手紙を書くという経験

山の上の家に至る、最後の急坂が以前よりもきつく感じられました。

今年の3月1日、東慶寺での小林秀雄先生の墓参の後、山の上の家にも久しぶりに伺って、小林先生のご長女である白洲明子さんのお話を聞いた日のことです。

私が山の上の家に足を運ぶのは、実に二年ぶりでした。

二年前の春に、主人の仕事の都合もあって長年勤めた学校を退職しました。職場の同僚や生徒たちにも恵まれた教員生活でしたが、家庭環境の変化をきっかけに、小休止したい気持ちになっていました。

時間ができたから、主人の赴任先ではゆっくり美術館に行ったり、観劇したりしよう、と、これから訪れるであろう楽しい日々を想像していたのですが、結婚して十年目の思いがけない出来事に、当初の私の計画は全くの白紙に戻ってしまいました。

毎日眠気とつわりで横になりながら、もうすぐ生まれてくる我が子に何ができるだろうと、ぼんやり考えました。そのときに思い出したのが、小林先生が明子さんに旅先から宛てられた手紙でした。『別冊太陽 小林秀雄』(2009)や『芸術新潮』(2013)にそれらの写真は明子さんのエッセイとともに掲載されていて、先生の娘に対する愛情あふれる文面が印象に残っていたのです。

 

時代や状況は違いますが、私は幼いころ祖母に月に一度のペースで手紙を書いていました。母から「おばあちゃんに日常のことを手紙に書いて送ってごらん」といわれたことがきっかけでした。小林先生が旅先から手紙を送ったように、私は祖母が滞在するヨーロッパに毎月エアメールで……と言いたいところですが、本当のところは、祖母の家はいつでも遊びに行ける距離にあり、用件だけなら電話で十分だったところに毎月手紙を出していたのです。提案した母のねらいとしては、文字を書く練習をすること、日常の生活を記録して確認させること、だったようですが、手紙を書くという作業は、いつも以上に相手のことを思いやり、想像するので、幼いながらに背筋がピンと伸びるものでした。便箋や切手は、折々の季節に合ったものを、祖母の好きな色を考えながら選ぶという作業がとても楽しかったのを覚えています。

読み書きは想像の世界を言語化し、世界を広げてくれます。手紙は特に、普段言えない感謝や謝罪の気持ちを素直に表すことができます。また、相手の字を見るだけで、楽しいのか、はたまたうつうつとした日々が続いているのか、急いでいるのか、余裕があるのかなど、文面以上に想像力を総動員させられてしまいます。現在は、私の幼少時に比べるとSNSなどを適切に使えば、通信手段においても本当に便利な世の中になりました。娘が大人になるころには、きっと手紙のやりとりそのものも今以上に少なくなってしまうのだろうと感じています。ですが、手段は変わっても、相手に気持ちを伝える術は、経験を積まないとできないものですし、その気持ちを受け取る経験もなければ、相手の気持ちを汲むことも難しくなるでしょう。母は傘寿さんじゅをすぎましたが、幸いなことに元気にしております。私が時間をかけて祖母に手紙を書いたように、今度は娘にその経験をしてほしいと思い、まずはクレヨンを購入しました。

思いがけず、自身の幼少期を思い出しました。そして身に宿る小さな命を思ったときに、「そうか、こういうことでいいのか」と何か腑に落ちた気がしました。習い事の発表会や学校の大きな行事の記憶よりも、毎日でも会えたはずの祖母との何気ない手紙のやり取りを、数十年たっても鮮明に思い出せるように、娘とそういう経験を一緒に重ねていけばいいのか、と。

 

山の上の家で池田塾頭と久しぶりにお会いして、その話をしたところ、「何年にもわたってお祖母さんに書き続けた手紙……素晴らしい経験ですね。すぐさま『ゴッホの手紙』を連想しました。小林先生の『ゴッホの手紙』は読んでいますか? ぜひ読んで、そういうお祖母さんへの手紙を経験している新田さんならではの感想を聞かせて下さい」と言われました。

家に帰って、本棚にある「小林秀雄全集」を久しぶりに引っ張り出してみたところ、意外なことに、冒頭部分に栞が挟んであり、さらに鉛筆でチェックした跡がありました。確かに私自身がそこに栞をいれ、チェックしたように思われるのですが、どういうきっかけでそうしたのか、皆目見当がつきません。おそらく、一度は読もうとしたものの仕事の雑務に追われ、そのままになってしまったのでしょう。

それにしても、読んだ記憶が残っていない文章に栞とチェックマーク、しかもその文章を突然、私の思い出話がきっかけとなって池田塾頭に奨められるとは……、あるいはこれは、私にとって、格別ご縁のある文章なのかも知れない……そう感じつつ読み始めました。すると、だんだんと小林先生がゴッホになってしまうのではないか、あるいはゴッホが小林先生の身体を借りて、自分の思いを述べているのではないかとさえ思わせられるようになってきました。

ゴッホは弟テオに宛てた手紙のなかでは、自分の気持ちを過大にも過小にもすることなく、素直に述べているように感じます。その文面を見て、これが小林先生のいう「告白」であるならば、私が幼いころに祖母に宛てた手紙も、内容はともかくとして、「告白」であったような気がしました。祖母であれば、たとえ母親には叱られる、あるいはたしなめられるような手紙の内容であっても、受け入れてもらえるだろうという安心感がありました。少なくとも幼少期の私には、祖母に対して自分を取り繕ったり、大きく見せようとしたりする気持ちはなく、日頃あった出来事をありのままに、そしてその出来事を通して感じたことを素直に伝えることができました。

では、今の私にそれができるのか、というと、そのころのようにありのままに書くことに、意外と難儀するのではないかと思います。どこかで自分は謙遜しながらも頑張ったことを認めてほしい、できることなら誉めてもらえると嬉しい、などと思いながら手紙を書いてしまうことでしょう。恐らくはそういう手紙こそが、小林先生のいう悪しき「告白」、すなわち、「自己存在と自己認識との間の巧妙なあるいは拙劣な取引の写し絵」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集17頁)ということなのでしょう。

 

山の上の家では、いつも問答の質の高さに圧倒されつつも、充実した時間をいただいておりました。先日伺った際も、久しぶりなうえに少し人見知りをする私は、内心とても緊張していたのですが、皆様にお声をかけていただき、楽しい時間を過ごすことができました。次に伺えるのは、また少し先になりそうですが、塾頭をはじめ山の上の家の塾の皆様に感謝しつつ、近い将来、山の上の家に娘を連れていきたいというひそかな希望を抱きながら、精一杯の毎日を送っています。

(了)

 

宣長を体感する旅

「そんなこんなで1時間ですね、どんどんしゃべっちゃうもんでね」

講義が終わりに近づき、吉田悦之館長がこう言われたとき、受講者の方々から笑いがおきたが、私はその笑いで、あっという間に時が経過していたことに気づいた。

さかのぼること4時間前、勤めている学校の補習授業を終えたその足で、東京駅から新幹線に飛び乗った。松阪駅からタクシーを飛ばしてもらって、会場である松阪公民館にすべりこんだのがちょうど14時。すでに会場は満席だったため、隅にあったパイプ椅子をそっと出して、息を切らせながら着席した。そこまでして今回の松阪行きを決めたのは、吉田館長の「宣長十講」を拝聴したかったからである。

館長の講義は、宣長がどのように生きてきたかだけでなく、その当時の人々の暮らし、息遣いまでが想像できる内容で、まるで時間旅行をしているようだった。

 

宣長といえば、古文の授業では『玉勝間』や『源氏物語玉の小櫛』などを題材にする。今年のセンター試験でも『石上私淑言』が出題されたが、大学でも毎年、入試問題として多く出題される。私は中高一貫校で国語を教える身であるが、授業中はどうしても文法事項や意味理解が主となってしまい、文面の背景にある考え方を深く追うこともなく時間が過ぎていく。吉田館長の講義の余韻に浸っていた私は、はっと自分のことを振り返り、「生徒たちにとって私の授業はさぞかし長いものだろう……」と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

2日目には本居宣長記念館の収蔵庫を拝見する機会に恵まれ、館長からたくさんの資料を見せていただいた。そこで驚いたことは、宣長の字の細かさと丁寧さである。電気がなく明かりと言えば蝋燭だけの時代に、しかも筆字である。この文字を見たときに、ふと随筆『玉勝間』の一節が思い出された。

―常に筆とる度に、いと口惜しう、言ふかひなく覚ゆるを、人の請うままに、面なく短冊一ひらなど、書き出でて見るにも、我ながらだに、いと見苦しうかたくななるを、人いかに見るらむと、恥づかしく胸痛くて、若かりし程に、などて手習ひはせざりけむと、いみじうくやしくなむ……。

現代語に訳してみればこうなる。

―いつも筆をとるたびにとても残念で情けなく思われるのだが、人が望むままにあつかましく短冊一枚など、書きしるしてみるにつけても、自分自身でさえとても見苦しくみっともないので、人はどのように見ているのだろうと恥ずかしく胸が苦しくて、若かったころになぜ習字をしなかったのだろうと悔やまれてならない……。

授業でこの部分を扱うと、「宣長さん、すごい人なのに字は下手なのね」と反応する生徒もいれば、「謙遜しているんだよ、そんなこと言っている人に限って字が上手なんだから」という生徒もいる。ただ、この丁寧な字を見る限り、「恥づかしく胸痛く」なるほど字が下手だとは思えなかった。国語の便覧や解説書のようなものをみても、当然のことながらそれに関する記述は見当たらない。そもそも受験指導とは関係のない内容だからだろう。しかし、それを知ることで、古典への親しみがわくのは確かだった。筆者を知ることで古典の世界がさらに広がるからである。昨日の「宣長十講」の惹きつけるようなあの講義。1時間をあれほど短く感じさせることのできる吉田館長だったら、どういう返答が返ってくるのだろう。私は思いきって聞いてみることにした。

「いや、それはね、本当に字が下手だと思っているんだと思いますよ、大きな字を見てごらんなさいよ、ほら、勢いがないの。しかも震えているでしょう?……」

記念館にあるスクリーンを拡大してみせ、わかりやすく説明してくださった。ふう~んとこちらが納得して話が済みそうになったとき、思い出したかのようにこうおっしゃった。

「あとね、謙遜とか、そういう、心に思ってないことを口に出すってことはね、彼はしないと思いますよ……」

小林秀雄は『本居宣長』の中で、

―実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。

と述べている。まさにそこに書いてあることが、宣長の全てであり、「謙遜」などの余計な解釈はいらないのである。そして館長の言葉は、いかに私自身が解釈だらけで日々過ごしているかを思い知らされる言葉でもあった……。

 

「……もうひとつ、館長、お聞きしたいんです。蘭学について宣長は医者としてどのように、思っていたのでしょうか?」

前野良沢とは人を介して手紙のやり取りをしたそうだが、宣長は悪いところを切ったり、切ったところを縫ったりする西洋医学とは距離を置きたいと考えていたようである。それよりもまずは「元気」(人が本来持っている治癒力)を高めることのほうが大切だと考えている人だった、と分厚い文献を見ながらご教示いただけた。現代の医学で、ある意味問題視されている部分を、的確に言い当てている宣長の考え方にますます感服したのである。

この話を聞いて、池田雅延塾頭がおっしゃっていたあるエピソードを思い出した。

「小林先生はね、自分がちょっとでも風邪ひいたかな? と思ったら、とにかく寝るの。どんなに高熱が出ても西洋医学の薬はいっさい服まず、うんうん唸りながらも部屋を暖かくして蒲団をかぶり、自分の身体が回復するのを待つんだよ」

これこそ宣長のいう「元気」に基づいた小林秀雄の行動であろう。西洋医学の薬は服まなかったといわれる彼は、自身の治癒力を信じていたのである。

 

吉田館長の話しぶりは、あくまでも客観的かつ冷静で、自分の想像だけで発言することはない。だからこそ、その背後に宣長がいるような、宣長が自身の思いを吉田館長に言わせているような、そんな気がしてならないのである。

幸運にも2日間とも天候にめぐまれ、タクシーの車内や宣長記念館、街中を歩いていても松阪の人々の優しさにふれた。また、松阪は食べ物も素晴らしい場所。このような場所で長い年月をかけて、名もなき人々が精神の研鑽を積み、その中のひとりとして宣長が生まれたのは必然であるように思われた。

(了)