三 道の学問
昭和四十七年(一九七二)九月二十六日、大阪の毎日ホールで『円地文子訳 源氏物語』の刊行記念講演会が催され、演題を「宣長の源氏観」として講壇に立った小林秀雄氏は、本居宣長という人の生涯に波乱はない、波乱はすべて頭の中にあった、その頭の中の波乱たるや、実におもしろいと語り始め……、と前回の冒頭で書いた。氏はあの日、その話をこう続けた。
――宣長さんは学者です、しかし、今の学者とは大変違うということをまず考えないといけない。今の学問はサイエンス、科学だが、宣長さんのころの学問は違う、「道」です、人の「道」を研究したのです、人間いかに生きるべきか、と。あのころ、この問いに答えられないような者は学者ではなかったのです。……
ところが、である。
――今の学者は、そんなことには答えなくていいのです、何かを調べていればいいのです。私は学者だ、これはこうこう、こうであって、こうであると、調べることが私の仕事だ、今の学者はそう言うのです。だから諸君が、「先生、私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」と訊いても、先生は答えてくれない。それが今の学問です。学問は、今はそのぐらい冷淡になってしまった。僕らの一番肝心なことには触れません。……
では、「学問」は、どうあるべきなのか。
――僕らの一番肝心なことって何ですか、僕らの幸不幸ではありませんか。僕らはこの世にたった何十年かの間だか生きていて、幸福でなかったらどうしますか。この世に生きていることの意味がわからなかったらどうしますか。そこを教えてくれないような学問は学問ではない。昔の学問は、学者は、人生いかに生きるべきか、それをどうかして人に教えようとしたのです。宣長さんもそうです。今の学問とは全然違うのです。……
同じ講演会の控室で、小林氏は、「『本居宣長』は思想のドラマを書こうとしたのだ」と言った。前回は、この言葉から始めて、氏の言う「思想」とはどういうものかをまず眺めた。氏によれば、「思想」とは集団を使嗾するイデオロギーではない。私たちの精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、それが私たちの思想というものである、そしてこの「思想」は、そういう試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。小林氏の言う「思想」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった。
これを承けて、いまあらためて氏の「思想のドラマ」という言葉と、「頭の中の波乱」とを取合せてみる。すると、どうなるか。本居宣長の「思想」とは、すなわち彼の「頭の中の波乱」である。その宣長の「頭の中の波乱たるや、実におもしろい」のあとに、氏はこう言った、――宣長さんのころの学問は、「道」です、人の「道」を研究したのです……。とすれば、「本居宣長」という「思想のドラマ」の「思想」とは、「道」であったと言えるだろう、本居宣長と対座し続けた氏の脳裏では、「思想」と「道」とは同義であった、少なくとも相即不離の関係にあった、と言えるだろう。
そういう次第で、今回は、「思想のドラマ」を味わうための身支度として、「道」という言葉を素描していく。「本居宣長」で、「道」という言葉が現れる最初は、第三章である。第一章、第二章で宣長の遺言書を読み上げたあと、小林氏は宣長の出自に目を移し、宣長が自家の由緒を記した「家のむかし物語」を引く。宣長は、学者としての生活を保つため、内科と小児科の医者になっていたが、内心、それを潔しとはしていなかった、後ろ暗く思っていた、しかし……、
――医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこころ也。……
「心と」は、自分の考えで、自分から求めて。先祖が興し、代々伝えた家、これを自分の考えひとつで損なうようなことがあっては、道に背くと言うのである。
続いて第四章、やはり「家のむかし物語」の文中である。
――のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いささか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこころを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん。……
「くすし」は医師。「物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして……」は、学問の力によって多くの本を書き、日本における道の意味を説きひろめ、世間にも知られるに至ったのは……というほどの意である。宣長がこの文を書いたのは、六十九歳の年で、もう畢生の大業「古事記伝」も書き上げていた頃であったが、そういう人生の収束期に来し方を振り返るなかで記す「物まなび」は、「大御国の道のこころ」を説きひろめようとしたものだったのである。
「本居宣長」において、「道」という言葉は、こういうふうに現れてくるのだが、小林氏が、宣長の学問は「道」だ、人間いかに生きるべきかと人の「道」を研究したのだと言った意味での「道」が、正面から見渡される最初は第五章である。
宣長は、伊勢松坂の商家に生れたが、この子は商いには向いていないと早くに見てとった母の英断によって二十三歳の春から京都に遊学し、堀景山という儒医のもとで医者になるための修業に励むとともに儒学も学んだ。遊学は、二十八歳の冬まで続いたが、その間のことである、宣長は、十九歳で和歌に志し、日々熱心に和歌を詠んでいた、それを、ある塾生が咎めてきた、われらの本分は医学と儒学である、にもかかわらず、儒学をそこそこにして和歌に現をぬかすとは何事だ、という意味のことを言ってきたのであろう、この塾生に、宣長は反駁の手紙を書いた。大意は小林先生の手で写し取られている。
――足下は僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、或はむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「私カニ自ラ楽シム有ル」所以のものではない。現在の足下にしても僕にしても、為むべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。……
「足下」は貴君。「聖人」は人格・行為ともにすぐれ、世の師表として仰がれる人、といった意味であるが、特に中国の古伝説に登場し、徳をもって天下を治めたとされる尭、舜をはじめ、周王朝初期の周公旦ら、古代の優れた帝王、あるいは為政者をさして言われる。そして「聖人の道」とは、彼らの時代の古記録を孔子が集め、それを今日『書経』の名で知られる書物として編んで、古代の名君、為政者たちの模範的な言辞を残した、そこに基づいて言われる社会秩序の規範である。こうして生まれた「聖人の道」が、後世、「儒」と呼ばれ、孔子の教えとして尊ばれていたのだが、宣長は、異を唱える。
――「己ガ身ノ瑣瑣タルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」、足下は、「人ニシテ礼義無クンバ、其レ禽獣ヲ如何セン」などと言うが、「聖人ノ書ヲ読ミテ、道ヲ明ラカニシ、而シテ後ニ、禽獣タルヲ免レントスルカ」、異国人は、そんな考えでいるかも知れないが、自分は日本人であるから、そうは考えていない。一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。……
「万物ノ霊」は、「万物の霊長」とも言う。万物のなかで最もすぐれたもの、である。人間が禽獣に勝って万物の霊でいられるのは、「聖人の道」を学んだりしてのことではない、その根本は、「天神地祇」すなわち天の神、地の神の「寵霊」のおかげである、それだけである、自分はそう考えている、と宣長は言う。「寵霊」は、尊い恵みである不可思議な力、「頼ル」は「よる」である。
――従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義自ら備るという状態があったのも当然な事である。この見地よりすれば、聖人の道の、わが国に於ける存在理由は、ただ「風俗漸ク変ジ」「勢ノ已ムヲ得ザル」ものによる必要を出ないものだ、という事になる。自分が六経論語を読むのも、その文辞を愛玩するだけであり、聖賢の語にしても、「或ハ以テ自然ノ神道ヲ補フ可キモノアレバ、則チ亦之ヲ取ルノミ」。……
そういう次第だから、日本における「聖人の道」の存在理由は、時代が移って生活様式が変り、社会の情勢・状況によっては改善・改良が必要になる、そのときの手本として役に立つ、それだけである。また「六経」は、『詩経』『書経』『易経』など、儒の根幹とされている書物であるが、これらの書物は『論語』も含めてそこに書かれている言葉を楽しむだけであり、聖人・賢人によって言われていることも、自分は「自然ノ神道」を補うと思われるものを採るだけだと言うのである。
小林氏は、第二章で、――或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたりこれに反撥したりする、非常に生き生きとした思想劇の幕が開いた、この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった、と言っていた。いまここで、儒と和歌をめぐって見られた塾生との対峙は、まさに小林氏が言う意味での思想劇そのものである。ここではまず、「聖人」という衣装と、「神」という衣装をまとって「道」という「思想」が登場した。「本居宣長」という長篇思想劇の幕が、徐々に上がっていくのである。
小林氏は、第二章で、こうも言っていた、――この誠実な思想家は、自分の身丈にしっくり合った思想しか決して語らなかった……。宣長の返書に、「私カニ自ラ楽シム有ル」という言葉、「己ガ身ノ瑣瑣タルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」という言葉があった。この返書でも、宣長は、「自分の身丈にしっくり合った思想しか」語ろうとはしていないのである。
和歌好きを咎めた塾生より早く、宣長の仏教好みを難じてきた塾生もいた。そこも小林氏の本文から引こう。
――彼が仏説に興味を寄せているにつき、塾生の一人が、とやかく言ったのに対し、彼はこう言っている。「不佞ノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、之ヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タダニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モ亦、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。……
「不佞」は小生。小生が仏教の本を読むのは、これを好み、信じ、楽しんでいるのである、この、好み、信じ、楽しむは、仏教の本だけではない、儒教や道教や諸氏百家の本も同じである、自分の「好、信、楽」という態度からすれば、歌舞音曲から山川草木に至るまで、天地の万物みな小生の「賞楽」の対象である……。
ここにも、自分の身丈にしっくり合った思想しか語ろうとしない宣長がいる。いやむしろ、小林氏の言う宣長の「身丈」とは、宣長が自ら言っている「好、信、楽」であると読んでいいかもしれない。宣長は、わが身をとりまくありとあらゆる物事に感じ、それをことごとく愛で楽しむという態度を保ち続けていた、すなわち、「風雅に従う」ということに徹していた、しかし、世間はそうではなかった。
――足下には、風雅というものがわかっていない。「何ゾ其ノ言ノ固ナルヤ、何ゾ其ノ言ノ険ナルヤ、亦道学先生ナルカナ、経儒先生ナルカナ」……
ここで言われる「道学先生」の「道学」とは、儒学の一派、朱子学である。「経儒先生」の「経」とは、先にも述べた儒学の聖典「六経」である。したがって、「道学先生」「経儒先生」とは、儒学に凝り固まって融通がきかない、そのくせ一端に人生論を説いてまわる輩、そういう意味である。
宣長の和歌好きを咎めてきた塾生、また仏教好みを難じてきた塾生、彼らに共通していたのは、儒学を絶対と見て、学に志す者の本分は儒学を修めることにあるとする固定観念であった。宣長は、そこを衝いて「道学先生」「経儒先生」と言ったのだが、彼があえて「道学先生」と言ったについては、素地があった。こういう言葉を突きつけたくなるほどに、「道学」と呼ばれた朱子学は一世を風靡していた。
「道学」とは、そもそもは中国宋代(九六〇~一二七九)に成った新儒学、「宋学」の別称であった。岩波書店の『哲学・思想辞典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後は、おおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は、自己修養の道、徳治の要諦等を指していた。
宋はその後、現在の浙江省杭州に都を移し、一一二七年以後は「南宋」と呼ばれるようになった。その南宋の初期に朱熹が現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てた。
「道」を遡れば、『論語』「里仁篇」に「子曰く、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とあるように、中国においては古くから最重要とされた生き方の指標であった。したがって、「道」とは何かの議論も広範に及んでいた。その「道」に、朱熹は格段の意欲を燃やした。「道」の体得と実現、これを高く掲げ、『論語』「憲問篇」にある「修己安人」(己れを修めて人を安んずる)から導いた「修己治人」(己れを修めて人を治む)を唱えて、自らの学問をより声高に「道学」「聖人の学」と呼んだ。
「修己安人」は、岩波文庫によれば、――ある日、子路が孔子に、君子について尋ねた、孔子は答えた、自分を修養してつつしみ深くすることだ、子路は尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して人を安らかにすることだ、子路はさらに尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して万民を安らかにすることだ……、最後の「自分を修養して万民を安らかにすること」、これには尭や舜でさえも苦労したと孔子は言ったとある。
この「修己安人」の「安」が、朱熹では「治」となって強調された。孔子以来の民を安んずる「聖人の道」は、朱熹に至って民を治める「聖人の学」となった。宣長が、貴君にしても小生にしても、為むべき国や安んずべき民がある身分ではない、聖人の道が何の役に立つかと言った背景には、こうした儒学の伝統がまずあったのだが、「道学先生ナルカナ」という言葉には、朱熹とその同調者への反目もこめられていただろう。
だが、宣長も、かつては「道学」を至高とする空気のなかにいた。和歌を好むのを難じた塾生への手紙は続く。小林氏の文を続けて引く。
――自分は、幼時から学を好み、長ずるに及んでいよいよ甚しく、六経を読み、年を重ねて、ほぼその大義に通ずるを得た。「乃チ謂ヘラク、美ナルカナ道ヤ。大ニシテハ、以テ天下ヲ治ムベク、小ニシテハ、以テ国ヲ為ムベシト。然レドモ吾ガ儕ハ小人ニシテ、達シテ明ラカニスト雖モ、亦何ンノ施ス所ゾヤ」、ここに到って、全く当惑した、と宣長は言う。……
幼時から学問に親しみ、大きくなってからは六経を読んでその意味を解し、そして思った、道とは素晴らしいものだ、天下を治め、国を治める……、しかし、困った、どんなに六径に通達してみても、人の上に立つ身分でない自分にはそれを役立てる術がない……。
――注意すべきは、この当惑に対し、「論語」が答えてくれた、と彼が言っている事である。彼は、ここで「先進第十一」にある有名な話にふれる。晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。……
「注意すべきは」と小林氏が言っている。どこに注意すべきかに注意して、続きを読もう。
――もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳だけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこう対えた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、沂(魯の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ニ風シ(雨乞の祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「喟然トシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾晳)ニ与セン」、そういう話である。……
曾晳の答はこうである、自分の夢は「先王の道」ではない、「浴沂詠帰」である、沂の川で水浴びをし、涼風に吹かれ、詩をうたいながら家路につく、こういう暮しである……。「先王」は、むかしの聖王、である。孔子は、この曾晳の答に膝を打った、だとすれば、孔子の本意は「先王の道」にはないと宣長は解し、孔子に倍するほどに膝を打った。以後、宣長は、「聖人の道」の迷妄から覚め、和歌を好み、信じ、楽しんで、「和歌ナルモノハ、志ヲ言フノ大道」であると思い至り、儒の「天下ヲ安ンズルノ大道」とは訣別したのである。
小林氏の言うところを、さらに聞こう。――宣長が語っている「浴沂詠帰」の話にしても、儒家の間にはいろいろな解釈が行われていた、それらはいずれも、孔子の問いに対する曾晳の返答「浴沂詠帰」を、どのような観念の表現と解すれば儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか、ということであった、宣長がそういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っているのはすでに見た通りである……。
そして氏は、――この『論語』「先進篇」の文章から、宣長は直接、曾晳の言葉に嘆じている孔子という人間に行く、大事なのは先王の道ではない、先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だとでも言いたげな様子がある……と言い、ここに宣長の、「儒学者の解釈」を知らぬ間に脱している「文学者の味読」を感じると言って、「物のあはれ」の説の萌芽ももうここにあると言っていいかも知れないと言うのである。
先に氏が「注意すべきは」と言ったのは、この宣長の『論語』の読み方である。「解釈」ではない「味読」という読み方である。この読み方を、宣長は「源氏物語」にも「古事記」にも及ぼしていくのだが、宣長は「そういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っている」と小林氏が言っているところから眺めれば、宣長の本の読み方には、読書の「方法」というよりも、書物に向ったときのほとんど反射的な身のこなし、感受性の直観、そういう気味合が感じられる。
曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どう解したら儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るかと儒家たちが悩んだということは、彼らがどこまでも儒学というイデオロギーの辻褄合せにとらわれていたということだ。朱熹もそうであった。否むしろ、朱熹こそは孔子の教えの万般にわたって最も果敢にその方向へと突っ走り、ついには宇宙にまでも飛び出してしまった。
しかし、宣長は、そうではなかった。曾晳と同じく、人間としての自然な感情、素朴な心地よさに、いつもおのずと身を預けた。これが宣長の「好、信、楽」ということであり、風雅に従うということであったのだが、この風雅に従うということは、すべて物事には感受性で処す、ということでもあったのではないだろうか。この宣長の持って生れた感受性は、「もののあはれ」と並んで「自然ノ神道」にもしっかり呼応していた。
ただし、ここで言われている「神道」は、今日、仏教やキリスト教などと対置して言われる「神道」ではない。宗旨・宗派を言う「神道」ではない。いずれ先で出てくるが、宣長が口にする「神道」は、神がひらいた道という、ただそれだけの、古代人が言っていた意味での神道である。その風韻は、先に引いた手紙のなかの、「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」に漂っている。端的に言えば、朝起きて朝日に手を合わす、そういう、知らず識らずのうちに今でも動く私たちの身体や心が、ふとした折ごとに感じ取る「神道」である。
こうして宣長は、「道学」からの覚醒を果たした。だがこれには、先達がいた。第十章で、小林氏はこう言っている。
――彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。……
「彼等」とは、宣長に先駆けて現れ、近世の学問を切り拓いたと小林氏が言っている契沖、中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠らである。その彼らの学問を統べる言葉として、ここで小林氏が使っている「道学」は、もはや本来の意味、すなわち朱子学の別称としての「道学」ではない。朱熹の「道学」を彼らが換骨奪胎し、それぞれがそれぞれに「道」とは何かという問題に取り組み、それぞれがそれぞれに己れの如何に生きるべきかの模索を繰り広げていった「道学」、すなわち、面目を一新した近世日本の「道学」である。この「道学」も、彼ら一人ひとりの感受性によって打ち立てられた。
小林氏は、彼らがそれぞれ、どうやって朱熹の「道学」を超えたか、それも具に書いている。宣長という山の背後に、契沖、藤樹、仁斎、徂徠という山々が聳えている。これらの山容も、素描だけはしていきたいのだが、今回はやむをえない、予定の紙幅を超えている。しかしまた、ここへは必ず立ち返ってくることになる。
――宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家の風流の意味合は全くなかったのは、既に書いた通りである。……
第十一章からである。小林氏の言う「思想」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、と先に言った。それはまた、宣長とともに小林氏の言う「道」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、と言えるだろう。
第十一章は、「本居宣長」の序論の結語であった。すなわち、「思想」と「道」と「学問」の何たるかの、いわば見取り図であった。第十一章の半ばで、――随分廻り道をして了ったようで、そろそろ長い括弧を閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入って行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである……とことわったのは、期せずしてではあるがここまでは序論であったという意味である。
第十一章が『新潮』に載ったのは、昭和四十一年十月号である。四十年の六月号から始った「本居宣長」は、同年九月号の第四回までは毎月掲載されたが、第五回は一と月おいて十一月号となり、以後第十一回第十一章まで、ほぼ隔月で掲載されていた。しかし、これに続く第十二回が掲載されるのは、四十二年四月号である。
連載開始一年半にして、六カ月の休載が続いた。第十一章までで序論を書いて、いよいよ「本居宣長」第一の山場、宣長の「源氏物語」愛読に入るときがきていた。このときにあたり、小林氏はあえて半年、筆を止めた。「源氏物語」の五十四帖を、原文で読み直す必要を痛感したためである。この間ずっと、折口信夫氏が傍らに立っていた。
(第三回 了)