奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年十月号

発行 平成二九年(二〇一七)十月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

“わきまへ知るところは物の心・事の心を知るといふものなり、わきまへ知りて、その品にしたがひて、感ずるところが、物の哀れなり。たとへばいみじくめでたき桜の盛りに咲きたるを見て、めでたき花と見るは、物の心を知るなり。めでたき花といふことをわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが、感ずるなり。これすなはち物の哀れなり”(「紫文要領」、新潮日本古典集成『本居宣長集』125頁)。

物事の「心」を弁え、その「品」に従って感じる、ということが「もののあはれを知る」ということであるならば、それは「もののあはれ」という言葉がふつう解されているような、単に感傷的な心の動きとはかなり違った人間の認識のありかたを表していることになる。「めでたき花」のような出来事に出会ったとき、その「花」を丁寧に、あるがままに眺め、備えている性質に逆らわず認識し、その在りように応じて感じるという態度。この道は、一方では主観や客観という言葉をめぐる哲学上の大問題に通じているが、一方では僕らが日々をいかに過ごすかという平生の心がけに開かれてもいる。今回集まった原稿を一望したとき、どれも陰に陽に「もののあはれを知る」を主題としているように見えたため、まずは感興をしたためた。

 

今号にも多彩な原稿が寄せられた。岡野弘彦氏の講演会の模様を、氏の「姿」との出会いのドラマとして描きだした後藤康子さん。「あだなる」という言葉との比較を通じて「もののあはれを知る」を考察する植田敦子さん。大人と子供、太陽と月という巧みな対照、比喩を用いつつ、『源氏物語』の浮舟をめぐる意欲的な読みを示した謝羽さん。蓮の花を通じて古人の心を想う歌詠みの心の動きを活写した櫛渕万里さん。「フィガロの結婚」をあえて器楽曲のように、「全身を耳と化して」聴くことでモーツァルトに接近しようとする坂口慶樹さん。それぞれの音調トーンをお愉しみいただきたい。

 

異なる流れを持つ二つの大河を無理に繋げるようなことは控えなければならないが、池田塾頭が連載稿で、「もののあはれ」という言葉が孕むものを通り一遍の定義で済ませることなく、深く広く追い求めた宣長が、遂には「うしろみのかたのもののあはれ」という『源氏』の飛躍的な“読み”に至った過程を注視しているその同じ号で、杉本圭司さんが「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という小林秀雄の言葉を取り上げていることに巡り合わせの妙を感じた。一見したところ正反対にも感じられかねないこの二つの態度が、『本居宣長』という作品のうちで、また小林秀雄という生きた個性のうちで、如何に結び合うのか。さらに熟読玩味を重ねたい。

 

小林秀雄「本居宣長」全景

五 もののあはれと会う

本居宣長の墓を訪ね、遺言書を読み、契沖、藤樹、仁斎、徂徠ら先学の跡を辿った「本居宣長」は、第十二章に至っていよいよ宣長の学問そのものに分け入る。そしてただちに「もののあはれ」に言及する。宣長晩年の随筆「玉勝間」から引いて賀茂真淵との師弟関係にふれた後、「ここでは、先ず、宣長の学問の独特な性格の基本は、真淵に入門する以前に、既に出来上っていた事について書かなければならない。有名なこの人の『物のあはれ』論がそれである」と前置きして、京都遊学時代の歌論「あしわけ小舟」に「物のあはれ」論はもう顔を出している、「『歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ』と断言されていて、もう後年の『紫文要領』にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである」と言っている。

だがここでは、その宣長の「もののあはれ」の説と向き合う前に、宣長以前の「もののあはれ」、すなわち、「もののあはれ」の発祥から宣長が「あしわけ小舟」で言及する直前までの「もののあはれ」を、「源氏物語事典」(東京堂出版)、「日本古典文学大辞典」(岩波書店)等に拠ってひととおり辿っておきたい。それというのも、―小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……と大森駅で唐突に言った折口信夫のあの言葉を、あえて「本居宣長」の開巻劈頭においた小林氏の心の影が、「もののあはれ」の来た道に落ちている気がするからである。

 

「源氏物語事典」は、「総記 十八、もののあわれ」で、「源氏物語」の各面を統一し、全篇を貫通し、その基調をなす中心理念として「もののあはれ」が挙げられるとまず言い、「もののあはれ」は、本居宣長が「源氏物語」の味到と精密な文献学的教養、鋭い直観とを通して見出した精神であった、中世以降の仏教的、儒教的な功利的解釈に反発し、宗教道徳の外的規範を脱離し、文学それ自らに即した内在批評に立脚して、この物語が純粋な芸術的衝動の所産であることを説いた、と言っている。小林氏が引いた「あしわけ小舟」の「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ……」の「善悪ノギロン」は、一言でいえば仏教的、儒教的な規範に基づく道徳的善悪の議論であった。

その「もののあはれ」は、「あはれ」に「もの・の」が加わって成った語である。「日本古典文学大辞典」によれば、「あはれ」は「古事記」「日本書紀」「萬葉集」に記された上代の歌謡にすでにいくつか見え、元は物事に対する賞讃・親愛・共感・哀傷などに発した詠嘆の声であった。これがやがて対象に向って動く感情や気分を表す語となり、平安時代には「あはれなり」「あはれと思ふ」「あはれと見る」などの言い方が現れて、しみじみとした同情・共感、あるいは優美・繊細・可憐といった情緒を表すものとなっていった。

その「あはれ」に「ものの」が加わってできた「もののあはれ」を、実際の用例に即して見てみると、自然や四季、あるいは詩歌・音楽・芸能等に触発される感情、気分の状態、さらには人生の哀別離苦などによって引き起される情愛、情味、それらが「もののあはれ」である。そしてそういう「もののあはれ」は、個々人の経験に留まっていた「あはれ」を超えて、一般化され普遍化された情緒、情趣の一様態となっていた。

この「もののあはれ」を、文字に記した最初として今日まで残っているのが紀貫之の「土佐日記」だ。小林氏も第十三章に引いている、というより、そこで強く浮かび上がらせている「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」がそれである。この貫之の「もののあはれ」の用例は、「人々が別離を惜しんで歌を詠みかわす場に、その文雅の情趣を解せぬ船頭の言動を非難した文章のなかに見出される」と説明され、そこにさらに、「古今集」に続いた第二の勅撰集、「後撰集」に出ている貫之の歌の詞書に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて詠んだとある例を引いて、「これらによれば歌を詠むことがすなわち『もののあはれ』を知ることであり、逆にいえば『もののあはれ』を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられないのである」と言われている。したがって、平安時代にあっての「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語であった」と言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養として重んじられた」のである。

時代が下り、鎌倉時代以後となると、「もののあはれ」は仏教の無常観とも結びついた知的な活動をも包含するようになった。江戸時代には浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かった。

 

「もののあはれ」という言葉は、おおむねこういうふうに使われてきた。しかしどの時代にあっても上に見たような認識や、自覚を伴っていたわけではない。そこを史上、初めて確と自覚し認識しようとし、丹念に目を配ったのが本居宣長だったのである。「あしわけ小舟」で言った、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ……」は、京都遊学から松坂へ帰った宝暦七年(一七五七)十月以後、ほとんど間をおかずに「源氏物語」を論じる「紫文要領しぶんようりょう」、和歌を論じる「石上私淑言いそのかみのささめごと」に敷衍され、「紫文要領」は宝暦十三年六月に成り、「石上私淑言」も同年中に成ったと見られている。宣長三十四歳、真淵との対面が叶ったいわゆる「松坂の一夜」はその年の五月であった。

小林氏は、「本居宣長」第十三章で紀貫之が残した「もののあはれ」に踏み込み、その貫之が「土佐日記」とは別に書いた「古今集」の仮名序を宣長は自らの「もののあはれ」論の起点としたと言って、「石上私淑言」巻一から引いている。

―「古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。同真名序に、思慮易遷、哀楽相変といへるも、又物のあはれをしる也」……

これに続けて、小林氏は言う。

―宣長が取りあげた「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。その記述が、彼の「もののあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない。ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しようと願ったとは言えても、これを、文学の本質論の型のうちに閉じ込めようとしたとは言い難い。……

そしてさらに、小林氏は言う。

―宣長は、「あはれ」とは何かと問い、その用例を吟味した末、再び同じ言葉に、否応なく連れ戻された。言わば、その内的経験の緊張度が、彼の「もののあはれ」論を貫くのである。この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどの詰り、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。……

ここから始めて、小林氏は、第十三章、第十四章と、宣長の「もののあはれ」論の含蓄を事細かに味わっていくのだが、ここではひとまず、宣長の言う「あはれ」と「もののあはれ」の中心部を書き抜いておこう。まずは「あはれ」について、「石上私淑言」巻一からである。

阿波礼アハレといふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集149頁引用)

次いで「もののあはれ」について、「紫文要領」巻上からである。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……(同151頁引用)

 

さて、今回は、ここからである。小林氏は、第十四章で「もののあはれ」という言葉の意味合について、宣長の細かい分析を追い、第十五章に入って、こう言うのである。

―そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。そしてこれが、彼の「源氏」の深読みと不離の関係にある事を、読者は、ほぼ納得されたと思うが、もう一つ、「紫文要領」から例をあげて、説明を補足して置きたい。……

「『物の哀をしる』という言葉の持つ、『道』と呼ぶべき性格」については、第十四章で次のように言われていた。

―宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、あるいは純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。……

この問題、すなわち「もののあはれを知る」ということ、そして「道」ということに関しては、次回、稿を改めて立ち戻る。ここではむしろ、そのための身ごしらえという意味からも、小林氏が「補足」と言っている「もののあはれを知る」ということの説明に目をこらしたい。ただし、氏は「補足」と言っているが文字どおりの「補足」ではない。宣長本人から後を託されたとさえ言えそうな口調で、小林氏の私見が示されるのである。

―「品定しなさだめ」の中の、左馬頭の言葉、「ことが中に、なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし、はかなきつゐでのなさけあり、をかしきにすすめるかた、なくてもよかるべし、と見えたるに、―」。この文は、例えば、谷崎潤一郎氏の現代語訳によれば、「女の仕事の中で、何よりも大切な、夫の世話をするという方から見ると、もののあわれを知り過ぎていて、何かの折に歌などを詠む心得があり、風流の道に賢いというようなところは、なくてもよさそうに思えますけれども、―」となる。……

「品定」は「源氏物語」帚木の巻の「雨夜の品定め」である。光源氏の友人三人が、源氏の前で妻とするに好ましい女性について論じあう。「左馬頭」はその友人の一人であるが、「なのめなるまじき」の原義は、おろそかにはできない、「はかなきついで」の原義は、ちょっとしたことをする際、である。

―これは(池田注:谷崎の訳は)普通の解だが、宣長は、そうは読まなかった。彼は、文中の「物のあはれ」という言葉を、「うしろみの方の物のあはれ」と解した。「物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事其事につきて有物也。故に、うしろみのかたの物の哀といへり。是は、家内の世話をする事につきて、其方の万事の心ばへを、よく弁知したる也。世帯むきの事は、ずいぶん心あるといふ人也。世帯むきさへよくば、花紅葉の折節のなさけ、風流なるかたはなくても、事かくまじきやうなる物なれ共、―」、そう読んだ。恐らく、彼にしてみれば、無理は承知で、そう読みたかったから、そう読んだとも言える。「あはれ」という片言について、思い詰めていた彼の心ばえを思えば、これは当然の事であった。……

宣長の読みによれば、「源氏物語」の原文「なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし」は、「なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、うしろみのかたの物の哀しりすぐし」の意となる。すなわち、原文では単に「物の哀」と言われているだけだが、これは「うしろみのかたの物の哀」ということで、原文全体を谷崎訳のように現代語訳してみれば、「女の仕事の中で、何より大切な家事の面について言えば、家事万般にわたってもののあわれを知っていて、世帯むきのことを非常によく心得ている人、こういう人でさえあれば、花や紅葉の季節の感慨など、風流面の能力はなくても不足はなさそうですけれども……」となる。

―「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かという問いのうちに掴まれた直観を、彼は、既に書いたように、「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事、という簡単な言葉で言い現したが、「あはれ」の概念の内包を、深くつき詰めようとすると、その外延がいえんが拡がって行くという事になったのである。……

宣長は、「萬葉集」以来の歌集を読み、また「源氏物語」をはじめとして古来の物語を読むたびごとに、そこに現れる「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かと問い、それは「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事とひとまず言い表すまではできたが、その「あはれ」という言葉で捉えられている事象の内実、中身、それを深く細かくつきつめていってみると、その周辺に必ずしも「あはれ」という言葉で言われてはいないが、それに準じる、あるいはそれと同質と言っていい事象がいくつも見つかることになったと言うのである。それが高じて、ついには、

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

「もののあはれ」を知っているとは、世間の事をよく知ったうえで物事にあたる人は心が練れていてよいと言われるのと同じだとなり、無駄な「つゐへ」、すなわち、無駄な出費を無駄と判断して無駄だったと感じることは、「うしろみのかたの物の哀」を知っているということなのだ、となった。

 

小林氏は、こうして、「もののあはれ」は宣長に至って、多種多様の意味内容を帯びることになったと言うのだが、ここまで言って、折口信夫の指摘を紹介する。

―折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである。……

ここに該当する折口の文章を、もう一度引いておこう。

―「もののあはれ」と言う語も、先生の使い方には多少延長が多くて、用語例を乗り超えすぎている。所謂「もののあはれ知りすぐして」など言う様な意味は、却って少いのではないかと思う。人情に対する理会、同情、調節が、成程「源氏」その他の物語には、好もしく出ていて、いかにも後期王朝時代の人の生活の豊かさを思わせる様に、説明せられているが、「もののあはれ」と言う語は、もっと範囲が狭いように思う。先生は結句、自分の考えを、「もののあはれ」と言う語にはち切れる程に押しこんで、示されたものだと思う。……

小林氏が、「本居宣長」の劈頭に折口との思い出を置いた理由は、この折口の指摘にあると思う。そして今回、私が「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……と唐突に言った折口のあの言葉を、あえて『本居宣長』の開巻劈頭においた小林氏の心の影が、『もののあはれ』の来た道に落ちている気がする」と言ったのも、ここを見込んでのことである。

というのは、宣長の「もののあはれ」論が、「源氏物語」をはじめとする平安時代の物語の「もののあはれ」という言葉の用例を逸脱し、結局のところは宣長自身の考えをはち切れんばかり押しこんだものだという折口の指摘は、宣長の「もののあはれ」論に言及した過去の文献にはまったく見られないものだからである。小林氏は、第十二章で、宣長の「もののあはれ」論については先行研究書にできるかぎり目を通し、啓発されるところも少なくなかったと言っているが、それらの研究書のなかには、折口の言うような指摘はなかった。小林氏は、他ならぬ折口のこの指摘を得て、逆に宣長の「もののあはれ」論の魂とでもいうべきもの、ひいては宣長の学問の真髄というべきものに、初めてはっきり直面したと思われるのである。

―私が、彼の「源氏」論について書いた時に、私の興味は、次の点に集中していた。それは、宣長自身「源氏」を論じながら、扱う問題の拡りや深さを非常によく知っていた、扱い兼ねるほどよく知っていた、そういうところであった。私は、折口信夫氏の指摘を引用したが、折口氏によると、宣長の使った「もののあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「もののあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……

「本居宣長」の大詰め、第四十六章で、小林氏は宣長の「もののあはれ」の論について、もう一度念を押すかのようにこう言った。これが第一章に折口の思い出を置いた最大の理由であり、そこには折口の示唆に対する謝意もこめられていたであろう。

第十五章で折口の指摘を紹介し、そこからただちに「世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである」と続けて、小林氏は、宣長の「もののあはれ」の論が、どれほど凄まじい精神のドラマであり、思想のドラマであったかを垣間見させ、それをひとまず結ぶにあたってこう言う。

―これは、「紫文要領」を殆どそのまま踏襲した「玉の小櫛おぐし」の総論では、読者の誤解を恐れてか、削除されているところだが、宣長が、「物の哀」を、単なる一種の情趣と受取る通念から逃れようとして、説明に窮する程、心を砕いていた事は知って置いた方がよいのである。日常生活の心理の動きが活写されたこの「物語」に、彼は、「あはれ」という歌語が、「あはれ」という日常語に向って開放される姿を見た。そして、その日常の用法の真ん中で、この言葉の発生にまで逆上りつつ、この言葉の意味を掴み直そうとした。この努力が、彼の「源氏」論に一貫しているのであって、これを見失えば、彼の論述は腑抜ふぬけになるのである。……

「玉の小櫛」は「源氏物語玉の小櫛」で、寛政八年(一七九六)、宣長六十七歳の年に成った「源氏物語」の注釈書である。全九巻。総論に見える「源氏物語」評論は最も重要とされているが、その内容は三十三年前に成った「紫文要領」とほぼ同じである。

 

小林さん、本居さんはね、やはり「源氏」ですよ……折口はそう言った。たしかに宣長は、まず「源氏」だった。小林氏には、折口が言いたかった意味とは別の意味で「源氏」だった。「日本文学の戸籍」によれば、折口が言いたかった意味での「源氏」は、「色好み」の極致としての「源氏」だった。ただし、今日言われる「好色」とは異なる、古代の貴族の生活倫理として肯われた「色好み」だった。折口は、その「色好み」の論を展開する前提として宣長の「もののあはれ」に言い及んだとも言えるのだが、小林氏は、その折口の寸言を目にするや、たちまち宣長の真意を読み取った。

小林氏には、こういうことが、つまり、誰かのふとした寸言あるいは片言に感応し、その寸言・片言から意想外の大事を引き寄せるということがよくあった。たとえば対談、座談の席で、同席者のある発言を耳にするやそれをさっと引き取り、君が言いたいことはこういうことではないかと相手の発言内容をその場で組み立て直し、最初の発言者よりもはるかに熱くその問題を論じるということがしばしばあった。

折口との場合も、これと同様であったと思われる。最初は大森駅の駅頭で、次いでは折口の文章中で、小林氏は折口の寸言に感応し、そこから一気に宣長の「源氏物語」論へ走り、「うしろみのかたのもののあはれ」まで馳せ参じた。そこにいた宣長は、小林氏の直観どおり、単なる古典の研究家ではなかった。人生とは何か、人生いかに生きるべきかをどこまでも考えぬこうとする思想家であった。その思想家は、「もののあはれ」という「平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚」いていた。「もののあはれ」という言葉は、いつしか人生とは何か、人生いかに生きるべきかを、細大漏らさず映す鏡となっていたからだろう。だからこの思想家は、「もののあはれ」という言葉を「巧妙に定義して、事を済まそう」とはしていなかった、「ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しよう」と願っていた。

小林氏は、折口の示唆を、そこまで増幅して宣長の「源氏物語」に向った。その読み筋は、そのまま「古事記」に通じていた。「本居宣長」の第一章で、小林氏は、折口の思い出を語りながら、宣長の「もののあはれ」が世帯向きのことまで取り込んで「はちきれて」いたればこそ、後に一〇〇〇年以上もにわたって誰にも読めなかった「古事記」が宣長には読めたのだ、暗にそう言っていたのである。

(第五回 了)

 

ブラームスの勇気

「ゴッホの手紙」を上梓した一年後の昭和二十八年五月、角川書店の昭和文学全集の一巻として『小林秀雄・河上徹太郎集』が刊行された。小林秀雄の文章が網羅的な文学全集に収録された最初である。その中扉に、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という彼の書が掲げられている。小林秀雄の読者なら知らぬ者のない言葉であるが、彼がこの文句を直接文章の上で書いたことはなかった。折に触れて請われた色紙に書いたことから知られるようになったのだが、これを眼にした読者には、如何にもこの批評家の生涯が一言の裡に尽くされているように思われ、やがて人口に膾炙したのである。

小林秀雄がいつ頃からこの言葉を筆にするようになったのかは定かでない。少なくとも印刷されたものとしては、この文学全集に掲載されたものがもっとも古い筆蹟であろう。もともと彼は自ら好んで色紙を書くような文学者ではなかったし、止むを得ず筆を執らなければならない時に選んだ言葉は、「君子豹変 小人革面」「知ル者ハ言ハズ 言フ者ハ知ラズ」「頭寒足熱」といった故事成語か、吉田兼好や本居宣長などの言葉であるのが常だった。彼が敢えて自らの言葉を色紙に記したことは、この言葉の他にはなかったのではあるまいか。

評論家の佐古純一郎は、昭和十八年に創元社に入社し、当時顧問を務めていた小林秀雄の知遇を得て以来、親炙した人であった。佐古純一郎は、その二年前に『文藝』が募集した第一回「文藝推薦」評論で佳作第二席となりデビューしたが、その時の審査員の一人が小林秀雄であった。佐古はまた、小林秀雄論を単行本として世に問うた最初の人である。その佐古純一郎が、ある時、無理を言って色紙を所望したところ、小林秀雄が書いたのが同じくこの「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」であった。以後、佐古は小林秀雄が亡くなるまで、書斎に入るたびにその色紙をじっと見つめるのがならわしだったという(「『人格』のリアリティ」)。

佐古純一郎に宛てたその色紙が書かれたのはいつのことであったのか。昭和十八年に入社してから昭和二十九年に角川書店に移るまで、佐古はほとんど毎週小林秀雄と顔を合わせて指導してもらったというから、創元社に勤めた十年余りの間のことではあっただろう。角川に移った六年後、佐古は同社の「人生論読本」シリーズの一冊である『小林秀雄』を編集・解説したが(昭和三十五年十二月)、その中扉にも「批評トハ無私ヲ…」の色紙が掲載されている。おそらくはこれが、小林秀雄が佐古純一郎のために書いたものであろう。先の『小林秀雄・河上徹太郎集』掲載のものと筆蹟がよく似ているが、署名がフルネームではなく「秀雄」と書かれているところに、佐古への親しみと情愛が伝わってくるようである。

あるいはこの言葉は、もともと佐古純一郎の懇請に応じて書かれたのが最初だったのではあるまいか。というのも昭和二十六年十二月、甲陽書房から出版された佐古の第一評論集『純粋の探求』に、小林秀雄は序文を寄せているのだが、そこには、「私は批評というものの根本義は、己れを捨てる、その捨て方の工夫にあると思っている」という、この色紙のヴァリアントのような文句が記されているからである。短いものなので全文を引用する。これは、佐古純一郎に宛てて書いた「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」についての、彼の自注である。

 

佐古君は、いろいろ苦しんだ末、遂にキリスト教の信仰に入った人である。既に確固たる信仰を持った人について、論をなす事は出来ないのである。更に言えば、佐古君自身も己れの信仰について論をなす事は出来ないのである。従って、佐古君の評論は、私の様な宗教を持たぬものの評論とは異なると思う。異ならねばならぬと思う。評論は佐古君にとって信仰という目的の為の手段である筈である。私は批評というものの根本義は、己れを捨てる、その捨て方の工夫にあると思っているから、信仰を深める手段として有力な仕事であると考える。宗教の危険は神学にある。神学とは批評の力を恐れるから出来上るのである。先ずよく信ずるからこそよく疑えるという道を恐れるから神学を頼むのだ。

 

「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」とは、三年前に受洗した若き批評家に向けて、おそらくはその処女評論集の序文とともに書き送られたものであり、同時にこの「道」はまた、「ゴッホの手紙」を擱筆しようとしていた小林秀雄が、ついに「批評的言辞は私を去った」と自覚した瞬間に開けた道でもあった。『純粋の探求』が刊行されたのは、「ゴッホの手紙」の連載が終了する二ヶ月前であった。

この「批評トハ無私ヲ…」について、後に小林秀雄はある学生から直接問われたことがある。昭和四十五年八月九日、既に「本居宣長」の連載が半ばに差しかかろうとしていた頃、長崎県の雲仙で行われた講演(「文学の雑感」)でのことである。彼は、それは難しい、一口には言えないと断りながらも、およそ次のように答えた。

―無私というのは、得ようとしなければ得られないものなのです。客観的ということと無私とは違う。客観的になれ、主観を加えてはいけないというが、主観を加えないということは易しいのです。無私は得なければいけない。君は客観的にはなれるが無私にはなかなかなれない。何にも「私」を加えないで君が出てくるということがあるのです。自分を表そうと思っても君は表れはしない。自分を表そうと思って表している人、自己を主張しようとしている人は皆狂的です。そういう人は自己の主張するものが傷つけられると、人を傷つけます。人が僕を本当に解ってくれる時は、僕が無私になる時である。僕が無私になったら、人は僕の言うことを聞いてくれます。そういう時に僕は表れるのだ。僕を人に聞かそうと思っても僕は表れるものではない。僕が君の言うことが聞きたいと思った時に、僕が無私になる時に、僕はきっと表れるのです……

彼の色紙には、「批評トハ無私ヲ道デアル」と書かれたものもあるが、右の学生との問答からすれば、重点は「無私」とは何かを問うよりも、これを「得ル」あるいは「得ントスル」意思の働きそのものにあったことがわかるのである。だからこそそれは「道」なのであろう。『純粋の探求』序文で「己れを捨てる、その捨て方の工夫」と言われたのもまた同じことを示唆していたはずである。そしてゴッホという絵描きは、小林秀雄にとっては、この「無私ヲ得ントスル」意思の言わば化身の如きものとして彼の前に現れたのだった。「ゴッホの手紙」の第一回で、彼はそれを「自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志」と呼び、三年後の「近代絵画」で再び取り上げた時には、この芸術家の驚くべき「天賦の無私」について次のように書いた。彼が学生に語った「無私ヲ得ントスル道」は、そのまま書簡全集に表れたゴッホの「無私ヲ得ントスル道」であったことがわかるだろう。

 

ひたすら自分を自分流に語る閉された世界に、他人を引き入れようとする点で、普通人の告白も狂人の告白と、さほど違ったものではない。自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。他人を傾聴させる告白者は、寧ろ全く逆な事を行うであろう。人々の間に自己を放とうとするであろう。優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。彼は、人々とともに感じ、ともに考えようと努める、まさに其のところに、彼自身を現して了うのである。ゴッホの手紙が、独立した告白文学と考えても差支えない様な趣を呈しているのも、そういう性質による。決して彼しか見舞わなかった様な不思議な彼の歎きも、人々が和して歌う歌の様に現れているし、いかにも彼らしい希いも、万人の祈りの様に書かれている。

 

近代文学を毒した自己告白、自己反省の欺瞞と不毛については、彼が戦前から言及し続けた主題であったし、ゴッホの書簡集に見出された「無私」はまた、彼が描いたモーツァルトという「自己告白の不能者」に、あるいは西行が達した「『読人知らず』の調べ」や実朝の「深い無邪気さ」に、そしてドストエフスキーという「如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』」の裡にも等しく看取し得るものである。しかしゴッホにおいて、その「無私」は、芸術と生活の結界を破った剥き出しの姿で立ち現れ、「機関車の様に休みなく」描き、書き、ついにそれは、小林秀雄に対してこの画家に対する「批評的言辞」の放棄を迫ったのであった。ちなみに彼が「予め思いめぐらしていた諸観念」とは、たとえば次のようなものであった。

 

生活そのものがもしも芸術になったら、キリストみたいになっちゃうよ。それはもう一番偉いことじゃないのかな。そうしたら芸術なんてない。人生には装飾があれば足りるよ。一番大事なものが生活になっちゃえば……(略)僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば、自分自身が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。僕はそれが書きたいと思っている。でなければ、何もゴッホを取上げる理由はないんだよ。(青山二郎との対談「『形』を見る眼」)

 

この対談は『文体』の休刊後、『芸術新潮』であらためて連載が再開される九ヶ月前に行われたものである。ここで言われた彼の着想の、おそらく直接のきっかけとなったベルナール宛の書簡(No.XI)は、連載第七回で確かに取り上げられている。しかしそれは、ゴッホの「不安な孤独な時間を救う」独白の一つとしてであって、「キリストという芸術家にあこがれた人」という彼の批評的観念が表立って展開されることはなかった。「何事かを決定的に」る働きとしての小林秀雄の批評精神は、ゴッホの複製画と書簡全集を貫くあの「或る一つの巨きな眼」に進んで見据えられることによって、自ら敗北を期したのである。だが彼は、「ゴッホを取上げる理由」を手放したわけでも見失ったわけでもなかった。「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念」や「批評的言辞」といった「私」が去った果てに生み落とされた、この一篇の「書簡による伝記」(この副題は単行本となった時に付与された)は、だったからである。

主題がただれるのではない、批評家小林秀雄という「私」がれるのである。

(つづく)

 

歌劇「フィガロの結婚」を聴いて

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

(「明頭に来れば、明頭に打し、暗頭に来れば、暗頭に打し」)

「臨済録」(勘弁七)に記されている、普化ふけという唐代の奇僧が、街中で鈴を振りながら唱えていた、という禅語がある。私は、十年程前、大阪勤務をしていた頃、京都の南禅僧堂へ定期的に、坐りに行っていた。これは、その時、僧堂の老師から教えられた言葉である。ただし、知識としてではなく、あくまで身体で悟得せよ、との親心であろう。その含意については、「明るい頭が来たら、叩く。暗い頭が来ても、叩く」という、読んで字の如く、という以上のことは、説かれないままとなっていた。

 

それと同じ頃から、毎夏、佐渡裕指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団によるオペラを聴きに行くようになった。最初の演目は、モーツァルトの「魔笛」。そのフィナーレでは、大祭司ザラストロに与えられた試練に耐えた、王子タミーノと夜の女王の娘タミーナ、さらには、鳥刺しパパゲーノとパパゲーナ、という二組が、波乱の末、めでたく結ばれる。それを祝福し、全員で声高らかに歌い上げる場面がある。そこで私は、不覚にも、涙が止まらなくなってしまった。楽器や歌手の口から発した音が、天上から、きらきらと降り注ぐ。私の全身が、その無数の音で、完全に包み込まれてしまったかのような感覚を、今でも鮮やかに覚えている。この世に生かされていることがありがたい、と心の底から感じた。モーツァルトから渡された、目に見えない強い力が、体中に湧いてきた。なぜ、彼の音楽には、ここまで人を虜にする力があるのだろうか、そんな自問も、以来、腹の中で持ち続けてきている。

そして、今夏も同様に、会場のある西宮へ向かった。演目は、あの夏と同じ作曲家、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」。それだけに、期待感も大きく高まっていた。

 

ところで、小林秀雄先生が、オペラも含め、観劇をあまり好まれなかったことは、広く知られている。盟友、河上徹太郎氏との対談でも、氏に「君はオペラ嫌いだね。救えないよ」と言われ、「ほんとうに嫌いなんだよ。僕は大体芝居というものは嫌いだ」と率直に答えている(「美の行脚」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)。音楽は、声楽も含めて、全身で聴き入ることを第一義とされた先生は、「わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕はそれで間違いないと思っている」(「モオツァルト」、同第15集所収)とまで明言されている。

そのことが念頭にあった私は、今回敢えて、普段の演奏会では、音響の観点からむしろ敬遠する、最前列中央の席に着いた。イタリア語上演のため、舞台上の両脇に日本語の字幕が出るが、それも視野に入らないで済む。目線を上にしなければ、オーケストラピットの指揮者や演奏家は目にしても、歌手の歌声も、音声として聴くことに専念できる。オペラは、視覚的にも愉しめるだけに、少し残念ではあったものの、歌手の動きや舞台装置は、努めて見ないようにした。このように、小林先生の教えに従い、すべての音を、純粋に音として、全身で聴くことに徹したのである。

 

Prestoという、速いテンポの指示記号が付いた、有名な序曲の演奏が、軽やかに、先を急ぐかのように始まった。そこから先は、まるでジェットコースターに乗ったように、あっという間の3時間半が過ぎて行った。今回の公演は、事前に丁寧な準備が行われていたことが察せられる、あらゆる点で見事な内容であった。そこであえて、私が最も感じ入ったことを、一語で言うならば、アンサンブルの美しさ、である。共鳴の美、と言い換えてもよい。オーケストラ内での演奏家同士の共鳴は言うまでもなく、歌声とオーケストラ演奏の共鳴。歌手による二重唱、三重唱、そして多重唱。レチタティーヴォ(歌うような会話)とチェンバロ(クラヴサン)の共鳴。このように、ありとあらゆる共鳴が、まさに「一幅の絵を見る様に完成した姿で」(同)次々に現れ、私の体の隅々に、沁み渡っていった。

なかでも、アルマヴィーア伯爵夫人役の並河寿美さんと、スザンナ役の中村恵理さんによるソプラノの二重唱は、声質が似ていることもあり、その共鳴の美しさに、大きく揺り動かされた(それぞれのアリア(独唱)の素晴らしさは、言うまでもない)。さらに、CDで聴いていたら、殆ど聴き逃してしまいそうな、チェンバロの通奏低音の演奏(ケヴィン・マーフィーさん)には、大きく目を見張るものがあった。指揮者、演奏家はもちろん、すべての関係者の方に、「ブラヴィシーモ!」と、改めて敬意を表したい。

 

さて、今回「フィガロの結婚」に推参するにあたっては、作曲家の、当時の心境に少しでも肉薄したいと思い、「モーツァルトの手紙」(岩波文庫、柴田治三郎編訳)を読み込んだ。まずは、モーツァルトのオペラ熱が、十一歳で劇音楽を書いて以降、終始冷めることのなかった点に、興味を惹かれた。手紙には、こういう言葉が踊る。

「ぼくはもう一度オペラを書きたいという何とも言いようのない欲望をもっています」

(1777年)

「オペラを書きたいというぼくの願いをお忘れなく、オペラを書く人はだれでも羨しく思います」(1778年)

そして、彼は、イタリア出身のロレンツォ・ダ・ポンテという作家に出会う。

「私はイタリア・オペラの畑でも、自分の腕前を見せてやりたいものです」(1783年)

「フィガロの結婚」の原作が身分制度への攻撃と見做されたことから、皇帝からの上演許可を得るのに時間を要したものの、二人はめげることなく策を講じ、なんとか許可を得ることができた。

1786年5月、ウィーンの宮廷劇場で無事に初演。以降、好評を重ね、翌年には、妻のコンスタンツェとともに、プラハでの上演に訪れる。

「じっさいここでは『フィーガロ』の話でもちきりで、弾くのも、吹くのも、歌や口笛も、『フィーガロ』ばっかり、『フィーガロ』の他はだれもオペラを観に行かず、明けても暮れても『フィーガロ』『フィーガロ』だ。たしかに、ぼくにとっては大いに名誉だ」

 

一方、本作が大好評を得るに至る、モーツァルトの実生活は必ずしも一筋縄では行かなかった。1778年の母の死以降、失恋、地元ザルツブルク司教との不和と決裂、最愛の父レオポルドとの不和、父の承認を得られない、コンスタンツェとの結婚の強行、長男ライムラントの早世、という出来事が、立て続けに起きる。気持ちの入った本作初演に向けては、作曲に集中したため、生活費が欠乏。知人への度重なる金策依頼の手紙が、驚くほど増えて行った。そういう疾風怒涛の中での、本作初演だったのである。

しかし、本作の成功で、必ずしも生活が楽になったわけではない。上記プラハ上演の年に父が死去。仲良しであった、実姉ナンナルとの不和も始まる。妻は病気がちになり、バーデンで療養。三男、長女、二女も早世。自身の健康も万全ではない。そんな状況で、金策の手紙は、終わる所を知らない。もちろん、自転車操業のような、膨大な量の作曲活動は、死の直前まで同時並行で続いた。

このようにモーツァルトは、実生活もまた、真面目に生きてきた。次々に襲いかかる試練から、決して逃れることなく、むしろ置かれた状況をそのまま受け入れて、不平も言わず、常に前向きに生きてきた。

ここで、小林先生の言葉を引いておきたい。

「不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。不平家は、折り合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが。(中略)強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。(中略)命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」(「モオツァルト」)

 

さて、小林先生が、二十代の頃、大事にしていたモーツァルトの肖像画の写真がある(ヨーゼフ・ランゲ、「クラヴィーアに向かうモーツァルト」国際モーツァルテウム財団所蔵)。私は、演奏会から自宅に戻ると、その肖像画と、久しぶりに、ゆっくりと向き合ってみた。人生経験の豊富に見える老練な男が、チェンバロと覚しきものの前に坐って、一心に何かを見つめている。いや、何か得体の知れぬものに出合い、驚愕に目を見張りつつも、やむをえない、と前向きに受け入れようとする気持ちも、僅かにあるようにも見える。ちなみに小林先生は、この画について、こんな感慨を記されている。

「名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか」(同)

 

さらにその画を、無心に眺めていると、こんなことを思った。

人は、年を経るほど、公私を問わない外的環境の変化に、その人生が大きく左右されるものである。「こんなことが起きていいのか……」という、嘆息を漏らさざるをえないような出来事が、一度のみならず、立て続けに起こることすら稀ではない。小林先生も言う。

「人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、恐らくモオツァルトにはそう見えた」(同)

それは、この我が身とて、例外ではない。

 

今回私は、オペラ「フィガロの結婚」を、室内楽を集中して聴くかのように、全身を耳と化して聴き入った。そうしてみたことで、モーツァルトの音楽の完成された姿を、美しいと観ずるだけではなく、何か不思議な力で体内が満たされた感じを覚える理由が、少しだけ腑に落ちた気がした。それは、モーツァルトの生身に、直に触れた、とでも形容できるような感覚である。

続けて、思う。演奏会場で次々と繰り出される、美しい「あらゆる共鳴」に、終始耳を奪われていた私は、もしかすると、あの肖像画中のモーツァルトと同じような表情と眼差しをしていたのかもしれない。

 

その瞬間、冒頭の禅語が、私の身体の中で、小林先生の言葉と共鳴した。

 

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

チリン、と鈴を振りながら、裸形の禅僧が、歩いている。

 

赤いフロックコートを脱ぎ捨てた、裸形の作曲家が、歩いている。

「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」(同)

 

 

*参考文献

 「臨済録」(岩波文庫、入矢義高 訳注)

  唐代末期(?-867)の禅師、臨済義玄の言行を弟子の慧然が記したもの。

*参考CD

 MOZART, Le nozze di Figaro

 Erich Kleiber, Winer Philharmoniker,1955

小林秀雄先生に「微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いているから」と評されたという新潮社の元編集者、齋藤十一氏の「愛聴レコード盤100」の一枚。齋藤氏は「エーリヒ・クライバーの演奏は、一つの理想を達成している」とコメントしている。最近、SACD版も発売された(タワーレコード限定)。

(了)

 

いにしへびとに会ひにゆく

おほらかに蓮の葉ゆれて紅の 咲くうれしさは古代もかくやと

(二〇一七年八月一日 薬師池公園にて)

 

二千年以上前といわれる古代の蓮の実が千葉で発掘されたのは五十一年前。翌年に発芽・開花したものを分けてもらい、沼地に移植したのがいまの町田薬師池公園の大賀ハスである。今年も悠久の時を越えて大勢の人の目を喜ばせてくれる。私の背丈以上に高い茎を伸ばし、私の顔の四倍くらいはある大きな立葉。池に青々と浮いている蓮葉から可憐な花がほころび、その足元は泥池。沼とは知らず、もっと愛でようと近くに寄ったはいいが泥にまみれ濡れた人がどれだけいるだろうと心のなかでクスッと笑う。

大きな池の見わたすかぎり広がる蓮葉と、ふっくらと咲く花の美しさにみとれながら、その昔に生きた古人はどのようにこの蓮を愛でたのだろうと想像をめぐらす。

 

    蓮の露をみて詠める

はちす葉のにごりに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく

(僧正遍照 古今和歌集 夏 一六五)

 

はちす咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄ます池かな

(藤原定家 拾遺愚草員外 三四)

 

学校の歴史の時間にのみ耳にしたことのある僧正遍照や藤原定家であるが、詠まれた歌を口ずさむと、情感にあふれたひとりの人間がそこにいて対話をしているような嬉しさに包まれる。まるで、語り手と聞き手のように。むろん私という聞き手はいたって未熟なのであるが、いつか語り手が詠う古語とも談話する奇跡まで起こりうるのかもしれないと胸が高鳴る。私は、ふと思う。もし、池田塾で和歌を詠んでいなかったら、二千年以上前という数字を単にカウントして古代の蓮を蘇らせた技術に感嘆するだけだったかもしれない。いや、それもすごいことだが、よもや、二千年前、千年前に生きた古人がどんなふうに蓮の美しさをとらえていたのか、話しかけ、その心を共有する感動に出会うことなど想像さえしなかっただろう。

小林秀雄のいう、「現在が過去を支え、過去が現在に生きるという伝統の基本性質」(『本居宣長』第二十一章)の風景とはこういうことなのだろうか。蓮の姿となって、それが目の前にあらわれたように思われた。「古語を得んとする」一と筋の道をいった本居宣長は、それを「あたかも『物の味を、みづからなめて、しれるがごと』き親しい関係を古語との間に取り結ぶことである」(同上第二十四章)と言った。それらを味わうにはまだまだ鍛錬が必要であるが、詠歌をはじめてから、少なくとも、古語は、私にとって、化石でも死物でもなくなった。なにも分からず仲間とともに始めてから四年が経つが、夜空を仰いで月影のあかりに照らされたとき、露をおく花弁が震えるとき、会えぬ人を恋い焦がれるとき、胸がはちきれそうなほど悲しいとき、古人はどんなふうに表現するだろう、心の揺れるさまをどんな言葉でとらえるのだろうと想像をめぐらし、古語を探す、選ぶ。そして、声にだしてみる、話しかける。詠んでみる、歌う。それは、私にとって、古人の日常を訪ねて会いに行く、という行為に近い。

 

頓阿の『草庵集』に一首だけ、蓮の葉を詠んだ歌をみつけた。

 

白露のたまればがてに打なびき 村雨凉し池の蓮葉はちすば

(草庵集 夏 三八七)

 

先の二首の歌と比べて、どうだろう。素朴な描写で涼しさを醸しだす夏の歌である。詠歌を始めるにはこの歌集からと薦められ、なるほど、宣長の註解書序文にはこうある。「此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也」(『草庵集玉箒』)。つまり、子どもまで対象にしてわかりやすく歌の道を開こうというのである。さらに、宣長は、その後、「遠き代の言の葉の、くれなゐ深き心ばへを、やすくちかく、手染の色に、うつして見するも、もはら、このめがねのたとひに、かなへらぬ物をや」とし、「古今集」を江戸期の口語に訳した『古今集遠鏡』を出した。和歌を、雅の世界から世俗のものへと広げたのである。すごいことである。一部の人だけに独占されていた和歌の姿をどんな人にも親しみやすいものに変えたのだ。子どもにもどんな人にも、歌の道を開こうとする思想がみえる。宣長は、古語の「語」を「語り」としてとらえていたのではないだろうか。だからこそ、言いざまや勢いまで訳し、すべての人の声をよみがえらせた、私にはそう思われる。

 

そもそも、なぜ私は、歌を詠んでみようと思ったのかを書き留めておく。「もののあはれを知る」ためというもっともな理由はさておき、それだけではない。次の言葉に、ガツンと頭を殴られるような衝撃とショックを受けたのである。「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシズメテ、妄念ヲヤムルニアリ」(『本居宣長』第二十二章)。えっ、感動を詠むのではないのか。しかも、それまで心を震わせていたものは妄念であるというのか。それは、心の逆上状態であるとまで池田塾頭は解説された。今度は、小林秀雄が続ける。「『情ハ自然也』と言っただけでは足りない。『自然と求めずして在る』心は、そのままでは、『心錯乱シテ、妄念キソヒオコ』る状態を抜けられるものではない。言葉という『手がかり』がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思う心を『ほどよく言ふ』では言い足りない。一歩すすめて、乱れる心を『しづむ』『すます』『定むる』と言うべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさを、はらす』と、同じ意味合で『はらす』という言葉が使われている。悲しみを詠むとは、悲しみを晴らす事だ。悲しみが反省され、見定められなければ、悲しみは晴れまい。言葉の『手がかり』がなくて、どうしてそれが人間に出来よう」

 

政治の世界に入る前、アジアはじめ世界各地で国際協力の仕事をしていた時代から心揺さぶられる多くの事実や出会いの経験を得てきた私にとって、「『歌の実』という表現性を得ない『実の心』の単なる事実性などは、敢えて『妄念』とか『錯乱した心』とか呼ぶのがよろしい」と突き放す宣長の言葉がどれほど大きな衝撃であったか想像いただけるだろうか。その直後に、私は、三十一文字の世界の固い門をドンドンドンと叩いていた。花鳥風月とは程遠いのである。そして、四年後の今日、もしかしたら、こういうことなのかもしれないと思えた事実とそのときの詠歌を紹介して、終わりにしたい。

 

あふことの心かなはぬものとなり そぼつ涙は波のまにまに

暁にさすや光のひとすぢを 師のまなざしと受けていだかむ

(二〇一七年七月十五日 海にて)

 

つい最近のことであるが、七月、ノーベル平和賞受賞者である中国文学者の劉暁波氏が「せめて自由の国で死にたい」という言葉を残して亡くなった。天安門事件のとき、若き学生であった私の夫の師でもある劉氏の死は、我が家にも大きな悲しみとやりばのない憤りをもたらした。火葬さえも許されず、海に散骨されたニュースを知った晩、いちばん近い海まで車を走らせ、浜辺でろうそくを灯し数本の花で写真を囲みお通夜をひっそりと執り行った。叫び、泣き、弔う自由がこの国にはあることにほっとしながら、月影もなく静かにうねる大海原を前にして詠んだ歌である。言葉や作法の未熟さはお許しいただきたい。ただ、ただ、胸が張り裂けそうな悲しみと憤り、表現する自由の許されない祖国への夫の渇望、国を越えて一つの命さえも救うことのできない隣人としての悔しさ、そうしたあふれでる思いをせめて歌にして心を鎮めた。詠歌という経験に、このとき、私は心から感謝した。

モオツァルトの「レクイエム」の音が、波のなかへ消えていった。

(了)

 

紫式部が「省略」したこと

しゃ ゆう

「源氏物語」が時に未完の大作と誤解されるのは、かの有名な「浮舟入水のくだり」のためではないだろうか。

薫と匂宮の、二人の男性に契った浮舟は、恋敵同士の争いが烈しくなるにつれ、進退に窮して、死のうと思う。しかし入水を決心するものの、失神したところを僧都に助けられたのをきっかけに、出家して尼として生き始める。やがて、浮舟を忘れられなかった薫が、とうとう彼女の居所をつきとめる。薫は、還俗し元の契りを結ぶよう手紙をしたため、浮舟の弟を使者として届けさせるが、返事はなく手ぶらで帰って来る弟の姿に、どうしていいかわからない。薫は、「誰かが、浮舟を隠しているのだろうか」と疑う。

物語はここで終わる。この結末が当時としては全くの異例であったことは小林秀雄も書いているが、現代の読者にとっても、その特異さはあまり変わらないように思える。

しかし、本居宣長は「源氏物語は完結している」とはっきり断言している。『本居宣長』第十五章で、小林秀雄は次のように言っている。

 

彼(本居宣長―筆者注)は、「夢浮橋」(「源氏物語」の最終巻)という巻名は、「此物語のすべてにもわたるべき名也」(『玉の小櫛』)と書いている。(中略)「光源氏の君といひし人をはじめ、何も何も、ことごとく、夢に見たりし事のごとくなるを、殊に、はてなる此の巻の、とぢめのやうよ、まことにのこりおほくて、見果てずさめぬる夢のごとくにぞありける」(中略)宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさであって、読者の勝手な夢ではない。(中略)

式部の夢の間然する所のない統一性というものの上に、彼の「源氏」論は、はっきりと立っていた。此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先はない。夢は果てたのである。

<新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.166>

 

紫式部の「夢」とは、どのようなものだったのだろうか。書くうちに、物語のほうから、結末を要求するような「夢」とは。

「紫文要領」で宣長が浮舟のことを書いた箇所は「本居宣長」にも引用されている。

 

「薫のかたの哀をしれば、匂宮のあはれをしらぬ也。匂宮の哀をしれば、薫のあはれをしらぬ也、故に思ひわびたる也。かの蘆屋のをとめも、此の心ばへにて、身を生田の川にしづめて、むなしうなれり、是いづかたの物の哀をも、すてぬといふ物なり。匂宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず、これも一身を失ひて、両方の物の哀れを全くしる人也」

(薫のもののあはれを知れば、匂宮のもののあはれを知ることができない。逆もしかりである。故に浮舟は思いわずらっていた。かの「蘆屋のをとめ」も、このような心だったために、身を生田の川に沈め亡くなった。これはどちらのもののあはれも捨てないということである。匂宮と契ったからといって、あだっぽい人であると言ってはならず、浮舟は、一身を失って、両方のもののあはれを完全に知る人である)

<同p.165、現代語訳:筆者>

 

両方のもののあはれを知るとは、少なくとも、感情に流されるままに道徳を忘れ、どちらの男にも逢うということとも、打算でどちらかを選び、どちらかを忘れようと決意することとも違うだろう。浮舟はただ、二十歳を超えているとはいえその幼い心と小さな体で、真剣に二人の男性の心を受け取ろうとした。それゆえに発狂してしまった、宣長はそう言っているように思えるのである。

 

さて、小林秀雄が「源氏物語」の浮舟の挿話について語り始めるその直前に、次の様な文章がある。

 

「此物語の他に歌道なし」と言った時に、彼が観じていたものは、成熟した意識のうちに童心が現れるかと思えば、逆に子供らしさのうちに、意外にも大人びたものが見える、そういう『此物語』の姿だったに違いない、と私は思っている。

<同p.165>

 

「此物語の他に歌道なし」の「此物語」はむろん「源氏物語」のことで、「源氏物語」はその自在な表現力で、物語の道を通して歌の道についても語っている、歌道を知りたければ源氏を読むことである、という宣長の思想を現しているが、ここで私が心を奪われたのは「大人」と「子供」の対比である。

光源氏は「よきことのかぎり」を集めて書いた、魅力的な「大人」である。そのような大人にも、子供のような逡巡があることは「本居宣長」本文にも描かれている。夕顔への執心、藤壺への断ちきれぬ思いなどがそうである。とすれば、「子供」のほうを代表するのは、浮舟ではないだろうか。浮舟は、もののあはれを知る「子供」として創作されたのではないか。「本居宣長」や「源氏物語」本文を読むうちに、私はその思いがしきりにしはじめた。

もののあはれを知る理想的な人間として光源氏を書いたのち、紫式部が書かなければならなかったのは、この世で持ちうるよきものをすべて所持し、誰にでも好かれるような源氏には程遠い、たいした取り柄も持たぬ子供のような女なのではなかったろうか。「よきことのかぎり」を集めて光源氏を創る無双の妙手は、やがて、性格のない浮舟を作り出す技術を発明したように思われる。

 

「夜中ばかりにや、なりぬらんと、思ふ程に、尼君、咳きおぼほれて、起きにたり。火影に、頭つきは、いと白きに、黒き物を被きて、この君(浮舟)の臥し給へるを、怪しがりて、鼬とかいふなる物が、さる業する、額にてをあてて、怪し、これは、誰ぞと、執念げなる声にて、見おこせたる、更に、たゞいま食ひてんとするとぞ、おぼゆる」−−―「いみじき様にて、生き返り、人になりても、また、ありし、いろいろの憂きことを、思ひ乱れ、むつかしとも、恐ろしとも、物を思ふよ。死なましかばこれよりも、恐ろしげなる、物の中にこそは、あらましか」

これだけの文章でも、熟視するなら、この全く性格を紛失してしまったように見える浮舟を、生き生きと性格附けているのは、式部の文体そのものに他ならぬと合点するだろう。

<同p.169-p.170>

 

どんなに完璧な大人にも、女々しい心は存在している。それが人間の本性であることを、紫式部は知っていたが、思うに、「源氏物語」を描くうちにいよいよ確信したのではないだろうか。物語を書くということが、彼女が日頃思っていたことを、さらに深く認識させたとしても不思議はない。もし、そうであるならば、「女々しい心だけを持つ人」がどんな風に振る舞うのか、描いてみたくなるのは自然ではないか。創作は常に実験である。Aという人物が存在し、Bという環境に置かれたなら、どういう物語が生まれるか。物語作家は、それを頭の中で練り上げるのではなく、物語を書くという実験によって考えるものではないだろうか。

「女々しい心だけを持つ人」として書かれる浮舟は、必然的に光源氏の死後に登場することになる。この二人の登場人物は、物語の制約上、同時には存在できないからである。もし同時に登場したら、浮舟は、ほとんど「見えない」存在になってしまう。また、光源氏と恋愛をさせるとしても、光源氏と並ぶ貴公子を登場させることはできず、浮舟は窮地に陥ることがないからである。光源氏が太陽なら、浮舟は月といえるかもしれない。太陽が沈み、夜の闇に包まれて、月の光は幻想的になる。そして、情そのものを生々しく表現するなら、浮舟はできるだけ性格の特徴を持たない人物であるほうが、都合が良い。作者の筆だけが、池の上の月光を浮かび上がらせるように描くのが、最も読者に伝わるのではないか。以上は私の想像に過ぎないが、傑作はいつも必然的な形をしているような気がするのである。

浮舟は、二人の男性との恋に否応なく翻弄されながらも、どちらの男性の「あはれ」にも引き寄せられ、現実的な解決をすることができないという役回りである。その、か弱く、はかない女童のようなこころは、道理をわきまえ、堂々としているように見える「大人」の情と、鏡に写したように同じ姿をしている、と小林は書いている。

 

紫式部は、深く心をこめて描いた光源氏の晩年を、省略することができた作家である。紫式部の「夢」とは、どのようなものだったかと考えるとき、私の心にまず浮かんだのはそのことであった。光源氏の晩年は、式部の「夢」ではなかった。彼女は「雲隠」という文章のない巻の「巻名」に、光源氏への思いのすべてをこめただろう。この物語の結末も、この類稀なる作家の「省略」によって創られたのではないか。

浮舟は、終盤になると、ただ一人の「もののあはれを知る」人物として、浮舟を愛する薫にさえ理解されぬ心を伴って、深く沈み込んでゆく。浮舟という月を取り巻く闇は、「もののあはれを知る」光のない、現実の闇にも例えられよう。誰にも理解されず、ゆえに誰にも助けられない。不完全でありながら、死ぬことさえできない。彼女は自力で現実を生きていくしかないのである。私たちも皆、そういう運命を背負って生まれて来たのではないか。そのようにも思わせる書きぶりである。

「人の、かくし据ゑたるにやあらむ」

  (誰かが、浮舟を隠しているのではないだろうか)

この、想像力に欠けた薫の言葉は、式部の織った「夢」である物語を醒ます、現実という名の「魔」のようである。薫のいる現実の側からは、物語を続ける手立てはなく、その必要もない。「もののあはれ」をなだらかに見せるための物語で、「もののあはれを知る」唯一の登場人物の心が離れてしまったとき、読者は本を閉じて、現実へ戻る他ないのである。もう一度始めから読みたくなるような、深い余情を持て余しながら。

宣長もこの類稀なる物語を何度も読み返し、自身の注釈を書き替えてきた。「玉の小櫛」では物語の終わりに際し、歌を一首残している。

なつかしみ またも来てみむ つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも

小林はこう書いている。

―作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。

(了)

 

「もののあはれを知る」と「あだなる」

ここ数年、小林秀雄の『本居宣長』を読んでいるが、中でも『源氏物語』に関する叙述に惹かれている。今回は、その第十四章で言われている「『物のあはれを知る』と『あだなる』とは別事であるという宣長の答えは、『情』と『欲』との考えを混同してはならぬ、という考えの延長線上にある」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集154頁6行)とはどのようなことを言っているのか、私なりに「情」と「欲」、および「物のあはれを知る」と「あだなる」ということを中心に考えてみた。

 

まず、「情」と「欲」とはどう違うのであろうか。

『小林秀雄全作品』第27集152頁に、宣長の『あしわけをぶね』からの引用がある。

 

欲バカリニシテ、情ニアヅカラヌ事アリ、欲ヨリシテ、情ニアヅカル事アリ。又情ヨリシテ、欲ニアヅカル事アリ。情バカリニシテ、欲ニアヅカラヌ事アリ。コノ内、歌ハ、情ヨリイヅルモノナレバ欲トハ別也。欲ヨリイヅル事モ、情ニアヅカレバ、歌アル也。サテ、ソノ欲ト情トノワカチハ、欲ハ、タダネガヒモトムル心ノミニテ、感慨ナシ、情ハ、モノニ感ジテ慨歎スルモノ也。恋ト云モノモ、モトハ欲ヨリイヅレドモ、フカク情ニワタルモノ也

 

宣長は、欲だけで情に関与しない事があり、欲から出て情に関与することがある、また情から出て欲に関与する事があり、情だけで欲に関与しないことがある、と言っている。

また、「欲はただ願い求める心だけで感慨がなく、情は、ものに感じて慨歎するもの」ということなので、欲は「実生活の必要なり目的なりを追って、その為に、己を消費するもの」であり、自分の目的や欲求を達成しようとする心の動きや実行に移すことを指すと言える。

一方、情は、その特色はそれが「感慨」であるところにあり、153頁6行目に、

 

「情」は己を顧み、「感慨」を生み出す。生み出された「感慨」は、自主的な意識の世界を形成する傾向があり、感動が認識を誘い、認識が感動を呼ぶ動きを重ねているうちに、豊かにもなり、深くもなり、遂に、「欲」の世界から抜け出て自立する喜びに育つのだが、喜びが、喜びに堪えず、その出口を物語という表現に求めるのも亦、全く自然な事だ。

 

とあるように、情は、「あはれ」という深い感慨を伴うもので、ものに感じて「あはれ」を認識していく、認識することによってまた「あはれ」を感じていくという心の動きが深まるうちに、「欲」の世界から抜け出て、「情」の段階に達することが「もののあはれを知る」ということで、その表出が歌であり、物語である、ということを言っているのだと考えた。

 

次に、「もののあはれを知る」と「あだなる」(「あだなる」は誠意がなく浮気であるようなあり方)とは別事である、ということに関してであるが、まず153頁に『紫文要領』からの引用があり、質問者と宣長との問答が紹介されている。

 

物語は教誡の書ではないのであるから、「儒仏の道」や「尋常の了簡」からすると善悪の評価にはあずからぬものだ。「ただ人情の有りのままを書しるして、みる人に、人の情はかくのごとき物ぞ」といふ事を知らする也、是物の哀れをしらする也」、それが物語の道であるという説は承知したが、それならば、紫式部の本意は、「物のあはれしるを、よき人とし、しらぬを、あしき人とす」という事になる筈だが、それがよく合点出来ないと質問者は言う。何故かというと、「源氏」の「巻巻に、ひたすらあだなるを、あしき事にいひ、まめなるを、ほめたる心ばへのみ見えて、あだなる人を、よしとする心は見えず、いかが」宣長答えて言う、「あだなるをよしとするとは、たれかはいへる。あだなるを、いましむるは、尋常の論はさらにもいはず、物語にてもいはば、あだなるは、物の哀しらぬにちかし。されば、いかでそれをよしとはせむ。まへにもいへる如く、物のあはれをしると、あだなるは別の事にて、たがひにあずからぬ事也、但し、物語の本意は、まめなるとあだなるとは緊要にあらず。もののあはれをしるとしらぬが、よしあしの緊要関鍵なり。

 

つまり、「もののあはれをしる」と「あだなる」こととを質問者は混同していて、例えば『源氏物語』に描かれた様々な恋愛の事象を、一般の読者は「あだなる」と捉え、それと「もののあはれ」を直結して考えていることに宣長は異議を唱えているのであろう。

156頁からは「夕霧」の巻が紹介され、

 

物の哀をば、いかにも深くしりて、さて、あだあだしからぬやうにたもつを、よきほどといふ也。物の哀をしればとて、あだなるべき物にもあらず、しらねばとて実(まめ)なるべき物にもあらず。されど、そこをよくたもつ人はなきものにて、物の哀をしり過れば、あだなるが多きゆへに、かくいへる也。

 

とあるように、「物の哀れを知り過ぎれば、あだなることが多くなるため、そのような誤解が生じる」とも宣長は述べている。

「帚木」の巻の雨夜の品定めで、「あだなる」と「まめなる」を男たちは話題にしている、しかし、源氏は、居眠りをしていて、人々の話に無関心で、藤壺の人柄を一人思っている。

世間というものは、物事のよしあしを「まめなる」か「あだなる」かによって区分けしようとする。しかもその評価の基準を物語の世界にも持ち込んでくる。だが宣長は、物語というものは「まめなる」か「あだなる」かの議論をしようとするものではない、「もののあはれ」というものを事細かに描こうとするものなのだ、と言う。

「あだなる」ことであれ「まめなる」ことであれ、いずれにもせよそこにある「情」や「もののあはれを知る」心の在りかたを描くことが「物語の本意(本質)」であり、宣長は、『源氏物語』は人間がさまざまな局面、出来事で感じる「あはれ」を物語という形に調えることにより、人間とはどういうものか、人の心とはどういうものか、ということを表現しているということを言いたかったのである。

当時は『源氏物語』に対して、様々な恋愛事情を描いて人間の欲や「あだなる」様相を肯定、あるいは奨励すらしているという誤解がおそらく多く、それに対する宣長の反論という意味も大きかったのではないだろうか。『本居宣長』の引用文を通して、宣長が生きた時代に一般の人々が『源氏物語』に抱いていた評価と、それに対して「もののあはれ」が描かれている、という新しい評価軸を打ち出した宣長の思想との対比を改めて確認することができた。

(了)

 

七夕の節句、岡野弘彦先生に逢いにゆく

文は人なり。と、小林先生がおっしゃるように、書き綴られた文章にふれ、詠まれた歌にふれ、ああ、この人に逢ってみたいと、時折強く思うことがある。そして、幾度かその夢を心の中で反芻しているうち、ふと言葉に出して表明してみるうちに、思いがけない拍子で現実になることがある。

 

この夏、七夕の節句に、そんな私の願いが一つ、かなうこととなった。

東京目白のフランク・ロイド・ライト建築の自由学園明日館にて、ここ数年来、一度ご尊顔を拝してみたいと考えていた、岡野弘彦先生の公開講座に参加できることとなったのだ。

 

これまで古典にも歌にも親しむこともせず、いたずらに歳月のみを過ごしてしまっていた。名高い国文学者でもあり歌人でもあり、宮中歌会始の選者でもあった岡野先生。その実像を知らないまま、ただこの人に逢ってみたいなと、思い描いていた。が、とうに國學院大学は退任され、伊豆にお住まいだという。なかなかそのチャンスはないだろうと半ばあきらめていたところ、このご講義のことを知ったのだった。

 

「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」

 

小林秀雄「本居宣長」の冒頭の一節。読む者の心をぐいと惹きつけて離さない、どこか謎めいたこのひとことを折口信夫が言った、その瞬間。小林秀雄が紡ぐ壮大な思想劇の幕開けを予感させる、この言葉が発せられたこの瞬間に、当時折口信夫の内弟子であった岡野先生は、立ち会われていたという。

大森における折口×小林の対話の目撃者ともいうべき岡野先生。このこともさることながら、そもそも私が岡野弘彦という名を知り惹かれたのは数年前に溯る。それは、先の伊勢神宮式年遷宮の折に伊勢を訪ねたときのこと。神宮会館で求めた冊子「お伊勢さんと遷宮」に岡野先生のインタビュー記事が掲載されており、その言葉と歌にふれてのことであった。

 

「遷宮と日本人の心」というタイトル名のその記事から、少々抜粋させていただこう。『私は、戦後教育の中で言葉を大切にしなかったことが、じわじわと積もって、ボクシングのボディブローのように、ここにきて効きはじめているのだと思います。古典の教育をおろそかにしてきたことから言葉の力が衰え、何よりも大切に伝えてゆかねばならなかった、日本人の心が伝承できなかったのです。

古来、神話などの物語やそれを凝縮した和歌は、神々のありようを伝えるものでした。そして、それは同時に神々からの祝福であり、人々の暮らしに活力を与えるものでした。それを伝え伝えすることによって、人は神を規範として生活することができた――そういう最も大事な心の伝承が断ち切られてしまっているのです。』

 

私たちがもっていた言葉の力を取り戻し、古代から連綿と伝えられてきた日本の心を取り戻さねばならないと、式年遷宮に寄せてメッセージをくださっていた岡野先生。そのページは、

 

したたりて青海原につらなれる この列島を守りたまへな

 

という、先生の歌集「美しく愛しき日本」の中の一首で締めくくられ、短歌の素養もなく不勉強な私にも、この三十一文字に張り裂けんばかりに込められた深い祈りが感じられた。私は日本という国に生まれ、いま、ここに生きている。自然に頭が下がる思いがし、ありがたいことだと、胸に沁みた。

 

さて、七夕の目白・明日館に話を戻そう。極めて暑かったその日、館内にはすこぶる冷房がきいていた。天井まで届く窓から光がこぼれる講堂は、広さも置かれた椅子も少々小ぶりで、木の温もりが漂う雰囲気。開講30分前に到着したにも関わらず、長年岡野先生の講義を受けている方々であろうか、すでに多くの聴衆が息をひそめて着席し、先生の登場を静かに待っていた。

 

ご講義のお題は「万葉集」。とりあげる歌人は「大伴家持」。

 

期待と思慕とに張り詰めたような気配の中、いよいよ登壇された岡野先生。初めてそのお顔を間近で見つめてみれば、柔和で優しい表情の中に、哀しみとおかしみと大きな慈愛を湛えられ、どこか能楽の翁の面のようかとも思われる。ゆっくりと開口され発せられるその声はよく透り、張りがみなぎり清明。言葉は一定の間合いを取り、明朗なリズムを刻み、その間合いの奥深くに熱い情をたたえ、一語一語をくっきりと際立て話されてゆく。

 

「今日はわたくしの誕生日なのです。93歳になりました」

 

と、ほほえみながらの講義の冒頭。なんと、七月七日、七夕生まれだという岡野先生。一挙に会場全体がほっと和み、恐れ多いという感覚から、私も親しみやすさに緊張がほどけてきた。

 

「短歌というものは、日本人にとって宿命的な文学です。義理人情、あるいは政治的な状況に直面した武士たちが、死に際して多くの辞世を残している。血のしたたるような志の歌や、何のために生きてきたかなどを歌に残してきた。短歌の5.7.5.7.7という形式は極限といっていい。上の句に情景や状況が描写され、下の句へと思いが凝縮していきます」

 

岡野先生のご出身は、本居宣長が眠る松阪に近い三重県(現在の)津市。30代以上も続く社家の生まれで、本居宣長の文献も家にあり、幼いころから親しまれていたと語られる。皇學館の中学生時代には、毎年秋の宣長の命日に大八車に山桜の苗を積んで、山室山の墓の回りに植える行事があったそうだ。その際、生徒から募った歌の中から出来のいいものを、教師が墓前で読みあげてくれたという。

「わりあい私の歌が選ばれることが多くて」と、ユーモアまじりにふりかえる岡野先生。先生の歌が朗々と読みあげられ、あの奥墓の山桜の梢が指す天空へ響き渡った瞬間、「ああ、思いが宣長さんに通じたな」と感じられたそうだ。

 

―本年、私も訪れることがかなった、本居宣長が永遠にそこにいる奥墓。吉田館長の導きのもと池田塾頭、池田塾の先輩同輩諸氏と共に参拝した墓前で、同道された詩吟の先生が豊かな声量で宣長による桜の歌を朗詠してくださった。そんなごく最近の私の体験に、80年近くの時を経て岡野先生が物語る情景が重なってゆく。深緑と静寂に包まれた神域ともいえる墓所に響き渡る言霊に宣長の魂は降り立ち、静かに頭をたれ居並ぶ私たちを見守ってくれていたようにも思える。

 

そんな少年時代の思い出や、歌人釈迢空こと折口信夫の逸話から、講義は次第に本題の大伴家持の話となってゆく。「万葉集」の編纂にも加わり、国司としても多くの歌を詠んだ家持。政争が多い時代に名門一族を背負った、どこか悲劇的な香りを纏う家持が、岡野先生はときに兄とも感じるほどお好きなのだという。

 

あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我がおおきみかも(巻3 477)

 

家持の歌の一言一句をくっきりと読み上げられ、

 

「天平16年正月13日、聖武天皇の第一皇子、安積親王(あさかのみこ)が亡くなったときの挽歌です。挽歌だけれど、これは気持ちのいい祝福の歌。『万葉』の時代は死に際して詠む挽歌も、魂の新たな旅立ちとして言祝ことほぐのです」

 

この日、岡野先生が取り上げられた家持の歌を以下にあげてみよう。

 

雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦付取ると 瀬に立たすらし(巻17 4021)

 

珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり(巻17 4029)

 

春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか棲む(巻19 4141)

 

朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人(巻19 4150)

 

ますらをは 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(巻19 4165)

 

春の野に 霞たなびき うら悲し この夕陰に うぐひす鳴くも(巻19 4290)

 

我が宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも(巻19 4291)

 

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(巻19 4292)

 

剣太刀 いよよ磨ぐべし いにしへゆ さやけく負ひて 来にしその名ぞ(巻20 4267)

 

新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(巻20 4516)

 

かつて岡野先生が行なっていた研究会では、学生を率い、「万葉」ゆかりの土地をできるだけ、乗り物を使わないで足で歩いて周ったという。書物だけで分かることではない、体でぶつかっていくことで心身に刻まれた、いにしえの歌に詠まれた情景や心情。それらを次々と、講義を受ける私たちの目の前にまざまざと説いてくださり、月が照り輝く海や、春の霞たなびく夕暮れ、舟人たちの唱い声が遥かに聞こえる暁の中へと連れていってくださる。

言葉が力を備えていた「万葉」の時代の壮大な歌の世界は、岡野先生の高らかな声にのって果てしなく、遥か時空を越え講堂中に広がっていったのである。

 

「わたくしも命ある限り最後まで、我が志をつらぬきたい。歌人として歌を残したい。たった三十一音の小さな定形だけれども、家持さんも同じような気持ちだったでしょうね。いにしえの歌を鑑賞し、魂で共感を重ねていく。自分たちの国の古典を読むとは、そういうことです」

 

今年も吉野へ桜を見に訪れたという岡野先生だが、かつて凄惨な戦時中の体験から、「断じて桜を美しいと思うまい」と決意したことがあった。

 

すさまじく ひと木の桜ふぶくゆゑ 身はひえ冷えと なりて立ちおり

 

10年かけてようやく歌となった、満開の桜が炎で燃えさかった戦火の体験。それから月日は流れ、現在、岡野先生が住む伊豆の家には、庭の片隅に植えた大島桜が、伸びに伸びた大きな枝を広げ、家の半分ほどを包み込むという。朝はゆるりと朝風呂につかり、歌を詠む岡野先生。桜の花時には、その時間が1時間半にも及ぶのだそうだ。

 

七夕の日の岡野先生との邂逅。これからも二度三度とまたご講義を受けたいと、さらに欲張りな願いを胸中の短冊にしたため、筆をおきたいと思う。

春爛漫の桜の下で、祈りの歌を詠む翁の姿を思い起こしつつ。

 

 

※参考文献

「お伊勢さんと遷宮」(伊勢文化舎)

「花幾年」(岡野弘彦/中公文庫)

「美しく愛しき日本」(岡野弘彦/角川書店)

 

(了)