「物」にむかう精神

溝口 朋芽

「宣長の『源氏』論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった」。「本居宣長」第十八章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集)にあるこの一文は、一読しただけでは理解し難い深い意味合いを帯びている。そこを読み込んでいく手がかりとして、私は「即物的」とは何を意味するのか、というところに注目して、この夏の山の上の家の塾の質問とした。というのも、「本居宣長」本文全体を通してたびたび出会う「物」という言葉の持つ意味合いを理解したいと思いながら読み続けてきた自分にとって、この「即物的」という言葉は、読み過ごしてはいけない言葉に思えたからである。

一般的に「即物的」という言葉は、損得勘定によって物事を捉える、といったような意味合いで使われる場合と、100パーセントその物を絶対と見て向き合う、といったような意味合いで使われる場合とがあり「本居宣長」第十八章で言われているのは後者である。先の一文の内容に即して読み直してみると、……詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序を絶対的な「物」とみて向き合うという方法……と言い換えることができるだろう。そして、「宣長の『源氏』論の、根幹を成している彼の精神の集中」は、「決して宣長の任意な主観の動きではなかった」、すなわち、相手は読み手の思惑でどうとでもなる物語であったにもかかわらず、「源氏物語」には読み手である宣長の任意な主観の出る幕はなかったと言うのである。では、物語という「物」に向かい、主観を排して自身を没入させるとはどういうことであろうか。

 

「源氏物語」(以下、「源氏」)は詞花言葉によって完成された歌物語である、と書かれている。「詞花言葉」とは、契沖が「源氏」について残した「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし。かくのごとくなるべし」、という言葉からとられたもので、ここで言われている「もてあそ」ぶ、は慣れ親しみ、習熟することを意味する。小林秀雄先生は、この契沖の残した言葉を「問題」と言い、注意を促している。「契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。(中略)宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重にはかってみた人だ」という言い方で、「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせた宣長の経験に光をあてる。

 

詞花言葉をもてあそぶ、という経験について、小林先生は、坪内逍遥や森鴎外、谷崎潤一郎、正宗白鳥らがとった「源氏」への態度を例に挙げながら、ことごとく彼らが「もてあそぶ」ことをしないできた様子を、「孤独」という表現を使ってこう書いている。「ことばよりことばの現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない」「専門化し進歩した『源氏』研究から、私など多くの教示を得ているのだが、やはり其処そこには、詞花をもてあそぶというより、むしろ詞花と戦うとでも言うべき孤独な図が、形成されている事を思わざるを得ない。研究者達は、作品感受の門を、素速くくぐってしまえば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行ってしまう」と諸氏の「源氏」研究の有り様を指摘する。研究者や文学者たちが「源氏」の持つ本来の魅力に出逢うことができていないと指摘しつつ、さらにこうも述べる。「『源氏』の理解に関して、私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置を意識してみる事は、宣長の仕事を理解する上で、どうしても必要だと思っているだけなのだ」「私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置」これこそが、私自身であり、宣長の態度=「即物的な方法」の対極に私はいる。私が「即物的」という言葉に引っ掛かりを覚えているというのは、上記の人々と同様に、「即物的」になれない立ち位置、「ことばよりことばの表す実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流」に私自身も身を置いているからなのだ。

 

その一方で、宣長がその通念に気がつき、意識しながら「源氏」に向かったことの唯一無二の価値がこの文章で際立って伝わってくる。宣長はどのように「源氏」に向かったのか。小林先生によれば、「詞花をもてあそぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る。出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が、『物語といふもののおもむきをばたづね』て、『物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや』という言葉となる」と書かれ、たった一人、宣長がたどった「源氏」の理解に至る様子が語られる。「源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」とあるように、宣長にとっては、歌書を見る態度と「源氏」をみる態度は同じであった。「歌人は、言葉を物として捉え、言葉自身が言葉を呼んでくる、ということを繰り返しながら歌をつくる」のだと、池田雅延塾頭から伺ったことと重なる。歌人は「物」としての言葉と向き合い続けて、「歌」という新しい「物」を生み出している。常に揺れ動く定まらぬ人の心が、言葉という物の働きによって確かなカタチとなり、安定していく、そこには空想の入る余地はなく、言葉という物との直のやりとりのうちに微妙な心の機微が認識できるようになる、そういう作業が繰り返し行われている。それを歌人としての紫式部(以下、式部)はよく心得ていて、物語を書くにあたっても同様の手順をとった。詞花言葉という「物」で物語の世界を作り上げた式部が意識を傾けていたことについて、小林先生は次のように書いている。「情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕えられている」

 

宣長は「源氏」の詞花言葉に習熟したことにより、物語の持つ、歌にはない大きな役割に気がつく。「歌ばかりを見て、いにしへのこころを知るは末也。此物語を見て、さていにしへの歌をまなぶは、其いにしへの歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり」と「紫文要領」で言っている。当時、歌がどのような背景、心情を持って詠まれたのか、歌そのものには、その説明はない。しかし、「源氏」にはその「いできたるよし」をよく知る手掛かりが物語に取り込まれ、そして歌が詠まれているので、当時のこころがよくわかる、というのである。そしてその「いできたるよし」をよく知る手掛かりとなる部分を、「観察と意識とに赴く世語り」と表現し、歌と結ばれる機微が「異常な力で捕えられている、と宣長は見た」と小林先生は言う。その異常な力とは、式部が、「半ば無意識に生きられていた風俗の裡に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた」その力量を指している。式部が摑み出した当時の風俗を通じて、「もののあはれ」をあらわすには、歌と物語の両者の結びつきがどうしても必要であったのである。

 

宣長は、「源氏」の放つ魅力を、詞花言葉をもてあそぶことで自分のものにしようとしたわけだが、宣長が「物のあはれを知る」と呼んだもの、「源氏」の中で繰り広げられる一つひとつの「物のあはれ」の表現は、式部の巧みな詞花言葉のチカラによって、その「離れようとして結ばれ」た機微としてこちらに伝わってくる「物」なのだ。登場人物たちが詠む歌と、古女房が担う世語りが結ばれる機微をたたえる詞花言葉を宣長は模倣し、「手枕たまくら」という擬古文を書く。そしてその作業を通じて「感覚」的に、小林先生の言うところの「感知」することで詞花言葉を我が物にしようとした。それは、宣長自身が、「『歌道』とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声」という意味での「歌道」を、「手枕」という物語を書く作業で自ら実践したのである。

 

宣長は、「源氏」の詞花言葉をもてあそんだ先に得られたこと、感知したことを「紫文要領」においてこう表現している。それは、「物」に直にあたる精神を宣長自身の言葉で明かしてくれている文章のようにも思えてくる。

「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也。(中略)わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」

(了)