奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年八月号

発行 平成二九年(二〇一七)八月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

本誌には、随想・随筆のページとして、さしあたり四つの部屋を設けている。
  「本居宣長」自問自答
  もののあはれを知る
  美を求める心
  人生素読
 の四部屋である。

 

「『本居宣長』自問自答」は、文字どおり小林秀雄先生の「本居宣長」を読んでの自問自答から生まれる随筆の部屋である。毎月一度の「小林秀雄に学ぶ塾」の席へ各自300字の質問を提出し、その300字に基づいて約5分、自問と自答を口頭で述べる。その自問自答に池田が参考意見を添え、それらを後日、各自が熟考敷衍して3000字ないし4000字の随筆として書くという寸法だ。

「もののあはれを知る」「美を求める心」は、いずれも小林先生が終生心がけた生き方の根本である。これを私たちも心がけ、四季の折節、日々の折々、わずかでも「もののあはれを知」りえたという経験、「美を求め」えたという経験に行き会えば、それをすかさず綴っておこうという部屋だ。

「人生素読」の「素読」とは、たとえば『論語』を、一語一語の意味を調べたり文意を説明してもらったりはせず、ただただ先生の読むとおりに声に出して読む、そういう読み方である。小林先生は、岡潔さんとの対話「人間の建設」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)で、こう言っている、

─(素読をさせると、子供は)『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っている。……

そこで、さて、その次である。

─『論語』はまずなにをいても意味をはらんだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たした。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです……。

この教えにしたがって、私たちは後ればせながらであるが、またいささか変則的ながらであるが、ベルグソンや「古事記」や「源氏物語」を素読する会をもっている。それらの詳細については前号で有馬雄祐さんが書いたが、その延長線上で「素読」という言葉を本誌は広義に用いている。すなわち、「『すがた』に親しむ」という「素読」の意義を拡大し、書物にかぎらず人であれ自然であれ、「『すがた』に親しむ」経験を綴っていこうとするのである。さらに言えば、「小林秀雄のすがた」に親しもうとするのである。

 

そういう四つの部屋と、いつでも行き来できる部屋が「巻頭随筆」である。

今月は、茂木健一郎さんに書いてもらった。そのタイトル「稲葉天目と偶有性」の「偶有性」は、もう十年にもなるだろう、茂木さんが口にし続けている生命哲学の言葉である。ただしこの言葉は、国語辞典などを引いて理解しようとすると、茂木さんの見ようとしているものとは真反対のものを見てしまうことになるから注意が要る。茂木さんには、『生命と偶有性』という書名の新潮選書(2015年刊)があるが、その本の紹介文にはこうある。

─生命の本質は、必然と偶然のあいだに横たわる「偶有性」の領域に現れ、それは私たちの意識の謎にもつながってゆく。私が「私」であることは必然か偶然か。偶有性と格闘することで進化を遂げた人類の叡智をひもとき、激動の世界と対峙する覚悟を示す。「脳と仮想」の脳科学者がつかんだ、21世紀の生命哲学。……
 そして、本誌今号の「稲葉天目と偶有性」には、「稲葉天目」という稀代の美と出会ってさらに新たな視野が示され、こう記されている。

─生命は、完全さや均衡とは程遠い領域にある。もし完全であるならば、そこで動きが止まってしまう。均衡であれば、変化する必要はない。……

─生命の本質は偶有性にある。偶有性とは、つまりは秩序と無秩序の共存である。……

私が編集者として初めて茂木さんに原稿を頼んだのも十年余り前である。茂木さんは、小林先生を文章で読んでいた間はピンときていなかった、ところが、テープで講演を聴いて仰天した、脳科学でこれだと閃いた茂木健一郎のテーマ、その生命哲学を、小林先生はもうとっくに語っていた、と早口で話された。今回の原稿が送られてきたとき、あの日の茂木さんと小林先生の講演がまざまざと思い出された。

本誌今号、茂木さんの「巻頭随筆」は、「『本居宣長』自問自答」でもある、「もののあはれを知る」でもある、「美を求める心」でもある、「人生素読」でもある。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三 道の学問

昭和四十七年(一九七二)九月二十六日、大阪の毎日ホールで『円地文子訳 源氏物語』の刊行記念講演会が催され、演題を「宣長の源氏観」として講壇に立った小林秀雄氏は、本居宣長という人の生涯に波乱はない、波乱はすべて頭の中にあった、その頭の中の波乱たるや、実におもしろいと語り始め……、と前回の冒頭で書いた。氏はあの日、その話をこう続けた。

―宣長さんは学者です、しかし、今の学者とは大変違うということをまず考えないといけない。今の学問はサイエンス、科学だが、宣長さんのころの学問は違う、「道」です、人の「道」を研究したのです、人間いかに生きるべきか、と。あのころ、この問いに答えられないような者は学者ではなかったのです。……

ところが、である。

―今の学者は、そんなことには答えなくていいのです、何かを調べていればいいのです。私は学者だ、これはこうこう、こうであって、こうであると、調べることが私の仕事だ、今の学者はそう言うのです。だから諸君が、「先生、私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」と訊いても、先生は答えてくれない。それが今の学問です。学問は、今はそのぐらい冷淡になってしまった。僕らの一番肝心なことには触れません。……

では、「学問」は、どうあるべきなのか。

―僕らの一番肝心なことって何ですか、僕らの幸不幸ではありませんか。僕らはこの世にたった何十年かの間だか生きていて、幸福でなかったらどうしますか。この世に生きていることの意味がわからなかったらどうしますか。そこを教えてくれないような学問は学問ではない。昔の学問は、学者は、人生いかに生きるべきか、それをどうかして人に教えようとしたのです。宣長さんもそうです。今の学問とは全然違うのです。……

 

同じ講演会の控室で、小林氏は、「『本居宣長』は思想のドラマを書こうとしたのだ」と言った。前回は、この言葉から始めて、氏の言う「思想」とはどういうものかをまず眺めた。氏によれば、「思想」とは集団を使嗾しそうするイデオロギーではない。私たちの精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、それが私たちの思想というものである、そしてこの「思想」は、そういう試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。小林氏の言う「思想」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった。

これを承けて、いまあらためて氏の「思想のドラマ」という言葉と、「頭の中の波乱」とを取合せてみる。すると、どうなるか。本居宣長の「思想」とは、すなわち彼の「頭の中の波乱」である。その宣長の「頭の中の波乱たるや、実におもしろい」のあとに、氏はこう言った、―宣長さんのころの学問は、「道」です、人の「道」を研究したのです……。とすれば、「本居宣長」という「思想のドラマ」の「思想」とは、「道」であったと言えるだろう、本居宣長と対座し続けた氏の脳裏では、「思想」と「道」とは同義であった、少なくとも相即不離の関係にあった、と言えるだろう。

 

そういう次第で、今回は、「思想のドラマ」を味わうための身支度として、「道」という言葉を素描していく。「本居宣長」で、「道」という言葉が現れる最初は、第三章である。第一章、第二章で宣長の遺言書を読み上げたあと、小林氏は宣長の出自に目を移し、宣長が自家の由緒を記した「家のむかし物語」を引く。宣長は、学者としての生活を保つため、内科と小児科の医者になっていたが、内心、それを潔しとはしていなかった、後ろ暗く思っていた、しかし……、

―医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこころ也。……

「心と」は、自分の考えで、自分から求めて。先祖が興し、代々伝えた家、これを自分の考えひとつで損なうようなことがあっては、道に背くと言うのである。
続いて第四章、やはり「家のむかし物語」の文中である。

―のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いささか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこころを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん。……

「くすし」は医師。「物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして……」は、学問の力によって多くの本を書き、日本における道の意味を説きひろめ、世間にも知られるに至ったのは……というほどの意である。宣長がこの文を書いたのは、六十九歳の年で、もう畢生の大業「古事記伝」も書き上げていた頃であったが、そういう人生の収束期に来し方を振り返るなかで記す「物まなび」は、「大御国の道のこころ」を説きひろめようとしたものだったのである。

 

「本居宣長」において、「道」という言葉は、こういうふうに現れてくるのだが、小林氏が、宣長の学問は「道」だ、人間いかに生きるべきかと人の「道」を研究したのだと言った意味での「道」が、正面から見渡される最初は第五章である。

宣長は、伊勢松坂の商家に生れたが、この子は商いには向いていないと早くに見てとった母の英断によって二十三歳の春から京都に遊学し、堀景山という儒医のもとで医者になるための修業に励むとともに儒学も学んだ。遊学は、二十八歳の冬まで続いたが、その間のことである、宣長は、十九歳で和歌に志し、日々熱心に和歌を詠んでいた、それを、ある塾生が咎めてきた、われらの本分は医学と儒学である、にもかかわらず、儒学をそこそこにして和歌に現をぬかすとは何事だ、という意味のことを言ってきたのであろう、この塾生に、宣長は反駁の手紙を書いた。大意は小林先生の手で写し取られている。

足下そっかは僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、あるいはむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」所以のものではない。現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。……

「足下」は貴君。「聖人」は人格・行為ともにすぐれ、世の師表として仰がれる人、といった意味であるが、特に中国の古伝説に登場し、徳をもって天下を治めたとされる尭、舜をはじめ、周王朝初期の周公旦ら、古代の優れた帝王、あるいは為政者をさして言われる。そして「聖人の道」とは、彼らの時代の古記録を孔子が集め、それを今日『書経』の名で知られる書物として編んで、古代の名君、為政者たちの模範的な言辞を残した、そこに基づいて言われる社会秩序の規範である。こうして生まれた「聖人の道」が、後世、「儒」と呼ばれ、孔子の教えとして尊ばれていたのだが、宣長は、異を唱える。

―「己ガ身ノ瑣瑣ササタルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」、足下は、「人ニシテ礼義無クンバ、其レ禽獣ヲ如何イカンセン」などと言うが、「聖人ノ書ヲ読ミテ、道ヲ明ラカニシ、而シテ後ニ、禽獣タルヲ免レントスルカ」、異国人は、そんな考えでいるかも知れないが、自分は日本人であるから、そうは考えていない。一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇チギノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。……

「万物ノ霊」は、「万物の霊長」とも言う。万物のなかで最もすぐれたもの、である。人間が禽獣に勝って万物の霊でいられるのは、「聖人の道」を学んだりしてのことではない、その根本は、「天神地祇」すなわち天の神、地の神の「寵霊」のおかげである、それだけである、自分はそう考えている、と宣長は言う。「寵霊」は、尊い恵みである不可思議な力、「頼ル」は「よる」である。

―従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義自ら備るという状態があったのも当然な事である。この見地よりすれば、聖人の道の、わが国に於ける存在理由は、ただ「風俗漸ク変ジ」「勢ノムヲ得ザル」ものによる必要を出ないものだ、という事になる。自分が六経りくけい論語を読むのも、その文辞を愛玩するだけであり、聖賢の語にしても、「或ハ以テ自然ノ神道ヲ補フ可キモノアレバ、スナハマタ之ヲ取ルノミ」。……

そういう次第だから、日本における「聖人の道」の存在理由は、時代が移って生活様式が変り、社会の情勢・状況によっては改善・改良が必要になる、そのときの手本として役に立つ、それだけである。また「六経」は、『詩経』『書経』『易経』など、儒の根幹とされている書物であるが、これらの書物は『論語』も含めてそこに書かれている言葉を楽しむだけであり、聖人・賢人によって言われていることも、自分は「自然ノ神道」を補うと思われるものを採るだけだと言うのである。

小林氏は、第二章で、―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたりこれに反撥したりする、非常に生き生きとした思想劇の幕がいた、この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった、と言っていた。いまここで、儒と和歌をめぐって見られた塾生との対峙は、まさに小林氏が言う意味での思想劇そのものである。ここではまず、「聖人」という衣装と、「神」という衣装をまとって「道」という「思想」が登場した。「本居宣長」という長篇思想劇の幕が、徐々に上がっていくのである。

 

小林氏は、第二章で、こうも言っていた、―この誠実な思想家は、自分の身丈にしっくり合った思想しか決して語らなかった……。宣長の返書に、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」という言葉、「己ガ身ノ瑣瑣ササタルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」という言葉があった。この返書でも、宣長は、「自分の身丈にしっくり合った思想しか」語ろうとはしていないのである。

和歌好きを咎めた塾生より早く、宣長の仏教好みを難じてきた塾生もいた。そこも小林氏の本文から引こう。

―彼が仏説に興味を寄せているにつき、塾生の一人が、とやかく言ったのに対し、彼はこう言っている。「不佞フネイノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、コレヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タダニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モ亦、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。……

「不佞」は小生。小生が仏教の本を読むのは、これを好み、信じ、楽しんでいるのである、この、好み、信じ、楽しむは、仏教の本だけではない、儒教や道教や諸氏百家の本も同じである、自分の「好、信、楽」という態度からすれば、歌舞音曲から山川草木に至るまで、天地の万物みな小生の「賞楽」の対象である……。

ここにも、自分の身丈にしっくり合った思想しか語ろうとしない宣長がいる。いやむしろ、小林氏の言う宣長の「身丈」とは、宣長が自ら言っている「好、信、楽」であると読んでいいかもしれない。宣長は、わが身をとりまくありとあらゆる物事に感じ、それをことごとくで楽しむという態度を保ち続けていた、すなわち、「風雅に従う」ということに徹していた、しかし、世間はそうではなかった。

―足下には、風雅というものがわかっていない。「何ゾ其ノ言ノ固ナルヤ、何ゾ其ノ言ノ険ナルヤ、亦道学先生ナルカナ、経儒先生ナルカナ」……

ここで言われる「道学先生」の「道学」とは、儒学の一派、朱子学である。「経儒先生」の「経」とは、先にも述べた儒学の聖典「六経」である。したがって、「道学先生」「経儒先生」とは、儒学に凝り固まって融通がきかない、そのくせ一端いっぱしに人生論を説いてまわる輩、そういう意味である。

宣長の和歌好きを咎めてきた塾生、また仏教好みを難じてきた塾生、彼らに共通していたのは、儒学を絶対と見て、学に志す者の本分は儒学を修めることにあるとする固定観念であった。宣長は、そこを衝いて「道学先生」「経儒先生」と言ったのだが、彼があえて「道学先生」と言ったについては、素地があった。こういう言葉を突きつけたくなるほどに、「道学」と呼ばれた朱子学は一世を風靡していた。

 

「道学」とは、そもそもは中国宋代(九六〇~一二七九)に成った新儒学、「宋学」の別称であった。岩波書店の『哲学・思想辞典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後は、おおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は、自己修養の道、徳治の要諦等を指していた。

宋はその後、現在の浙江省杭州に都を移し、一一二七年以後は「南宋」と呼ばれるようになった。その南宋の初期に朱熹しゅきが現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てた。

「道」を遡れば、『論語』「里仁篇」に「子曰く、あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とあるように、中国においては古くから最重要とされた生き方の指標であった。したがって、「道」とは何かの議論も広範に及んでいた。その「道」に、朱熹は格段の意欲を燃やした。「道」の体得と実現、これを高く掲げ、『論語』「憲問篇」にある「修己安人」(己れを修めて人を安んずる)から導いた「修己治人」(己れを修めて人を治む)を唱えて、自らの学問をより声高に「道学」「聖人の学」と呼んだ。

「修己安人」は、岩波文庫によれば、―ある日、子路が孔子に、君子について尋ねた、孔子は答えた、自分を修養してつつしみ深くすることだ、子路は尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して人を安らかにすることだ、子路はさらに尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して万民を安らかにすることだ……、最後の「自分を修養して万民を安らかにすること」、これには尭や舜でさえも苦労したと孔子は言ったとある。

この「修己安人」の「安」が、朱熹では「治」となって強調された。孔子以来の民を安んずる「聖人の道」は、朱熹に至って民を治める「聖人の学」となった。宣長が、貴君にしても小生にしても、為むべき国や安んずべき民がある身分ではない、聖人の道が何の役に立つかと言った背景には、こうした儒学の伝統がまずあったのだが、「道学先生ナルカナ」という言葉には、朱熹とその同調者への反目もこめられていただろう。

 

だが、宣長も、かつては「道学」を至高とする空気のなかにいた。和歌を好むのを難じた塾生への手紙は続く。小林氏の文を続けて引く。

―自分は、幼時から学を好み、長ずるに及んでいよいよ甚しく、六経を読み、年を重ねて、ほぼその大義に通ずるを得た。「スナハオモヘラク、美ナルカナ道ヤ。大ニシテハ、以テ天下ヲ治ムベク、小ニシテハ、以テ国ヲヲサムベシト。シカレドモ吾ガトモガラハ小人ニシテ、達シテ明ラカニストイヘドモ、亦何ンノ施ス所ゾヤ」、ここに到って、全く当惑した、と宣長は言う。……

幼時から学問に親しみ、大きくなってからは六経を読んでその意味を解し、そして思った、道とは素晴らしいものだ、天下を治め、国を治める……、しかし、困った、どんなに六径に通達してみても、人の上に立つ身分でない自分にはそれを役立てる術がない……。

―注意すべきは、この当惑に対し、「論語」が答えてくれた、と彼が言っている事である。彼は、ここで「先進第十一」にある有名な話にふれる。晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。……

「注意すべきは」と小林氏が言っている。どこに注意すべきかに注意して、続きを読もう。

―もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳そうせきだけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこうこたえた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞の祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「喟然キゼントシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾晳)ニクミセン」、そういう話である。……

曾晳の答はこうである、自分の夢は「先王の道」ではない、「浴沂詠帰」である、沂の川で水浴びをし、涼風に吹かれ、詩をうたいながら家路につく、こういう暮しである……。「先王」は、むかしの聖王、である。孔子は、この曾晳の答に膝を打った、だとすれば、孔子の本意は「先王の道」にはないと宣長は解し、孔子に倍するほどに膝を打った。以後、宣長は、「聖人の道」の迷妄から覚め、和歌を好み、信じ、楽しんで、「和歌ナルモノハ、志ヲ言フノ大道」であると思い至り、儒の「天下ヲ安ンズルノ大道」とは訣別したのである。

 

小林氏の言うところを、さらに聞こう。―宣長が語っている「浴沂詠帰」の話にしても、儒家の間にはいろいろな解釈が行われていた、それらはいずれも、孔子の問いに対する曾晳の返答「浴沂詠帰」を、どのような観念の表現と解すれば儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか、ということであった、宣長がそういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っているのはすでに見た通りである……。

そして氏は、―この『論語』「先進篇」の文章から、宣長は直接、曾晳の言葉に嘆じている孔子という人間に行く、大事なのは先王の道ではない、先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だとでも言いたげな様子がある……と言い、ここに宣長の、「儒学者の解釈」を知らぬ間に脱している「文学者の味読」を感じると言って、「物のあはれ」の説の萌芽ももうここにあると言っていいかも知れないと言うのである。

先に氏が「注意すべきは」と言ったのは、この宣長の『論語』の読み方である。「解釈」ではない「味読」という読み方である。この読み方を、宣長は「源氏物語」にも「古事記」にも及ぼしていくのだが、宣長は「そういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っている」と小林氏が言っているところから眺めれば、宣長の本の読み方には、読書の「方法」というよりも、書物に向ったときのほとんど反射的な身のこなし、感受性の直観、そういう気味合が感じられる。

曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どう解したら儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るかと儒家たちが悩んだということは、彼らがどこまでも儒学というイデオロギーの辻褄合せにとらわれていたということだ。朱熹もそうであった。否むしろ、朱熹こそは孔子の教えの万般にわたって最も果敢にその方向へと突っ走り、ついには宇宙にまでも飛び出してしまった。

しかし、宣長は、そうではなかった。曾晳と同じく、人間としての自然な感情、素朴な心地よさに、いつもおのずと身を預けた。これが宣長の「好、信、楽」ということであり、風雅に従うということであったのだが、この風雅に従うということは、すべて物事には感受性で処す、ということでもあったのではないだろうか。この宣長の持って生れた感受性は、「もののあはれ」と並んで「自然ノ神道」にもしっかり呼応していた。

ただし、ここで言われている「神道」は、今日、仏教やキリスト教などと対置して言われる「神道」ではない。宗旨・宗派を言う「神道」ではない。いずれ先で出てくるが、宣長が口にする「神道」は、神がひらいた道という、ただそれだけの、古代人が言っていた意味での神道である。その風韻は、先に引いた手紙のなかの、「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」に漂っている。端的に言えば、朝起きて朝日に手を合わす、そういう、知らず識らずのうちに今でも動く私たちの身体や心が、ふとした折ごとに感じ取る「神道」である。

 

こうして宣長は、「道学」からの覚醒を果たした。だがこれには、先達がいた。第十章で、小林氏はこう言っている。

―彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。……

「彼等」とは、宣長に先駆けて現れ、近世の学問を切り拓いたと小林氏が言っている契沖、中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠らである。その彼らの学問を統べる言葉として、ここで小林氏が使っている「道学」は、もはや本来の意味、すなわち朱子学の別称としての「道学」ではない。朱熹の「道学」を彼らが換骨奪胎し、それぞれがそれぞれに「道」とは何かという問題に取り組み、それぞれがそれぞれに己れの如何に生きるべきかの模索を繰り広げていった「道学」、すなわち、面目を一新した近世日本の「道学」である。この「道学」も、彼ら一人ひとりの感受性によって打ち立てられた。

小林氏は、彼らがそれぞれ、どうやって朱熹の「道学」を超えたか、それもつぶさに書いている。宣長という山の背後に、契沖、藤樹、仁斎、徂徠という山々が聳えている。これらの山容も、素描だけはしていきたいのだが、今回はやむをえない、予定の紙幅を超えている。しかしまた、ここへは必ず立ち返ってくることになる。

 

―宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家の風流の意味合は全くなかったのは、既に書いた通りである。……

第十一章からである。小林氏の言う「思想」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、と先に言った。それはまた、宣長とともに小林氏の言う「道」とは、私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、と言えるだろう。

第十一章は、「本居宣長」の序論の結語であった。すなわち、「思想」と「道」と「学問」の何たるかの、いわば見取り図であった。第十一章の半ばで、―随分廻り道をして了ったようで、そろそろ長い括弧かつこを閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入って行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである……とことわったのは、期せずしてではあるがここまでは序論であったという意味である。

 

第十一章が『新潮』に載ったのは、昭和四十一年十月号である。四十年の六月号から始った「本居宣長」は、同年九月号の第四回までは毎月掲載されたが、第五回は一と月おいて十一月号となり、以後第十一回第十一章まで、ほぼ隔月で掲載されていた。しかし、これに続く第十二回が掲載されるのは、四十二年四月号である。

連載開始一年半にして、六カ月の休載が続いた。第十一章までで序論を書いて、いよいよ「本居宣長」第一の山場、宣長の「源氏物語」愛読に入るときがきていた。このときにあたり、小林氏はあえて半年、筆を止めた。「源氏物語」の五十四帖を、原文で読み直す必要を痛感したためである。この間ずっと、折口信夫氏が傍らに立っていた。

(第三回 了)

 

ブラームスの勇気

熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた―(「ゴッホの手紙」)

 

この「一種異様な画面」が突如として小林秀雄の前に現れ、愕然としてその前にしゃがみ込んでしまったのは、「モオツァルト」を発表した三ヶ月後の昭和二十二年三月、上野の東京都美術館で開催された「泰西名画展覧会」を見に行った時のことであった。彼が眼にしたのは、ゴッホが自殺する直前に描いた「烏のいる麦畑」の複製画であった。

翌年十二月、小林秀雄は「ゴッホの手紙」の連載を開始する。右の一節は、その第一回の劈頭に描かれたものであった。この黙示録的なビジョンもまた、彼を見舞ったベートーヴェン流の「元気のいい、リズミカルなインスピレーション」の一つであり、白洲正子の言う「きらきらしたもの」の典型と言っていいだろう。何よりこの海原の背後で鳴っている「全管弦楽」とは、疑いもなくベートーヴェンの交響曲の、嵐のようなアレグロ・コン・ブリオである。しかも「ゴッホの手紙」では、彼を見据えたこの「或る一つの巨きな眼」に続いて、「モオツァルト」の執筆動機となったもう一つの「一種異様な画面」が出現する。

 

あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明皙な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。

 

描かれたものは、同じく「空には黒い雲が走り」、「一面に三角波を作って泡立」つ海原であり、感動が、突然、「海の方から、山の方からやって来」るという、インスピレーションの爆発風景であった。二つの風景が酷似しているのは、ゴッホとモーツァルトのアナロジーゆえではないだろう。この「一種異様な画面」が、当時、二人の芸術家に感応して鳴動する小林秀雄の批評精神のパースペクティブそのものだったからである。そして彼は言うのだ、「モオツァルト」という作品が書き上ったということは、自分にしてみれば、「何事かを決定的に事」(傍点原文)であったと。この「何事かを決定的に」る事こそ、ベートーヴェンの音楽の基本原理であり、「運命の喉首を締め上げてみせる」と言ったこの作曲家の本源的な生き方ではなかったか。

坂本忠雄氏が伝え聞いたところによれば、「モオツァルト」を執筆していた時、小林秀雄はベートーヴェンをよく聴いていたという(高橋英夫『疾走するモーツァルト』)。事実、この作品にはモーツァルトとベートーヴェンとが限りなく接近する瞬間が何度かあり、しかも歩み寄るのはいつもモーツァルトである。しかし小林秀雄は、モーツァルトをベートーヴェンのように描こうとしたわけではなかったはずだ。モーツァルトを描こうとする彼の批評精神の立ち現れ方そのものが、ベートーヴェンの音楽の生成の力学に限りなく近かったのである。つまり、小林秀雄は、「モオツァルト」をのである。

 

もはやモオツァルトというモデルは問題ではない。嘗てモオツァルトは微塵となって四散し、大理石の粒子となり了り、彫刻家の断固たる判断に順じて、モオツァルトが石のなかから生れて来る。(「モオツァルト」傍点原文)

 

ロダンのモーツァルト像について小林秀雄が書いたこの一節は、そのまま、彼自身の「モオツァルト」の執筆過程を語ったものであり、それはまたベートーヴェンの変奏曲、中でもその最後にして最高の精華であり、小林秀雄も生前愛聴したという「ディアベリ変奏曲」の作曲過程を思い起こさせる。

この変奏曲でベートーヴェンが使用した主題は、楽譜出版商アントン・ディアベリのワルツのテーマであった。ディアベリから自作の主題による変奏曲を依頼されたベートーヴェンは、その主題を「靴屋の継ぎ革」と呼んだと伝えられるが、実際、表向きは至極凡庸な三拍子ハ長調のテーマを、彼はいきなり最初の変奏で、もはやワルツでも何でもない四分の四拍子の、剥き出しの和声の連結のようなものに解体してしまう。「一皮剥けばこれが君のワルツの正体だ、変奏に値しない」と吐き捨てるかのようである。

ところがそうやっていったん叩き壊されたディアベリの主題が、続く第二変奏から再び四分の三拍子に戻っておもむろに蘇生し始め、変幻自在に姿を変えて行くのである。ある時はモーツァルトのオペラのパロディーとなり、ある時はバッハを彷彿とさせる厳粛なフーガとなり、ある時はほとんどショパンを先取りした抒情歌ともなる。そして三十三番目の最終変奏において、あろうことかベートーヴェン自身の最後のピアノ・ソナタの、同じくハ長調の変奏主題によく似たテーマに生まれ変わり、幕を閉じる。まさに、嘗てあった主題は微塵となって四散し、主題が石のなかから生れて来るのである。ちなみにベートーヴェンは、この変奏曲を通常の「Variationen」ではなく、「変容」や「変質」の語感が強い「Veränderungen」と命名して出版した。

一方、同じ変奏曲といってもブラームスの変奏曲、たとえば「ディアベリ変奏曲」と並んでこのジャンルの最高峰の一つである「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」ではそのようなことは起こらない。全体としては「ディアベリ変奏曲」同様、主題が刻々と性格を変えながら展開する所謂「性格変奏」の体を成しつつも、根幹において元の主題の構造を守り続け、全二十五の変奏のうち八曲を除けばすべてヘンデル主題と同じ変ロ長調、四分の四拍子、十六小節で進行する。三十三の変奏中九曲しかオリジナル通りの構成をとらない「ディアベリ変奏曲」とは大きな違いである。ブラームスの場合、各変奏はそれぞれどんなに個性的な相貌を呈していても、元の主題の上にがっちりと根を下ろしているのである。

「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」は、ブラームスが二十八歳の時に作曲した作品であるが、ブラームスはこういった傾向をさらに強めていき、やがてパッサカリアとかシャコンヌと呼ばれる作曲形式を好むようになっていく。パッサカリアあるいはシャコンヌとは、バロック時代に愛好された形式で、短い主題を低声部で何度も繰り返しながら、その上に新たな楽想を次々と組み上げていく、これも一種の変奏曲である。低声部で繰り返される基本主題をバッソ・オスティナート、日本語では「固執低音」あるいは「執拗低音」と呼ぶが、小林秀雄が「本居宣長」について、「音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いている」と語ったのは、まさにこのバッソ・オスティナートの執拗な繰り返しの上に文章を編んでいくことを指していたとも言えるだろう。少なくとも「本居宣長」には、「何事かを決定的に」るというような書きぶりは全く見られない、むしろ、最初に掴んだ主題を如何にずに持続させるかというところに、彼の神経は集中しているように見える。

「ゴッホの手紙」と同じく、「本居宣長」の連載第一回の書き出しも、本居宣長について書こうと考えた最初の動機、彼の批評の変奏主題が提示されるところから始まる。それは、戦争中に読んだ『古事記伝』の読後感であり、その「殆ど無定形な動揺する感情」であり、以来、彼の心の中に棲みついた「宣長という謎めいた人」であった。「モオツァルト」が、あの「殆ど無定形な自然」のビジョンによって始まったように、小林秀雄の批評精神は、いつも彼を動揺させる無定形の「謎」の現出によって発動し、その「謎」をめぐって「螺階的に上昇」した。

しかし「モオツァルトという或る本質的な謎」(「モオツァルト」)の円周を廻ろうとした小林秀雄は、何よりもまず、K.五九三のニ長調クインテットによって与えられたあの感動をることから始めたはずである。「モオツァルト」の中で、彼はこの昭和十七年の「ある五月の朝」の経験について、一言も触れてはいない。無論、彼が、最初に掴んだビジョンを捨てた、あるいは否定したということではない。その痕跡は、たとえば第一章の「凡そ音楽史的な意味を剥奪された巨大な音」として、あるいは第二章末尾の「海が黒くなり、空が茜色に染まるごとに」「威嚇する様に鳴る」ポリフォニーとして残響している。だが四年の歳月をかけて、最終的に石のなかから生み出されたのは、同じ弦楽クインテットでもト短調、K.五一六の、「かなしさは疾走する」という全く新たな、モーツァルト像であった。

二年後に書き出された「ゴッホの手紙」でも、彼は、美術館の閑散とした広間で自分を見据えた「或る一つの巨きな眼」を決定的にるつもりで筆を執ったに違いない。ところが連載を進めて行くにしたがい、その「眼」をようとする彼の文章にある変化が生じた。彼自身の地の文が徐々に消えていき、ついにはほとんどゴッホの手紙の翻訳だけで文章を構成していくという、彼自身の言い方で言えば「述べて作らず」の方法によって書き進められることになったのである。

(つづく)

 

ネヴァ河の流れ
―「大エルミタージュ美術館展」を観て

1936年(昭和11年)の後半、正宗白鳥氏(当時57歳)は、ソビエト連邦(現ロシア)のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を旅していた。この街について正宗氏は、素っ気なく、相手を少し突き放したかのような、氏らしい文体で、こう綴っている。

「レニングラードは、西欧諸国の首都に比して、雄大であり古雅である。モスコーほど現代化されていないで何となく陰気らしいうちにも、前代帝王の貴族的意図が追想され、それを嘲笑し得るほどのプロレタリア文化が、さんぜんたる光を放つのは、遠い将来のように思われる」(「隣邦ロシア」、講談社文芸文庫『世界漫遊随筆抄』)

 

それから約30年、1963年(昭和38年)6月、小林秀雄先生(当時61歳)は、ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎氏、佐々木基一氏とともに、ソビエト旅行に出発した。汽船、鉄道と乗り継ぎを重ね、極東のナホトカを経てハバロフスクへ。そこからさらに、疲労困憊の状態でモスクワへ向かう機中、先生は、前年に亡くなった正宗氏が、その数か月前に独語するように漏らした「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」という言葉を思い出していた(「ネヴァ河」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

その後、一行は、レニングラードに到着、「ホテル・ヨーロッパ」に宿泊した。そのときの様子を、安岡氏はこう記している。

「エルミタージュ美術館に出掛ける前夜、通訳のリヴォーヴァさんが、『いよいよエルミタージュですよ、ようく休んで疲れを取って置いてね』という。『わかりました』と佐々木さんが謹厳にこたえる。そんなヤリトリを奥の部屋で聞いていた小林さんは、『なに、エルミタージュ? どうせペテルブルグあたりに来ているのは、大したものじゃなかろうよ』と、甚だ素気ない様子であった」(「悠然として渾然たるネヴァ河」、第5次『小林秀雄全集』内容見本)

しかしその翌朝。安岡氏と佐々木氏の顔は、一気に青ざめることになる。

小林先生が起きて来ないのだ。部屋に様子を見にいくと、そこはモヌケの殻。便所や風呂場にも影は一切ない。宿の鍵小母さんに聞いてみると、「今朝早い時刻に一人で出て行った」という。国家が招いた「招待客」(デリガーツィア)と称される特権的な旅行者であったにも拘わらず、それまでにも予約されていたホテルが勝手にキャンセルされていたり、突然部屋が変更になったりしていたことから、二人は最悪の事態すら想像せざるをえなかった。一体、小林先生に何が起きたのか……。

 

さらにそれから50年、2017年6月の金曜夜、私は、東京の六本木ヒルズにいた。目当ての「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」を観る前の心持ちは、前述の小林先生のそれと少し似ていたように思う。

「ロシアの画家による作品は全くなく、女帝エカテリーナ二世が、財力にものを言わせて欧州から買い集めた絵画ばかりでは……」

会場である52階の森アーツギャラリーに入ると、すぐに、派手ではないが優美な衣装を身に纏う、上品で少し誇らしげなエカテリーナ二世が、私を見下ろすように迎えてくれた(ウィギリウス・エクリセン「戴冠式のローブを着たエカテリーナ二世の肖像」)。「やはり……」

しかし、その後に観た多くの作品群を総括するには、この一言で十分であった、「駄作はなかった」。特に古い時代の作品が多い中、良好な保存状態にあることが印象的だった。

 

結果的に、作者の出身国別に分けられた展示室で、最も長居することになったのは、スペインの部屋である。中でも私は、フランシスコ・デ・スルバランの「聖母マリアの少女時代」(1660年頃)の前から離れることができなかった。

ほの暗い中、赤い服を着た少女が、針仕事の手を休めると、天を見つめながら、一心に祈り始めた瞬間。胸の下で丁寧に合された左右の手は、その思いの深さを感じさせる。私はそこに、画家の、その少女に対する汲み尽くし難い深い愛情を感じた。スペイン人のようにも見えるマリアのモデルは、画家の愛娘であったのだろうか。

気づけば、20時の閉館時間が迫っていた。残念ながら、階下へ降りざるを得なかった。私は、正直、もの足りなさを覚えた。もっとエルミタージュを体感したい。駅に向かう道すがら、ドキュメンタリー映画「エルミタージュ美術館 美を守る美術館」(マージー・キンモンス監督、2014年)が上映中であることを思い出した。上映開始は21時。ちょうどいい。そのまま有楽町へ向かうことにした。

 

私は、地下鉄に揺られながら、数年前、ボリショイ劇場芸術総監督を務めたアレクサンドル・ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」の演奏を聴いて、その生々しく不気味な迫力に、終演後しばらく立ち上がれなかったことを思い出していた。この曲は、作曲家自身が、1941年のナチス・ドイツによる突如の侵攻で始まった「九百日封鎖」に直面し、「ファシズムに対する我々の闘争と、来るべき勝利と、そして私の故郷レニングラードに捧げます」という強い思いを込めて書いたものである。加えて、現地初演が、雨あられの砲撃、餓死、凍死、という極限状況の中、文字通り満身創痍の状態にある当地ラジオ・シンフォニーの演奏家らによって行われていたことも、当時の凄惨な映像や写真とともに、詳しく触れる機会があり、大きく心を動かされたことがあった。

 

映画館に到着し、本編の上映が始まった。私は、先ほど観てきたばかりの作品の多くが、そのように壮絶な戦火を避けるべく、学芸員の手により丁寧に木箱に梱包された上で、ウラル山脈へと送られていたことを、ここで初めて知った。さらには、第一次世界大戦時(1917年)にも、同様にモスクワへの疎開措置が取られており、その直後に、レーニンを指導者とするボルシェビキが、現在は同館の本館となっている「冬宮」を急襲し、あの革命が成し遂げられていたのであった。

この映画は、現館長であるミハイル・ピオトロスキー氏を追うドキュメンタリーでもある。氏は310万点にも及ぶ収蔵品の修復はもちろん、現代美術の展示や共存にも精力的である。私が最も驚いたのは、超現代的なビルにある最新の保管庫で、中央の通路を歩くと、透明の全面ガラスを通じて保管の状況がはっきりと見えるようになっている。館長も、学芸員も声高に語っていたのは、「美術品は、秘蔵するものではなく、公開し続けていかなければならない」ということであった。そこに、政府の管理下で公開が厳しく制限されてきた同館ならではの、強い意思を感じた。「私の使命は、エルミタージュ美術館を世界に開くことです」、そう語る館長によれば、今回の日本巡回展もその流れの一つだという。

私は、同館で大切に取り扱われてきた作品群を直に観て、また、そういう実践を、世代を超えて継続して来たロシアの人達の言葉を聴いて、戦争や革命、そしてイデオロギーというような、表を騒がせてきた事象からはなかなか見えてこない、長い時間をかけて黙々と築き上げられてきた、伝統や歴史に対する敬意や信愛の情のようなもの、そういう精神が、力強く底流してきている様を、強く感じた。

 

再び1963年のレニングラードの朝に戻ろう。ホテルで行方知れずとなった小林先生は、一体どこに行ってしまったのだろうか。

安岡氏によれば、「われわれが狼狽気味に部屋を探していると、『やあ失敬』と先生があらわれた。『朝起きぬけに一人でネヴァ河を見てきた』とおっしゃる。『ネヴァ河ですか』私たちは唖然とした。小林先生の地理勘は甚だ弱くて簡単な道にも直ぐ迷われるからだ」。

そういう安岡氏らの心配をよそに、小林先生はこう言ったという。

「しかしネヴァは、じつに好い河だ、悠然としていて、あれこそロシアそのものだ」

それから一行は、予定通り美術館へ出発した。前夜「大したものじゃなかろうよ」と言っていた小林先生は、実際に館内でどう過ごしたのか。

もう一度安岡氏の筆を借りると、先生は、館内「あちこちの膨大な絵画・彫刻のコレクションの山を駆け回って観た後など、芯から疲れきって、顔色がカチカチの鰹節のように、そそけだって見えたりもしていた」(「危うい記憶」、講談社刊『カーライルの家』)という。

 

それにしても、旅行中、朝は大抵一番遅くまで寝ていたという小林先生であったのに、あの日は敢えて早起きをし、「空は青く晴れ、おおきな濁流であった」ネヴァ河を独り眺めながら、いったい何を思っておられたのだろうか。

その水面に浮かんできたのは、先生が文学者となるにあたって、十九世紀のロシア文学に「大変世話になった」という意味での「ロシヤという恩人の顔」だったのだろうか。なかでも、その作品を読んで「文学に関して、開眼した」という、ドストエフスキーのことだろうか。

それとも、「永い間批評の仕事をして来た者として、本質的な意味合で教えを得た」(「正宗白鳥の作について」、『小林秀雄全作品』別巻2所収)という、敬愛してやまない大先輩、正宗白鳥氏のことだろうか。ちなみに、正宗氏がソビエト連邦を訪れてレニングラードの地に立ったのは1936年の後半であったが、小林先生と正宗氏は、その年の前半、1月から、トルストイの家出問題に端を発したいわゆる「思想と実生活論争」を戦わせていた。

 

いずれにしても、小林先生は、ただ感傷に浸っておられたのではないと思う。そこで、先生の心眼が捉えていたものは、十九世紀のロシアの大文学者達が、ロシアという独特な社会に生まれ落ち、人生如何に生くべきか、という中心動機を背負って黙々と歩いている姿だったのではあるまいか。さらに、その歩みに続くのは、正宗白鳥氏であり、また自分自身でもあると、そう直覚されていたのかもしれない。

 

 *参考文献
  小林秀雄「ソヴェトの旅」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)
  「戦火のシンフォニー」(ひのまどか著、新潮社刊、2014)
  安岡章太郎「邂逅」(『新潮』小林秀雄追悼号、新潮社、1983)
 *参考情報
  大エルミタージュ美術館展 今後の巡回展
   名古屋展:2017年7月1日(土)~9月18日(月・祝)、愛知県美術館
   神戸展:2017年10月3日(火)~2018年1月14日(日)、兵庫県立美術館

(了)

 

八雲の道を訪ねて
―「山の上の家歌会」参加記

2013年から4年にわたり、池田塾の分科会である歌会に参加してきた。会の目的や意図は、本誌第2号に藤村薫さんが「山の上の家歌会の誕生」と題して詳しく書かれているが、簡単に言えば、古語を使うことで、言葉に込められた古人達の心持ちを、身をもって知ることを目指している。今回、これまでの参加作品をふりかえる機会を頂いた。古いものは特に拙劣で恥かしいが、その都度最大の努力の結果ではあるので、この機に反省しようと思う。作歌は決して敷居の高いものではなく、気軽に誰でも楽しめるものであることが伝われば幸いである。

 

山の上の家歌会は、ほとんどの場合、本歌取りか題詠である。私は断然本歌取りの方が楽しい。本歌の向こうに歌人の姿があるからだ。それに比べて題詠の場合は、漢字一字が提示されるだけでとっかかりが少なく、働かせる連想の量が多い。2013年に行われた初めての歌会は題詠で、初心者の苦しみが歌になった。

 

◆2013年8月 題詠「静」
 しずまれというてもきかず山嵐 いろづくことのは我をせかしむ

 

心中の言葉たちはすでに感情に染まりひしめき合っていて、早く歌にして外に出したいのだが、一向に整えることができない。初めての歌会がとても楽しみなのに、作品ができなくては参加もかなわない。焦るうちに締切が近づき、こんな歌になってしまった。「静」という題を考えるには、心が騒ぎすぎていて歌にならない。そのこと自体を歌にするほかなかった。古語の文法では「いうて」は「いひて」であるし、必要以上にひらがなが多くいかにも拙い。

 

◆2013年10月 題詠「動」
 夜長しそらは白めど山のかげ あさ日隠して峰は動かず

 

続く第2回は「静」に対して「動」。普通に訓読みすれば「うごく」である。小林秀雄『本居宣長』第37章の冒頭に、「事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこころぞ 人のまごころ」(玉鉾百首)という印象深い歌があり、塾生でこの歌を知らない人はない。似たような歌ではつまらないから、まずここから離れんとして「動かず」という言葉を据えた。動かないものといえばまず山である。富士に近い故郷が思い出された。山に囲まれた家の日照時間は短い。秋の夜が本当に長いのだ。空が白んでからも、しばらく朝日の姿は見えない。私はなぜそう焦るのだろう。待つことしかできないのに。待っていれば必ず夜は明けるのに。自然な連想から成った歌に、これほど心が映るものかと驚いた。

 

◆2014年2月 本歌取り
 山越えに根雪踏み分け行く人の こゝろをとめて早咲きの花
  〔本歌〕清見がた関こえ過る旅人の こゝろをとめてみほの松ばら

 (草庵集 巻第十 羇旅歌)

 

初の本歌取りの歌会。下の句が目に留まり、先を急ぐ旅人の足を止めた景色に思いを馳せた。ある日、根雪の残る急な坂道を、足元ばかり見ながら登っていた帰り道、ゆるやかにカーブしている数メートルだけ雪が溶けていた。その道はずっと桜並木だから、冬は葉が落ちて明るい。山に入って数十分、初めて空を見上げた。はやくも花が咲いている。よほど日当りが良いのだろう。気を抜いたらすべって転びそうな上り坂の雪道、合間のこの一角でひと息ついたのは私一人ではないはずだ。本歌の作者である頓阿とんあもまた、同じ道を行く他の旅人のことも思っただろう。「私にもこんなことがありました」と返歌のつもりで詠んだ。こんな小さな思い出は、歌にしなければとうに忘れていただろう。

 

◆2014年6月 本歌取り
 定まらぬ雲のすがたぞ山に映ゆ 影の流るる富士の高嶺
  〔本歌〕   詞書:たちばな
   あしひきの山たち離れゆく雲の やどり定めぬ世にこそ有りけれ

(古今集430 巻第十 物名 をののしげかけ)

 

「古今集」を読むうちに自分の好みがわかってきた。巻第十の「物名」は、題に出た物の名前を、いかに上手く歌中に織り込むかを競う言葉遊びの巻である。中世の歌人達がどれほど真剣に歌詠を楽しみ、遊んでいたかが伺える。そういう主旨とはいえ、歌の出来が悪ければ、物の名をうまく隠すことはできないから、ここに採られたのは名人ばかりだろう。

雲が主役の本歌に対して、眼下をさまよう雲たちを眺めて泰然としている、厳かな富士の姿を詠んだつもりであった。しかし歌会当日、「山」「富士」「高嶺」と意味が重なりすぎているという意見を貰い、また「高嶺」を「たかみね」と読もうとしたが無理で、「たかね」と読むのが通常である。どうも巧くないので歌会の後、次の形に修整した。

 

定まらぬ雲のすがたぞ峰に映ゆ 影の流るる富士の裾長

 

◆2014年11月 題詠「本」
 ふることによすが求むる言の葉の 姿の残るふみや貴し

 

題詠の場合、宮中歌会始と同じ題が設定されることが多い。この「本」という題もそうで、どのように歌に組み入れるかは各自に委ねられていた。音読みの「ほん」は和歌に合わず、「もと」という訓読みからは連想が広がらなかったので、書物を意味する「ふみ」から考えた。独自の文字を発明するより先に漢字に出会い、文字に頼る習慣とともに口承の物語が失われゆくなかで、かろうじて残ったのが「古事記」であると『本居宣長』から教わった。いまも「古事記」を読むことができる有り難さを、この時歌にしたかった。

 

◆2015年1月 本歌取り
 降る雪も根さへ枯れにし野にあらば まだしき花の散るかとぞ見る
  〔本歌〕   詞書:人の前栽に菊にむすびつけてうゑける
  うゑしうゑば秋なき時やさかざらん 花こそちらめねさへかれめや

(古今集268 巻第五 秋歌下 在原なりひらの朝臣)

 

和歌の貴公子、在原業平。六歌仙の歌に出会うと「古今集」仮名序の貫之の評が思い出される。あやかりたいと思って本歌取りをしてみたら、ありきたりな風景になってしまった。我ながら何とも情に乏しく、業平にはほど遠い。

 

◆2015年4月
 忘れじの人のかたみの花衣 色だに褪せよ風に散らなば

 

このときは本歌取りではなかったが、本歌取りとして詠んだ。本歌は「みな人は花の衣になりぬなり こけのたもとよかわきだにせよ」(古今集847 僧正遍昭)である。祖父が先年の秋に亡くなったので、哀傷歌ばかりを読んでいた。歌会当日、形見が色褪せて欲しいなどと普通は思わない、不自然だ、と意見を貰い、もっともだと思った。元々二つ案を作っており、もうひとつは次のように、形見が変わらないことを詠んでいた。

 

忘れじの人のかたみの花衣 うつろふ四時にかはらざりけり

 

だが一方、形見が早く風化して欲しい、というのも本心であった。葬式のさなか、己の利益ばかりを語る親族の存在に驚いた。往年の憎しみがその由来らしい。記憶が鮮やかなままでは彼も辛いだろう。形見とともに、恨みもまた生き続ける。私は、祖父の思い出に染み込んだ彼の色を洗濯したかった。そこまでの意味を込めるには、本歌のように詞書が必要であるが、この時そこまで思い至らなかった。本歌の詞書は長いので、註釈とともに「古今集」で読んで頂きたい。

 

◆2015年7月 本歌取り
 かはらざる言の葉繁きつまごひの ふみにこころの秋ぞおぼゆる
  〔本歌〕   詞書:寛平の御時きさいの宮の歌合のうた
   思ふてふ言の葉のみや秋をへて 色もかはらぬ物にはあるらん

(古今集688 巻第十四 恋歌四 よみひとしらず)

 

どう作ったのかまったく思い出せない。歌から推すに、恋の歌を読みながら、共感できずにいる己を残念に思っていたようである。

 

◆2015年11月 題詠「心」
 花紅葉過ぎし枯れ野にありてこそ 月に傾く心知るらめ

 

藤原定家に憧れるが、その境地はあまりに遠い。心が伴わないのに背伸びをしてもしかたがないので、若輩は若輩らしく、「三夕の歌」のような景色をポジティブに詠んでみようと思った。なにもない季節でも、月があれば充分じゃないか、あれがない、これがないと言わなくてもいいじゃないか、というひねた気持ちがあらわれている。

 

◆2016年1月 本歌取り
 水下にときを告ぐなり花筏はないかだ いづれ瀬にたつ泡となれども
  〔本歌〕   詞書:東宮の雅院にて桜の花のみかは水にちりて
        ながれけるを見てよめる

  枝よりもあだにちりにし花なれば おちても水の泡とこそなれ

(古今集81 巻第二 春歌下 すがのの高代)

 

本歌について調べるうちに、川に散った花びらが集い流れる様子を「花筏」と呼ぶと知った。都会の、季節感に乏しい下流の街に住んでいた頃、花筏を見て「そろそろ花見だな」と思うのが常だった。どれだけの堰を越えて流れてくるのか。いつまで浮かんでいられるものなのか。散ってもなお色を失わず、咲いている姿を思わせてくれる花たちを労りたいと思った。歌会の際、二句目が説明的であると意見を頂き、歌会後次のように変更した。

 

水下に春を渡せり花筏 いづれ瀬に立つ泡となれども

 

◆2016年5月
 しるべなき鄙野ひなのの道を訪ふ人を 待つや散らざる山桜花

 

題詠でも本歌取りでもない歌会なので、見た景色を詠んだ。通る人のない山中に咲く山桜の古木。私が来るのを待っていたかのように、目の前で惜しげも無く散ってゆく。ここは一体、夢かあの世かという見事さであった。
歌会の席で、「宣長さんのよう」だと塾頭が評してくれたそのときから、宣長が『古事記伝』を書くまで誰にも読み方がわからなかった「古事記」が、見る人の無い辺鄙な地に咲く花のように思われた。桜を愛する宣長と、「古事記」を愛読する宣長が重なって見える。もはや自分の歌ではないような感じがする。

 

◆2016年8月 本歌取り
 雲のみを引く三日月に夜を待てば 高瀬をはやみ影は去にけり
  〔本歌〕天のかは雲のみをにてはやければ 光とゞめず月ぞながるゝ

(古今集882 巻第十七 雑歌上 よみひとしらず)

 

本歌が気に入り、同じ景色を詠んだ。澪は「水脈」とも書き、舟の跡が水面に残るさまを言う。天の川を渡る月の舟と言うからには、満月のことではないだろう。舟は真上から見たら笹の葉のような形だから、月齢十日とか二十日前後の月かもしれないが、岸から見る形を思うと、雲の澪は三日月に引いて欲しい。強い風に棚引く雲に遮られて、ちらり見えては隠れてしまう細い月。ちょうどそんな季節だった。

 

◆2017年1月 題詠「語」

詞書:時を問はず、月は昼にも出でたるものなれど、日影は夜にはあらぬものにて、夜長き冬のつひなる時を待ちたるものとぞ思はるに

月読は夜に語らふ友なくに 春の訪なひ恋ひしかるらむ

 

このときの歌会に並んだ歌は、月を詠んだものが多かった。「花鳥風月」は定番だが、おそらくそれだけではない。忙しい日々の中で歌を作らんとすれば皆、仕事や学業を終えて寝るまでの合間、ひとり言葉と向き合うことになる。「語」る相手は月ばかりなり。では月は誰と語らうか。同じ夜空にあっても、星の声は小さくて、会話にならないだろう。太陽以上の友はあるまい。

この歌ははじめ詞書なしで投稿したが、あまりに言葉足らずだったので歌会後に追加した。昼の長い季節が恋しいのは、月も人も同じではないだろうか。

 

◆2017年5月 本歌取り
 花房を朽木にかざす藤が香に 心は今ぞ春となりなん
  〔本歌〕   詞書:女どもの見てわらひければよめる
    かたちこそみ山がくれの朽木なれ 心は花になさばなりなん

(古今集875 巻第十七 雑歌上 けむげいほうし)

 

本歌の作者は老僧である。外見を笑う女達に対し、この人は感情を表にはしなかっただろう。黙して歌の姿を整え、動揺した心を立て直した。彼を笑ったのは若い女達だろう。彼女らの心は、彼のように「花になさばな」ることはあるだろうか。彼が自らの姿を重ねた「み山がくれの朽木」に、花を手向ける思いで詠んだ。

五月の初め、鎌倉の北のほうで、老木に巻きつき、長く豊かな花房から濃密な香りを放つ藤を見た。支えるほうは大変な苦労だろうと同情したが、これだけ見事な花にあやかれるなら苦労のし甲斐もあるだろう。そんな立派な藤だった。日頃重い蔓を背負いつつ晩春を迎え、もう花の咲かぬ身に藤が匂う、今この時こそ我が春と、己を讃えて欲しいと願う歌となった。

 

以上、和歌を始めて数年の初学者の作歌がどのようなものであるか、一例として参考にして頂ければ幸いである。古歌の豊かな世界は誰にでも開かれている。食事をともにするように、身近に和歌を味わい、その魅力を共有する場が、一層広がることを願っている。

(了)

 

現代に活かす「独」

上越後の桑取谷は里山の集落だ。この山に源を発する桑取川は急峻な山を下り、瞬く間に水量を増し日本海に流れ着く。雪解けの春、この地を訪れた。海辺に雪は無いが、川に沿って登れば、まだ雪は深い。それでも春はここに来ていて、雪の融ける音が聞こえる。雪の下から覘く緑も鮮やかで目に眩しい。雪解けの水を得た川は生命を取り戻したかのようにどうどうと流れ、その音が心地よい。春は駆け足でやってくるのだ。雪支度が残る庭先では、お互いに交わす甲高い声が聞こえてくる。そこには、この日を待って動き出す人たちがいる。

背丈にも達する積雪があっても、種もみを植える苗床に使う田んぼの一角だけでも、雪を除けようとショベルカーを操る年老いた農夫がいた。軒下から様子を見つめるのは連れ合いだろう。一人暮らしばかりになったこの集落では、数少ない夫婦が揃う所帯だ。

山を少し降りれば、雪はだいぶ融けている。そこには、畔を作り直す人がいた。見渡すかぎりただ一人。今年の米作りはここから始まる。私たちの日々の食を支える農の営みがここにある。私たちの命の源の食、その源流はここに至る。

 

行政やメディアの世界には、こうした地域を「限界集落」と呼ぶ人がいる。「高齢化率100%」と研究者は数字にする。しかし、これらの言葉から、この地に生きる人々の喜びや悲しみ、確かな暮らしを支える知恵と豊かさ、古くから守ってきた祈りや祭り、そして、私たちの日頃の食を支える営みを感じ取ることはできない。人々への敬意も、自らの食を支えてくれている感謝の気持ちもない。そもそも当人たちの前でこの言葉を使うことができるのだろうか。近年の日本の課題としてしばしば使われる「人口減少」や「地方消滅」も同じだ。

 

政策を研究し、具体的な制度設計や運用に活かすことは、社会課題に向き合うことに他ならない。人と人の交わり、つながりを根本とする社会において、どんな困りごとや生き辛さがあるのか、お互いの助け合いによって、これを小さくし、無くすことはできるのだろうか、「よく生きる」を支えるためにどんな社会の仕組みが必要なのだろうか、私自身が問い続けていることであり、それが私の仕事だ。

こうした営みは、しばしば、社会課題の「解決」と呼ばれてきた。私自身もあたりまえに使ってきたが、最近、小林秀雄の文章に接していると、この言葉に疑問を持つようになってきた。果たして、社会課題を解決することなんてできるのだろうか。そもそも、解決とはどんな状態なんだろうか。解決という言葉を使っていてよいのだろうか。

 

小林秀雄の作品を貫く言葉の一つに「独」がある。元を辿れば中江藤樹の言葉だ。
―「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前の事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、ル所無シ」という覚悟はできるだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独トフ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死マズ、故ニ之ヲ独と謂フ」という高次の意味合にも通じることが出来るだろう。(「本居宣長」第九章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.100)

「独」とは重く、難しい言葉だ。この文章を味わって読み、我がものにするしかない。下手に置き換えてみれば、それこそ取り漏らしてしまう。自己を成すものは何か、我が身に意味あるどんな生き方があるか、そこを考え抜くこと。権威や立場に寄らず、時代に流されず、現代の学問や社会にありがちな数字や分析を客観的な証拠とし、誰かが使った違う言葉で言い換え、自分をごまかすことでもない。どれだけ見解を集めても人間を創ることはできない。聖人も凡人も、人の生死においては同じなのだから、我が主観を徹底的に突き詰め磨いていけば、それは万人に通じる客観に至るということにもつながってくる。その本質は、己を知るに始まり、己を知るに終わる所に在る。藤樹は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出かみいだ」すと学問の独立宣言をしたが、そこで「咬出す」という言葉を使った、その意味を受けとめれば、「独」の重みも体感できるだろう。

藤樹に始まった「独」の道は、契沖、仁斎、徂徠を経て宣長に至る。近代では、福沢諭吉に引き継がれ、そして、小林秀雄に至る。人はいかに生きるか、自分自身の尺度で自分の心に問うた系譜がそこにある。時代を自分自身のこととして引き受け、そこに応えようとし続け、格闘した人の生きてきた道がある。

「独」を実践するための第一歩である「考える」について、小林秀雄はこう言う。

―考えるとは、自分が身をもって相手と交わることだと(宣長は)言っている。だから、考えるとは、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込む、それが考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることです。(新潮社刊『学生との対話』p.117)

そうした「考える」は、本居宣長と親身に交わることで実践された。

―私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れているものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自の魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家によく用いられた有力な方法とは、全く逆な方向に働く。これは致し方ない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私たちの努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。(「本居宣長」第四章、『小林秀雄全作品』第27集p.58~59)

ここで言われている「歴史家によく用いられた有力な方法」については、本居大平の「恩頼図」に依拠した宣長研究が一例として考えられるだろう。大平は江戸後期の国学者で宣長の家学を継いだ養嗣子だが、彼の「恩頼図」とは、彼が同門の殿村安守のために宣長の学問の系譜、著述、門人を図解したものである。この「恩頼図」を、宣長やその学問を理解しようとして頼りにする、あるいは模倣する、つまり、肝心の対象である宣長自身の内面や著作の言葉には向き合おうとせず、人間関係や時代背景等、宣長を取り巻く外的要素ばかりを収集し、並べ立てる研究者が後を絶たないのである。現代にも多く見られる、「客観的な」文献の引用、数値化、分析等の羅列も同断であろう。

小林秀雄は、本居宣長や彼の読んだ古典に対し、そうした方法は決して採らなかった。対象を信じ、自らが直覚したものに従い、遺された仕事の内面を辿り、正しく質問し、身をもって交わる、時間をかけて向き合う道を選んだ。

 

「限界集落」とか「高齢化率100%」と言っているうちは、いつまで経っても研究対象のままで、他人事であるところから免れない。親密に交わることは避けられている。相手が客体のままではどうにもならない。自分から親身に交わらないうちは考えることは始まらないし、それでは「独」には決して至らない。

「課題解決」という言葉には、自分自身と相手は別もので私は当事者ではない、課題は客体にあるのであって、自分はそこに交わるつもりはないという態度が垣間見える。
私がすべきは「解決」ではなく、目の前にある困りごとや生き辛さに向かい合うこと、自分自身が親身に交わることなのではないだろうか。そして、自反を重ねていれば、自ずから何をすべきかが明らかになってくる。

そもそも、過去を振り返っても、社会課題が無くなった時代を経験したことはないだろう。また、私自身、病を抱えながら生きているから感じるのかもしれないが、人が生きること、その交わりやつながりの総体が社会だとすれば、課題が解決されたすっきりした状態なんてありえず、それこそ、人が病を持ちながら生きていくのと同じことなのかもしれない。

そこにあった課題は向き合い続けることでやがて変容し、また違う形の課題となって顕れる。解決しようという心構えでは、別の形になった時に気付くことはできないが、向い合いあって離さないことができていれば、その変容に気づき、また、自ずから何をすべきかが明らかになってくる。そういう持続性こそが、向かい合うことの本質にあるのではないだろうか。

不思議なことかもしれないが、困りごとや生き辛さといった社会課題に向き合い続けていると、それは他者のためでなく、自分自身のためにやっていることに気づく。目の前の問いを離さずに応えること、それは、結局、自分自身の「よく生きる」にも繋がっているように思える。

「客観的」に代表される科学的なものの見方・考え方に毒された現代において、本当の「独」を実践し続けるのはきわめて難しい。しかし、それこそ、人が生きて来たどの時代も同じだったのではないだろうか。権威や他者に盲従すれば楽かもしれないが、そうなれば自分自身はそこにいない。社会課題に我が身をかけて親身に向き合うこと、そして、そこにある当事者性こそが私自身を生かしてくれるのだ。それこそが現代に活かしていかねばならない「独」の意味なのだと思う。

(了)

 

読むことの手応え

同じ本を時間をかけて繰り返し読む、ということを、この塾に入るまであまりしてこなかった。

「小林秀雄に学ぶ塾」が始まった六年前、僕は大学生になったばかりで、一読しておかねばならない本は古今東西に溢れているように思えた。巷には次から次へ最新の知識が供給されていた。身近なデジタル機器の発達は情報の飛び交う速度をさらに上げ、言葉は最短経路で情報を伝達できるような、できるだけ平易で誤解を生まない記号としての役割だけを求められているようだった。

知らず識らず、そのような速さに馴らされていたのかもしれない。僕は追われるようにして、新たな知識を得ることに汲々としていた。眼は不安げに活字の上を滑り、読むことの手応えはますます喪われていくようだった。

 

小林秀雄『本居宣長』の第五章に、言葉に向き合う宣長の態度を“文学者の味読”と表現しているくだりがある。

さりげなく遣われている言葉なので、とにかく内容を把握しようと一読したときはなんとなく読み過ごしていた。しかし、この塾で、本文の熟視を求められ、繰り返し文章の起伏を辿っているうち、言葉の方から語りかけてくるように、“文学者の味読”という活字が目に焼き付いた。この表現が孕んでいるもののうちに、小林秀雄が描こうとした宣長の肖像の大事な輪郭線がある。のみならず、小林秀雄は、この宣長への評言によって、己を語っている。そんな直観に捉えられた。―しかし、焦ってはならない。ここから、自分の中にある出来合いの概念などを引っぱり出して、この言葉を解釈しようとすれば、それは途端に空想の戯れになってしまい、結局いまの自分が持っている観念を文章に押し付けて一丁上がり、と済ませてしまうことになる。言葉に教わる、ということがない。まずは、解釈に逸る心をぐっと堪え、この短い一語がどのようなニュアンスで用いられているか、それを丹念に追いかけなければならない。

“文学者の味読”とは、一体どんな態度を指した言葉なのだろうか。この表現は、直接的には、『論語』「先進篇」への宣長の読み筋を指して用いられている。「先進篇第十一」にある孔子と弟子たちの逸話を、若き日の宣長はどう読んだのか。これを精確にとらえるため、“儒学者の解釈”と対置するようにして、宣長の“文学者の味読”を言うのである。逸話とは、こういう話である(以下、引用参照は特に断りのないかぎり第五章から)。

晩年、不遇の時代を過ごす孔子は、弟子たちに問いかける。君たちはいつも世に顧みられないことを嘆いているが、もし世間に認められるような事になったら、何を行なうか。弟子たちはさまざまな政治的理想を語るが、曾晳そうせきという弟子だけが、応えなかった。孔子に促され、自分は他の三人とは全く異なった考えを持っている、と言い、こう答えた。「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、(川の名前)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞の祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。季節に相応しく新調した衣服を身にまとい、伴を連れ、川遊びをして風を愉しみ、詩を吟詠することが私の望みだ、と。孔子は、溜息をついて、私は彼と同感だ、と言った。

『論語』のテクストから矛盾のない理論を抽き出し、世の中を理解していこうと考える当時の儒家たちは、曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どのように解釈し、どのように自分たちの学問体系のなかに位置付けていけばよいかに、頭を悩ませていた。しかし、宣長はそんな儒者たちの思考の枠組みに頓着しない。「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ニ在リ。孔子ノ意、スナハチ亦、此レニ在リテ、而シテ彼ニアラズ」。孔子の語った政治的思想は措き、彼が独りの人間として楽しむところは、儒者たちが頭を悩ませている政治的理想のような抽象的なものではなく、「浴沂詠帰」の側にある。孔子という人は、学者たちが堅苦しく定義しようとする「聖人」とは似ても似つかぬ、心の柔軟な「よき人」なのだ。若き日の宣長は『論語』を、そこに顕れている孔子を、そのように読んだし、考えは終生変わらなかった。

 

この“読み”を取り上げる小林の文章に、“文学者の味読”という言葉が用いられている。

「彼(宣長)は、この『先進篇』の文章から、直接に、曾点(曾晳)の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負いこんだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。もし、ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な『物のあはれ』の説の萌芽も、もう此処にある、と言って良いかも知れない」。(丸カッコ内は筆者注)

「もののあはれ」が、宣長の生涯の重要なモチーフであることを考え合わせるなら、小林がここで、“文学者の味読”を、宣長が言葉に向き合う際の基本的な態度を言い表す言葉として遣っている、と受け取ってもよいだろう。“文学者の味読”とは、ことばの表面上の意味を分析的に読み解くことで、矛盾のない抽象的な観念を得るの、その文体や語勢を、ほとんど対象の内側に入り込むように丁寧に追いかけることで、文の姿を味わい、言葉を遺した人の心ばえを甦らせようとする、“読む”というとてつもない行為の一端を明かした言葉である。宣長は、『論語』を愛読することで「孔子といふよき人」の像を得た。この「文章から直接に人間に行く」読み筋が、『古事記』を蘇生してみせたような、のちの宣長の仕事の根っこに確かに生きている。この言葉に、小林はそういう含みを持たせている。

小林自身、『宣長』を書くにあたって、この読みを実践している。第二章の終盤で、彼ははっきりとこう書いている。「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」。この言葉通り、『本居宣長』という、著者晩年の十二年をかけて書き上げられた畢生の大作は、宣長の文章から彼の「肉声」を聴き取ろうとする、また読者に聴き取ってもらおうとする、小林の努力に充ちた本だ。思想の構造を抽き出そうとした宣長研究者たちが、どのような袋小路に迷い込んだかを、小林はよく知っていた。自分が宣長を愛読して掴み出した像を描出するには、宣長自身が辿った紆余曲折を誠実に歩きなおさなければならない。小林のそうした覚悟を、理や方法に恃まず、「文章から直接に人間に行く」という道を一筋に歩む“文学者の味読”という言葉は、図らずも語っているようだ。

 

手軽な解説、自分の感覚に近しい現代語訳、情報の最短経路での伝達に馴れきった、かつての僕のような読者は、『宣長』にある膨大な引用文を怪しみ、それが時に十分に解釈されないまま投げ出されているように見えて困惑する。しかし、実は僕ら読者もまた、時間をかけて味読することを求められているのだ。『古事記』を読んだ宣長のように、宣長を読んだ小林のように。

読むことを、頭で理解することのうちだけに留めておかず、文章が持つ微妙な起伏に耳を澄まし、言葉が持つ手触りを直かに感じること。生きるために摂取され、将来自分の一部を形成することになる食べ物に対するかのような、原始的な真剣さで、身を以て言葉を味わうこと。この塾で語り伝えられ、また文章を扱う池田塾頭の姿勢そのものから無言で示され続けてきたのは、まさにこのような“読むことの態度”であったように思う。

かつての自分にとって、読むことは、砂漠に種を蒔きつづけるような、索漠たる行為だった。二十五歳の僕は少しずつだが、知識や情報というものの外面に惑わされることなく、自分を養うための言葉を蓄えられているように思う。

読むことの手応えを、いまは確かに感じている。

(了)

 

稲葉天目と偶有性

日本人の美意識の中核には、一見そう簡単には掴みきれないところがある。しかし、気づいてみると、その手がかりはこれ以上ないくらいの明白なかたちをとって存在するのである。

もっとも、ここで言うのは、すべての人によって共有されている感覚では必ずしもない。だからといって、単純に相対的なものであるわけでもない。

何を美しいと感じるかということは、技術革新に似ている。それは多数決の民主主義ではない。場合によっては、ごく少人数の人が先導する、ある種の革命でもある。美意識は、人工知能と同じように、少数派でも、もっとも優れたものが結局静寂を支配するというところがある。

そして、美は、命そのものと似ている。

命の本質とはなんだろう。もしある時点で完成されてしまうのならば、それ以上の変化は必要ない。脳の中核的機能は学習だが、常に未熟だからこそ、成長する意味がある。

満たないからこそ、動き続ける。日本人の美意識は、そのような生命哲学との深い共鳴の中にあるように思う。

千利休による茶道の創始には、日本人の美意識がよく顕れている。

それまで、中国の道具を使うのが最も格式が高いとされていたのが、利休によって「侘び寂び」や「一期一会」などの全く新しい評価基準が持ち込まれたのである。

利休は自身で道具をつくったとされる。茶杓の節が目立つところにあることを許容したり、長次郎に樂茶碗をつくらせたりといったその事跡を見ていると、その美意識が見えてくる。

利休以前の茶道具は、中国から伝来したものが中心であった。中国の器は、幾何学的に完全なものを理想とする。しかし、利休はそこから逸脱した。

不完全なもの、歪んだもの、均衡がとれていないもの、満たないもの。そのようなものの中にこそ美を見出した利休の感覚は、生命の本質に寄り添ったものであった。 

奇を衒っているわけではない。むしろ、雑事を排して、光が発せられるその源をまっすぐに見ている。

生命は、完全さや均衡とは程遠い領域にある。もし完全であるならば、そこで動きが止まってしまう。均衡であれば、変化する必要はない。

バランスが崩れ、常に「先延ばし」され、ゴールが移動されるからこそ命は続く。その意味では、不完全であること、不均衡であることこそが生命の本質である。

利休が見出した「美」の文法は、そのような生命の本質に寄り添ったものであった。逆に言えば、それまでの中国の器を理想とする美意識は、本質において反生命的あるいは超生命的(生命を超えた何ものかへの志向)であったとさえ言っても良いのかもしれない。中国の器においては、完全なる円といった幾何学性や、対称性が尊ばれるのであるが、そのようなイデアの領域は実は生命の本質から遠い場所にあるのである。

先日、映画監督の森達也さんと会った時に、森さんの『A』や『A2』、さらには最近の『FAKE』、あるいは原一男さんの『ゆきゆきて、神軍』や『全身小説家』のようなドキュメンタリー作品と、海外のそれを比べた場合に、日本の作品の特徴の一つとして「人間」の描き方があるのかもしれないという話になった。立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」と言ったそうだが、日本のドキュメンタリーには欠点や長所を含めた人間の業を肯定するところがある。一方、欧米のドキュメンタリーには、例えばマイケル・ムーア監督の作品のように、社会の不平等や保険制度、銃規制などの公共性のあるテーマが前面に出て、一人ひとりのどうしょうもなさ、情けなさを含めた人間性は、必ずしも正面から取り上げられない傾向があるようである。

森さんとは、それから、ドキュメンタリー作品における撮り手と撮られる側のある種の共犯関係の話になって、たとえば太宰治のような私小説の伝統において、主人公ないしは作者は一見自堕落なように見えるが、しかしそれは読み手との間のまさに阿吽の呼吸の結果なのであって、作者ないしは主人公はある程度意識して「無頼派」を敢えて演じているのである、という話になったのであるが、いずれにせよ、日本の文化的伝統の真ん中に、そのような一筋縄ではいかない人間性への視座がありそうだ。

それは、これから日本人にとっての一つの福音ですらあるだろう。

人形浄瑠璃や、歌舞伎などの伝統的芸能の中にも、例えば殺しの場面を様式化して演じるなど、人間の暗黒部分をその逆説的な生命の躍動とともに描くという傾向があるように思うが、このあたりの生命観を、ニーチェの『悲劇の誕生』におけるアポロン的(理性の原理)とディオニソス的(生命の原理)の対照につなげて論じてみるのは興味深いことなのかもしれない。

いずれにせよ、完全なる幾何学や対称性からの「逸脱」こそが茶事における器への選好などに表れた日本的美意識の特徴の一つであり、そのような傾向におけるフロントランナーの一人が千利休であったと、私は認識している。

もっとも、均衡と不均衡、対称性と非対称性の間には、思わぬ「裏回廊」があるようにも感じられる。数学者の藤原正彦さんは、優れた数学の定理というものは、異なる大陸にある二つの山頂の間に、よく見たら薄い虹の橋がかかっていたという事実を見出すようなものであると書かれているが、均衡と不均衡、対称性と非対称性という「対立」軸の間には、思わぬつながりがある可能性もあると思う。

そのことに気付かせてくれるのが、曜変天目茶碗である。

曜変天目茶碗の中でも、最高峰とされる「稲葉天目」は、そのあまりの見事さに、一時期所蔵していた岩崎小弥太が、自らはそれを使う価値がないと茶事での使用を控えたほどの出来栄えである。

青い星雲を散りばめたようなその模様は、中国の南宋時代に建窯でつくられた多くの器のうち、ごく一部のものに偶然生まれたものと考えられている。おそらくは、何百万に一つというような確率で模様が成ったのであろう。現代の陶工たちも懸命にその再現を試みているが、今のところ完全には成功していない。

稲葉天目を実見すると感銘を受ける。そのかたちは、あくまでも、南宋、及び中国陶器の一般文法である、完全なる幾何学を示している。上から見れば円であり、横から見ればほれぼれとするほど整った形状を示している。

その均整のとれた形状の上に、まるで宇宙を満たす生命原理の顕れのような光の星雲がある。植物の葉っぱや、水流の照り返しのように、容易にはその秩序が捉えがたい、しかし、どこかに法則性があるような、要するにいかにも自然な奥行きがある。

整った外形と、その上の自然な模様と。その点に、稲葉天目の美の本質がある。また、同時に、そこにこそ、私たちが追い求めている虹の架け橋の手がかりがあるのではないか。

ひょっとしたら、整った稲葉天目の形状と、光の星々のように散らばる窯変の模様は、単一の、同じ原理から生まれてきているのかもしれない。だからこそ、曜変天目茶碗には、モナリザの微笑みのような不可思議な真実への予感が込められているのかもしれない。

白と黒と、真実と虚偽と。私たちは世界を二項対立でとらえがちである。器の選好においても、均衡と不均衡、対称性と非対称性という区分けがあると思いがちだが、それは大いなる勘違いに過ぎないのではないだろうか。

生命の本質は偶有性にある。偶有性とは、つまりは秩序と無秩序の共存である。一碗の中に、偶有性がこの上なく美しく示されているとするならば、稲葉天目は、やはり、天下に並ぶことなき名碗だと言わざるを得ないのであろう。

(了)