名に込められた命

「古事記」は、その序に続き、天地開闢の物語を以下の文章で始める。

 

天地初めてオコりし時に、 高天タカアマハラに 成りませる神の名は、天之御中主アメノミナカヌシの神。(高の下の天を訓みてアマといふ。シモこれにナラへ) 次に、高御産巣日神タカミムスビノカミ。次に神産巣日神カミムスビノカミ。この三柱の神は、みな独神と成りまして、 身を隠したまひき。(『古事記』、新潮日本古典集成、p26)

 

これについて、小林秀雄氏は、神の古意について書かれた「古事記伝、三の巻」の文章を引いた後、以下のように記している。

 

―附言して置くが、「天地初発之アメツチハジメノトキ於高天原成神名タカマノハラニナリマセルカミノナ」三柱あるうち、宣長は神名の上から、天之御中主神アメノミナカヌシノカミには、さしたる神格を認めず、特に高御産巣日神タカミムスビノカミ神産巣日神カミムスビノカミとに注目している。そして、この二柱の神が、高天原に成りまして後、「古事記」には、どちらか一柱の神としてしか、姿を現していないことから、産巣日神という一柱が信じられていた、と解してよいとしている。(小林秀雄『本居宣長』 第三十八章、全作品28、p78)

 

本居宣長によって成された「古事記」の訓読があって、今を生きる私達は「古事記」が読めるようになった。とはいえ、この僅か数行の文章に立ち止まることはなかなかできない。どうしても、ああそうかと通り過ぎてしまいがちだ。しかし、二人の先人は、この神々の名こそ、熟読玩味しなければならないと教えてくれている。

神々の命名について、小林秀雄氏は、「古事記伝」に遺された本居宣長による綿密な訓読の吟味を受けとめ、「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」と記している。

 

迦微カミをどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がったコトバの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が、浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声ヨムコエの上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同、第三十九章、p85)

 

「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」というのはどういうことなのだろうか。この言葉の意味をきちんと受けとめることこそ、生きていく上で大切な何かを見逃し、忘れてしまいがちな現代人(もちろん、私自身を含む)に対して、生きることを直視し続けた古代の人々が教えてくれる何かが詰まっているのではないだろうか、そう直感し、『本居宣長』の本文にあたると、「古事記」のこの数行から始まる、神々の命名にこそ、上古の人々の思いや営みが見えてくると感じられるようになる。

小林秀雄氏は、「産巣日神」という名から宣長が感じ取ったことについて、「古事記伝」を引きつつ、具体的に述べている。

 

―宣長は、「産巣日神」の「御霊」という古言の「ふり」から、直ちに、万物生成の思想が、わが国の古代の生活のうちに、生きていた事を感じ取ったのだが、それも古意に従って、けば、「産霊ムスビ」の「御徳ミメグミ」、或いは「御所為ミシワザ」とも言うべき、生むという純粋な働きの形式で、体得されていたとした。古言は、この御霊について、天地の初めの時に、高天原に、成りましたと言う他、何も余計な事を言っていない。古伝は、まだこの万物生成の、言わば原動力が、先ず自らの形体カタチを生成した事を、有るがままに語れば、足りるとしたに違いないのである。 そこで、宣長の註釈だが、注意して読むなら、註釈には、霊という「こころ」の働きは、「コトバ」の働きでもあるという、微妙な含みのある事が、はっきりするだろう。

「上ノ件三柱ノ神は、如何なるコトワリありて、何の産霊ムスビによりて成リ坐セりと云こと、其ノ伝へ無ければ知りがたし。るはイトイトクスしくアヤしくタヘなることわりによりてぞ成リ坐しけむ、されどはさらに心も詞も及ぶべきならねば、モトヨり伝へのなきぞうべなりける、又此神たちは、天地よりも先立ちて成リ坐しつれば、ただ虚空中オホゾラにぞ成リ坐しけむを、高天ノ原に於いて成りますとしも云るは、後に天地成リては、其ノ成リ坐セりしところ、高天ノ原になりて、後まで其ノ高天ノ原に坐シ坐ス神なるが故なり、(元来モトヨリ高天ノ原ありて、そこに成リ坐スと云にはあらず、)」(同、第三十八章、p80)

 

「万物生成の思想」というと、現代社会では特定の宗教や特定の人物によって説かれる考えへの賛否のように誤解されがちかもしれないが、むしろ、以下の本文にあるとおり、古代の人々の日々の実際の暮らしの中において、神々について、言葉が交わされ、そして、その中から名が定着していったと考えていくのが素直な態度であろう。

 

―宣長には、迦微という名の、所謂本義など思い得ても得なくても、大した事ではなかったのだが、どうしても見定めなければならなかったのは、迦微という名が、どういう風に、人々の口にのぼり、どんな具合に、語り合われて、人々が共有する国語の組織のうちで生きていたか、その言わば現場なのであった。「人は皆神なりし故に、神代とは云」うその神代から、何時の間にか、人の代に及ぶ、神の名の使われ方を、忠実に辿っていくと、人のみならず、鳥も獣も、草も木も、海も山も、神と命名されるところ、ことごとくが、神の姿を現じていた事が、確かめられたのである。(同、第三十九章、p82)

 

そこで、あらためて気付かされるのが、産巣日神に宿る「す」というハタラきであり、伊邪那岐神や伊邪那美神にある「イザナふ」という徳である。

 

―その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実はその事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダ神其ノ物を指シて」産巣日神と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神と名付ければ、その「イザナふ」という徳が、又、天照大御神と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「言意並ニ朴」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だっただろう。(同、第三十九章、p84)

 

生命誕生の不思議は、科学が進歩した現代にあっても、なかなか語り尽くすことはできない。人が人に惹かれ結び合う、それが生命誕生の起源だとわかっていたとしても、その心の動きや揺らぎそのものの解明にはほど遠い。むしろ、初めは他者であったそれぞれが、どちらともなく「イザナう」ことがあって、心が一つとなり、それが新たな生命誕生のはじまりとなる。そうした、一見、あたりまえのことについて、古代の人々は考え、直覚し、言葉を交わし、その不思議を神々の名として残してくれたのだろう。まさに「神に直かに触れているという確かな感じ」がそこにあって、その直観の内容を「内部から明らめようとする努力」で誰の心も一ぱいであったこと、そして、これら、小林秀雄氏の生きた言葉に触れることを通じて、私自身の心の中にも、ごく僅かなのかもしれないが、彼らの直観や努力が残っていると感じることができる。

 

―上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれの己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立ち会ったもの、又、立ち会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引き出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。(同、第三十九章、p86)

 

世間にはたくさんの名が溢れている。多くの名はただ通り過ぎていくばかりだ。そこで立ち止まることもなかなかない。しかし、よくよく考えてみれば、現代社会にあっても、命名という営みは、けっして軽いものではなかったと誰でも思い出すことができるだろう。

今年、ちょうど、二人目の娘が成人式を迎えた。彼女が生まれる前、いろいろな名を考えていたが、初めて、その顔を見たとき、考えていた名の候補がすっと一つにまとまり、そして、妻や家族たちと、言葉を交わしながら、その名に決めた。彼女が、どんな人生を送ってほしいか、大切にしてほしいことは何か、そんなことを話したが、その対話の真ん中に、その名があった。不思議なもので、赤ん坊を見れば見るほど、その名こそ相応しいと感じられたものだ。

そういえば、私の名も両親がつけてくれたものだ。その時も同じだったのだろう。その名が重たいと感じたことは何度もあったが、その名に相応しい生き方をしようと決めたときから、それこそ覚悟ができてきたように思う。命名とは、そこにある命に名を付けることであると共に、名に命が込められることなのかもしれない。

(了)

 

考え続けること

文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ、意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆することができた。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。

(『本居宣長』第48章、新潮社刊『小林秀雄全作品』28、P171)

 

小林秀雄『本居宣長』の一節だ。音楽が好きで、仕事においても人と人のコミュニケーションが多い僕は、「意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感」という言葉に瞬殺されてしまった。さて、自分は、肉声の充実感を持って人と話しているだろうか、そして、そういうことを感じながら、人の声に耳を傾けているだろうか、と。

小林秀雄の文章はこういうのが多い。胸に突き刺さるのだ。言葉にも質量があると思うが、彼の言葉は圧倒的に重い。ぎゅっと詰まっている。ずしんと身体に響く。

それは、小林秀雄が「詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである」(『表現について』、全作品18)という思いで、文章を書いているからだろう。誰しも、心の裡にある思考や情感といったものは、それぞれ個々の言葉にある定義や意味によってだけでは表現はできない。しかし、割符のように言葉と言葉が組み合わされた文章に接すれば、自分の心の中にある何かとつながって、これまでにない新たなイメージを呼び起こされて、そこに驚くことになる。自分自身の心が動くのだ。作者と読者の対話の触媒となるのが、小林秀雄の言う詩として書かれた文章であり、そのおもしろさなのだろう。

例えば、ここにある「肉声」という言葉ひとつとっても、単に「声」ではなく「肉声」となっていることで、読み手が思い出すイメージはまったく違ってくる。「声」と「肉声」、辞書に書いてある意味だけ見れば大差はない。しかし、迫って来るものはまるで違う。「はちきれんばかりの」ときて、そこに「充実感」と連なって来れば、もうノックアウトだ。こちらの心の底まで見られているのではないかとさえ感じてしまう。

 

小林秀雄の言葉は鋭い。心に迫って来る。だからこそ、この文章に接すれば、自分はどうなのか、とまず考えさせられるわけだが、それこそ、彼の文章を読むときに陥ってしまう罠かもしれない。

僕はどうだろうかと考えることは、自分自身の経験との対比となる。これが危険だ。この瞬間、そこにある文章から思考そのものが離れていってしまう。それでは、ここに書かれた、筆者がせっかく削り出した言葉と言葉の連なりとは切れてしまい、違うところに行くことになる。現代社会で言えば、スマートフォンやSNSが使われるようになる前と後の違いと同じようなものかなと、アナロジーを持ち出して、わかったふりになってしまうのも危ない。けっきょく、自分自身に強烈に響いた「意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感」という言葉だけしか見ていない。彼が示した言葉の連なりはそれだけではない。それでは、彼が本当に見ていたもの、考えていたことに辿り着くことは決してできない。それとは関係ない、小林秀雄が書いた本文から離れた、安易な置き換えと見当違いの自己反省、そして、自己満足の妄想が続くばかりだ。

少なくとも、この段落の文章を読むだけでも、己れの肉声の充実感から、自分の声のあり方に心が飛んでしまっているのは間違いだと気付くだろう。筆者は「肉声の充実感」は、あくまでも、古人のものとして書いているのであって、現代社会を生きる人、つまり僕自身のことについて、書いているわけではない。「古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆することができた」と書いている。

古人は、自然の中で共同生活しながら、息遣いまで含めた肉声の交換によって、肉声に助けられつつ、生きてきた。肉声とは私自身だと断言できる喜びを持っていた。肉声は、溢れる感情から、零れ出て顕れる事もあるし、心が思うままにならないように、自分の肉声に驚かされもした。言伝えの言語には、固有な霊があり、それが、言語に不思議な働きをさせると古人は考えた。これを信じ、情の動きに直結する微妙なニュアンスを持つ肉声にこそ、はちきれんばかりの充実感があったわけだが、これは、文字の出現以降、殆ど望めなくなったと宣長は考えた。そう、小林秀雄は言っているのだ。

 

彼が書く詩としての言葉の連なりは、一つの文章や段落だけで途切れることはない。その連なりは、大きな弧を描いているように感じる。だから、ここで熟視した本文にしても、この段落だけで切り取って読むのも危ない。

文章の連なりである弧はきわめて大きい。章を越えた弧であることはもちろん、作品を跨いだ弧さえある。同じ時期の作品のつながりはもちろんだが、時間軸を越えて、彼の若い作品からずっと後の作品に、同じ通奏低音を感じることもある。そこから離れずに触れ続けていれば、様々な形で聞こえてくるものが必ずある。

おそらく、それは、彼自身が、ずっと考え続けてきたからなのだと思う。

文章を読むこともそうだし、考えることもそうだが、続けること、それも途切れず、持続するのが大切だ。しかし、それはなかなか簡単ではない。現代社会はいろいろ邪魔が入り、やっかいだ。スマホはすぐにブルブル震えて、メールが来るし、電話もかかってくる。やはり、持続が途切れないよう、自分から考え続けるための環境を作ることがまず大切なのだろう。

この塾で課せられる自問自答というのは、考え続けること、その持続性が問われているのだと思う。心に浮かんだ自分の問いを手放さず、考え続ける。安易に答えと思しきものに飛びつかないことも重要だ。

僕たちは「問いを解くこと」に慣れすぎた。加えて、解答を出すことに急ぎすぎている。問いとセットになった解答がどこかに隠されていて、それを見つける宝探しばかりしている。問いがあれば、どこからか言葉を借りて来て解答らしき言葉を並べてみたくなるものだが、それでは、小林秀雄が書いた言葉の連なり、自分自身の心に割符となってつながるものにはなりはしない。

問いは僕自身のものであって、誰かのものではないから、他の誰かが解答を持っているはずがない。試験問題のように、誰かが、それは合っているとか間違っていると判断してくれるわけでもない。ましてや、考えることは、答えを示して誰かを説得するためのものでもないし、褒められたり、評価されるためのものでもない。

なにより、そんなに簡単に確たる答えが見つかることを問いにするのでは意味がないではないか。心はゆらゆらと移ろうから、定まらず、いろいろな思いが浮かんでは消えていく。その摑みどころがはっきりしないから、自らの問いにしたはずなのだ。そう思いながら、問いを心の中に留保しながら時間をかけて、本文から離れずにいると、自分の問いに触り続けているという確かな手触り感が出てくる。自分の心のどこかに問いを置いておくことができるようになってくるような気がしてくる。筆者が書いた言葉と言葉の連なりと、自分の心の動きが静かに交わり、何かがまたつながってくるようになる。

問いに向き合うこと、その持続はできるかもしれないが、解答なんてものは、そもそも出てこないのかもしれない。むしろ、問いをそこに置いて考え続けていれば、やがては、問いそのものも、自分自身も変容していっていることにふと気付く。解答とか解決という安易な出口となる言葉に騙されず、問いを留保しておくこと、それこそが大切なのかもしれない。

結局のところ、生きていくというのはそういうことなのだろう。他の誰でもない、この世に生まれた僕が、僕らしく生きていくことなのだから。

(了)

 

よく聴くということ

クラシック、中でも、オーケストラを聴くのが好きで、時間を見つけては、できるだけコンサートに通っている。東京周辺にはコンサートホールがいろいろあって、どこもよい響きがするが、どのホールでも、お気に入りは二階の少し左か右に寄ったところだ。オーケストラ全体の響きを感じられるし、個々の楽器の音もよく聞こえてくる。加えて、ここでは、オーケストラ全体が見渡せるし、それでいて、指揮者と奏者のやりとりの様子もよく見える。そこが見えるには、正面よりも、右か左にずれているのがよい。

コンサートに行くこと、それは二度とない、かけがえのない時間のその場に立ち会うということだ。コンサートによっては、テレビやラジオ用に録画・録音され、放送されることもあるし、CDやDVDで発売されることもある。しかし、その場にいた時の感動の再現には程遠い。オーディオマニアの人は機器の問題というかもしれないが、どんな機器であったとしても、その日のその場に立ち会った感覚というものは決して再現できるものではない。なにより、オーディオによる再現性の高さ云々の議論は音楽そのものを味わうところとは遠いところにあると思う。

音楽を楽しむ上でも、この再現性の高さ云々ばかりを気にする鑑賞は、一つの妨げになる。これは再生装置の普及の影響かもしれない。今日のコンサートでは、第一楽章のあそこのソロで疵があったとか、トランペットのミスが多かったとかと、楽譜通りの音が出ていたかどうかばかりを言う人がいる。たしかにミスは無いほうがよい。しかし、それが、この日に演奏された音楽全体の美しさや楽しみをどれほど傷つけたというのだろうか。自分が気付いた疵の数ばかりを数えているような聞き方をしていて、今日ここにいて、何が楽しかったのだろう、芸術としての音楽のどんなところと出会ったのだろうと思わざるをえない。

やはり、コンサートは音楽そのものに耳を傾け、それ全体を受けとめ、二度とないその場に立ち会えること、言い換えれば、自らのあらゆる感覚を総動員して、奏者たちが作り出す音や響きそのものを楽しみ、うまくいけば、作曲家とも出会うことができる、そういうかけがえのない瞬間を味わうのがよいのではないだろうか。

 

最近、急に眼が悪くなったのか、これまで使っていた眼鏡ではステージの様子がぼんやりとしか見えなくなっていた。これでは車の運転も危ないので、レンズを替えることにした。なるほど、レンズを替えると別世界のように見え方が違う。どこでも格段によく見えるようになった。

さて、肝心のコンサート鑑賞である。よく見えるステージは格別だ。指揮者と奏者のやりとりはよく見えるし、それぞれの奏者の顔もよくわかる。楽しそうに弾いているのを見ているだけでこちらもなんだかうれしくなる。お気に入りの席の選び方からしても、よく見えることを大切にしてきたし、そもそも、音楽は体全体のあらゆる感覚で感じるものなのであって、耳で聴くだけのものではない。音楽体験というのは、聴覚だけではない。レンズを替えた当初はそんなうれしさでうきうきしていた。しかし、しばらく経って気付いたのは、音楽を聴く上での感動は、ぼんやりとしか見えていなかった以前と大きく変わりがないということだ。それぞれのやりとりや表情がわかるのはうれしい。音楽そのものは素晴らしい。しかし、音楽体験の根本のところはあまり変わらなかった。何かが深まったようには感じない。事前の思いからすると期待外れとでも言ってよいかもしれない。ふとした気付きは、聴くことそのものをあらためて考えるきっかけになった。

もしかすると、よく見えるようになったことで、聴くことが疎かになったのかもしれない。そこで思い出したのは、小林秀雄のこの一節だ。

 

―見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。(中略)見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。

(「美を求める心」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収 p.244)

 

ミスがあったかどうかに気付く耳は簡単だ。楽譜を覚えていて、その違いだけに集中していればよい。しかし、音楽を受けとめる耳とはそんなものではない。音楽そのものの美しさ、そこに込められた情景、そして、あらゆる心の揺らぎ、そういうものを聴きとる、受けとめるものでなければならない。小林秀雄の言葉を借りるならば、「何んとも言えず美しい」という美の体験の「何んとも言えないもの」(同p.247)こそ、音楽から受けとめたいものなのではないだろうか。

こうした美は、漫然としていても受けとめることはできない。しっかり受けとめるには、視覚の場合であれば、時間をかけることができるだろう。絵を見たり、本を読むのであれば、自分がふと感じたところで立ち止まり、時間をかけることができる。何か他人の言葉をあてはめてすぐに解ろうと焦るのではなく、言葉にならないことも含め、自分自身が何か受けとめた実感を得るまで待つことができる。また、その日に何かを感じなかったとしても、次の機会に繰り返しじっくり眺めるというやり方もある。

聴くことの場合、こうした時間をかけて、じっくりと眺めるということができない。音楽は流れていってしまうし、その瞬間はかけがえのないものだ。だからこそ、自らの聴覚を鍛え、研ぎ澄まして、その場に立ち会うことが求められる。音楽はその時ごとに異なるかもしれないが、何度も通い、自分自身の音楽体験を積み重ねることによって、耳は鍛えられていくし、通り過ぎていく音楽を摑む力もついてくるのかもしれない。

以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークを体験した際に、「耳を澄ます」という感覚を思い起こすことができた。真っ暗闇の中での一時間半の冒険は、視覚を閉ざすことによって、聴覚はもちろん、臭覚、触覚、味覚、様々な感覚が覚醒する瞬間の連続だった。聴覚が視覚を補い、それだけで自分と周囲との位置関係を判断できるようになるとは考えもしなかった。いかに日頃の生活が視覚に頼り切ったものだったか、そして、自分自身の聴覚が持っていたはずの能力を使い切っていなかったかを認識することができた。おそらく、誰もが潜在能力として持っているのだろう。こうした自らが原始より授かった力に気付き、他の手段でごまかすことなく、聴くことが難しく、努力を要する仕事であると深く感じて考えることができれば、自らの聴く力を開花させ、育てることは誰でもできることなのだろう。

小林秀雄は、孔子の「論語」に書かれた「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にしてみみしたごう」における「耳順」は、音楽がたいへん好きな孔子だからこその言葉だと思われると言い、私たちは、人の言うことの中身を単に聴き、頭で判断するよりも、それを話す相手の声の音や調子そのものをしっかりと聴くことが大切だと説いている。そして、その力は、音楽をよく聴くことによって鍛えられるとしている。

 

―自分(亀井注:孔子)は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た、六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す、この調子が自在に捕えられる様になると、人間的な思想とは即ちそれを言う調子であるという事を悟る、自分も頭脳的判断については、思案を重ねて来た者だが、遂には言わば無智の自覚に達した様である、其処まで達しないと、頭脳的判断というものは紛糾し、矛盾し、誤りを重ねるばかりだ……

(「年齢」、同第18集所収 p.96)

 

そういう人生の積み重ねができるのだろうか。音楽も人生も、言葉にならないことばかりだ。だから、僕は今日もコンサートに行く。

(了)

 

現代に活かす「独」

上越後の桑取谷は里山の集落だ。この山に源を発する桑取川は急峻な山を下り、瞬く間に水量を増し日本海に流れ着く。雪解けの春、この地を訪れた。海辺に雪は無いが、川に沿って登れば、まだ雪は深い。それでも春はここに来ていて、雪の融ける音が聞こえる。雪の下から覘く緑も鮮やかで目に眩しい。雪解けの水を得た川は生命を取り戻したかのようにどうどうと流れ、その音が心地よい。春は駆け足でやってくるのだ。雪支度が残る庭先では、お互いに交わす甲高い声が聞こえてくる。そこには、この日を待って動き出す人たちがいる。

背丈にも達する積雪があっても、種もみを植える苗床に使う田んぼの一角だけでも、雪を除けようとショベルカーを操る年老いた農夫がいた。軒下から様子を見つめるのは連れ合いだろう。一人暮らしばかりになったこの集落では、数少ない夫婦が揃う所帯だ。

山を少し降りれば、雪はだいぶ融けている。そこには、畔を作り直す人がいた。見渡すかぎりただ一人。今年の米作りはここから始まる。私たちの日々の食を支える農の営みがここにある。私たちの命の源の食、その源流はここに至る。

 

行政やメディアの世界には、こうした地域を「限界集落」と呼ぶ人がいる。「高齢化率100%」と研究者は数字にする。しかし、これらの言葉から、この地に生きる人々の喜びや悲しみ、確かな暮らしを支える知恵と豊かさ、古くから守ってきた祈りや祭り、そして、私たちの日頃の食を支える営みを感じ取ることはできない。人々への敬意も、自らの食を支えてくれている感謝の気持ちもない。そもそも当人たちの前でこの言葉を使うことができるのだろうか。近年の日本の課題としてしばしば使われる「人口減少」や「地方消滅」も同じだ。

 

政策を研究し、具体的な制度設計や運用に活かすことは、社会課題に向き合うことに他ならない。人と人の交わり、つながりを根本とする社会において、どんな困りごとや生き辛さがあるのか、お互いの助け合いによって、これを小さくし、無くすことはできるのだろうか、「よく生きる」を支えるためにどんな社会の仕組みが必要なのだろうか、私自身が問い続けていることであり、それが私の仕事だ。

こうした営みは、しばしば、社会課題の「解決」と呼ばれてきた。私自身もあたりまえに使ってきたが、最近、小林秀雄の文章に接していると、この言葉に疑問を持つようになってきた。果たして、社会課題を解決することなんてできるのだろうか。そもそも、解決とはどんな状態なんだろうか。解決という言葉を使っていてよいのだろうか。

 

小林秀雄の作品を貫く言葉の一つに「独」がある。元を辿れば中江藤樹の言葉だ。
―「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前の事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、ル所無シ」という覚悟はできるだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独トフ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死マズ、故ニ之ヲ独と謂フ」という高次の意味合にも通じることが出来るだろう。(「本居宣長」第九章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.100)

「独」とは重く、難しい言葉だ。この文章を味わって読み、我がものにするしかない。下手に置き換えてみれば、それこそ取り漏らしてしまう。自己を成すものは何か、我が身に意味あるどんな生き方があるか、そこを考え抜くこと。権威や立場に寄らず、時代に流されず、現代の学問や社会にありがちな数字や分析を客観的な証拠とし、誰かが使った違う言葉で言い換え、自分をごまかすことでもない。どれだけ見解を集めても人間を創ることはできない。聖人も凡人も、人の生死においては同じなのだから、我が主観を徹底的に突き詰め磨いていけば、それは万人に通じる客観に至るということにもつながってくる。その本質は、己を知るに始まり、己を知るに終わる所に在る。藤樹は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出かみいだ」すと学問の独立宣言をしたが、そこで「咬出す」という言葉を使った、その意味を受けとめれば、「独」の重みも体感できるだろう。

藤樹に始まった「独」の道は、契沖、仁斎、徂徠を経て宣長に至る。近代では、福沢諭吉に引き継がれ、そして、小林秀雄に至る。人はいかに生きるか、自分自身の尺度で自分の心に問うた系譜がそこにある。時代を自分自身のこととして引き受け、そこに応えようとし続け、格闘した人の生きてきた道がある。

「独」を実践するための第一歩である「考える」について、小林秀雄はこう言う。

―考えるとは、自分が身をもって相手と交わることだと(宣長は)言っている。だから、考えるとは、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込む、それが考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることです。(新潮社刊『学生との対話』p.117)

そうした「考える」は、本居宣長と親身に交わることで実践された。

―私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れているものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自の魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家によく用いられた有力な方法とは、全く逆な方向に働く。これは致し方ない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私たちの努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。(「本居宣長」第四章、『小林秀雄全作品』第27集p.58~59)

ここで言われている「歴史家によく用いられた有力な方法」については、本居大平の「恩頼図」に依拠した宣長研究が一例として考えられるだろう。大平は江戸後期の国学者で宣長の家学を継いだ養嗣子だが、彼の「恩頼図」とは、彼が同門の殿村安守のために宣長の学問の系譜、著述、門人を図解したものである。この「恩頼図」を、宣長やその学問を理解しようとして頼りにする、あるいは模倣する、つまり、肝心の対象である宣長自身の内面や著作の言葉には向き合おうとせず、人間関係や時代背景等、宣長を取り巻く外的要素ばかりを収集し、並べ立てる研究者が後を絶たないのである。現代にも多く見られる、「客観的な」文献の引用、数値化、分析等の羅列も同断であろう。

小林秀雄は、本居宣長や彼の読んだ古典に対し、そうした方法は決して採らなかった。対象を信じ、自らが直覚したものに従い、遺された仕事の内面を辿り、正しく質問し、身をもって交わる、時間をかけて向き合う道を選んだ。

 

「限界集落」とか「高齢化率100%」と言っているうちは、いつまで経っても研究対象のままで、他人事であるところから免れない。親密に交わることは避けられている。相手が客体のままではどうにもならない。自分から親身に交わらないうちは考えることは始まらないし、それでは「独」には決して至らない。

「課題解決」という言葉には、自分自身と相手は別もので私は当事者ではない、課題は客体にあるのであって、自分はそこに交わるつもりはないという態度が垣間見える。
私がすべきは「解決」ではなく、目の前にある困りごとや生き辛さに向かい合うこと、自分自身が親身に交わることなのではないだろうか。そして、自反を重ねていれば、自ずから何をすべきかが明らかになってくる。

そもそも、過去を振り返っても、社会課題が無くなった時代を経験したことはないだろう。また、私自身、病を抱えながら生きているから感じるのかもしれないが、人が生きること、その交わりやつながりの総体が社会だとすれば、課題が解決されたすっきりした状態なんてありえず、それこそ、人が病を持ちながら生きていくのと同じことなのかもしれない。

そこにあった課題は向き合い続けることでやがて変容し、また違う形の課題となって顕れる。解決しようという心構えでは、別の形になった時に気付くことはできないが、向い合いあって離さないことができていれば、その変容に気づき、また、自ずから何をすべきかが明らかになってくる。そういう持続性こそが、向かい合うことの本質にあるのではないだろうか。

不思議なことかもしれないが、困りごとや生き辛さといった社会課題に向き合い続けていると、それは他者のためでなく、自分自身のためにやっていることに気づく。目の前の問いを離さずに応えること、それは、結局、自分自身の「よく生きる」にも繋がっているように思える。

「客観的」に代表される科学的なものの見方・考え方に毒された現代において、本当の「独」を実践し続けるのはきわめて難しい。しかし、それこそ、人が生きて来たどの時代も同じだったのではないだろうか。権威や他者に盲従すれば楽かもしれないが、そうなれば自分自身はそこにいない。社会課題に我が身をかけて親身に向き合うこと、そして、そこにある当事者性こそが私自身を生かしてくれるのだ。それこそが現代に活かしていかねばならない「独」の意味なのだと思う。

(了)