奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽    創刊号

発行 平成二九年(二〇一七)六月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

昭和八年(一九三三)十月、小林秀雄、林房雄、川端康成ら七人が編集同人となって、雑誌『文學界』が創刊された。詳しい経緯は省くが、小林は、林に声をかけられて立ち上がったかたちだった。しかし、事が動きだすや、この新雑誌に急速に体重をかけていった。

小林は、昭和四年九月、二十七歳の秋、批評家宣言とも言うべき「様々なる意匠」を書いて文壇に躍り出、すぐさま『文藝春秋』『東京日日新聞』などに文芸時評の場を与えられて健筆をふるった。だが、この文芸時評には、たちまち嫌気がさした。明治の文明開化からやっと六十年、西欧舶来の近代小説は板につかず、小説家も批評家も作品制作そっちのけで文学用語の定義だの文学思想の解釈だのに口角泡を飛ばしていた。だめだ、これではいけない、こんなことをしていては、自分が書きたい「批評」は書けない、唯々諾々とジャーナリズムの煽動に乗っているときではない……、小林の焦りは募る一方だった。そこへ『文學界』の声がかかったのである。

小林は、「様々なる意匠」でこう啖呵たんかをきっていた、―若し私が所謂文学界の独身者文芸批評家たる事をねがい、而も最も素晴しい独身者となる事を生涯の希いとするならば、今私が長々と語った処の結論として、次の様な英雄的であると同程度に馬鹿々々しい格言を信じなければなるまい。「私は、バルザックが『人間喜劇』を書いた様に、あらゆる天才等の喜劇を書かねばならない」と……。

「人間喜劇」とは、十九世紀フランスの小説家バルザックの、九十一篇の長短篇小説の総称である。よく知られたところには「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」「従妹ベット」などがあるが、バルザックはここに二千人にもおよぶ人間たちを登場させ、それぞれの風貌、性格、信条などを克明に描き分け、描ききった。小林が書きたかったのは、こういう「人間劇」である。

その人間劇を、小説家バルザックは具体的描写で書いたが、フランスにはもう一人、押しも押されもせぬ近代批評の創始者サント・ブーヴがいた。サント・ブーヴはバルザックの向こうを張るかのように、抽象的描写で人間劇を書いた。自分が追いつきたいのはこのサント・ブーヴである。そして、小説家たちにはいつまでも観念の相撲ばかりとらさずに、どこへ出しても恥ずかしくない「作品」を書かせたい。しかし、いくらこれを言っても、既成のジャーナリズムが敷いた線路の上を走らされている作家、批評家たちは馬耳東風である。さて、どうする……。そこへ『文學界』の話がきたのだ。

創刊からの一年余り、小林が『文學界』に書いたのは「私小説について」等の数篇だったが、昭和十年一月、『文學界』の編集責任者となり、そこに自ら「ドストエフスキイの生活」の連載を始めた。文学で生きると決めて、誰よりも早く会いに行きたかった作家がドストエフスキーであった。こうして正真正銘、小林は『文學界』に全体重をかけた。

「ドストエフスキイの生活」は、昭和十二年三月まで続き、十四年五月、創元社から刊行した。今日、小林秀雄は日本における近代批評の創始者、構築者と呼ばれているが、その最初の一歩、最初の一里塚が「ドストエフスキイの生活」だった。しかし、それは、おいそれとは誰にも跨がせない一歩であり、高々と天をつく一里塚であった。

その「ドストエフスキイの生活」の刊行に際して、『文學界』昭和十四年七月号の編集後記に小林は書いている。

—僕は今度「ドストエフスキイの生活」を本にして、うれしいのでその事を書く。彼の伝記をこの雑誌に連載し始めたのは昭和十年の一月からだ。それは二年ばかりで終ったが、その後、あっちを弄りこっちを弄り、このデッサンにこれから先きどういう色を塗ろうかなぞと、呑気に考えているうちに本にするのが延び延びになってしまった。ゆっくり構えたから、本になっても別に、あそこはああ書くべきだったという様な事も思わない。勿論自慢もしないが謙遜もしない。久しい間、ドストエフスキイは、僕の殆ど唯一の思想の淵源であった。恐らくは僕はこれを汲み尽さない。汲んでいるのではなく、掘っているのだから。……

精魂こめた「ドストエフスキイの生活」刊行のよろこびはもちろんだが、『文學界』という、好きなことを好きなように書いて世に問える舞台に恵まれたよろこびが伝わってくる。財政面では四苦八苦の連続だったが、生涯の盟友となる河上徹太郎と交互に編集責任者を務め、昭和十年代の文学界、精神界、思想界を牽引した。

本誌『好・信・楽』は、小林秀雄がこうして『文學界』にそそいだ情熱の衣鉢いはつを継ごうとするものである。ただし、ここに集うのは、必ずしも文学や芸術を志す者たちばかりではない。年齢も職業も様々な、多くは一般社会の生活人である。したがって、『文學界』で小林が体現したような、精神文化の創造に向かって邁進するなどということはとてもできないし、それが願いでもない。私たちが継ごうとする衣鉢は、小林が時代の通念を疑い、通念の裏を読んで、自分本来の生き方を烈しく追い求めた、その真摯な情熱である。

通念を捉えて、小林は迷信とも言っていた。迷信と聞くと、私たちは前時代的な妄念・妄想を思いがちだが、小林に言わせればなんのことはない、現代の私たちも現代の迷信の真っ只中にいるのである。

早い話が、科学的な物の見方、考え方、という金科玉条である。これなどは現代の迷信の最たるものだと小林は言う。詳しくは小林の「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)をご覧いただきたいが、私たち現代人が動かぬ真理と思っているこれら似而非えせ金科玉条の災いで、私たちは人間本来の弾力に富んだ生き方ができなくなってしまっている。ではどうすれば、そこをそうと気づくことができるのか、どこをどう建て直せば人生の弾力を取り戻せるのか……。小林の作品は、そのすべてが現代の迷信への異議申し立てであった。すなわち、「人間喜劇」を押し立てて行う「人生批評」であった。『文學界』の編集は、毎号それらと同一の線上にあった。

そういう次第で、私たちが小林秀雄の「本居宣長」を読むのも、読んで動揺する心を本誌に持ち寄るのも、すべては小林秀雄に学んで現代の迷信から覚めようとしてのことである。ひとまずはこの創刊号から、そういう気概を感じていただければ幸いである。

 (了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

一 刊行まで

小林秀雄の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十日に刊行された。菊版、厚表紙、貼箱入り、全六一一頁で定価四、〇〇〇円という、今なら八、〇〇〇円にもなろうかという本であった。が、いざ発売となったその日、版元新潮社の前には読者の列ができた。終戦直後の昭和二十三年、西田幾多郎の『善の研究』の新版が出たときは、読者が岩波書店を取り巻いたそうだが、『本居宣長』を求める列はそれ以来であったという。今日、村上春樹氏の新刊には似たような騒ぎが何度も見られているから、現代の読者には読者の列と聞いてもさほどに強い印象はないかも知れないが、片や評論、哲学であり、片や小説である、それだけをとっても同列には論じられない。

さらにその年、おそらくは空前と思われる現象が起きた。『本居宣長』が、歳暮に使われたのである。財界の重鎮たちが、『本居宣長』を何冊も買って歳暮にした。しかも、それだけではない。『本居宣長』は、パチンコ屋の景品にもなった。そもそも当時、パチンコの景品に本が使われるということ自体、そうあることではなかったはずである。ましてや、硬派も硬派の小林秀雄の本である、意表をつかれるような、稀有と言っていいような現象だったが、それも裏を返せば、『本居宣長』は、パチンコ屋が客寄せに使いたくなるほどの評判だったということなのだ。事実、書店では都会の大型書店でも売切れ続出だった。

歳暮だの景品だのと、下世話な話をいきなりとはどういう了見だ、あの小林秀雄が精魂こめた『本居宣長』に、世俗の空騒ぎはふさわしくないと、眉をしかめられる向きも多かろう。それはたしかにそうである。しかし、実を言えば、小林秀雄その人が、こういう騒ぎを表立ってよろこび、我が意を得たりと満悦だったのである。

 

発売の約半月後、昭和五十二年十一月の十三日には和歌山で、十四日には大阪で、『本居宣長』の刊行を記念する講演会を催した。翌五十三年六月、『本居宣長』は日本文学大賞を受けることになり、小林秀雄氏はその贈呈式の挨拶で、和歌山、大阪の講演で話した中身と同じことを口にした。後日、その内容は「本の広告」と題して雑誌『波』に載り、今は『小林秀雄全作品』(新潮社刊)第28集に入っている。次のとおりである。

―「本居宣長」が本になった時、新潮社から講演を頼むと言われたが、講演はもう御免だとお断りした。すると、担当者は、「今度は講演じゃないですよ。本の広告なんです」と言うのだな。ああ、そうか、広告なら話は別だ、というわけで、引受けた。
 本は、どんな本だって、まず売れなければ話にならない。これは、常に実生活に即して物を考えた、宣長の根本的な思想に通ずるものです。周知の通り、彼は小児科の医者で、丸薬なども、自家製造して売っていたから、広告もうまかった。「六味地黄丸」という子供の薬を売るために書いた広告文が、今も残っている。……

そう言って、宣長の広告文を全文引いているのだが、ここではひとまず割愛する。そしてその広告文の後である。

―さて、この宣長の教えに従って、言わせて貰う事にしたいが、私の本は、定価四千円で、なるほど、高いと言えば高いが、其の吟味に及ばないのは麁忽そこつの至りなのである。私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずと出来る工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んでしまう。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちはある。それが四千円で買える、書肆しょしとしても大変な割引です、嘘だと思うなら、買って御覧なさい、とまあ、講演めかして、そういう事を喋った。……

―聴衆の諸君も解ってくれたのではないかと思う。売れました。誰よりも販売担当者が、まず驚いた。鎌倉でも、私のよく行く鰻屋のおかみさんまで買ってくれました。鰻の蒲焼と「古事記」とは関係がないから、おかみさんが読んでくれたとは思わないが、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない。しかし、出版元は、客が買えば印税を支払う義務がある。私としては、それで充分である。昔流に言えば、文士冥利に叶う事だ。冥利の冥とは、人間には全く見通しがきかないという意味でしょう。私は、大学にいた頃から、文を売って生計を立てて来たから、文を売って生きて行くとはどういう意味合の事かと、あれこれ思案をめぐらして来た道はずい分長かった。しかし、私の眼には、この冥暗界の雲は、まだれてくれないようです。……

今度は講演じゃないですよ、本の広告なんです……、そう言ったのは私である。当時、私は三十歳、本を造る係の編集者として出入りを許され、初めての仕事として「本居宣長」を本にさせてもらったばかりだったが、氏の講演嫌いはつとに承知していた。だから、講演は困ると断られるやすぐ引き下がり、今回は講演というより、先生の本を読んでもらうための宣伝なのですが……、と言い添えた。すると、氏は、なんだ? 宣伝だって? 宣伝なら行くよ、そう言われたのである。

和歌山、大阪の講演でも受賞式の挨拶でも、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない、と言われているが、これは氏の話芸の妙に属する諧謔かいぎゃくで、本はどんな本でも売れなければ話にならないという切実な思想と裏腹に、買ってくれる読者にはしっかり読んでほしいという願いも切実だった。それを私は、昭和五十二年一月から九月に及んだ「本居宣長」の校正作業を通じて思い知らされていた。だからこその「先生の本を読んでもらうための宣伝なのですが……」だったのである。

昭和五十三年二月、単行本『本居宣長』は発売三ヶ月で五〇、〇〇〇部に達し、やがてついには一〇〇、〇〇〇部を超えた。

 

雑誌『新潮』に、昭和四十年から書き継がれた「本居宣長」は、五十一年十一月、同誌の同年十二月号をもって連載終了となった。翌五十二年新年号に、編集部の名で「読者へのお知らせ」が載っている。

―小林秀雄氏の連載評論『本居宣長』は、本誌昭和四十年六月号より十一年余にわたって断続的に掲載して参りましたが、昭和五十一年十二月号をもって、未完のまま連載を終ることになりました。今後は完結までを書き下ろして、単行本として、昭和五十二年小社より刊行致します。/長期に及んだこの連載において、読者に伝えんとする眼目はそれぞれほぼ書きつくしたので、掲載分を推敲、凝縮の上、結語を急ぎたい、という筆者の意向に基づくものであります。/長い間ご愛読いただき有難うございました。何卒右の事情御了承の程お願い申し上げます。……

小林氏のこの連載終了の意思は、五十一年十二月号の発売直前に『新潮』編集部に告げられた。突然であった。氏の許に通って十一年、原稿を受取り続けた『新潮』の編集者、坂本忠雄氏ですら予測だにしていなかった。何があったのか、どういうわけなのか……。だが、そこを思案しているいとまはなかった。坂本氏とともに小林氏を訪い、単行本に向けて手筈を相談した。連載の第一回分から手を入れて、来年中には本にしたい、君には苦労をかけるが、よろしく頼む、そう言われた。

氏の意を体し、昭和五十二年内の刊行を期して私の仕事が始まった。まずは、単行本化のために著者が行う加筆用の土台造りである。今日幅をきかせているパソコンやデジタル・データは、普及はおろか影も形も見せていなかった。雑誌や新聞に連載された著作を本にしようとすれば、連載中から掲載ページの切抜きをとっておき、それらを一ページ分ずつ四〇〇字詰の原稿用紙の真ん中に貼っていく。著者は編集者からその貼り込み原稿を受け取り、余白に新たな修整文を書き込むなどして編集者に返す。編集者はその書込み稿を整理して印刷所に送り、本としての新たな活字の組上げを頼むのである。「本居宣長」の切抜きは、五十一年十一月中に貼り込みを終え、十二月の末、暮の挨拶に参上した席で小林氏に託した。

 

当時、ふつうの本であれば、本文の字数は一冊あたり四〇〇字詰原稿用紙で四、五〇〇枚から七、八〇〇枚というのが標準であった。したがって、著者の書込みは、貼り込み稿を預けて二、三週間もすれば一度で編集者の手に戻ってきた。しかし、「本居宣長」は、『新潮』掲載稿が合せて一、五〇〇枚分はあった、しかも、内容は、本居宣長の原文引用も夥しければ小林氏の行文も緻密である。とても一気呵成にというわけには参らない。そこでこういう手筈を調えた。『新潮』掲載の一、五〇〇枚分をざっと三等分し、これらを順次、小林氏から返してもらう、私はそれをただちに印刷所に送り、印刷所から校正刷を出してもらい、校正者には校正作業を始めておいてもらう、この段階での著者修整は、彫刻でいえば粗彫りに留め、細部の彫琢には印刷所が活字を組上げてからの校正段階で時間をかける……、この手筈を氏も諒とされた。

実際、このとき氏の前にあったのは、往時、ミケランジェロがダビデを彫るために立ち向かった大理石にも譬えたくなる原稿の塊であった。その塊は、小林氏自身が十一年半かけて積み上げたものには違いなかったが、単行本上梓という新たな局面に立った時点では、その原稿の塊は小林氏が手ずから切り出してきた大理石とも見え、その大理石に小林氏自身が気魄ののみをふるう、そういう構図だったのである。

 

昭和五十二年が明けるなり、小林氏からは順次書込み修整稿が私に手渡された。『新潮』の連載回数は六十四回だったが、後半の第三十四,三十五、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、五十一、五十五、五十九、六十、六十一章は全面削除され、他にも大幅削除の章がいくつかあって、本としての章立ては新たに全四十九章とされた。最後の一章、すなわち第五十章が、全篇校正の完了後に書き下ろす結語に宛てられた。こうして私の仕事は、第一段階の入稿作業から、第二段階の校正作業に入った。

その校正作業も、ふつうの本であれば、一冊分まとめて校正者から編集者、編集者から著者、著者から編集者、編集者から印刷所と、テンポよく進むのである。ところが、「本居宣長」は、ここでもそうはいかなかった。『新潮』の掲載稿に削除が加わり、四〇〇字詰原稿用紙にして一、五〇〇枚分が約一、〇〇〇枚分の校正刷になったとはいえ、これをふつうの本と同じように運んでいくことはできなかった。宣長の引用文はすべて旧字旧仮名である。小林氏の文も旧字旧仮名である。それだけでも校正者はふつうの本にはない慎重さが求められる。そこでまた一計を案じた。今度は全体を十等分し、印刷所から出てきた校正刷はまず第一章から第五章までを校正者に渡す、校正者は作業を終えた校正刷を私に回し、私は編集者の目で読んでそれを小林氏に届ける、その間にも校正者は次の第六章から第十章の校正を進め、それを私に回し、私は小林氏に届け、という循環を繰り返す、あたかも音楽の輪唱のように、この循環を十回繰り返すのである。

 

編集者の仕事は多岐にわたるが、中核をなすのは目の前に現れた原稿の出来、すなわち売れるか売れないか、後世に残るか否か、その鑑定と、当該原稿をいっそう高度な完成域へと押し上げるための助太刀である。この二つは車の両輪のようなもので、同じことは芸術、教育の世界や、スポーツの世界でも言われているだろうが、本の編集者の場合は助太刀の手腕がより求められると言っていい。雑誌や新聞に掲載された原稿は、原稿の出来に関しては一応の鑑定がなされている。しかし、雑誌や新聞は、締切という時間との戦いのうちに見切り発車しなければならないこともしばしばである、やむなく心残りを残したまま発行に至ってしまっているケースも少なくない。その心残りを、本の編集者が引き継ぐのである。

一般に、本はすべて著者が書いている、編集者は著者の原稿を整理して、雑誌や本という器に盛りつけるだけの商売であると、そう思われている節がある。憚りながら、それはとんでもない誤解である。どんな天才、英才といえども、著者ひとりで文章の完璧を期すことはできない。手っ取り早いところでは、長篇小説を思い併せていただけば十分だろう。何人もの登場人物の風貌、背丈、服装、言葉づかい、職業、出身地、学歴、癖……これらを細かく描き分けて混線させないだけでも大変だが、そこに舞台となる国や都市の地理地形、風俗習慣、歴史的、政治的、経済的、国際的、学術的その他の諸要素がからみ、それらにふとした勘違いも起れば悪しき思い込みも割り込んでくる、ストーリー展開や事件の時間軸に矛盾も起りかねない。こういった側面の、混線、誤謬、矛盾等々を見逃さず、逐一指摘して作者に修正を促すのも編集者の役割なのである。

むろん、それだけではない。もっと大事なことは、この著作で著者が言わんとしていることが、この表現で読者に伝わるかどうか、著者が井の中の蛙と馴れあって独りよがりになっていないかどうか、そこに目を光らせる。さらには、著者が目指しているその著作の思想的、芸術的到達点を逸早く直観し、その到達点への進路をはずれて著者が迷走するときは本来の軌道へ引き戻し、著者が中途で尊大になったり弱気になったりして、筆鋒が荒れたり鈍ったりしたときは𠮟りつけてでも挙措を正させる。

こうした働き、役回りから言うなら、編集者は囲碁の世界で言われる「傍目おかめ八目」のプロなのである。「傍目八目」とは、いま現に碁を打っている棋士よりも、盤のわきで対局を見ている観戦者のほうが八目多く戦局を読めるということで、往々にして当事者よりも第三者のほうが物事がよく見えるということを言った格言である。したがって、編集者の給料の大半は、「傍目八目」の働きに対して支払われているとさえ言っていいのだが、なかでも編集者が先読みすべき大事な「目」は、著者の資質と適性である。著者本人はなかなか気づけない。

 

昭和四十五年の春、新潮社に入り、何人かの著者の本を造らせてもらって、私は常にこの傍目八目を自分に言い聞かせていた。したがって、「本居宣長」の校正刷を読むにあたっても、同じ心構えで臨んだ。昭和五十二年二月、そうして読んだ第一章から第五章の校正刷を小林氏に届けた。約二週間後には第六章から第十章までを届けた。さらに二週間後、第十一章から第十五章までを届けようとして、私は重大なことに気づいた。私が小林氏に届けている校正刷には、編集者の傍目八目で見てとった小林氏への相談事を鉛筆で書き込んでいる。その鉛筆書込みが、これまでに造った本の何倍にもなっているのである。

むろん、批評家として半世紀以上も文章を書いてきた小林氏の著作である、しかも一度は新潮社校閲部の目を通っている「本居宣長」である、さらにしかも、単行本に向けて新潮社校閲部の老練校正者があらためて目を通した校正刷である、歴史的、文献的な誤謬も、日本語文としての用語の適不適等も、ほとんど私の出る幕ではなかった。にもかかわらず、私の鉛筆書込みが異常に多くなっていたのは、ひとえに「本居宣長」の文章の奥の深さからだった。その文章の奥の深さが、小林氏特有の難解さと受け取られ、読者を立ち往生させてしまうであろう箇所が少なくなかった。私はそこを、私なりに合点したい一心で小林氏に質問を呈し、可能なかぎりでもう少し言葉を補ったり、表現を砕いたりしていただけまいかと該当箇所に試案を書き込んでいた、その数が尋常ではなかった。

これはいけない、と思った。相手は本居宣長である。小林秀雄氏である。七十五歳の小林氏が、六十三歳の年から十二年ちかくをかけた畢生の思索である。学校で日本文学を専攻してきたとはいえ、おいそれと三十歳の若造の手の届くところではない。この先、この書込みについては御免を願い出よう、編集者の最重要任務「傍目八目」を放棄する無責任は弁解できないが、これからまだまだ第五十章まで、小林氏の徹底推敲という思索の戦いは続く。その戦いに私がからんだのでは足手まといも甚だしい。いま優先すべきは小林氏自身の思索時間の確保である、その点の先読みが、いまの私にできる唯一の「傍目八目」である……。

三月、第十一章から第十五章の校正刷を携えて参上し、それを氏に託してすぐ、私は上記の心中を申し述べ、寛恕を乞うた。

氏は、私の言葉を最後まで聞き、私が口を噤むなり、

―君、それはちがう。

と言われた。

―僕の文章を、君くらい丹念に読んでくれる読者はいないんだ。君にわかってもらえないのでは、日本中の読者の誰にもわかってもらえない、そうではないか。僕の書いたものは、読者が読んでくれなければ僕が書いた意味はないんだ。読者に読んでもらうためには、誰よりも君にまずわかってもらう、そのためならどんな努力もする、遠慮はいらない、これまでと同じように、これからも訊いてくれたまえ……。

氏は、それからしばらく黙り、そして言われた、

―宣長さんは、とてつもなく難しいことを考えた人だ、しかし、彼の文章はおどろくほど平明だ、あれが文章の極意なんだ……。

「本居宣長」の校正作業は、初校が五十二年六月まで、再校が八月まで続き、最後の第五十章は七月に書き上げられて、第一章から第五十章までが揃った三校は九月まで続いた。私の校正刷への書込みも、九月まで続いた。

 

小林氏は、君にわかってもらうためならと言われたが、氏がどんなに懇切に手を施されようと、半年そこらで私に「わかる」はずはなかった。それでも各所、私なりに得心して九月の末に全ページを校了にした。その得心を譬えていえば、こういう事である。父親が子供を連れて歩いていて、きれいな山を目にする。あの山をごらん、どうだ、きれいだろう、と子供に言う。しかし、背丈の足りない子供は、目の前の草むらに邪魔されてはっきりとは山が見えない、それを父親に言うと、ああそうか、それではと父親が肩車をする、あるいはそばにあった木の枝で背の高い草を払いのけ、どうだ、見えたか、うん、見えた、きれいだね……。比喩の拙劣はお詫びするが、これと似た小林氏の配慮で、私にも本居宣長という山の全貌を目にすることはできるようになったのである。五十二年九月現在の私の「わかった」は、こういうわかり方だったのである。

そして思った。小林氏にここまでしておいてもらえれば、あとは私自身が、いかにして自分の視力を鍛えるかである。今見えている山の微妙な襞まで見てとる視力をいかにして得るかである。『新潮』に「本居宣長」を書き始めた年、小林氏は六十三歳だった、私も六十三歳からは小林氏のように時間をとって、十二年かけて「本居宣長」を読み返そう、三十代、四十代と、そう思い決めて準備はしていた。五十五歳で刊行を始めた『小林秀雄全作品』の脚注は、読者に読んでもらわなければ書いた意味がないという氏の思いを承けての事業であったが、私個人としては私自身の六十三歳からに備える足拵えのつもりもあった。しかし、思い通りに事は運ばなかった。六十三歳で手を着けはしたが、六十四歳から六十九歳にかけて身辺に不慮の事態が相次ぎ、気がつけば七十歳になっていた。

しかし、幸いにして、六十六歳からは小林氏の旧宅で「小林秀雄に学ぶ塾」を頼まれ、塾生諸君とともに「本居宣長」を読んできた。十二年読むとすればあと八年、この八年で、昭和五十二年二月から九月にかけての「本居宣長」の校正期を再現しようと思っている。どうだ、きれいだろうと、小林氏に指し示された名峰の美しさを、自分自身の肉眼、心眼両方の視力でしっかり見てとろうと思う。本誌『好・信・楽』のこの連載は、そういう思いで少しずつ描きとっていく「本居宣長」の全景である。

(第一回 了)

 

ブラームスの勇気

小林秀雄のレコードラックは、伊豆の大島を望む南面の居間の、庭に向かって左の隅に置かれてあった。編集者が原稿の打ち合わせなどで訪ねると、彼はきまってそのラックを背にした椅子に腰掛け、応接したという。

鎌倉八幡宮の裏山に建ち、全山の緑に取り巻かれた彼の旧宅は、「山の上の家」と呼ばれていた。小林秀雄は、四十六歳の年から三十年近く、生涯で最も長い時間をここで過ごした。「ゴッホの手紙」、「私の人生観」、「『白痴』について Ⅱ」、「近代絵画」、「感想」(ベルクソン論)、「考えるヒント」など、彼の後半生の作品のほとんどが、この空間から生み出され、畢生の大作となった「本居宣長」も、全六十四回の連載のうち、第六十回までがここで執筆されている。七十四歳となる年の一月、小林秀雄はこの家を知人に譲ったが、その時レコードのごく一部だけを手元に残し、あとは長らく使用したオーディオ装置と一緒に、ラックごと「山の上」に置いていったのだった。

そのレコードラックに残された千枚を超えるレコードを閲覧する機会に恵まれたときのことを、高橋英夫氏(「小林秀雄のレコード」)と前川誠朗氏(「小林秀雄とレコード」)がそれぞれ書いている。それらは一枚を除いてすべて戦後のLPで、「モオツァルト」を執筆していた頃に所有していた厖大なSPレコードはすでになかった。作曲家では、やはりモーツァルト、そしてベートーヴェンとバッハが飛び抜けて多かったが、彼が自ら買い求めたレコードではない、編集者が持ち込んだものやレコード会社から献呈された見本盤なども多かったというから、およそ「小林秀雄のレコードコレクション」とは呼べない、雑然たるレコード群であった。毎日音楽を聴かない日はないと自ら語った小林秀雄は、しかし、その雑然たるレコードラックの中から、日々LPを取り出しては音楽を聴き続けたのである。

さて、それらのLPレコードを作曲家別に数えていく中で、高橋氏がこれは貴重な発見ではないかと思ったのは、上記の三人に次いで、ブラームスのレコードが相当な数出てきたことであった。「ひょっとすると小林さんは、隠れブラームス派かな?」とまで思ったそうである。そしてブラームスを何かかけてみようと思い立ち、偶々手にした交響曲第一番のレコードをジャケットから抜き出したところ、盤面が汚れていて、何度もかけた跡が明瞭だったという。

 

生前、小林秀雄は、ブラームスについては一行も書き残さなかった。唯一、五味康祐との対談「音楽談義」の中に、「あの人(ドビュッシー)はドイツではワーグナーよりブラームスと近い人じゃないですか」という発言があるのみである。

その小林秀雄が、実はブラームスに深く傾倒していたという事実をはじめて示唆したのは、学生時代から彼の音楽生活を間近で眼にしていた大岡昇平であった。小林秀雄が亡くなった時、「文學界」の追悼特集号で行われた大江健三郎との対談(「伝えられたもの」)で、大岡昇平は、「小林さんはモーツァルトのほかに、ブラームスも好きだった」と伝えている。ある時、自分がモーツァルトのオペラのメロディの美しさを言ったところ、「ブラームスだって美しい」と怒られたことがあったという。

その四年後、ステレオサウンド社から「音楽談義」のカセットテープが発売され、大岡昇平の証言が裏書きされることとなった。六十四歳の時に記録されたこの録音には、小林秀雄が活字として発表した対談録では削除されていた発言が多く含まれていたが、その中に、ブラームスについての彼の熱烈な言葉が収められていたのである。

彼はまず、自分は音楽を聴かない日はない、自分の文章も音楽に影響を受けていると断った上で、今連載している「本居宣長」は、と語り出す。それを受けて、五味康祐が「先生の文章は難しいです」と返すと、小林秀雄は、自分の文章は少しも難しくはない、あれはブラームスの音楽が難しいようなもので、ブラームスのように肌目が細かく、っているのだと言う。っているとは、織物をるという意味の「織る」に、道がれるという意味での「折る」が重ねられているようで、緻密な織物を織っていくように、音楽の諸声部が表に現れたり裏に隠れたりしながら交錯する、あるいは深い森の径を歩んで行くように、主題が脇道へ逸れたり元の道へ戻ったりしながら進行する、その様を、「テーマは随分先に出るが、一度出てもれて、またどこかで出る」という言い方で表現するのである。

この「『本居宣長』はブラームスで書いている」という彼の言葉に連なる証言として、小林秀雄のもっとも身近にいた編集者の一人であり、「本居宣長」の連載を担当した元新潮社の坂本忠雄氏が、小林秀雄から直に聞いた話を交えながら書いている。氏によれば、それは、「本居宣長」は変奏で書いている、ということであると言う。

 

連載は延々と続き、先生は時に「年を取ってくると、手に唾をつけないと縦糸と横糸がしっかりと織れない。それを読者に覚られてはならないよ」と述懐されることもあったが、後から考えれば連載半ばに達した頃、「ブラームスの音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いているんだ」と言われた。幸い私は言わんとされていることがすぐに感知できた。(「ブラームスと原稿料」)

 

そしてブラームスの音楽に変奏が執拗に現れることの例として、弦楽六重奏曲第一番、ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第四番が挙げられている。

坂本氏が感知した、「本居宣長」は変奏で書いているとは、小林秀雄自身、この作品の中で繰り返し言及したところでもあった。たとえば第三十五章は、「『人に聞する所、もつとも歌の本義』という主題については、まだまだ変奏が書けそうな気がする」と結ばれているし、坂本氏も引用している第四十七章には、「私としては、同じ主題に、もう一つ変奏を書くように誘われた、という事である」ともある。さらに単行本にする際には削除された連載第五十五回の末尾にも、「どうも、又脇道に逸れた様子で、元に戻らねばならないが、これも、宣長の得た古道という実に単純で充実した主題を考えていると、おのずからその変奏の如きものがいくつでも心に浮んで来るという事でもあるのだ」との断りがある。その他、「変奏」という言葉を使っていなくとも、ある主題を繰り返し繰り返し、その都度語り口を変えながら書き継いでいくという書法は、この作品の全篇にわたって見られるもので、その変奏の重層性は、連載の回を重ねるにしたがって増す一方であった。

「本居宣長」は、確かに巨大な変奏曲の様相を呈している。そして小林秀雄自身、そのことをはっきり意識しながら、連載十一年半、推敲一年をかけたこの長編を書き継いでいったことは間違いないだろう。しかし彼が言った、「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、この作品を変奏曲のように書き進めるという一事だけを指していたわけではなかった。ブラームスが変奏曲を得意とした作曲家であったことは事実だが、この作曲形式は、ブラームスの発明でも専売特許でもない。そもそも変奏曲の大家といえば、誰をおいてもベートーヴェンを挙げなければならないだろう。ブラームスは、ベートーヴェン以後に現れた変奏曲の大家の一人であり、小林秀雄もそのことは承知していたはずである。ところが「音楽談義」の中で、彼は、、とも語っているのだ。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、批評の文章をただ変奏形式で綴るということではなかった。同じ変奏形式でも、ベートーヴェンの変奏形式ではなく、ブラームスの変奏形式でらなければならないという意味であった。そしてそれは、「本居宣長」の連載とともに、彼の批評が、ベートーヴェン的なものからブラームス的なものへと移り変わりつつあった、ということでもあったのである。

 (つづく)

 

拝啓 ルノワール先生
—梅原龍三郎に息づく師の教え—展を観て

昨秋、梅原龍三郎とルノワールの二人展、「拝啓 ルノワール先生」を、丸の内の三菱一号館美術館で観た。とくに今回は、梅原の数少ない著書の一つである『ルノワルの追憶』(三笠文庫、1952年)を予め読んだ上で臨んだので、とても面白く、その時を過ごした。

ちなみにその書は、梅原の個人日記かと見紛うばかりの率直さで、彼の熱情が冷静に綴られており、日常生活の中でルノワールが漏らした肉声も記されていて、梅原とルノワール、それぞれの人柄と信念を知る上でも貴重な資料だと思われるが、小林秀雄先生は、同書について、「いかに画家とは言え、こんな文学臭のない文章を書く人は稀だ。今日の文学青年が読んだら、ただ呆れるばかりの無邪気さ、と言うかも知れぬ、そんなものである」と記されている(「梅原龍三郎」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。

このエッセイでは、絵画の専門家ではないが小林先生の作品には永年親しんできた者として、小林先生の作品に幾度となく登場する梅原龍三郎、ルノワールの二人展を私がいかに感じたかということを、『ルノワルの追憶』に残されたルノワールの肉声も引用しつつ、綴ってみることにする。

もともと私は、梅原とルノワールの間に交流があったことは知っていたが、それが、当時二十歳の梅原による、今日いわゆる「アポなし突撃訪問」(1909年)から始まったことは、同書で初めて知る事実であった。その邂逅のシーンはとても印象的であり、当時のルノワールの様子を的確に描写していると思われるので、引用しておきたい。

「私は先生がリウマチザンであることを本で読んで知っていた。然し私はルノワルは二本の松葉杖に引懸ったぼろ服であることを知らなかった。然しぼろ服は荘厳なる首をのせて居た、就中美しく強き眼を持っている。この痛ましい有様はどういう訳か私に一層尊いものに思われた」(原文は旧字体旧仮名づかい、以下同様)

そして、二人は初めての握手を交す。当時68歳になろうとしていたルノワールの手は、リウマチにより「一寸形容するものを知らない奇怪な様に変形され」ていた。私は、別の展覧会で観た、当時のルノワールの映像を思い出した。指を使って絵筆をきちんと保持できないルノワールは、筆を手に結び付け、それを何とも思わぬ様子で、寡黙な職人のようにせっせと画を描き続けていた。

そして、この日、南フランス、カーニュにあるルノワールの家で、梅原の訪問を奥に伝えたのが、ルノワール作品のモデルとしても有名なガブリエルである。会場では、彼女がモデルと思われる小品「バラ色のブラウスを着た女」(1914年頃)も展示されており、その人となりが、匂うように私の身中に伝わってくる、印象深い作品であった。

それから、たまに共にする日常の中で、師ルノワールの教えは続く。

「画を成すものは手ではない眼だ、自然をよく御覧なさい・・・・・・」

「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことの出来るものだが色彩はタンペラマン(気質、性質/坂口注)によるものだ、それがあるのが甚だいい。何んでも手あたり次第に写生せよ、向うをよく見て、五分間を失わずかけ、それが一番早い進歩を与える」

「君は先ず眺めていることは甚だいい。先ず見ることによって解さねばならん」

このように、まずは対象をよく観ることが肝要であることを何度も諭され、そして長所を褒められることが、梅原の大きな自信に繋がっていったことは間違いないものと思われる。

師の教えはさらに続く。ある日の夕食の時、ルノワールは梅原にこう言った。

「皇帝(ナポレオン一世のこと/坂口注)は或る機械の発明者を銃殺した。機械は人から仕事を奪うからである。手を働かせるより、精巧な機械はない、今日の産出のすべての品物が美を欠くのは皆手の働かせ方が足りない故である」

ルノワールは、陶磁器の生産で知られるフランス中南部のリモージュで生まれ、陶器の絵付師として仕事を始めており、父も仕立職人であった。小林先生は、「近代絵画」(同第21集所収)の中で、ルノワールについて、「恐らく彼にとって、陶器の絵つけ師から画家になったという事は、飛躍でもなかったのであり、職人の道は、坦々として芸術家の路に通じていたのである」と記されており、「画道に必要なものは、天才ではなく寧ろ職人である」というルノワールの確信を紹介されている。

梅原自身、訪問時に筆を手にしていない師の姿を見ることが殆どなかったこと、臀部の腫物のため手術を受けたルノワールを見舞った時にも、病室に活けられたそれよりも美しい薔薇の画が、2作品出来ていて驚いた経験を記しているが、彼が、それらの実体験を通じて得たものは、ルノワールの職人性、というような簡単な言葉では片づけることのできない、梅原の身中に、深く底流し続けて行くものであったに違いあるまい。

そして、1913年6月初旬が、梅原の最後の訪問となった。そこで、ルノワールが「名刺代わりとして持って行きなさい」と準備していたものが、「薔薇」(1913以前)という作品である。しかしこの作品は、1919年、ルノワールの訃報を梅原が日本で知った後、フランス渡航費用捻出のため、彼の手を離れることになる。

会場では、ルノワールによる、2点の薔薇の作品、「バラ」と「バラの花束」(共に製作年不詳)が展示されていた。ともに梅原の寄託品であり、生き生きとした美しい薔薇であるが、自ずと目が向かうのは、これまた梅原が用意した、美しい額縁である。それぞれの画と額縁は、まるで一つの作品であるかのように見事に溶け合っている。ここに、梅原の師への深い愛情と、泣く泣く手放さざるを得なかった、前述の作品「薔薇」に対する切ない気持ちを汲み取るのは、過ぎたことであろうか。

さて、気づけば、これまで梅原の作品について一切触れてこなかったので、ここらで触れてみたい。実は私にとって、今回が初めて、一定の規模の梅原作品とじっくり向き合う機会になった。会場では、渡仏前後の、師を意識したとおぼしき作品から、没年に近いころの作品まで展示されていたが、私が、いいなぁ、と感じ入り、その絵の前で長い時間向き合うことになったのは、後年、北京を題材にして描かれた「紫禁城」(1940年)と「天壇遠望」(1942もしくは43年)であった。ともに、手前の風景の奥に緑が広がり、碧い上空には、少し図案化されたようなユーモラスな雲が、ゆったりと泳いでいる。

この作品には、一見したところ、ルノワール的なるものは見当たらない。しかしながら、ゆっくり時間をかけて眺めていると、この作品を描いている時の梅原の心持ちのようなものが、じんわりと伝わってくるのである。北京にいることを愉しんでいる、画を描くことを愉しんでいる、画家という職業を愉しんでいる。

この感覚は、今回展示されたルノワール作品で私が最も心を動かされた「パリスの審判」(1913-14年)を観た時に感じたものと同じものであると直覚した。この作品は、5、6年前となる1908年に描かれた同名作品と並べて展示してあった。旧作と比べてみると、あきらかに鋭さと明瞭さが増している。既にあのように痛ましい指の状態であったにもかかわらず、職人としての手は、そしてその職人の魂は、病に動じることなく、むしろ作品をはっきりと進化させていた。私は、この画をせっせと製作しているルノワールの姿を想像してみた。すると、ルノワールの、声には出さない満ち溢れる喜びを、身体の奥ではっきりと感じることができた。

師の教えというものは、あえて意識せずとも、教えを乞うた者の身体の奥底にしっかりと宿っている。師の教えというものは、見た目にわかりやすい方法論にあるよりも、むしろ師自身の人生との向き合い方、言い換えれば、師が自らの人生をいかに生きるべきかと格闘しているその姿を、目の当たりにしてこそ得られるものではあるまいか。気づけば私は、そう自問していた。

最後は、小林先生の晩年の文章の引用で結びたい。

「梅原さんは、最近、目を傷められ、手術でいろいろ苦労されている様子だが、七十余年間、休む事なく練磨されて来たこの画家の眼が、肉眼であったか心眼であったか、誰が知ろう。モネは肉眼が普通には働かなくなってからあの『睡蓮』を描いたのだが、これに似かよった事が、梅原さんにも起こっているかもしれない。私はひそかにそんな事を考えている」(「梅原龍三郎展」、『小林秀雄全作品』第28集所収)。

 (了)

 

松阪、本居宣長記念館、花満開

八度目の松阪は、雨模様だったが、暖かく、街の桜は満開だった。

四月七日から九日までの三日間、池田雅延塾頭を始め、池田塾の有志と三重県松阪市を訪ねた。今回は、三月にリニューアルなったばかりの本居宣長記念館訪問と、宣長の奥墓参拝が主な目的だったが、山室の山桜に会えるかもしれないという期待もあり、一行十一名、軽い高揚感に包まれながらの「大人の修学旅行」となった。

結果からいうと、奥墓の桜はまだ蕾だったが、新著『宣長にまねぶ』(到知出版社)を上梓したばかりの吉田悦之・本居宣長記念館館長に、長時間お話を伺うことができて、まさに至福、花満開の時間を過ごさせていただいた。

池田塾と松阪、あるいは本居宣長記念館とのご縁は、平成二十六年に遡る。経緯は省くが、この年の十月、およそ一五〇名の市民と、池田塾関係者四〇名が参加したトークイベント、「小林秀雄『本居宣長』の魅力~私が鞄に『本居宣長』をひそませるわけ~」が、市内の産業振興センターで開催された。鈴木英敬・三重県知事も参加されたこの会は、吉田館長、茂木健一郎さん、池田塾頭の鼎談で進行して、「いまなぜ小林秀雄なのか、いまなぜ本居宣長なのか」というテーマで、二時間にわたり白熱した議論が繰り広げられ、市民の皆さんからも熱心な質問が相次いだ。以来、イベントの幹事を務めた数名は毎年松阪を訪れており、松阪市や吉田館長の関連イベントが東京である時はお招きいただくなど、池田塾と松阪の交流は継続している。

「今回の本は、自分自身が表に出てしまった部分が多くて、どんなものかと思う」。

七日金曜日の夕刻、先行して到着した数名と記念館に伺い、さっそく『まねぶ』の感想をお伝えすると、館長は少し困った顔をされて、上のようにお答えになった。文字通り一生を宣長にかけた、研究者、実務家の迫力が詰まった名著だと思っていただけに、少し意外な気もした。しかし、これが吉田館長という方なのだ。 立居振舞はあくまで控えめ、伏せ目がちに、少し早口にお話しになる。それでも、こちらが質問すれば、十分な時間を使って答えてくださり、関連する話が次からつぎへと湧き出てくる。この日もご挨拶だけと思っていたが、気づくと一時間以上もお話を伺っていた。館長からは、記念館のリニューアルを終え、新著も完成した安堵と、少しの興奮が伝わってきた。

記念館は松阪城址内にある。ご挨拶を終え、蒲生氏郷の築いた城跡の満開の桜を楽しみながら、同行者と、今会ったばかりの館長のことを話す。仲間のうち二名は館長と初対面で、それぞれに強い印象を持ったようだった。松阪への旅とは、吉田館長に会うための旅なのかもしれないと思う。

八日土曜日は曇り空で、少し雨模様の中、午前中に奥墓に向かう。駅前に、吉田館長と、詩吟の宗匠、加藤邦宏(象山)先生らが車で迎えに来てくださり、三台の車に分乗して、町の南二里(八キロ)の山室山を目指す。「他所他国之人、我等墓を尋候はば、妙楽寺を教へ遣可申候」という宣長の遺言書通り、「他所他国之」一行は妙楽寺を目指す。

妙楽寺から始まる参道の入り口に、山つつじが赤い花をつけていたが、奥墓の山桜の蕾はまだ固かった。参拝の後、加藤先生が、宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」の和歌を、節をつけて吟じてくださる。「四尺ばかり」の墓の前に佇み、その姿をじっと眺めていると、「簡明、清潔で、美しい」という、小林秀雄の表現がいかに的確か、思い知る。

昼食を挟み、午後二時過ぎから記念館の見学。今回のリニューアルのテーマは「最初の一歩」だそうで、何の知識も持たない人でも、宣長さんや、松坂の町を知るきっかけになるような場所にしようと考えたという。そのため、二階の展示室、十八世紀の世界に入る前に、一階で心の準備ができるような工夫が凝らしてあり、エントランスの床には江戸時代の松坂の地図が描かれ、新たに配置された木のテーブルには、「宣長クイズ」のプレートが埋め込まれている。真新しい木の香りが漂うエントランスや、展示室には、多くの見学者がいて、三月の来場者は平年の三倍だったという。半世紀近い歴史を持つ記念館も、新たな一歩を踏み出したのだ。

この日のハイライトは、講座室で行われた館長のレクチャーと、質疑応答。冒頭、館長からは、リニューアルの概要についてお話があった。初心者だけでなく、宣長研究者のための「最初の一歩」も用意したつもりだという。現在の宣長研究は、細分化しすぎており、また文献の研究に偏っていて、宣長という人物の全体像が見えにくくなっている。記念館としては、トータルの宣長体験をできる場所として、専門家に見せても恥ずかしくない展示を心がけたいとのこと。

レクチャーの後、参加者からも活発な質問が出され、以下のような興味深い応酬があった。

  Q 館長はなぜ宣長に惹かれるのか?
  A 自分の対極にある存在だから。

  Q 宣長を身近に感じたことはあるか?
  A ない。宣長は遠い存在。しかし不思議に満ちていて、自分を惹きつける。

  Q 宣長はなぜ、二度にわたって自画像を描いたのか?
  A 三十年考えているが、わからない。

最後の問題は、宣長はなぜ日記を、自分の誕生の記述からはじめたのか? あるいは、なぜ奥墓を作ったのかという問題にもつながると思う。

『宣長にまねぶ』を書き終えた時、館長は、「宣長さんのことはわからないことばかり。次に本を書くなら『わからない宣長』と題するか」と思われたそうだ。質疑応答では「わからない」という言葉を何度も口にされたが、それは、「わからないものを、わからないままに受け止める」、あるいは、「不思議に耐える」という、宣長にも通じる態度なのではないかと感じた。参加者にも、その知的誠実さが伝わったのか、ただ答えや、解説を求めるだけでない、生き方そのものを問うような質問も多く出された。

館長の話は収蔵庫でも続き、気づくとすでに閉館時間が迫っていた。料理屋に場所を移しての延長戦には、学芸員の方々や加藤先生も参加され、「他所他国之」私たちと、松阪の人々との懇談は深夜まで続いた。杯を重ねながら、池田塾で学ぶことになったのも、こうして松阪に何度も足を運ぶことになったのも、宣長流にいえば、「みなあやし」だ、などと考えていた。

最終日の九日日曜日は、加藤先生のご案内で、七名が伊勢神宮参拝と賢島遊覧の道程を辿ったが、この話は別の機会に譲ることにする。

ところで、三重県はこの秋に、「宣長サミット」を計画しているという。伊勢志摩サミットを終えて、今度は宣長サミットというわけだ。「茂木さんのあの一言が、知事のお尻を叩いたんですよ」、と館長は笑う。平成二十六年のトークイベントの冒頭、茂木さんは開口一番、客席最前列にいた知事に向かって、「鈴木知事、悔しいじゃないですか。宣長さんの時代、一級の知識人は地方にいたんです。いまは松阪の優秀な学生が名古屋大学に入っても、地元に戻らないでしょ」、と熱弁を振るったのだ。それが知事を動かしたのかはわからないが、一連のイベントが企画されているらしい、池田塾としても何らかの関わりができないか模索中だ。松阪との絆がまた一歩深まる、宣長さんの姿がまた少し鮮明になる、そんな予感と期待で、胸が熱くなる。

 (了)

 

歌を詠み、いにしえにつながる

新年間もない2017年1月8日。冷たい雨の中、私は東京・天王洲アイルにいた。1年前に亡くなった英国のロックスター、デビッド・ボウイの世界巡回中の大回顧展が日本での初日を迎えたのだ。歌舞伎や京都を愛し、山本寛斎や大島渚との交流など日本とゆかりの深い彼の展覧会とあって、幅広い世代の熱心なファンが詰めかけ、大変な熱気であった。

私がいわゆる“洋楽”に関心を持ち、10歳で初めて買った洋楽のシングルレコードがボウイの「ブルージーン」という曲で、シンセサイザーやホーンの目立つ華やかな曲調に大人の音楽を感じたものだ。

回顧展にはボウイがライブで着用した衣装、写真、スケッチなど様々な物や映像などが展示されていたが、一際目をひいたのが彼直筆の歌詞や譜面だ。ボウイ自身の手から数々の名曲が綴られた場面が目に浮かぶようで、一体彼はその時何を考え、どんな気持ちで歌詞や音符を書きつけたのだろうと思った。

そこで頭に浮かんだのが、和歌のことだ。音楽好きではあるが、残念ながら音楽の素養が皆無の私には作詞、作曲といったことは到底できない。しかし、自らの気持ちを文章ではなく、何かもっと象徴的なものにまとめてみたいという欲求を漠然と抱いていた。

そんな折、近代日本を代表する批評家、小林秀雄を学ぶ場との出会いがあった。代表作の一つである「本居宣長」を十二年かけて読もうという大変な取組をしているのだが、その学びの中で歌会が行われていると知り、「これだ!」と思ったのだ。

聞けば4年前、「本居宣長」の熟読が始まったばかりの頃、講義の後でひとりの塾生が池田塾頭に尋ねた、もののあわれを知るには、どうすればいいのですか、と。塾頭は、その問いに、和歌を詠むことです、と答えた。このやりとりを傍で聞いたもうひとりの塾生がその日のうちにメールで呼びかけ、あっという間に歌会が発足した。以来、3カ月に一度のペースで会がもたれている、というのである。

記憶をたどれば、中学生か高校生の頃、国語の授業で和歌を詠んだ気がするが、今や何を詠んだのかも全く覚えていない。言うなれば、詠歌の真似事だったように思う。そんな私が改めて詠歌に取り組んでみようと思い、手を挙げて参加したのだが、これが苦しい。「三十一字に収めないといけない」という形式に縛られ、歌会は毎回苦労の連続で正直疲れてしまい、「詠歌ってそもそも一体何なんだ?」と参加を少々後悔するようにまでなってしまった。

そんな折、「本居宣長」を読んでいると、宣長は、人が持って生まれたままの「まごころ」は、事によりうれしかなしと動く、これに対して私たちは、受身で、無力で、私たちを超えた力の言うがままになるしかない、その心の動きを言葉でとらえようとすることで心がしずまっていって歌となり、感情が具体化、客観化され、人生にとっての意味が認識されるのだと言う(第三十七章)。

また、美しい景色を見たり、人との別れがあったり、何らかのきっかけで心が動く。この力は圧倒的で、人はそのなすがままにされているしかないが、何もしなければ単なる心の動揺であり、これを言葉で捉えようとすることで歌となり、その動揺がしずまると言う。自分の拙い詠歌の経験からも「そうそう!」と思わず膝を打った。

さらに、ハッとさせられたのが、この詠歌という行為は、神代の人々が神に出会った直接的な喜怒哀楽の感情を、神の命名ということで表現した行為と同じものだという小林秀雄の言葉だ。小林はこう言っている、神に名前をつけるという行為は、「『事しあれば うれしかなしと 時々に』動いて止まぬ、弱々しい、不安定な、人のまごころという、彼の『まごころ』観の、当然の帰結だったからである」(第三十九章)。

これを読んで気づいた。なぜ詠歌という行為が今日まで絶えることなく続いてきたのか? それは日本人なら朝は「おはよう」と挨拶し、夜は「こんばんは」と挨拶するのと同じように、歌を詠むということは、日本人の歴史の中で当たり前に行われてきた、理屈を超えたことであって、一見神代の時代とは無縁と思える21世紀の私にも自分事として追体験が可能な、まさに日本人の歴史を現代に生きる己れの中に思い起こすことができる行為なのではないだろうか?

この私の気づきを、塾頭に尋ねたところ、大筋ではそのとおりとされた上で、二つ指摘された。

まずは「まごころ」のことで、「まごころ」と一口に言っても、誠心誠意、思いやり、欲望などと、人と時代によりその意味するところは様々だが、ここで宣長が言う「まごころ」とは、人間誰もが生まれながらに有するあるがままの心の意である。この意味での「まごころ」は、時代が移り、人が変っても変ることがない……。

二つめは、神代の神の命名と詠歌は、根源は同じだが何から何まで同じというわけではない。神代の神の命名は、「可畏かしこきもの」(事物、現象、事件)に向かい、畏、恐惶、恐懼などの感情、あるいは認識を言葉にしたものである。歌を詠む気持ち、心持ちがこれと同じならば、今日の詠歌であっても神の命名と同じと言える……。

であれば、詠歌が「もののあはれ」を知る近道とするなら、「もののあはれ」の核心は「可畏きもの」であると理解してよいかと重ねて尋ねたところ、塾頭からは「そのとおりだよ」とうなずきながら返事があった。

私の理解も加えるならば、神の命名というしるしは、より大きな心の動きとしての「もののあはれ」をとらえる歌へと発展した。さらに、歌はより多くの情報伝達が可能な文章となり、それらの集合体としての物語へと発展した。そして、「源氏物語」という日本文学史上の一大傑作を生んだ。

日本人がたゆまず続けてきた、心の動きを残そうという様々な行為の遺産の上に私たちの現在がある。この脈々と続いた大河の源泉には神の命名があり、歌を詠むことを通じて日本人の文化の原点に立ち戻ることができるのではないか? そう思うと、詠歌の意義ということに自分なりの理解と納得が得られ、「よし、改めて取り組んでみようか」と元気が出る気がしたのだ。

外国人の、しかもロックスターであるデビッド・ボウイの展覧会に来て、小林秀雄が論じた詠歌のことを考えるというのも不思議なものだ。しかし、案外両者は似た者同士なのかもしれない、と私は思った。

デビッド・ボウイは、「ジギー・スターダスト」の煌びやかなグラムロック、「ステイション・トゥ・ステイション」のソウルミュージック、麻薬中毒からの復活に苦闘したベルリン3部作(「ロウ」、「ヒーローズ」、「ロジャー」)、そして大ヒット「レッツ・ダンス」に始まる1980年代を代表するポップスター……と、彼のイメージは時代とともに目まぐるしく変化した。

小林秀雄も、ランボオ、ドストエフスキイ、モオツァルト、ゴッホ、本居宣長と論じ、詩人、小説家、音楽家、画家、学者と様々、大批評家が変幻自在に論じ尽くしたようにも見える。でも、ちょっと待てよ。

小林秀雄は己れの人生と真剣に向き合い、まさに一生懸命に生きた人たちを論じ続け、「じゃあ、君たちはどう生きるんだい?」と問いかけ、そういう彼の問いかけが多くの人々をとらえて離さない。デビッド・ボウイも自分がやりたいと思う音楽と真剣に向き合い、作品を作り続けたからこそ、今も世界中でファンを増やし続けている。

二人とも、自分自身にいろいろなものをぶつけてみて考えた人たちで、そこから反射して見えた光は様々だったし、作品に現れた表面だけを見ていると一見バラバラに見えるかもしれないが、その核にある自分というものは終生不変だった。不断に変り続ける、しかし変らない―そうした強さを持った二人だったのではないだろうか。

  Ch-ch-ch-ch-changes      変わるんだ
  Turn and face the strange 振り返って個性に向き合え

Changes/デビッド・ボウイ

(了)

 

宣長さんの入り込んだ場所

小林先生、何をご覧になっているのですか。あっ、急に話しかけて、申し訳ありません。先生が何かを食い入るように見ておられるので、気になってしまいまして。「自分で見よ」と、はい。

大勢の人がいます。ずいぶんにぎやかですね、みんな楽しそう。何かの宴でしょうか。大きな声で何か言っています。ずいぶん昔の人たちですね、狩猟民でしょうか。野生に近いようなギラギラとしたものを感じます。でも一人だけ、近世風の着物を着た、でもお侍とはちょっと違いますね、あの男の着物、長袖ちょうしゅうというのですか、すると医者。えっ、もしかして宣長さんですか。

ほかの人たち、上古の人々とでもいうのでしょうか。でも、みんな、聡明そうな目をしています。考えてみれば当然ですね。上古の人々こそは、大自然の過酷に耐え、またその恵みに与かって、自力で生き抜かなければならなかったのですから。

<<宣長は、自分等を捕らえて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向かい、どういう態度を取り、どう行動したらよいか、「その性質情況アルカタチ」を見究めようとした大人達の努力に、注目していたのである>>(1)

上古の人々は、大自然の猛威と豊穣とを、何とか理解しようと、文字通り命がけだったのですね。

<<彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔らかく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混じる、多種多様な事物の「性質情状」を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる>>(2)

あの人たちの言葉、いえ、言葉を話しているのでしょうか。叫んでいるような、うめき声のような。歌っているようにも聞こえます。「本当にそう思うのか、耳を澄ませよ」と。ううむ。ううむ。不思議だ。何一つ分かるはずがないのに、何かが胸に伝わってきます。

<<これは、言霊の働きを俟たなければ、出来ないことであった。そして、この働きも亦、空や山や海の、遥か見知らぬ彼方から、彼等の許に、やってきたと考えるほかないのであった>>(3)

それにしても、伝わる、というか、なんとなく分かることが不思議です。きっと宣長さんには、彼らのうれしさ、悲しさ、誇らしさ、悔しさのようなものが、伝わってくるのでしょう。それだけではない。上古の人々は、いかにして自然の猛威を生き抜き、自然の恵みに与るか、そのために、五感を総動員して冷徹に外界を観察し、慎重に判断し果断に行動しているに違いない、そういう真剣さを感じ取ることができたのでしょう。

<<「伝説」は、古人にとっては、ともどもに秩序ある生活を営む為に、不可欠な人生観ではあったが、勿論、それは、人生理解の明瞭な形を取ってはいなかった。言わば、発生状態にある人生観の形で、人々の想像裡に生きていた>>(4)

こんなふうにして、上古の人々は、世界を理解しようとしていた。そしてそれを後世に伝えてくれたからこそ、私たちの人間としての生存がある。上古の人々が、生物としてのヒトの生存と自然界のかかわりに、初めて秩序を与えようとしたそのとき、人間にとっての生活というものが生まれた、そういうことでしょうか。

それが伝説つたえごとという形をとった。きっと、途方もない時間をかけ、無数の人々のかかわりの中で、少しずつ出来上がったのでしょう。

<<思想というには単純すぎ、或いは激しすぎる、あるがままの人生の感じ方、と言っていいものがあるだろう、目覚めた感覚感情の天真な動きによる、その受け取り方があるだろう、誰もがしていることだ>>(5)

そうか、あるがままの感じ方か。確かに僕らは概念を振り回してしまいます。何々であると認識するとか、此々であると判断するには証拠が足りないとか。でもそれは、誰かの作った概念という道具を介してものを見ているだけでしょう。

単純であるがゆえに激しい感じ方、借り物の概念で曇らされていない目覚めた感覚、そういう受け取り方こそが、誰もがしているはずの、つまり人間本来の、外界の受け取り方だというわけですね。

<<其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔らかく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混じる、多種多様な事物の「性質情状」を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる。これこそ人生の「実」と信じ得たところを、最上と思われた着想、即ち先ず自分自身が驚くほどの着想によって、だれが言い出したともなく語られた物語、神々が坐さなければ、その意味なり価値なりを失って了う人生の物語が、人から人へ大切に言い伝えられ、育てられてこなかったわけがあろうか>>(6)

多種多様な事物の性質情状とは、何でしょうか。言葉にする前の何かのことでしょうか。

するとこういうことですか。まだ人々がまだ文字を知らなかったころ、言葉は発話者ごと、発話場面ごとの多様な意味を抱えていた。しかし話し言葉は、いつか消えてしまうはかないものであった。文字があって初めて、意味内容が特定され、言葉として安定する。しかし、無文字の時代のほうが、ことばはむしろ豊かであり、それが長い年月を経て、伝説つたえごととして成熟していった。

<<古人の素朴な人情、人が持って生まれて来た「まごころ」と呼んでもいいとした人情と、有るがままの事物との出会い、「古事記伝」のもっと慎重で正確な言い方で言えば、―――「天地はただ天地、男女メヲはただ男女、水火ヒミヅはただ水火」の、「おのおのその性質情状」との出会い、これが語られるのを聞いていれば、宣長には充分だった>>(7)

そうか、話し言葉が生まれ育っていくことばかりではないのですね。もっとその奥に、まごころと有るがままの事物が出会う瞬間がある。天地はただ天地、男女はただ男女、水火はただ水火という受け取り方によって、言葉そのものが生み出される瞬間がある。宣長はその様子を聞いていた。

<<この受け取り方から、直接に伝説は生まれて来たであろうし、又、生れ出た伝説は、逆に、受取り方を確かめ、発展させるように働きもしたろう。宣長が入込んだのは、そういう場所であった>>(8)

でも、そのときにはまだ、言葉もなかったのではないか。言葉になる直前の単純かつ激しい受止め方が、肉声を介して、上古の人々の間に渦巻いていた。そして、あるとき気付くと、私たちすべてを取り囲む国語というものが生まれていた。

宣長さんは、そして小林先生も、言語の発生という途方もない時間の経過を一瞬に凝縮させた場面にまで入り込んでしまった。そういうことでしょうか。

最後に、私なりの自問自答をお預けいたします。小林先生のお返事をいただくためには、「本居宣長」を読み返すほかはないのですが。

(自問自答)
 宣長は、「上古言伝へのみなりし代の心に立かへりてみれば、其世には、文字なしとて事たらざるはなし」と述べ、小林先生は「自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人性の基本的構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていた」と述べられています。宣長は「古事記」の注釈により、古人たちの人生観が伝説という形で生れ出た場所に入り込み、先生も「古事記伝」の訓詁により、これを追体験する様を語られます。そこには、書かれた文字の背後にそれに先行する話し言葉の在り様を見出そうという段階をさらに遡り、古人にとっての人生の在り方すなわち道についての思いが、言葉という形を取る瞬間にまで至ろうとする気迫を感じますが、いかがでしょう。

[ 注 ]
(1) 小林秀雄「本居宣長」第四十九章、『小林秀雄全作品』第28集p.188より
(2) 同p.189より
(3) 同p.189より
(4) 同p.187より
(5) 同p.187より
(6) 同p.189より
(7) 同p.188より
(8) 同p.187より

 (了)

 

小林秀雄における「ポスト真実」について

昨年末、世界最大の英語辞典である「オックスフォード英語辞典」は、2016年を象徴する「今年の単語」(ワード・オブ・ザ・イヤー)に、形容詞「post-truth」を選んだ。客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す言葉で、英国のBrexitや米国大統領選挙などを反映した流行語だという。この選定に半ば納得しつつも、もし小林秀雄氏がご存命でコメントを求められれば、「物事が本物か贋物かなどというのは必ずしも事の本質ではないのだ」と一蹴されたような気もするのである。

昨今、こうした時流への危機感もあるのか、知識層を中心に、政治家の主張などが客観的データや科学的根拠に基づくものかどうかという議論が花盛りである。確かに、商品の効能、個別の施策の効果などにおいて客観的事実が重要であることは否定できないし、内外を問わず、あまりに客観的事実をないがしろにした情緒的な議論が幅を利かせているという批判もあろう。だが、では、客観的事実をみつめることで、我々が正しき道を選べるのかと考えてみると、答えはそう簡単とも思えない。問いかけが本源的であればあるほど、例えば、我々がいかなる人生を歩むべきかといった問いに対して、客観的な事実が容易に答えを導いてくれるとは思えないのだ。

小林秀雄氏が詳述する、本居宣長と上田秋成の呵刈葭かがいか論争(「本居宣長」第四十章~、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.90~)は、まさに、この問題に光を当てている。「古事記」、特に神代紀の記述は、時に荒唐無稽な描写を含んでおり、そうした描写を「客観的な事実」と認めることは困難ではある。しかし、現代の我々から見た客観性・科学性の乏しさを理由に、古代人の物語や心情と正面から向き合わぬという姿勢は、我々が古代の物語から自らの姿を見つめる貴重な機会を奪ってしまうことになりかねない。

「この『さかしら』が、学者等と神書との間に介在して、神書との直かな接触を阻んでいる、というのが実相だが、彼等は、決してこの実相に気附かない。何故かというと、彼等の『さかしら』は因習化していて、彼等はその裡に居るからだ。彼等は、神書の謎に直面した以上、当然これを解かねばならぬという顔をしているが、実は、解くべき謎という、自分等の『さかしら』が作り上げた幻のうちに、閉じ込められているに過ぎない」(「本居宣長」第四十三章、同第28集p.120)

大切なことは、古代の物語やそこに表された心情に直截に向き合うことである。そのためには、古代人を科学的知識に欠けた未開人と見下したり、その記述から目をそらしたりするのではなく、むしろ、古代の人々が、現代の科学的常識などに依存せず、然るがゆえに、人間の本性のみに基づき、ある種の畏敬の念をもって自然や事物に向き合っていた、その同じ心持ちで、彼らの残した物語を追体験することではないか。

小林秀雄氏が、

「文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられてきた。(中略)宣長には、『世の識者モノシリビト』と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その『正実マコト』とは、其処に表現され、直かに感受できる国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の『正実』に他ならなかったのである」(「本居宣長」第四十二章、同p.116)

また、

「宣長は、古伝説を創り、育て、信じて来た古人の心ばえを熟知しなければ、我が国の歴史を解く事は出来ぬ、神々が、伝統的心ばえのうちには、現に生きている事は、衆目の見るところである、そういう風に考えていた。(中略)今もなお古伝説の流れに浸った人々の表情は、故意に目を閉じなければ、誰にも見えている。それは、私達が国語の力に捕えられているのと同じように、私達の運命と呼ぶべきものである」(「本居宣長」第四十九章、同p.189)

と述べているのは、まさにこの点を示すものである。

小林秀雄氏は、「本居宣長」以外にも、様々な著作において、同じ問題を問いかけている。

「ゲエテが、エッケルマンにこんな事を言っていた。(中略)ロオマの英雄なぞは、今日の歴史家は、みんな作り話だと言っている、恐らくそうだろう。本当だろう。だが、たとえそれが本当だとしても、そんな詰まらぬ事を言って一体何になるのか。それよりも、ああいう立派な作り話を、そのまま信ずるほど吾々も立派であってよいではないか」(「歴史と文学」、同第13集p.228)

「この『対話篇』は、パイドロスがソクラテスに向い、本当のところを打ち明けて戴きたいが、あなたは、このような神々の物語を、事実あった事とお信じになるかという質問と、これに対するソクラテスの答えから始まっている。ソクラテスは、もし私が当今の利口者なみに、そのような伝説は信じないと言えば、妙な男と思われないで済むだろうがと言葉を濁し、このような面倒な問題を、あまり単純に受け取っているパイドロスの、無邪気な問いをはぐらかすのだが、その婉曲なはぐらかし方に、全篇を形成する種が宿っている。(中略)気に入らなかったのは、当時のアテナイの知識人の風潮、神話に託された寓意を求めるという、学問めかした神話解釈であった。宣長は『神代の伝説ツタエゴトアヤしさ』を『つたなき寓言』と解した熊沢蕃山の説を、きっぱりと斥け、貴下のように、『コトワㇼ深げに見え聞えたる』言を繰っているようでは、神書の『そこひなき淵のさわがぬことわり』には到達出来ないとした」(「本居宣長補記Ⅰ」、同第28集p.257)

冒頭に述べた、我々自身のもっとも本質的な問いかけ、「いかに生きるべきか」を自問自答するにふさわしい材料は、先人の歴史、すなわち古来の物語や伝承のなかにある。先人がいかなる環境において、何を感じ、思い、どのように行動したのか。我々はどこに共感し、反発を覚えるのか。我々一人一人が歴史に対峙し、己れ自身を再認識し、そして自分がどのように生きるべきかを思索する。そうした思索を行う上で、歴史や伝承に含まれる様々な事象、言い伝えの客観性や科学的根拠を批判し、その物語や伝承を否定し、あるいは寓言と解することには何の意味もない。それどころか、むしろ、現代科学では解明され得ない古代の人々の物語の中にこそ我々が噛みしめるべき人生の道標や奥義が含まれている場合が少なくないのではないか。

小林秀雄氏は、呵刈葭論争や寓言説への宣長の反駁、ゲエテの言葉、パイドロスへのソクラテスの返答、さらには夫を戦場で亡くした夢を見た婦人についてのベルグソンの回想(「信ずることと知ること」、同第26集p.178)など、「客観的事実」や「科学的思考」の有効性・絶対性について、幾度となく疑問を呈するとともに、古代人の生活を領していた「実体験」の重要性を説く。

氏は、現代科学をはじめとして、託するものがありすぎて自律的思考を失いがちな現代人に対し、秋成ほかを参照しつつ、根深い常見や分別、「さかしら」、言い換えれば、「客観的事実信仰」から自らを解き放ち、古代人の「あやし」と感受する心ばえに「直く安らか」に向き合い、古伝を観照することによって雑音抜きに精神の鋭敏な活動を得ることを求めているのだ。

そうした態度こそが、漢心からごころを排した大和心であり、己れが何者で何ゆえに生きるかという問いの答は、この、いわば歴史への向き合い方を通じて初めて得られることを、我々は、今こそ、しっかりと再認識しなければならない。

「ポスト真実」という流行語は、存外、その命名の本義を超えて、すでに社会に深く根を下ろしているのかもしれない。

 (了)

 

音楽の起りと歌の起り

「読書とは自分を読むことです、作曲とは自分を聴くことです」というのは、私の作曲の師である佐藤眞先生が、何かの折にくださった手紙のなかの一文です。そのとき、私は東京芸術大学の学部生で、この言葉の真意はわからずとも、なにか大事な言葉をくださっているということは、直感でわかりました。何度も読み返し、いただいた手紙は、お守りとして持ち歩いていました。

それから数年が経ち、これまでの自らの経験を通じて、師の言葉の意味が、実感として、身体でわかるようになってきました。いまの私にとって、作曲とは、音楽言語という、長い歴史を経て養われた巨きな意味構造を使わせてもらい、自らの思考がどのような道筋を辿るのか、すなわち、自分が何者であるのかを、自分自身で知るような行為です。私たちの心は、おのずから、音という、物理的には空気の振動にすぎないものに、美しさや感情など、様々なものを聴き出そうとします。私は作曲という行為を通して、その心の働きの謎を探り、自分の、そして、ひとの心が如何につくられているかを知ろうとしているのです。おそらく、すべての芸術的な行為は、そういうものであろうと思います。

そして、「読書とは自分を読むこと」であると、特に実感するのは、小林秀雄先生の「本居宣長」を読んでいるときです。「本居宣長」を読み返すたびに、以前読んだとき、こんなことが書いてあったかしら、と思うような新しい発見があるとともに、この部分はまるで自分のために書かれているようだ、と錯覚してしまうような一節が「現れ」ます。私がその一節に出会うのと、その一節が私に向かってくるのは、全く同時といった感覚で、その一節は、光源となって私の内面を照らし、その影かたちの細部までを浮き上がらせるのです。つまり、自分がいま何を考えているのか、何に興味があるのか、何を必要としているのか、自らもはっきりと知覚できていない、自身の内の奥底にある問題に、「本居宣長」を読むことによって、気づくことができるのです。

前回「本居宣長」を読み返したとき、妙に目についたのは「宣命譜センミョウフ」という言葉でした。この数年、仏教の声楽である声明ショウミョウの取材を続けている経験から、「宣命譜」は声明でいう博士ハカセのようなものであろうと推測しています。声明の楽譜では、詞章(歌詞であるお経)に、博士ハカセとよばれる線や、点や、言葉書きなどが付けられ、音高と旋律形(どのように音を伸ばし、装飾して唱えるか)が示されています。「今は伝わらないが、『宣命譜』という古書があった事が知られている。恐らく、儀式をととのえて、詔書をる際の、その『読揚ヨミアゲざま、音声の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物』と思われるが、宣命という『ワザ』は、余程やかましいものであった。——『神又人の聞て、心にしめてカマくべく、其詞にアヤをなして、美麗ウルハシく作れるものであったと言う」(「本居宣長」第三十五章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集46頁15行目)

この部分を何度も読んでいると、「ワザ」と「アヤ」について深く探る必要を感じます。数行後には、以下のように書かれています。「神々の間を行き交い、神々の間を動かしている言葉は、ココロとしての、と言うより、むしろアヤとしての言葉であったという事になる。宣命の言霊は、先ずるというワザが作り出す、音声のアヤに宿って現れた。これが自明ではなかった人々に、どうして『宣命譜』などが必要だったろうか。何も音声のアヤだけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれ少なかれ意識的に制御されたアヤは、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めにアヤがあったのであり、初めに意味があったのではないという言い方も、無理なく出来るわけであり、少くとも、先ず意味を合点してからしゃべり出すという事は、非常に考えにくくなるだろう」(同48頁1行目)

さらに、「アヤ」については、小林先生は、本居宣長が「石上私淑言」巻一に書いている以下の文章をたびたび引用しています。「猶かなしさの忍びがたく、たへがたきときは、おぼえずしらず、声をささげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばはりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよく文ありて、其声長くうたふに似たる事ある物なり。これすなはち歌のかたち也。ただの詞とは、必異なる物にして、かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずから文ある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(同第27集259頁3行目)

以上の参照箇所から、「ワザ」とは、ひとの内の心の動きを外に現わそうとする働きのことであり、「ワザ」と「アヤ」の間には「ワザアヤを作り出す」という関係性があることがわかります。また、「アヤ」とは、言葉の音声に関わる部分であり、且つ、眼の表情、身振り、態度など、「ワザ」によって、ひとの内の心の動きが身体に表面化されたものでもある、と読み取ることができます。

私たちは日常の会話のなかで、気持ちを伝えようとするときには、緊張して、声が上ずったり、どもってしまったりします。聞いてもらいたい、伝えたいと強く思うときほど、声は大きくなり、身振り手振りがつき、しつこく繰り返して口に出してしまいます。このような、ひとの無意識にしてしまう動作が「アヤ」のひとつの側面であり、いま現在も、人々の関わり合いのなかで「アヤ」が取り交わされているように、「古事記」の時代には、人々の間で、神々の間で、そして、神とひととの間で、当たり前に「アヤ」が取り交わされていたのでしょう。そうすると、どうにか祈りを聴いてもらいたい、神々の注意を引きつけたいと考えたときに、切実な願いであればあるほど、音声の強弱、長短、音高の変化、抑揚などで、祈りの言葉の読み上げ方を工夫したのは、極めて自然なことのように思われます。その上で、祈りの言葉の読み上げ方の工夫が発達し、ますます複雑化して、旋律のようになったところに、声楽が始まったのだと考えられます。

音楽は、グレゴリオ聖歌、前述の声明など、洋の東西を問わず、声楽からその歴史が始まっています。その声楽の起源は、「神と人とのアヤの取り交わし」であるといえるでしょう。また、器楽の歴史は、声楽の旋律をなぞったり、伴奏をしたりすることから始まっています。つまり、音楽のすべては「アヤをなす」事の延長にあり、「アヤ」という表現性の、音声としての面が発達したところに、音楽があるのではないでしょうか。

さらに、宣長のいう「歌といふ物のおこる所」とは、音楽という物のおこる所でもあるのではないでしょうか。ここで言われている「歌」とは、「古事記」「日本書紀」に見られる古代の歌謡や、「萬葉集」の短歌、長歌、旋頭歌などの和歌ですが、宣長の言葉を承けて小林先生は次のように言います。「宣長は、『歌といふ物のおこる所』に歌の本義を求めたが、既述のように、その『歌といふ物のおこる所』とは、すなわち言語というものの出で来る所であり、歌は言語の粋であると考えた事が、彼の歌学の最大の特色を成していた。『物のあはれにたへぬところよりほころび出て、おのづから文ある辞』と歌を定義する彼の歌学は、表現活動を主題とする言語心理学でもあった。(中略)詞は、『あはれにたへぬところより、ほころび出』る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは詞を手段として行われる、という事である」(同第三十六章、同第28集58頁2行目)

悲しい事や堪え難い事があったとき、つまり、外から何か圧力がかかったとき、私たちは自然と口をつぐみ、息がつまり、呼吸が止まり、緊張の状態になります。すると、その状態から解放されるために、自身の内部に感じられる混乱を整えようとする働き、要するに「ワザ」が起こり、思わず知らず長くため息をつきます。そのような、ひとが極めて自然に取る動作から「ほころび出」た、言葉以前のひとつの声が、言葉の基礎であり、そのひとつの声の繋がりで成り立ったものが、言葉であり、言語であるのだと、宣長はいっているのでしょう。

言葉は、ひとの内部の働きが整えられてこそのもの、ひとの身体から発せられるエネルギーのようなものなのです。音楽も同様に、「ワザ」によって生まれた、音楽以前のひとつの音を基礎とし、その繋がりで成り立っています。つまり、言葉と音楽の基本は、ひとが己れの感情をどうにかしようとする、ひとの内部の働きであり、言葉と音楽の表現の質について問おうとすると、その元である、感情の質を問うことになります。ひとの身体性を無視して、言葉と音楽を考えることはできないのです。東洋も西洋もない、ひとに元来備わった内部の働きから、音楽の発生の起源を考える、それが音楽をつくるものの使命だと思っています。

 (了)