エピファニーについて

ある人が、一つの仕事に取り組んで、それが未完で終わってしまうということ、そして、その仕事について、後の公開を禁じるということは、一体何を意味するのだろうか。

小林秀雄さんが『感想』で目指されたことは、それくらい大きなことだったのだろうと思っている。そして、そのことについて後世の私たちが考える時、真っ先に心がけるべきはその向こうにある巨大な仮想世界のことであろう。

『感想』の冒頭、有名な蛍のくだりがある。蛍を見て、それが亡くなったお母さまだとわかる。この「気づき」ないしは「手がかり」に、全てが込められている。

小林秀雄は、エピファニーの人だった。ここに、「エピファニー」とは、元来は宗教的な意味合いの言葉だが、転じて、現代では、自分の人生について何か本質的で深い洞察をもたらしてくれるような出会い、気付き、覚醒を指す。

道頓堀のモーツァルトにせよ、折口信夫さんの「宣長さんはね、源氏ですよ」にせよ、あるいはゴッホの絵画にせよ、小林秀雄さんの大切な仕事は、エピファニーに端緒を持つ。そこから始まる探究の過程を、小林さんは一つの作品として私たちの前に見せてくれる。

エピファニーが興味深いのは、その一瞬の気づきに全てが込められているように感じられるからである。その後の長い道程は、あたかも、ただ詳細を明らかにするだけのプロセスであるかのように思われる。何故かはわからないが、一瞬のエピファニーの中に、全てがあらかじめ提示されているように感じられるのである。

エピファニーは、科学的探究においても指導的な役割を果たす。例えば、アルベルト・アインシュタインの相対性理論は、15歳の時に抱いた「光を光の速度で追いかけたらどうなるか」という発想が端緒になったとされる。それから10年間、粘り強く考えた結果が、物理学の革命につながった。

アインシュタインの相対性理論で示された、ローレンツ変換の背後にある時空の幾何学や、質量とエネルギーの等価性といった図式が、「光を光の速度で追いかけたらどうなるか」というエピファニーに全て込められていたと考えるのは不思議な気がする。不思議だが、どうもそのようなことがあるらしい気もする。そのように考えないと説明できないことが、世の中にはあるように思う。少なくとも、ある種の創造性の機微は、そのようなプロセスの中にしかない。

ある創造者の大きさは、その人の持つエピファニーの質によって決まると言っても良いだろう。小林秀雄さんは、大きなエピファニーを持つ人だったからこそ、大きな仕事をしたのである。

エピファニーは、常に不意打ちで訪れる。あらかじめ準備されたエピファニーなどない。むろん、そこに至るまでのさまざまな経験や、無意識の思考などはあるかもしれない。自然は連続しており、何事も飛躍しない。意識の側面から見れば非連続に見えるエピファニーもまた、その背後にあるプロセスを見れば連続しているのであろう。

それでも、意識から見れば、エピファニーは突然顕れる。エピファニーは、意識を不意打ちする。そのような形式に最も自覚的だった作家の一人は、ジェームズ・ジョイスであろう。

ジョイスの自伝的小説『若き芸術家の肖像』では、当時のカトリックの価値観が抑圧的なものとして描かれている。その一方で、ジョイスの描く人間像には、エピファニーを重要なものとして捉えるという視点において、キリスト教的な感性からの連続性が見られる。

エピファニーは、キリスト教的文脈で言えば、いわゆるキリストの「顕現」と関連付けられる。キリストの生誕、東方三博士の礼拝、その後の「変容」と言った一連の出来事を通して、キリストの本質が示される一連のプロセスが「エピファニー」である。

ジョイスの『ダブリン市民』は、完璧と言って良い文体と構成を持つ短編からなるが、その各短編において、登場人物は何らかのエピファニーを経験する。いわば、ダブリン市民たちがさまざまな現場、時点において、人類としての総体的な「エピファニー」を経験するのである。

ジョイス自身は、『ダブリン市民』を当初、後に『ユリシーズ』に結実する現代版のオデュッセウスの物語と関連させる構想を持っていたという。ジョイスがオデュッセウスに興味を持ったのは、この英雄が、人類が経験するさまざまな側面の総体を代表する存在だったからだとされる。

ジョイスは、エピファニーを通して、宗教を失った神なき世界においても、人類全体の経験を支えたいと思ったのではないか。無意味の沼地に全体が陥ることを避けたかったのではないか。その意味では、ジョイスは宗教の最良の精神の後継者だと言える。

『ダブリン市民』で最も感動的なのは、そのエピファニーが猥雑な日常の中に突然顕れることである。

私たち一人ひとりは、どうにも整理のつかない、雑然とした人生を送っている。仕事をしたり、休んだり、ものを食べたり、排泄したり、散歩をしたり、眠ったり、親しんだり、反目したりして、決して美しくすっきりなどしない日々を重ねている。

そんな人生の中に、突然、何らかの本質が顕示されることがある。その瞬間、時間は止まって、私たちはあたかも「永遠」に接続したような気分になる。美の原質を垣間見たような気持ちになる。そのようなエピファニーの感触が、私たちの魂をどこか遠いところに連れていってくれる。

日常の中に突然顕れるエピファニーの姿を描く点において、ジョイスは卓越した書き手であった。そして、小林秀雄さんもまた、エピファニーの書き手であった。

ウィーン楽友協会ホールでウィーンフィルの演奏を聞いていて、モーツァルトの本質が降りてくるのではない。道頓堀の雑踏の中を歩いていて、突然それがやってくるからこそ、エピファニーなのである。

音質の悪いSPレコードだけでモーツァルトを聞いていたとしても、それはやってくる。エピファニーは言い訳をしない。エピファニーは、「こんにちは」とは言わない。それは、唐突に挨拶もなしにやってくる。それを捉える感性と誠実さを持つことができるか。焦点はそこにある。

小林秀雄さんは、エピファニーに誠実な人だった。だからこそ、一つの作品として世に問うた。長い時間をかけて、自分のエピファニーに取り組み、付き合った。そこにこそ人間の本質があると信じたからである。

はっきりとしたビジョンや、美意識なしに行われる企ての多くは迷走し、そこに注ぎ込まれたエネルギーや資源が空費され、関わった人みんなが結果としては不幸になる。何故ならば、ビジョンなき企ては、質の低下を招くだけだから。そのような事例を私たちはたくさん見ている。

エピファニーは、その向こうにある無限の可能性へのドアである。直覚することで、より精しく探究する上での道筋、方向が示される。一瞬訪れて去っていってしまうエピファニーを信じてみる勇気があるかどうか、それからの長い道を歩く脚力があるかどうかが、恵みの深さと広さを決める。

小林秀雄さんの著作を読む重大な楽しみの一つは、エピファニーを受け取り、それを追いかける魂の旅路を経験できることである。その意味において、小林秀雄さんは人類経験の総体の中を遍歴する一人の「オデュッセウス」であった。

小林秀雄さんの旅は、心ある人によって受け継がれて、未来へと続いている。

人類の総体として。

(了)

 

稲葉天目と偶有性

日本人の美意識の中核には、一見そう簡単には掴みきれないところがある。しかし、気づいてみると、その手がかりはこれ以上ないくらいの明白なかたちをとって存在するのである。

もっとも、ここで言うのは、すべての人によって共有されている感覚では必ずしもない。だからといって、単純に相対的なものであるわけでもない。

何を美しいと感じるかということは、技術革新に似ている。それは多数決の民主主義ではない。場合によっては、ごく少人数の人が先導する、ある種の革命でもある。美意識は、人工知能と同じように、少数派でも、もっとも優れたものが結局静寂を支配するというところがある。

そして、美は、命そのものと似ている。

命の本質とはなんだろう。もしある時点で完成されてしまうのならば、それ以上の変化は必要ない。脳の中核的機能は学習だが、常に未熟だからこそ、成長する意味がある。

満たないからこそ、動き続ける。日本人の美意識は、そのような生命哲学との深い共鳴の中にあるように思う。

千利休による茶道の創始には、日本人の美意識がよく顕れている。

それまで、中国の道具を使うのが最も格式が高いとされていたのが、利休によって「侘び寂び」や「一期一会」などの全く新しい評価基準が持ち込まれたのである。

利休は自身で道具をつくったとされる。茶杓の節が目立つところにあることを許容したり、長次郎に樂茶碗をつくらせたりといったその事跡を見ていると、その美意識が見えてくる。

利休以前の茶道具は、中国から伝来したものが中心であった。中国の器は、幾何学的に完全なものを理想とする。しかし、利休はそこから逸脱した。

不完全なもの、歪んだもの、均衡がとれていないもの、満たないもの。そのようなものの中にこそ美を見出した利休の感覚は、生命の本質に寄り添ったものであった。 

奇を衒っているわけではない。むしろ、雑事を排して、光が発せられるその源をまっすぐに見ている。

生命は、完全さや均衡とは程遠い領域にある。もし完全であるならば、そこで動きが止まってしまう。均衡であれば、変化する必要はない。

バランスが崩れ、常に「先延ばし」され、ゴールが移動されるからこそ命は続く。その意味では、不完全であること、不均衡であることこそが生命の本質である。

利休が見出した「美」の文法は、そのような生命の本質に寄り添ったものであった。逆に言えば、それまでの中国の器を理想とする美意識は、本質において反生命的あるいは超生命的(生命を超えた何ものかへの志向)であったとさえ言っても良いのかもしれない。中国の器においては、完全なる円といった幾何学性や、対称性が尊ばれるのであるが、そのようなイデアの領域は実は生命の本質から遠い場所にあるのである。

先日、映画監督の森達也さんと会った時に、森さんの『A』や『A2』、さらには最近の『FAKE』、あるいは原一男さんの『ゆきゆきて、神軍』や『全身小説家』のようなドキュメンタリー作品と、海外のそれを比べた場合に、日本の作品の特徴の一つとして「人間」の描き方があるのかもしれないという話になった。立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」と言ったそうだが、日本のドキュメンタリーには欠点や長所を含めた人間の業を肯定するところがある。一方、欧米のドキュメンタリーには、例えばマイケル・ムーア監督の作品のように、社会の不平等や保険制度、銃規制などの公共性のあるテーマが前面に出て、一人ひとりのどうしょうもなさ、情けなさを含めた人間性は、必ずしも正面から取り上げられない傾向があるようである。

森さんとは、それから、ドキュメンタリー作品における撮り手と撮られる側のある種の共犯関係の話になって、たとえば太宰治のような私小説の伝統において、主人公ないしは作者は一見自堕落なように見えるが、しかしそれは読み手との間のまさに阿吽の呼吸の結果なのであって、作者ないしは主人公はある程度意識して「無頼派」を敢えて演じているのである、という話になったのであるが、いずれにせよ、日本の文化的伝統の真ん中に、そのような一筋縄ではいかない人間性への視座がありそうだ。

それは、これから日本人にとっての一つの福音ですらあるだろう。

人形浄瑠璃や、歌舞伎などの伝統的芸能の中にも、例えば殺しの場面を様式化して演じるなど、人間の暗黒部分をその逆説的な生命の躍動とともに描くという傾向があるように思うが、このあたりの生命観を、ニーチェの『悲劇の誕生』におけるアポロン的(理性の原理)とディオニソス的(生命の原理)の対照につなげて論じてみるのは興味深いことなのかもしれない。

いずれにせよ、完全なる幾何学や対称性からの「逸脱」こそが茶事における器への選好などに表れた日本的美意識の特徴の一つであり、そのような傾向におけるフロントランナーの一人が千利休であったと、私は認識している。

もっとも、均衡と不均衡、対称性と非対称性の間には、思わぬ「裏回廊」があるようにも感じられる。数学者の藤原正彦さんは、優れた数学の定理というものは、異なる大陸にある二つの山頂の間に、よく見たら薄い虹の橋がかかっていたという事実を見出すようなものであると書かれているが、均衡と不均衡、対称性と非対称性という「対立」軸の間には、思わぬつながりがある可能性もあると思う。

そのことに気付かせてくれるのが、曜変天目茶碗である。

曜変天目茶碗の中でも、最高峰とされる「稲葉天目」は、そのあまりの見事さに、一時期所蔵していた岩崎小弥太が、自らはそれを使う価値がないと茶事での使用を控えたほどの出来栄えである。

青い星雲を散りばめたようなその模様は、中国の南宋時代に建窯でつくられた多くの器のうち、ごく一部のものに偶然生まれたものと考えられている。おそらくは、何百万に一つというような確率で模様が成ったのであろう。現代の陶工たちも懸命にその再現を試みているが、今のところ完全には成功していない。

稲葉天目を実見すると感銘を受ける。そのかたちは、あくまでも、南宋、及び中国陶器の一般文法である、完全なる幾何学を示している。上から見れば円であり、横から見ればほれぼれとするほど整った形状を示している。

その均整のとれた形状の上に、まるで宇宙を満たす生命原理の顕れのような光の星雲がある。植物の葉っぱや、水流の照り返しのように、容易にはその秩序が捉えがたい、しかし、どこかに法則性があるような、要するにいかにも自然な奥行きがある。

整った外形と、その上の自然な模様と。その点に、稲葉天目の美の本質がある。また、同時に、そこにこそ、私たちが追い求めている虹の架け橋の手がかりがあるのではないか。

ひょっとしたら、整った稲葉天目の形状と、光の星々のように散らばる窯変の模様は、単一の、同じ原理から生まれてきているのかもしれない。だからこそ、曜変天目茶碗には、モナリザの微笑みのような不可思議な真実への予感が込められているのかもしれない。

白と黒と、真実と虚偽と。私たちは世界を二項対立でとらえがちである。器の選好においても、均衡と不均衡、対称性と非対称性という区分けがあると思いがちだが、それは大いなる勘違いに過ぎないのではないだろうか。

生命の本質は偶有性にある。偶有性とは、つまりは秩序と無秩序の共存である。一碗の中に、偶有性がこの上なく美しく示されているとするならば、稲葉天目は、やはり、天下に並ぶことなき名碗だと言わざるを得ないのであろう。

(了)