めるうえで、留意しておくべきことが一つある。この作品は、冒頭に置かれた唯一の詩人たるボードレール論を別にすれば、モネ、セザンヌ、ゴッホ……というように、画家一人ひとりを主題とする論考集のように見える。ところが、彼等の話題が、それぞれの論考の中だけでは完結しない。例えば、セザンヌについては、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ピカソという、それぞれの論考のなかでも詳述されている。したがって、一人の画家に絞って詳しく吟味し直したい場合でも、今一度、全体を読み返す必要があるのである。

 

それは、冒頭のボードレールについても、然りである。

ボードレールは、ワーグナーの音楽を聴いて、詩は、ある具体的な対象や主題がまずあって、それらを詩的に表現するものではなく、「詩は単に詩であれば足りる」ことを直覚し、詩に固有な魅力というものにこだわったという。のみならず、画壇においても同様に、「絵画は絵画であれば足りる」という先駆的な感覚を持った画家が現れ始めていることを直観した(前稿「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ」参照)。そんな「予言的な卓見に満ちたボードレールの絵画批評」についても、ルノアール論の中で再論されるのである。

ボードレールの時代には、浪漫主義(*2)全盛という潮流のなか、「個性、独創、天才、発明、自由という様な観念」で多くの画家達の頭の中もはち切れんばかりになり、「独創を言い乍ら、模倣ばかりしている画家の群れ」が現れた。そういう危険を察知したボードレールは、「今や、絵画を殺すものは画家である」という「忠告」を発した。

そこで小林先生は、こう述べている。

「ボードレールの忠告は、今日のわが国の画壇にも、よく当てはまるかも知れない。……ボードレールの言うところは、これを経験して苦しむ為にはだったのである。突きつめて行けば、これは恐らく切先 きっさなのであって、優れた芸術家特に近代の芸術家は皆そうであるが、私が、近代の優れた画家達の作品と生涯とを調べてみながら、例外なく看取出来るのは、彼等の仕事の中心部に存するそういう経験である。天才ほど自惚 うぬぼれから遠ざかった人はない。彼の創造の自信は、いつものである」(傍点筆者)。

本稿では、ここで小林先生が言う「切先きの如きものに刺されている」画家達の経験、その具体的なありようやその現場について、4人の画家に的を絞り、本文を辿って行くことにしたい。

 

 

1.モネ

「モネは、風景の到る処に色が輝くのを見た。影さえ様々な色でふるえているのを見た。これらの輝やく色は、互に相映じて、部分色トン・ロカル(*3)を否定し、物の輪郭を消し、絶え間なく調子を変じて移ろい行く、そういう印象こそ、眼に見える風景の最も直かな真実な姿であると見た」。彼は、そういう印象を表現するために、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法に取組み、徹底的に極めた。例えば、よく知られた作品群「睡蓮」の画面のきらめきも、その手法に拠る。そんなモネを小林先生は、「印象主義という、審美上の懐疑主義を信奉したのではない。持って生れた異様な眼が見るものに、或は見ると信ずるものに否応なく引かれていったまでであろう」と見ている。

80歳のモネが、パリ郊外にあるジヴェルニーの自宅を訪れた客に語った、こんな言葉が遺されている。

「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものをつか もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」(*4)

モネの親友で、フランス首相を務めたクレマンソー(*5)は、オランジュリー美術館の開所式で、モネの画に長い切り傷があることを見つけたジャーナリストに対し、このように応じたそうである。「彼がつけたナイフの傷だ、彼は怒るとカンヴァスを攻撃したのだ。その怒りは彼の作品への不満からくる。彼は自らが最大の評論家なのだよ!」クレマンソーは、モネが完璧さを求めるあまり、500枚以上のカンヴァスを破壊したと明かした(*4)

ちなみに、晩年、「睡蓮」に没頭していたモネは、視力が極端に悪化し、医師の診断書によれば、右目は失明、左目は10パーセントの視野が残るのみであった。

まさに小林先生が言う、モネが最期の瞬間まで「本能的に悪戦苦闘する」姿があった。

 

2.セザンヌ

モネが、「本当に僅かな色のかけら」、すなわち「瞬間の印象」を追おうとしたのに対して、セザンヌが摑もうとしたのは、「自然という持続する存在」であった。

小林先生は、セザンヌが、このように説明するところを引用している。

「自然はその様々な要素とその変化する外観とともに持続している。その持続を輝やかすこと、これがわれわれの芸だ。人々に、自然を永遠にあじわ わせなければならぬ。その下に何があるか。何もないかも知れない。或は何も彼もあるかも知れない。解るかね。こんな具合に、私は、迷っている両手を組み合わす。……そいつ等が、自ら量感ヴオリウム を装う、明度ヴアルールを手に入れる。そういう私のカンヴァスの上の、量感とか明度とかが、私の眼前にあるプラン とか色の斑点とかに照応するなら、しめたものだ。私のカンヴァスは両手を握り合わせた事になる。ぐらつかない。上にも下にも行き過ぎない。真実であり、充実している」。

しかし、はたして彼が「これで一切ぐらつかない」という確信を得られたことはあったのだろうか。先生は、ゴッホ論のなかでこのように言っている。

「セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、辛い努力を続けていたが、自分の生きて行く意味が、自らことごと く絵のうちに吸収され、集中されているのを疑った事は恐らくない。彼は、先駆者の孤独を賭けて、新しい絵の道を拓いた人だが、これは、絵画上の知識や技術の長年の忍耐強い貯えの上に行われたものであり、絵は予言的な性質に満ちていながら、古典的な充足のうちに安らってもいた」。

もう一つ、ピカソ論のなかからも引いておきたい。

「セザンヌが、エクス(*6)に隠れてしま ったのは、一八七九年であり、彼の晩年の苦しみについて、パリの画壇は殆ど知るところはなかったが、彼のパリに於ける大規模な遺作展が、前衛画家達に大きな影響を与えた事は争われない」。

1906年、彼が亡くなるひと月ほど前に書かれた手紙には、こう書かれていた。

「私は年老い、また病気です。五官の衰えに引きずられる老人たちを脅かすあの忌むべき耄碌もうろく状態に落ちこむよりは、むしろ絵を描きながら死のうと自分に誓いました」(*7)

同年10月23日、セザンヌは亡くなった。直接の死因は、戸外での制作中、雷雨に長時間打たれたことによる胸膜炎であった。

 

3.ゴ―ガン

セザンヌが印象派の感覚的な写実主義に同意しつつ、これを乗り越えて進もうとしたのに対して、むしろ絵画に精神性或は思想性を回復しようという、同派への反動的な考え方を持ったのが、ゴーガンであった。

彼が、ゴッホとのアルルでの短い共同生活を始める直前に、ゴッホの求めに応じて描き送った自画像がある。それは、自らを「レ・ミゼラブル」(*8)の主人公ジャン・ヴァルジャンに見立てたもので、自分でこんな註釈を付けていた。

「私の最上の労作だと思っている。凡そ無制限に(私流に言って)抽象的なものである。先ず、ジャン・ヴァルジャンのような頭が、今日まで社会から制約され圧迫され、評判を落とした印象派画家を示している。デッサンは全く独特のもので、申し分のない抽象 アブストラクシオンである。次に、その眼、口、鼻は、ペルシア絨毯じゅうたん の花模様に似た、象徴的な面を示している。色彩は自然の色彩とは全くかけ離れている。どれもこれもかまど で歪められた陶器ばかりを集めて出来上がっている様なものだ。非常な勢いで燃えている竈の様に、赤や紫は、画家の精神の奮闘によってまだら模様になっているのである」。

これこそゴーガンが、いよいよ印象主義からのがれる訣別宣言でもあった。

彼はゴッホと別れた翌年、「黄色いキリスト」を描いた。画風も変わった。

そして、タヒチへと……

そんなふうに、遁れ続けるゴーガンの画と文章から直覚したところを、小林先生はこのように語っている。

「何か奇怪な不安を、彼は持っていた。それは、彼の『私記』のなかの言葉を借りて言ってみれば『一息入れて、もう一度叫ばせてくれ。お前自身を使いつくせ、もう一度使いつくせ。息が切れるまで走りつづけて、狂い死にしろ』、そういう声が、彼には絶えず聞こえていた様に思われる。彼はランボオが、詩を捨てた様に、絵を捨てはしなかったが、絵は彼に、自分自身を使い果たす手段の如きものと屡々 しばしば感じられなかったであろうか」。

 

4.ドガ

ドガはデッサンを偏愛した。彼は、印象派が押し進めた、物の形を軽んじて色の分散を重視することに、我慢がならなかった。小林先生は、ヴァレリイ(*9)による「ドガ・ダンス・デッサン」というエッセイにある言葉を引いている。

「ドガの仕事、特にデッサンというものは、彼には、一つの情熱、修行となり、それ以外の何物も必要としない或る形而上学、或る倫理学の対象となった。それは、彼に、様々な明確な問題を供給して、彼は、他のものに対して、好奇心を持つ必要を全く感じなかった」。

ドガには、「デッサンは物の形ではない。物の形の見方である」という口ぐせがあった。この言葉について、小林先生は、次のように考察している。

「……凡そ物の見方のうちで、最も純粋な見方を強制されるのはデッサンに於いてである、という事が言いたかったのではあるまいか。もし、そういう事であれば、純粋な見方という以上、この見方の裡に、ドガは、自分独特の個性とか能力とかいう余計なものを意識した筈はあるまい。従って、物の正確な形に変形を強いる様なものは、ドガの側にはないはずである」。「物の動きを眼が追い、その眼の動きを鉛筆を握った手が追う。どんな観念も、其処には介在しない。それが物の動きの最も直接な正確な知覚である。『デッサンは物の形ではない。物の形の見方である』とは、そういう意味ではあるまいか。デッサンに憑かれたドガとは、物の動き、或はその純粋な知覚に憑かれたドガなのである」。

ヴァレリイは、前述のエッセイで、このようにも言っている。

「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立(原文ママ)ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」。

私は、2018年、「フィリップス・コレクション展」(三菱一号館美術館)で観た、彼の晩年の作品「稽古する踊り子」が、未だに忘れることができない。目をよく凝らしてみると、手前の色彩の奥に、何本かの腕や足、踊り子のチュチュのデッサンが、うっすらと在ることを確認できた。

それは、死ぬまで続けられたドガの研究、すなわち、彼が自らのデッサンに不満を覚え、「世間と絶縁して、三十年間、描いても描いても気に入らぬ絵の堆積の中に、ただ一人埋れて暮していた」画室で、幾度となく手を入れ続けた跡であった。

 

 

以上、4人の画家の「個人のうちで批判力と創造力との相会する、言わば切先きの如きものに刺されている経験」、そして、彼らの創造の自信が、「いつも自己批評による仕事への不満と紙一重のものだった」あり様を辿ってきた。

ここで思い出されるのが、ボードレールの画論「近代生活の画家」の中で使われる「ダンディスム」という言葉である。この言葉について、小林先生の恩師、辰野ゆたか氏は、このように述べている。

「ダンディスムは所謂浪曼主義に固著こちゃく する妄想的な自我崇拝とは趣を異にしている。人間のあらゆる感情の中で最も純粋なる『自尊』を楯として、卑俗なるデモクラシイに対抗する態度となって現れる。多数決の社会、雷同を事とする民衆に対して、自我の本領を固守する為の挑戦に他ならない」(「ボオドレエル研究序説」)。

 

「近代絵画」に登場する画家達は、前稿で詳しく触れたゴッホも含め、周囲から「印象派」という呼称で一括りにされるような人間でも、そんな集団でも全くない。先に見てきたように、各自が、周囲の思惑や集団として貼られたレッテルには一切目もくれず、世間にたやすく雷同することもなく、画家として一人の人間として、人生いかに生くべきか、という自問と真率にむきあい、先駆者としての孤独な戦いを生ききった。このような態度こそ、純粋なる「自尊」を楯とする「ダンディスム」の真面目と呼べるのではあるまいか。

 

小林先生は、芸術家の個性というものについて、こう述べている。「それは個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果を指さねばならぬ。優れた自画像は、作者が持って生まれた顔をどう始末したか、これにどう応答したかを語っているのです。とすれば、この始末し応答しようとするものは何でしょう。与えられた個人的なもの、偶然的なものを、越えて創造しようとする作者の精神だと言う他はないでしょう。……今申した様な事は、優れた芸術家の仕事で、例外なく行われている」(「ゴッホの病気」)(*10)

先生は、画であれ文章であれ、眼前の作品を通じ、その中に棲む作家一人ひとりと、その精神と、真率に緊密にむき あった。そこには大きな感動があった。作家が「切先きの如きものに刺されている経験」があった。そういう下地のうえに、不羈ふき 独立(indépendance)(*11)の作家達一人ひとりが、自らの作品を、自問自答の自答たらしめようと挑む人間劇として「近代絵画」を描き上げた。

今改めて、そんな思いが溢れること、しきりである。

 

 

(*1)鈴木信太郎訳、岩波文庫

(*2)Romantisme(仏語)は、十八世紀末から十九世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。

(*3)画面に描かれた物それぞれが本来持っているとされる色。固有色。仏語ton local。

(*4)ロス・キング「クロード・モネ 狂気の眼と『睡蓮』の秘密」長井那智子訳、亜紀書房

(*5)Georges Benjamin Clemenceau、フランスの政治家。首相。

(*6)エクス・アン・プロヴアンス。フランス南東部、プロヴアンス地方の中心地でセザンヌの故郷。仏語Aix-en-Provence。

(*7)イザベル・カーン、浅野春男、大木麻利子、工藤弘二「セザンヌ―近代絵画の父、とは何か?」三元社

(*8)フランスの小説家ヴィクトル・ユゴーの小説。主人公のジャン・ヴァルジャンは、一切れのパンを盗んだ罪で投獄されるが、改心して不幸な人のために生涯をささげる。

(*9)Paul Valéry、フランスの詩人、思想家。

(*10)新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収

(*11)他からの束縛を全く受けないこと。他から制御されることなく、自らの考えで事を行うこと。

 

【備考】

坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ――我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号

同「モネの『異様な眼』」、同2019年7・8月号

同「セザンヌの『実現レアリザシオン』、リルケの沈黙」、同2020年1・2月号

同「のがれるゴーガンの『直覚』」、同2020年5・6月号

同「ドガの絶望」、同2019年3・4月号

 

(了)

 

編集後記

新型コロナウイルス感染症への対応として、地域によっては二度目の緊急事態宣言が出されたなか、まずは、読者の皆さんに心よりお見舞い申し上げるとともに、引き続きのご健勝を切にお祈り申し上げます。

 

 

新年初刊行となる今号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの男女4人による放談は、巷間の誤解多き言葉、「やまと心」「やまと魂」についてである。巧みに見える言葉が、標語や流行語といった「空言」として急速に拡散してしまう状況に注意を促す江戸紫の似合う女、彼女が終幕に切った啖呵たんかは、SNS時代への警鐘でもあろう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、入田丈司さん、冨部久さん、泉誠一さん、荻野徹さんが寄稿された。

入田さんの「自問自答」は、「詞花をもてあそぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿」を巡る考察である。小林先生の本文から離れることなきよう、一歩一歩進んで行くと、「詞花言葉の方から現実を照らし出す道」に出た。さらなる歩みを進めてみて、入田さんの眼前に開けた景色とは?

冨部久さんは、「物のあはれをしる」ずば抜けた才能さえあれば、『源氏物語』という類まれなる小説を書けるのか、そのための十分条件というものがあるのか、という問いを立てている。そこで、手掛かりになりそうな本文を丹念に引き、思索を深めてみた。何が見えて来たのか? 冨部さんの歩みは続く……

泉誠一さんは、「本居宣長」の熟読を始めてみて、受験生として小林先生の文章と格闘していた頃に抱いていた、先生についてのイメージが一変したと言う。さらには、「一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読」むと語る先生の肉声を聴き、そんな先生のねがいを念頭に、「思想劇」の現場に自らも身を置き読み進める決意を新たにした。

荻野徹さんは、「言葉」についての宣長さんと小林先生による言葉を追っていく。「言詞をなほざりに思ひすつるは……いにしヘの意にあらず」、「言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、そのシルシとして生きている」、「人に聞する所、もつとも歌の本義にして」……。その道程を通じて、ある結論に至る。遠い日が、今に蘇る……

 

 

「人生素読」の部屋では、小島奈菜子さんが、新型コロナ禍の一年を、その日常を振り返っている。「雑草で埋め尽くされた庭」に少しずつ手を入れ、そこで展開される動植物による競争と共存の様を、丁寧に根気強く見つめ続けてきた。そこで気付いたことは、「長年育まれてきた土のように、人間の言語にも、先人達が養ってきた土壌がある」ということ。言語への報恩を語る、宣長さんの声が聞こえて来た。

 

 

今号より、杉本圭司さんの新連載「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」が始まる。ベートーヴェンは、1770年12月、いまから250年前、ドイツのボンに生まれた。杉本さんは、「苦難と忍従の年」となった2020年が、彼の誕生を祝う節目の年でもあったことを、「決して偶然とは思えない」と言っている。はたしてどういうことなのか、その序曲とも言える内容に触れただけで、早くも次号が待ち遠しい。

 

 

厳寒のこの季節、通常であれば、風邪が流行る時季である。小林秀雄先生は、あまり好まなかったと言われている色紙を所望されると、「頭寒足熱 秀雄」と書くことが多かった。この言葉について、その意図を直かに聞いたことがあるという、池田雅延塾頭の文章を引きたい。

「『頭寒足熱』とは頭部を冷やかにし、足部を暖かにすることで、安眠できて健康にもよいといわれると『広辞苑』にあるが、こういう、世間一般に通用している『あたりまえのこと』を重く視る小林先生の生活信条、生活態度は、ちょっとした風邪をひいたときにも顕著に現れた。喜代美夫人に聞いたことだが、先生は風邪かと思ったときはすぐさま寝室にひきこもり、部屋をあたため蒲団をかぶり、二日でも三日でも蒲団のなかで過ごした。『僕の身体が治ろうとしているんだ、僕が協力すれば治るんだ』と言い、西洋医学の薬はいっさい服まなかった」(『随筆 小林秀雄』より「七 あたりまえのこと」、新潮社webマガジン『考える人』)。

 

一向に終息の気配のない今次の災厄下、仮に小林先生がご存命であったとしたら、一体どのように対処されていたであろうか……

風邪をひいたときにも現れた、先生の生活信条、生活態度には、今まさに「いかに生きるべきか」と問われている私達にとっても、大いに学ぶべきものがあるように思う。

 

(了)

 

ボードレールと「近代絵画」 Ⅰ
―我とわが身を罰する者

俺は 傷であって また 短刀だ。
俺は なぐてのひらであり、撲られる頬だ。
俺は 車裂きにされる手足で、また裂く車だ。
犠牲いけにえであって 首斬くびきり役人だ。

 

俺は自分の心臓の吸血鬼、
―永遠の笑いの刑に処せられて、
しかも微笑することも最早出来ない
あの偉大な見棄てられた人たちの中の一人だ!

シャルル・ボードレール『悪の華』より
「我とわが身を罰する者」(*1)

 

1954(昭和29)年、52歳の時、小林秀雄先生は、次のように述懐している。

「僕も詩は好きだったから、高等学校時代、『悪の華』はボロボロになるまで愛読したものである。……私がボオドレエルに惹かれ、非常に影響されたのは、彼の批評精神であった。詩作という行為の人格的必然性に関する心労と自覚であった。『詩人が批評家を蔵しないという事は不可能である』という苦しい明識であった。その意味で、彼の著作を読んだという事は、私の生涯で決定的な事件であったと思っている」。(「ボオドレエルと私」(*2)

批評家小林秀雄の人生は、批評家たる詩人ボードレールとともにあった、と断言しても言い過ぎにはならないだろう。

 

 

小林先生による「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)は、「近代の一流の画家達の演じた『人間劇』」だ(*3)。ところが、その冒頭に登場するのは、画家ではなく、詩人ボードレールなのである。もちろんその事情については、本文で丁寧に説明されており、ここではその概要のみ記しておきたい。

ボードレールは、当時文学界に君臨していた浪漫派の巨匠ユーゴー(*4)から脱出する道を、作曲家ワーグナー(*5)の大管弦楽に見つけた。音楽の世界では、ピアノを始めとする楽器の発明改良とそこから生まれた表現形式(例えばソナタ形式)のおかげで、個人の発見、自覚、内省が進んだために複雑化した意識、より複雑な自己を表現することが可能になった。このことを、ボードレールはワーグナーの音楽から直覚、驚嘆し、そこに「管弦楽器の大建築を見た」(*6)のである。

以上は、楽音という素材の性質に由来するものだが、言葉という素材について言えば、「日常言語の世界という、驚くほど無秩序な素材の世界」の中で、詩は「詩でないものに顚落てんらくする危険を自ら蔵している」(同)ことにボードレールは気付いた。浪漫派の詩人達は、自己の告白を散文という形式、つまり小説で書き出した。この自由な散文形式への逸脱こそ、彼が直観した危機であった。

そこでボードレールは、「詩から詩でないものを出来るだけ排除しよう」とした。つまり、「詩には本来、詩に固有な魅力というものがある筈で、この定義し難い魅力を成立させる為の言葉の諸条件を極め」た。「詩は、何かを、或る対象を或る主題を詩的に表現するという様なものではない、詩は単に詩であれば足りる」、そういう確信のもと言葉を厳密に編み上げる、すなわち、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、これを組織」(同)したのである。

しかし、彼の直覚は、そこに留まらなかった。画壇の世界においても、同様に主題や対象の強制から逃れ、画面上の色彩の調和に精魂を込める、先駆的な画家の感覚をも直知した。換言すれば、絵画の自主性或は独立性を創出せんとする画家の烈しい工夫に眼を向けた。その代表こそ敬愛するドラクロア(*7)であり、ボードレールは、そのような「絵画の近代性に関する予言的な洞察」、すなわち「絵画は絵画であれば足りるという明瞭な意識を持って、絵に対した最初の絵画批評家」になったと、小林先生は評しているのである。

ここで、そんなボードレールの肉声を、ドラクロア論の中から引いておこう。

「ドラクロワが何ぴとよりもよく訳出して、我が十九世紀に栄光を与えたという、その何かしら神秘なものとは一体何か? と貴下は問わるるに違いない。それは、眼に見えぬものであり、手に触れ得ぬものであり、夢であり、神経であり、魂である。そして彼は―これに御注意を願いたいが―ただ輪郭と色彩以外の他の手段を用いずしてこれを遂行した。何ぴとよりもよく遂行した。備わざるなき画家の完璧を以って、繊細な文学者の厳密を以って、情熱的な音楽家の雄弁を以って、これを遂行したのである」(「ユージェーヌ・ドラクロワの創作と生涯」(*8))。

 

 

それでは、「近代絵画」に登場する画家は、ボードレールを、彼の絵画批評を、どのように受け留めていたのだろうか。

小林先生は、セザンヌ論のなかで、「セザンヌがボードレールを尊敬していた事も間違いはないだろう」という前提で、このように書いている。

「ボードレールに、『腐肉』という有名な詩があるが、セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦あんしょうしていた、という話―この話はヴォラール(*9)の『セザンヌ』の中にある話で、ヴォラールがヴェルレーヌ(*10)の事をセザンヌに再三訊ねたが、セザンヌはこれに答えず、いきなり『腐肉』を歌って聞かせ、『ボードレールは強いのだ。彼の絵画論は実にあきれたものだ。ちっとも間違いがない』と言ったと言う……」。

小林先生自身も、セザンヌ論のなかで、マドリッドのプラド美術館にあるヴェラスケス(*11)の「ラス・メニナス」を観て味わった「実に深い感動」について、「色彩による調和の極限という強い静かな感じ」があり、「為に、主題は圧倒されていたのだと言ってもいい」と表現し、「いや、私は、殆どセザンヌの色調さえ見る想いがした」と述懐している。

先生はセザンヌやヴェラスケスの画に、「絵画は絵画であれば足りる」という精神を見抜いていたのであろう。

 

一方、セザンヌとは逆に、ボードレールをあまり評価していなかったように見えるのが、ゴッホである。

小林先生は、「ゴッホの手紙」(*12)のなかで、自身の絵について文学者の判断を極端に嫌ったドガの話に続けて、同様に文学者に対して気難しい画家として、ゴッホが友人のベルナール(*13)に宛てた手紙を引いている。

「ああ、レンブラント―ボオドレエルの偉さは偉さとして、特にあの詩に就いて、僕は敢えて言うのだが(恐らく《悪の華》の中の《燈台》を指すと思われる―小林)、ボオドレエルは、レンブラントについて、殆ど全く無智である。……だが、君、君はルーヴルにある《牛》と《牛肉屋の内部》をよく見た事があるか。君はよく見てやしないのだ。ボオドレエルと来たら、もっともっと見てやしない」。(現行番号B12)

 

ところがその直後、先生は、こう続けるのである。

「ボオドレエルが見ていないわけはないだろうが、画家は見るという事に関して、独特の秘教を信じているものだ。そして意識家ほど、自分のうちに言うに言われぬものがあるという意識に苦しみ、その苦しみによって、言うに言われぬものを、言わば不本意乍ら深化して了うものである。」。(傍点筆者)

加えて、「告白文学の傑作」と称するゴッホの書簡を引きながら、「……彼には告白というものしか出来ない。要するにこういう事だ。この画家は、働く手を休めると、自分の裡にじっと坐っているに出会わなければならない」(同)と綴っている。

 

小林先生の言うように、ボードレールは、決して「見ていない」人ではなかった。

先生の大学時代の恩師、辰野ゆたか氏の論考「ボオドレエル研究序説」(*14)によれば、彼は、「中流の家庭に少年時代を送り、つとに父を失い、母の再婚から第二の父と争い、文藝にふけって、おこないに節度が無く、青年時代の放蕩の為に節度をそこない、四十代で命をおわった」。氏は、そういう略伝について、「外部から観察して寧ろ平凡であるにも拘わらず、内部から考察する時、初めて近代的悲劇となって吾等の心を打つのである。一個の魂が過度に鋭敏な感性のために苦しみ、理想の熾烈しれつな憧憬に悩み、さいなまれている」とし、「少年時代から既に孤独感に悩んでいた聡慧そうけいなボオドレエルが、つとに人心の分析家として、のはごうも怪しむに足らない。常に見る『我』と、見らるる『我』との対立は、享楽し苦悩するボオドレエルの傍に、それを観察し批評するボオドレエルを佇立ちょりつせしめたのである」(以上、傍点筆者)と述べている。

ボードレールは、むしろよく見る人であり、その眼差しは、外部のみならず、自身の内面深くにまで向けられていたのである。

 

―そうして、太鼓も音楽もない、柩車きゅうしゃの長い連続が
わが魂の中を しずしずと行列する。希望は、
破れて、泣いている。残忍な、暴虐な苦悶は
わがうなだれた頭蓋骨の上に 真黒な弔旗を立てる。

「憂鬱 Spleen」(「悪の華」(*1)より)

 

 

ゴッホを語るに際し、小林先生が「一番大事なこと」と繰り返しているのが、彼が、自身の病気について「非常に鋭い病識」を持っていたということである。先生は、「鋭敏な精神病医の様に、常に、自身の病気の兆候を観察していた病人だった」(「ゴッホの病気」)(*15)として、そのことは彼の書簡集が証明しており、それは「仮借のない自己批判の連続であって、告白文学と見ても、比類のないものである。又、彼は、四十点を越える自画像を遺しています。短い期間にこれほど沢山自画像を描いた画家は、他にはありますまい。病的という言葉が使いたいのなら、病的にであった、と言ってもよい」(傍点筆者)と述べている。

そこで取り上げられるのが、ゴーガン(*16)との間に起きた「あの周知の不幸な事件」の直後、1889年1月にアルルで描かれた自画像「耳を切った男」である。その、ゴッホが耳を繃帯ほうたいした自画像を描くさまを、先生はこのように描写している。

「ここに、世にも奇妙な人間がいる。自身でも世間でもこの男をゴッホと呼んでいるが、よくよく考えれば、これは何んと呼んだらいいのであろう。それは、自我と呼ぶべきものであるか。この得体の知れぬ存在、普通の意味での理性も意識もその一部をなすに過ぎない、この不思議な実体を、ゴッホは、何もも忘れて眺める。見て、見て、見抜く。見抜いたところが線となり色となり、線や色が又見抜かれる」。

その時、彼の頭の中に、世間が見ている「ゴッホ」という主題なぞ皆無であったし、彼自身が、「ゴッホ」と名のついた人物というよりも、「ゴッホという精神」そのものと化していたように思われる。

 

同年5月、ゴッホはサン=レミの精神病院に転院する。7月中旬、石切り場入口での製作中に起きた発作以来、中断していた仕事を、「黙した熱狂裡に、かれた様に」再開した9月初旬に書かれた手紙から、小林先生が引いているゴッホの肉声を聴こう。

「仕事はうまく行っている、身体の具合が悪くなる数日前に始めた一つのカンヴァスと、今、悪戦苦闘している。《刈入れ》という全部黄色の習作だ。恐ろしく厚く描かれているが、主題は美しく単純なのである。暑熱しょねつ唯中ただなかで、仕事をやり上げようと悪魔の様に戦っている一人の判然としない人間の姿、この刈る人に、僕は、死の影像を見ている、と言うのは、という意味でだ。今度のは以前に試みた麦刈りの真反対だと言いたければ言ってもいいが、この死には悲しいものは少しもないのだ。あらゆるものの上に純金の光をみなぎらす太陽とともに、死は、白昼、己れの道を進んで行くのだ。……」(No604、傍点筆者)(*12)

この習作は、病院の鉄格子越しに眺めた、熟れた麦畑を描いたものである。

「さあ、《刈入れ》が出来上った。……自然という偉大な本の語る死の影像だ、だが僕が描こうとしてたのは死だ。紫色の岡の線を除いては、すべてが黄色だ、薄い明るい黄色だ。獄房の鉄格子越しに、こんな具合に景色が眺められるとは、われ乍ら妙な事だよ。……」(同)

彼にとって、病室は「獄房」であり、自身は一個の囚人であった。

 

小林先生は、「ゴッホの手紙」を、「黒い鳥の群がる麦畠の絵」(*17)の複製を美術館で見て、「その前にしゃがみ込んでしまった」場面から書き始めていることは周知の通りである。しかし、終盤になって、その画が彼の絶筆であるかどうかを詮議するよりも、ゴッホが前述の習作を描くなかで、「熟れた麦畠を眺め、『純金の光をみなぎらす太陽の下に、白昼、死は己れの道を進んで行く』のを見てとっていた事を思い出した方がよかろう」(原文ママ)と述べて、話は終幕へと向かう……

 

 

ここまで辿ってきたように、小林秀雄先生にとって、ゴッホという人間は、研ぎ澄まされた自己意識により、自らの裡に在る、言うに言われぬものを深化させる「鋭い自己批評家」であり、且つ比類のない告白文学たる書簡を綴った詩人であった。また同時に、そのような心眼で、見て、見て、見抜いたところを、デッサンや色彩に昇華する画家であった。

今、それを言い換えるならば、自らの肉体のなかの「ボードレール」と、共存しつつも最期の瞬間まで戦い続け、ついにわが身を使い果した、「我とわが身を罰する者(L’Héautontimorouménos)」と見えていたのではなかったか。

 

 

(*1)「悪の華」(鈴木信太郎訳、岩波文庫)

(*2)新潮社刊「小林秀雄全作品」第22集所収

(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、同

(*4)Victor Hugo、フランスの詩人、小説家、劇作家、1802-1885、フランス文学史上屈指の詩人とされている。

(*5)Richard Wagner、ドイツの作曲家、1813-1883

(*6)「表現について」、同第18集所収

(*7)Eugène Delacroix、フランスの画家、1798-1863

(*8)ボードレール「ボードレール芸術論」(佐藤正彰、中島健蔵訳、角川文庫)、

「ロマン派芸術」からの採録

(*9)Ambroise Vollard、フランスの画商、1868(1866とも)-1939

(*10)Paul Verlaine、フランスの詩人、1844-1896

(*11)Diego Velázquez、スペインの画家、1599-1660

(*12)新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集所収

(*13)Émile Bernard、フランスの画家1868-1941

(*14)辰野隆氏は、フランス文学者。日本のフランス文学研究の基礎を築いた。「ボオドレエル研究序説」は、氏の博士論文。1929年、第一書房刊。1888-1964。

(*15)新潮社刊「小林秀雄全作品」第22集所収

(*16)Paul Gauguin、フランスの画家、1848-1903

(*17)「烏のいる麦畑」。1890年作。この複製画は、小林先生の自宅に長く掲げられていた。

 

 

【参考文献】

「ファン・ゴッホの手紙」二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房

(了)

 

編集後記

前号でご案内の通り、本誌は今号より、季刊誌として改めて出帆することとなった。塾生一同、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌という名に恥じない、さらなる誌面の充実に向けて決意を新たにしたところであり、読者の皆さんには、引き続きご指導とご鞭撻を、心よりお願いする次第である。

 

 

まずは、前号に続き石川則夫さんに「特別寄稿」を頂いた。まさに続編という位置付けであり、前号も含めて味読いただきたい。今号では、小林先生の柳田国男観が、時系列で精緻に繰り広げられている。それは、先生の「講演文学」として名高い「信ずることと知ること」が、二度にわたる講演と加筆を経て定稿版へと至る過程でもある。改めて「お月見」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)という作品も読み直したくなった。

 

 

巻頭劇場は、もちろん荻野徹さんである。今回は、くだんの娘がノリノリのラップで口ずさんでいた、「宣長は、『古意を得る』ための手段としての、古言の訓詁くんこや釈義の枠を、思い切って破った」という言葉から幕が開く。さて「ふたつの訓詁」を中心に展開する今回の対話劇、果してどのような大切りを見せるのか、東西東西(とざいとーざい)、ご注目!

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さんと渋谷遼典さんが寄稿された。お二方とも、主題は、小林先生が言っている「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」についてである。

越尾さんは、本塾での自問自答に立った後、突如、同僚の方の訃報に接することとなった。そういう状況の中で、「まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験した」と言う。心からの哀悼の意を表しつつ、越尾さんが真心を込めて綴られた言葉を静かにかみしめたい。

渋谷さんは、小林先生が「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」と呼ぶ、その「『全的な認識力』の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない」点に着眼し自答を試みている。わけても、「全的な認識力」という先生の言葉遣いから「自ずから思い出された」として、渋谷さんが紹介しているベルグソンの文章には、ぜひお目通しいただければと思う。

 

 

今号の「考えるヒント」は、「本居宣長」において、小林先生が使っている二つのキーワードの用例探索特集である。

溝口朋芽さんは、山の上の家の塾の自問自答のなかで、入塾以来、自らのテーマとしてきた本居宣長の「遺言書」へさらに近づく手掛かりとして、「精神」という言葉に注目した。十箇所の用例を精査するなかで、それらの言葉は宝玉のように輝きを増してきた。さらには、一連の宝玉を貫く一筋の緒も見えて来た。なお、溝口さんも言及している通り、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景二十五 精神の劇」(本誌2020年5・6月号掲載)も併せてお読みいただければ、さらに理解を深められることと思う。

その溝口さんの自問自答が深耕される姿に触発された橋本明子さんは、「想像力」という言葉に眼を向けた。それはちょうど、今般の新型コロナウイルス禍の影響を受け、橋本さんの職場でも、想像力を駆使する必要に迫られた時のことであった。そこで橋本さんが見出した「考えるヒント」とは何か?

 

 

今回、橋本さんが引用された『学生との対話』(新潮社刊)に、先生のこのような発言がある。

「イマジネーションは、いつでも血肉と関係がありますよ。イマジネーションというのは頭全体を働かせることですね。頭や精神というのは、常に肉体と直接に触れ合うものです。僕も経験してきたことだが、イマジネーションが激しく、深く働くようになってくると、嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね……」。

 

塾生一同、先生が言うところの「想像力イマジネーション」を我が物とし、本誌読者の皆さんの心にも身体にも響く言葉を求めて、新たな歩みを進めていきたい。

(了)

 

ピカソの「問題性」

天才とは意に随って取戻される幼年期に他ならない。……
顔にせよ、風景にせよ、光、金泥、塗料、きらめく布、化粧
に飾られた美女の魅惑等、それが何にせよ、新奇を眼前に
する小児らの動物的に恍惚とした凝視は、この深い楽しげ
な好奇心の所為となさなければならぬ。

シャルル・ボードレール「近代生活の画家」(*1)

 

 

以前、箱根、彫刻の森美術館(ピカソ館)(*2)を訪れた時、ベビーカーに乗った女児が、両親と一緒に入ってきた。絵の前に来ると、「これなんだろうねー」と甲高い声を上げる。ただ、それだけである。そして、次の絵の前にくると、同様に「これなんだろうねー」と言う。私は、その繰り返しを心地よく耳にしながら、ピカソがねた「みみずく」の陶器と、静かに向き合っていた。

 

 

小林秀雄先生は、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を書き終えて、「先年、外国旅行をした時、絵を一番熱心に見て廻った。当時得た感動を基として、近代絵画に関する自分の考えをまとめてみたいと思い、昭和二十九年の春から書き始め、毎月雑誌に発表して今日に至った」(*3)と記している通り、その執筆動機は、「絵画についての疑い様のない感動」(「ピカソ」、同)が基にある。ところが先生は、ピカソについて、気の置けない大岡昇平さんとの対談で、「ほんとうは好きじゃないんだよ。ただ問題性があって別なところで好きなんだ」(*4)と述べている。つまり、心底では必ずしも好きになれないが、別なる問題性に心動かされてピカソ論を書いた、しかも連載にして17回にも及んだ(*5)。それでは、小林先生が眼を付けたピカソの「問題性」とは一体何なのか? 紙幅の許すところで、考えを深めてみることにしたい。

 

 

小林先生は、ピカソ論の前半で、美術史家ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」の説について、エジプトでの実体験に基づき、多くの紙幅を割いている。この説は、本誌前号(2020年5・6月号)「のがれるゴーガンの『直覚』」でも書いた通り、人間の芸術意欲を駆動する深因について、心理学者リップスの「感情移入の概念」、すなわち、人間側の「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(傍点筆者)を、ロマン主義(*6)が愛好した審美的直観を理論的に再構成したもので、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これをすべての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」として退しりぞける。

ヴォリンゲルはむしろ、ピラミッドに代表されるエジプトの芸術様式が示すように、そこには「生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがあ」り、「われわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である」という「抽象作用の概念」こそ第一義、とするのである。

 

そこで小林先生は、ヴォリンゲルが言う意味合いでの抽象芸術という言葉に、ピカソが反対する理由はなかったという前提で、このように述べている。

「二十世紀の抽象芸術は、明答は得られないにせよ、様に見える。歴史は二度繰返さないが、とは考えられよう」(傍点筆者)。

先生は、ピカソの「実在感から出発しない様な絵はない」という主張と同様、「美術史に最初に現れた抽象的芸術の作者達も実在感から出発した」と言う。作者たるエジプト人らは、「到るところに不思議を見、危険を見て生活していた。彼等に迫る世界の像は、混沌として、不安定であり、これを取り鎮める合理的な世界の解釈は、彼等の能力を超えたものだったから、彼等は、この大敵に対し本能的に身構えをする他はなかったのだが、この身構えこそ彼等の造形力であり、具象のまどわしから逃れて意識の安定を得んとする道であった」。

それならピカソは、何に対し「不思議」や「危険」を見て、身構えたのか……

 

彫刻の森には、「貧しき食事」(1904年)という、印象的なエッチング(銅版画)があった。一組の男女がテーブルに肘をついてすわっている。ともに瘦身である。机上には、酒瓶にコップと、カチカチのパンが二かけ。盲目なのか男は目をつぶり、口を半開きにしたまま、左手を女の肩に回しているが、その指は長くて細い。実に表情的な指だ。私は、秘めた恨めしさを静かに醸し出す、日本の古い幽霊画でも見ているような心持になった。

これは、1901年から04年末までのピカソの作風、いわゆる「青の時代」の作品である。小林先生は、その時代の代表作「自画像」(1901年)について、「孤独なしには、何一つ為し遂げることは出来ない。私は、かつて私の為の一種の孤独を作った」というピカソの言葉にある「孤独」を語っているのだと言う。さらに、そういう作者自身の姿を扱うのに、青の色調、精神医学者ユングが言う「冥府の色」を必要とした、というのも、「名附けようもない自分自身に出会った一種の恐怖に由来すると言ってもいいからである」と言っている。

「貧しき食事」に描かれた男女から、私が感得したものもまた、ピカソが覚えた、そういう一種の恐怖の意識だったのだろうか? いや、小林先生の言う通り、「ピカソの内的体験は、やはり謎にとどまる」だろうし、ピカソから「私には自分を自分流に知る事で手一杯だ」と一蹴されそうなので、さらなる詮索はやめておこう。

 

 

幸いにも、私達は今でも、ピカソが制作する状況を、映像を通じて観ることができる。小林先生もピカソ論の冒頭で、鑑賞後「言葉のない感動が、尾を引いていて、口をきくのもいやだった」と言う、クルーゾー監督による映画「ミステリアスピカソ」(*7)である。

こんなシーンがあった。ピカソは、唐突に「見ててくれ、驚くものを描くから」と言うと、花束を描き始めた。……花束は、そのまま魚のうろこと化す。……魚は、鶏の羽の模様に変わる。すると突然、画面を黒く塗りつぶし始めた。最終的に出来上がったのは、不気味にわらうアルルカン(道化)の顔であった。

別のシーンである。彼は、海水浴場と思しき絵を描き始めた。画面は、何度も何度も書き直されていく。一度や二度ではない、書き直しの永劫回帰である。

ピカソの声が拾われる。

「これはひどいな、まったくだめだ」。

書き直しは続く。

「ますます悪くなる 心配かい? 心配無用だ。最後にはもっと悪くなる……」。

ついに、当初の絵とは似ても似つかない物に変わり果ててしまった。

「またひどくなった。剥ぎ取ってしまおう」。

今度は修復の繰り返しが始まる。

「少しはよくなったか」

ようやく出来上がりか、と思われた瞬間……

 

「これもただ一枚の絵。今ようやく、この絵の全体をイメージできた」。

「新しい画布で、すべてを描き直そう」。

 

このシーン、映画では10分弱に編集されているが、実際の撮影は8日間にも及んだという(*8)

 

もう一つ、小林先生がピカソ論を書くうえで大事にしていた書籍がある。まずは、先生が抱いていたピカソの印象も含めて、そのことがよく分かると思う一節を紹介したい。

「サバルテスというピカソの秘書が書いた『親友ピカソ』(*9)という本がある。先日、訳者の益田義信君から贈られて読んで、大変面白かった。いつか『ライフ』誌上に、何か特殊な発火装置めいたもので、空中に絵を描いているピカソの実に鮮明な写真が出ていたが、毛の生えていない大猿の様な男が、パンツ一枚で、虚空を睨んでいたが、その異様な眼玉には驚いた。こんな眼つきをした男は、泥棒、人殺し、何を為出かすかわからぬが、議論だけはしまい、と感じたが、益田君の訳書を読んでみると、やはりそんな風な人に思えた」。(「偶像崇拝」(同、第18集所収))

続いて、同書の中の一節を引く。前述の映画と相まって、ピカソの実際の制作時の特徴が、よくわかるのではないかと思う。

「彼の心は天も地も彼を抑え引きもどすことも出来ぬ程、急速に一つのことから他へと移って行く。どんな場合でも、人をして話の源を忘れさせてしまうのが常である。彼の無数の幻想の一つを、形につくり上げにかかる時は、話題を全然変えてしまうこともある。何度岐路にはいって話を中絶したことだろう。……彼が時々私にする話の形式は、彼の創作形式と比較せざるを得ない程よく似ている」。

 

 

ピカソには狂的な蒐集癖しゅうしゅうへきもあった。紙くず、骨のかけら、マッチ箱…… あらゆる実物で、ポケットは一杯になって破れ、部屋中に散乱していた。サバルテスが指摘しても、「棄てねばならぬ理由が何処にあるか」と譲らない。小林先生は、この奇癖に興味を持ち、「殆ど彼の制作の原理だ」とまで断言する。「頭脳は、勝手な取捨選択をやる、用もない価値の高下を附ける。みんな言葉の世界の出来事だ、眼には、それぞれ愛すべきあらゆる物があるだけだ。何一つ棄てる理由がない」のである(「偶像崇拝」)。

先生は、ピカソが、「美とは、私には意味のない言葉だ。その意味が何処から来たのか、どこへ行くのか誰も知らないのだからな」と言ったことを踏まえ、このように続けている。

「恐らく彼は、自分の蒐集癖が、『美』の抑圧への、深い反抗に発している事をよく感じているのである」。「自分の心底深く隠れている蒐集の理由だけが正当で、大事なのである」。

 

であるならば、この、ピカソのなげきの声も、さらに深く感得できよう。

「誰もが美術を理解したがる。何故、鶯の歌を理解しようとはしないのか。何故、人々は理解しようとはしないで、夜や、花や、廻りのいろいろな物を愛するのか。ところが、絵画となると、理解しなければならないのだそうである。画家は必要から制作している事、彼自身は、世界の些々たる分子に過ぎない事、説明は出来ないにしても、私達に喜びを与える沢山の他の物に比べて、絵を特に重要視するには当たらぬ事、そういう事を世人が何よりも先ず知ってくれればよいのだが」(「声明」1935年)。(「近代絵画」)

私には、彼が「自らの作品も、頭脳で理解せず、眼でみたまま愛してくれよ」、そう訴えているように聞こえる。そうなると、ピカソ作品の特徴を、キュービズムという外附けの枠組みで分類したり、作品の表題や第三者の解説で理解することも無用ということになる。彼の絵を見て、わからない、と嘆くこともないのだ。

 

確かにピカソは、「我々がキュービスムを発明した時、キュービスムを発明しようという様な意向は全くなかった。が明かしたかっただけだ」(傍点筆者)と言っている。ところが小林先生は、次のように続けるのである。

「ピカソが実際に行ったところは、寧ろ内部からの決定的な脱走だったと言った方がいい。ロマンティスムが育成して来た『内部にあるもの』は、次第に肥大して、意識と無意識との対立とな」る。しかし彼にとって、「意識と無意識が対立する様な暇はな」く、「絶えず外部に向って行動を起こす」。眼前にある対象物に向かって仕事をする。対象物に激突したピカソは「壊れて破片となる」。そこには「平和も調和も」なく、「恐らくはそれは自然をがものとなし得たという錯覚に過ぎなかった」のであろう。

 

先に、ピカソの制作のリアルな有り様を、映画やサバルテスの文章を通じて紹介したが、それらこそまさに、ピカソによる「内部にあるもの」からの脱走、すなわち、彼が対象物に激突して破片と化す様だったのではあるまいか。さらには、そこで私達は、対象を己の所有物と感じたいと欲する「感情移入」の拒絶、すなわち小林先生が言う「ヴォリンゲルの仮説の応用問題」を目の当たりにしていたのではあるまいか。

 

 

ピカソは晩年、子供たちを見ると、このように言っていたという。

「私があの子供たちの年齢のときには、ラファエロと同じように素描できた。けれどもあの子供たちのように素描することを覚えるのに、私は一生かかった」(*10)

さて、彫刻の森の女児は、相変わらず「これなんだろうねー」を繰り返している。

ふと思った。ピカソの作品を味うには、表題や解説の言葉に頼らない注意力を保ちながら、あの女児になりきって観ていくのがよいのかも知れない。

鶯が歌うように、「これなんだろうねー」とだけ繰り返しながら……

 

 

(*1)ボードレール「ボードレール 芸術論」(佐藤正彰・中島健蔵訳、角川文庫)

(*2)彫刻の森美術館(神奈川県足柄下郡箱根町ニノ平1121)
※ピカソ館は1984年に開館。2019年に全面リニューアルされた。

(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収

(*4)「文学の四十年」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収

(*5)向坂隆一郎「『近代絵画』前夜」、『この人を見よ 小林秀雄全集月報集成』新潮社小林秀雄全集編集室編

(*6)ロマンティスム。18世紀末から19世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。

(*7)「ミステリアスピカソ-天才の秘密」Le mystère Picasso、DVD発売;シネマクガフィン、販売:ポニーキャニオン

(*8)この作品「ラ・ガループの海水浴場」(第一作)は、東京国立近代美術館に所蔵されている。

(*9)「親友ピカソ」(美術出版社)

(*10)ローランド・ペンローズ「ピカソ その生涯と作品」(高階秀爾・八重樫春樹訳、新潮社)
※出典確認は、彫刻の森美術館の黒河内卓郎さんにお世話になりました。記して感謝申し上げます。

 

 

【参考文献】

 マリ=ロール・ベルナダック、ポール・デュ・ブーシェ「ピカソ 天才とその世紀」高階絵里加訳、創元社

(了)

 

編集後記

新型コロナウイルス禍がいまだ収束しないなか、深刻な豪雨被害を受けられた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 

 

今号には、本誌2019年11・12月号の「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」に引き続き、石川則夫さんに「特別寄稿」いただいた。今回は、「『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとする」目論見の前段として、小林秀雄先生と柳田国男氏との交流の具体的な様相が、最新の研究成果も踏まえ、その端緒から克明に詳らかにされている。本塾生はもちろん、すべての読者にとってきわめて大きく興味を惹かれるテーマであるだけに、一読者として次回以降の本格山行に同道できることが、今から待ち遠しくなる。

 

 

巻頭随筆は、新田真紀子さんが寄稿された。小さな命を身に宿したとき、新田さんが思い出したのは、近くに住むお祖母さんと毎月行っていた手紙のやり取りである。塾頭の勧めもあって、「ゴッホの手紙」を久しぶりに読み返し、新田さんが新たに感得したことは、小林先生が言うところの「告白」の深意であった。まさに私信を読ませてもらうかのように、新田さんの言葉を玩味したい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島由紀子さんと本田正男さんが寄稿された。

比叡の山から降りる途中、小島さんが思い出したのは、「源氏物語」宇治十帖において、入水後、横川よかわの僧都の助けを得て、叡山の麓、小野の里に移された浮舟の姿であった。そのまま、小島さんの眼は、同帖について評し了えた宣長が詠んだ一首につき、小林先生が記した、この言葉へと向かう――「作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである」――「宣長の夢」とはいかに……

本田さんは、弁護士として、司法修習生を受け入れる折、自分が法廷への提出書面作成のうえで大切にしていることを何だと思うか? という問いを提示しているという。法廷弁論が書面中心となるなかで、本田さんが、そこに映ずる「言葉の姿」にまで細心の注意を払うのは、なぜなのか? 「本居宣長」への自問自答を通じて、本田さんが感得したところに着目したい。

 

 

「美を求める心」に寄稿された橋岡千代さんの足を止めたのは、竹の枝にうずくまる二羽の雀が描かれた地味な墨絵であった。その絵と一心に相向かう橋岡さんの脳裏に、小林先生が言う「観」という言葉が去来する。橋岡さんが、「観」について論じている小林先生の言葉を書き写すことで、観る側が感じることの肝要さを繰り返す先生の言葉の深みをいっそう強く感じた、その自問自答の姿を観じていただきたい。

 

 

今般のコロナ禍という状況下、山の上の家の塾は、やむをえず3月より休会となっていた。しかし、「私たちは、もうこれ以上、今次の災禍に抑圧されてばかりはいられない」という思いも抑えがたく、あくまでの一時避難として鎌倉から場所を移し、「3密」を完全回避するかたちで、7月より再開することができた。同様に、池田塾頭による各種講座も順次再開されており、先日は「小林秀雄と人生を読む夕べ」も開かれた。テーマは「文学と自分」(『小林秀雄全作品』第13集所収)、その中で、小林先生がこのように述べているくだりが、強く印象に残っている。

「……二宮尊徳は思想という言葉は使っていない。大道と言っておりますが、大道はたとえば水の様なもので、世の中を潤沢して、滞る処のないものだが、書物になって了えば水が凍ったようなものだ、その書物の註釈というものに至っては、氷に氷柱つららがぶら下がった様なものだ。『氷を解かすべき温気うんき胸中になくして、氷のままにて用ひて、水の用をなす物と思ふは愚の至なり』と言っております。大切なのは、この胸中の温気なのである。空想の世界の広大さに比べて、確実な己れの生活の世界の狭さを知れとは、この胸中の温気の熱さを知れという事に他なりませぬ」(傍点筆者)。

 

コロナ禍という非常時における今次の塾の再開も本誌発行の継続も、本塾に関わるすべての者の、小林秀雄先生に学びたいと一貫して希う「胸中の温気」によるものである。

本誌は次号より季刊誌となって生まれ変わる。しかし、執筆者の「胸中の温気」に、これまでと変わるところは一切ない。引き続き、読者の皆さんのご指導ご鞭撻を切にお願いする。

(了)