「物」にむかう精神

「宣長の『源氏』論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった」。「本居宣長」第十八章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集)にあるこの一文は、一読しただけでは理解し難い深い意味合いを帯びている。そこを読み込んでいく手がかりとして、私は「即物的」とは何を意味するのか、というところに注目して、この夏の山の上の家の塾の質問とした。というのも、「本居宣長」本文全体を通してたびたび出会う「物」という言葉の持つ意味合いを理解したいと思いながら読み続けてきた自分にとって、この「即物的」という言葉は、読み過ごしてはいけない言葉に思えたからである。

一般的に「即物的」という言葉は、損得勘定によって物事を捉える、といったような意味合いで使われる場合と、100パーセントその物を絶対と見て向き合う、といったような意味合いで使われる場合とがあり「本居宣長」第十八章で言われているのは後者である。先の一文の内容に即して読み直してみると、……詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序を絶対的な「物」とみて向き合うという方法……と言い換えることができるだろう。そして、「宣長の『源氏』論の、根幹を成している彼の精神の集中」は、「決して宣長の任意な主観の動きではなかった」、すなわち、相手は読み手の思惑でどうとでもなる物語であったにもかかわらず、「源氏物語」には読み手である宣長の任意な主観の出る幕はなかったと言うのである。では、物語という「物」に向かい、主観を排して自身を没入させるとはどういうことであろうか。

 

「源氏物語」(以下、「源氏」)は詞花言葉によって完成された歌物語である、と書かれている。「詞花言葉」とは、契沖が「源氏」について残した「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし。かくのごとくなるべし」、という言葉からとられたもので、ここで言われている「もてあそ」ぶ、は慣れ親しみ、習熟することを意味する。小林秀雄先生は、この契沖の残した言葉を「問題」と言い、注意を促している。「契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。(中略)宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重にはかってみた人だ」という言い方で、「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせた宣長の経験に光をあてる。

 

詞花言葉をもてあそぶ、という経験について、小林先生は、坪内逍遥や森鴎外、谷崎潤一郎、正宗白鳥らがとった「源氏」への態度を例に挙げながら、ことごとく彼らが「もてあそぶ」ことをしないできた様子を、「孤独」という表現を使ってこう書いている。「ことばよりことばの現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない」「専門化し進歩した『源氏』研究から、私など多くの教示を得ているのだが、やはり其処そこには、詞花をもてあそぶというより、むしろ詞花と戦うとでも言うべき孤独な図が、形成されている事を思わざるを得ない。研究者達は、作品感受の門を、素速くくぐってしまえば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行ってしまう」と諸氏の「源氏」研究の有り様を指摘する。研究者や文学者たちが「源氏」の持つ本来の魅力に出逢うことができていないと指摘しつつ、さらにこうも述べる。「『源氏』の理解に関して、私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置を意識してみる事は、宣長の仕事を理解する上で、どうしても必要だと思っているだけなのだ」「私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置」これこそが、私自身であり、宣長の態度=「即物的な方法」の対極に私はいる。私が「即物的」という言葉に引っ掛かりを覚えているというのは、上記の人々と同様に、「即物的」になれない立ち位置、「ことばよりことばの表す実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流」に私自身も身を置いているからなのだ。

 

その一方で、宣長がその通念に気がつき、意識しながら「源氏」に向かったことの唯一無二の価値がこの文章で際立って伝わってくる。宣長はどのように「源氏」に向かったのか。小林先生によれば、「詞花をもてあそぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る。出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が、『物語といふもののおもむきをばたづね』て、『物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや』という言葉となる」と書かれ、たった一人、宣長がたどった「源氏」の理解に至る様子が語られる。「源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」とあるように、宣長にとっては、歌書を見る態度と「源氏」をみる態度は同じであった。「歌人は、言葉を物として捉え、言葉自身が言葉を呼んでくる、ということを繰り返しながら歌をつくる」のだと、池田雅延塾頭から伺ったことと重なる。歌人は「物」としての言葉と向き合い続けて、「歌」という新しい「物」を生み出している。常に揺れ動く定まらぬ人の心が、言葉という物の働きによって確かなカタチとなり、安定していく、そこには空想の入る余地はなく、言葉という物との直のやりとりのうちに微妙な心の機微が認識できるようになる、そういう作業が繰り返し行われている。それを歌人としての紫式部(以下、式部)はよく心得ていて、物語を書くにあたっても同様の手順をとった。詞花言葉という「物」で物語の世界を作り上げた式部が意識を傾けていたことについて、小林先生は次のように書いている。「情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕えられている」

 

宣長は「源氏」の詞花言葉に習熟したことにより、物語の持つ、歌にはない大きな役割に気がつく。「歌ばかりを見て、いにしへのこころを知るは末也。此物語を見て、さていにしへの歌をまなぶは、其いにしへの歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり」と「紫文要領」で言っている。当時、歌がどのような背景、心情を持って詠まれたのか、歌そのものには、その説明はない。しかし、「源氏」にはその「いできたるよし」をよく知る手掛かりが物語に取り込まれ、そして歌が詠まれているので、当時のこころがよくわかる、というのである。そしてその「いできたるよし」をよく知る手掛かりとなる部分を、「観察と意識とに赴く世語り」と表現し、歌と結ばれる機微が「異常な力で捕えられている、と宣長は見た」と小林先生は言う。その異常な力とは、式部が、「半ば無意識に生きられていた風俗の裡に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた」その力量を指している。式部が摑み出した当時の風俗を通じて、「もののあはれ」をあらわすには、歌と物語の両者の結びつきがどうしても必要であったのである。

 

宣長は、「源氏」の放つ魅力を、詞花言葉をもてあそぶことで自分のものにしようとしたわけだが、宣長が「物のあはれを知る」と呼んだもの、「源氏」の中で繰り広げられる一つひとつの「物のあはれ」の表現は、式部の巧みな詞花言葉のチカラによって、その「離れようとして結ばれ」た機微としてこちらに伝わってくる「物」なのだ。登場人物たちが詠む歌と、古女房が担う世語りが結ばれる機微をたたえる詞花言葉を宣長は模倣し、「手枕たまくら」という擬古文を書く。そしてその作業を通じて「感覚」的に、小林先生の言うところの「感知」することで詞花言葉を我が物にしようとした。それは、宣長自身が、「『歌道』とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声」という意味での「歌道」を、「手枕」という物語を書く作業で自ら実践したのである。

 

宣長は、「源氏」の詞花言葉をもてあそんだ先に得られたこと、感知したことを「紫文要領」においてこう表現している。それは、「物」に直にあたる精神を宣長自身の言葉で明かしてくれている文章のようにも思えてくる。

「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也。(中略)わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」

(了)

 

しるしがあらわすもの」

『本居宣長』本文には「しるし」という言葉が全編を通して登場する。小林秀雄先生が「しるし」という言葉を使われているところには、私が本作品を読み進める上での大事な気づきを、これまで幾度も与えられた。第二十四章に登場する「明瞭な人間性の印し」と書かれた箇所を、今年の山の上の家の塾での質問で取り上げた経緯があり、今一度この機会に辿ってみたい。

 

第二十四章の後半では、宣長が『源氏物語』をどう捉えたかについて、あらためて述べられている。

……歌を味わうというような事は、末の問題だと語る声が、「源氏」から、はっきりと聞えて来た、と宣長は言う。(中略)「源氏」には、歌学者を、歌の世界から、歌が出て来る本の世界に連れ戻すと言っていい、抗し難い力がある。(中略)「源氏」の作者は、歌を詠むだけではなく、歌を詠む人について語りもするのだが、この物語の語り手としての力量は、歌の詠み手としての力量を遥かに凌ぎ、これを包む、と宣長は見た。(中略)「源氏」に歌の姿を見ず、「大かた人のココロのあるやう」を見たと、宣長の「源氏」経験が言うなら、言葉通り受取ればよい。

この文中にでてくる「大かた人のココロのあるやう」という表現に注目したい。この「情」と書いて「こころ」とよむ時の宣長の考えについて、小林先生は第十五章で触れ、読者に注意を促している。

……宣長が、「情」と書き「こころ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」と言う言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「ココロ」と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。(中略)自分の不安定な「ココロ」のうちに動揺したり、人々の言動から、人の「ココロ」の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人のココロのあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。

 

この「まざまざと直知させる世界」が宣長の捉えた『源氏物語』であった。作者の紫式部は、どのようにこの「まざまざと直知させる世界」を書きえたのかが次に語られる。

……心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物とココロとの緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出した……

 

具体的には『玉のをぐし』二の巻、において、宣長は次のように書いている。紫式部のことを「みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心」の持ち主であるとした上で、

……「世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるるにつけて、そのこころをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼほれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかにかきあらはして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」

 

紫式部は「物語る」という手段で、人のココロの「意識化」をはかった。宣長にとっての「物の哀れを知る」という行為が、紫式部によって「物語」として成立しているのを目の当たりにし、「彼の心のうちで、作者(紫式部)の天才が目覚める」ということが起こった、とある。宣長は『源氏物語』を「めでたき器物」と見さだめた。「めでたさ」を別の言い方で、「人のココロのあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも書いている。第二十四章後半で小林先生は、宣長の『源氏物語』の読み筋をたどりながら、「文学という特殊な表現の世界から出て、一般人の普通の言語表現の世界」に話を移していく。

 

……生活経験が意識化されるという事は、それが言語に捕えられるという事であり、そうして、現実の経験が、言語に表現されて、明瞭化するなら、この事は、おのずから伝達の企図を含み、その意味は相手に理解されるだろう。(中略)言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何を措いても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。

 

ここで、本稿の冒頭に挙げた「明瞭な人間性の印し」が登場する。ここまで読み進めてきた私たち読者は、こう言いかえることができるのではないだろうか。「生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする」ことこそ、「人のココロのあるやう」をそのままあらわしていて、そのことを「明瞭な人間性の印し」と小林先生は表現したのではないか。では明瞭な人間性とは何か……第十三章で小林先生はこれと近いもので「生きたココロの働き」と言う表現をしているが、宣長が人間の根本にあるココロの働きを、『源氏物語』を通して見つめ続けたことが、この表現からも非常に強く伝わってくる。

 

……「宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。

 

小林先生はこのように書かれたあと、「宣長は、経験という言葉を使わなかった」として、宣長の物言いをふたたび紹介している。

 ……「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也(中略)わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(中略)そうすると、「物のあはれ」は、この世に生きる経験の、本来の「ありやう」のうちに現れると言う事になりはしないか。

 

この「ありやう」とは何かについて、直前で「曖昧な、主観的な生活経験の世界」と説明されているのだが、これだけでは、少々意味が取りづらい。そこで第十五章に目を戻すと、一箇所、「刻印」(これも、しるし、の字が共通している)という表現が出て来るところがあり、宣長がどのように「ありやう」という言葉を捉えていたのか、が見えてくる。

 

 ……事物を味識する「ココロ」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「ココロ」が「ウゴ」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事はかなわぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。

 

“そのまま受取る”という言葉が直前の「刻印」という言葉に呼応し、まさに「ありやう」を表現していると感じた。前掲の文章で、小林先生が、「『ココロ』と呼ぶ分裂を知らない直観」という表現をしている箇所を挙げたが、その言葉をここでまた想起してみる。“そのまま”“ありやう”“分裂を知らない”という言葉をつくづくながめるならば、おのずと宣長の考えていたことがこれらの言葉となったことに思いが至る。「ココロ」の曖昧な働きは、曖昧ではあるが、ココロという、人間の持つ直観そのものは、確かにそこに存在している、ということなのだ。一人一人の内部に起こることは、誰もが「殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ」とある。その無意識下で行われるさまこそが、「人のココロのあるやう」そのもの、ということであろうか。少なくとも、その“内容”ではなく、その“ありよう”のことを宣長は見ていたのだということがよく伝わってくる。そして人間にはさらに「想像力」という、小林先生の言うところの「素朴な認識力」が備わっているという。『源氏物語』を宣長が「そらごとながらそらごとにあらず」と言ったのは「人のココロのあるやう」を式部が「想像力」と表現のめでたさによって物語の中で完成させたところにある、宣長はそう言っているのである。

 

第二十四章の最後にある、

……「事」の世界は、又「言」の世界でもあったのである。

 

ここで小林先生が言っているのは、第十五章に書かれている次の文章と呼応していることに気がつく。

 

……事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。

 

そうであれば、「見る事の世界は、また、それを人のココロのあるやうそのままに、語る事=言の世界でもあった」と置き換えることができるのではないだろうか。ここまで考えを進めてくると、『本居宣長』の後半第三十四章で「シルシ」が登場するくだりに、そのまままっすぐ考えをすすめてよい、と小林先生が言ってくれているように思えてきた。この件はまた別の機会にとっておくことにしたい。

(了)

 

「声」と「ふり」と「しるし

「われわれは言葉というと文字であり、文章のことだと考えがちですが、実は言葉とはなによりもまず声のことなのですね」。これは、小林秀雄氏との対談「本居宣長をめぐって」の中での、江藤淳氏の言葉である(新潮社刊「小林秀雄全作品」28集p.231)。私は日ごろから「本居宣長」の本文に登場する「しるし」という言葉について考え続けている。たとえば、以下のように「徴」という言葉が文中に登場する。

……有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。

かねて「徴」という言葉を巡って考え続けていた私に、前出の江藤淳氏の言葉は、次第に自身の思考が矮小化し、堂々巡りに陥っていたことに気づかせてくれた。言われて見れば、小林氏は本文の中で、言葉とはまず「声」であるということにたびたび言及している。「徴」としての言葉とは、いったいどういうものなのか、という私の長年の「問い」について、それは「声」で発せられたものである、ということにあらためて留意し、考え直してみたい。

 

二〇二一年の山の上の家の塾で、私は、宣長が「古事記伝」を完成させた際に詠んだ次の歌に注目して質問に立った。

……古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

この歌について小林氏は次のように述べている。

……ところで、宣長の歌だが、そういう古事ふることのふりを、直かに見聞きする事は、出来ないが、「いにしへの手ぶり言とひ聞見る如」き気持には、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気見合のものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。

小林氏のこのやや強い物言いの、特に「正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信」とはいったいどういうことであろうか? 小林氏は第三十章で「古事記」撰録の理由について触れる中で、以下のように述べている。

……諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、(中略)この書伝えのしつが何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。

外来の漢字を用いた書伝えにより、“失われたもの”があるという意識が起こったことを宣長は誰よりも鋭敏に受け止めていた、と小林氏は指摘する。

……それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えのしつは、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、よろずノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、から文章ことばひかれて、本の語はやうやクに違ひもてゆく故に、ては後遂のちついに、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看おもほしめし哀みたまへるなり」という事であった。

「かしこく所思看おもほしめし哀み」給うたのは、「古事記」の撰録を発意した天武天皇である。

 

……漢字の渡来という思いも掛けぬ事件(中略)この突然現れた環境の抵抗に、どう処したらいいかという問題に直面し、古語は、初めて己れの「ふり」をはっきり意識する道を歩き出したのである。(同第28集、「本居宣長補記Ⅰ」より)

つまり、古語がもつ「ふり」こそが、“失われつつあるもの”であるということをはっきり意識して、「古事記」が撰録されたというところに、宣長は誰よりも注目していたということになる。そして、

……(「古事記」の)仕事の目的は、単なる古語の保存ではない。「邦家之経緯、王化之鴻基」を明らかにするにあった。

とある。「邦家之経緯」とは国家組織の根本、「王化之鴻基」とは、天皇政治の基礎(同第27集p.314脚注より)、を指すので、言伝えを明らかにすることは、我邦にとっての「歴史」を明らかにすることそのものであった、ということになる。

では、ここで言われている「言伝え」と「歴史」とはどう結びつくのか。小林氏は第三十二章で荻生徂徠が引いた孔子の言葉に注意を促す。

……名は、物に、自然に有りはしないだろう。物につき、人が、名を立てるという事がなければ、名は無いだろう。(中略)人間の意識的行為の、最も単純で、自然な形としての命名行為が、考えられている。言わば意識的行為の端緒、即ち歴史というものの端緒が考えられている。先王の行為を、学問の主題とした孔子にとって、名は教えの存するところであったのは、まことに当然な事であった。(中略)言語活動とは、言わば、命名という単純な経験を種として育って、繁茂する大樹である。

ここに書かれている内容をそのまま「古事記」を読む宣長に置き換えてみることはできないだろうか。「古事記」の「神代かみよのはじ一之巻めのまき」は、神の名しか伝えていない。つまりひたすら命名行為が述べられているのであるが、これが孔子の教えによるところの「歴史というものの端緒」であるとするなら、宣長が「古事記」に身交むかうことはすなわち歴史に身交うということであったことになる。では、どのように身交ったのか。またここで第三十二章の孔子の言葉に戻りたい。「述ベテ作ラズ、信ジテイニシエヲ好ム」という言葉は、孔子が「述而篇」の冒頭で言っている言葉であるが、徂徠はこの言葉を「凡そ学問とは歴史に極まると信じた孔子の、学問上の根本態度についての率直な発言」と解した、と書かれている。そして宣長もこの徂徠が引いた孔子の言葉、「信ジテ古ヲ好ム」つまり「自分を歴史のうちに投げ入れる」道を行ったと小林氏は言う。その態度で宣長は「古事記」に身交ったのである。そして小林氏は、「古事記」における命名行為について、第三十九章で以下のように詳しく述べている。

……上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。(中略)それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。(中略)神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である(中略)「其ノ可畏カシコきに触て、タダチナゲく言」にあったとするのだ。

 

宣長が、「自分を歴史のうちに投げ入れ」、古人による神の命名を目の当たりにしたときに、注目したのが「古言のふり」である、と小林氏は「本居宣長補記Ⅰ」で言い、続けて以下のように述べている。

……「古語のふり」とは、古学が明らめねばならぬ古人の「心ばへ」の直かな表現、宣長の言葉で言えば、その「徴」だからだ。と言う事は、更に言えば、未だ文字さえ知らず、ただ「伝説つたえごと」を語り伝えていた上ツ代に於いて、国語は言語組織として、既に完成していたという宣長の明瞭な考えを語っている。

……宣長が、「古事記」を釈いて、はっきり見定めたのは、上ツ代の人々が信じていた、言霊と言われていた言語の自発的な表現力、或は自己形成力と言ってもいいものの、生活の上で実演されていた、その「ふり」であった。

 

ここで「古語のふり」という言葉につれて「徴」が登場する。「徴」とは、文字のないずっと以前から古人たちが語り伝えてきたその表現の力、心に感じた歎きそのままを声と声に伴う「ふり」とともに相手に伝えてきた「実体」そのものなのではないか。小林氏は、「古言のふり」は、むしろ(宣長により)発明されたと言った方がよい。と言っている。そして、「発明されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味ったのは、言わば、『古言』に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう」と宣長の心情を語っている。この「喜び」こそが、冒頭にあげた歌を、宣長に詠ませたと言えるのではないだろうか。

 

……宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。

第二章ですでに小林氏は、こう書き記していた。小林氏が宣長から受け取った言葉は、「肉声」と表現されている。肉声は要約や言い換えができない、その声のもつ「ふり」を読者に伝えるためには、そのまま引用するしかない、と小林氏は言っているのである。それらの引用された肉声は、まさしく「徴」としての言葉として氏の前に立ち現れていたに違いない。

 

(了)

 

宣長さんのかなしみ―本居家先祖の墓の絵

小林秀雄氏は、「本居宣長」の最終章において、“精神”という言葉を繰り返している。「(古人達の)純粋な精神活動」「彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい」とある。私は前回の小林秀雄に学ぶ塾での質問で、「その宣長の精神と遺言書は一体のものだったのではないか」という自問を挙げたのだが、それに対する自答に辿りつくことができないままでいた。そこで、宣長の「遺言書」全文をあらためて読んでみようと思い、筑摩書房の『本居宣長全集』を開いた。『全集』第二十巻冒頭「解題」において、編者の大久保正氏が興味深い論考を書いている*①。

―宣長の家系や家の伝統に寄せた並々ならぬ関心は、はやく延享四年(一七四七)十八歳以後の手記にしばしば「本居榮貞」と署名し、二十三歳の寶暦二年(一七五二)三月、医学修行のため上京するや小津姓を本居姓に復姓した事実によっても窺われるが、(中略)寛政十年(一七九八)に至って宣長が、さらに家の昔に思いを廻らし、かつて記録しておいたものを材料として、自己の心情を託した系統的な新しい『家のむかし物語』を書き上げようと意図するに至ったのは、『古事記伝』を完成して心のゆとりを得たというだけではなく、『古事記伝』の完成により完結することができたと確信する自己の学者としての生を、われを生み出した家の歴史の中に位置づけようとする、言わば「祖先帰り」とも言うべき宣長の根源的な生の意識の発露であったと思われる。その事は、(中略)「商人のつら」を離れることによって確立し得たと信じる「物まなびの力」を、なお家の歴史の中に位置づけることによって、正当化せざるを得なかった宣長の姿勢の中にはっきりと見てとられる。それを近世におけるもっとも偉大な学者の一人である宣長の、近世人としての意識に現れた、本能的にも近い個我の生命に対する畏れであったとも見られる。宣長が『古事記伝』完成と同じ年に『家のむかし物語』を書残しているという事実は、宣長の思想や学問の構造と無縁の事として見過ごすには、あまりにも重い意味をもっていると思われる。……

この一文を読み終えて、「遺言書」のページを開く途中で、馴染みのある筆跡で丁寧に描かれたスケッチ風の絵に目が止まった。「本居氏系図」内にあるその絵は、本居家の先祖のお墓とその周辺の風景を描いたもので、大きく描かれた松の木が印象的で、宣長が「遺言書」に自身で描いた山桜の絵を連想させるような筆致で丁寧に描かれており、絵の傍に、「この松を里人 六本松という」と宣長本人が書いたであろう直筆の文字が添えられている。「本居氏系図』」全体には、ほかのページにそのような絵はないので、なぜここにだけ挿絵を入れたのかが気になり、挿絵の前後に書かれている文章*②を追ってみた。下記は安永三年(一七七四)に宣長が先祖の墓を訪れた際の記述である。

―田畠の中に方十歩ばかりもあらんとおぼしき草原あり、東南西は平地つつきて田畑也、北の方は片岸にてややひきく山田あり、その草原の中央に古松あり、本一株にしてみつまたなり、上へ高く立のびたり、その株は甚大にして、四五囲もあるべく見ゆ、これ即ち道長居士の墓となん、石塔はなし、さてそのめぐりに、一囲ばかりもあるらんとおぼしき松数株あり、その木の本ごとに石塔あり、これ子孫代々の墓と云り、右の草原は、本居氏先祖よりの墓城と見えたり、村里より半町ばかり西方にはなれたる處也、彼大松、遠所よりよく見えたり……

挿絵を眺めながら、宣長の生来の観察眼により綴られた、この詳細な記述を読むと、自身の「遺言書」において、墓の形から植える桜の木の位置まで細部にわたって指示書きをしているくだりが思い起こされた。まさしく宣長の資質そのもの、といえる特色ある文章である。

さて、この先祖の墓についてもう少し見て行きたい。宣長が「これ吾家の祖也」といっているのが、本居左兵衛武秀であるが、その父、そして武秀の兄(長男)がこの墓の主である。つまり宣長の「祖」である本居左兵衛武秀は次男である。長男、本居庄右衛門延基は寛永十三年(一六三六)十月十九日に逝去している。その死後一三八年が経った、安永三年(一七七四)三月九日、宣長四十五歳の年にこの地(大阿坂村)を訪問した際に見た墓の風景をスケッチしたのが前出の挿絵と思われる。しかしその後、寛政十年(一七九八)三月二日に宣長六十九歳の時にその地を再訪した際、かつてあった、挿絵に描いた本居家の墓はなくなっていたのである。宣長の書くところをそのまま引用する。

―宣長又此墓所ニ詣テ見ルニ、往年見タル所ノ傍ナル松ノ本ニアリシ本居氏ノ石塔ドモ一ツモ見エズ、タダ中央ノ大松ノ本ニ他姓ノ石塔一ツタテリ、思フニ此村ノ本居氏、近来断絶シタルニヨリテ、此墓地モ他家ヘ売却ナドシタルユエニ、本居氏ノ墓石ヲバミナ取棄テ、今松ノ本ニタテル墓石ハ、コノ地ヲ買得タルモノノ先祖ノ碑ナトニヤアラン、ソノ委細ノ事ハイカナラム不知、……

と書いており、最後に「イトモイトモ アハレニ悲キ事也」と結んでいる。二十四年前、四十五歳のときに見た先祖の墓、そこを晩年再訪した際に、既に家絶えて、墓も無くなっていたという事実は、宣長にとってどれだけ深い悲しみ、精神への影響があったのだろうか。六十九歳という晩年に至って知った悲しい事実は、「イトモイトモ アハレニ悲キ事也」という言葉となって読み手に強く伝わってくる。この墓再訪から三か月後の寛政十年六月十三日に宣長は「古事記伝」全巻終業をむかえ、翌七月には「家のむかし物語」の清書をしている。この「古事記伝」全巻終業から「家のむかし物語」清書にいたる流れについては、前掲の編者、大久保正氏の文章の通りである。そして、その二年後の、寛政十二年(一八〇〇)七月に宣長は「遺言書」を執筆するのである。宣長が「遺言書」に絵を描き添えたことと、『本居氏系図』に六本松の絵を描き残したことについて、つらつらと見比べながら、宣長の心情に思いを馳せてみる。小林氏は「本居宣長」第五十章の最後にこう書いている。

―宣長は、あるがままの人の「こころ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「こころ」を、しっくりと取り巻いている、「物のこころ、事のこころ」を知る働きでもあったからだ。……

今回、宣長の先祖の墓について考える機会を経て、あらためてこの文章を読んでみると、その深い味わいの中に新しい側面を見た気がして、次のように読み替えてみたくなった。「宣長が書き残した自身の墓のこと、自身の葬式の出し方のこと、遺言書そのもの、それぞれには『こころ』があり、宣長のこころをしっくりと取り巻いている」と。宣長が先祖の墓がなくなってしまったことについて、「イトモイトモ アハレニ悲キ事也」と嘆いた心情に思いを馳せるとき、そこにはこれまで見えていなかった「何か」を私の中で感得することができたような思いを抱いた。その「何か」とは、先人たちが古書に身交むかう際の態度、というようなものかもしれない。宣長がどのような「こころ」で遺言書を書き、自身の墓の絵を描き、葬列の絵を描いたのか。それらの源にある宣長の「こころ」を“極めれば足りる”とは……。

書き手の「こころ」の働きを何とか知りたい、摑みたいと願い、実践してきた宣長をはじめとする「卓然独立した豪傑」たちの態度を、小林氏が「本居宣長」全五十章を通じて繰り返し私たち読者に伝えようとした、その最後に到達した真意が前掲のこの言葉に凝縮しているように思えた。一見シンプルに過ぎるようにもみえるこの一文に込められた小林氏の思いは、氏自身が宣長から遂に直接聞いた声だったのではないだろうか。そして「遺言書に戻るほかない」と言い残して全五十章の本文が終わるのである。遺言書の最後を宣長はこう結んでいる。

―家門絶断之無様、永く相続之所肝要に而候、御先祖父母へ之孝行、之過不候、以上……

お家断絶により先祖の墓を失った宣長が自身の遺言書にこう書き残したこころに思いを馳せつつ、今後も遺言書を折に触れて読み続けていきたい。

(了)

*①:『本居宣長全集』第二十巻 筑摩書房 「解題」P9より抜粋

*②:『本居宣長全集』第二十巻 筑摩書房 「本居氏系図」P67より抜粋。
安永三年に先祖の墓を訪れた際の記述

 

宣長の新しさ

本居宣長は『源氏物語』の読後感を「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」と言っている。『源氏物語』の他に、比べることのできるものはない、という最上級の賛辞を残しているわけだが、『本居宣長』の中で、小林秀雄氏はこのことを「異常な」評価と書いて、読者に注意を促し、『源氏物語』の味読による宣長の「開眼」という言い方をしている。宣長自身が「紫文要領」の後記でこのことについて触れているくだりで、小林氏は、「彼(宣長)が此の物語を読み、考えさとった(中略)自分の考えには、見る人を怪しませずには置かない、本質的な新しさがある事に、注目して欲しいと言うのである」と言って、宣長の“本質的な新しさ”という表現をしている。宣長は、『源氏物語』をどう読んだのか、どう新しかったのだろうか。

 

宣長は、『石上いそのか私淑事みささめごと』(巻下)において、

―「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるよりほかの義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」……

と書いているように、『源氏物語』は、「物のあはれを知る」物語であると断言している。そして『源氏物語』の主人公、光源氏について、

―「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見た……

という言い方をしている。

宣長に歌の道を示した先達、契沖は、『源氏物語』についてはただ一言、「定家卿云ていかきょういわく可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし。かくのごとくなるべし」とだけ残した。詞花言葉をもてあそぶ……、「歌や文章の見事さを楽しむ」べきであるという言葉の意味するところを実践したのが宣長であった、と小林氏は言う。当時の、賀茂真淵にしろ、上田秋成にしろ、誰もが“詞花言葉をもてあそぶ”とは程遠い反応を示したことが書かれているが、同時に、現代を生きる我々に対しても触れ、

―「源氏」の理解に関して、私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置を意識してみる事は、宣長の仕事を理解する上で、どうしても必要だと思っている……

と書いている。

―写実主義とか現実主義とか呼ばれる、漠然とはしているが強い考えの波に乗り、詩と袂を分った小説が、文芸の異名となるまで、急速に成功して行く、誰にも抗し難い文芸界の傾向のうち……

にいる私たちにとっても、『源氏物語』そして光源氏という存在を“もてあそぶ”のは至難の業なのであろう。小林氏は、主人公の光源氏について、

―作者(紫式部)は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した……

と言っているが、これを、歌とは何かを知り尽くした紫式部が、『源氏物語』という壮大な歌物語の世界(詞花言葉の世界)を展開する上で、「歌」を「人」に見立てて、「光源氏」と名をつけ、式部の意のままに、歌の世界=物のあはれを知るという世界、で演技をさせた、ということは、光源氏をはじめ、『源氏物語』に登場する「人」は皆がみな「歌」である、と考えたらどうであろうか、すなわち、歌の“擬人化”である。

もしこの推察が許されるなら、

―光源氏という人間は、本質的に作中人物であり、作を離れては何処にも生きる余地はない。……

と書いた小林氏の説明にもつながり、また、

―光源氏を、「執念しうねく、ねぢけたる」とか、「虫のいい、しらじらしい」とかと評する(上田)秋成や(谷崎)潤一郎の言葉を、宣長が聞いたとしても、この人間通には、別段どうという事はなかったであろう……

という言葉にも素直に共感できるのである。

宣長は、

―平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化を成し遂げた作者(紫式部)の創造力或は表現力を、深い意味合で模倣してみるより他に、此の物語の意味を摑む道は考えられぬとし……

―「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」(『紫文要領』巻下)……

と明言するにいたったのではないだろうか。物のあはれを知るという、“みなもと”とも呼べる心を持った、“歌が人”となった光源氏が主人公であるこの物語とじっくり付き合ってみれば、歌が人であるからには、あらゆる物事に、人(光源氏)の心も、そして彼に相対した周囲の人の心もうごく。

―「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也……」

と書かれているように、その全てが「もののあはれを知る」ということへ、我々をいざなっているのである。作者である式部がそのような“下心”で書いているからである。我々はいざなわれるままに『源氏物語』を読み、眺め、楽しめば足りる。式部はそう願ったのではないか。好き嫌いや、良し悪しの判断を訊かれているのではない。人間の心のありのままを見せられているのだ。「いましめの心」をもってこの物語をみるのは「魔」である、と宣長は言う。式部が光源氏という「詞花」に課した演技から誕生した物語の迫真性を、「いましめ」の方向に受け取ってしまうことで、「歌道」に従った用法によって創り出された“調べ”を直知する機会を逃してしまう人々のなんと多いことか。契沖が残した「定家卿云ていかきょういわく可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし」は、先にも引いたように

―「そっくりそのまま宣長の手に渡った」……

―言ってみれば、詞花をもてあそぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る……

と、小林氏は書いている。ひたすら「詞花言葉をもてあそ」ばんとして、宣長が、

―「源氏」の詞に熟達しよう、これを我物にしようとする努力を自省すれば、そこから殆んど自動的にどんな意味が生じて来るか、それが彼が摑んだ「物のあはれという心附き」……

すなわちそれが、宣長の“新しさ”なのではないだろうか。

 

『源氏物語』が繰り広げる歌の世界を、小林氏はこう表現している。

―普通の世界の他に、「人のココロのあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界……

と。私には、このくだりを読んだときに、第五十章にある次の文章が想起された。

―(古事記の)「神世七代」の伝説つたえごとを、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地あめつち初発はじめの時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。……

『源氏物語』を語る際には「一挙にまざまざと直知させる」、そして『古事記』を語る際には、「一挙に直知出来る」と同様の表現を使っているのである。この二つの確たる世界に、宣長はいずれも“素早い、端的な摑み方”で臨み、とうとうこれら二つの本来の姿を感知しえた。そして『源氏物語』と同様に『古事記』においても、

―詞花をもてあそぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来……

た宣長が、自身の全てを込めた『古事記伝』を書き終えたその喜びを、

―「古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」 ……

と歌に詠んだ。

―『古事記伝』終業とは彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。……

と小林氏は書いているが、一見おだやかに詠まれたように受取れるこの歌に、宣長の困難を見たのではないだろうか。「物の哀れをしる」について、人に説くという事の困難を式部が感じていたことを、宣長は

―「式部が心になりても見よかし」……

と言い、

―誠に「物のあはれ」を知っていた式部は、決してその「本意」を押し通そうとはしなかった。……

と宣長は解したと小林氏は書いている。

宣長が『古事記伝』を書き終えて詠んだ歌について、

―「いにしへの手ぶりこととひききる如」き気持ちには、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気味合いのものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。……

と力強い語調で書いているのは、小林氏が『古事記伝』について、「宣長が心になりても見よかし」と念じて悟った眼力が言わせた言葉であるとは言えないだろうか。

(了)

 

「本居宣長」における「精神」について

「本居宣長」を読むようになって6年が過ぎたが、冒頭の第1章、第2章に登場する、宣長本人が書いた「遺言書」を捉えようとする私の精神は、空回りを繰り返していた。今年の山の上の家の塾での質問も、懲りずに「遺言書」に関する事を取り上げたいと思っていると、ふと、最終章、第50章の最後部、下記の一文に目が留まった。

 

―宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。

―もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いがしきりだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

こうして長編「本居宣長」は全50章の幕を閉じるのであるが、直前の文章で2度、「精神」という言葉を述べた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっている。小林秀雄氏はまるで、直前に書いた「精神」という言葉に突き動かされるように、私たち読者を「遺言書」に誘っているように思われた。全編を通して「精神」という言葉は、幾度となく登場するが、ここで言われている「精神」について考えることで、遺言書への手掛かりがつかめるのではないか、という思いに駆られ、次のような質問を立てた。

 

―小林氏が伊藤仁斎や荻生徂徠の学問に対する姿勢について語る際、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」(第10章)と表現をしています。また、第50章の最終段落において「純粋な精神活動」「徹底した一種の精神活動」という表現があり、それら「精神」について触れた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっています。小林先生は「精神」という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、本を書き終わる頃には、宣長の「精神」と「遺言書」が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか。そうであるから、最後に「また遺言書に戻る他ない」と書いたのではないでしょうか。

質問の文中で私は、「精神」という言葉について、「格別の」、とはあらわしたものの、その中身についてはこの時点でまったく思いが到っていない状況であった。そこで、まずは、小林氏が本文で「精神」という言葉をどのように用いているのかについて辿ろうと思い、全編を通じて多く登場する「精神」という言葉をさらうことにした。それらの中から、今回の私の質問にヒントをくれるのではないかと感じた箇所をピックアップし、その内容を塾当日の質問発表の場で塾生諸氏と共有した。それが下記の10か所である。

 

一、

―ところで、彼(宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言がげんは、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。(中略)契沖にとって、歌学が形であれば、歌道とは、その心であって、両者は離す事は出来ない。(中略)詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった。それと言うのも、話は後に戻るのだが、問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語っていないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。

 

二、

―日本の歴史は、戦国の試煉を受けて、文明の体質の根柢からの改造を行った。当時のどんな優れた実力者も、そんなはっきりした歴史の展望を持つ事は出来なかったであろうが、その種の意識を、まるで欠いていたような者に何が出来るわけもなかった事は、先ず確かな事であろう。乱世は「下剋上」の徹底した実行者秀吉によって、一応のけりがついた。(中略)しかし、「下剋上」の劇は、天下人秀吉の成功によって幕が下りて了った訳ではない。「下剋上」と言う文明の大経験は、先ず行動の上で演じられたのだが、これが反省され、精神界の劇となって現れるには、又時間を要したのである。(中略)彼には、家康の時代が待っているという考えは、自然なものだったであろうが、己れに克つという心の大きな戦いには、家康とは全く別種の豪傑が要る、歴史の摂理は、もうこれを用意していたとは、恐らく秀吉の思い及ばぬところであった。

 

三、

―仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。(中略)仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニむかフ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「住家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は、「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉をつかむ為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。

 

四、

―彼等が、所謂博士家或は師範家から、学問を解放し得たのは、彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。(中略)過去が思い出されて、新たな意味を生ずる事が、幸い或は悦びとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、而も独善も独断も知らなかった所以である。彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。

 

五、

―ここに歌人等の決定的な誤解が生じた、と想像していいのだが、彼等がどう誤解したかを考えてみるのも無駄ではない。簡明な要約のかなわぬ、宣長の言葉の含みを言うのには、そんな迂路うろも必要なのである。(中略)そこで、彼等にとっても、見掛けの上では、歌の道は言葉の「アヤ」と言う問題が中心となるのだが、「文」の意味合が、宣長の言う「文」とはまるで違って来る事になる。宣長は、「歌といふ物のおこる所」に歌の本義を求めたが、既述のように、その「歌といふ物のおこる所」とは、即ち言語と言うものの出で来る所であり、歌は、言語の粋であると考えた事が、彼の歌学の最大の特色を成していた。「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」(「石上私淑言」巻一)と歌を定義する彼の歌学は、表現活動を主題とする言語心理学でもあった。この心理の動きを、彼は「自然の事」とか「自然の妙」とか呼んだが、そういう時、彼が思い浮べていたのは、誰にも自明な精神の自発性に他ならなかった、と見てよいなら、彼の「文」という言葉も、其所から発言されていたと考えていいわけだろう。そういう考えから、彼の歌の定義をもう一度読んでみるがいい、「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」という言い方で、あやという言葉が目指しているのは、「辞のあや」ではなく、むしろ「あやとしての辞」である事を、合点するだろう。

 

六、

―堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。(中略)詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬと言う意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういうことになるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入はいって行く。(中略)そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人にキカする所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。

 

七、

―宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼の言い方に従えば、「物のあはれをしるココロウゴき」は、「うき事、かなしき事」に向い、「こころにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或は精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういう情のおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである。この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此世」の何物にも囚われず、わずらわされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かである、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるところ、そういう純粋無雑な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。

 

八、

―生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり、動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬさまになっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、そのカタチを捕えたのである。其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼にさらすのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退きならぬ動きを、誰もが持って生れて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々がめいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。この観点に立った宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発はじめの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。

 

九、

―物語最初の吉善ヨゴトさえ、「凶悪マガコトの根ざし」を交えずには、作者達は発想出来なかったのに気が附くだろう、と註釈は、読者の注意を促している。これが宣長を驚かした。彼は、この驚きを、「神代を以て人事ヒトノウヘを知」るという言葉で言ったが、この「人事」という言葉は、人間の変らぬ本性という意味にとってよい。この彼の考え方は、古人の心をわが心としなければ、古学は、その正当な意味を失うという確信に根ざすものだが、問題は、この方法の彼なりの扱い方にあった。これは繰返し言って置きたい。古人に倣い、「びの大神おほかみ御霊みたま」と呼ばれた生命力を、先ず無条件に確認するところに、学問を出発させた以上、この「御霊」の徳の及ぶ限り、「皇統アマツヒツギは、千万世の末までに動きたまはぬ」事については、学問上の疑いは出来しゅったいしない。(中略)何も作家達という言葉にこだわる事はない。宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう宣長は見ていた。

 

十、

―そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。

もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いがしきりだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

 

以上の抜粋を、山の上の家の塾当日の質問の際に挙げてのち、「本居宣長」において小林氏が使われている「精神」とはどういうことか、というお話を池田塾頭より伺うことができた。それは私の拙い質問が敷衍された先の、今まで知りえなかった小林氏が語るところの「精神」についての核心部分であった。その詳細については、塾頭による、本誌「好・信・楽」の「小林秀雄『本居宣長』全景」、二十五「精神の劇」(2020年5・6月号掲載)に詳しいが、この中で「精神」について、以下のように述べておられる。

―「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた彼等の精神」、その「精神」を端的に言えば、何事につけても人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能である……そして、私が先に挙げた10か所の「精神」の文脈はどれもこの“人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能”という背景を背負っている、と書かれている。確かに今回ひいた10か所を見返してみると、文中に「おのずから」「自然の」といった言葉が、頻繁に用いられていることに気が付く。そして小林氏の意味する「精神」がかたどられ、その姿が垣間見えてくるようである。そのような心持ちであらためて、最終章の最後部の文章を読んでみる。

―宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。

この一文が、小林氏が宣長について語ろうとして書いた結晶のような言葉に見えてくる。この結晶をさらに読み解くためには、「精神」という言葉のもつ意味を何度も反芻する以外にないのだろうと思う。

 

このように導かれて辿ってくると、「精神」について書かれた本文の中で1箇所選びそびれた箇所があることに気づいた。

―宣長を語ろうとして、藤樹までさか上るというこの廻り道を始めたのも、宣長の仕事を解体してこれに影響した見易い先行条件を、大平おおひらの「恩頼図おんらいず」風に数え上げて見たところで、大して意味のある事ではあるまいという考えからであった。見易くはないが、もっと本質的な精神の糸が辿れるに違いない、それが求めたかった。近世の訓詁の学の自立と再生とに、最も純粋に献身した学者達の遺した仕事を内面から辿ってみれば、貫道する学脈というものは見えて来るのである。

 

なぜ宣長には古事記が読めたのか、小林氏がその問いに精神を集中する中で、中江藤樹から紡がれた日本近世を貫く一筋の「学問の道」が浮かび上がり、小林氏自身が合点した「もっと本質的な精神の糸」を読者に示してくれているのだということに、今、ようやく思いが到るのである。

 

 

(参考)「本居宣長」からの引用部分

小林秀雄全作品第27集

  ① 第6章 P73 L4 「精神の新しさ」

  ② 第8章 P90 L1 「精神界の劇」

  ③ 第10章 P112 後ろからL4 「彼等の精神」

  ④ 第11章 P120 L3 「精神的遺産」

同第28集

  ⑤ 第36章 P58 L8 「精神の自発性」

  ⑥ 第36章 P59 後ろからL7 「精神の働き」

  ⑦ 第50章 P198 L10 「精神化」

  ⑧ 第50章 P202後ろからL2 「精神の上で秩序附け」

  ⑨ 第50章 P208 後ろからL1 「純粋な精神活動」

  ⑩ 第50章 P209 L4 「精神主義」

 

本文最後の引用部分

  ⑪ 第11章 P121 後ろからL4 「精神の糸」

(了)

 

先を急ぐまい。

「本居宣長」第1章は、小林氏が宣長の「古事記伝」を読んで間もなくの頃、折口信夫氏を訪ねた際に自身の読後感のもどかしさを折口氏に吐露したところからはじまっている。……「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口から出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥ずかしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた……。

この折口氏の言葉を、小林氏は読者に投げかけるようにして、全50章の長い旅に出る。しかし、その折口氏からの言葉に対しての明確な答えは50章を通じて書かれていない。「古事記伝」を書いた宣長さんに関して水を向けた小林氏に対して、「源氏物語」について書いた宣長さんのほうに話題を転じた折口氏の、断定的な、深い確信を秘めた言葉は、私に限らず、本文を読み進める読者にとっては、大きな問いかけとして常に頭の片隅にひっかかっているのではないだろうか。

 

その問いかけに対して、答えの糸口が見えたかのように思えたことがあり、山の上の家で、私は以下のような趣旨の質問をした。

「源氏物語」の「蛍の巻」で、長雨に降りこめられ、所在なさに絵物語を読む玉鬘を、源氏が音ずれ、物語について話し合う。その二人の会話を、宣長は、紫式部がこの物語の本意を寓したものと見て、自身の「源氏物語」に関する書、「紫文要領」で、全文について精しい評釈を書いている。その中で、式部が源氏に言わせている、「(物語とは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」という言葉に宣長が注目したのはなぜか、というのが私の質問であった。

私は、宣長がこの源氏の言葉に注目した理由として、宣長は、紫式部の「心ばへ」と、「古事記」の作者の「心ばへ」とを重ね、式部はそっくりそのまま「(物語とは)『古事記』のように、神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」とさえ言いたい思いでここを書いたと宣長は「源氏物語」を読んだからではないか、ということを挙げた。つまり、宣長が「古事記」を読むその前の段階で、「源氏物語」から、「古事記」解読の糸口ともなり得るような言葉を見出していたのではないか、という質問である。

だが、この見解については、池田雅延塾頭から次のような指摘があった。

……「本居宣長全集」に収録されている宣長の年譜を辿ってみるかぎり、「紫文要領」を書いていた頃の宣長には、まだ「古事記」を本格的に読んでいた形跡がない、もっとも小林先生は第37章で、宣長は「紫文要領」より先に書いた「葦別小舟」でもう「歌の事」は「道の事」に直結すると考えていたと言われており、後年、「古事記」を本格的に読もうとした段階で宣長は「蛍の巻」の源氏の言葉を自ずと思い浮かべ、溝口さんが言うような、「古事記」の作者の「心ばへ」を紫式部の「心ばへ」に重ねて、ということがあっただろうとは言えると思う、しかし、「紫文要領」が書かれた時点に立って行う議論のなかでそこまで言ってしまうのは性急に過ぎるだろう、「紫文要領」の段階では、源氏が言った「(物語とは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」は特に「古事記」を念頭においてのことではなく、一般論として「神代から世間で見られた事柄を」の意に解しておくのが物語論の読み方としては妥当と思う……。

また私はこうも質問した。光源氏の上記の言葉には続きがあり、「日本紀などは、ただ、かたそばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給」―、ここで、「日本紀(「日本書紀」の類)などはほんの一端にすぎず…」と書かれているのは、宣長は「古事記」を評価する一方、「日本書紀」については否定的な態度をとっているが、もしや紫式部も宣長同様にその違いに気がついていて、あえてこの会話を「蛍の巻」に入れたのではないでしょうか……。

ところが、それも私の早とちりであったようだ。紫式部が生きていた当時、「古事記」はまったく読めないということもあって社会の片隅に追いやられ、顧みる者とてほとんどなかった、したがって、紫式部が「古事記」に触れ、その書かれた中身に接して論評できた可能性はきわめて低い、とのことだった。

これによって知ったことは、私が質問をするにあたっては、小林氏は「本居宣長」を書いていくうちに、宣長は「源氏物語」を読み込んでいた時点で「古事記」の読みすじをすでにたどりはじめていたのではないか、そして、宣長には「源氏物語」「古事記」、それぞれの作者の心映えが重なって見えていたと思われたのではないでしょうか、という趣旨の質問に仕立てなければいけなかったということだった。

池田塾頭は、「源氏物語」にった宣長の態度を、「古事記」に身交った宣長のそれと安直に結び付けてしまうことは、性急に過ぎる、と言われたが、今度の山の上の家での質問の内容に思いいたったことは、直観的で率直な私の感覚であることには違いない。だが、そこへ辿り着くには、時間をかけなければいけない、手順を踏まなければいけない、と言われているような気がした。そして、ふと、小林氏が本文で用いている、「先きを急ぐまい」という言葉に目がとまった。第13章の最後でこの言葉をわざわざ自らに言い聞かせるように書き、第14章の冒頭で小林氏は次のように述べる。……「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家(紫式部)の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ……。このことを指して、小林氏は……この大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。……と言っている。宣長による「物のあはれ」についての評釈の分析的深読みの話題に入る前に、この一節を書き加えた小林氏の本意を、直前の「先きを急ぐまい」という言葉がより際立たせている。

 

宣長は、「源氏」の味読によって、物語の登場人物を介して語られる式部の下心(本心)を見事にかたどり、あぶり出した。その宣長が「蛍の巻」の源氏と玉鬘との会話に、「物語の大綱総論」を読みとったのと同じ性質の注意力が、「帚木」の文章を……「見るに心得べきやうある也」として注目させている……、と第17章の冒頭に書かれているのを見て、私は、新潮日本古典集成『源氏物語』の「帚木」のページをめくり、頭注、傍注に助けられながら、あらためて声に出して読んでみた。

 

……

光源氏、

名前だけは立派だけれども、

人からけなされる、よからぬ行いが多いようだのに、

それに輪をかけて、

こんな浮気沙汰を

後世の人たちも聞き伝えて、

かるはずみな人物だという評判を

後々までも残すことになろうとは

秘密になさった内緒ごとまでも

語り伝えた人々のおしゃべりの

何とたちの悪いことなのでしょう。

とはいうものの、

源氏の君は大変にこの世を憚り、

まじめにと、心がけておられたから、

風情のあるお話などなくて

例えば、交野の少将の如き昔物語の好色家には笑われてしまうことでしょう。

……

 

声に出して読んでみると、その書きざまから、不思議なことに紫式部の溜息まじりの声が聞こえてくるようなのである。その経験はまるで、13章前半部分で紹介されている「玉のをぐし」において、宣長が非常な自信をもって言っている……此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし……そのものであった。帚木の文章を音読した私には、その宣長の言葉がすっと自然に入ってきた。

 

小林氏は、宣長自身が説明しあぐねた、「源氏物語」の味読の経験を“一種の冒険”と言い、次のように書いている、……幾時いつの間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ……。紫式部の声が耳元で聞えたような、まさに言葉の「ふり」がそのまま伝わってきた私の経験は、小林氏の言う、“無私な全的な共感”の一種なのではないだろうか、そして、次の文章は、小林氏により、“無私な全的な共感”から紡ぎだされた言葉なのではないか、という考えにいたった。……「帚木」発端の文を、「物語一部の序のごときもの」と言う宣長の真意は、この文の意味を分析的に理解せず、陰翳と含蓄とで生きているようなこの文体が、そっくりそのまま、決心し、逡巡し、心中に想い描いた読者に、相談しかけるような、作者の「源氏」発想の姿そのものだ、というところに根を下している……。この文は、宣長になぞらえて書かれてはいるが、私は小林氏自身が紫式部の物語の書きざまを見事に表現し得た、いわゆる「発明」であると思う。

 

……「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ……。小林氏が繰り返し述べている、宣長は研究者の前に愛読者であった、という言葉は、「源氏物語」を読んで、無私で全的な共感に出会う機会を得よ、と私たち読者に言いたげにも聞こえる。

 

無私で全的な共感、という冒険を経た大批評家、宣長の「源氏物語」の開眼の意味を得たとき、小林氏の脳裏には、あの日、折口信夫氏に言われた「……本居さんはね、やはり源氏ですよ……」という言葉が想起されていたのではないだろうか。

(了)

 

宣長さんの思想の緒

二年前の春、本居宣長の奥津おくつを訪れる機会があった。三重県松阪市山室山の妙楽寺にあるこの墓所をかつて訪れた小林秀雄氏は、その様子を『本居宣長』の中で次のように記している。……山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……この文章に誘われ私の期待は膨らんでいた。奥津紀へ向かう道中、ご案内くださった本居宣長記念館の吉田悦之館長が仰った「奥津紀の桜はあまり元気がないんです」という一言が耳に残っていた。私たちは山道を上り、奥津紀を目指した。

 

小林氏は、『本居宣長』全五十章の冒頭で、宣長自身がしたためた「遺言書」を紹介している。七十二歳で没する一年ほど前に書かれたその遺言書について、……書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている……と言い、……これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える……とも書いている。その遺言書には、自身の死骸の始末の方法、菩提寺である樹敬寺までの葬送の仕方、実際のお棺は山室山妙楽寺に埋葬してほしい旨、その墓の図解などが淡々と綴られている。私にとってもこの遺言書は、『本居宣長』を読めば読むほど、興味の尽きない大きな存在となっている。小林氏の言う「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのであろうか。

 

その遺言書にはいくつかの宣長直筆の挿絵が入っていて、その中の一つに、妙楽寺の奥津紀の絵がある。私はそれを時々じっと眺めている。実物のお墓を訪ねる前からずっと眺めていた挿絵の、あのお墓が目の前にあらわれたとき、感激からなのか、とまどったからなのか、私はしばらく言葉が出なかった。墓石の奥に目をやると、桜の木が一本確かにそこにあった。が、私が心の中で想像していた桜の木とは違っていた。がっしりと根を張った枝ぶりのよい幹がすくすくと墓石のうしろで成長しているのを勝手に想像していたのだが、実物のそれは、右後方の木々の間から差す陽射しの方向にひょろひょろと斜めに伸びる細みの木であり、たった一本、奥津紀のために存在している桜にしては、やや頼りなげな印象であった。

 

宣長の桜に対する強い思いを、小林氏はたとえば次のように書いている。……宣長ほど 、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい 。宝暦九年正月 (三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよわがおいらくの春迄もわかぎの桜うへし契を」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……私が実際に見た奥津紀の桜は、道中で吉田館長が話されていたとおり、「あまり元気がない」といった様子だった。はたして、これが遺言書で宣長さんが望んでいた桜の木の姿なのだろうか……そう感じて以来ずっと、心寂しい、宣長さんに申し訳ないような気持ちが私の中にあって、宣長さんと桜の契りについて深く知りたいと思うようになった。

 

その遺言書からは桜に対する宣長の並々ならぬ思いが読み取れる。……墓地七尺四方計、真中少後へ寄せ、塚を築候而、其上へ櫻之木を植可申候、さて、塚之前に石碑を建可…とあるように、まず墓地に塚を築き、そこに桜の木を植えることから先に書いている。石碑のことは後回し、といった印象さえ受ける。続けて、……塚高三四尺計、惣體芝を伏せ、随分堅く致し……と書かれており、その通りに奥津紀はつくられているのであるが、水平に根をはる桜の木にとってみたら少々根っこが「高三四尺計」の塚の中で窮屈そうではある。しかし、宣長さんにあっては、どうしても塚を築かなければならない理由があったに違いない。

そして、遺言書には続きがある。……勿論後々もし枯候はば、植替可申候……とあり、桜の木が枯れてしまったならば植替えてほしい、との指示まで書かれている。歌人の岡野弘彦氏は「山室山の桜」という文章の中で宣長さんの奥津紀のことを書いている。……皇学館の学生時代、毎年の秋の宣長さんの命日に大八車に山桜の苗を積んで、伊勢市から松阪まで運び、お墓のまわりに植える行事があった……と。宣長さんが亡くなったのは、享和元年九月二十九日である。岡野氏の記述を読んで、はたと気が付いた。九月二十九日とは現代の暦では十一月五日である。そして十一月から十二月にかけては桜の苗木を植えるのにちょうど適した時期にあたるのである。宣長さんはつくづく桜との縁が深いようである。それにしても不思議なのは、せっかくのお墓の桜を、満開の時期に訪れてほしいということは遺言書に書かれておらず、奥津紀へのお参りは年に一度の祥月のみでよいとしていることである。

 

亡くなる二年前の春、宣長さんは吉野水分みくまり神社へ参拝している。宣長の父が、かつて子供を授かる祈願に参詣して宣長を授かったとされている神社である。多忙な仕事の合間に行ったのであろう、そして生涯最後となったその吉野行きでは、満開の桜には少しばかり時期が早かったようで、見ることは叶わなかった。期待していた吉野の桜を眺めることができなかった無念の思いがその際に詠んだ、いくつもの歌から強く伝わってくる。

 

この頃は はや咲く年も あるものを など花遅き み吉野の山

なかなかに 見捨てや過ぎむ 吉野山 咲かぬ桜を 見れば恨めし

(吉野百首詠より)

 

遺言書には、祥月に生前愛用していた桜の木のしゃくを霊牌として用い、細かな部屋の設えまでも含めた法事を行うようにという記述がある。その桜の木の霊牌には「秋津あきつ彦美ひこみさくらねの大人うし」というのちのなを書くよう定めた。新潮日本古典集成「古事記」によると、“秋津彦”は「水戸みなと、河口」の神の名、“”は「水」の意味とされている。また、吉野水分神社の「水分みくまり」とは文字通り、水を分ける、配る、という意味がある。吉野の桜の命の源ともいえる、水をたたえたこの神社の申し子である宣長さんは、奥津紀において自身が桜根となり、愛して止まない桜の木の下に眠り、桜の根に豊かな水の恵みをもたらし、見事な山桜を毎年咲かせることができるように、と願ったのではないかと思わせるような真直ぐな表現ののちのなであると思う。

のちのなに託した宣長さんの思いは、私などには計り知れないものがあるが、自身の墓に桜の木を植えてほしいと書き残す宣長さんのこころは、愛して止まない桜とともに此の世に在りたい、との切なる願いのように思わずにはいられない。そして、毎年祥月には、宣長さんがずっとそうしてきたように、いつもの場所で歌会をしてほしい、と書いている。その際は、桜の木のしゃくに書かれた後諡とともに像掛物の中の宣長さんが確かにそこにいて、歌会に参加しているはずである。

 

二年前に奥津紀を訪れ、「あまり元気がない」桜の木を見た際に感じた、心寂しい、申し訳ないような感じは、宣長さんの桜への愛情が私に乗り移ったせいかもしれない。その得も言われぬ感情のおかげで、私は宣長さんと桜の深い契りの一端に思いを馳せる機会を持てたのではないだろうか。宣長さんの思想とは……、小林氏の言う「思想の結実」とは何か……。次は開花の時期に奥津紀を訪れ、桜を眺めながら宣長さんの声をききたいと思う。

(了)

 

発明する心

「本居宣長」の文章には、という言葉が数多く登場する。私たちが日頃慣れ親しんでいる発明の意味、すなわち<それまで世になかった新しい物を、考え出したり作り出したりすること>(大辞林より)とは別に、<隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにする>(「本居宣長」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収、脚注より)という意味での使われ方でたびたび登場する。著者の小林秀雄氏が生前、自身の肉声で発明という言葉を発している講演が残っている。―わかるってことと、苦労するってことは同じ意味ですよ。苦労しないでわかるってことは知識が一つ増えるってことなんですね。発明ってものはありゃしません(新潮CD「小林秀雄講演」第3巻所収「本居宣長」より)……ここでは、発明とは、苦労してわかった末にあること、と理解できようか。

 

下記に挙げた「本居宣長」本文の例を見ていくと、宣長の生きた当時は、日常的にこの発明という言葉が使用されていたことがわかる。具体的にどのように使われていたのかを見ていきたい。

 

1、契沖の学問の形式なり構造なりを理解し、利用し、先きに進むことは出来るが、この新学問の者の心を想いみることは、それとは別である、と宣長は言うのだ。(中略)自分は、ただ、出来上がった契沖の学問を、他のうえにて思い、これをもどこうとしたのではない。者の「大明眼」を「みづからの事にて思」い、「やすらかに見る」みずからの眼を得たのである、と。(「本居宣長」同 第6章)

 

2、「(前略)拙僧万葉は、彼集出来以後之一人と存候、……」(契沖書簡集より、同 第7章)

 

3、家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、(中江)藤樹は、心底は明かさなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難いがあり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。(同 第8章)

 

4、宣長を語ろうとして、契沖からさらにさか上って(中江)藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問への運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えずして、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。(同 第9章)

 

5、「…如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそこここに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己のは曾而無之事ニ候。」(徂徠「答問書」下より、同 第10章)

 

以上に挙げたとおり、契沖・中江藤樹・荻生徂徠それぞれの学問が、発明という共通の言葉で表されているが、宣長自身が自著「あしわけをぶね」で取り上げたのは契沖の発明についてである。小林氏は先出とは別の講演の中で契沖について触れた際に、―(契沖は)自分に得心のいく学問というものをしなければならなかった人、そういうことが宣長にわかったに違いないんですね。(中略)契沖は「こと」をした人。ということはかたいものである、ということを宣長は言ってます。宣長が感動したのは、する豪傑の心なんです。そうに違いない。それで彼は契沖をもどいて、また別のをしたのはご承知のとおり(新潮CD「小林秀雄講演」第8巻所収「宣長の学問」より)……と述べている。宣長自身の学問に多大な影響を与えたのが契沖であるということは小林氏の本著で繰返し述べられているが、宣長が契沖のに対して感動したのは、発明する豪傑の心に違いない、と強い思いを語っているこの講演を聞き、という言葉がいわば小林氏の心中で生き直すようにいきいきと登場しているように思われた。

 

宣長が契沖の発明に感動し、もどいた対象が「源氏物語」であった。どのようにもどいたのか。幾時いつの間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力をもった傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み越えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。(中略)宣長が行ったのは、この種の冒険であった。(同 第13章)……この「冒険」という言葉は、発明と呼応するように登場している。そしてこの冒険に出た宣長を評して、小林氏は次の2箇所で、宣長の発明について言及する。

 

6、「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ。(中略)式部の「日記」から推察すれば、「源氏」は書かれているうちから、周囲の人々に争って読まれたものらしいが、制作の意味合いについての式部の明瞭な意識は、全く時流を抜いていた。その中に身を躍らして飛び込んだ時、この大批評家は、式部という大批評家をしたと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。(同 第14章)

 

宣長が「源氏物語」を読み、冒険を通して得たこと―その表現世界は、あたかも「めでたき器物」の如く、きっぱりと自立した客観物と化している。のみならず、宣長を驚かしたのは、この器物をよく見る人には、この「細工人」がその「作りやう」を語る言葉が聞こえて来るという事であった(同 第13章)……この宣長の経験は、そのまま「古事記」への態度に繋がっている。

 

7、宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで 、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法よみざまの事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろされたと言った方がよい。されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味わったのは、言わば、「古言」に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう。(同 第30章)

 

「古言のふり」が“発明された”と書かれた第30章は、天武天皇の「古事記」撰録の理由についての注釈風のまとめから始まる。上代のわが国の国民が強いられた、漢字以外に書き言葉がない、という宿命的な言語経験が背景となって、天武天皇の命により、「古事記」の編纂が稗田阿礼、太安万侶の手によって成った。漢文にかれて古語が失われてしまう懸念に対する歴史家としての天武天皇の哀しみは、天皇の歌人としての感受性から発していると同時に、尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった、と宣長はみていた。太安万侶はその天皇の哀しみの内容をただちに理解し、稗田阿礼の話し言葉を、漢字による国語表記であらわす大規模な実験に躍り込んだ。そして小林氏は次のように書いている。―(太安万侶による)誰の手本にもなりようのない、国語散文に関する実験は、言ってみれば、傑作の持つ一種の孤立性の如きものを帯びたのであって、そういうところに、宣長の心は、一番惹きつけられていたのを、「記伝」の「書紀のあげつらひ」を見ながら、私は、はっきりと感ずるのである……先に挙げた、発明のくだりと同様の、小林氏の強い確信が、太安万侶についてのこの文章にも見られる。ここで、太安万侶が「古事記」を成すにあたって試みた「実験」を、宣長ははっきりと意識している。この「実験」という言葉も、先に挙げた「冒険」と同様に発明という言葉と共鳴した表現と言えるだろう。そして、第30章に発明という言葉が登場する直前の段落で、小林氏は次のように述べている。

―どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である。この、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがままに、確信をもって行使したと言ってよい……。宣長は、「源氏物語」の紫式部に対した時と同じように、太安万侶の冒険を目の当たりにし、自身も冒険に出た。冒険の末に、宣長は「古言のふり」を発明した、小林氏はそう言っている。

 

では、「古言のふり」とは何か。第30章には次のように書かれている。―「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部からみればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その「ふり」である……。「本居宣長」に登場する発明という言葉を追ううちに、小林氏の文章に発明という言葉がでてくるところには、氏の強い思いが言葉の「ふり」となって伝わってくることに気付いた。

 

『古事記伝』が成った寛政十年に宣長が詠んだ歌が第30章で紹介されている。―「古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿いそのかみこう」詠稿十八)これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった……。「源氏物語」の味読を経て、「古事記」を読み終え、この歌を詠んだ宣長はどのような境地に至ったのか。私はそれを知りたいと思う。古人の経験を回想によってわが物とする、という宣長自身が「古事記」にあたった態度をもどいて、この歌を味わおうとする冒険の扉は、小林氏の言うところの―誰にも出来る全く素朴な経験……として、「本居宣長」を読む私たちにも開かれている。その汲み尽くせぬ悦びの一端を、氏のあらわす宣長の「ふり」が教えてくれている。

(了)

 

遺言書へむかう道

小林秀雄氏の「本居宣長」で、いきなり第1章から紹介されている宣長の遺言書は、読むものを仰天させるような特異な内容となっている。冒頭の書き出しからして奇妙で、忌日や時刻の定め方に始まり、小林氏が「殆ど検死人の手記めいた感じ」と表現する、遺体の取り扱い方、その始末等々が続き、山室の妙楽寺に埋葬を指定し、さらに菩提寺である樹敬寺には空送カラタビとすること、妙楽寺の墓については仔細に墓所地取図まで描き、桜を植えること、等々、読み手はどう捉えてよいものか戸惑う、大きな謎である。

そして、「本居宣長」の、遺言書について書かれた章の最後は次のような言葉で締めくくられている。彼の最初の著述である「葦別小舟アシワケヲブネ」に、「もう己の天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来る」のだが、「幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである」、こう言って第2章が終わる。

宣長の残した遺言書を謎と受取ったのは、私だけではなく、宣長のそばにいた人々をも誤解させるようなものだった、ということのようだ。そしてますます疑問が深まる中で、第50章まで読み進めた最後にはこう言われている。「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」。なぜ小林氏はこう言わざるを得なかったのであろうか。

 

「本居宣長」の最終章である第50章の冒頭では、宣長が古学の上で窮めた、上ツ代の人々の「世をわたらふ」にあたっての安心について、門人達に説明することの難しさがつづられている。門人達の質疑に答えたところを録した「答問録」では、「小手前の安心」というものだけは得たいと思う門人に対して、「小手前の安心は無い」としか言いようがない宣長が「くだくだしい」物の言い方をしている。道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていて、神道にあっては、「安心なきが安心」それこそが「神道の安心」である、と言い切る。つまり、上古の人々の心には「私」はなく、ただ「可畏カシコき物」に向かっており、測り知れぬ物に、どう仕様もなく捕えられていると考えていた。その上古の人々の示した「古事記」の「神世七代」を読み終え、宣長は「感嘆した」と書かれているが、「神世七代」に到達する、その途上で、「源氏物語」についてのもうひとつ重要な見解がある。

 

光源氏の死を暗示する表題があるだけで、本文の存在しない巻である「雲隠の巻」について、何故、作者の紫式部は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、という問いの姿に、宣長は見入った、と書かれている。この巻で主人公の死が語られることはなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかった。宣長は著書「玉のをぐし」で、この問題について独特な二つの見解を述べている。一つは、光源氏というよき事のかぎりを尽した人の“衰えた様子”や“死”を書くことを避けたのではないか、ということ。二つ目は、「物のあはれ」をもっとも深く知る源氏の君自身が死んでしまうということは、そのかなしみをほかの誰にも語りつくすことはできない、という考えから、何も書かれていない、ということである。

読者に「物のあはれを知る」ということを伝えるという作者、紫式部の心ばえは、「此世」の物に触れたところに発しているはずだとすると、はたして「死」とは「此世」のものなのか、と小林氏は問い、「われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。(中略)愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確める事によって完成したと言えよう」と述べている。では、此世のものではない「死」を「認識する」とはどういうことか。紫式部が「雲隠の巻」に込めたこの「死の観念」に宣長は出会ったのである。

 

そうした「源氏物語」を経て「古事記」の「神世七代」を読むに至って、宣長の「死の観念」は、次のように発展していることを小林氏は指摘している。「伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が『黄泉神ヨモツカミ』の姿を取って、完成するのを宣長は見たのである」。彼(宣長)は何を見たか。「神世七代」が描きだしている、その主題のカタチである。主題とは、「生死の経験に他ならない」と書かれている。「神世七代」で宣長が得た啓示とは、「人は人事ヒトノウエを以て神代をハカるを、我は神代を以て人事を知れり」であった。「測り知れぬ物に、どう仕様もなく、捕えられていた」上古の人々が抱いていた生死観が、「神世七代」において「揺るがぬ」ものとなり、それを受けて宣長は「奇しきかも、霊しきかも、妙なるかも、妙なるかも」と感嘆している。そして「死の観念」を確かに「神世七代」から受け取った宣長をさらに驚かせたのは、「源氏物語」では名のみの巻であった「雲隠の巻」は、「神代を語る無名の作者達にとっては、名のみの巻ではなかった」ことであった。伊邪那美命の嘆きの中で、この女神が、国に還らんとする男神に、千引石チビキイワを隔ててノタマう「汝国ミマシノクニ」という言葉に宣長は次のように註を施している。「汝国とは、此の顕国ウツシクニをさすなり、ソモソモミズカラ生成ウミナシ給る国をしも、かくヨソげにノタマふ、生死の隔りを思へば、イト悲哀カナシき御言にざりける」。上古の人々は「汝国」という、黄泉ヨミの国の女神が万感を託したこの一と言を拾い上げたことで、「名のみの巻」に「詞」を見出したのである。その一と言で、宣長には、「天地の初発ハジメの時」の人達には自明だった生死観が鮮やかに浮び上がって来たに違いない、と小林氏はみた。

 

「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はない」、と宣長は考えていた。ではどのように「完了」し得るのか。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足どりが、『可畏カシコき物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しないのであった」とある。まさに上古の人々は「死」というものに直面し、測り知れぬ悲しみに浸りながら、千引石を置く、という「死のカタチ」を、死の恐ろしさの直中から救い上げ、「生死を観ずる道」を「完了」したのである。

 

このありさまを受けとめ、「妙なるかも」と感嘆した宣長は、自身の精神に照らして、この「生死を観ずる道に踏み込」み、そして「完了する」という行為を、言葉にした。それが、あの「遺言書」なのではないだろうか。そして、小林氏が「遺言書」を宣長の「最後の述作」と呼んだ意味が、第50章の最後にあるこの文章にあらわれているように思う。「宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰り返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出してきた、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識できなければならない。そう、宣長は見ていた」……

(了)