編集後記

校了作業も終盤に差しかかり、さて集まった原稿を眺め渡してみると、それぞれの相貌がたいへん個性的なことに毎号驚く。これだけ様々な味わいの言葉が並ぶのは、もちろん同人たちの多士済々ゆえなので、みなが奇を衒っているからというわけではないだろう。むやみに誇示される個性は得てして退屈なものだ。この多彩は恐らく、小林秀雄の遺した言葉と向き合うということが、最後には「君は君自身でい給え」と忠告されることになる、そういう事情によるのだろう。こんなに辛く、こんなに愉しいことはまたとない。今号も、著者たちの幸福な苦闘の結果をお楽しみいただければと思う。

 

多士済々と書いたが、年齢も性別も、まことに多様な人々が「小林秀雄に学ぶ塾」には集っている。それは今号の原稿を読んでいただければ瞭然である。かつて小林秀雄の講演を生で聴いた体験を書きとめ、氏の訊き上手を想う冨部久さん。ご自身の家庭を通じて「もののあはれ」を考える安達直樹さん。大学での仏文学研究を省みつつ、読むということへの気付きを記す飯塚陽子さん。歌を「詠む」歓びと、数学や物理を楽しむ歓びは「同種」だという村上哲さん。青春の読書体験を「驚天動地」の一場面とともに思い返す松本潔さん。自らの美の体験から「まごころ」を希求する森郁子さん。それぞれに全く異なった、暮らしという土壌から、さまざまな収穫が持ち寄られる。そして、池田塾頭と杉本圭司さんの研ぎ澄まされた連載が続いている。Webとは言え、雑誌という媒体の魅力を存分に味わっていただけるはずだ。

 

安達直樹さんが引用されている、『古事記伝』の宣長の言葉が深く印象に残った。

「すべても、言を以て伝ふるものなれば、はその言辞には有ける」。言っていることは平明だが、安達さんも書かれている通り、このことを徹底して考え、読み書きの上で実践していこうとすれば、随分奥行きのある一文であり、いかにも宣長らしい言葉でもある。すでにどうしようもなく与えられてしまっている、当たり前のものごとを、徹底的に翫味する。考えるということの変わらないイロハを、この文章に改めて教えられたような気がする。

 

先日たまたま野球中継を点けると、画面左下に“SPV”という文字があり、投手が球を投げ込むたびに、文字の横に常に何かの数値が表示されていた。何だろうと思っていると、回転数を表すのだと解説がすぐに教えてくれた。曰く「これまで“球にノビがある”などと言っていたものを、数値によって可視化することが可能になったわけです」。なるほど、かつて野村克也や古田敦也が目指したデータ野球は、科学技術の進展によって更にその精度を上げつつあるらしい。しかし、数値化などされる前から、確かに“ノビがある”とか“キレがある”という言葉はあったのだ、と思っていると、先ほどのアナウンサーがこう首を傾げた。「今のは良い球に見えましたが、SPVの数値は余り揮いませんね」。いかにも不思議そうな調子であった。数値に見ることを任せるというのは、避けがたい現代の傾向であるらしい。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

四 折口信夫の示唆

「本居宣長」は、次のように始まっている。

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

そして、言う。

―それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。……

「古事記伝」の読後感は、小林氏が永年、「古事記伝」を読んで以来持ち続けてきていたには違いなかったが、言葉にはなっていなかった。折口信夫の話を聞くうち気づいた、自分がこれまで読後感と思ってきたものは、感とか感想とかと言えるものではない、ほとんど形をなさずに動揺し続けている「感情」であった、それほどまでに「古事記伝」の感動は途方もないものであった。

―帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……

この「本居宣長」の書出しは、ここで初めて行を改め、「今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが……」と続く。しかし、ここに記された「思い出」は、けっして「自ら」浮んだものではないだろう、小林氏が、はっきり意識して浮かび上がらせた「思い出」だったはずである。

語り口は穏やかだ。だが語り口にほだされて、「思い出」という言葉を軽く聞いてはなるまい。この穏やかな語り口は、小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性にっているまでで、語られている「思い出」自体は早くも風雲急を告げている。小林氏は、久しい以前から抱いてきた宿願に、いまこそ手を着けようとしているのである。その第一手を徒疎あだおろそかに打ち下ろすわけがない。名うての文章家は最初の一行に苦心するとはよく言われるが、小林氏は、最初の一段落に常に苦心を払ってきた。

昭和四年(一九二九)、二十七歳、文壇に打って出た「様々なる意匠」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)はこうである。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

昭和十七年、四十歳で書いた「無常という事」(同第14集所収)は、冒頭に「一言芳談抄」の一節を示して、

―これは、「一言芳談抄」のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。……

さらに昭和二十七年、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)は、

―先年、上野で読売新聞社主催の泰西名画展覧会が開かれ、それを見に行った時の事であった。折からの遠足日和で、どの部屋も生徒さん達が充満していて、喧噪と埃とで、とても見る事が適わぬ。仕方なく、原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ、ゴッホの画の前に来て、愕然としたのである。それは、麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。尤もそんな事は、後で調べた知識であって、その時は、ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、とうとうその前にしゃがみ込んで了った。……

見てのとおり、いずれも波乱と緊張に満ちて劇的であり、一篇の動因を一息で言い切っている。「様々なる意匠」のときは、一見、一文の動因を言ってはいないようだが、爾後小林氏が展開した仕事はすべて、「本居宣長」に至るまで言葉の魔術との死闘であった。

「本居宣長」の書出しも、これらと同様、波乱に満ちて劇的なのである。宣長の「古事記伝」を読んでしばらくして、小林氏は折口信夫氏を訪ねた。話が「古事記伝」になったが折口氏の対応は予期に反した。やがて折口家を辞する時がきて、大森駅まで送ってきた折口氏は、突然「小林さん、宣長さんは源氏ですよ」とだけ、浴びせるように言って帰っていった……。

小林氏は、そこまで語って「思い出」を打ち切る。問題は、なぜあえて「本居宣長」を、小林氏はこの「思い出」から書起したのかである。

 

折口信夫は、国文学者、民俗学者であり、歌人である。明治二十年(一八八七)の生れで小林氏より十五歳年長、民俗学者としては柳田國男の門下として知られ、歌人としては釈迢空の名で知られるが、国文学者としては大正五年(一九一六)から六年にかけての『口訳萬葉集』がまずあり、昭和四年からは全三巻の『古代研究』を刊行、民俗学を踏まえた古代文学の発生研究や古代の信仰研究等を世に問うた。

この折口信夫に、小林氏は早くから敬意を抱いていた。折口の代表的な著作に「死者の書」がある。これは、奈良・当麻寺の中将姫伝説に材を取り、古代人の生活と心を再現してみせた詩的表現の小説であるが、この「死者の書」が『日本評論』に連載された昭和十四年当時、創元社の編集顧問ともなっていた小林氏は「創元選書」に力を入れ、まだ一般にはなじみの薄かった柳田國男の「昔話と文学」「木綿以前の事」をはじめ、今日では名著と位置づけられている本を次々刊行していた。その「創元選書」に、「死者の書」を収録したいという願いをもって、小林氏は折口を訪ねた。だがこのときは、「死者の書」はまだ続編を書きたいからとの理由で断られた。それから十年、昭和二十五年の秋、小林氏は『新潮』に「偶像崇拝」を書いて、「死者の書」に光っている折口の審美的経験による直覚と、そこに満ちている詩人の表現とを精しく称えた。またこの年は、「古典をめぐりて」(同第17集所収)など折口と二度にわたって対談もした。

その折口を、小林氏は再び訪ねたのである。それは、昭和二十六年あたりだったように思うと岡野弘彦氏は言われている(座談会「小林秀雄の思想と生活」、『国学院雑誌』第一一一巻第一号所載)。岡野氏は、折口の門下である。現代を代表する歌人として夙に著名であり、永年、國學院大學の教壇にも立たれたが、若き日は折口の家に書生として住み込んでいた。そこへ小林氏が訪ねてきた。小林氏と折口は、約二時間、話し込んだ。話題はほとんど本居宣長の学問であったという。岡野氏は、ずっとその場にいて二人の話を聞いていたわけではないが、後になって思い返せば、小林氏は本居宣長のことを書きたいという意思をはっきり持って訪ねてきたようだったという。

しかし、小林氏の期待は、少なからず裏切られた。―話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された……と小林氏が言っている橘守部は、宣長からは五十年ほど後の学者であるが、折口が語った守部の評とは主に『難古事記伝』であっただろう。「難」は「非難」の「難」である。ここから推せば、折口も、「古事記伝」はさほどには評価していないと受取れる話の内容だったのだろう。

これを聞いた小林氏は、―浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った、そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いた……と書く。このときまで、小林氏にとって本居宣長は、「『古事記伝』の本居宣長」であった。その宣長の「古事記伝」の読後感を、『古代研究』があり「死者の書」がある折口に質していささかなりとも固めたいと希っての訪問であった。ところが折口は、終始前向きには応じなかった。小林氏はますます自分の読後感を持て扱った。

このときの氏の心中は、折口家訪問とほぼ同じ時期に雑誌連載していた「ゴッホの手紙」を書き始めるまでのあの焦燥と同じだったと想像してみてもよいだろう。

―感動は心に止まって消えようとせず、而もその実在を信ずる為には、書くという一種の労働がどうしても必要の様に思われてならない。書けない感動などというものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない、そんな風に思い込んで了って、どうにもならない。……

そういう困惑のなかで口に出た、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」であった。この言葉は、折口に向けていた問いの辛くもの自答であったが、折口の「古事記伝」観に対する違和感の表明でもあった。橘守部らを引いて語る折口の「古事記伝」観がおいそれとは呑み込めない、だからといってそれに抗い得るだけの「古事記伝」観が自分にあるわけではない、「古事記伝」観どころか読後感としてすら「一向に言葉に成ってくれぬ、殆ど無定形な動揺する感情」しかない、しかし、それでもなおその小林氏の「感情」は、折口の「古事記伝」観を受容れない、それがなぜかは小林氏自身にもわからない、そういう混迷のなかで出た「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上の……」なのである。これに対して折口は、黙って何も答えなかったという。これは、折口が不快を覚えてとった態度ではないだろう、折口は折口で、小林氏の心意を測りかねたのであろう。

だがこの時、この言葉は、図らずも宣長に対する新しい認識を小林氏の脳裏に呼び出したと思われる。折口を介して橘守部の言い分を聞くうち、これは守部に限ったことではない、誰もが誰も、宣長の仕事は理解できていなかったのではないか、この、宣長と周囲が相討つ思想の火花にこそ宣長の真がある、小林氏はそう思ったにちがいない。「思想のドラマ」の幕が上がったである。

そして折口は、大森駅での別れ際、唐突に言った、―小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら……。

小林氏は、意表をつかれる思いがしただろう。それまで、氏の頭には、「『古事記伝』の宣長」しかなかった。「『源氏物語』の宣長」はなかった。そこへいきなり「源氏」である。岡野氏は、折口宅での対話には「源氏物語」はほとんど出ていなかったと言っている。

 

小林氏は、途方に暮れる思いで帰路を辿っただろう。そして時をおかず、折口の「源氏物語」論を繙いただろう。「本居宣長」は、第十三章から「もののあはれ」の論に入るが、第十四章、第十五章と、「もののあはれ」という言葉の来歴から意味合の本質へと考察を進めていき、第十五章で言う。

―折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。……

折口は、昭和三年四月から慶應義塾大学の教壇に立ち、昭和二十二年からは通信教育部の教材として『国文学』を著し、それを順次、公開していた。「日本文学の戸籍」はその『国文学』の第二部であり、「源氏物語」は第三章で講じられていて、小林氏が「本居宣長」第十五章に引いた所説の前には、こういう言葉が見えている。

―本居宣長先生は、「古事記」の為に、一生の中の、最も油ののった時代を過された。だが、どうも私共の見た所では、宣長先生の理会は、平安朝のものに対しての方が、ずっと深かった様に思われる。あれだけ「古事記」が譯っていながら、「源氏物語」の理会の方が、もっと深かった気がする。先生の知識も、語感も、組織も、皆「源氏」的であると言いたい位だ。その「古事記」に対する理会の深さも、「源氏」の理会から来ているものが多いのではないかと言う気がする位だ。これほどの「源氏」の理解者は、今後もそれ程は出ないと思う。……

おそらくこれが、「小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ」の子細である。そして、続けてこう言っている。

―「もののあはれ」の論なども、先生が「源氏」を通してみた論で、それがもっと、先生の一生をかけた「古事記」の時代に影響して行ってもいいと思う。……

小林氏は、ここであの折口の、大森駅での言葉の真意を直感したと思われる。折口が、「古事記伝」の評価にさほど熱心でなかった理由も合点したと思われる。このとき、小林氏における「『古事記伝』の本居宣長」は、「『源氏物語』から『古事記』への本居宣長」に変貌したのである。「源氏物語」から「古事記」への宣長とは、「歌の事」から「道の事」への宣長であった。これについては後述する。

あの日、岡野氏は、折口に言われて折口と一緒に小林氏を大森駅まで送った。岡野氏の記憶によれば、大森駅での二人の間は、小林氏が書いているよりもはるかに緊迫したものであったらしい。駅に着いて、小林氏は切符を買って改札口を通った。折口も自宅へ戻りかけた。ところが、折口は、くりっと身体の向きを変え、大声で小林氏に呼びかけた、「小林さん、宣長さんはなんといっても源氏ですよ、はい、さよなら」。あのときの気迫、切迫した気分は格別だったと岡野氏は言っている。

 

その、折口を大森に訪ねた可能性の高い昭和二十六年の前年、すなわち二十五年の七月、小林氏は『新潮』に「好色文学」を書いている。

―宣長は、「源氏物語」の根本の観念は、「物のあはれ」であると苦もなく断じた。今日の学者には、これについて綿密な議論もあるであろうが、私はよく知らない。ただ私は、宣長の自然な素直な論が好きなのである。人間に一番興味ある「物」は、人間であろうし、一番激しい興味は、恋愛の情にあるだろう。恋歌は詩の基だ。「あはれ」は殆どすべての種類の感情感動を指す語だが、悲哀傷心は、人の最も深い感情であろう。悲しみは、行為となって拡散せず、内に向って己れを噛むからである。……

この前後を読んでいくと、小林氏はもう宣長も「源氏物語」も「もののあはれ」も、後年の「本居宣長」の深みで読んでいるとさえ思わされるのだが、氏の「源氏物語」に対する覚醒が、折口に示唆されてのことであったとすれば、小林氏の折口訪問は、岡野氏の記憶とは別に昭和二十五年の前半であったとも考えられるだろうか。それとも、宣長の「源氏物語」や「もののあはれ」については、その年の初めか前年の暮れ、折口と対談した日にある程度のことは聞かされていたのだろうか。折口と小林氏の対談「古典をめぐりて」(前掲)は、二十五年二月に発行された雑誌『本流』に掲載されている。そこでは「源氏物語」も本居宣長も正面からは語りあわれていないが、雑誌に掲載されなかったところで折口が、「源氏物語」のことをいくらか語って聞かせたということはあったかも知れない。折口の「宣長さんはね、やはり源氏ですよ」は、それを承けてのことだったかも知れない。

が、いずれにしても、折口のあの一言は、小林氏の宣長理解に道をつけた。昭和三十五年七月、氏は新潮社の『日本文化研究』シリーズに、最初の本居宣長論として「本居宣長―物のあはれの説について」を書いたが、まず冒頭に、宣長晩年の随筆「玉勝間」から引いた。

―おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしへふみ共をかむがへさとれるのみこそあれ……

「あがたゐのうし」は「県居の大人」、宣長の師、賀茂真淵のことであるが、この宣長の回想を承けて、小林氏はこう書いた。

―宣長は、七十歳の頃、自分の仕事を、回顧して、右の様に考えた。(中略)宣長の仕事は、「歌の事」から「道の事」に発展したのであるが、これは、彼の実際の仕事ぶりの上でのおのずからな円熟であって、歌のさと道の正しさとの間に、彼にとっては、何等なんら本質的な区別はなかった。だからこそ、彼は、自分のして来た学問について、「道の事も歌の事も」と、さりげなく言い得たのである。……

「歌の事」とは「源氏物語」のこと、「道の事」とは「古事記」のことと、ひとまずはそう解しておいてよい。折口が、「日本文学の戸籍」で、「『もののあはれ』の論なども、先生が『源氏』を通してみた論で、それがもっと、先生の一生をかけた『古事記』の時代に影響して行ってもいいと思う」と言ったのはここである。ただし折口は、直感に留まっていた。小林氏が見通しきったほどには、宣長における「歌の事」から「道の事」へを見通してはいなかった。この見通しは、小林氏の独創であった。

―彼の考えでは、学問とは、そういうものである。私を去って、在るがままの真実を、明らかにする仕事であるから、得られた真理は、万人の眼に明らかなものである筈だ。又この万人にとっての真理が、人の生きる道について教えない筈はない。もし「歌の事」の研究が「道の事」の研究に通じないならば、それは、学問の道に何か誤りがあるからだ。こういう宣長の学問に関する根本の考えを、しっかり掴んでいなければ、宣長の思想に近附く事は出来ない。……

「本居宣長」は、この「本居宣長―物のあはれの説について」の五年後に始められた。宣長の「歌の事」から「道の事」への追究を、十二年余をかけて徹底させた仕事であった。

 

―私が、彼の「源氏」論について書いた時に、私の興味は、次の点に集中していた。それは、宣長自身「源氏」を論じながら、扱う問題の拡りや深さを非常によく知っていた、扱い兼ねるほどよく知っていた、そういうところであった。私は、折口信夫氏の指摘を引用したが、折口氏によると、宣長の使った「ものゝあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「ものゝあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……

これは「本居宣長」の大詰め、第四十六章からである。

折口は、「本居宣長」の大きな機縁として思い出されていた。小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ……。人口に膾炙した小林氏の用語をここでも借りるなら、折口信夫のあの一言は、「本居宣長」全五十章の主調低音だったと言ってよいのである。その主調低音が、思想劇「本居宣長」の幕開き早々に鳴ったのである。

(第四回 了)

 

ブラームスの勇気

「私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった」と、彼は足掛け五年にわたった「ゴッホの手紙」の最終章最終節に書いているが、この作品の構想と執筆には、いくつかの紆余曲折がある。

小林秀雄が「烏のいる麦畑」の複製画を観た「泰西名画展覧会」は、読売新聞社の主催、文部省の後援で、昭和二十二年三月十日から二十五日までと、翌昭和二十三年二月二十五日から三月十五日までの二回にわたって東京上野の都美術館で開催されている(二回目は三月十七日から二十六日まで国立博物館表慶館で延長された)。「ゴッホの手紙」の第一回が発表されたのは、二度目の展覧会が終った九ヶ月後であるが(『文体』第三号、昭和二十三年十二月発行)、前年十二月に発行された同誌復刊第一号の編集後記には、次号、小林秀雄の「ゴッホ」が掲載されることがすでに予告されているから、彼が上野に足を運んだのは第一回展覧会の二週間の間であり、その年のうちにゴッホ論の執筆を構想していたことがわかる。

「烏のいる麦畑」に感動した小林秀雄は、どうかしてこの複製画を手に入れたいと思い、知人の画商達に会う毎にそのことを話したと自身書いているが、友人の青山二郎には、「誰か、アレを貰って来て呉れたら、ゴッホを僕は書くんだがなア」と言っていたという(青山二郎「小林のスタイル」)。あるいはそれは、第一回展覧会の半年後、『文學界』昭和二十二年九月号に掲載された辰野隆、青山二郎との鼎談の席でのことだったかもしれない。この鼎談で、辰野隆が青山二郎に「画家からテクニックを抜いたら何が出来るだろう」と問うたのに対し、青山が、「その点、ゴッホはどうかな」と切り返すと、小林秀雄が「そりゃ大変なテクニシャンさ」と応じ、辰野隆の言葉を引き取った上で次のように発言している。

 

辰野 ゴッホは全世界を改め得るほどの健康なものを持ってたね。
小林 持ってた。病的なものじゃない。色はいかにも錯乱してるけど、感じは静かなんですよ。健康なんだ。まわりが病人どもに満ちていたから、ひどいところに追いつめられたんだ。

 

これが、小林秀雄がゴッホについて語った最初であった。「色はいかにも錯乱してるけど、感じは静かなんです」と言った時、彼の眼前に、「全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞って」いるあの「一種異様な画面」が浮かんでいたことは間違いないだろう。その小林秀雄の「誰か、アレを貰って来て呉れたら……」という呟きを、青山二郎は宇野千代に伝えたのだという。すると彼女は田舎まで跳んで行って、その複製画を持ち主から貰って来た。『文体』は、もともと宇野千代が弟正雄と創刊した文芸誌である。彼女は小林秀雄にゴッホ論を書かせる目的でその絵を手に入れたのだった。都美術館の広間で観たままの絵が、薦包で小林秀雄のもとに届けられたことは、「ゴッホの手紙」の中にも書かれている。

『文体』復刊第一号の編集後記で予告された「次号」(第二号、昭和二十三年五月発行)にはしかし、「ゴッホの手紙」は掲載されず、その直前に『時事新報』に発表されたばかりの「鉄斎」(「鉄斎 Ⅰ」)が再掲された。小林秀雄自身、「丁度、長い仕事に手を付け出していた折から、違った主題に心を奪われるのは、まことに具合の悪い事であった」と書いている通り、この頃、二度目の「罪と罰」論の執筆に集中していたということもあっただろう。しかし「それは気の持ち様でどうにでもなる」とも言っているように、二つの作品は並行して執筆された様である。「『罪と罰』について」(「『罪と罰』について Ⅱ」)が『創元』第二輯に発表されたのはその年の十一月であるが、「ゴッホの手紙」の第一回が『文体』第三号に掲載されたのはその翌月であった。

「ゴッホの手紙」の「第一回」と書いたが、この作品はもともと長期連載を前提として始まったものではない。『文体』第三号には四百字詰め原稿用紙五十三枚分が掲載され、文末に「未完」と記されているが、編集後記には、「この論述は更に次号に頂く続稿を俟って完結される筈」と書かれている。書き始めた当初、おそらく彼は百枚程度の、丁度「モオツァルト」と同じくらいの長さの作品を構想していたものと思われる。

ところが次の『文体』第四号(昭和二十四年七月発行)では、原稿用紙三十五枚ほどが掲載され、またしても文末に「未完」と記された。そしてこの後、『文体』が休刊となったことで、「ゴッホの手紙」は二回分掲載されただけで打ち切りとなってしまう。その後、一年半の空白期間を置いて、『芸術新潮』昭和二十六年一月号にあらためて冒頭から掲載され、以後は、昭和二十七年二月号までの十四ヶ月間、毎月休みなく連載されて、同年六月に新潮社より上梓された。単行本一冊分となる連載としては、戦前の『ドストエフスキイの生活』以来、二作目となった。

以上が、「ゴッホの手紙」の構想と執筆のおよその経緯だが、この作品にはもう一つの忘れてはならない重要な動機が存在する。ゴッホが残した厖大な書簡の読書体験である。「烏のいる麦畑」の複製画が宇野千代から届けられた後のことであったようだが、小林秀雄は式場隆三郎からその書簡全集を借用し、殆ど三週間、外に出る気にもなれず、食欲がなくなるほど心を奪われたのである。

 

書簡の印象はと言えば、麦畑の絵に現れたあの巨きな眼が、ここにも亦現れて来て、どうにもならぬ。ボンゲル夫人は、序文の冒頭に、ゴッホの弟の母親宛の手紙の一節を引いている。「彼(ヴィンセント)は、何んと沢山な事を思索して来たろう、而も何んといつも彼自身であったであろう、それが人に解ってさえくれれば、これは本当に非凡な著書となるだろう」、いかにもその通りである。僕は解った。だから「彼自身」の周りをぐるぐる廻る。「彼自身」が、サイプレスの周りを廻った様に。

 

ゴッホを巡る小林秀雄の「螺階的な上昇」がここに始まる。書簡全集が存在しなくても、彼はゴッホについての批評作品を書き残したかもしれないが、書簡がなければ、その内容はまったく異なったものになったであろう。そしてこの「The Letters of Vincent van Gogh to his brother」という「非凡な著書」との出会いにこそ、小林秀雄の批評文学を「ゴッホの手紙」の前と後とに分つ決定的な一線があったのであり、この度の「螺階的な上昇」には、「モオツァルト」や「『罪と罰』について Ⅱ」を書き終えた小林秀雄の予期し得ないものがあった。

モーツァルトにも厖大な書簡全集が存在する。小林秀雄は「モオツァルト」の中でその何通かを取り上げ、中でも一七七七年七月二日にパリで母親を失ったモーツァルトが父親に宛てた二通の手紙を、この音楽家の魂が紙背から現れて来るものとして紹介した。しかしその手紙はまた、「凡庸で退屈な長文」でもあり、「この大芸術家には凡そ似合わしからぬ得体の知れぬ一人物の手になる乱雑幼稚な表現」で書かれていた。モーツァルトにおいては、「手紙から音楽に行き着く道はない」。だから小林秀雄は、「音楽の方から手紙に降りて来る小径」を見付ける他なかった。そして確かに、彼は、その「小径」の先に「モオツァルト」を聴き分けたのだった。

ドストエフスキーについても、その私生活の記録においてはほとんど同じことが言えるだろう。実に三十年以上もの歳月をかけた彼のドストエフスキー探求の最初の動機もやはり、この作家の「思想と実生活」の間に潜む、ある断絶の超克の問題にあった。彼のドストエフスキーを巡る遍歴は昭和八年、三十一歳の年から始まったが、その翌年一月に発表された「文学界の混乱」の最後で、この年立て続けに発表することになる最初の「罪と罰」論および「白痴」論を予告するかのように、次のように書いている。

 

僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている。広大な深刻な実生活を生き、実生活に就いて、一言も語らなかった作家、実生活の豊富が終った処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎっている作家、而も又娘の手になった、妻の手になった、彼の実生活の記録さえ、嘘だ、嘘だと思わなければ読めぬ様な作家、こういう作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思っている。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思っている。

 

ところがゴッホの手紙は、少なくとも小林秀雄にとっては、モーツァルトやドストエフスキーに見られたような(というより、あらゆる芸術家や作家に多かれ少なかれ見られるような)「思想と実生活」の断層を認めることが不可能な、完全に連続したものとして現れた。ゴッホの「思想と実生活」は、彼に言わせれば、「手紙の終るところから、絵が始まり、絵の終るところから手紙が始まる」というより他ないものであり(「ゴッホ書簡全集」)、「絵にあらわれた同じ天才の刻印が、手紙にも明らかに現れている」(「近代絵画」)という驚くべき様相を呈していた。ゴッホに「実生活の秘密」はない。すべては白日の下に晒され、作品の血となって流れ込み、キャンバスの深い傷口から流血する。そしてこの事実は、小林秀雄に対して、「ゴッホ」という考えを断固として拒絶したはずである。このような芸術家を描くのに、「述べて作らず」以外のどのような方法があり得ただろう。彼にとって本当に「意外」だったのは、連載が予期せず長くなったという一事ではなかった。

 

私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは書き進んでいくにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。

 

この評伝を読んでいくと、一八八八年十月、ゴーギャンがアルルに到着する頃から、すなわちゴッホの最初の発狂場面を描写するあたりから、見る見る著者の「諸観念」が消え失せ、「批評的言辞」が去って行くのがわかる。小林秀雄は、ゴッホという「彼自身」の周りをぐるぐる廻り続ける。やがて彼自身、本居宣長というサイプレスの周りを廻ることになる様に。ブラームスのれる変奏曲が、その彼の螺旋運動の彼方で鳴り出そうとしていた。

(つづく)

 

美を求めるまごころ

私の家では、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮によるベルリンフィル管弦楽団のベートーベンの音楽がよく流れていた。3歳の頃の私は祖父の膝のうえに乗り、童謡・唱歌、クラシックを聴いていた。日曜日には、現在も続いているNHKラジオのクラシック番組を聞いてから、NHKテレビ“日曜美術館”を見るのが慣例だった。上方落語や地唄舞を見たりと、私にとってはごく自然な当たり前の世界だった。

飛騨の匠に作らせた書院造のその家で、雪見障子越しの光の加減から季節の移ろいを感じながら、音楽を聴いていた。が、不思議と祖父はモーツアルトを聴かなかった。気難しい祖父にはモーツアルトの軽やかな調べが合わなかったのだろうか。そのせいなのかはわからないが、私は、長年小林秀雄の『モオツアルト』を読むのに大変に苦戦している。

 

そんな折、小林秀雄を学ぶ“池田塾”入塾に合わせて“小林秀雄音楽塾”へのお誘いがあった。小林秀雄の批評家による「モオツアルト」の講義と、高名なレコードコレクターによる解説に合わせて希少なコレクションを蓄音機で聴くとの触れ込みに、天下の小林秀雄を批評する“批評家”とは、さぞや貫禄付いて威圧感があり、“往年のブラームス”のような人だと想像していたが、実際はその真逆で、あえていうなら、“青年期のブラームス”のような風貌の、本誌『好・信・楽』で、「ブラームスの勇気」を連載されている杉本圭司さんであった。

 

なぜ私は、モーツアルトの音楽及び「モオツアルト」が理解できないのかを問い続け、かれこれ1年ほどその杉本さんの小林秀雄音楽塾へ足を運んでいるが、はっきりとした答えはまだ出ない。

そんな状況の折、つい最近『モオツアルト』の中の「モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」の一文が引っかかった。その数行前には、「tristesse(かなしさ)を味わう為に涙を流す必要がある人々には、モオツアルトのtristesseは縁がない様である」ともある。その「tristesse(かなしさ)」とは、どのような「かなしさ」なのか。「悲しさ」なのか「哀しさ」なのか。

この「tristesse(かなしさ)」とは、他の感情が入り込むことすらできない、モーツアルトや小林秀雄が体験した頭いっぱいの「tristesse(かなしさ)」ではないかと思うが、私は、モーツアルトの音楽を聴いていて、楽しくなるどころか息苦しくなる時がある。それは「tristesse(かなしさ)」を真に理解できないことに加え、モーツアルトの音楽が縦横に完璧すぎて、自分の感情を滑り込ませるすきすら与えないからだと思う。それは、以下にも通ずる。

 

小林秀雄は1946年(44歳)の『モオツアルト』の後に、1953年(51歳)『モーツァルトを聞く人へ』、1955年(53歳)『モオツアルトの音楽』という短い文章を書いている。共に「大ていの人がモーツァルトを好きだと言うが、同時に物足らぬとも言う」とあり、その理由として、「均斉のとれた、繊細、優美な、明るい音楽という通念は、モオツアルトを聞く人々を強く支配している。それも仕方のない時の勢いであり、独創と新奇とを追い、野心的な企図が要求する形式の複雑さを誇示する浪漫派音楽を通過した私達には、モオツアルトの音楽は、あまりに単純すぎるものとも聞こえる」と。また、「モオツアルトの音楽には、ベートーヴェンの音楽にあるような反抗や戦いがないということもよく言われるが、そういうものが露骨には現れていないというだけの話で、世間一般の因襲や不自然と戦う革命児たる点では、二人は大変よく似た芸術家であった。ただモオツアルトは、そういう苦しみを努めて隠した。彼の妻は、夫の天才なぞ少しも知らなかった。彼は常に優しい快活な率直な人間として世を渡った。社会的権利なぞ彼の眼中にはなかったが、彼は秘めた自分の天才の苦しみを特権化する事も少しも考えなかったのである。彼の音楽はそういう彼の人柄の正直な表現であると見ていいようである。彼の音楽を聞きわけるにはいわば訓練された無私が要る。聞きわける人には、彼の音楽は突如としてロココの衣装を脱して人間の裸身を現ずるであろう」と。

上記の2点をポイントに今後の検証課題として考え、機会があれば、ここで、経過報告をしたいと思う。

 

音楽と同じくらいに、私の心に響くのが、絵画である。3年前の4月、急に私はニューヨークへ行きたくなり、特に目的もないまま、飛行機に乗っていた。約1週間の旅で、飛行機での移動を除くと4日間の短い滞在だった。予定がないため、行き当たりばったりで、マンハッタンのロックフェラーセンターをランドマークにひとりうろついていた。セントラルパークも近いため、広大な公園を歩いていたら、メトロポリタン美術館、通称“Met”にたどり着いた。Metは、何百万という作品を所蔵し、とても1日で見るのは不可能であるため、“直観”で、館内地図を手に“ゴッホ”の作品がある場所へと向かった。

世間では“ゴッホ”は、“狂気”であることが特に強調された天才画家というイメージが強く、私もそれを疑っていなかった。ところが、ゴッホの作品“アイリス”を目の当たりにして、その思いが覆った。それはまさしく、小林秀雄著『美を求める心』の一節「美は人を沈黙させる」を思い起させる感動体験であり、その時の感動を適切に表現ができないのがたいへんに心もとないが、ゴッホは、花と対話できていたのではないか、また、自分は花であると本当に思い、人間と花であることの境を超えて花と一体化したからこそ、あの絵が描けたのではないかと思った。

小林秀雄の『ゴッホの手紙』にもゴッホの鋭い感受性について述べているが、私には、『本居宣長』の一節「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入り込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ」ということを実際にゴッホは体現していたのではないかと思われた。であるがゆえに、ゴッホの身をもって感じ尽くされて描き出される作品は、時代や国を超えて人々の心を強く揺さぶるのではないだろうか。

 

閉館時間が迫っていたため、じっくりとは鑑賞できず、また翌日、開館と同時にMetへ入館した。その日は時間があったため、古代エジプト、古代中国、中世ヨーロッパ、日本美術などを見て回り、さすがに食傷気味になってきた最後に、またゴッホの展示室へ向かった。前日、すでにゴッホの絵を見ているからではないが、花の絵を見た途端に、懐かしく、ありのままに全てを包んでくれるような、不思議な安堵を感じた。

そのまた翌日も、私はMetへゴッホの絵に会いに行った。通算3日、ゴッホの作品と対峙し、私はゴッホと親しくなれた気がした。

 

音楽、絵画に続き、古典も私の心を楽しませてくれる。「ゆく河の流れは絶えずして」で始まる鴨長明の「方丈記」の音のリズムの美しさは、作者の呼吸、息遣いまでもが感じられ、声に出して読んだり、文章を薄紙に清書したりするほどに大好きである。

また、歌人・藤原定家の日記「明月記」には、有職故実の公家世界に身を置きながら、無鉄砲で激情型気質の定家が繰り広げる周りとの衝突、喧嘩、挙句には謹慎処分を食らったときの心情がありのままに書かれてあり、“藤原定家”の生々しい実像を身近に感じ、その人間臭さにいたく共感を覚えた。現在も、京都御所北側の今出川通に面したところで和歌の伝承をしておられる定家の子孫の“冷泉家”の至宝展がNHK主催で全国巡回開催された折には、アテンダントを一ヶ月間務めさせていただいた。まさしく役得で、定家独特の文字・肉筆を眺める幸運に与り、あたかも定家と毎日対話しているような感覚であった。

 

「萬葉集」の中では、持統天皇の“春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山”が私の好きな歌の一首である。萬葉びとの天真爛漫なおおらかさが感じられ、ダイナミックな大和三山の情景が心にありありと浮かんでくる。私にとっての古典、和歌は、時空を飛び越え現在と古(いにしえ)を往来しつつ、古びとと対話できるものであり、それは小林秀雄のいう“心眼”という体験がぴったり当てはまる。

小林秀雄は、『学生との対話』の講義「感想―本居宣長をめぐって」後の学生との対話の中で「古典を読むというのは、その場その場の取引です。だから、二度も三度も読めるのです。古典が生きているということは、君が生きているということなのです。ちっとも違いはありません。古典は、どんな君にも応じるんですよ。青年の君にも、壮年の君にも、『万葉集』は応じます」とも語っている。

 

私が“音楽・絵・古典”について述べたのは、AI(人工知能)の台頭により、知識としての学問は行き詰まり、AIにはない「直観」が脚光を浴びる人間学へシフトしていくと強く感じているからである。

AIは、例えば、私がFacebookでどんなことに“いいね!”をしたとか、Twitterでどんなことをツイートしたとかいうデータがある程度集まれば、私のひととなり、趣味、思考が予測でき、身近にいる家族や友達よりも詳しく“私という人間像”を明らかにできるそうである。そんなAIに予測できないものは、論理をもしのぐ“人間の直観とセンス”だとも思う。小林秀雄先生は、時代に先駆けてそれを見抜いていたのではないか。

 

小林秀雄先生がAI時代が来ることを見越して『本居宣長』を執筆されたのかどうかはわからないが、「源氏物語」よりも遡った儒教伝来以前の「古事記」は、「漢心からごころ」を拭い去り、事にふれてうれしかなしと動くという受動的な人の「まごころ」を心得てしか真に読み解くことはできないということを踏まえたならば、「漢心」を拭い去れば、「事の本質」と「人の道」があらわになるとも言える。ここでの「まごころ」とは、現代語で言う “人に対しての誠心誠意な心”とは異なることを知っておかねばならない。

「事の本質」とは、みずからの心にも従わぬ、人としてどうしようもない心の動きを人知や理によって解釈する事ではなく、ありのままに感じ知る事であり、また「人の道」とは答えが返ってきても、返ってこなくても、永遠に問い続ける人間のあり方であり、その核心の「まごころ」こそが、人間を人間たらしめる本質と考えた上で、「生れながらの真心なるぞ、道にはありける」と。

言い換えれば、「まごころ」を情の表れとしての、「物のあわれを知る心」を問い続けることが、「人の道」であり、人にはそれぞれに道があり、人生いかに生きるかのヒントでもあると思う。それを踏まえれば、色どり溢れるきらきらした素晴らしい世界がこの先広がっていくのではないか。そのことを念頭に、私は、小林秀雄氏が音楽・絵・古典・哲学と様々な分野に親しみ、感じたように、自らの“直観”を信じ、それを掘り進め、問い続けたい。

『美を求める心』の中の「優しい感情を持つ人とは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか」で結びたい。

(了)

 

小林秀雄との出会い

私が小林秀雄作品に初めて触れたのは大学1年生18歳の時ですから、もう50年以上も前のことです。今、18歳の大学生に50年という時間の長さをどう感じるかを尋ねたら、何と答えるでしょうか。「50年前」といえば、歴史を遡ったような印象で「はるか昔」と云うでしょうし、「50年後」は自分の人生にとっては想像もつかない未来に感ずるでしょう。祖父母から昔話を聞いて過去を想い、鉄腕アトムを通じて未来図を想像した、当時の私がそうでした。しかし、私には、小林秀雄作品に接した50年前の記憶はあまりにヴィヴィッドで、つい数年前のような気がします。時の流れの不思議でしょう。ただ、その後の時間が記憶に残っていない部分も多いことから考えると、時間の不思議のみに留まらず、その言葉や思想が強く深く私の体の中にまで刺さりこんだからであろうという点で、小林秀雄体験の不思議でもあると思います。

 

四浪して静岡から入学してきた大人びた同級生が、ある日、熱に浮かされたような口調で「Xへの手紙」を勧めてきました。著者は小林秀雄。すぐ文庫本を購入して数ページ目を通したけれど、愕然とするほど難解で全く判らない。

「この世の真実を陥穽を構えて捕えようとする習慣が身についてこの方、この世はいずれしみったれた歌しか歌わなかった筈だったが、その歌はいつも俺には見知らぬ甘い欲情を持ったものの様に聞こえた」(「Xへの手紙」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集61頁1行目)

さらにまた、

「俺は元来哀愁というものを好かない性質だ、或は君も知っている通り、好かない事を一種の掟と感じて来た男だ。それがどうしようもない哀愁に襲われているとしてみ給え。事情はかなり複雑なのだ。止むを得ず無意味な溜息なぞついている。人は俺の表情をみて、神経衰弱だろうと言う(この質問は一般に容易である)、うん、きっとそうに違いあるまい(この答弁は一般に正当である)と答えて後で舌をだす」(同62頁15行目)

こんな単語や表現、見たことも聞いたこともない。こんな論理の展開、言い回しに触れるのも初めてでした。書いてあることがほとんど100%に近く分らないと言っても過言ではない。にもかかわらず、一度ページを閉じてもまた開いてしまう。あの時に、それほど私を惹きつけて離さなかったのは何だったのだろうか。

小林秀雄の文章には、自製の高性能ドリルで、自分の肉体の深部をどこまでも抉って行くような、一種の凄惨な印象を受ける部分がありました。「ただ明瞭なのは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。俺は茫然として眼の前を様々な形が通り過ぎるのを眺める。何故彼らは一種の秩序を守って通行するのか、何故樹木は樹木に見え、犬は犬にしか見えないのか、俺は奇妙な不安を感じてくる。(中略)君にこの困憊が分かって貰えるだろうか。俺はこの時、生きようと思う心のうちに、何か物理的な誤差の様なものを感じるのである」(同67頁13行目)、「言うまでもなく俺は自殺のまわりをうろついていた。このような世紀に生れ、夢見る事の速かな若年期に一っぺんも自殺をはかった事のない様な人は、余程幸福な月日の下に生れた人じゃないかと俺は思う」(同68頁6行目)とあるように。

20代の小林秀雄は、小林自身が書いているように「もう充分に自分は壊れて了っている」(同64頁7行目)人でしたが、その壊し方=一般の通念を懐疑して論理を進めていく自己解析は徹底したものでした。小林のその長い煩悶の闇を通り抜けた後の行く手には、しかし、うっすらとした青空を予感させるものがありました。また、小林の文章の背後にはいつも男性的と言ってもよい、倫理の軸がありました。それらが私を虜にさせたのではないかと、今では思うのです。

 

しかし、そもそも言っていることに疑問・反発を感じる処もない訳ではなかったのです。

例えばこんなくだりです。

「何故約束を守らない、何故出鱈目をいう、俺は他人から詰られるごとに、一体この俺を何処まで追い込んだら止めて呉れるのだろうと訝った。俺としては、自分の言語上の、行為上の単なる或る種の正確の欠如を、不誠実という言葉で呼ばれるのが心外だった。だがこの心持ちを誰に語ろう。たった一人でいる時に、この何故という言葉の物陰で、どれほど骨身を削る想いをして来た事か。(中略)誤解にしろ正解にしろ同じように俺を苛立てる。同じように無意味だからだ。例えば俺の母親の理解に一と足だって近よる事は出来ない、母親は俺の言動の全くの不可解にもかかわらず、俺という男はああいう奴だという眼を一瞬も失った事はない」(同66頁7行目~67頁6行目)

しかし小林秀雄よ、それはオカシイだろう! 約束を守らない、出鱈目をいうのは、何と言ってもお前が悪いだろう。それは開き直りというものではないか!

息子の言動が不可解であるにもかかわらず、母が息子を理解しているというのか。そんなことがあり得るはずがない。それもまたオカシイではないか、などと。

後に、私は32歳の時、母を亡くしました。それから7~8年も経った頃に、遅まきながら、思い出の中の母親の眼差しが、小林の言う事に合致してきました。そのことを今も良く覚えております。小林秀雄の才能と努力と誠実がまっしぐらに20代と格闘して遺した「Xへの手紙」を、いわば人生の入り口にいた18歳の私は本当に分かっていなかったのです。

多くのフレーズに一々こういう反応を示しながら、読書体験の浅い者にとってはかなりの分量の作品を、結局は毎回最後まで読んでしまう。そして読了した途端にまた何かが気になって、或いは何かに魅了されて、再度ページを開く。結局、当初の7~8ヶ月で50回ほども読了したでしょうか。自分の部屋で何回となく音読し、終わると今度は黙読をする。大学へ行って芝生の上に寝っ転がってまた読む。そうして繰り返すうちに、意味を知ってか知らないでか「Xへの手紙」は私の体の中に、しっかりと居座って行きました。

その頃、文芸雑誌には「八幡宮境内、神奈川県立美術館の付近で」という説明文とともに、小林さんとお嬢様の明子さんが散歩する過去の写真が載ったり、明子さんに男の子が生まれて、その男の子、孫の信哉さんが小林さんに手を引かれてお庭をヨチヨチ歩きしている写真が掲載されたりしていました。しかし当時の私にとっては、全ては雑誌のページの向う側だけに存在し、想像上の映像が焦点を結ばない風景でありました。

 

それから3年が経ちました。20歳で初めて出来た恋人は、一回り年上の美しい裕福な女性でしたが、彼女が複雑な事情を抱えていた事が却って私たちの恋の結晶作用を促進したのでした。将に「女は俺の成熟する場所だった」のです。「世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺たちは寧ろ覚め切っている。(中略)この時くらい人は他人を間近で仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える。従って無用な思案は消える。現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代わる」(同71頁16行目~72頁27行目)。それにしても小林秀雄は、何故男と女の間にかかった「橋」(同74頁16行目)をここまで分かるのだろうか。「女はごく僅少な材料から確定した人間学を作り上げる。これを普通女の無知と呼んでいるが、無知と呼ぶのは男に限るという事をすべての男が忘れている。俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思っている程、男は自分を男だと思っていない。(中略)惚れるというのは言わばこの世に人間の代わりに男と女がいるという事を了解する事だ。女は俺にただ男でいろと要求する、俺はこの要求にどきんとする」(同73頁2行目~7行目)

小林秀雄の書くことは、ここでも私のバイブルになっていました。

 

そうしているうちに、「全集を読め」と小林秀雄が言う通りに、私は、どうしても小林秀雄全集が欲しくなりました。でも貧乏学生にそんな金は無い。そうしたら、恋人が「私がプレゼントしてあげる」と言って、札幌市内の書店をくまなく探してくれたが、どこにも在庫が無い。次に彼女は、何処で住所を探り当てたのか、小林秀雄の自宅に「そちら様に1セットがお有りでしたら、私の恋人の為にお譲り頂けませんか」と手紙を出したというのです。出版社も取次店も著者をもごちゃ混ぜにした、世間知らずのメチャなカップルではありました。しかしながら結果は、今思っても驚天動地、小林秀雄の奥様からハガキで返信があったのです。「私の家にもございませんので、次の全集が出るまでお待ちください」と丁寧に記されていて感激いたしました。

ハガキ表の左下に書かれた「雪の下」という住所に目が留まり、一瞬、積雪が多い北海道や東北ならいざ知らず、鎌倉にあっても雪が降るのかなあと考えたものでした。全ては強烈な青春時代の思い出です。

 

2015年4月から丸2年間と1ヶ月、池田塾頭のご指導の下で「古事記」素読会に参加しました。塾頭が訓み下し文を区切って朗読して下さる。それに続いて、その音声を頼りにパズルを解くように我々が白文を読み上げる。息が切れそうです。少しずつリズムが生まれ、全天濃霧の風景の一角が晴れて、古代の神々の営みの景色が、一瞬だけ、生々しく見えることがあります。月に1回の素読を続けているうちに、ふと50年前の「Xへの手紙」体験が思い出されました。ああ、あれが素読だったのか。ジャンルも文章の形式も違ったけれど、あれこそが素読だったのだなあ、と。

 

現在の私はと言えば、月に1回、先ほど書いた小林秀雄と明子さんの散歩コースであった、県立美術館の脇を通って「雪の下」の山の上の家に通い、奥様がハガキをお書きになったかもしれない部屋で当時まだ出版されていなかった「本居宣長」を学び、信哉さんがヨチヨチ歩きしていた庭で塾生仲間と談笑している。不思議なめぐり合わせとしか言いようがありません。

(了)

 

なぜ歌を詠むのか

「歌を詠む」

何気なく使う言葉だが、不思議な言葉だ。なぜ、歌を「詠む」のだろう。

 

小林秀雄に学ぶ塾の課外活動として、古言によって和歌を詠まんとする歌会が始まり、早や四年。一拍遅れて参加した私の電子封書目録に残っているだけでも、五千通以上が並んでいる。その殆どが、歌の投稿である。私はといえば、三ヶ月毎の歌会に参加する他は、風の変わり目や、何某か染み入る思いをした時に詠む程度であるが、折に触れて歌と古言を意識する日々は、少なからず驚きや喜びがあり、詠めそうで詠み切れないもどかしさに苦心する楽しみがあった。それは、私が楽しみ続けている数学や物理のそれと、同種のものと言っていいだろう。そんな中で、歌を詠むたびにふと頭を過ぎっていたのが、冒頭の疑問である。

勿論、単純な字義の上でなら、「詠む」とは「言を永める」、つまり歌うという行為そのものを指している事は見て取れるし、昔は「ながむ」とも読み、やはり同じく、声を長く出す事を指していたのだとは飲み込める。だが、問題はそこではない。問題を立て直すならば、なぜ、歌う事、あるいは歌を作る事を、「よむ」と言うのか。なぜ、「うたう」や「つくる」ではなく、「よむ」なのか。

現代の一般的な感覚で言うなら、歌を作る事はもちろん、歌う事自体と「よむ」は、無関係ではないにしろ、それほど強く繋がっているとは思えないだろう。声を出す場合で言えば、むしろ、歌のように拍子を付けたり声を伸ばしたりしない読み方こそ、「よむ」と言う印象が強い。とはいえ当然、「よむ」は昔からある言葉であり、まして「歌」に対し「よむ」という用法は、それこそ昔ながらのものなのだから、現代の感覚や用例ではなく、かつて「よむ」がどのような形で使われ、そこにどのような生活や思いがあったのかを、想像するべきだろう。

 

では、昔の人たちは、「よむ」をどのように使っていたのか。とは言え、私は浅学寡聞の身にて、あまり多く物事を引き出し比べる事は出来ない。それでも、「よむ」という言葉を吟味する、特に、古言によって歌を「よむ」という事の味わいを深める上ではずせないと思う名には、一つ、覚えがある。

つまり、月讀命つくよみのみことである。

ご存じの通り、月讀命は、火の神を生むにより神避かむさりましき伊邪那美命いざなみのみことを相見むとおもほして黄泉よみのくにへ追い往きし伊邪那岐命いざなぎのみことが、伊邪那美命と語らひ給ふも、既に黄泉よもつ戸喫へぐひしき伊邪那美命を見畏みかしこみて逃げ還り、黄泉比良坂よもつひらさか千引石ちびきのいはで引きへて、そのいはを中に置き、最後に言を交はし給ひて後、阿波岐原あはきはらにてみそぎはらい給ひし時成れる神々の中で、生み生みて生みのはてに得給ひし三つ柱の貴き子、その一柱ひとはしらである。

すなわち、於是洗左御目時、所成神名、天照大御神。次洗右御目時、所成神名、月讀命。次洗御鼻時、所成神名、建速須佐之男命(ここに左の御目を洗い給ふ時、成れる神の名は、天照大御神あまてらすおおみかみ。次に右の御目を洗い給ふ時、成れる神の名は、月讀命。次に御鼻を洗い給ふ時、成れる神の名は、建速須佐之男命たけはやすさのおのかみ)。

さて、この月讀命という神様もまた不思議な神様で、伊邪那岐命がいたく喜びて詔り給ひし三つ柱の貴き子のうち、他の二柱ふたはしらの神が古き事のふみの上つ巻にて大立ち回りを演じる中で、ただ一柱、月讀命だけが、生まれた後、伊邪那岐命によりて夜のす国を知らしめよと事依ことよされるくだりよりしもで、とんと現れなくなってしまう。

勿論、名だけを成してそれ以降現れなくなる神は、他にも数多くいる。というより、古き事の記に成りませる神の殆どは、名を成してそれきりと言ってしまえるだろう。

では、それらの神々や月讀命は、特に注意を払われず、脇に置かれるような神様だったのだろうか。そんな事は、決してない。表れる言少なき神を見過ごすというのは、万の言しげき、後世風の発想と言ってもいいだろう。古に言少なしと言う事は出来ても、古の心浅きなどと言う事は、決して出来ない。むしろ、言少なき古なればこそ、ただ神の名を呼ぶ、その重みは、見過ごせない。

では、月讀命とは、いったい如何なる神様なのか。あえて分析的な言い方をするなら、論を待つまでもなく、天照大御神は昼に浮かぶ太陽の神性であり、月讀命は夜空に浮かぶ月の神性であり、建速須佐之男命は強く優れて荒ぶる男の神性であろう。だが、こんな物言いをしたところで、いったい何を言った事になるだろうか。言葉を知るとは、こんな物言いをする事ではない。重要なのは、神の名を呼ぶ人々が、そこにどれほど可畏かしこきものを見ていたのか、そこに思いを染めなければならない。「言意並朴ことばこころなみにぼく」なる古の人々にとって、神の御しわざこそが神の姿であり、神の名であったはずだ。

 

月は、古の人たちに、いったい何を見せていたのか。

ここで少し話は戻るが、「よむ」は、「数む」とも書かれていた。すなわち、一二三と数える事もまた、「よむ」と呼ばれていたのだ。と言うよりむしろ、そちらの方が、本にあったのではないだろうか。月讀命と言う名を詠む時、私には、そう思わされるものがあった。

高照らす日は、今日が訪れ、また過ぎ往く事を教えはするが、過ぎ去りし日々を教えはしない。それは今日という生活の要求に答えはするが、昨日の生活を思い起こさせる事はないだろう。そうして過ぎ去りし日々を教えるのは、満ちては欠ける、月だったのではないだろうか。

月の満ち欠けを数える事は、そのまま、過ぎ去りし日々の生活に思いを馳せる事だ。そして、欠けた月がまた満ち、同じ姿を取り戻したとしても、それは決して、同じ生活を導きはしない。そこに生まれるものこそが、思い出すと言う心の働きだろう。それは必ずしも、生活の必要に応じてまろび出るものではない。しかしそれは、生活への自覚を育む、ただ一つの手段だ。

奈良の都の八重桜を、今日九重に染め上げるのは、こうした、「よむ」という行いであろう。だからこそ我々は、月を讀み、歌を詠むのではないだろうか。

 

今回、なぜこのような事を書いたか。それは、はじめに言ったように、日頃から、「歌を詠む」という言葉に、妙なる響きを感じていたからだ。だが、こうして話を終えて見た今、もう一つ、不思議な縁を感じている。

それというのも、私が詠んだ歌の中で、ぱっと思い出せるものは、月に関するものが多いのだ。というより、私の中で自ずからまろび出る歌は、月に関する歌ばかりだと言ってもいい。その事を別段企図したわけではない、どころか、書き上げるまで思いもしていなかったが、こうして改めて眺めてみると、やはりこれは、必然なのだろう。歌は必ずしも自分の事を詠むわけではないが、歌を詠むのは、やはり自分なのだ。

最後に、思い出した歌の中でも、特に、今回書いた事を詠んでいると思うものを、一つ、置いておこうと思う。

 

月よみて 日つぎかしこみ 語らるる 天つみことぞ しむる有明

(了)

 

はじめの一歩

小林秀雄の『本居宣長』が、どれほどの「知性」を要求する書物であるか、入塾当初の私には見当もつかなかった。しばらくの間は、「知性」が意味するところを誤解さえしていた。

 

『本居宣長』を読み始めた頃、夥しい引用文や慣れない語彙の連なりに戸惑い、私は本文と格闘することを諦めた。解らないことが苦しくて書物を前にただ嘆息、古文漢文の知識不足などという言い訳を探し出したのが最初の数ヶ月。しかし、それでも最低限のことは学びたいと小林の示した文脈を懸命にたどるうちに、あるべき態度というものが段々と掴めてきたように思う。

 

『本居宣長』が読者に求める「知性」というのは、知識の蓄積のことではない。むしろ、浅薄な知識で理解の欠陥を補わぬよう、自制する力のことであった。読解に注ぐべき知的熱量を、ごまかさずに維持し続けることが重要なのだ。小林が書いたままに小林の言葉を読むこと、小林が引用したままに宣長の言葉を読むこと。一見容易に思われるが、これが鍛錬された知性なしには難しいのである。そういった意味で、この本は難解と言えるかもしれない。古語が多いから敷居が高いとか、直線的な語りでないから混乱するとか、いわゆる小難しさ、それは『本居宣長』の本質にはない。

 

こうして知的な読書を覚えはじめた私のうちに、宣長と同じように古典を読んでみたい、味わってみたい、という欲求がごく自然と湧いてきた。宣長が唱え小林が強調したように、学問とは「物まなび」、すなわち模倣することを根本とした。私は宣長に学びたいと思った。高校時代、文法と背景知識を暗記すれば点を取れる科目だった古典。大学進学後、国文学の授業でなんとなく目を通した「古事記」や「徒然草」の抜粋。それなりに楽しんで勉強していたが、どれも読書経験などとは到底呼べないものばかりだった。『本居宣長』を読んで、事実上初めて、積極的に古典を読みたいと思ったことになる。さて、どうやって取り掛かろう・・・。

 

大学でフランス文学を専攻した私は、テマティックなテクスト分析の正しさだけを信じていたが、それは卒業論文執筆時に行き詰まりを招いた。問題は、テーマ批評の方法論そのものではなく、それを体得しないままに信奉する自分自身の危うさにあった。上手く論理をつなげるためにどう材料を調理しようか、当時はそれしか頭になかったのだ。自分勝手なテーマ設定が第一、無限とも思われる言葉の海に溺れることが第二、そこから藁を掴んでテーマに戻ってくることが第三、それを繰り返すものの、仕舞いにはかき集めた藁がどうもまとまらず、強引な論理で縛ってひとまず完成。文学研究を志す学生が、テクスト分析と称してこれほど雑にテクストを掻き回すとは、醜態としか言い様がなかった。そんな時指導教授から、「畑を耕す」イメージを持つように、と助言を頂いた。意味付けに終始してはいけない、結論そのものは重要ではないのだから、テクスト全体を丁寧に耕しなさい、と。

 

以来「畑を耕す」は私のモットーであったのだが、『本居宣長』を読むにあたって、それを再考する時が来たように感じた。散りばめられた要点を拾い集めて合成させることが、どれほど無意味な作業であるか、読んでみて痛感したからだ。本当に豊かな読書経験というのは、テクストという広大な土壌に全身で関わることに始まる。遠くからぼんやり眺めるとか、余計なものを加えて放置するとか、一部分を取り出して何かを拵えるとか、そんな態度では本は何も語りかけてくれない。実際、引用文は読みながすだけ、地の文は文脈すらたどれず、という状態の頃、『本居宣長』という本は私には完全に閉ざされていた。小林の文章を本気で追いかけて初めて、宣長という人間を知る歓びを感じるようになった。

 

では、宣長に倣って古典作品を読むとは、具体的には何をすることなのか。「物のあはれ」が重要であるらしいことは分かるのだが・・・。ここでは端的な答えは求めないことにする。正確に言えば、答えが書いてある箇所を本文から探すのを目的としないことにする。先ずは、「畑を耕す」ように小林の文章に向き合いたい。

 

一読した時、「物のあはれ」というキーワードが、釈然としないまま宙に浮いた。例えば、高校現代文の試験風に「物のあはれとはなにか。○字以内で説明せよ」という聞き方をされたとして、答えられないのだ。《見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずること》(『本居宣長』第14章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.149)と宣長の言葉が引用され「物のあはれ」が説明されるが、この引用を読んだからといって、「物のあはれ」が体得されるわけではない。そもそも、他の言葉では説明できない言葉なのだ。この点に関しては、第13章で小林が言及している。《彼は、この平凡陳腐な歌語を取り上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。その記述が、彼の「ものゝあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない》(同第13章、同p.134)。宣長は「物のあはれ」の意味合の豊かさに感動すればこそ、その感慨を無下にする空虚な説明を避けたのだろう。

 

宣長の思想によると、「物のあはれ」は「ココロウゴく」という経験に支えられている。しかし、もし定義や固定観念が先行すれば、この経験は空洞化を免れない。「物のあはれ」の示すところを言葉で画定するとは、その豊かな意味の広がりを限定することであり、また豊かでありえたココロウゴきを無味にすることだ。したがって、頭の中で拵えた「物のあはれ」らしきものを探そうと書物を駆け巡っても、何も見つからないだろう。ココロウゴく経験を抜きにして「物のあはれ」を理解しようなど、きっと無理な話なのだ。《よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている》(同第14章、同p.152)と小林は言っている。

 

しかしここで、例えば「かなしい」といったココロウゴきの一つの発現、そしてその情趣のみを語っていては、おそらく宣長の探究した「道」には至らない。《阿波礼といふ事を、情の中の一ッにしていふは、とりわきていふスエの事也。そのモトをいへば、すべて人の情の、事にふれてウゴくは、みな阿波礼也》(同第14章、同p.150)と宣長は語る。「かなしき情」は、その情の働きの深さゆえに「物のあはれ」の最たるものだが、それを検討することと、「モト」を知ることとは、別のことなのである。「スエ」から「物のあはれ」の断片を拾い集めても、その集合が「物のあはれ」の全体像になるとは思えない。

 

小林は、「心に思ふすぢ」にかなわぬ時に、意識が現れる、心が心を顧みるとした上で、こう言う。《心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった》(同第14章、同p.150)。生活感情の流れに身をまかせていればおのずから意識されるもの・・・なるほど、教養人と硬派な書物だけが知るはずの「物のあはれ」像は、私の空想であったということになる。「物のあはれ」は、私が思い描いていた以上に身近で切実なものであった。いや、切実さを欠いた「物のあはれ」など有り得ないと言い切ってよいかもしれない。生きた感情でなければ、意識が現れることもないのだから。

 

宣長が問題にしているのは、感情それ自体よりも、感情の働きを認識する力の方なのだろう。小林はそれを、《知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識》(同第14章、同p.151)《分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力》(同第14章、同p.152)と表現する。宣長の「物のあはれを知る道」の核心は、見事にこれらの言葉に集約されるように思われる。しかし、まだ実感が追いつかない。果たして自分は、揺れ動く生活感情の中で、この全的な認識力をどこまで研ぎ澄ませているだろうか。

 

ココロウゴくという経験は、当人が軽んじれば、その鮮烈も充実も生命も薄れてゆくだろう。《問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである》(同第14章、同p.152)と小林は言う。私はこの言葉を信じたいと思った。自分の内に「ココロウゴき」が生じれば、それを離さずに掴んだまま、古典の世界に浸ってみたい。言葉を通して、「ココロウゴき」を見つめてみたい。そんな読書経験の蓄積が、時を隔てた人々との精神の共有へ導いてくれたら、どんなに素敵だろう。ますます豊かな古典の世界が開けてゆくに違いない。

 

虚心坦懐に古典の世界に飛び込んでみること、古語に特有な音の質感も含め、作品を存分に味わってみること、それは『本居宣長』を読み始めた私が踏み出す第一歩として、相応しいだろうか。今はまだ、「物のあはれ」も、それを知るということも、霧に包まれている。近道なんてないのだから、時間がかかっても焦ることはないだろう。霧の晴れ間を探しつつ、宣長に学ぶ道を歩み続けることが出来たらと、願っている。

(了)

 

悲しみの起源

「どうして、小林秀雄を知りたいのか」

小林秀雄に学ぶ「池田塾」に通いながら、私はこんな疑問に捉えられていました。そして、これを自問自答することが、「本居宣長」の重要なテーマのひとつである「歴史」というものを知ることに繋るのではないかという、ぼんやりとした予感がありました。

この疑問に端的に答えると、「小林秀雄を尊敬し、信頼しているから」となります。とは言っても、私が小林秀雄に対してこのような思いを抱くようになった時には、小林秀雄はこの世にはいなかったのです。当たり前のことですが、私は小林秀雄とは面識がなく、ただ著作の中の言葉を読むことだけで、小林秀雄という人間を尊敬し、信頼しているのです。

『すべてココロコトも、コトバを以て伝うるものなれば、フミはその記せる言辞コトバムネには有ける』(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集154頁)

遺された書を通して過去に生きた人物を訪ねようとする人たちにとって、この宣長の言葉は受け入れやすいものだと思います。それでも、その言辞から、眼前に生きる人を蘇らせ、『古への手ぶり言とひ聞見る如』き共感に至ることの困難を、著作と向き合うなかで幾度となく味わいます。しかし、共感し得たと感じる瞬間には、何物にも代えがたい大きな喜びを感じるものではないでしょうか。

 

「本居宣長」を読むと、『事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこころぞ 人のまごころ』(同71頁)、『わが心ながら、わが心にもまかせぬ物』(同71頁)という宣長の歌や言葉を受けて、『事に触れて心が動くとは、私は全く受身で、無力で、私を超えた力の言うがままになる事だ』(同71頁)と小林が言うように、私たちの心は、私たちの思いの届かない場所で、事や物に触れて動く姿だけを私たちに示します。この「心の自律性」と「私の受動性」というのも「本居宣長」の大切なテーマだと思います。私たちは常に事や物に接して、こころが躍ったり、荒ぶったり、時には支配されたりしています。赤ん坊の微笑みに接して、その子の喜びに満たされることがあり、富士山を眺めれば、自分が富士山になっている瞬間がある、というように。そうなると、「もののあはれ」とは、事や物に接して動くこころの姿や状態のすべてを指し示す言葉だと言ってもよいのではないかと考えるようになりました。人が共通して持つ、この動くこころの姿や形、そしてその成り立ちを感得することが、「もののあはれを知る」ことだと思います。自分の思いを汲んでくれない『心にかなはぬ筋』(同第27集150頁)に接するとき、心は波立ち、深い「もののあはれ」を感じます。特に親しい人の死に接するとき、「心にかなはぬ筋」という思いを最も強く感じることを、私たちはよく知っています。このような「心にかなはぬ筋」にどうしようもなく動いてしまうというこころの成り立ち自体に、悲しみを生み出す構造が備わっているように思えてくるのです。

 

私たちは「心にかなはぬ筋」の「もののあはれ」にまみれながら、一方で、自然や他人に共感しながら生活をしています。『空の彼方に輝く日の光は、そのまま「尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物」と感ずる内の心の動きであり、両者を引き離す事が出来ない。そういう言い方をしていいなら、両者の共感的な関係を保証しているのは、御号ミナに備わる働き』(同第28集111頁)とあるように、こころを動かす物や事と、こころの動きやその姿は引き離すことのできないものです。この関係を、小林は「共感的」だと表現します。これが最も純粋な「共感」と呼べるものであり、言葉の働きを鋭く言い表した表現です。さらに、普段私たちが他人や自然との間で取り交わす共感は、他人や自然の「もののあはれ」と、自分の「もののあはれ」が重ね合わさった状態のようにも感じられるのです。

親しく、一緒に暮らしている人との間には、共感しているという自覚も生まれないほど共感しているものです。私の妻や子供たちは、私の一部と化しています。他人の死に対して、小林が書くように『死んだのは己れ自身だ』(同199頁)とまで感じた経験はありませんが、親しい人の死や病に接して、自分の一部が欠けたと感じたり蝕まれていると感じたりした経験はあります。その経験を思うと、絶えず「もののあはれ」を重ね合わせて自分の一部と化している人の死によって、自分自身の「もののあはれ」の一面が、重なり合っていた相手を喪失する経験をしているような気がしてなりません。この「心にかなはぬ筋」の最たる経験、こころが共感していた相手の喪失からは、最も強い悲しみだけが生まれ、基本的には言葉は生まれてこないものだろうと思います。深い悲しみと喪失感の中から、「あの人は、もう還ってこない」という事実追認の言葉を意識的に拾い上げるほかはなく、その行為と同時に、有るのか無いのかも判然としない「死の観念」を立ち上げることを強要されているように感じます。

 

宣長が「古事記」を通じて向き合った神代〈かみよ、じんだい〉の人々は、現代とは比べものにならないほど一緒に生活する仲間と共感し合って、他人を自分の一部と化して暮らしていたことでしょう。このような想像ができたとしても、「古事記」を読み、宣長が成し得たように『神道の此安心は、人死候へば、善人も悪人もおしなべて、みなよみの国へ行く事に候』(同192頁)と神代の死生観を感得して、さらにそこから『安心なきが安心』(同194頁)という悟りに至るのは、あまりにも困難なことだと思います。

数年前、池田塾の塾生と松阪を訪れた際に、本居宣長記念館の吉田悦之館長が「宣長の奥墓や自画像は、自分を思い出してもらうための仕掛け、装置ではないか。魂は黄泉の国に行くが、思い出してもらうことで救われると思っていたのでは」と言われ、人というものはそういうものだと納得したことを記憶しています。これは、普通の人にも自然に生まれてくる思いでしょう。しかし、自分の天命をはっきりと知った天才とは、さらに「遺す」という自覚を持った人たちです。

『豊かな表現力を持った傑作は、……無私な全的な共感に出会う機会を待っている……新しく息を吹き返そうと願っている』(第27集139頁)

小林は古典をこのように表現します。ここは「本居宣長」のなかで、私が最も心を動かされた箇所のひとつです。その理由は、これが、小林の願いでもあったと直感したからです。

 

事に触れて共感し、動き続けるこころをその最深部に持っている人間ですが、動くこころすなおに見つめて、言葉に備わる言霊によって、言葉にしていく道はあり、その動くこころの姿を、そのまま伝えることができるということが「本居宣長」で語られています。小林も屹度、『人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能』(第28集13頁)を信じ、『人に聞する所、もっとも歌の本義』(同53頁など)と考えながら、文章を練り上げていったのだと思います。私は、そのようにして小林が「遺した」言葉と共感し、小林の思いを我がものにしたと感じるときに大きな喜びと安心を感じます。言葉に己を託した小林との共感の内で、また、信頼する精神と時間を超えて繋がる喜びのなかで、私は、最も素朴な意味での「歴史」というものを観じます。そして同時に、小林と共感する己の精神を感得するのです。

 

不思議なことですが、小林と共感し得た喜びを言葉にした途端に、もの悲しい心持ちになります。これは、小林秀雄という誠実な「まごころ」が私のこころに直接的に喚起する「もののあはれ」であるような気もしますし、共感する小林が「今、ここにはいない」という事実によって、共感を表現するたびに彼の喪失を経験して歎いているようにも思われるのです。

(了)

 

小林秀雄の訊き上手

小林秀雄氏の文章に初めて触れたのは、高校二年の時、現代国語の教科書に載っていた『無常という事』によってだった。

確か夏に入ろうかという物憂い季節のことで、教室内はねっとりとした空気が充満し、開けっ放しの窓からは校庭で体育の授業を受けている生徒たちの歓声が、寄せては返す波音のように聞こえていた。そこへいきなり、父親に連れられてよく虫捕りに行った比叡山の深い緑、その中の古びた神社で祈りを捧げる白装束の巫女のイメージが飛び込んできて、不意に辺りの音は掻き消え、そのあとに続く、何度読んでもその奥底には辿り着けないような文章の中へと入り込んでしまったのである。

その不思議な体験のあと、私は新聞配達のアルバイトで貯めていた金で氏の全集を買い、のめり込むようにして読んだ。

 

その後、京都から東京に移り住み、本命大学の受験日を間近に控えたある日、三百人劇場で氏の講演会があるというのを何かの伝手で知った私は、二年目の浪人であとがなかったにも拘らず、迷わずその会場へ赴くことを決めた。

三月初めのまだ寒い日だったが、熱気とともに溢れ返る人々が見守る中、氏は飄々とした出で立ちで登壇した。少し間を置いてから聞こえてきたのは、まさに江戸落語を聞いているような軽妙な語りだった。実際、最初は客席から笑い声が絶えなかった。しかし、そのあと、話が柳田国男十四歳の時のエピソードに及ぶと、一同静まり返って氏の一語一語を緊張しながら追った。柳田国男は、庭にある祖母を祀った祠がずっと気になっていて、ある時、恐る恐る開けてみると、中に蝋石があった。それを見て、何とも言えない不思議な気持ちに襲われた彼が、ふと見上げると、青空に数十の星が輝いているのが見えた。と、その時、ヒヨドリの鳴き声がして我に返ったという。もし、ヒヨドリの鳴き声が聞こえなかったら、私は発狂していたかもしれない。そういう柳田国男の感受性こそが、彼の民俗学の根源にある。それをしかと感じ取った感動を語る小林氏の話に、私は『無常という事』を読んだ時と同じような不思議な気持ちを覚えたのだった。

 

落語家の古今亭志ん生に似ているとも言われる氏の語り口のうまさは、生来的なものもあるかもしれないが、実は、事前に相当練習した努力の賜物であったらしい(池田雅延塾頭談)。恐らく、一級の話し上手の人たちは、最初から話し上手だったわけではなく、努力することによってそうなったに違いない。その氏の話し上手は、あとでかなり手を加えられているという話だが、様々な作家たちとの対談でも遺憾なく発揮されている。それはそうだろう、批評家として、古今東西の詩や小説や評論を読み尽くし、徹底的に考察し尽くして来ているのだから。中身がぎっしり詰まった引き出しは山ほどある。また、大作家たちも負けてはいない。作品からだけでは出てこない生々しい思いや隠された意図などを次々と吐露していく。ここで氏の話し上手と同時に注目したいのは、氏の訊き上手である。執拗に氏に食って掛かる坂口安吾をなだめすかし、最後の方で、「……アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。……」と言わせたり、『金閣寺』を世に出したばかりの三島由紀夫が斜に構えてなかなか本音を言わない中、「……美という固定観念に追い詰められた男というのを、ぼくはあの中で芸術家の象徴みたいなつもりで書いた……」と語らせたりするのはお手の物だが、ここでは全く専門領域の違う二人の学者との対談に注目したい。

一人は日本人で初めてノーベル賞を受賞した、物理学者の湯川秀樹。文学と物理は全く相容れないと一見考えられるが、「人生いかに生きるべきか」を問い続けた氏にとって、この、宇宙を含めた世界とはいったいどのような原理に基づいて成り立っているのか、そして動いているのかを解き明かそうとするアインシュタインなどの物理学者達の理論に興味が無いはずがなく、確率論や量子論、二元論やエントロピーの増大といった難解な問題を湯川秀樹に対して徹底的に訊くのである。そうして、そこにはやはり芸術と同じような人間的な尺度、人間の感性的な問題があるということを導き出す。

さらに注目したいのは、数学者の岡潔。現在では、門外漢にとってはなじみが薄いかもしれないが、その全盛期には、日本にはKIYOSHI OKAという数学者のグループがあって、次々と素晴らしい論文を出してくると海外の数学者達は思っていたというエピソードがあったくらいだから(池田雅延塾頭談)、その実力は推して知るべしだろう。

その岡潔を前にして、氏はもともと抽象的だと認識していた数学について、「このごろ抽象的になった……」という岡潔の書いたものに疑問をぶつける。そして、「数学にも個性がある」という言葉を導き出した後、さらに、「……数学は知性の世界だけに存在し得るものではない……感情を入れなければ成り立たぬ……」という驚くべき発言を岡潔にさせている。そして、「……言葉というものを、詩人はそのくらい信用している……それと同じように数学者は、数というものが言葉ではないのですか……」と氏は問いかけ、岡潔の同意を得ている。とにかく、文学者と数学者という、あまり共通項はないと思われていた二者が織り成す、息の合った対話のハーモニーが素晴らしい。

また、この対談の中で、氏の訊き上手の原点を示唆する重要な発言がある。

「ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと……」

つまり、訊き上手というのは、常に様々な知識を吸収し、大事なことは徹底的に考え抜き、その中で自らの人生と関連づけて、さらに高みを目指して問い続けることができる人のことを言うのだろう。また、他人に対して訊くのがうまいということは、常日頃、自分自身に対しても、訊く(問いかける)ことがうまくなくてはいけないのではないか。

ちなみに、塾頭補佐の茂木健一郎氏も『質問力』という本を出されており、いい質問を出し、それによって脳の可能性を広げ、最高の結果を引き出す、それが重要だということを分かりやすく書かれているが、その本質は、まさに小林秀雄氏の訊き上手と繋がるものである。

 

小林秀雄氏の文章に初めて接してから四十年余りたった現在、私は老若男女の混じった塾生とともに、氏の息遣いと佇まいの残り香が漂う鎌倉の山の上の住居で、池田塾頭のもと、氏の畢生の大作『本居宣長』を勉強している。その内容は、例えば、『ことば』をテーマに、塾生が池田塾頭に質問したいと思う内容を取り上げ、それに対して自分の意見を言い、池田塾頭とともに答えを求めながらさらにその質問を深く掘り下げていく、といったような形式で行われる。時には池田塾頭の厳しい指摘で部屋の中に緊張感が漲る。不思議なことに、やや見当違いの質問が出て来た時の方が、そこから学ぶことは多い。息抜きに、ふと外を眺めると、庭の緑が眩しく目に映る。執筆で疲れた氏の目を、かつて癒したに違いない樹々の緑が。

 

この池田塾で学ぶ我々に対して、氏は現在もずっと問い続けている。

「君たちにとって、人生はいかに生きるべきものなのか、人生の意味とは何なのか?」と。

我々にとって、その答えを出すことはさほど重要ではない。むしろ、その質問をずっと心の中で問い続けることこそが重要なのだ。

(了)