和歌と言葉

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み込んでゆく中で、ずっと注目していることの一つに、和歌と言葉についての次の文章がある。

「和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツゞクル道也」という彼(宣長)の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりとした言葉と受取らねばならない。(第二十二章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.252、9行目~)

 

この「和歌ハ言辞ノ道也」とは、どのような意味を持っているのだろうか?

これを問いとして自答を追求していこうと思う。上に引用した少し後に、次の文章が書かれている。

私達の現実の性情は、変異して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生をけ、死ぬ事はないだろう。「心ニオモフ事」は、これを「ホドヨクイヒツゞクル」ことによって死に、歌となって生れ変る。(中略)宣長は、こう言っている事になる、―もし「心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツゞクル」詠歌の手続きが、正常に踏まれ、詠歌が成功するなら、誕生したその歌の姿は、「マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也」と。(第二十二章、同p.252、12行目~、)

確かに、私達の現実の感情や思いは移ろうていく。例えば、悲しみが残り続ける場合も、その悲しみの内実は固定されたものではなく、思いが強まることも含め、時を追って変化していくだろう。それゆえ、その時の思いは移り変わって、やがて消滅するが、歌を詠むことで新たな形になって生を受けるというのは素直に納得できる。

難解なのは、宣長が「歌は言辞の道であって、性情の道ではない」、言わば歌は言葉の道であって思いの道ではないと述べると同時に、「誕生したその歌の姿は、『マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也』」と述べていることである。

これは、次のように考えられると思う。心というものは移ろいやすく、そのまま心の中を覗いたのでは、自らの心中がどのような状態であるかを認識することはできない。むしろ、良い歌になるよう言葉を選ぶこと、また歌としての語調を整えることに集中して努力を尽くせば、できあがった歌は心の真実が映し出されたものになっている。これが、宣長の考えていたことと読み取れる。

さらに、小林秀雄さんは次のような力強い文章で書いている。

まだ「歌の実」という表現性を得ない「実の心」の単なる事実性などは、えて「妄念」とか「散乱した心」とか呼ぶがよろしい、と宣長は言うのである。

「情は自然也」と言っただけでは足りない。「自然と求めずして在る」心は、そのままでは、「心散乱シテ、妄念キソヒオコ」る状態を抜けられるものではない。言葉という「手がかり」がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思う心を「ほどよく言ふ」では言い足りない。一歩すすめて、乱れる心を「しづむ」「すます」「定むる」と言うべきだ。「石上いそのかみ私淑ささめごと」では、「むねにせまるかなしさを、はらす」と同じ意味合で「はらす」という言葉が使われている。悲しみを詠むとは、悲しみを晴らすことだ。悲しみが反省され、見定められなければ、悲しみは晴れまい。言葉の「手がかり」がなくて、どうしてそれが人間に出来よう。(第二十二章、同p.257、6行目~)

 

ここで、筆者自らを振り返ってみると、苦しいことに出会った時には、自然と言葉を探しはじめ、心の内で言葉を使って自分との対話をしていた。歌を詠んでいたわけではないものの、いつも自分自身との対話によって、つらい心境を整え心の平衡をなんとか得ていたことが思い起こされる。

いにしえの時代に、言葉とは単に人と人との連絡を担い社会を形作るためのものだけではなく、自らの心や人の心を認識するために必須のもので、言葉の手がかりがあって心の内の認識が初めてできる、むしろそこが一番大事だと宣長が見抜いていたのは、素晴らしい慧眼である。

和歌が長い歴史を通じて詠み続けられ、現代においても短歌という形で受け継がれている理由のひとつは、この歌を詠むことに自らの心を認識する作用があるからかもしれないと思う。

 

小林秀雄さんは、和歌と言辞の関係についての宣長の考え方に触れ、次のように書いている。

何故、「タダ心ノ欲スルトヲリニヨム、コレ歌ノ本然ナリ」という単純明白な考えに立ち還ってみようとしないのか。其処そこから考え直そうという気さえあれば、「歌の道」の問題は、「言辞の道」というその源流に触れざるを得まい。そうすれば、歌とは何かという問題を解くに当り、「うたふ」という言葉が、どういう意味合で用いられる言葉として生れたかを探るところに一番確かなりどころがあると悟るだろう。言語表現というものを逆上って行けば、「歌」と「たゞの詞」との対立はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語をつかむことが出来るだろう。この心の経験の発見が、即ち「うたふ」という言葉の発明なら、歌とは言語の粋ではないか、というのが宣長の考えなのである。(第二十三章、同p.260、16行目~)

ここまで読み進めてきたことを踏まえれば、「和歌ハ言辞ノ道也」とは、どのような意味を持っているのかという問いについて、自答を書くことができると思う。

「和歌ハ言辞ノ道也」とは、和歌は言語の精髄であるということ。即ち、和歌を詠むに当たって、心に思うことを、事実にとらわれることなく、こういう歌に表したいと心が欲する通りに、言葉の「文(あや)」、「姿」が良きものとなるよう、徹底的に言葉をつかみとって、和歌を形作っていく。そうすると、生れた和歌には、自分が本当に思っていた心が映し出されており、歌を詠むことによって自分の内で騒がしく散乱していた妄念が静まり、心の在り方が定まってくる。そして、詠歌によって自分の内面の真実を知ることができる。このような意味合と言える。

 

これまで和歌と言葉について詳しく自問自答を進めてきたが、和歌の実例をあげての説明までは『本居宣長』に記述されておらず、筆者が述べた文章も、やや抽象的なものとなっている。

それゆえ、あえて筆者が和歌と短歌を一首ずつ選び、説明の補強を試みたいと思う。

 

いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜のころもを 返してぞ着る

(小野小町 「古今和歌集」 巻十二 恋歌二 554番歌)

 

一説によれば、小町の時代には夜具を裏返して着ると、夢で想い人に会えるという俗説があったそうだが、実際に小町が夜具を裏返して眠ったのかは問題ではないだろう。想い人が恋しく会いたくてたまらない心境を、気高い女性が俗説に頼ろうとまでする心根に託し、「むばたまの夜」という黒髪を思わせる言葉を選んで、心の内の苦しさせつなさを見事な和歌にしている。元々の、乱れてやまないであろう小町の心の中が、言葉を駆使することで形作られ見定められた、と言えるのではなかろうか。

 

馬を洗はば馬のたましひゆるまで人はば人あやむるこころ

(塚本邦雄 歌集『感幻樂』 昭和44年)

 

馬を洗うのならば魂がえるほど徹底して、ひとを恋するなら殺してしまうほど一途な心で、という大胆な比喩と対比を使っての短歌である。過剰な表現にもかかわらず心に残るのは、「洗はば」「はば」というリフレインを含む言葉、「たましひゆる」「人あやむる」の並立で生まれる歌全体の透明感が、良い響きを成しているからだろうと思う。この昭和時代の短歌も、作者の元々の心情そのものではなく、言葉の選択や並び、音の響きに至るまで工夫を凝らしたがゆえに、作者の真の想いが形作られたと言えるのではなかろうか。

 

小林秀雄さんの『本居宣長』には、宣長の考えを批評する形で、言葉が人に、とくに言葉が人の内面に対して、どのような働きをしているかの深い考察が籠められている。その考察は、「自分を知り、より良く生きるには」という答えの出ない問いに対する大きなヒントである、と改めて感じている。

(了)

 

紫式部の創造力

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み込んでゆく中でずっと注目し、問いとしても抱え続けている文章がある。それは、次の言葉である。

 

「源氏」を成立させた最大で決定的な因子は、この、言語による特殊な形式に関し、この作家に与えられた創造力にあるのであり、これに比べれば、この作家の現実の生活や感情の経験など言うに足りない、そういう、今日でもなお汲み尽す事の出来ないむつかしい考えが、宣長の「源氏」論を貫き、これを生かしているのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.205、16行目~、「本居宣長」第十八章)

 

この、紫式部という作家の創造力とはどのような力なのだろうか?

これについて宣長はどのように考えていたと、小林秀雄さんは述べているのか。

難しい問いだと思うが、これに対する自答を追求していこうと思う。

 

『本居宣長』から自答のヒントとして私が一番に選んだのは次の箇所である。とても重要と思うゆえ、いささか長い引用となる。(同第27集p.164、3行目~、同第十五章)

 

「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、 物の哀をしるなり」と言う。(中略)「ココロ」が「ウゴ」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事はかなわぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。

引用はさらに続く、

宣長が、「源氏」に、「人のココロのあるやう」 と直観したところは、そういう世界なのであって、これは心理学の扱う心理の世界に還元してしまえるようなものではない。もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物とココロとの緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。(同p.164、3行目~、第十五章)

 

私がまず着目したのは、「心にあぢはふ」たことを、感じ取った内面から「生き生きと表現」することができる、しかも語るという形で「現に、誰もが行っている事」、「殆ど意識せずに、勝手に行っている」というくだりである。これは、生き生きと表現するための根源となるエネルギーは、「よろづの事を、心にあぢはふ」ことであって、それが誰もがおこなっている語りという表現へと向かわせる、ということだろう。

ここから、世の人の振る舞いなど「よろづの事を、心にあぢは」ひ尽くす力が、式部の創造力の一つの要素である、と言ってよいであろう。

次に、「内観による、その意識化が、遂に、『世にふる人の有様』という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を『みるにもあかず』と観ずるに至った」という一文である。式部は、実際に見聞きして起きたことを直に書いたのではなく、「『世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる』味い」を心眼に描き出して、物語として書き記したことが、大事なのだ。それゆえ、「心にあぢはふ」たことを内観による意識化によって、「世にふる人の有様」の物語として語りたくなるほどに、思いを充分に育て熟成する力がまた、式部の創造力であると受け取れる。

そして、「この思いを、表現の『めでたさ』によって、秩序づけ、客観化し得たところ

を、宣長は、『無双の妙手』と呼んだ」との文である。「無双の妙手」、今の言葉で言えば、並ぶもの無き優れた技の持ち主、とは何と強い言葉であろうか。

これにより、熟成した思いとしての物語を、詞花言葉を徹底的に駆使して「人のココロのあるやう」を読者に語りかけるように、言葉の世界へ描き出す力が、三つ目の式部の創造力であると言えよう。

即ち、紫式部の創造力とは、まず、人の振る舞いなど「よろづの事を、心にあぢはひ」尽くす力。次に、このあぢはひから「ココロ」が「ウゴ」き内観による意識化によって、「みるにもあかず」と思わず語りたくなるほどに、思いとしての物語を充分に育て熟成する力。そして、熟成した思いとしての物語を、詞花言葉を徹底的に駆使して「世にふる人の有様」、人のココロのあるやう」を読者に語りかけるように、言葉の世界へ描き出す力。この三つの力が合わさったものと読み取れる。

ところで、式部の創造力と読み取った三つの力は、順を追って発揮されるものなのか、あるいは順序といった区別はないものなのだろうか。

先に『本居宣長』から引用した箇所を再読すると、「事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい」とある。さらに、宣長が「源氏物語」に「人のココロのあるやう」を感じ取った世界は、「根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物とココロとの緊密な交渉が行われている世界」と書かれている。これを受けて、式部の創造力である三つの力は、順番を区別されることなく同時に発揮されるもの、と言えるであろう。

ここで、宣長が「無双の妙手」とまで記した、言葉の世界に物語を描き出す力について、『本居宣長』からもうひとつ引用し少し補強の考察をしたい。

 

(宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見た。(同p. 206、1行目~、第十八章)

 

現実に触れて感情が動いても、それは「機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」ゆえに、「作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない」と言う。これは、古来より詞花言葉を駆使して物語を創り出す作家が現れ、また物語が読み継がれていく、人々の行為の源流を示唆しているように思われる。

心を有して生きてゆく“ひと”は、感情や思いを、詞花言葉を使って物語るなど何らかの表現をおこなって明瞭化し意味を問い、その表現を多くの人と共有し、また受け継いでいかなければ、生きがいを持って生きてはいけない存在なのではあるまいか。

そう考えると、本稿の初めに引用した「『源氏』を成立させた最大で決定的な因子は(中略)、この作家に与えられた創造力にあるのであり、これに比べれば、この作家の現実の生活や感情の経験など言うに足りない」という小林秀雄さんの言葉が、たいへん説得力を持って感じられてくる。

繰り返しになるが、感じ尽くす力、感じた思いを熟成させる力、それと一体となって詞花言葉を徹底的に駆使して語る力、が「人のココロのあるやう」を映し出す物語の創造力であり、ここまでの創造力を発揮し得た稀有の人物が紫式部なのだろう。

 

現代の我々も、物語ることはあるだろうが、ともすれば、小洒落た言葉を使うような狭義のレトリックに終始してしまっていないだろうか。

ときには、「驚くべき永続性」(同p. 139、後ろから5行目、第十三章)を有する古典を紐解き、記されている詞花言葉に真摯に向き合い耳を澄ますならば、その作者と出会い、さらに創造の技に触れることができて、我々自身が言葉を使い人々と共有する行為も真に深みを増していくのではなかろうか。それは結局のところ、手応えを持って生きていく、良く生きることに繋がっていくと思うのだ。

(了)

 

人が生きることと言葉

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み進めていく中で、人が言葉を使うことを巡る次の箇所が目に留まった。

 

この人生という主題は、一番普通には、どういう具合に語られるのか。特に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。宣長は、「源氏」を、そう読んだ。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.276、16行目~、「本居宣長」第24章)

 

初めて読んだ当初は、この「人のココロのあるやう」が見えて来る人生の語られ方について、言われてみればそのような気もするなあ、という風にしか読みとれなかった。しかし日を追うごとに、いわば私を捕えて離さない。ただ一介の読者に過ぎぬ私が、このシンプルで直截な文章に魅了されているのだから、よほど大切なことがその奥に在るのではないか。

そもそも、宣長はなにゆえに、このような認識を持つに至ったのだろうか?

脳裏に浮かび上がった、この問いについて自問自答の山登りを試みようと思う。

 

自問は、「特に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る」という認識に、なにゆえに宣長は達することができたのだろうか、である。

この問いのヒントになろうかと思えるのは、宣長が「源氏物語」から受け取った、人が言葉を使う仕方について、小林秀雄さんが書いている次の文章である。長いが大事な引用である。

 

「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」、こんなわかり易い事はない。生活経験が意識化されるという事は、それが言語に捕えられるという事であり、そうして、現実の経験が、言語に表現されて、明瞭化するなら、この事はおのずから伝達の企図きとを含み、その意味は相手に理解されるだろう。「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共」、私達は、そうせざるを得ないし、それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う。私達は話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何をいても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。「源氏」は、極めて自然に、そういう考えに、宣長を誘った。(同p.276、2行目~、第24章)

 

人は実生活の何かの目的のために言葉を使うだけではない。どうにも人に伝えたくなって語り出す、あるいは思わず語ってしまうことも多々あるではないか、と書かれている。日常の目的に沿って使う言葉は、多くの場合に目的を果たす短時間で役割を終えて心にとくに残ることは少ない。むしろ、無目的に語られる話の方が、語る人、聴く人、双方の内面、精神生活に強く長く影響することが多いと、私は実感する。また、「生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しは」無いのも確かである。

では、どうにも人に伝えたくなることは何かと言えば、「見るにもあかず、聞にもあまる」ことで、それは「心にこめがたい」からだ、「私達は、そうせざるを得ないし、それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う」と書かれている。

これらのことを考え合わせると、宣長は、「源氏物語」の熟読によって、人々が「心にこめがた」く語り出すであろう、生きていく上での切実な出来事が描かれていることに気づき、「人のココロのあるやう」である人生そのものが「源氏」から感じとれたのだろう。それゆえに、宣長は、「ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る、そういう具合に語られる」という認識に達したのだと言えよう。

 

しかし私には、まだ以下の点が腑に落ちない。それは、なにゆえ人は「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」と語り出す、そのような行動を取るのだろうか、という点である。これは宣長の認識であり、小林秀雄さんも「こんなわかり易い事はない」「それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う」と書いているのだが、私にはどうも合点がいかなかった。

この疑問を考えていく中で、以前より気になっていた、少し前の章の宣長の言語観についての文章に注目し、引用する。

 

私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」するのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が「ほころび出」ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生れ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。(同p.261、8行目~、第23章)

 

「言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない」とは、驚くべき深遠な認識である。

加えて小林秀雄さんは、「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上って」おり、「内部に感じられる混乱を整調しようと」すると書いている。人の心身は、そのように出来ている、そういう構造なのだと宣長は言っており、小林秀雄さんも同じ認識である、と考えてよいであろう。

この認識からすれば、「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」と語り出す、そのような行動を人が取るのは、至極自然と言えよう。

そして、「ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る」のも自然のことであって、その起源は人間の心身の出来に由来しているとも言ってよいであろう。

 

さらに小林秀雄さんは、悲しみが声となるところの宣長の考えに触れ、次のように書いている。

 

誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずからアヤある声の「カタチ」となって捕えられる。(同p.264、12行目~、第23章)

 

生きて行く途上で出会った、悲しみや心が震える思いを人は、言葉はもちろんのこと、何かを表すことで堪えがたくともそれを堪えようとし、整えた「カタチ」として人々に伝えようとする。伝えられた人々は、それを我がことのように分かち合う。人はそういう存在だと言っているのだろう。美しいことだと思う。それは、いわゆる文芸のみならず、今日の芸術と呼ばれる多様な表現の源泉ともいえるのではないだろうか。

そしてもうひとつ、小林秀雄さんのこの文章から、とても大切なことが見えるように思う。

「実情の嵐の静まるのを待つ」、「叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つ」、その「待つ」時に起きるものは沈黙である。心が揺さぶられる経験を、人が心身の出来に従い、言葉にするなど「カタチ」に整えるには、その時間の長短は様々であれ、沈黙の時間が必要だと示唆しているように思う。

もちろん、ただ無為にボーッと沈黙していても「カタチ」は生まれない。適した言葉が見つからないが、感受性と認識が充実した沈黙の時間と言ったらよいか、そのような沈黙が、人の心を打つ言葉など「カタチ」を生むには必須なのではなかろうか。

そして、現代に生きる私達は、このように充ちた沈黙の時間というものに、気づいているのだろうか。

 

ここまで、「ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る」という宣長の認識を問うことから始めて、人が生きていく途上で出会う心を震わす経験、人生そのものと言ってよい経験と、生きた言葉の生まれ方についての考察にまで至った。

人は人生で、過酷な運命を逃れられないことも多い。にもかかわらず、生きて手応えある道を進むために、言葉が与えられたのではなかろうか、ということも想像してみる。

生きて出会ったことの情感を充全に認識し、沈黙を経て言葉へと整え、表出する。この、人間の心身の出来、構造に根差した行いをしていくことで、生きる旅路に時に応じた青空が覗くのではなかろうか、と私は思う。

(了)

 

感性の門より入り、又同じ門より出づる

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み進めていく中で、宣長の「源氏物語」の読み方を巡る次の箇所が目に留まった。

 

「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したというのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。(『小林秀雄全作品』第27集p.196、2行目~、「本居宣長」第18章)

 

宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積もってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通して見せたのである。(同p.196、8行目~、第18章)

 

一読した時、私には謎めいた文章に感じられてしまった。「詞花言葉を翫ぶ」という古語は、現代風に言えば、表現の見事な言葉と文をでるということであろうか。しかし、「解決するというような性質の問題ではなかった」「宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積もってみた人」等、含蓄深い文言が並び、私には自問へと切り込む入り口さえ見つからない。

そこで、「詞花言葉」に着目して読み進めると、「源氏物語」の研究者達と宣長の読み方とを対照させて、小林秀雄さんは次のように記している。

 

研究者達は、作品感受の門を、素早く潜って了えば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行って了う。それを思ってみると、言ってみれば、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る。(同p.199、3行目~、第18章)

 

この「詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿」という文章の、感性の門から出て来る宣長の姿とは一体どの様なものなのだろうか。

本稿では、これを自問として追及する事で、小林秀雄さんが『本居宣長』第18章に籠めた本質を、いささかでも理解していきたい。

 

始めの一歩として、この章で小林秀雄さんが、宣長は「源氏物語」を、「ただ、歌をちりばめ、歌詞によって洗煉されて美文となった物語」「そういうもののうちの優品」と考えてはいなかった、と書いていることに注目したい。読み進めると、次のような記述が現れる。

 

この、二人(源氏君と紫の上)の意識の限界で詠まれているような歌は、一体何処から現れて来るのだろう。それは、作者だけが摑んでいる、この「物語」という大きな歌から配分され、二人の心を点綴する歌の破片でなくて何であろう。そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼(宣長)の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を指すものと感じられてくる。(同p.202、4行目~、第18章)

 

これは、宣長が、紫式部の創作意図は、歌人が一つの和歌を作る時と同様の態度で「源氏物語」を書いていると見抜いた、「源氏物語」の総体が言わば大きな和歌なのだ、との認識に達したという事であろう。

なにゆえに宣長は、かくも深い認識まで達することができたのだろうか。それは、やはり本論の冒頭にも引用した「詞花言葉を翫ぶ」態度であり、宣長は、「詞花言葉」と現実世界との対応関係を一旦切り離し、言葉と文から直接に現れる情感を能う限り受け取る事ができたゆえ、ではなかろうか。

ならば、作品に感性の門から入り、知性の限りを尽くして又同じ門から出て来る時、その手に携えているものは、「詞花言葉」を翫び、即ち言葉の世界を味わい尽くした結果の認識であって、その見事な事例が「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という宣長の言葉なのだと言えよう。

思うに、「詞花言葉」は、その精緻な連なりから、何も介さず直接に人の心に訴えかけて来る、そういう役割が備わっているのではなかろうか。

さらに、小林秀雄さんは次のように書いている。

 

歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴することを確信したのである。(同p.207、7行目~、第18章)

 

宣長は、紫式部の創作意図は、歌人が一つの和歌を作る時と同様の態度で「源氏物語」を書いており、「源氏物語」の総体が和歌と見なし得るとの認識なのだから、この引用文に書かれている歌人を式部とも見なすことができよう。また、「宣長が、『式部が心になりても見よかし』と念じて悟った」のだから、作者・式部と読者・宣長は同じ認識を共有していると言ってよいだろう。すなわち、この引用文で述べられている「歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり」は、式部また宣長も同様の認識であったと言える。

ここで注意すべきは、同様の創作意図とは言え、和歌と「源氏物語」に通底する本質的なものとは何か、ということである。この通底する本質的なものこそが、「詞花言葉」であろう。

 

これらの事より、宣長の読みの最初にあるものは「詞花言葉」であり、「詞花言葉の方から現実に向かって歩き、現実を照らし出す道を」進んだのではなかろうか。

そして、宣長が感性の門から出て来る姿とは何かとの自問に対して、それは、宣長が「詞花言葉の方から現実を照らし出す道を進み」、物のあはれを知るに至った姿である、と言えよう。

 

ここで、さらなる問題に気付かれた方も多いのではなかろうか。

それは、「詞花言葉の方から現実を照らし出す道」、また「歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは一体、何を意味するのか、という問題である。

たとえば、和歌について言えば、書かれている具体的な風物や人の言動行動を思い描いてから、歌としてどのように表現されているかに向かう、即ち、現実から歌へ向かう、現実から「詞花言葉」へ向かう、というのが世間一般に思われている認識ではないか。この問題は難題であり、以下の論は私の現状の「仮説」である。一例に、優れた和歌を一首とりあげてみよう。

 

もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる 魂かとぞ見る

(『後拾遺和歌集』1162番、和泉式部)

 

歌の大意は、あなたが恋しくて思い悩んでいると、沢の蛍も私の身体から迷い出て、あなたに飛んでいく魂かと思えてくる、ということであろう。

ここで歌の読者が、この現代語意訳を歌と古語にあてがって事足れりとするならば、それは現実から歌へと歩こうとする行為だろう。では現実から歌へと歩もうとすると何が起きてしまうかと言えば、現実の場面との結びつきに強く縛られて、歌の「詞花言葉」に溢れている情感が、具体的な場面に限定されたものへと縮んでいってしまう。そして、本来の深い情感を自ら突き離し、認識が浅いものとなってしまうのではないだろうか。

そうではなく、現実との縛りをいったん解き放ち、歌の「詞花言葉」そのものを愛でるように享受して、そののちに現実の世の中を見渡すならば、「詞花言葉」に溢れる情感が現実の場面に限定されることなく、その深さのままに世や人生のあちらこちらに存在する事、が認識できるように思える。

即ち、「詞花言葉」から現実に向かって歩き、「詞花言葉」から現実を照らすならば、その逆では起こらない、情感の普遍性が立ち現れるのではなかろうか。

さらには、「詞花言葉」に溢れる情感そのものを享受することで感性が鋭敏になり、現実の世にある多様な情感も認識できてくるように思う。

ここでは和歌を例にとって論じたが、宣長は「源氏物語」の熟読にあたり、まさしく「詞花言葉」から現実に向かって歩き、「詞花言葉」から現実を照らす道を進んだゆえに、他の者では困難であった、物のあはれを知るに至る事ができたのではなかろうか。

 

ここまで、「感性の門より入り、又同じ門より出づる宣長の姿」、を巡って考察してきた。

振りかえってみると、それは「詞花言葉」の姿かたちを探り、また「詞花言葉」の振る舞いを探る事へと、繋がっている。「詞花言葉」の世界は、極めて広大で深く、文芸の根幹である。

冒頭に『本居宣長』から引用し、私が謎めいて感じられると述べた、小林秀雄さんの言葉は、少しは霧が晴れたものの依然として峰のように眼前に在る。

さらに『本居宣長』との自問自答を続け、時には歌の創作をする中で、これからも「詞花言葉」を巡っての魅力溢れる旅をしていきたい。

(了)

 

物語を読む態度

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み進める中で、次の箇所に目が留まった。

 

私は、彼の「源氏」論を、その論理を追うより、むしろその文を味う心構えで読んだのだが、読みながら、彼の文の生気は、つまるところ、この物語の中に踏み込む、彼の全く率直な態度から来ている事が、しきりに思われた。(『小林秀雄全作品』第27集p.173、6行目~、「本居宣長」第16章)

 

「彼」とは本居宣長、「物語」とは「源氏物語」のことであるが、宣長の「物語の中に踏み込む、全く率直な態度」とは一体どのようなものなのだろうか。これを“問い”として、拙いながら追いかけてみよう。

文章に生気が満ちる所以だと言うのであるから、物語を読む態度は大事な事に違いない。それにしても、具体的に何を指し、そしてどのような意味があるのだろうか。

小林秀雄さんが宣長の「率直な態度」に言及したのは、「蛍の巻」の源氏と玉鬘との会話に宣長が着目したことから発している。

 

会話は、物語に夢中になった玉鬘をからかう源氏の言葉から始まる。「あなむつかし、女こそ、物うるさがりせず、人にあざむかれんと、生れたるものなれ」。(中略)物語には、「まこと」少なく、「空ごと」が多いとは知りながら読む読者に、「げに、さもあらんと、哀をみせ」る物語作者の事を思えば、これは、よほどの口上手な、「空言をよくしなれたる」人であろう、いかがなものか、という源氏の言葉に、玉鬘は機嫌を損じ、「げに、いつはりなれたる人や、さまざまに、さもくみ侍らん、ただ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」とやり返す。(同p.142、15行目~、第13章)

(源氏は)これは、とんだ悪口を言って了った、物語こそ「神代より、よにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、ただ、かたそばぞかし、これらにこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給」(同p.144、11行目~、第13章)

 

ここで小林秀雄さんは、「源氏物語」、その作者の紫式部、物語中の源氏、同じく玉鬘、評者の宣長、この五者の言わば、信頼関係に注目している。

「会話の始まりから、作者式部は、源氏と玉鬘とを通じて、己を語っている、と宣長は解している。と言う事は、評釈を通じて、宣長は式部に乗り移って離れないという事だ」(同p.143、6行目~、第13章)

宣長は、源氏と玉鬘の会話に作者式部の心の内が現れていると解し、また式部に全き信頼を置いて作者の内心を摑み評釈した、というのである。

それゆえ、「玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈」(同p.143、12行目~、第13章)、「先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である」(同p.143、15行目~、第13章)とある。

ここから読めてくること、それは、玉鬘の物語への無邪気な信頼と同様に、宣長は玉鬘になりきり「源氏物語」を無邪気な信頼感で愛読し、それは作者式部の物語観を味わうことと同じであった、と推察できる。

さらに小林秀雄さんは、「源氏物語」の読みについての宣長の言葉を評して以下のように書く。

 

「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし」(「玉のをぐし」二の巻)という宣長の言葉は、何を准拠として言われたかを問うのは愚かであろう。宣長の言葉は、玉鬘の言葉と殆ど同じように無邪気なのである。玉鬘は、「紫式部の思へる心ばへ」のうちにしか生きていないのだし、この愛読者の、物語への全幅の信頼が、明瞭に意識化されれば、そのまま直ちに宣長の言葉に変ずるであろう。(同p.178、3行目~、第16章)

 

玉鬘の言葉も宣長の言葉も、無邪気であって、玉鬘の言葉は十全に物語を信頼した宣長の言葉に成り変わっている、と言うのだ。

此処まで読んできた小林秀雄さんの言葉から、本稿の始めの”問い”に対しての答えが、ほぼ姿を現したと思う。

宣長の「物語の中に踏み込む全く率直な態度」とは、一言で言えば、物語を信頼する「無邪気な態度」と考えてよいであろう。

 

では、物語を読む時に、無邪気な態度で読むことが、なぜ大切なのだろうか。

これを考える大きなヒントとして、小林秀雄さんが物語の根幹ともいうべきものに触れた文章を引く。

 

物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。(同p.181、5行目~、第16章)

物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生まれもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する。これが神々の物語以来変わらぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。(同p181、11行目~、第16章)

 

物語は、語る人すなわち作者からの一方的な発信ではなく、語る人と聞く人とが協力しあって創り出し、伝承されることから始まった、と言うのだ。ここで、物語の原型は語りと聞き、すなわち話し言葉であると、小林秀雄さんが考えていることにも注目すべきだろう。

確かに、物語る事が「かたらふ」事ならば、語るものと聞くものの間に、素直な信頼しあう心が無ければ、物語る事は成り立つはずがない。そして、互いに充分に信頼しあっているならば、「かたり」を聞く者は、先入観や疑念の無い態度、つまりは無邪気な態度で「かたる」者に接し、「ものがたり」の中に入り込むように聞いたのであろう。

同様に、物語を書いた作者と読む読者の間にも、信頼感があってこそ物語が成り立つ、という考えは、筆者には新鮮であった。そうであるならば、作者の書き記した物語を読む時にも、読者は何をおいても作者と作品を信頼することが、読みの第一歩となろう。そして、読者の読みの態度は、無邪気で素直なものとなろう。

物語は当然ながら言葉で書かれている。だが、物語の奥底、物語の真髄は、言うに言われぬ情感や、人の心の綾、即ち言葉で直接には表現できぬ何かを読者に伝えること、ではないか。作者の式部が「源氏物語」で真に伝えたかったものも、直接には言葉にできぬものであり、さればこそ精緻な文体で、語るように式部は書く必要があったのだ。

言葉で直接には表現できぬ何かを、作者とは時空を隔てた読者が受容するためには、まずもって、無邪気で素直な態度で読むことが大切なのだ。そうでなくしては、言葉の奥に潜むものに読者が感応することは望めないだろう。

「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし」という宣長の言葉は、物語を読む態度として、まさしく至言である。

 

無邪気な態度で読む、と何度も書いてきた。言うは易く、おこなうは難しいことと思われる。現代にも、溢れるばかりの物語が伝わってきている。しかし、情報にまみれた我々が、伝承されてきた物語を読む時に、無邪気な態度になることは果たして可能なのだろうか。また、どうすれば可能となるのか。この問いには、気づく限り小林秀雄さんは言及してはいない。それゆえ、筆者の仮説となるが、わずかながら記してみたい。

無邪気な態度という言葉で想起するのは、我々が、音楽とくに楽器演奏を聴く時の態度、との類似性である。

オーケストラでも、尺八でも、ジャズのピアノトリオでもよい。我々が、これら楽器の演奏を聴く時に、どのような態度をとっているか。分別を持った頭で楽器演奏を聴いて、何がおもしろいだろうか。作曲の経緯や曲の蘊蓄に捕らわれて聴いては、その音楽を真に聴き受容したことにはならないだろう。

非言語の芸術である音楽を聴く時には、我々も自然と、無邪気な態度、素直な態度、で聴いているではないか。これは、誰もが自然にできることだろう。

ならば、我々が物語を読む時にも、その物語の奥底を流れる、直接には言葉で表現できぬもの、いわば物語の音無き響きや旋律を聴き取ろうとするならば、無邪気な態度で読むことができる、と言えよう。

 

紫式部、本居宣長、小林秀雄、と長い年月を受け継がれてきた、作者と読者の対話の場は今も開かれており、我々も対話の場に読むという行為を通して参加できる。

そのような対話の場に、無邪気で素直な態度で臨むならば、人が世を生きることの手応えをも、受け取ることができるのではなかろうか。

(了)