小林秀雄「本居宣長」全景

三 道の学問

昭和四十七年(一九七二)九月二十六日、大阪の毎日ホールで『円地文子訳 源氏物語』の刊行記念講演会が催され、演題を「宣長の源氏観」として講壇に立った小林秀雄氏は、本居宣長という人の生涯に波乱はない、波乱はすべて頭の中にあった、その頭の中の波乱たるや、実におもしろいと語り始め……、と前回の冒頭で書いた。氏はあの日、その話をこう続けた。

―宣長さんは学者です、しかし、今の学者とは大変違うということをまず考えないといけない。今の学問はサイエンス、科学だが、宣長さんのころの学問は違う、「道」です、人の「道」を研究したのです、人間いかに生きるべきか、と。あのころ、この問いに答えられないような者は学者ではなかったのです。……

ところが、である。

―今の学者は、そんなことには答えなくていいのです、何かを調べていればいいのです。私は学者だ、これはこうこう、こうであって、こうであると、調べることが私の仕事だ、今の学者はそう言うのです。だから諸君が、「先生、私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」と訊いても、先生は答えてくれない。それが今の学問です。学問は、今はそのぐらい冷淡になってしまった。僕らの一番肝心なことには触れません。……

では、「学問」は、どうあるべきなのか。

―僕らの一番肝心なことって何ですか、僕らの幸不幸ではありませんか。僕らはこの世にたった何十年かの間だか生きていて、幸福でなかったらどうしますか。この世に生きていることの意味がわからなかったらどうしますか。そこを教えてくれないような学問は学問ではない。昔の学問は、学者は、人生いかに生きるべきか、それをどうかして人に教えようとしたのです。宣長さんもそうです。今の学問とは全然違うのです。……

 

同じ講演会の控室で、小林氏は、「『本居宣長』は思想のドラマを書こうとしたのだ」と言った。前回は、この言葉から始めて、氏の言う「思想」とはどういうものかをまず眺めた。氏によれば、「思想」とは集団を使嗾しそうするイデオロギーではない。私たちの精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、それが私たちの思想というものである、そしてこの「思想」は、そういう試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。小林氏の言う「思想」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった。

これを承けて、いまあらためて氏の「思想のドラマ」という言葉と、「頭の中の波乱」とを取合せてみる。すると、どうなるか。本居宣長の「思想」とは、すなわち彼の「頭の中の波乱」である。その宣長の「頭の中の波乱たるや、実におもしろい」のあとに、氏はこう言った、―宣長さんのころの学問は、「道」です、人の「道」を研究したのです……。とすれば、「本居宣長」という「思想のドラマ」の「思想」とは、「道」であったと言えるだろう、本居宣長と対座し続けた氏の脳裏では、「思想」と「道」とは同義であった、少なくとも相即不離の関係にあった、と言えるだろう。

 

そういう次第で、今回は、「思想のドラマ」を味わうための身支度として、「道」という言葉を素描していく。「本居宣長」で、「道」という言葉が現れる最初は、第三章である。第一章、第二章で宣長の遺言書を読み上げたあと、小林氏は宣長の出自に目を移し、宣長が自家の由緒を記した「家のむかし物語」を引く。宣長は、学者としての生活を保つため、内科と小児科の医者になっていたが、内心、それを潔しとはしていなかった、後ろ暗く思っていた、しかし……、

―医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこころ也。……

「心と」は、自分の考えで、自分から求めて。先祖が興し、代々伝えた家、これを自分の考えひとつで損なうようなことがあっては、道に背くと言うのである。
続いて第四章、やはり「家のむかし物語」の文中である。

―のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いささか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこころを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん。……

「くすし」は医師。「物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして……」は、学問の力によって多くの本を書き、日本における道の意味を説きひろめ、世間にも知られるに至ったのは……というほどの意である。宣長がこの文を書いたのは、六十九歳の年で、もう畢生の大業「古事記伝」も書き上げていた頃であったが、そういう人生の収束期に来し方を振り返るなかで記す「物まなび」は、「大御国の道のこころ」を説きひろめようとしたものだったのである。

 

「本居宣長」において、「道」という言葉は、こういうふうに現れてくるのだが、小林氏が、宣長の学問は「道」だ、人間いかに生きるべきかと人の「道」を研究したのだと言った意味での「道」が、正面から見渡される最初は第五章である。

宣長は、伊勢松坂の商家に生れたが、この子は商いには向いていないと早くに見てとった母の英断によって二十三歳の春から京都に遊学し、堀景山という儒医のもとで医者になるための修業に励むとともに儒学も学んだ。遊学は、二十八歳の冬まで続いたが、その間のことである、宣長は、十九歳で和歌に志し、日々熱心に和歌を詠んでいた、それを、ある塾生が咎めてきた、われらの本分は医学と儒学である、にもかかわらず、儒学をそこそこにして和歌に現をぬかすとは何事だ、という意味のことを言ってきたのであろう、この塾生に、宣長は反駁の手紙を書いた。大意は小林先生の手で写し取られている。

足下そっかは僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、あるいはむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」所以のものではない。現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。……

「足下」は貴君。「聖人」は人格・行為ともにすぐれ、世の師表として仰がれる人、といった意味であるが、特に中国の古伝説に登場し、徳をもって天下を治めたとされる尭、舜をはじめ、周王朝初期の周公旦ら、古代の優れた帝王、あるいは為政者をさして言われる。そして「聖人の道」とは、彼らの時代の古記録を孔子が集め、それを今日『書経』の名で知られる書物として編んで、古代の名君、為政者たちの模範的な言辞を残した、そこに基づいて言われる社会秩序の規範である。こうして生まれた「聖人の道」が、後世、「儒」と呼ばれ、孔子の教えとして尊ばれていたのだが、宣長は、異を唱える。

―「己ガ身ノ瑣瑣ササタルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」、足下は、「人ニシテ礼義無クンバ、其レ禽獣ヲ如何イカンセン」などと言うが、「聖人ノ書ヲ読ミテ、道ヲ明ラカニシ、而シテ後ニ、禽獣タルヲ免レントスルカ」、異国人は、そんな考えでいるかも知れないが、自分は日本人であるから、そうは考えていない。一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇チギノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。……

「万物ノ霊」は、「万物の霊長」とも言う。万物のなかで最もすぐれたもの、である。人間が禽獣に勝って万物の霊でいられるのは、「聖人の道」を学んだりしてのことではない、その根本は、「天神地祇」すなわち天の神、地の神の「寵霊」のおかげである、それだけである、自分はそう考えている、と宣長は言う。「寵霊」は、尊い恵みである不可思議な力、「頼ル」は「よる」である。

―従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義自ら備るという状態があったのも当然な事である。この見地よりすれば、聖人の道の、わが国に於ける存在理由は、ただ「風俗漸ク変ジ」「勢ノムヲ得ザル」ものによる必要を出ないものだ、という事になる。自分が六経りくけい論語を読むのも、その文辞を愛玩するだけであり、聖賢の語にしても、「或ハ以テ自然ノ神道ヲ補フ可キモノアレバ、スナハマタ之ヲ取ルノミ」。……

そういう次第だから、日本における「聖人の道」の存在理由は、時代が移って生活様式が変り、社会の情勢・状況によっては改善・改良が必要になる、そのときの手本として役に立つ、それだけである。また「六経」は、『詩経』『書経』『易経』など、儒の根幹とされている書物であるが、これらの書物は『論語』も含めてそこに書かれている言葉を楽しむだけであり、聖人・賢人によって言われていることも、自分は「自然ノ神道」を補うと思われるものを採るだけだと言うのである。

小林氏は、第二章で、―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたりこれに反撥したりする、非常に生き生きとした思想劇の幕がいた、この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった、と言っていた。いまここで、儒と和歌をめぐって見られた塾生との対峙は、まさに小林氏が言う意味での思想劇そのものである。ここではまず、「聖人」という衣装と、「神」という衣装をまとって「道」という「思想」が登場した。「本居宣長」という長篇思想劇の幕が、徐々に上がっていくのである。

 

小林氏は、第二章で、こうも言っていた、―この誠実な思想家は、自分の身丈にしっくり合った思想しか決して語らなかった……。宣長の返書に、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」という言葉、「己ガ身ノ瑣瑣ササタルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」という言葉があった。この返書でも、宣長は、「自分の身丈にしっくり合った思想しか」語ろうとはしていないのである。

和歌好きを咎めた塾生より早く、宣長の仏教好みを難じてきた塾生もいた。そこも小林氏の本文から引こう。

―彼が仏説に興味を寄せているにつき、塾生の一人が、とやかく言ったのに対し、彼はこう言っている。「不佞フネイノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、コレヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タダニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モ亦、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。……

「不佞」は小生。小生が仏教の本を読むのは、これを好み、信じ、楽しんでいるのである、この、好み、信じ、楽しむは、仏教の本だけではない、儒教や道教や諸氏百家の本も同じである、自分の「好、信、楽」という態度からすれば、歌舞音曲から山川草木に至るまで、天地の万物みな小生の「賞楽」の対象である……。

ここにも、自分の身丈にしっくり合った思想しか語ろうとしない宣長がいる。いやむしろ、小林氏の言う宣長の「身丈」とは、宣長が自ら言っている「好、信、楽」であると読んでいいかもしれない。宣長は、わが身をとりまくありとあらゆる物事に感じ、それをことごとくで楽しむという態度を保ち続けていた、すなわち、「風雅に従う」ということに徹していた、しかし、世間はそうではなかった。

―足下には、風雅というものがわかっていない。「何ゾ其ノ言ノ固ナルヤ、何ゾ其ノ言ノ険ナルヤ、亦道学先生ナルカナ、経儒先生ナルカナ」……

ここで言われる「道学先生」の「道学」とは、儒学の一派、朱子学である。「経儒先生」の「経」とは、先にも述べた儒学の聖典「六経」である。したがって、「道学先生」「経儒先生」とは、儒学に凝り固まって融通がきかない、そのくせ一端いっぱしに人生論を説いてまわる輩、そういう意味である。

宣長の和歌好きを咎めてきた塾生、また仏教好みを難じてきた塾生、彼らに共通していたのは、儒学を絶対と見て、学に志す者の本分は儒学を修めることにあるとする固定観念であった。宣長は、そこを衝いて「道学先生」「経儒先生」と言ったのだが、彼があえて「道学先生」と言ったについては、素地があった。こういう言葉を突きつけたくなるほどに、「道学」と呼ばれた朱子学は一世を風靡していた。

 

「道学」とは、そもそもは中国宋代(九六〇~一二七九)に成った新儒学、「宋学」の別称であった。岩波書店の『哲学・思想辞典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後は、おおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は、自己修養の道、徳治の要諦等を指していた。

宋はその後、現在の浙江省杭州に都を移し、一一二七年以後は「南宋」と呼ばれるようになった。その南宋の初期に朱熹しゅきが現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てた。

「道」を遡れば、『論語』「里仁篇」に「子曰く、あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とあるように、中国においては古くから最重要とされた生き方の指標であった。したがって、「道」とは何かの議論も広範に及んでいた。その「道」に、朱熹は格段の意欲を燃やした。「道」の体得と実現、これを高く掲げ、『論語』「憲問篇」にある「修己安人」(己れを修めて人を安んずる)から導いた「修己治人」(己れを修めて人を治む)を唱えて、自らの学問をより声高に「道学」「聖人の学」と呼んだ。

「修己安人」は、岩波文庫によれば、―ある日、子路が孔子に、君子について尋ねた、孔子は答えた、自分を修養してつつしみ深くすることだ、子路は尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して人を安らかにすることだ、子路はさらに尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して万民を安らかにすることだ……、最後の「自分を修養して万民を安らかにすること」、これには尭や舜でさえも苦労したと孔子は言ったとある。

この「修己安人」の「安」が、朱熹では「治」となって強調された。孔子以来の民を安んずる「聖人の道」は、朱熹に至って民を治める「聖人の学」となった。宣長が、貴君にしても小生にしても、為むべき国や安んずべき民がある身分ではない、聖人の道が何の役に立つかと言った背景には、こうした儒学の伝統がまずあったのだが、「道学先生ナルカナ」という言葉には、朱熹とその同調者への反目もこめられていただろう。

 

だが、宣長も、かつては「道学」を至高とする空気のなかにいた。和歌を好むのを難じた塾生への手紙は続く。小林氏の文を続けて引く。

―自分は、幼時から学を好み、長ずるに及んでいよいよ甚しく、六経を読み、年を重ねて、ほぼその大義に通ずるを得た。「スナハオモヘラク、美ナルカナ道ヤ。大ニシテハ、以テ天下ヲ治ムベク、小ニシテハ、以テ国ヲヲサムベシト。シカレドモ吾ガトモガラハ小人ニシテ、達シテ明ラカニストイヘドモ、亦何ンノ施ス所ゾヤ」、ここに到って、全く当惑した、と宣長は言う。……

幼時から学問に親しみ、大きくなってからは六経を読んでその意味を解し、そして思った、道とは素晴らしいものだ、天下を治め、国を治める……、しかし、困った、どんなに六径に通達してみても、人の上に立つ身分でない自分にはそれを役立てる術がない……。

―注意すべきは、この当惑に対し、「論語」が答えてくれた、と彼が言っている事である。彼は、ここで「先進第十一」にある有名な話にふれる。晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。……

「注意すべきは」と小林氏が言っている。どこに注意すべきかに注意して、続きを読もう。

―もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳そうせきだけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこうこたえた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞の祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「喟然キゼントシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾晳)ニクミセン」、そういう話である。……

曾晳の答はこうである、自分の夢は「先王の道」ではない、「浴沂詠帰」である、沂の川で水浴びをし、涼風に吹かれ、詩をうたいながら家路につく、こういう暮しである……。「先王」は、むかしの聖王、である。孔子は、この曾晳の答に膝を打った、だとすれば、孔子の本意は「先王の道」にはないと宣長は解し、孔子に倍するほどに膝を打った。以後、宣長は、「聖人の道」の迷妄から覚め、和歌を好み、信じ、楽しんで、「和歌ナルモノハ、志ヲ言フノ大道」であると思い至り、儒の「天下ヲ安ンズルノ大道」とは訣別したのである。

 

小林氏の言うところを、さらに聞こう。―宣長が語っている「浴沂詠帰」の話にしても、儒家の間にはいろいろな解釈が行われていた、それらはいずれも、孔子の問いに対する曾晳の返答「浴沂詠帰」を、どのような観念の表現と解すれば儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか、ということであった、宣長がそういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っているのはすでに見た通りである……。

そして氏は、―この『論語』「先進篇」の文章から、宣長は直接、曾晳の言葉に嘆じている孔子という人間に行く、大事なのは先王の道ではない、先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だとでも言いたげな様子がある……と言い、ここに宣長の、「儒学者の解釈」を知らぬ間に脱している「文学者の味読」を感じると言って、「物のあはれ」の説の萌芽ももうここにあると言っていいかも知れないと言うのである。

先に氏が「注意すべきは」と言ったのは、この宣長の『論語』の読み方である。「解釈」ではない「味読」という読み方である。この読み方を、宣長は「源氏物語」にも「古事記」にも及ぼしていくのだが、宣長は「そういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っている」と小林氏が言っているところから眺めれば、宣長の本の読み方には、読書の「方法」というよりも、書物に向ったときのほとんど反射的な身のこなし、感受性の直観、そういう気味合が感じられる。

曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どう解したら儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るかと儒家たちが悩んだということは、彼らがどこまでも儒学というイデオロギーの辻褄合せにとらわれていたということだ。朱熹もそうであった。否むしろ、朱熹こそは孔子の教えの万般にわたって最も果敢にその方向へと突っ走り、ついには宇宙にまでも飛び出してしまった。

しかし、宣長は、そうではなかった。曾晳と同じく、人間としての自然な感情、素朴な心地よさに、いつもおのずと身を預けた。これが宣長の「好、信、楽」ということであり、風雅に従うということであったのだが、この風雅に従うということは、すべて物事には感受性で処す、ということでもあったのではないだろうか。この宣長の持って生れた感受性は、「もののあはれ」と並んで「自然ノ神道」にもしっかり呼応していた。

ただし、ここで言われている「神道」は、今日、仏教やキリスト教などと対置して言われる「神道」ではない。宗旨・宗派を言う「神道」ではない。いずれ先で出てくるが、宣長が口にする「神道」は、神がひらいた道という、ただそれだけの、古代人が言っていた意味での神道である。その風韻は、先に引いた手紙のなかの、「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」に漂っている。端的に言えば、朝起きて朝日に手を合わす、そういう、知らず識らずのうちに今でも動く私たちの身体や心が、ふとした折ごとに感じ取る「神道」である。

 

こうして宣長は、「道学」からの覚醒を果たした。だがこれには、先達がいた。第十章で、小林氏はこう言っている。

―彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。……

「彼等」とは、宣長に先駆けて現れ、近世の学問を切り拓いたと小林氏が言っている契沖、中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠らである。その彼らの学問を統べる言葉として、ここで小林氏が使っている「道学」は、もはや本来の意味、すなわち朱子学の別称としての「道学」ではない。朱熹の「道学」を彼らが換骨奪胎し、それぞれがそれぞれに「道」とは何かという問題に取り組み、それぞれがそれぞれに己れの如何に生きるべきかの模索を繰り広げていった「道学」、すなわち、面目を一新した近世日本の「道学」である。この「道学」も、彼ら一人ひとりの感受性によって打ち立てられた。

小林氏は、彼らがそれぞれ、どうやって朱熹の「道学」を超えたか、それもつぶさに書いている。宣長という山の背後に、契沖、藤樹、仁斎、徂徠という山々が聳えている。これらの山容も、素描だけはしていきたいのだが、今回はやむをえない、予定の紙幅を超えている。しかしまた、ここへは必ず立ち返ってくることになる。

 

―宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家の風流の意味合は全くなかったのは、既に書いた通りである。……

第十一章からである。小林氏の言う「思想」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、と先に言った。それはまた、宣長とともに小林氏の言う「道」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、と言えるだろう。

第十一章は、「本居宣長」の序論の結語であった。すなわち、「思想」と「道」と「学問」の何たるかの、いわば見取り図であった。第十一章の半ばで、―随分廻り道をして了ったようで、そろそろ長い括弧かつこを閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入って行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである……とことわったのは、期せずしてではあるがここまでは序論であったという意味である。

 

第十一章が『新潮』に載ったのは、昭和四十一年十月号である。四十年の六月号から始った「本居宣長」は、同年九月号の第四回までは毎月掲載されたが、第五回は一と月おいて十一月号となり、以後第十一回第十一章まで、ほぼ隔月で掲載されていた。しかし、これに続く第十二回が掲載されるのは、四十二年四月号である。

連載開始一年半にして、六カ月の休載が続いた。第十一章までで序論を書いて、いよいよ「本居宣長」第一の山場、宣長の「源氏物語」愛読に入るときがきていた。このときにあたり、小林氏はあえて半年、筆を止めた。「源氏物語」の五十四帖を、原文で読み直す必要を痛感したためである。この間ずっと、折口信夫氏が傍らに立っていた。

(第三回 了)

 

編集後記

須郷信二さんに、今月は「『本居宣長』自問自答」を書いてもらった。内容は先月の松阪訪問記と対で、今回は本居宣長記念館の館長、吉田悦之さんが聞かせて下さった宣長とどうつきあうか、宣長から何をどう学ぶかの話がより詳しく報告されている。

 

吉田さんは、「トータルの宣長体験」、「全体としての宣長理解」ということをしきりに言われたという。今年の二月、吉田さんは『宣長にまねぶ』という本を出されたが(致知出版社刊)、この名著こそはまさに「トータルの宣長体験」記である。「まねぶ」は真似をするという意味の古語である。「学ぶことは、真似ることだという。本居宣長をまねてみよう」という言葉でこの本は始まる。

 

私たちの塾は、「小林秀雄に学ぶ塾」と名乗っているが、その心はやはり、「小林秀雄をまねぶ塾」なのである。「まなぶ」と「まねぶ」の語源は同じで、「まなぶ」も元は真似をすることだと辞書にある。そこから「小林秀雄に学ぶ塾」は、小林秀雄の言ったこと、書いたことを学ぶ塾というより、小林秀雄がそれを言うためにしたこと、考えたことを真似る塾でありたいのである。小林先生自身がそう言っているからである。

 

小林先生は、真似る、模倣するということが、私たちが生きていくうえでどんなに大切かを何度も言っている。昭和二十一年(一九四六)、四十四歳で発表した「モオツァルト」では、―模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集p.98)と言っている。

 

同じことを、「本居宣長」でも言っている、―「學」の字の字義は、かたどならうであって、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている……(同第27集p.121)。ここで言われている「模傚」は「模倣」と同じであるが、―本居宣長をはじめとする近世日本の学者たちにとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ……(同第27集p.122)。

 

この教えに準じて、私たちも小林秀雄を模倣するのである。「本居宣長」を十二年かけて読むというのがその中心だが、これと相携えて「歌会」と「素読会」が続いている。「萬葉集」「古今集」などの古語を用いて和歌を詠む「歌会」と、語意や文意はいっさい顧みず、ひたすら声に出して古典を読む「素読会」である。その「歌会」と「素読会」の消息を、藤村薫さんと有馬雄祐さんに伝えてもらった。

 

これらもそれぞれ、小林先生の模倣である。先生が「本居宣長」で言われている、近世の学者たちの出来るだけ上手に古典を模倣しようとした実践的動機、模倣される手本と模倣する自己との対立、その間の緊張した関係、そこを先生は模倣された、その先生の模倣を私たちも模倣するのである。模倣の模倣の模倣である。

 

本田正男さんの「巻頭随筆」、山内隆治さんの「『本居宣長』自問自答」も、小林先生の「いかにして生きるということの機微を知るか」の模倣である。坂口慶樹さんの「マティスとルオー展を観て」は、先生の美の経験の模倣である。三氏それぞれ、虚心に小林先生を模倣することによって、まちがいなく「模倣出来ぬもの」に出会い始められている。

 

杉本圭司さんの「ブラームスの勇気」に、同じことを教えられる。「本居宣長」を書くにあたって、小林先生は、ブラームスを模倣した。

 (了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二 思想のドラマ

昭和四十七年(一九七二)九月二十六日の夜、大阪・堂島にあった毎日ホールでのことである。新潮社はこの日、ここで「円地文子訳 源氏物語」の刊行記念講演会を催すこととし、講師には円地文子氏とともに大江健三郎氏、小林秀雄氏に来てもらっていた。小林氏の演題は「宣長の源氏観」であった。

講壇には大江氏、円地氏、小林氏の順で上がってもらうことになっていたから、小林氏の登壇時刻は八時近くになる。氏の係として随行していた私は、夕刻から心斎橋近くの氏がなじみの店で夕食を呈し、時間を見計らって毎日ホールへ案内した。

控室には、すでに講演を終えた大江健三郎氏と社の幹部たちが待っていて、それぞれに挨拶した。氏はその挨拶を型どおりに受け、ソファに腰を下ろすなり言われた。

―僕は、宣長さんは思想のドラマを書こうと思ったのです。……

「宣長さんは」とは、『新潮』に連載している「本居宣長」は、の謂である。昭和四十年の六月号から始まり、五十一年の十二月号まで六十四回にわたった「本居宣長」は、そのころ第四十回を過ぎたあたりだった。

氏は、人と会ったり電話を受けたりしたとき、相手の挨拶や用件を聞くより早く、自分の関心事をいきなり口にするということがよくあった。常に何かを考えていた氏は、他人と接するや挨拶のつもりで当面の関心事を口にしてしまうらしかった。

毎日ホールでの「思想のドラマ」も、その夜はそこを語ろうとしてのことであったのだろう。まもなく講壇に立った氏は、こう語り始めた、―本居宣長という人は、生涯に何も波乱はない人です。今でいえば三重県の松阪にじっと坐って、ずっと勉強していた人です。あの人の波乱というものは、全部頭の中にあるのです。その頭の中の波乱たるや実におもしろい、ドラマティックなものなのです……。

あの日、氏の口を衝いて出た「思想のドラマ」という言葉は、以後、私の念頭を領した。私は、氏が読者に示そうとしたドラマの起伏に身を委ねて「本居宣長」を読んだ。

 

「本居宣長」は、宣長の遺言書の紹介から始っている。小林氏は、第一章、第二章と、その風変りとも異様ともいえる遺言書を丹念に読んでいき、第二章の閉じめで言う。

―要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

「本居宣長」の『新潮』連載は、私が高校を出て浪人した年、昭和四十年(一九六五)の六月号から始ったが、浪人時代は言うまでもなく、小林秀雄を読み通したい一心で入った大学の四年間も「本居宣長」にまでは手が回らなかった。四十五年四月、新潮社に入り、翌年八月、小林秀雄氏の本を造る係を命じられ、いずれは「本居宣長」が本になる、いまから準備を始めておくようにと言われた。

ただちに『新潮』のバックナンバーで「本居宣長」を読んだ。だがそのときは、氏が劈頭へきとういきなり宣長の遺言書を読者の前に繰り広げ、つぶさに読んでいったその後に、自分が辿ろうとしたのは宣長の思想劇である、彼の遺言書をまず読んだのは、彼の思想劇の幕切れを眺めたということなのだと言った氏の、「思想劇」という言葉に託された思いの深さは見て取れていなかった。思うに、あのときはただ、傍若無人とでもいうほかない宣長の気質に圧倒されていたのである。

その小林氏の「思想劇」という言葉を、氏の係を命じられてちょうど一年たった昭和四十七年九月、氏の口からじかに聞いたのである。むろん氏は、そこに居合せた人たちの誰にということではなく言われたのだが、私は、私に言われたような気がした。それというのも、心斎橋から堂島までの道々、氏は、すでに『新潮』に書かれていた「本居宣長」の一部を、問わず語りに話して下さっていたからである。

 

私のこの小文は、小林秀雄氏の「本居宣長」の全景を、少しずつ描きとっていこうとするものだという意味のことを前回の最後に書いた。そこをいまいちど、いくらか補足しながら辿り直しておこうと思う。

この小文を、「全景」と題したのは、「本居宣長」のさらなる精読に努めることによって、氏が指し示した本居宣長という人の全姿全貌をいっそうくっきり見て取りたいという気持ちからであるが、そのためには、本居宣長の人と学問を色鮮やかに写し取った氏の文章の姿を、私も絵を描くように写し取る、この心がけにくはないという気持ちからである。小林氏は、「本居宣長」に続けて書いた「本居宣長補記Ⅱ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、こう言っている。

宣長の「古事記伝」には、一之巻の最後に「直毘霊なおびのみたま」と題された文章が置かれている、この文章は、「古道」とは何かが説かれた宣長の代表的著作の一つだが、宣長には、とりわけこれは「古事記伝」に欠くことのできない文章だという強い意識があった、そこに思いを馳せれば、「直毘霊」は、あたかも「古典フルキフミ」に現れた神々の「御所為ミシワザ」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものに見えてくる、宣長にとって、

―「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られた手が追うという事になる。……

そしてその軽やかに走る描線が、私たちの知覚に直かに訴えるのだと氏は言っている。

本居宣長は、三十五年もの間、「古事記」を熟視しつづけた。その宣長を、小林氏も十二年余の間、熟視しつづけた。来る日も来る日も、宣長の動きを追う氏の眼を手が追った。視力、筆づかい、もとよりともにとうてい及びもつかない私だが、気構えだけは宣長に、小林氏に、私も倣おうとするのである。

そしてもうひとり、小林氏が最も好きだった画家、セザンヌは、郷里に聳えるサント・ヴィクトアール山を若年期から最晩年まで描きつづけ、その数八十点を超えているという。セザンヌもまた、サント・ヴィクトアール山を、終生熟視しつづけた。唐突に聞こえるかも知れないが、私にとって「本居宣長」は、セザンヌにとってのサント・ヴィクトアール山でもあるのである。

 

そういう思いで、今回は、「本居宣長」の第一章から第五章に眼をこらす。さっそく素描を始めよう。

「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏は言った。「本居宣長」において、思想という言葉が最初に出るのは、やはり遺言書との関連においてである。氏はまず、宣長が自分の墓のことを細かく指図し、墓碑の後ろには選りすぐりの山桜を植えよと指示したくだりを読んだ後にこう言っている。

―以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……

次いで、こう言う。

―そういうわけで、葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……

続いて、こう言う。

―動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

さらに、こう言う。

―私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

「思想」という言葉を、小林氏は以上のように用いるのである。

 

だが、世間で一般に「思想」が取り沙汰されるときは、必ずしもこうではない。「思想」は「イデオロギー」の訳語と思われている、あるいは、その意識すらないまま混用されている、それが常態ではあるまいか。

『大辞林』によれば、「イデオロギー」とは、「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において、思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系」であり、「歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系」であるが、こういう「イデオロギー」と「思想」との混同は八十年前にもう起っていた。

昭和十四年十二月、三十七歳の冬、小林秀雄は『文藝春秋』に書いた文芸時評(現行題「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)で、ある評家の言に抗して言っている。論者は、「イデオロギー」は「思想」の代名詞として用いられている、その事実を認めなければならないと言うが、そんな事実はどこにもない、あればそれは間違いだ、とまず言い、

―イデオロギイはイデオロギイであり、思想は思想である。誰でも知っている様に、フランス語にもイデオロジイとパンセという二つの言葉があり、まるで異った意味に用いられている。イデオロギイは僕の外部にある。だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。……

小林の言うところに副って、「イデオロギー」と「思想」をそれぞれ括ってみれば、「イデオロギー」は人間社会の集団行動、あるいは集団生活の論理である。だから小林は、「イデオロギイは僕の外部にある」と言っている。対して「思想」は、個人の生活、個人の行動半径内での思念、思索である、だからこれは、私たち一人ひとりの内部にある。

そしてさらに、「思想」についてはこう言っている、

―しっかりと自分になりきった強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものである……。

つまり、「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。

小林氏は、「思想」についてのこの考えを、以後も変えなかった。したがって、「本居宣長」の中で使われる「思想」という言葉も、すべてが個人の生活範囲における思念、思索の意味においてである。だから「本居宣長」では、いっそう強い口調で言うのである、

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。……

では、その「思想」とは、具体的にどういうものであるか。ここまでくると、そう問いたくなるのも人情の自然であるが、それに答えることはできない。答えられるものではないと、小林氏が言っているからである。先の文芸時評(「イデオロギーの問題」)とほぼ同時期、昭和十六年の夏、氏は哲学者三木清と「実験的精神」と題して対談し(同第14集所収)、そこで言っている。―誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……。

「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとした、それは、こういう理由によるのである。本居宣長という人の思想、これはどうあっても読者に伝えたい、しかし、宣長の思想とはこういうものだと説いて解ってもらうことはできない、説かれる側も説かれて解ったと思ったらもうそれは張り子のまがい物である。説いて解ってもらうのではない、読者に経験してもらうのだ、そのためには、宣長が演じた思想劇の舞台に、読者にも上がってもらうのだ、舞台の上で、近々と宣長の口からほとばしる台詞を聞いてもらうのだ、小林氏は、そういう思いで、「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた……」に続けてすぐ、次の一節を書いたのである。

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

 

次いで眼を向けたいのは、「劇」である。「劇」と言えば、ふつうにはまず作者がいて、作者の想念で書かれた台詞を役者が喋る、そこではたしかに人生の真実らしきものが語られ、演じられるが、要するに客は作者の恣意に翻弄される、そこをよしとする者だけが劇を楽しむ、拍手を送る、というふうに意識されているのではあるまいか。だが、小林氏が、「本居宣長」は思想のドラマを書いたのだと言うときの「劇」は、そうではなかった。「本居宣長補記Ⅱ」で、氏は言っている。

―誰もが、確かにこれは己れの物と信じているそれぞれの「思ふ心」を持ち寄り、みんなで暮すところに、その筋書きの測り知れぬ人間劇の幕は開く。この動かせぬ生活事実を容認する以上、学者も学者の役を振られた一登場人物に過ぎないと考える他はない。「一トわたりの理」を頼めば、見物人の側に廻れると考えたがる学者の特権など、宣長は、頭から認めてはいなかったのである。……

宣長が演じた劇とは、人間誰もが例外なく役を振られる日常生活そのものである。ゆえに、学者であろうと神官・僧侶であろうと傍観は許されない。「一トわたりの理」を頼むとは、学者がそれ相応の理屈を掲げ、理屈を盾にとって特権的傍観者でいようとするということである。こうして学者というものは、腕組みして世間を見下ろす高みの見物をきめこみたがるが、宣長は頭からそれを認めなかったというのである。

―そこで、どういう事になったかというと、自分は劇の主役であるという烈しい、緊張した意識が、先ず彼を捕えていたと見ていい。この役はむずかしい。普通の意味での難役とは、まるで違う。どの役者の関心も、己れの演技の出来如何にあるわけだが、学者にあっては、己れの演技の出来を確めて行く事が、即ち劇全体の意味を究めて行く事に他ならない。人生劇の主役をつとめようとするなら、是非とも、そういう、人々の眼に異様なものと映るような役をこなさなければならない。……

宣長の遺言書が、私たちの眼に異様と映るのは、このためである。「劇全体の意味を究めて行く」とは、日常生活という事実の意味、すなわち人間が生きているという事実の意味を究めていくということだ。

―演技によって、己れの「思ふ心」を、何の疑念もなく、表現していれば、それで済んでいる役者達に立ち交って、主役は、その役を演じ通す為には、更に、「信ずるところを信ずるまめごゝろ」が要求されると、そういう言い方を、宣長はしたと解していい。……

「演技によって、己れの『思ふ心』を、何の疑念もなく、表現していれば、それで済んでいる役者達」とは、世間一般の男女である。そういう彼ら彼女らを相手にして、宣長は主役を演じなければならない。「まめごころ」とは、誠実な心、実直な心、である。「信ずるところを信ずるまめごゝろ」とは、自分がこうだと信じたことはどこまでもそれを貫き、他人の思惑を気にしたり、他人の反発にたじろいだりは決してしない心である。

したがって、小林氏の言う「劇」は、人間の作為によるものではない。作者の気儘な想念の産物ではない。人間が二人以上集って、それぞれがそれぞれの「思う心」を持ち寄って共に暮らしていこうとすれば、そこには必ず心の行違いが起る、行違いは即、摩擦を生じ、波風を立てる、波乱を呼ぶ、そういう、この世に生きている以上、誰しも避けることのできない軋轢、それを小林氏は「劇」と呼んでいるのである。そしてこの「思う心」がすなわち「思想」である、「思想劇」とは、その「思う心」が、あたかも作られた劇の役者たちのように立ち回るさま、ということなのである。

 

そこでもう一度、小林氏が宣長の遺言書を読みきったあとの、第二章の閉じめの文を写してみよう。

―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……

「本居宣長」の思想劇とは、本居宣長が人間社会の人間劇の主役となって、劇全体の意味を究めて行ったその一部始終、ということなのだが、劇が劇として目に見えるようになるのは、宣長が何かを発言することによってである。宣長の発言、小林氏はそこに「劇」の契機を見ていた。

―動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長の遺言書の動機である。宣長にしてみれば、別して深刻なものではなかった。信念の披瀝であり独白であった。遺言書の一言一句、それらすべてが宣長の思想であり、宣長が「しっかりと自分になりきった強い精神の動き」であり、「本当の意味で思想と呼ぶべきもの」であり、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかった」ものであった。

ところが、しかし……、であった。

―これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……

宣長が、遺言書に書いたとおりに、自分の墓地を定めに行くと弟子たちに言った、その瞬間、「劇」が動いた。「宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために」、最後の場面の幕が開いた。

では何が、弟子たちにとっていぶかしいものであったのか。「遺言」という言葉に漂う不穏な空気を吸って私たちがかきたてられる死の観念ではない。また、あれほど日本古代の神ながらの道を称えた宣長が、最後は仏教の葬儀を指示したという宗教上の矛盾でもない。宣長は、常日頃から「さかしら事」を厳しく戒めていた、その「さかしら事」を、当の宣長が行おうとしていた、そこであった。

数多い弟子たちのなかでも、養嗣子大平おおひらは常に宣長の身辺にいて、「宣長の心の内側に動く宣長の気質の力もはっきり意識」していた。その大平は、父宣長に、死んだあとのことを思い煩うのは「さかしら事」であると、日頃から教えられ躾けられてきていた。にもかかわらず、その「さかしら事」を、父宣長がしようとしていた、大平は、たしかに心穏やかではいられなかったであろう。

小林氏が、劈頭いきなり宣長の遺言書を読み解き、それによって読者に訴えようとしたのは、遺言書の内容如何ではない。氏が見てほしかったのは、遺言書という宣長の思想の「独立した形ある美」の姿であり、その美に則って宣長が演じた最後の立ち回りであった。この立ち回りにこそ、宣長の最も深遠な思想劇が出現していた。宣長のいちばんの理解者、後継者であった大平にしてなお宣長の思想の機微は読めなかった。それほどに宣長が生涯かけて追い求めたこの世に生きるということの意味は微妙であり、見通しのきかない昏さを伴っていた。そこをまず小林氏自身、しかと胸に畳みたかったのである。遺言書を読み上げた第二章は、次のように閉じられている。

―彼は、最初の著述を、「葦別小舟あしわけおぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「萬葉」に、「障り多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……

 

宣長の思想劇は、彼の思想を最もよく理解していたはずの弟子たちと、彼らの誤解を挟んで向きあうという切迫した場面で幕を閉じた。小林氏は、「本居宣長」を思想劇として書く意思を、開巻第一ページですでに示していた。折口信夫氏を訪ねた日、折口氏に向かって、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉がふと口に出てしまった、と氏は書いている。周到な伏線である。

伏線は、これだけではない。あの日の別れ際、折口氏は、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」と追い討ちをかけるように言った。この謎のような言葉の襞は、次々回、第十五章を眺める回で見きわめようと思う。

(第二回 了)

 

編集後記

昭和八年(一九三三)十月、小林秀雄、林房雄、川端康成ら七人が編集同人となって、雑誌『文學界』が創刊された。詳しい経緯は省くが、小林は、林に声をかけられて立ち上がったかたちだった。しかし、事が動きだすや、この新雑誌に急速に体重をかけていった。

小林は、昭和四年九月、二十七歳の秋、批評家宣言とも言うべき「様々なる意匠」を書いて文壇に躍り出、すぐさま『文藝春秋』『東京日日新聞』などに文芸時評の場を与えられて健筆をふるった。だが、この文芸時評には、たちまち嫌気がさした。明治の文明開化からやっと六十年、西欧舶来の近代小説は板につかず、小説家も批評家も作品制作そっちのけで文学用語の定義だの文学思想の解釈だのに口角泡を飛ばしていた。だめだ、これではいけない、こんなことをしていては、自分が書きたい「批評」は書けない、唯々諾々とジャーナリズムの煽動に乗っているときではない……、小林の焦りは募る一方だった。そこへ『文學界』の声がかかったのである。

小林は、「様々なる意匠」でこう啖呵たんかをきっていた、―若し私が所謂文学界の独身者文芸批評家たる事をねがい、而も最も素晴しい独身者となる事を生涯の希いとするならば、今私が長々と語った処の結論として、次の様な英雄的であると同程度に馬鹿々々しい格言を信じなければなるまい。「私は、バルザックが『人間喜劇』を書いた様に、あらゆる天才等の喜劇を書かねばならない」と……。

「人間喜劇」とは、十九世紀フランスの小説家バルザックの、九十一篇の長短篇小説の総称である。よく知られたところには「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」「従妹ベット」などがあるが、バルザックはここに二千人にもおよぶ人間たちを登場させ、それぞれの風貌、性格、信条などを克明に描き分け、描ききった。小林が書きたかったのは、こういう「人間劇」である。

その人間劇を、小説家バルザックは具体的描写で書いたが、フランスにはもう一人、押しも押されもせぬ近代批評の創始者サント・ブーヴがいた。サント・ブーヴはバルザックの向こうを張るかのように、抽象的描写で人間劇を書いた。自分が追いつきたいのはこのサント・ブーヴである。そして、小説家たちにはいつまでも観念の相撲ばかりとらさずに、どこへ出しても恥ずかしくない「作品」を書かせたい。しかし、いくらこれを言っても、既成のジャーナリズムが敷いた線路の上を走らされている作家、批評家たちは馬耳東風である。さて、どうする……。そこへ『文學界』の話がきたのだ。

創刊からの一年余り、小林が『文學界』に書いたのは「私小説について」等の数篇だったが、昭和十年一月、『文學界』の編集責任者となり、そこに自ら「ドストエフスキイの生活」の連載を始めた。文学で生きると決めて、誰よりも早く会いに行きたかった作家がドストエフスキーであった。こうして正真正銘、小林は『文學界』に全体重をかけた。

「ドストエフスキイの生活」は、昭和十二年三月まで続き、十四年五月、創元社から刊行した。今日、小林秀雄は日本における近代批評の創始者、構築者と呼ばれているが、その最初の一歩、最初の一里塚が「ドストエフスキイの生活」だった。しかし、それは、おいそれとは誰にも跨がせない一歩であり、高々と天をつく一里塚であった。

その「ドストエフスキイの生活」の刊行に際して、『文學界』昭和十四年七月号の編集後記に小林は書いている。

—僕は今度「ドストエフスキイの生活」を本にして、うれしいのでその事を書く。彼の伝記をこの雑誌に連載し始めたのは昭和十年の一月からだ。それは二年ばかりで終ったが、その後、あっちを弄りこっちを弄り、このデッサンにこれから先きどういう色を塗ろうかなぞと、呑気に考えているうちに本にするのが延び延びになってしまった。ゆっくり構えたから、本になっても別に、あそこはああ書くべきだったという様な事も思わない。勿論自慢もしないが謙遜もしない。久しい間、ドストエフスキイは、僕の殆ど唯一の思想の淵源であった。恐らくは僕はこれを汲み尽さない。汲んでいるのではなく、掘っているのだから。……

精魂こめた「ドストエフスキイの生活」刊行のよろこびはもちろんだが、『文學界』という、好きなことを好きなように書いて世に問える舞台に恵まれたよろこびが伝わってくる。財政面では四苦八苦の連続だったが、生涯の盟友となる河上徹太郎と交互に編集責任者を務め、昭和十年代の文学界、精神界、思想界を牽引した。

本誌『好・信・楽』は、小林秀雄がこうして『文學界』にそそいだ情熱の衣鉢いはつを継ごうとするものである。ただし、ここに集うのは、必ずしも文学や芸術を志す者たちばかりではない。年齢も職業も様々な、多くは一般社会の生活人である。したがって、『文學界』で小林が体現したような、精神文化の創造に向かって邁進するなどということはとてもできないし、それが願いでもない。私たちが継ごうとする衣鉢は、小林が時代の通念を疑い、通念の裏を読んで、自分本来の生き方を烈しく追い求めた、その真摯な情熱である。

通念を捉えて、小林は迷信とも言っていた。迷信と聞くと、私たちは前時代的な妄念・妄想を思いがちだが、小林に言わせればなんのことはない、現代の私たちも現代の迷信の真っ只中にいるのである。

早い話が、科学的な物の見方、考え方、という金科玉条である。これなどは現代の迷信の最たるものだと小林は言う。詳しくは小林の「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)をご覧いただきたいが、私たち現代人が動かぬ真理と思っているこれら似而非えせ金科玉条の災いで、私たちは人間本来の弾力に富んだ生き方ができなくなってしまっている。ではどうすれば、そこをそうと気づくことができるのか、どこをどう建て直せば人生の弾力を取り戻せるのか……。小林の作品は、そのすべてが現代の迷信への異議申し立てであった。すなわち、「人間喜劇」を押し立てて行う「人生批評」であった。『文學界』の編集は、毎号それらと同一の線上にあった。

そういう次第で、私たちが小林秀雄の「本居宣長」を読むのも、読んで動揺する心を本誌に持ち寄るのも、すべては小林秀雄に学んで現代の迷信から覚めようとしてのことである。ひとまずはこの創刊号から、そういう気概を感じていただければ幸いである。

 (了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

一 刊行まで

小林秀雄の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十日に刊行された。菊版、厚表紙、貼箱入り、全六一一頁で定価四、〇〇〇円という、今なら八、〇〇〇円にもなろうかという本であった。が、いざ発売となったその日、版元新潮社の前には読者の列ができた。終戦直後の昭和二十三年、西田幾多郎の『善の研究』の新版が出たときは、読者が岩波書店を取り巻いたそうだが、『本居宣長』を求める列はそれ以来であったという。今日、村上春樹氏の新刊には似たような騒ぎが何度も見られているから、現代の読者には読者の列と聞いてもさほどに強い印象はないかも知れないが、片や評論、哲学であり、片や小説である、それだけをとっても同列には論じられない。

さらにその年、おそらくは空前と思われる現象が起きた。『本居宣長』が、歳暮に使われたのである。財界の重鎮たちが、『本居宣長』を何冊も買って歳暮にした。しかも、それだけではない。『本居宣長』は、パチンコ屋の景品にもなった。そもそも当時、パチンコの景品に本が使われるということ自体、そうあることではなかったはずである。ましてや、硬派も硬派の小林秀雄の本である、意表をつかれるような、稀有と言っていいような現象だったが、それも裏を返せば、『本居宣長』は、パチンコ屋が客寄せに使いたくなるほどの評判だったということなのだ。事実、書店では都会の大型書店でも売切れ続出だった。

歳暮だの景品だのと、下世話な話をいきなりとはどういう了見だ、あの小林秀雄が精魂こめた『本居宣長』に、世俗の空騒ぎはふさわしくないと、眉をしかめられる向きも多かろう。それはたしかにそうである。しかし、実を言えば、小林秀雄その人が、こういう騒ぎを表立ってよろこび、我が意を得たりと満悦だったのである。

 

発売の約半月後、昭和五十二年十一月の十三日には和歌山で、十四日には大阪で、『本居宣長』の刊行を記念する講演会を催した。翌五十三年六月、『本居宣長』は日本文学大賞を受けることになり、小林秀雄氏はその贈呈式の挨拶で、和歌山、大阪の講演で話した中身と同じことを口にした。後日、その内容は「本の広告」と題して雑誌『波』に載り、今は『小林秀雄全作品』(新潮社刊)第28集に入っている。次のとおりである。

―「本居宣長」が本になった時、新潮社から講演を頼むと言われたが、講演はもう御免だとお断りした。すると、担当者は、「今度は講演じゃないですよ。本の広告なんです」と言うのだな。ああ、そうか、広告なら話は別だ、というわけで、引受けた。
 本は、どんな本だって、まず売れなければ話にならない。これは、常に実生活に即して物を考えた、宣長の根本的な思想に通ずるものです。周知の通り、彼は小児科の医者で、丸薬なども、自家製造して売っていたから、広告もうまかった。「六味地黄丸」という子供の薬を売るために書いた広告文が、今も残っている。……

そう言って、宣長の広告文を全文引いているのだが、ここではひとまず割愛する。そしてその広告文の後である。

―さて、この宣長の教えに従って、言わせて貰う事にしたいが、私の本は、定価四千円で、なるほど、高いと言えば高いが、其の吟味に及ばないのは麁忽そこつの至りなのである。私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずと出来る工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んでしまう。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちはある。それが四千円で買える、書肆しょしとしても大変な割引です、嘘だと思うなら、買って御覧なさい、とまあ、講演めかして、そういう事を喋った。……

―聴衆の諸君も解ってくれたのではないかと思う。売れました。誰よりも販売担当者が、まず驚いた。鎌倉でも、私のよく行く鰻屋のおかみさんまで買ってくれました。鰻の蒲焼と「古事記」とは関係がないから、おかみさんが読んでくれたとは思わないが、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない。しかし、出版元は、客が買えば印税を支払う義務がある。私としては、それで充分である。昔流に言えば、文士冥利に叶う事だ。冥利の冥とは、人間には全く見通しがきかないという意味でしょう。私は、大学にいた頃から、文を売って生計を立てて来たから、文を売って生きて行くとはどういう意味合の事かと、あれこれ思案をめぐらして来た道はずい分長かった。しかし、私の眼には、この冥暗界の雲は、まだれてくれないようです。……

今度は講演じゃないですよ、本の広告なんです……、そう言ったのは私である。当時、私は三十歳、本を造る係の編集者として出入りを許され、初めての仕事として「本居宣長」を本にさせてもらったばかりだったが、氏の講演嫌いはつとに承知していた。だから、講演は困ると断られるやすぐ引き下がり、今回は講演というより、先生の本を読んでもらうための宣伝なのですが……、と言い添えた。すると、氏は、なんだ? 宣伝だって? 宣伝なら行くよ、そう言われたのである。

和歌山、大阪の講演でも受賞式の挨拶でも、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない、と言われているが、これは氏の話芸の妙に属する諧謔かいぎゃくで、本はどんな本でも売れなければ話にならないという切実な思想と裏腹に、買ってくれる読者にはしっかり読んでほしいという願いも切実だった。それを私は、昭和五十二年一月から九月に及んだ「本居宣長」の校正作業を通じて思い知らされていた。だからこその「先生の本を読んでもらうための宣伝なのですが……」だったのである。

昭和五十三年二月、単行本『本居宣長』は発売三ヶ月で五〇、〇〇〇部に達し、やがてついには一〇〇、〇〇〇部を超えた。

 

雑誌『新潮』に、昭和四十年から書き継がれた「本居宣長」は、五十一年十一月、同誌の同年十二月号をもって連載終了となった。翌五十二年新年号に、編集部の名で「読者へのお知らせ」が載っている。

―小林秀雄氏の連載評論『本居宣長』は、本誌昭和四十年六月号より十一年余にわたって断続的に掲載して参りましたが、昭和五十一年十二月号をもって、未完のまま連載を終ることになりました。今後は完結までを書き下ろして、単行本として、昭和五十二年小社より刊行致します。/長期に及んだこの連載において、読者に伝えんとする眼目はそれぞれほぼ書きつくしたので、掲載分を推敲、凝縮の上、結語を急ぎたい、という筆者の意向に基づくものであります。/長い間ご愛読いただき有難うございました。何卒右の事情御了承の程お願い申し上げます。……

小林氏のこの連載終了の意思は、五十一年十二月号の発売直前に『新潮』編集部に告げられた。突然であった。氏の許に通って十一年、原稿を受取り続けた『新潮』の編集者、坂本忠雄氏ですら予測だにしていなかった。何があったのか、どういうわけなのか……。だが、そこを思案しているいとまはなかった。坂本氏とともに小林氏を訪い、単行本に向けて手筈を相談した。連載の第一回分から手を入れて、来年中には本にしたい、君には苦労をかけるが、よろしく頼む、そう言われた。

氏の意を体し、昭和五十二年内の刊行を期して私の仕事が始まった。まずは、単行本化のために著者が行う加筆用の土台造りである。今日幅をきかせているパソコンやデジタル・データは、普及はおろか影も形も見せていなかった。雑誌や新聞に連載された著作を本にしようとすれば、連載中から掲載ページの切抜きをとっておき、それらを一ページ分ずつ四〇〇字詰の原稿用紙の真ん中に貼っていく。著者は編集者からその貼り込み原稿を受け取り、余白に新たな修整文を書き込むなどして編集者に返す。編集者はその書込み稿を整理して印刷所に送り、本としての新たな活字の組上げを頼むのである。「本居宣長」の切抜きは、五十一年十一月中に貼り込みを終え、十二月の末、暮の挨拶に参上した席で小林氏に託した。

 

当時、ふつうの本であれば、本文の字数は一冊あたり四〇〇字詰原稿用紙で四、五〇〇枚から七、八〇〇枚というのが標準であった。したがって、著者の書込みは、貼り込み稿を預けて二、三週間もすれば一度で編集者の手に戻ってきた。しかし、「本居宣長」は、『新潮』掲載稿が合せて一、五〇〇枚分はあった、しかも、内容は、本居宣長の原文引用も夥しければ小林氏の行文も緻密である。とても一気呵成にというわけには参らない。そこでこういう手筈を調えた。『新潮』掲載の一、五〇〇枚分をざっと三等分し、これらを順次、小林氏から返してもらう、私はそれをただちに印刷所に送り、印刷所から校正刷を出してもらい、校正者には校正作業を始めておいてもらう、この段階での著者修整は、彫刻でいえば粗彫りに留め、細部の彫琢には印刷所が活字を組上げてからの校正段階で時間をかける……、この手筈を氏も諒とされた。

実際、このとき氏の前にあったのは、往時、ミケランジェロがダビデを彫るために立ち向かった大理石にも譬えたくなる原稿の塊であった。その塊は、小林氏自身が十一年半かけて積み上げたものには違いなかったが、単行本上梓という新たな局面に立った時点では、その原稿の塊は小林氏が手ずから切り出してきた大理石とも見え、その大理石に小林氏自身が気魄ののみをふるう、そういう構図だったのである。

 

昭和五十二年が明けるなり、小林氏からは順次書込み修整稿が私に手渡された。『新潮』の連載回数は六十四回だったが、後半の第三十四,三十五、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、五十一、五十五、五十九、六十、六十一章は全面削除され、他にも大幅削除の章がいくつかあって、本としての章立ては新たに全四十九章とされた。最後の一章、すなわち第五十章が、全篇校正の完了後に書き下ろす結語に宛てられた。こうして私の仕事は、第一段階の入稿作業から、第二段階の校正作業に入った。

その校正作業も、ふつうの本であれば、一冊分まとめて校正者から編集者、編集者から著者、著者から編集者、編集者から印刷所と、テンポよく進むのである。ところが、「本居宣長」は、ここでもそうはいかなかった。『新潮』の掲載稿に削除が加わり、四〇〇字詰原稿用紙にして一、五〇〇枚分が約一、〇〇〇枚分の校正刷になったとはいえ、これをふつうの本と同じように運んでいくことはできなかった。宣長の引用文はすべて旧字旧仮名である。小林氏の文も旧字旧仮名である。それだけでも校正者はふつうの本にはない慎重さが求められる。そこでまた一計を案じた。今度は全体を十等分し、印刷所から出てきた校正刷はまず第一章から第五章までを校正者に渡す、校正者は作業を終えた校正刷を私に回し、私は編集者の目で読んでそれを小林氏に届ける、その間にも校正者は次の第六章から第十章の校正を進め、それを私に回し、私は小林氏に届け、という循環を繰り返す、あたかも音楽の輪唱のように、この循環を十回繰り返すのである。

 

編集者の仕事は多岐にわたるが、中核をなすのは目の前に現れた原稿の出来、すなわち売れるか売れないか、後世に残るか否か、その鑑定と、当該原稿をいっそう高度な完成域へと押し上げるための助太刀である。この二つは車の両輪のようなもので、同じことは芸術、教育の世界や、スポーツの世界でも言われているだろうが、本の編集者の場合は助太刀の手腕がより求められると言っていい。雑誌や新聞に掲載された原稿は、原稿の出来に関しては一応の鑑定がなされている。しかし、雑誌や新聞は、締切という時間との戦いのうちに見切り発車しなければならないこともしばしばである、やむなく心残りを残したまま発行に至ってしまっているケースも少なくない。その心残りを、本の編集者が引き継ぐのである。

一般に、本はすべて著者が書いている、編集者は著者の原稿を整理して、雑誌や本という器に盛りつけるだけの商売であると、そう思われている節がある。憚りながら、それはとんでもない誤解である。どんな天才、英才といえども、著者ひとりで文章の完璧を期すことはできない。手っ取り早いところでは、長篇小説を思い併せていただけば十分だろう。何人もの登場人物の風貌、背丈、服装、言葉づかい、職業、出身地、学歴、癖……これらを細かく描き分けて混線させないだけでも大変だが、そこに舞台となる国や都市の地理地形、風俗習慣、歴史的、政治的、経済的、国際的、学術的その他の諸要素がからみ、それらにふとした勘違いも起れば悪しき思い込みも割り込んでくる、ストーリー展開や事件の時間軸に矛盾も起りかねない。こういった側面の、混線、誤謬、矛盾等々を見逃さず、逐一指摘して作者に修正を促すのも編集者の役割なのである。

むろん、それだけではない。もっと大事なことは、この著作で著者が言わんとしていることが、この表現で読者に伝わるかどうか、著者が井の中の蛙と馴れあって独りよがりになっていないかどうか、そこに目を光らせる。さらには、著者が目指しているその著作の思想的、芸術的到達点を逸早く直観し、その到達点への進路をはずれて著者が迷走するときは本来の軌道へ引き戻し、著者が中途で尊大になったり弱気になったりして、筆鋒が荒れたり鈍ったりしたときは𠮟りつけてでも挙措を正させる。

こうした働き、役回りから言うなら、編集者は囲碁の世界で言われる「傍目おかめ八目」のプロなのである。「傍目八目」とは、いま現に碁を打っている棋士よりも、盤のわきで対局を見ている観戦者のほうが八目多く戦局を読めるということで、往々にして当事者よりも第三者のほうが物事がよく見えるということを言った格言である。したがって、編集者の給料の大半は、「傍目八目」の働きに対して支払われているとさえ言っていいのだが、なかでも編集者が先読みすべき大事な「目」は、著者の資質と適性である。著者本人はなかなか気づけない。

 

昭和四十五年の春、新潮社に入り、何人かの著者の本を造らせてもらって、私は常にこの傍目八目を自分に言い聞かせていた。したがって、「本居宣長」の校正刷を読むにあたっても、同じ心構えで臨んだ。昭和五十二年二月、そうして読んだ第一章から第五章の校正刷を小林氏に届けた。約二週間後には第六章から第十章までを届けた。さらに二週間後、第十一章から第十五章までを届けようとして、私は重大なことに気づいた。私が小林氏に届けている校正刷には、編集者の傍目八目で見てとった小林氏への相談事を鉛筆で書き込んでいる。その鉛筆書込みが、これまでに造った本の何倍にもなっているのである。

むろん、批評家として半世紀以上も文章を書いてきた小林氏の著作である、しかも一度は新潮社校閲部の目を通っている「本居宣長」である、さらにしかも、単行本に向けて新潮社校閲部の老練校正者があらためて目を通した校正刷である、歴史的、文献的な誤謬も、日本語文としての用語の適不適等も、ほとんど私の出る幕ではなかった。にもかかわらず、私の鉛筆書込みが異常に多くなっていたのは、ひとえに「本居宣長」の文章の奥の深さからだった。その文章の奥の深さが、小林氏特有の難解さと受け取られ、読者を立ち往生させてしまうであろう箇所が少なくなかった。私はそこを、私なりに合点したい一心で小林氏に質問を呈し、可能なかぎりでもう少し言葉を補ったり、表現を砕いたりしていただけまいかと該当箇所に試案を書き込んでいた、その数が尋常ではなかった。

これはいけない、と思った。相手は本居宣長である。小林秀雄氏である。七十五歳の小林氏が、六十三歳の年から十二年ちかくをかけた畢生の思索である。学校で日本文学を専攻してきたとはいえ、おいそれと三十歳の若造の手の届くところではない。この先、この書込みについては御免を願い出よう、編集者の最重要任務「傍目八目」を放棄する無責任は弁解できないが、これからまだまだ第五十章まで、小林氏の徹底推敲という思索の戦いは続く。その戦いに私がからんだのでは足手まといも甚だしい。いま優先すべきは小林氏自身の思索時間の確保である、その点の先読みが、いまの私にできる唯一の「傍目八目」である……。

三月、第十一章から第十五章の校正刷を携えて参上し、それを氏に託してすぐ、私は上記の心中を申し述べ、寛恕を乞うた。

氏は、私の言葉を最後まで聞き、私が口を噤むなり、

―君、それはちがう。

と言われた。

―僕の文章を、君くらい丹念に読んでくれる読者はいないんだ。君にわかってもらえないのでは、日本中の読者の誰にもわかってもらえない、そうではないか。僕の書いたものは、読者が読んでくれなければ僕が書いた意味はないんだ。読者に読んでもらうためには、誰よりも君にまずわかってもらう、そのためならどんな努力もする、遠慮はいらない、これまでと同じように、これからも訊いてくれたまえ……。

氏は、それからしばらく黙り、そして言われた、

―宣長さんは、とてつもなく難しいことを考えた人だ、しかし、彼の文章はおどろくほど平明だ、あれが文章の極意なんだ……。

「本居宣長」の校正作業は、初校が五十二年六月まで、再校が八月まで続き、最後の第五十章は七月に書き上げられて、第一章から第五十章までが揃った三校は九月まで続いた。私の校正刷への書込みも、九月まで続いた。

 

小林氏は、君にわかってもらうためならと言われたが、氏がどんなに懇切に手を施されようと、半年そこらで私に「わかる」はずはなかった。それでも各所、私なりに得心して九月の末に全ページを校了にした。その得心を譬えていえば、こういう事である。父親が子供を連れて歩いていて、きれいな山を目にする。あの山をごらん、どうだ、きれいだろう、と子供に言う。しかし、背丈の足りない子供は、目の前の草むらに邪魔されてはっきりとは山が見えない、それを父親に言うと、ああそうか、それではと父親が肩車をする、あるいはそばにあった木の枝で背の高い草を払いのけ、どうだ、見えたか、うん、見えた、きれいだね……。比喩の拙劣はお詫びするが、これと似た小林氏の配慮で、私にも本居宣長という山の全貌を目にすることはできるようになったのである。五十二年九月現在の私の「わかった」は、こういうわかり方だったのである。

そして思った。小林氏にここまでしておいてもらえれば、あとは私自身が、いかにして自分の視力を鍛えるかである。今見えている山の微妙な襞まで見てとる視力をいかにして得るかである。『新潮』に「本居宣長」を書き始めた年、小林氏は六十三歳だった、私も六十三歳からは小林氏のように時間をとって、十二年かけて「本居宣長」を読み返そう、三十代、四十代と、そう思い決めて準備はしていた。五十五歳で刊行を始めた『小林秀雄全作品』の脚注は、読者に読んでもらわなければ書いた意味がないという氏の思いを承けての事業であったが、私個人としては私自身の六十三歳からに備える足拵えのつもりもあった。しかし、思い通りに事は運ばなかった。六十三歳で手を着けはしたが、六十四歳から六十九歳にかけて身辺に不慮の事態が相次ぎ、気がつけば七十歳になっていた。

しかし、幸いにして、六十六歳からは小林氏の旧宅で「小林秀雄に学ぶ塾」を頼まれ、塾生諸君とともに「本居宣長」を読んできた。十二年読むとすればあと八年、この八年で、昭和五十二年二月から九月にかけての「本居宣長」の校正期を再現しようと思っている。どうだ、きれいだろうと、小林氏に指し示された名峰の美しさを、自分自身の肉眼、心眼両方の視力でしっかり見てとろうと思う。本誌『好・信・楽』のこの連載は、そういう思いで少しずつ描きとっていく「本居宣長」の全景である。

(第一回 了)