姿は似せ難く、意は似せ易し

以前にも、ここに司法修習生の話を載せてもらったことがある。芸がないが、また修習生のことを書かせて欲しい。

 

司法試験は年に一度あり、毎年合格者が出るが、合格すれば、そのまま裁判官や検事、弁護士になれるわけではなく、その前に、法曹の卵として、1年間の司法修習義務が課されている。別の言い方をすれば、勉強だけしていればよいという、後になって思い起せば長い人生の中でもとても贅沢な時を過ごす。わたしも弁護士になる前、司法修習生として可愛がってもらった経験を持つ者の一人として(わたしの頃は、2年間もの長い間お給料やボーナスをもらっていた)、後輩にも、出来るだけ手厚くしたいと思い、そしてまた、出来るなら、希望や、そこまでいかなくとも、なにがしか愉しそうにやっているなぐらいの感覚は持ってもらいたいと思い、弁護士会から頼まれれば、もれなく修習生を預かってきた。

 

結果、わたしの預かった修習生は疾うに10名を超えた。しかし、修習生を数か月の間預かり、その間に出す課題の中で、未だどの修習生も正鵠を射ることのできない問いが一つある。その問いとは、「弁護士は言葉を使う職業で、かつ、その多くは、書面として提出され、人に読ませるものになるけれど、ぼくが書面を書くとき大切にしていることは何だと思うか。よく考えてみて欲しい」という問いである。この問いを最初に出しておいて、わたしが作業しているところを見せ、折に触れ、様々な書面を見てもらい、また、同じことを問う。しかし、今年預かった修習生に至るまで、誰一人として、思うような応答をくれた者はいない。

 

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第二十五章に次のように書いている。

「『言のよさ』とは、『ものの理非を、かしこくいひまは』す『詞の巧』であり、『文辞の麗しさ』とは全く異なり、これと対立する。この対立を、彼は歌に於ける意と姿とも言っている。彼の歌論に、『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』」「という言葉がある」(「小林秀雄全作品」第27集285頁9行目)。ここで「彼」とは本居宣長その人である。

そして、「姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、先ずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでもできるではないか、諸君は、そう言いたいところだろう、言葉とは、ある意味を伝える為の符牒に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである」とする(同286頁13行目)。

 

先のわたしの問いに直截に答えるならば、わたしは、如何に美しい書面を作るかという一点に腐心しているのである。だが、これにどの修習生も答えられないことは小林先生の文章を引くまでもなく、容易に想像がつく。なぜなら、裁判官でも、相手方の弁護士でも、依頼者でも、他人を説得することを信条とする準備書面においては、その(法的な)論理や証明された事実こそが大切であることが大前提となっているからである。

こういう言い方をすると、仮にも法律の専門家と言われている人間が語る言葉だ、論理が整然としていることなど当り前ではないか、と言われそうだが、問題はその先にある、とわたしは言いたいのだ。小林先生は、先の引用文の後を「よく考えてみよ、例えば、ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は、実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない」と続けている。

 

弁護士でも、学者でも、新聞記者でも、文章を推敲するのにメールを書くようにエディタ上で行う人がいるが、わたしには真似ができない。わたしは、書面を作るとき、フォントは勿論、行間隔、カーニングや行送りの位置、図表や写真など挿入されるサブジェクトの位置や文字の廻り込み方などにも徹底して拘るので、印刷された状態の書面と同一のものが画面上にないとそもそも書くという行為ができない。そして、いつも不思議に思うのは、たとえば、句読点の位置一つをとっても、言葉が整っていくと、書面も比例して整い、たとえ何十頁というようなわたしが書くにしては比較的長い書面であっても、そこには全体として美しさが宿ってくるのを感じることである。

 

そして、文章が徐々に整ってくると、次は音読もしてみることになる。語呂や拍にも気を遣うからである。

 

小林先生は、「本居宣長」の第四十八章で、「言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮していたという、全く簡明な事実に」宣長は「改めて、注意を促したのだ。情の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微秒なもので、話す当人の手にも負えぬ、少くとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」とする(同28集171頁終わりから4行目~)。

小林先生は、さらに続け、「言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれることになったのだが、これは、言霊の働きを大きく制限しないでは行われはしなかった」「上古の人々は、思うところを、われしらず口にするという自然な行為によって,言葉の意味を、全身を以って、感じとっていた筈だから、其処に、言葉の定義を介入させる為には、話し方と話の内容とを、無理にも引き裂かなければならなかったであろう。動く話し方の方を引離して、これを無視すれば、後には、動かぬ内容が残り、定義を待つ事になっただろう」(同172頁7行目)と、話し言葉と書き言葉を対比している。

 

依頼者を法廷に同行すると、決まって言われることの一つが、実際の法廷でのやり取りは実にあっさりした、味気のないものなんですねという感想である。たしかに、法文には、「口頭弁論」期日と書いてあるものの、今日の法廷では、裁判官は、「書面のとおり、陳述されますね」とだけ発し、弁護士も、ただ「はい。陳述します」と一言言うために法廷まで足を運ぶことがごくありふれた光景となっている。お恥ずかしい話だが、それほど口頭で弁ずることは退化してしまっている。

だから、わたしは、ここで、自分の書いた書面ばかりが、「古事記」のように、話し言葉の息遣いまで体現できているなどと尊大なことを言うつもりは毛頭ないが、真実により近づくため、(たとえ、論理や証拠に違いはなかったとしても)わたしは、「『ものの理非を、かしこくいひまは』す『詞の巧』」、すなわち「言葉の意」にとどまらず、歌人が生み出す「文辞の麗しさ」、すなわち「言葉の姿」までを希求し、法廷に臨んでいるということが言いたいのである。言葉が作り上げる姿は、「肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない」と小林先生の言われる「心に映ずる像」、わたしはやはり、それが裁判官の心にもまざまざと映ずることを願っているのである。自分の声が壁にあたって跳ね返ってくるような法廷で、そんな努力をしてどれほどの意味があるかは知らない。ただ、裁判官も人間で、そこにココロがあるなら、データに準拠してAIが下す判断などとは異なる何がしかの動きがあるのではないか。わたしの肉声に宿るものから物事の真実の意味が聴き取られるのではないか、古代人同士がそうであったように……。

何よりも、もし、言葉が単なる符牒に止まるなら、誰が指揮台に立っても同じ音を出すオーケストラのようであるだろう、だとすれば、わたしの書く書面も、わたしが書く必要はない。それでは、わたしは、わたしを信頼し、抜き差しのならぬ人生の問題に押しひしがれてわたしの目の前にいる人に手を差しのべることはできないことになってしまう。

 

以上のこと、どの修習生に種明かしをしても、みなキョトンとしている。そんなことが何か大切なことなんですかという顔をしている。わたしの出した問いに答えることは、司法修習生という練習試合しか許されない身分の彼女や彼に対する要望としては、無い物ねだりなのかも知れない。でも、いつか、切るか切られるかという本物の法廷で、気づく日が来て欲しい。オーケストラは、立つ指揮者によって、そのつど異なる響きを奏でることに……。

(了)

 

本居宣長、最後の述作

『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長(下)」の帯には、こう添えられている。「昭和四〇年六三歳の夏から雑誌連載十一年、全面推敲、さらに一年―。精魂こめて読みぬいた、『道』の学問、人生の意味……。永遠の未来へ 畢生の大業!」。小林先生は、本居宣長という巨星、その仕事の総体を思えば、宣長の名を冠した著作が相応な規模になるなど当たり前だと言っているが(書き始めて5年程経った頃の講演で、先生は「本居さんなんか『古事記伝』書くのに35年かかってますよ。僕が5年6年かかったって、そんなもの何でもありゃしない」と声を大きくして言っている)、果たして、私たちの前には、全50章にわたる文字通り森のように巨大な不朽の作品が遺された。

小林先生行きつけの鰻屋のおかみさんも買ったほどに売れたという発刊後に起こった様々な現象も含め、今や批評家小林秀雄の代表作中の代表作となったこの作品の中で、小林先生は、文学者としての生涯を賭した選りすぐりの表現で言葉を紡ぎ、一つ一つの場面や小径をどれも美しく丹念に仕上げただけでなく、その長い道のりを意識してのことか、本を手にした読者に向け、思わず引き込まれ、歩き続けずにはいられなくなるような仕掛けを用意した。

宣長の遺言書がそれである。小林先生は、冒頭、この遺言書について、「敢て最後の述作と言いたい」と批評し(『小林秀雄全作品』第27集28頁)、読者を誘う。誰しもが、宣長の遺言には、深遠なる人生の意味、真理が披瀝されているのではないかとの予感を抱かずにはおれなくなる。その上、今「本居宣長」を手にする読者は、小林先生が、この「畢生の大業」の幕切れで、宣長さんの遺言について、「又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」(同第28集209頁)とされていることを知ってしまっている。舞台装置は完全なのである。

 

ところが、肝心の遺言の方は、さっぱり要領を得ない。第1章だけでは収まらず、第2章にかけて引用される遺言をどれほど追っても、人生の真理へ繫がるような意味ありげな言葉は皆目見当たらないのである。葬儀の段取りや死骸の始末など極めて具体的な手順を指示した葬儀社の手引書の類にしか読めない。遺言書を、そして、「本居宣長」を読み進む読者にとって、戸惑いは謎となり、小林先生の術中に落ちていく。そして、これが全50章という広大な森を巡る旅の発条となるのである。

 

この小林先生が仕掛けた謎を考えるヒントとして、私は、ここで、冒頭の第1章、幕切れの第50章と合わせ、この両章から最も離れた第26章に置かれた文章を引用したい。同章で、先生は「宣長は、我が国の神典の最大の特色は、天地の理などは勿論の事、生死の安心もまるで説かぬというところにある、と考えていた」とされ(同第27集292頁)、その際、平田篤胤が語るやまと魂や、北条時頼の遺偈の話にまで触れ、際立った対照を描き出している。

わけても、以下の一節は、極めつけである。

「宣長は、契沖を、『やまとだましひなる人』と呼んだが、これは『丈夫ますらをの心なる人』という意味ではない。『古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣、つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを。契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也。後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことにしからずして、いとにくし。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし。此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして、死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさにかうはいはんや。契沖法師は、よの人にまことを教へ、神道者歌学者は、いつはりをぞをしふなる』(『玉かつま』五の巻)」(同第27集295頁)

「宣長が、この文章を、世間に発表したのは、やがて七十になる頃であったが、ここに引用された、業平の歌を評した契沖の言葉は、『勢語憶断』にある。宣長自身の回想によれば、青年期、はじめて『歌まなびのすぢ』について、教えられたと言う契沖の著書の一つであった」「ここの宣長の語気は、随分烈しい。筆者の怒りが、紙背で破裂しているようだ」(同第27集295頁)

 

常々宣長さんと息を揃えて呼吸するような小林先生の表現にも、ここでは例のない激しさが感じられる。悟りがましきことをあれこれ、特に、この世を去るにあたって偽りを述べることに対する宣長さんの強い嫌悪が語られている。ここを読み進めるうちに、だからこそ、宣長さんは、自分の遺言書ではあれほどまでに無味乾燥な文章を書いたのではないかと思い至った。悟りがましき偽りを述べないということが宣長さんの思想であり、その人間性の一部だったのではないかと思えてきたのである。

 

では、悟りがましき偽りを述べない人は、人の死に向かい何を思うのか。

「本居宣長」の後半、古人の生活を有りの儘に受け止める宣長さんの思想が全面的に展開され、第50章に至って、最後に、死ぬこと、すなわち、生死の安心の問題に辿り着く。

小林先生は、「世をわたらう上での安心という問題は、『生死の安心』に極まる、と宣長は見ている。他のことでは兎もあれ、『生死の安心』だけは、納得ずくで、手に入れたい、これが千人万人の思いである。『人情まことに然るべき事』と言えるなら、神道にあっては、そのような人情など、全く無視されているのは決定的な事ではないか。宣長の言い方に従えば、もし神道の安心を言うなら、安心なきが安心、とでも言うべき逆説が現れるのは、必至なのだ」(同第28集194頁)とした上で、死についても、そこに起こる有りの儘を真っ直ぐに受け容れる、「死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」、悟りがましきことをいう隙間を残さない人間の本性へとわたしたちを誘っているように思える。

 

「万葉歌人が歌ったように『神社もり神酒みわすゑ のれども』、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人タダビトが、生きて行く上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである」(同第28集206頁)

 

尋常な意味合いにおいて死が、すでに悲しみと分かち難く結びついているのなら、敢えて、そのことを取り出して評釈する必要などないということになりそうである。

 

そう考えれば、宣長の遺言書は、やはり、「ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作」(同第27集28頁)だと言ってさえよい、と思われてくるのではないだろうか。

(了)

 

ある少年事件の思い出

弁護士は、人生の幸いと災いの交差点で佇む人に付き添うことを生業としているせいか、誰にも、忘れられぬ事件との出会いがあります。

自分の登録番号の刻まれた徽章きしょうが未だ金色に光っていた二十年近く昔、ある少年事件、といっても、保護の対象は中学二年生の少女でしたが、の付添人になったことがありました。

少女は、彼女が幼少の頃に夫の暴力に耐えかね離婚した母親と二人暮らしでした。事件といっても、自分の通う学校の校庭にバイクで乗りつけたとか、もうよく憶えていないほどの虞犯ぐはんだったのですが、この事件は、駆け出しのぼくに様々なことを教えてくれました。

暴力が身体だけでなく、心にも癒えることのない傷を残すこと、女性が幼子を抱え生計を立てていくことの難しさ、つまり、世の中には、個人の力だけでは乗り越えることの難しい構造的な壁、社会問題と言ってもいいかも知れませんね、のあること、そして、表面上別々に立ち現れる事象にも相互に関連や連続性のあること、ぼくは、この事件の前から、夫に暴力を振るわれていた女性の離婚事件を何度か受任したことがありましたが、鑑別所で最初に少女に会ったとき、以前の離婚事件で母親の陰に隠れ震えていた小さな女の子の十年後を見たような錯覚を覚えました。離婚事件と少年事件というまったく別の事件から、暴力によって破壊された家庭という共通の因果の流れが浮かび上がってくるように感じました。暴力という嵐が吹き荒れている間、大抵の子どもはやけに良い子でいるものですが、それが止むと、今度は、あれほど嫌いだった筈の暴力の芽が子自身の中に生まれ、母親と対峙するようになったりすることはむしろ普通に起こる事でした。

少女の母親は、中学生の子がいるとは思えぬ年齢で、当時のぼくよりも若かったと思いますが、すでに人生に疲れ、無気力が母として子を育てるという自覚や責任感を上まわっていました。そして、何より、このとき母親には自然に沸き上がってくる、子に対する愛情が枯渇していました。少女が事件を起こしたのも、母親を求め会いに行った際、母親が少女を拒絶し、玄関のドアを閉め切って、叩いても開けなかった出来事が引き金になっていました。少年事件は、最後に審判廷で裁判官による審問が行われるまでの間に、少年が立ち直れるよう様々に環境整備を行うのですが、母親は、ぼくが何度連絡を試みても、いずれの方法にも応答せず、結局審判廷にも姿を見せてはくれませんでした。

ただ、あれこれ手を尽くしている中で、おじさん夫妻が少女のこれからのために手を差しのべてくれることになり、審判廷にも夫婦で出向いてくれました。事件の具体的内容はもう何も覚えていないぼくが今でもはっきり記憶しているのは、審判廷でおじさんを見つけたとき少女の口を衝いて出た言葉です。彼女は、おじさん夫妻の姿、おじさんたちがそこにいることに驚きつつ、おじさんに向かって、「なんだ、来たのかよ」と言いました。その悪態と言ってもよいような言い回しとは裏腹に、母親に捨てられたと思っていた少女の心を知っていたぼくには、少女の言葉は、「来てくれて、ありがとう」と聞こえました。それは、人生の幸いと災いの交差点で、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられた忘れられぬ経験でした。

 

小林先生は、その著書「本居宣長」の中で、「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例として」、「古事記」二十七之巻から倭建やまとたけるのみことの物語を引いています(第30章、『小林秀雄全作品』第27集345頁以下)。「西征を終え、京に還ってきた倭建命は、又、上命により、休む暇なく東伐に立たねばならぬ。伊勢神宮に参り、倭比売やまとひめのみことに会って、心中を打明ける話で、宣長が所懐を述べているこの有名な箇所」について、小林先生は、「安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の『心ばへ』であると言っていい古語の『ふり』がある、文句の附けようのなく明白な、生きた『言霊』の働きという実体が在る」、宣長の場合「訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る」とされ、「既所以思吾死乎は、」、すなわち、「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ」と、「所思看は、淤母オモ祁理ケリ」、すなわち、「此れに因りて思惟おもへば、猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけりとまをして、患ひ泣きて」と訓み、「祁理ケリと云ことを添フるは、思ヒ決めていさゝか嘆き賜える辞なり」との宣長の所懐について、「『いといと悲哀しとも悲哀き』と思っていると、『なりけり』と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい」と敷衍しています。

 

倭建命の心中と少女の心の間には千年の隔たりがあるかも知れませんが、「本居宣長」の該当箇所を味わったとき、思いもかけず、ふと浮かんできたのは、何年経ってもぼくの脳裏に焼き付いて離れない、「眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえ」たあの日の少女の姿と言葉でした。

 

小林先生は、「古事記」について、「人のココロで充たされた中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の『言問ひ』は、宣長のココロに迎えられて、『如比申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける』という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである」と言い切っています(第30章、同351頁)。

 

そして、小林先生は、倭建命の「言問い」の例を引く同じ頁の中で、「歴史を知るとは、己れを知ることだ」と、「本居宣長」のここまでを総括され、その意味合いについて、「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねていくやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい」と迄踏み込んでいます(第30章、同350頁)。

 

現在CDで発売されている「宣長の源氏観」と題するご講演の中で、小林先生は、冒頭、本居宣長の(時代の)学問について、「あれ道ですよ。人の道を研究したんです。だから、人間いかに生きるべきか、そういう問いに答えられないような者は学者ではなかった」。今の学問は、「一番人間の肝心なことには触れないですねぇ。ぼくらの一番肝心なことって何ですか。ぼくらの幸不幸じゃありませんか。ぼくらは死ぬまでにたった何十年かの間この世の中に生きてて幸福でなかったらどうしますか。この生きてるって意味が分からなかったらどうしますか、そんなことを教えてくれないような学問は学問ではないね」と切り出しています。人生の幸不幸の問題から決して眼を逸らすことのなかった先生は、「本居宣長」を通じ、人間経験の多様性を己れの内部に再生できるかどうかが分水嶺だと語ってはいないでしょうか。

 

これは最近のことですが、ぼくの法律事務所がある川崎では、ここ数年来在日コリアンをターゲットにしたいわゆるヘイトスピーチが横行し、休日に公道などで聞くに耐えない言葉や怒号が飛び交う事態が繰り返し発生しています。ぼくは必死になってヘイトしている人たちを見かけると、なぜこの人たちは、こんなことをするのだろう、何が彼らを突き動かしているのだろうといつも要らぬ深読みをしてしまうのですが、いわゆる排外主義や反知性主義などと呼ばれているものの中には、楽しく、素敵に生きて行ける本来の幸せな生活や日常とは真逆な生き方が蔓延しているように思われてなりません。

 

倭建命の「事問い」が、宣長のココロに迎えられ、千年の隔たりを超え、息を吹き返したように、想像する力の訓練とその積み重ねにより、人間経験の多様性を己れの内部に再生することができれば、その批判的な体験は、自己を反省させ、自己主張の自負は育ちようがなくなり、他人と自分とを同じ様に慈しみ合うことができ、詰まる所自分自身の人生にも自ずから真に平和で幸せな時をもたらすことができるのではないでしょうか。

たとえ、14歳の少女の聴いていたR&Bリズムアンドブルースと、ぼくの聴いていたR&Bがまったく違う音楽であったとしても、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられたぼくもまた、その時たしかに幸せでした。

(了)

 

歌の生まれ出づる処

昨年、年明け間もない頃、父を見送った。

遡ることさらに一年程前の年末、父は、母と一緒に居られる場所を確保できたことから、都内にある住み慣れた自宅を後にし、鎌倉山にある介護付きの住居型施設に夫婦揃って移り住んだ。しかし、3か月が経ち、新しい生活にも少し慣れてきたかと思っていた春先、体調を崩し、母が歩いて行ける距離にある病院へ父だけ移らざるを得なくなってしまった。そのため、父が入院してからというもの、横浜に暮らす私は、毎週鎌倉山に母を訪ね、その足で母と一緒に山道を下り、時間の許す限り父を見舞うという週末の生活が始まった。

などと書くと何か随分と孝行息子のようにも聞こえてしまうけれど、この親不孝者は、お見舞いなどといっても母を連れて行くだけのことしかせず、病室でも、いつも決まってキーボードを叩き始め、忙しいからと傍らで仕事を続けていた。最初に父が入った部屋は、私に付いてきた子どもたちが遊ぶことのできる程の、都内の病院なら3人は詰め込まれそうな広さだったが、一人部屋で、MacBookがあれば、十分な音量で音楽を響かせることができた(結局一年近く、病室へ通ったわけだが、音楽をかけていたことは勿論、電源を拝借していたことすら、注意されたことはなかった)。そして、病室の窓からは、手が届くのではないかと錯覚するほどの近さに桜が咲き、モノレールの音はしたが、その後には、いつも鳥の声が緑の風に運ばれていた。

父は、元々糖尿持ちで、晩年はインスリン注射を欠かせなかったが、入院してすぐの検査の結果、施設で体調を崩し誤嚥したのは、脳梗塞が原因だったことが解り、その時点で、口から栄養を摂ることはもはや叶わない状態にあることが医学的には確定した。もう十分ですとこちらから切り出したくなるほどに丁寧な女性医師の説明から、この後、父の身体がどのようになってゆくのか、母にも理解できた筈だが、少なくとも、その頃の父は、まだはっきりと自分の意志を伝えることができたし、母には、残された最後の治療である管で栄養を補給するという方法を採る以外の選択肢はなかった。母と父は、日々の大半の出来事が一反ほどの面積の中に収まっていた時代に、群馬の片田舎で幼馴染だった頃からの付き合いで、お互い寄りかかり、共に支え合ってきた文字通りの伴侶なので、もう零れ落ちるほど沢山の思い出を抱えていたとはいえ、いや、そうであるからこそ、これで終わりにはしたくないという気持ちになるのは自然なことだった。

当時、母は、すでに八十の坂を登っていたが、気が張っていたせいか、三つ違いの父とは比べものにならぬ気丈さでベッドの傍に立ち続け、横で音楽を聴きながら、普通に仕事をしている息子の分まで、ここで音が止まってしまったら、命が尽きてしまうかのように、父に向かって間断なく喋り続けていた。

医学的にはまったく絶望的な状況下で、春の日、母は、あたかも草木が成長するように、寝たきりになった父の身体にもまだ伸び代があると繰り返し言い聞かせていた。私は病室に差し込む夕映えの光で橙色になった病室に、いつの頃からか、決まって、ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein)の弾くショパンの全集を流すようになった。ノクターンから始まって、後期のマズルカに差し掛かる頃、また来るからと父に告げ、毎週病室を後にしていた。何か、しんみりしたいのだけれど、でも、余り湿っぽくない、そんな音楽を聴きたい気分だった。梅雨時、母は、雨が降れば、また草木も潤う、貴方の身体も蘇ると話しかけていた。盛夏の頃、私が娘に浴衣を着せて病室に連れて行くと、もっと涼しくなれば、もっといい気候になれば、貴方もきっと元気になると耳元で繰り返していた。小春日和の日曜日、何時間でも子どもたちとキャッチボールのできる病院の駐車場で、最初は長男が、しまいには、次男が、もういいと言い出すまで繰り返し空に向かってボールを投げた後、病室に戻ると、母は、私が子どもたちを連れ出したときと同じ姿勢で、硬くなった父の脚をさすっていた。

祖母が癌で闘病していた私の子どもの頃には、寝たきりになると、すぐに床ずれを起こし、それが治療以上に大変なことだったと記憶しているのだが、器具も工夫され、一定の時間ごとに姿勢を変える行き届いた昨今の医療のお陰で、父の身体はついに床ずれを起こすことはなかった。しかし、比較的太い血管に入れる管でも、届けることのできる栄養は成人が身体を維持するのに十分な量には満たない。父は下半身から次第に痩せ、冬の足音が聞こえる頃になると手を動かすことさえ難しくなってきた。

父は、上の階へ移動したが、変わらず手厚く気持ちの良い医療が提供されていた。寒さは増してきていたが、病室内は常に暖かく、外の様子などはベッドの上では感じることはできなかったに相違ない。それでも、母は、春になれば、また暖かくなる、草木も命も芽吹くと何度もなんども同じ言葉を重ねていた。年末になると、父はほぼ寝入ったままの状態となったが、母は、今度は、年が改まれば、気持ちも変わる、新しい年がもうすぐやってくると飽きもせず続けていた。年の暮れ、ノクターンを背景に、父に語りかける母の逆光のシルエットは、二つとない美しい画のように思われた。

 

小林先生は、その「本居宣長」の中で、「激情の発する叫びもうめきも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには耐えられぬように出来上がっているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれることはない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう」と、歌の生まれ出ずる瞬間を描写している《「本居宣長」第23章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、261頁》。

「『歌』『詠』の字は、古来『うたう』『ながむる』と訓じられて来たが、宣長の訓詁くんこによれば、『うたう』も『ながむる』も、もともと声を長く引くという同義の言葉である。『あしわけ小舟』にあるこの考えは、『石上私淑言いそのかみささめごと』になると、更にくわしくなり、これに『なげく』が加わる。『なげく』も『長息ナガイキ』を意味する『なげき』の活用形であり、『うたふ』『ながむる』と元来同義なのである」と《同258頁》。

 

小林先生は続ける。「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを耐え難いと思うのも、裏を返せば、これに耐えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕らえどころのない悲しみの嵐が、おのずからアヤある声の『カタチ』となって捕えられる」《同264頁》。

 

正直に言ってしまえば、私は、当初、母の言動は尋常ではないと思ったし、母の中で知性に匹敵する何かが失われてしまったのではないか、とすら考えた。しかし、今思えば、母は自分に言い聞かせてもいたのだろう。そうでもしなければ、やはり、母は耐えられなかったのだ。私が思春期の頃、母は私が父を批判することを滑稽なほど絶対に許さなかった。そこまで、頼り切っていた夫が今や話すことさえ儘ならない。そんな事実は遣り切れない。紛れもなく、自分のために、ただ黙々と励まし続ける母の言葉は、他人からすれば、ほとんど荒唐無稽であったかも知れない。けれども、淀みなく、淡々と、できるだけ抑揚をつけず、繰り返される母の発声の表現の真実さは、やがて、私に、母の言葉をとてもよくできた嘘なのだと納得させる力を持っていた。考えてみれば、私たちはいつも生活の中で言葉を交わし合っている。結ばれた二人には、末長くお幸せにと、遠方の友との別れ際には、いつまでもお元気でと、そして、年の瀬には、どうぞ良いお年をと。母の発したものは、それと少しも変わらない。

 

昔私が手を引かれ通っていた幼稚園では、登園の時間に毎朝シューベルトの「ます」が流れていた。そのため、年間聞かされ続けた私は、不意に何処かであの歌曲の主題に出くわしたりすると、未だに身体が何かを思い出したような不思議な感覚に襲われるのだが、ショパンのノクターンもまた私に特殊な感情を呼び起こす特別な音楽になってしまった。

 

小林先生は、同じ箇所で、再び「あしわけ小舟」から本居宣長の言葉を引用している。「カナシミツヨケレバ、ヲノズカラ、声ニアヤアルモノ也。ソノアヤト云ハ、哭声ノ、ヲヽイヲヽイト云ニ、アヤアル也。コレ巧ミト云ホドノ事ニハアラネド、又自然ノミニモアラズ、ソノヲヽイヲヽイニ、アヤヲツケテ、哭クニテ、心中ノ悲シミヲ、発スル事也。モトヨリ、外カラ聞ク人ノ心ニハ、ソノ悲シミ、大キニフカク感ズル也。カヤウノ事ハ、愚カナル事ノヤウナレドモ、サニアラズ」《同263頁》。

 

所謂「好楽家」からすれば、ただの通俗名曲の一つに数えられるショパンのノクターンも、私にとっては、あの日々の母の声のアヤそのものだった。父の一周忌を終えた今でも、ルービンシュタインの紡ぎ出すピアノの音は、私の中で、夕映えの橙色の画に重なり、人生のように美しく響く。インテンポに弾くほど、響きは却ってしみ入ってくる、と聴こえるのは、私の空耳なのかも知れないが……。

(了)

 

人が救われるとき―小林秀雄と弁護士の仕事

「この話が本当だったら、これは酷い話だと思います」と彼女は言った。彼女は司法修習生、司法試験に合格し、弁護士の卵として裁判官や検察官、弁護士について研修を受ける身分で、ぼくもしばらくの間、指導担当の弁護士として彼女と行動を共にした。冒頭の発言は、ぼくの事務所に来た彼女に最初に見てもらった、ある重篤な女性被害者の事件の記録を読み終えた後の彼女の第一声である。

ぼくは、彼女の感想を耳にして、失敗をしない人の模範的な回答だと思ったが、「この話が本当だったら」という言い回しには、身体の方が先に反応してしまい、咄嗟に言葉が口をついた。「この間まで裁判官にくっついて、刑事裁判を、そして、被告人をずっと観察していたから仕方ないのかもしれないけど、そんなんじゃ、弁護士にはなれないね」。

普段、弁護士として、法的な紛争を抱えた方々、人生の非常に厳しい局面の中で深刻な悩みに捕まえられている方々の相談を受け、何らかのご縁で事件として受任するまでに至った場合、当然事件を処理することになるので、交渉であれ、裁判所に訴え出るにしても、最終的に、その成果というか、厳然として結果がでることになる。そして、この事件処理の結果には、これまた当然、通り相場から考えて満足できる水準であるときと、そうではないときがある。ところが、そこから先が問題なのだが、この結果の優劣は、依頼者の方の満足や充実とは必ずしも一致しない。普通に業界の常識で考えて充分な結果、たとえば、相当な賠償額を認める判決が下されても、満足されないどころか不満を抱えたままに留まる方もいれば、反対に、ぼろぼろだと云ってもよいような成果しか得られなかったにも拘わらず、ぼくの仕事に感謝さえされたり、実際に立ち直っていったり、前向きに人生をやり直されていく、もう一度人生の現実に立ち向かっていく気力を回復される方もいる。

この眼に見える結果だけが人を支えるのではないという不思議は、もう20年も前に弁護士になったときから感じていたことで、あるいは弁護士になるもっと以前から、それこそ小林秀雄先生の著作を読んだり、音楽でも何でも一流の芸術作品に触れたような機会にうすうすは感じていたことなのかも知れないのだが、弁護士という仕事を日々積み重ねていく中で、依頼者の満足、もう一度明日に懸けてみようと思って貰えるまでに気持ちが持ち上がること、その切実さが年を重ねるごとに身にしみて感じられるようになってきている。

そして、どのように依頼者に寄り添えばよいのかを考える上で、殊の外大切だと思えるようになってきたこと、あるいは知らぬ間に自分が実践していたことは、依頼者でも、関係者でも、その人の語る出来事や物語を有りの儘に受けとめるということである。この点で、同じように事件を扱っていても、白黒を決める立場にある裁判官とは、代理人弁護士の場合、事象の捉え方が決定的に異なるように思われる。裁判官は、刑事事件なら有罪か、無罪か、本当にやったのかどうかを決めなければならないし(人間追い込まれ切羽詰まると奇想天外なことまで言ったりしたりするもので、普段被告人から様々な突拍子もない言い訳を聞かされている刑事の裁判官などは法廷で被告人に対して「お前にだけは騙されないぞ」というような顔をしているものである)、民事事件でも、原告を勝たすのか、被告を勝たすのか、証拠に基づいて事実があったのかなかったのかを(本当は自分は全能ではないにも拘わらず)あたかも空の上から過去に現場を俯瞰していたかのように、あるいは、残された映像を再生するかのように、つまりはたった一つしかない(客観的)事実を認定していくことになる。しかし、実際には事件で関係者の意見や証言すら食い違うようなことは日常茶飯事であるし、そもそも事実が一つだと考えることの方が無理があって物事の実態に合致しないようにしばしば感じられる。このように事実関係が一つではない、少なくとも、その感じ方、現れ方が一つではあり得ないことを前提にすると、一層今人生の問題に悩んでいる一人一人が語るその人にとっての真実の物語を有りの儘に受けとめる、その真実の体験を、(他人である自分には難しいことではあるものの)むしろ、こちらの想像力を一生懸命働かせて、本当にあったこととして合点すること抜きには、今目の前で語ってくれているその人と交わることはできないのではないか。その人と本当に交わることができなければ、その人の魂は休まらないのではないかと痛切に思うようになった。

「思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である」とは「本居宣長」の中の一節だが(『小林秀雄全作品』第27集117頁)、過去の出来事について、自己の体験と同様、他人の体験を真実として受けとめる、そのために精一杯想像力を働かせるという心法は、(多くの場合に一つしかないと考えられている)客観的外形的事実からは離れて、いわば心の中に想像理に真実の別の物語や世界を創り出すことを可能にする。たとえ過去の出来事であっても、どの角度からみても変りのない銅像のように動かないものではなく、思い出そうとする人の心の有様ひとつで右にも左にも転がり得るのであるならば、私たちが共有しているこの時間や、これから起こるはずの出来事については、尚更心の持ちよう一つで想像裡に絵を描き出すことが可能となる道理ではないか。このよく思い出すという心法の鍛錬を積み、よりよく人と交わり、実人生という実践の中で、せめて私に語りかけてくれるその一時だけでも他人のこころに平和をもたらしたいと願っている。

「弁護士にはなれないね」とは「弁護士の仕事はよく務まらないね」という意味だったが、その後彼女は弁護士になった。「弁護士になった」とは勿論ただ弁護士資格を得たという意味ではない。共感力の強い、人の話に寄り添う、良い弁護士になったという意味である。それがぼくのところにいた数か月間の修習の成果であればとても嬉しい。

(了)