奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年十一月号

発行 平成二九年(二〇一七)十一月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

「小林秀雄に学ぶ塾」サテライト塾のご案内

☆広島塾について

小林秀雄の思想に触れ、困難な現代を生きる糧とすることを目的とした池田塾をより広く知ってもらい、参加してもらうため、2015年に広島塾が発足しました。「池田塾in広島」と称して、春と秋に開催しています。

 

*第5回広島塾のご案内

今回は講師として池田雅延塾頭と、小林秀雄研究者の杉本圭司さんをお迎えします。杉本さんは雑誌『考える人』(新潮社刊)に評論「契りのストラディヴァリウス」「小林秀雄の時 ある冬の夜のモオツァルト」等を発表、現在は本誌『好・信・楽』に「ブラームスの勇気」を連載されています。

 

日時 2017年10月22日(日)

    14時~15時  池田雅延氏「信じることと知ること」

    15時~16時  杉本圭司氏「小林秀雄と音楽」

    16時~17時  質疑応答懇談会

 

会場 広島市男女共同参画推進センター(ゆいぽーと)

 

参加費 一般3,000円、学生1,000円(参加者数により変わる場合があります)。

 

お申込み・お問合せ

 お名前、ご住所、参加希望の理由を簡単にご記入の上、ご連絡ください。

   宛先:yositen2015◆gmail.com

     ◆を@に変えてメールをお送りください。

 

     ――――

 

☆大阪塾について

関西圏の方々と小林秀雄が観じていた人生を学ぶ場を作りたいとの思いから、池田雅延塾頭を講師とし、2018年1月から「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」を年4回、関西学院大学梅田キャンパスにおいて開きます。

 

*小林秀雄と人生を縦走する勉強会 発足記念講演会

この勉強会の開始に先立ち、「西洋文化と日本人~島崎藤村と小林秀雄が向き合った西洋」をテーマとして発足記念特別講演会を催します。

 

日時 2017年11月3日(金・祝)13時〜17時

13:30~14:30 細川正義氏「島崎藤村における国際性と文明批評」

細川氏は関西学院大学名誉教授。当会の顧問をお願いしています。

14:45~15:15 池田雅延氏「小林秀雄先生の思い出―ランボーから宣長へ」

 

会場 関西学院大学 梅田キャンパス

 

参加費 無料

 

お申込み・お問合せ

  宛先:ikedalabinkansai◆gmail.com

    ◆を@に変えてメールをお送りください。

 

・詳細は以下のTwitterをご覧ください。

 小林秀雄と人生を縦走する勉強会‏ @ikedalabkansai

https://twitter.com/ikedalabkansai

 

以 上

 

編集後記

本田正男さんの「歌の生まれ出づる処」、吉田宏さんの「いかでかものを言はずに笑ふ」を続けて何度も読んだ。そのうちそこに、小林秀雄先生の「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)が重なった。

―悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……

本田さん、吉田さん、ともに父の死という悲しみを負い、そのことによって図らずも歌が誕生する根源を体験された。本田さんは母堂の言葉から汲み上げられ、吉田さんは自身の歌を顧みて書かれたが、こうして出来たお二人のこの文章も歌である。「美を求める心」には続けてこう言われている。

―悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……

小林先生の文章も、詩である、歌である。先生自身が自分は詩を書いているのだ、歌を詠んでいるのだと言われていた。本田さんも吉田さんも、先生の文章を読んできて、おのずと詩人となって父親の死という悲しみに打ち勝たれたのである。

 

それを思いながら読み進めていると、今号は期せずして、「美を求める心」を主題とする六重奏になったことに気づいた。

大島一彦さんは、今年が古稀の英文学の研究者だが、小林秀雄愛読者としての経歴も長く、本も書かれている。今号の「『分るとは苦労すること』について」は、その二つの経歴から生まれた絶妙の調べだ。「わかる」ということは、小林先生にとって最大の苦心のしどころであった。「美を求める心」には、たとえばこう言われている。

―歌や詩は、解ってしまえば、それでお了いというものではないでしょう。では、歌や詩は、ものなのか。そうです。ものなのです。この事をよく考えてみて下さい。ある言葉が、かくかくの意味であるとには、Aという言葉を、Bという言葉に直して、Aという言葉の代りにBという言葉を置き代えてみてもよい。置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き代えてみる事が出来ますか。それは駄目です。ですから、そういう意味では、歌は、まさにものなのです。……

 

そして先生は、次のように言う。

―歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めて下さい。……

小林先生の文章で、「姿、形」は格別重い意味を持っている。その「姿」は、『本居宣長』では「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という宣長の言葉に即して言われるのだが、安田博道さんはこの言葉を、建築家としての実体験と照らし合せることによって、思いがけない角度から立体的に浮かび上がらせてくれた。

 

「女とヴァイオリン」を寄せられた三浦武さん、連載「ブラームスの勇気」の杉本圭司さんは、音楽の「わかる」人である。ただし、ここで私が言う「わかる」は、特に「小林秀雄の音楽の聴き方がわかる」である。音楽の聴き方、楽しみ方は人それぞれであっていいが、小林先生の文章をより深く、より緻密に味わおうとすれば、たとえばモーツァルトを、ブラームスを、先生はどういうふうに聴いていたか、そこがわからなければ覚束ない。「美を求める心」では、こういうことが言われている。

―見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。……

努力はしていたが、私は先生の聴き方が「わかった」とまではなかなかいかなかった。それが十年ほど前、杉本さん、三浦さんと出会い、一緒に音楽を聴くようになって、「そうか、こういうことなのか」と初めて合点がいった。いまこのお二人には、「小林秀雄に学ぶ塾」の「選択科目」として「音楽塾」をひらいてもらっているが、三浦さんの「女とヴァイオリン」はまさに「小林秀雄はヴァイオリンをこういうふうに聴いた」であり、杉本さんの「ブラームスの勇気」は、毎回「小林秀雄はブラームスをこう聴いた」なのである。

 

小林先生が言われた「美」は、「人生」と同義だったとさえ言ってよい。「美を求める心」は、「人生を求める心」でもあった。今号の六篇を何度も読んで、あらためてその感を深くした。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

六 もののあはれを知る

「もののあはれ」という言葉は、今日、文学などにはまるで関心がないという人にもよく知られている。ましてや、小説が好き、短歌が好き、俳句が好きといった人であれば、知らぬ人はないとさえ言っていいだろう。これはひとえに、江戸時代の半ば、本居宣長が出て「もののあはれ」の論を展開した、そのことが今日の教科書に載り、「もののあはれ」という言葉は現代語のなかにも生き続けることになった、そう解して大過はないだろうと思う。

そして今日、その「もののあはれ」が何かの拍子で出てくると、たいていの人はまず四季の情趣を意識する、そう言うにおいても大過はないと思われる。しかし、宣長が説いたところはそうではない、宣長の言う「もののあはれ」は、そうした四季の情趣に留まらず、情趣や情緒からは遠いとさえ言っていい世帯向きのこと、すなわち日常生活のやりくりにまで及んでいた、したがって、今日の私たちが漠然とであれ頭においている「もののあはれ」は、宣長の説からすれば片端と言ってよいのである。

それに加えて、「もののあはれ」には、もうひとつの誤解があるようだ。今日、多くの人は、「もののあはれ」は感じるものだと思っている。だが宣長は、そうではないと言う。「もののあはれ」は、感じるだけではいけない、知るということがなければいけない、人生でいちばん大事なことは、「もののあはれを知る」ということだと言い、小林氏は、宣長の学問は、人生いかに生きるべきかを問う「道」の学問であった、その「道」の中心には、「もののあはれを知る」ということがあった、と言うのである。ではその「もののあはれを知る」とは、どういうことなのだろうか。

 

ここですこし、また後戻りする。前回、「もののあはれ」という言葉は、江戸の中期に宣長が登場し、そこに独自の意味合を読み取ってみせるまで、どういうふうに使われていたかを見た。それと同じように、「もののあはれを知る」という言葉は、いつごろから見られるようになって、どういう場面で言われていたか、そこを遡っておこうと思うのだ。

というのは、宣長は、「もののあはれ」と一対で「もののあはれを知る」ということを強く説いたが、「もののあはれを知る」という言い方自体は宣長の発明ではない。宣長は、「もののあはれ」という言葉と同様に、平安時代からずっとあり、宣長の時代に至るまでごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を取り上げて、独自の思想で染めたのである。宣長は、「もののあはれ」という言葉に、はちきれんばかり自分の考えを詰め込んだ、その様相を、前回、つぶさに見たが、「もののあはれを知る」という言葉にも、あふれんばかりの意味合を盛った。

 

「もののあはれ」という言葉が、文字に記された最初は平安時代、紀貫之の「土佐日記」であった。「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」とあるそのなかに、早くも「もののあはれを知る」は見えていた。

さらには、同じく平安時代、「古今集」に続いた勅撰集「後撰集」に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて、と詞書した貫之の歌がある。「もののあはれを知る」は、こうして最初から、「もののあはれ」と一体だったのである。

これを承けて、『日本古典文学大辞典』はこう説いている。平安時代にあっては、歌を詠むこと、それがすなわち「もののあはれ」を知ることであった、逆にいえば、「もののあはれ」を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられない、したがって、平安時代の「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」であったと言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけるということであった。

時は流れて、藤原俊成の歌が生まれた。小林氏が「本居宣長」第十三章で取り上げている、「恋せずば人は心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る」である。俊成は、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、第七の勅撰集『千載和歌集』を独りで編み上げるほどの大歌人だったが、この歌自体は彼の私家集『長秋詠藻』にあると知られてはいたものの、その平明さから歌学や歌論に取り上げられることはまずないまま何年もが過ぎ、江戸時代になって近松門左衛門や浮世草子、随筆類の文中に、俊成の歌とはことわることなく織りこまれて広く知られるようになったという(田中康二氏『本居宣長の国文学』<ぺりかん社刊>による)。

そしてその江戸時代である。新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で、次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。

 

「もののあはれを知る」という言葉は、こういう歴史を辿った。宣長は、その歴代の「もののあはれを知る」に人生の大事を嗅ぎつける。

紀貫之は、平安時代を代表する歌人であったが、最初の勅撰集「古今集」の編纂にあたっても中心的な位置を占め、いわゆる「仮名序」を書いた。

―やまと歌は、ひとつ心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。……

この「仮名序」を目にして、宣長は、「石上私淑言いそのかみのささめごと」巻一に次のように書いた。これが宣長の「もののあはれ」の論の起点となったのだが、同時にこれは、「もののあはれを知る」論の起点でもあった。「本居宣長」第十三章に引かれている。

―古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、この心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。……

そして、俊成の歌である。ある人が宣長に問うた。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」から、同じく第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

俊成の歌に歌われている「あはれ」とは、どういう意味なのでしょうか。「もののあはれ」を知るということが、すなわち人の心があるということであり、「もののあはれ」を知らないということはすなわち人の心がないということだとすれば、人にこころがあるかないかは「もののあはれ」を知っているか知らずにいるかです、するとこの「あはれ」ということも、ただ「あはれ」と感じているだけでは意味がないということなのでしょうか……。

「安波礼弁」の行文上、この質問は「ある人」が宣長に問うたとなっているが、実のところは宣長が、宣長自身に問うたと解してもよいだろう。「あしわけ小舟」「石上私淑言」等、宣長の著作には問答体が目立つが、それらはすべて、読者を説得し、納得させるためのいわば文章術であると同時に、宣長自身の自問自答と言ってよいのである。

そういうところにも思いを馳せて、この「安波礼弁」の質問を読み返せば、宣長は二十九歳、京都での遊学中に、もう「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはよほどちがった関心で受取っていることがわかる。すなわち、「もののあはれ」を「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」とは受取らず、「もののあはれを知る」も「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけることとは受取っていない。人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不思議、不可解、そこに向き合ってきた先人たちの経験、それが「もののあはれを知る」ということだと宣長は受取っているのである。

そして、宣長はそうと明確に言っているわけではないが、「もののあはれを知る」という言葉の微妙繊細、そこに思いを致させてくれたのが俊成の歌だったと言うのである。「古今集」の仮名序に対する発言が見える「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後である。「石上私淑言」になると、もう必死というほどの口調で「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」「此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也」と畳みかけている。実際、宣長は、俊成の歌と出会ったことによって、「あはれ」と「もののあはれを知る」とが立ち上がってくるのを見た。その興奮がどれほどのものであったかは、「ある人」の質問に答えている宣長の回答が、あえて自らの興奮を抑え、自重を促しているかのようにも読めることからもわかる。小林氏の意図からはずれるが、ここもやはり小林氏の引用を借りて引く。

―予、心ニハサトリタルヤウニ覚ユレド、フト答フベキ言ナシ、ヤヤ思ヒメグラセバ、イヨイヨアハレト云フコトバニハ、意味フカキヤウニ思ハレ、一言二言ニテ、タヤスク対ヘラルベクモナケレバ、重ネテ申スベシト答ヘヌ、サテ其人ノイニケルアトニテ、ヨクヨク思ヒメグラスニ従ヒテ、イヨイヨアハレノコトバハ、タヤスク思フベキ事ニアラズ、古キ書又ハ古歌ナドニツカヘルヤウヲ、オロオロ思ヒ見ルニ、大方其ノ義多クシテ、一カタ二カタニツカフノミニアラズ、サテ、彼レ是レ古キ書ドモヲ考ヘ見テ、ナヲフカクアンズレバ、大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリホカニ、余義ヨギナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲオホフベシ……

 

こうして時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下じげの娯楽のなかでもてはやされるようになるのだが、『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かったとあった。「もののあはれを知る」は江戸期、永く貴族の社会においてありふれた言葉であったのとはまた別の意味で、ありふれた言葉になっていたのである。

しかし宣長は、少なくとも表面上は、江戸期の「もののあはれを知る」に頓着はしなかったようだ。小林氏にも言及はない。小林氏にしてみれば、宣長が赫々と照らし出した古代・上代からの「もののあはれ」と「もののあはれを知る」に、自分はどこまで肉薄できるか、そこに思いは集中していたであろう。したがって、宣長がそうとはっきり顧みていない以上、小林氏も江戸期の「もののあはれを知る」にかまけている暇はなかったのだ、とは言えるだろう。

だがいま、こうしてこの稿を書きながら、日野氏の『本居宣長集』の「解説」を読み返していて、おのずと脳裏に浮かんだことがある。前回、折口信夫の指摘に沿って、宣長の「もののあはれ」は平安時代の用語例を超え、「うしろみの方の物のあはれ」すなわち世帯向きのことまで抱えこんでいたということを見たが、この「うしろみの方の物のあはれ」は、宣長が江戸時代人、すなわち宣長と同時代の人たちの生活意識、そこから汲み上げたものではなかっただろうか、そういう思いが浮かんだのである。

 

宣長は、「源氏物語」、「古事記」と、ひとことで言えば古典という「雅」に生きた人だが、人並み以上と言っていいほど「俗」にもひたっていた。日野氏によれば、「京都遊学中の宣長は、よく学ぶと同時によく遊んだ。『在京日記』には、人形浄瑠璃・歌舞伎に強い関心を持ち、しばしば劇場に足を運んだことが記されているし、その他、友人たちと作った狂詩、島原の灯籠見物、石垣町の料理屋での飲食、巷の情痴の人殺しの噂などの記事がある。落語史研究の資料となる米沢彦八についての記事などもある」…… (「宣長と当代文化」、筑摩書房刊『宣長と秋成』所収)

こうして、宣長の俗文化三昧にも目を配ってみると、「本居宣長」の第五章で言われている「好信楽」、第十一章で言われている「聖学」「雑学」が思い起されてくる。以下、第十一章から、小林氏の文章である。

―在京中の宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来るに就いては、既に述べたが、この言葉の含蓄するところは、もはや明らかであろう。宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。……

―学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……

京都に遊学中、宣長は堀景山という儒医に師事したが、景山は、前時代の官僚儒学や堂上(公家)歌学の偏見から逃れて自由になった、無碍むげの学者の先駆けであった。以下、第四章の終盤からである。日野氏が写し取った宣長の在京生活は、小林氏の眼にはこういうふうに映っていた。

―宣長という魚が、景山という水を得た有様は、宣長の闊達な「在京日記」に明らかである。と言うのは、彼の日記に書かれているのは、言ってみれば、水の事ばかりだという意味にもなるようである。「日記」を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

小林氏は小林氏で、宣長を取り巻く江戸時代人の生活意識を、独自に嗅ぎ取っていたようだ。しかし宣長は、ただ浮かれていただけではなかった、こうして「雑学」を好み、信じ、楽しみながら、「聖学」の志は確と胸中に秘めていた。小林氏の文は続く。

―「やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり」(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

田中康二氏の前掲書によれば、宣長が俊成の歌と出会ったのも景山の著書『不尽言』によってであったらしい。この俊成の歌をどう読むか、これは彼の心のうちに最大の工夫課題として深く隠され、宝暦七年十月、松坂へ帰って「紫文要領」「石上私淑言」の筆を執ったとき、一気に心の外へ躍り出たのであろう。そしていったん躍り出た後は、「もののあはれを知る」は「恋せずば人は心もなからまし」から「うしろみの方の物のあはれ」まで、一瀉千里であったのであろう。むろん貫之の「仮名序」の「心」を、「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」と読んだとき、そこにはすでに「うしろみの方の物のあはれ」もしっかり読み取られていたはずである。

小林氏は、第十三章で、次のように言っている。

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。彼は、「古今集」真名序の言う「幽玄」などという言葉には眼もくれず、仮名序の言う「心」を、「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。(中略)それも、元はと言えば、自分は楫とりに問われているので、歌人から問われているのではないという確信に基く。「あはれ」という歌語を洗煉󠄁せんれんするのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。……

ここまでくれば、前回引いた第十五章の次の文は、もう目睫もくしょうと言っていいだろう。

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

 

では、さて、宣長が見通した「もののあはれを知る」の「知る」は、何をどう知るのかである。小林氏の文を読んで行こう。

宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次の事に読者の注意を促す、と前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言」の巻一から引く。

―阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……

「あはれ」とは、古来、人の心の動くさま、感じるさま、それを言う言葉として用いられてきた、が、いつのまにかこれに「哀」の字を充てて特に悲哀の意に使われるようになった、宣長の「源氏物語玉の小櫛」二の巻によれば、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」である。―心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される……。

―宣長が「あはれ」を論ずる「モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

その「物のあはれを知るとは何か」を、宣長自身はどう言っているか。「紫文要領」巻上からである。小林氏は、同じく第十四章に引く。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……

ここで言われている「事の心」「物の心」の「事」とは出来事、「物」とは文字どおり物と受取り、それらの「心」とは「本質」ということであろうが、「本質」をさらに言うなら「事」の場合はそれが出来しゅったいした理由、「物」の場合はそれが存在していることの意義と、ひとまずは言っていいだろう。むろん、こう簡単に言ってすまされるわけのものではないが、ともあれこれを承けて小林氏は言う。

―明らかに、彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

「もののあはれを知る」の「知る」は、「感じる」でもあり「知る」でもある。「知る」をさらに言うなら、知識を得る意味の「知る」でもあろうし、「心得る」「弁える」の「知る」でもあろうし、何かを見聞きしてそれと「認める」の「知る」でもあろう。宣長の言う「もののあはれを知る」の「知る」は、そういう「感じる」と「知る」とが瞬時になしとげられる「知る」、すなわち全的な、直観的な認識のことだと小林氏は言うのである。

しかし、先に引いた「紫文要領」の、「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて……」を、小林氏が「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と読んだについては、やや飛躍があると言えば言えるだろう。そこは小林氏も承知していて、これを言う前に「紫文要領」の説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは難しくあるまいと、ここから先は自分の読解だとことわって言っている。が、これに先立って、「もののあはれを知る」にまつわる宣長の論述が、感情論というよりむしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ、とも言っていた。認識……、認識論……、実はここが、小林氏が宣長に覚えた最大の共感点とも言えるのである。

 

小林氏の批評活動は、文壇登場論文の「様々なる意匠」以来、一貫して人生の認識活動であった。若き日、小林氏はボードレール、ランボーらとともに、アンドレ・ジイドに熱中したが、氏の生涯の盟友、河上徹太郎氏が、河上氏自身もジイドに熱中した理由をこう書いている。

―ジイドが他の作家と較べて際立って魅力があった所以は、彼が物語ったり歌ったりする作家ではなく、「識る」、つまり人間や世界の存在の意味を探ることを窮極の目標として創造する文学者であったからなのである。……(「認識の詩人」、『私の詩と真実』所収)

同じ理由が、小林氏にもあったと言っていい。晩年、氏は真夏の九州で開かれた「全国学生青年合宿教室」に積極的に足を運び、朝から学生たちに講義をするとともに彼らの質問に答えたが、そのなかにこういう問答がある。

―学生 小林さんは自分の経験を表現するために評論というフォームを選ばれたということですか。それは、他の人が短歌で経験を詠むのとまったく一緒ということですか?

小林 そうです。僕の表現の形式が評論の形に定まったということは、一つの運命みたいなものだと思っています。こういう形に定まろうとは思っていませんでした。僕ははじめ小説でも書こうかなと思っていたからね。そうしたら、どうも小説を書くよりも、評論というフォームを取るようになっていった。自然にそうなったのです。これはいろんな原因があるでしょう。その原因をこうだと見極めることはできないけれども、そこには何か必然的なものがあったのでしょうな。……(新潮文庫『学生との対話』より)

小林氏が、「何か必然的なものがあったのでしょうな」と言った必然とは、氏生来の「識る」「認識する」ということに対する烈しい欲求であったと見ていい。この生まれついての性向が、小林氏を批評家にしたと言ってよいのである。そのことは、昭和七年、三十歳で書いた「Xへの手紙」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)が証している。この作品は、雑誌『中央公論』から小説をと言われ、小林氏自身も小説を書くつもりで書いた、しかし、出来上がった作品は、小説と言えば言えなくもないが、文体の手触りは評論である、すなわち、描写ではなく認識行為の所産である。小林氏は「Xへの手紙」で、自分自身の人生を苛烈に認識し、この「Xへの手紙」を分水嶺として、小説家志望から批評家、すなわち人間および人生の認識家となったのである。

小林氏の語録に、批評とは他人をダシにして己れを語ることだ、がある。先回りしていえば、『本居宣長』は小林氏が、本居宣長をダシにして己れを語った大著であるのだが、ここに露出している「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」は、それこそ具体的、現実的に小林氏が己れを語った言葉であり、ここから氏は本居宣長という鉱脈を掘っていくのである。

そしてその鉱脈は、ただちに紫式部に通じていた。ここまでにも何回か引用した「紫文要領」の「紫文」とは「源氏物語」の意であり、「紫」は紫式部のことである。紀貫之の「古今集」序から藤原俊成の歌へと深まっていた宣長の「もののあはれを知る」とは何かの思索は、「源氏物語」との出会いによって一気に加速した。小林氏は、宣長は「源氏物語」の味読によって開眼したとまで言っている。

先の、明らかに宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである、と言った文に続くくだりを引こう。

―よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

 

前々回、小林氏は現行の第十一章を書いた後、昭和四十一年十一月号から翌年三月号まで、連載を休んで「源氏物語」を熟読したと紹介した。この「源氏物語」を読むということは、宣長が「源氏物語」を読んで知った「もののあはれ」を、小林氏自身もしっかり知ろうとしてのことであった。その「もののあはれを知る」ときが、私たちにも訪れている。

(第六回 了)

 

ブラームスの勇気

高橋英夫氏が小林秀雄旧蔵のLPレコードを閲覧した時、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハに次いでブラームスのレコードがかなりの数出てきたこと、そしてブラームスを何かかけてみようと思い立った氏が、偶々手に取った交響曲第一番のレコードをジャケットから抜き出したところ、「盤面が汚れていて、何度もかけた跡が明瞭だった」ことは既に書いた。高橋氏によれば、そのLPレコードは、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるものだったという。カラヤンはこの曲を大変得意にした指揮者で、正規のスタジオ録音だけでいっても生涯に六度録音している。そのうちベルリン・フィルとのレコードは三種存在するが、その二回目の録音が発売された時、小林秀雄は既に「山の上の家」を降りていたから、彼がこの家で「何度もかけた」のは、一九六三年(昭和三十八年)十月にベルリンのイエス・キリスト教会で録音されたベルリン・フィルとの最初のレコードであったことになる。

小林秀雄は、ヴァイオリニストやチェリスト、ピアニストといった器楽奏者への想いや好みについてはしばしば語ったが、指揮者については殆ど何も語らなかった。活字として残されているのは、昭和三十四年三月に発表された「小林秀雄氏とのある午後」という座談会での発言で、フルトヴェングラーとカラヤンについてそれぞれ一言触れているのみである。ちなみにカラヤンについては、テレビで見たその指揮ぶりについて、「ちゃんと見せるような型になっている、芸人だなあ。指揮者は芸人でなくちゃいけない」と、この指揮者のスタイリッシュな通俗性を批判する音楽評論家やレコード・マニアの議論とは無縁の、いかにも彼らしい評を下している。

そのカラヤンのブラームスを繰り返し聴いたというのも、偶々誰かが彼のレコードラックに持ち込んだLPを、ブラームスを聴くために毎回取り出したというまでで、この曲の数ある録音の中で特にこの演奏を好んだということではなかっただろう。しかし小林秀雄が「山の上の家」で暮らした時期に、数あるブラームスの楽曲の中から交響曲第一番のレコードを選び出し、盤面が汚れるほど聴き続けたという事実は、決して偶然ではなかった。カラヤンとベルリン・フィルによる最初のLPレコードが日本で発売されたのは、「本居宣長」の連載が開始された同じ年である。つまり小林秀雄は、「山の上の家」で「本居宣長」を執筆した十年半の間に、このレコードを「何度もかけた」のである。

ブラームスの最初のシンフォニーは、おそらく、「本居宣長」を執筆していた小林秀雄に特別の感銘と共感を与え続けた音楽だったのだ。「小林さんはモーツァルトのほかに、ブラームスも好きだった」と伝えた追悼対談の中で、大岡昇平は、小林秀雄は「彼(ブラームス)がベートーヴェンの第九の上に、ハ短調交響曲第一番を書いたことを、とても賞めていた」と証言している。そして「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語った「音楽談義」の最後に彼の口から出た曲名は、「第一シンフォニー」であった。

これまで紹介してきた「音楽談義」でのブラームスに対する小林秀雄の発言には、まだ続きがある。彼がブラームスについて一番言いたいことは、実はその続きのところにあるのである。ベートーヴェンのような「元気のいい、リズミカルなインスピレーション」とは異なる、肌目の細かい、主題を織(折)るようなブラームスの書法について語り、この作曲家を「本質的に老年作家である」と断じた上で、彼は次のように発言する。

―僕は好きですよ、ブラームス。あれをセンチメンタルというのは俗論です。あいつの意思を知らないのです。あいつのセンチメンタリズムというのはとても表面的なこと。あいつの忍耐とか意思とか勇気なんてものは全部あの中に入っていますよ。これはやはり健全なる音楽家です……

ここで言われた「あいつの忍耐とか意思とか勇気」とは、他ならぬベートーヴェンにこそ相応しい言葉であろう。しかしそれがブラームスにもあると彼は言い、しかも、そのブラームスの「意思」は、ベートーヴェンのそれとは違って世間にはなかなか理解されないものだというのである。

対談ではこの後、既に触れた四十年前の道頓堀のエピソードが回想され、その「モオツァルト」を書き終えた後に惹かれるようになったというシューベルトの話に移り、さらに話題はチャイコフスキーからシューマンを経て、シベリウスとグリーグ、ドビュッシーとラヴェルとが比較される。あるいはストラヴィンスキー、ヒンデミット、シェーンベルク、武満徹といった現代音楽が批判され、ベートーヴェン、ヴェルディ、ショパンと続いて、四年前、バイロイトで聴いたワーグナーについて存分に語られる。そして五時間に及んだこの対談の最後の最後に、もう一度、彼はブラームスについて語り出すのだ。もはや独白に近いもので、聞き取れない箇所もあるが、彼のブラームスに対する思いは、この最後の独語にもっとも強く表れている。バイロイトで体験したワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の最終場面の感動について繰り返し語った彼は、しかし、「あの人(ワーグナー)を僕は尊敬するが、愛しません」とはっきり断った後で、次のように語った。

―僕はできるかどうか知らないが、一生懸命書いているんだよ。もう僕は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは書けないと思ってきたのだ。書けないね、もう、恥ずかしくて。僕がブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことなんだよ。ブラームスって、あんた、聴くか? ブラームスってのはいいですね。僕は段々ブラームスを好きになりましてね。あんなものは誤解のかたまりだと僕は思っています。誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君……

そして不意に、「あの人のカルテットいいですね」と語り出し、「どうしてあんなものができたかと思うくらいのものですね。あれは第一シンフォニーと同じものです。偉いものですよ」と嘆じて、この対談はお開きになるのである。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語った時に、彼の脳裏で鳴っていた音楽、そして「あいつの忍耐とか意思とか勇気は全部あの中に入っている」と言われた「あの中」とは、ブラームスの他のどの曲よりも第一シンフォニーであり、カルテット(おそらくはシンフォニーと同じく最初の弦楽四重奏曲)であっただろう。だがなぜ、この二つは彼にとって「同じもの」なのか。またこの二曲をブラームスが作曲したことの何が「偉い」のか。小林秀雄が聴き取ったその意味を汲み取るためには、この二つの音楽が作曲された経緯を少しばかり知っておく必要がある。

 

ブラームスが生まれたのは一八三三年五月七日、ベートーヴェンはすでに六年前、シューベルトは五年前に亡くなっていた。シューマンとショパンが二十三歳、ワーグナーが二十歳の時で、ベートーヴェンによって端を開かれたロマン主義音楽がいよいよ隆盛を極めようとしていた時代にあたっていた。

ブラームスの作曲家としてのキャリアは、二十歳の時にシューマンの元を訪れ、そこで弾いて聞かせた自作の曲に驚嘆したシューマンが、「新しき道」というタイトルの論説を発表して、このうら若き「ミネルヴァ」を華々しく世に送り出したことに始まる。シューマンに紹介されて楽壇に出たということはまた、ブラームスが、リストとワーグナーに代表される新ドイツ楽派という当時の「未来音楽」とは袂を分かち、古典的な音楽の可能性を新たに拓く「第二のベートーヴェン」として世に出たということを意味した。ブラームスはシューマンに会う三ヶ月ほど前にリストを訪ねているが、その時、作曲されたばかりのロ短調ソナタをリストが弾いて聞かせたところ、ブラームスは居眠りをしてしまい、それに気づいたリストは怒って部屋を出ていったという逸話が残されている。その真偽はともかく、ヴァイマールの邸宅に滞在した時、ブラームスがリストの音楽に数多く触れたこと、そして聴けば聴くほどその音楽に批判的になり、結果、リストの機嫌を損ねたことは事実だったようである。

音楽史上有名なブラームスと新ドイツ楽派の対立、とりわけワーグナーとの確執についてはしかし、ロマン主義の標題音楽的発想を否定して、音楽は音楽以外のものを表現しないとする絶対音楽の立場を標榜した音楽美学者エドゥアルト・ハンスリックをはじめとする反ワーグナー派の人々が、ブラームスを自分たちの主張の体現者として必要以上に担ぎ上げた側面も少なからずあった。そもそもブラームスという作曲家は、当時の「未来音楽」に共感できなかったばかりでなく、自身の音楽の価値に対しても極めて懐疑的で、自分を含めた現代の音楽よりも、モーツァルトやハイドン、バッハ、ヘンデル、あるいはもっと古い、その当時は誰も見向きもしなかったルネサンス期のポリフォニー音楽に至るまで、過去の巨匠たちの音楽への憧憬と尊敬を生涯持ち続け、その研究に多大な労力を費やした人でもあったのである。ブラームスは、それら歴史上の天才たちに比べれば、自分の音楽は何物でもないという強い自己批判精神の持ち主で、例えば、「自分のピアノ協奏曲が今日もてはやされるのは、モーツァルトのピアノ協奏曲の本当の良さを誰も理解していないからだ」といった類の発言をいくつも残している。

その中でも、ベートーヴェンは、ブラームスがもっとも尊敬した作曲家であり、かつ、もっとも身近に存在した古典であった。シューマンが「新しき道」を発表した三ヶ月後、ブラームスは、友人であったヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムに宛てて次のような手紙を書いている。

 

ヨハネスは何処にいる。彼はまだティンパニも太鼓も鳴り響かせないのか。彼はいつもベートーヴェンの交響曲の開始部分を思い起こし、似たようなものを作ろうと努めることになるだろう。

 

以後、ヨハネス・ブラームスによって意識され続けたベートーヴェンという桎梏、中でもその最も重たく気高い「ベートーヴェンの交響曲」という十字架は、彼を取り巻く時代が要請したものであったと同時に、ブラームスが自ら進んで選択し、背負い続けたものでもあったのである。

(つづく)

 

女とヴァイオリン

小林秀雄は作家五味康祐との対談(1)で、ヴァイオリンは「女とコンビというような楽器」だと言っている。これはどういう意味だろう。他に、名人を聴かせろよと所望する小林秀雄にダヴィッド・オイストラフのレコードを聴かせたら上機嫌になったという話もある(2)。こっちはよくわかる。小林秀雄は「職人」というものを尊重したと伝えられているが、オイストラフはまさに職人的名ヴァイオリニストだからだ。しかしヴァイオリニストに「職人気質」の女流というのがいただろうか。女とヴァイオリニストが「コンビ」だとはどういうことであるか。

もとより女流がつまらないというのではない。私自身、クラシック音楽との忘れ難い邂逅は、それこそ「女とヴァイオリン」だったのだから。ジネット・ヌヴーによる一撃。「私はふるえたり涙が出たりした」。これはユーディ・メニューヒンが始めて日本で演奏を披露したその翌日、新聞紙上に早々と掲載された小林秀雄の感想(3)の口真似だけれど、しかし確かに私はふるえたり涙が出たりしたのだった。それははじめて蓄音機でレコードを聴かされたときのことだ。ローリングストーンズしか聴かなかった男が、その日を境にクラシックのヴァイオリン曲を、それこそ貪るように聴き始めたのだから、それはやはり、ジネット・ヌヴーという女流ヴァイオリニストによって私の人生にうち下ろされた、強烈な一撃だったのである。ラヴェルの小品だったが、そんなことはどうでもよかった。ピアノの、その誘うような序奏のあと、唐突に鳴り渡ったヴァイオリンの響き……それは本当に突然だった。私は吃驚してしまった。畳敷きの貧しい部屋は隅々までその、嘆きのような歌うようなヴァイオリンの音色に瞬時に満たされたのだった。聴かせてくれた友人は「ストラディヴァリウスだ」と言った。なるほど、これがあのストラディヴァリウスか。私はヴァイオリンという楽器に説得されたように思ったものだ。(4)

 

クレモナのアンドレア・アマーティとブレシアのガスパロ・ダ・サロ。ヴァイオリンという楽器の二つの「源流」である。そのうちブレシアの系譜は17世紀にジョヴァンニ・パオロ・マッジーニという名工を産み、そして絶えた。絶えはしたがその響きは、現代ヴァイオリンの祖ともいうべきヨゼフ・ヨアヒムの、その後継としてベルリンに招聘されたアンリ・マルトーのいくつかの音源によって確かめることができる。マルトーのヴァイオリンはモーツァルトがマリア・テレジアから貰ったというマッジーニだ。他方アマーティの工房はその孫ニコロ・アマーティの門下からストラディヴァリウスとグァルネリウスの二つの流派を輩出することになる。アントニオ・ストラディヴァリ、そしてグァルネリ・デル・ジェス。周知のようにこれらの名を措いて今日に至る名ヴァイオリニストの系譜を語ることはできない。

それら名器の相貌は私などにもちょっと違って見える。完璧な均斉と調和がストラドなら、デル・ジェスはやや歪んだような危機的な均衡だ。そもそも伝わるところの人物像からして著しい対照をなしている。アントニオ・ストラディヴァリはアマーティ門下の俊才で一徹まじめな職人気質、独立後は大きな工房を構え、長寿を全うするその直前まで仕事に精を出して、散逸したり失われたりしたものも少なくないだろうに五百挺を越えるヴァイオリンを今日に遺した。そこにはおそらく、アマーティの甘美な音色に豊麗な響きを付与することで達成された「理想」の境地がある。他方グァルネリ・デル・ジェスことジョゼッペ・グァルネリは、殺人の罪で投獄されたりもした放蕩無頼の厄介者だ。もっとも監獄の中に材料道具を持ち込んで仕事を続け、生涯ヴァイオリンだけをしかも一人で製作し続けたらしいから、むらっけはあるがひとたび集中すると物凄い仕事をやってのけるというような、所謂天才肌の、魅力的なヤツだったにちがいない。

 

小林秀雄はグァルネリウスを「野心家にはもってこいの楽器」と評した。これも五味康祐との対談のなかでの発言である。そこではブロニスワフ・フーベルマンという名が挙げられているが、なるほど、フーベルマンも含めてグァルネリの使徒には、聴けばきっとその人だとわかるような独特の音色をもつ奏者が多いように思う。

さて小林秀雄がストラディヴァリウスについて語る言葉はいちだんと力強く、しかもちょっと難解だ。「……やっぱりストラディヴァリウスという楽器に従うよりほかしょうがない。これに悠々と従って悔いないという名ヴァイオリニストはいないんです」。ストラディヴァリウスには誰もが服さなければいけない。しかし名ヴァイオリニストにはそれができない。「解釈がどうの、何のかんの」、「あんなナチュラルな楽器は、そんな人工的なものには抵抗しますからだめなんですよ。素直にストラディヴァリのこさえたとおりの音をもっと出そうというふうに弾かなければ、ヴァイオリンというものは成り立たないんです」……。

ここにはストラディヴァリウスというヴァイオリンについて、何かしら決定的な了解が語られている。それは、聴衆はもちろん演奏家にも優越する何かなのだ。17世紀後半に出現した名工の手になるその美しく小さな楽器は、ヴァイオリン音楽の歴史そのものの完全な凝縮である。ヴァイオリン音楽の本領は、すなわちそこに籠められてある「音」そのものなのだ。それを解き放つにあたっては如何なる思想も観念も、邪魔にこそなれ、何ら足しにはならない。

1951年、メニューヒン来日。小林秀雄は「ああ、何んという音だ。私はどんなに渇えていたかをはっきり知った」と書いた。「タルティニのトリルが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了った。バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処やらへけし飛んで、私はふるえたり涙が出たりした」とも。いたずらな観念への傾斜は、音楽経験の頽廃に連なる。名ヴァイオリニストは、あるいは男というものは、ひょっとしたら、「解釈がどうの、何のかんの」と頭のほうから企てようとして台無しにしてしまっているということがあるかも知れぬ。近代という偏狭な理性の時代に埋没したならば、あるいはすべてを対象化して問わずにいられない思いあがった精神性と刺し違える覚悟なしには、もはや真の音楽的感動など得られないのではないか。

優れたものに対しては自己を滅却してそれに融合するかの如く従ってこそ、はじめてそれが了解され、また「私」もよりよく活かされるということがあるにちがいない。「大体、ヴァイオリンというものはそういうものなんですよ。女とコンビというような楽器なんです」。肉体を離れた空しい言葉が己の中に渦巻いているような野郎が一番だめなのだ。そういう手合いに蔑まれているような女の方にこそ健全に保たれている心があるとは、日常、よく教えられるところである。技術も腕力も存分に備えた男はどうしてもその力にものを言わせてしまうのではないか。力に劣る女は徹頭徹尾自分を相手に添わせ合わせて、かえって人をも自分をも活かしきるのではないか。それゆえに小林秀雄は、女とヴァイオリンは「コンビ」だと言ったのである。

その「女」のうち、わけても小林秀雄が称揚したのは、イタリアのジョコンダ・デ・ヴィートであった。アルカンジェロ・コレッリに始まり、ニコロ・パガニーニで頂点に昇りつめたイタリアのヴァイオリニストの系譜に、その後のしばらくの静寂を経て名を連ねた、まだ十幾つの少女。南イタリアの葡萄農園に生まれ、叔父さんにヴァイオリンを習った。ローマでの16歳のデビューは、この楽器の世界では珍しい事ではないが、翌年には音楽院の教授になっている。けれども国際的な活動とレコーディングはずっと後になってからだ。

ジョコンダ・デ・ヴィートは「イタリアの音楽家」なのである。豊かで温かなその響きと音色は、ちょっと比較しうる奏者が見当たらないようだ。そして歌。歌謡性と抒情性の高次の統合。それは空間に満ち溢れ、聴くものはその中に包み込まれてしまうから、それに対峙して何のかんのと言う気にもならない。ヴァイオリンのベルカントなどと称えられるが、そしてそれに反対するつもりはないが、ベルカントとはちょっと違うつつましさ謙虚さがある。アマチュアのヴァイオリニストだったムッソリーニが激賞し、ストラディヴァリウスを贈りたいと申し出たときには「男性からあまり高価な贈り物を貰ってはならないという価値観を母から教えられている」と言って辞退した。バッハとベートーヴェンそれにブラームスを特に重要なレパートリーと考え、古典派を全うし、52歳で「自分の能力の頂点に達した」として引退、再び楽器を手にしなかった。録音も30曲ほどしかなく、伝説のヴァイオリニストみたいなってしまったが、その音は今でも確かに鳴っている。

 

先ほど引用したメニューヒン来日の際の小林秀雄の感想はこんなふうに締めくくられていた。「メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現れるのを見て、さぞ驚くであろう。しかし、私は、あなたのような天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と不幸とをよく理解している大人である。私はあなたに感謝する」。大地や肉体との紐帯を断った知や観念というものは、いったい何処を浮遊するのか。他者への信頼を放棄した魂は、いったい何処に向かうのか。そんな現代の狂気と不幸に翻弄されつつある今の私にも、かつて貧しい六畳間を満たしたようなストラディヴァリウスの音色は、間違いのない救済なのである。

(了)

 

注 (1) 「音楽談義」、1967年。新潮CD『小林秀雄講演』第6巻所収。

(2) 吉田秀和「演奏家で満足です」、新潮文庫『この人を見よ』所収。

(3) 「メニューヒンを聴いて」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収。

(4) ジネット・ヌヴーのヴァイオリンは、アントニオ・ストラディヴァリの息子オモボノの作、飛行機事故で主人とともに喪われた。

 

いかでかものを言はずに笑ふ

山の上の家の8月の歌会で、亡くなった父が夢に出てきたことを詠んだ。池田塾頭がその夢について書くようにと言われたので、思いつくままではあるが、書いてみようと思う。

 

平成29年7月29日の朝、父が亡くなった。83歳だった。8月12日、元気だった頃の父が夢に出てきた。妻や子供たちと居間にいると(家族構成は三世代同居。私の父母、私と妻、子供三人)、コツコツコツと庭に通じるガラス戸を指先で突っつくような音がした。カーテンを開けると、父が立っていた。明るい昼間の庭が目に入る。どうやら、家の中へ入ろうとしたのか、ガラス戸の鍵を開けてくれという合図らしい。私に向かって、父は、右の手のひらを立てて、表、裏とひらひらさせていた。私の表情を見つつ、父らしい(そうとしかいいようのない)かすかな笑顔で。父の身体は少し半身で、家へ入ろうとしているようにも、庭の方へ行こうとしているようにも取れた。父は亡くなったはずだが、という思いもしていた。家族に対しては、無口なわけでもなく、「おーい」と言ってみたり、「開けてくれーやー」と言ってみたりしそうな感じなのだが、父は一言も言葉を発しなかった。しかし、父は何かを伝えたかったようだ。「家族が食べていかんといけんのじゃけえ、しっかりせえよ。頼むで!」ということだったのか。閉じこもっている私たちを心配したのか。

 

私は「小林秀雄に学ぶ塾」で学んでいるが、父が本を読むのを一度も見たことがない。おそらく、生涯で一冊も本を読まなかったのではないだろうか。歩みを少し振り返ってみたい。

11歳の時、原爆で母や兄妹を亡くし、家を失った父は親戚の家に身を寄せる。小学校を正式に卒業しなかったようだ。数年後、大崎上島の漁師へ丁稚に出される。「櫓で殴られた」話をよくしていた。夏祭りの夜、漁師の家族は祭りへ行き、残された船から「脱走した」。呉線の線路を歩き、大根をかじりながら広島まで帰ったという。いろいろな経験を経た後、初めは会社組織に属さず、肉体労働者をまとめることとなった。その後、日雇い労働者だった彼らを「将来に希望がない」と、関係のあった会社と交渉し、正社員にさせる。……。

思い出されるのは、父の苦労等ではない。いろいろな経験を経たとは書いたが、計画できたはずもなく、見通しもきかず、自分を頼むしかない中でつかんだ思想だ。それは自分の言葉を信じられるように生きる、という思想だったと思う。「思いつきでものを言うな」「よく考えてからものを言え」とよく言っていた。自分が本気で考えていないことを、言葉にすることが決してない人だった。人が言ったことを忘れず、相手のことをよく考えた人だった。例えば、後ろ盾の無い中で、人をまとめていくには、自身が権威となるより他は無かったはずだ。自分勝手な考えや、私利私欲のみで発せられる言葉、責任感も一貫性もない言葉、数を頼んだり、何かの威光を利用したり、ことさら自分を大きく見せようとしたりする言葉、自らを欺いて陰で人を貶める言葉……。そんな言葉を使うようなら、「仲間」からの信頼を失い、瞬く間に立場を追われただろう。もっと実力のあるものが、すぐそこへ立つ。このような環境で生きていくということが、どんなに言葉に対する感覚を磨いただろうか。無二の大切さを、威力を教えただろうか。

 

そんな言葉は自分だという意識をはっきり持った父が、何故、本を読まなかったのか。「本を読むと馬鹿になる」と父が言ったことがあった。積極的に読まなかったのだ。読書をし、感化されて何かを考えたり、ものを言ったり、行動したりすることは、覚めた目で見た父からすれば、自ら迷いへと入っていくように思えたのだろう。本を読むことで、読む前と人は何か変わってしまうことを、感覚的に分かっていたのだと思う。誰のどんな言葉も、父の経験の総和を正確に言えない以上、父の身の上に何の関わりも認めることはできなかったのだろう。行きつけるところまで分かったとしても、それは人を明るくするとは限らない。進んで迂闊にも「馬鹿になる」行いをすることは、父にとっては無責任なことだった。

 

父は1行の文章も残さなかった。心に込めがたいものは、時に絵となって表れた。その中には11歳の少年だった父が布団を背負い、疎開先から帰って見た、原爆により焼け野原となった、無人の広島の絵がある。右隅にポツンと小さな人影が三つ。父と妹とお父さんであろう。見たこと、感じたことがはちきれた絵だ。数年前に描いた最後の絵は、広島県立美術館で観たゴッホの自画像だった。料理、建築等なんでもそうだったのだが、絵に感動するということは、父にとってはそれを自分で描いてみるということだった。点描というには少し長めの筆致で、顔も帽子も服も背景も描かれている「グレーのフェルト帽の自画像」に、技法への興味を持ちもしたのだろう。効果を吟味し、家族にも意見を聞きながら、じっくり取り組んだ父の「自画像」は、不思議と明るい色調で仕上がった。

 

夢の中、居間にいた私たちは、何か異様な雰囲気だった。手術も抗がん剤治療も拒んだ父を家で看取ることとし、家族全員で父の残された日を幸せなものにしようとした。2カ月後、皆に見守られて父は亡くなる。全力を尽くし、別れの時を何度も想像し、ある意味やりきったという感じがしていもしたが、夢の中での私たちは、父の死ということに接し、緊張して身を固くしていた。庭からただ家へ入りたいだけという素振りで、ガラス戸を叩いた父。異様な雰囲気を払い、かといって大げさなことにしないために、手をひらひらさせて、父らしく、少しひょうきんにしてみせた。それが目的だったので、家へ入るでもない、庭に行くでもない、半身だったのだ。

「つまらんことを考えるな」「考えてもしょうがないことを考えるな」とよく言っていた。考えるべきことをはっきり知り、それ以外は考えないと決めるようにしろということだろう。広い意味での宗教心はあったと思うが、死んだらどうなるなどという言葉を口に出したことはなかった。

 

夢という物語を信じて、思い出そうとしてみれば、父の思想が私に伝わる。歌は夢に姿を与えた。「本居宣長」を繰り返し読むにつれ、人間のつくられ様を、根本から行きつけるところまで考え、生まれたという運命を、どう承知して積極的に生きるのか、ということの大事が心に浮かぶ。言葉を信じ、運命に抗いもせず、自分の楽しみに常に積極的であった父を思う。名は体を表すというが、自分の生まれつきを、とうとう守り抜いて生かした父の名は、悟という。

 

愛情のある父、身罷りける後、夢に出で来ることを詠める

夢の中 われを待つらむ その人は いかでかものを 言はずに笑ふ

(了)

 

歌の生まれ出づる処

昨年、年明け間もない頃、父を見送った。

遡ることさらに一年程前の年末、父は、母と一緒に居られる場所を確保できたことから、都内にある住み慣れた自宅を後にし、鎌倉山にある介護付きの住居型施設に夫婦揃って移り住んだ。しかし、3か月が経ち、新しい生活にも少し慣れてきたかと思っていた春先、体調を崩し、母が歩いて行ける距離にある病院へ父だけ移らざるを得なくなってしまった。そのため、父が入院してからというもの、横浜に暮らす私は、毎週鎌倉山に母を訪ね、その足で母と一緒に山道を下り、時間の許す限り父を見舞うという週末の生活が始まった。

などと書くと何か随分と孝行息子のようにも聞こえてしまうけれど、この親不孝者は、お見舞いなどといっても母を連れて行くだけのことしかせず、病室でも、いつも決まってキーボードを叩き始め、忙しいからと傍らで仕事を続けていた。最初に父が入った部屋は、私に付いてきた子どもたちが遊ぶことのできる程の、都内の病院なら3人は詰め込まれそうな広さだったが、一人部屋で、MacBookがあれば、十分な音量で音楽を響かせることができた(結局一年近く、病室へ通ったわけだが、音楽をかけていたことは勿論、電源を拝借していたことすら、注意されたことはなかった)。そして、病室の窓からは、手が届くのではないかと錯覚するほどの近さに桜が咲き、モノレールの音はしたが、その後には、いつも鳥の声が緑の風に運ばれていた。

父は、元々糖尿持ちで、晩年はインスリン注射を欠かせなかったが、入院してすぐの検査の結果、施設で体調を崩し誤嚥したのは、脳梗塞が原因だったことが解り、その時点で、口から栄養を摂ることはもはや叶わない状態にあることが医学的には確定した。もう十分ですとこちらから切り出したくなるほどに丁寧な女性医師の説明から、この後、父の身体がどのようになってゆくのか、母にも理解できた筈だが、少なくとも、その頃の父は、まだはっきりと自分の意志を伝えることができたし、母には、残された最後の治療である管で栄養を補給するという方法を採る以外の選択肢はなかった。母と父は、日々の大半の出来事が一反ほどの面積の中に収まっていた時代に、群馬の片田舎で幼馴染だった頃からの付き合いで、お互い寄りかかり、共に支え合ってきた文字通りの伴侶なので、もう零れ落ちるほど沢山の思い出を抱えていたとはいえ、いや、そうであるからこそ、これで終わりにはしたくないという気持ちになるのは自然なことだった。

当時、母は、すでに八十の坂を登っていたが、気が張っていたせいか、三つ違いの父とは比べものにならぬ気丈さでベッドの傍に立ち続け、横で音楽を聴きながら、普通に仕事をしている息子の分まで、ここで音が止まってしまったら、命が尽きてしまうかのように、父に向かって間断なく喋り続けていた。

医学的にはまったく絶望的な状況下で、春の日、母は、あたかも草木が成長するように、寝たきりになった父の身体にもまだ伸び代があると繰り返し言い聞かせていた。私は病室に差し込む夕映えの光で橙色になった病室に、いつの頃からか、決まって、ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein)の弾くショパンの全集を流すようになった。ノクターンから始まって、後期のマズルカに差し掛かる頃、また来るからと父に告げ、毎週病室を後にしていた。何か、しんみりしたいのだけれど、でも、余り湿っぽくない、そんな音楽を聴きたい気分だった。梅雨時、母は、雨が降れば、また草木も潤う、貴方の身体も蘇ると話しかけていた。盛夏の頃、私が娘に浴衣を着せて病室に連れて行くと、もっと涼しくなれば、もっといい気候になれば、貴方もきっと元気になると耳元で繰り返していた。小春日和の日曜日、何時間でも子どもたちとキャッチボールのできる病院の駐車場で、最初は長男が、しまいには、次男が、もういいと言い出すまで繰り返し空に向かってボールを投げた後、病室に戻ると、母は、私が子どもたちを連れ出したときと同じ姿勢で、硬くなった父の脚をさすっていた。

祖母が癌で闘病していた私の子どもの頃には、寝たきりになると、すぐに床ずれを起こし、それが治療以上に大変なことだったと記憶しているのだが、器具も工夫され、一定の時間ごとに姿勢を変える行き届いた昨今の医療のお陰で、父の身体はついに床ずれを起こすことはなかった。しかし、比較的太い血管に入れる管でも、届けることのできる栄養は成人が身体を維持するのに十分な量には満たない。父は下半身から次第に痩せ、冬の足音が聞こえる頃になると手を動かすことさえ難しくなってきた。

父は、上の階へ移動したが、変わらず手厚く気持ちの良い医療が提供されていた。寒さは増してきていたが、病室内は常に暖かく、外の様子などはベッドの上では感じることはできなかったに相違ない。それでも、母は、春になれば、また暖かくなる、草木も命も芽吹くと何度もなんども同じ言葉を重ねていた。年末になると、父はほぼ寝入ったままの状態となったが、母は、今度は、年が改まれば、気持ちも変わる、新しい年がもうすぐやってくると飽きもせず続けていた。年の暮れ、ノクターンを背景に、父に語りかける母の逆光のシルエットは、二つとない美しい画のように思われた。

 

小林先生は、その「本居宣長」の中で、「激情の発する叫びもうめきも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには耐えられぬように出来上がっているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれることはない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう」と、歌の生まれ出ずる瞬間を描写している《「本居宣長」第23章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、261頁》。

「『歌』『詠』の字は、古来『うたう』『ながむる』と訓じられて来たが、宣長の訓詁くんこによれば、『うたう』も『ながむる』も、もともと声を長く引くという同義の言葉である。『あしわけ小舟』にあるこの考えは、『石上私淑言いそのかみささめごと』になると、更にくわしくなり、これに『なげく』が加わる。『なげく』も『長息ナガイキ』を意味する『なげき』の活用形であり、『うたふ』『ながむる』と元来同義なのである」と《同258頁》。

 

小林先生は続ける。「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを耐え難いと思うのも、裏を返せば、これに耐えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕らえどころのない悲しみの嵐が、おのずからアヤある声の『カタチ』となって捕えられる」《同264頁》。

 

正直に言ってしまえば、私は、当初、母の言動は尋常ではないと思ったし、母の中で知性に匹敵する何かが失われてしまったのではないか、とすら考えた。しかし、今思えば、母は自分に言い聞かせてもいたのだろう。そうでもしなければ、やはり、母は耐えられなかったのだ。私が思春期の頃、母は私が父を批判することを滑稽なほど絶対に許さなかった。そこまで、頼り切っていた夫が今や話すことさえ儘ならない。そんな事実は遣り切れない。紛れもなく、自分のために、ただ黙々と励まし続ける母の言葉は、他人からすれば、ほとんど荒唐無稽であったかも知れない。けれども、淀みなく、淡々と、できるだけ抑揚をつけず、繰り返される母の発声の表現の真実さは、やがて、私に、母の言葉をとてもよくできた嘘なのだと納得させる力を持っていた。考えてみれば、私たちはいつも生活の中で言葉を交わし合っている。結ばれた二人には、末長くお幸せにと、遠方の友との別れ際には、いつまでもお元気でと、そして、年の瀬には、どうぞ良いお年をと。母の発したものは、それと少しも変わらない。

 

昔私が手を引かれ通っていた幼稚園では、登園の時間に毎朝シューベルトの「ます」が流れていた。そのため、年間聞かされ続けた私は、不意に何処かであの歌曲の主題に出くわしたりすると、未だに身体が何かを思い出したような不思議な感覚に襲われるのだが、ショパンのノクターンもまた私に特殊な感情を呼び起こす特別な音楽になってしまった。

 

小林先生は、同じ箇所で、再び「あしわけ小舟」から本居宣長の言葉を引用している。「カナシミツヨケレバ、ヲノズカラ、声ニアヤアルモノ也。ソノアヤト云ハ、哭声ノ、ヲヽイヲヽイト云ニ、アヤアル也。コレ巧ミト云ホドノ事ニハアラネド、又自然ノミニモアラズ、ソノヲヽイヲヽイニ、アヤヲツケテ、哭クニテ、心中ノ悲シミヲ、発スル事也。モトヨリ、外カラ聞ク人ノ心ニハ、ソノ悲シミ、大キニフカク感ズル也。カヤウノ事ハ、愚カナル事ノヤウナレドモ、サニアラズ」《同263頁》。

 

所謂「好楽家」からすれば、ただの通俗名曲の一つに数えられるショパンのノクターンも、私にとっては、あの日々の母の声のアヤそのものだった。父の一周忌を終えた今でも、ルービンシュタインの紡ぎ出すピアノの音は、私の中で、夕映えの橙色の画に重なり、人生のように美しく響く。インテンポに弾くほど、響きは却ってしみ入ってくる、と聴こえるのは、私の空耳なのかも知れないが……。

(了)

 

姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ

「建築家の作る住宅は、かっこいいけど使い勝手がよくないよね」

僕も何度か耳にしたことがあるけれど、建築家の作る物は、見てくれ(姿・形)ばかり気にしていて、使い勝手(機能性)は二の次にしているという批判が込められている。

設計業務を生業として建築家の末席に名を連ねている身としては、その話を聞くたびに、苦笑いを浮かべてその場をやり過ごしながらも、確かな言葉を持つことなくいままで来ていた。

 

いまから62年前に、「美しきもののみ機能的である」という言葉をのこした建築家がいる。丹下健三である(「人間と建築-デザインのおぼえがき」)。

1913年生まれの丹下は、東京大学を卒業後、2005年にその生涯を閉じるまで数々の設計をして、特に東京代々木のオリンピックプールや、大阪万博の会場基幹施設の設計など、国家プロジェクトを数多くこなした日本を代表する建築家である。日本の近代建築を飛躍的に高めた人で、小林秀雄が近代批評で果たした役割を建築界で担った人、というとわかりやすいかもしれない。

ところで、「美しきもののみ機能的である」と題するエッセイが書かれた1950年代は、機能主義全盛の時代であり、「形態は機能に従う」「機能的なものは美しい」などと言われ、建築創造にとって機能性は欠かせない条件となっていた。機能性とは「使い勝手」のことであり、この場合、建築の「姿」(空間の美)とは対概念である。建築を作る上で「機能」を第一に考えることが当然の時代に、丹下は一石を投じたわけである。

もう少し丹下健三の言葉を聞いてみよう。

「『機能的なものは美しい』、という素朴な、しかし魅惑的なこの言葉ほど、罪深いものはない。これは多くの気の弱い建築家たちを技術至上主義の狭い道に迷いこませ、彼らが再び希望にみちた建築にかえってくることを不可能にしてしまうに充分であった」

皆が機能に向かう中で、建築の「姿」(空間の美)に対してはひそひそと語るにとどまり、機能追求を至上とする近代建築の思想は、例えば無表情で魅力のない建築を作る免罪符にもなっていた。

丹下は「美しきもののみ機能的である」との発言で、「姿」(空間の美)と「機能」(使い勝手)の価値を反転させたわけである。

僕がこのエッセーを知ったのは、今から30年前、大学で建築を学んでいた頃であり、「姿」(空間の美)を主張したもの程度の理解で、今から振り返るとその鮮やかな反転の意味はまだ理解出来ていなかった。

 

ところが最近、小林秀雄の「本居宣長」を読み、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉に出会う中で、「美しきもののみ機能的である」のフレーズが我知らず脳裏によみがえり、大いに腑に落ちることがあった。

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」は丹下から遡ること更に176年前、和歌について本居宣長が発した言葉である。

その言葉が何を意味したか、小林秀雄に倣ってトレースしてみよう。

当時、儒家の間では、詠まれた和歌はその「意味」が重要で、「姿」は簡単に真似る事ができるから、それほど重要ではないと思われていた。

「言語文字の異はあれども、唐にて詩といひ、ここにて和歌といふ、大義いくばくかの違いあらんや」

言葉や文字は異っても、漢詩を作ろうが和歌を詠もうが、大して違いはない、というわけである。小林秀雄は、こんなことを言う儒家に対して本当にものが解っているのか? と言う。

「『姿は似せ難く、意は似せ易し』と言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、まずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供でも出来るではないか、諸君は、そう言いたいところだろう。言葉とは、ある意味を伝える為の符牒に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.286)

言葉の「姿」よりも「意」が先をいく。言葉はその「足跡」に過ぎないという考えはぬきがたい。人は文辞の「姿」を軽んじ、文辞の「意」に心を奪われているではないか、と。

またこんなことも言っている。

「『言詞をなほざりに思ひすつる』ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だと言う。……彼等は、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。……言語に関し,『身に触れて知る』という、しっかりした経験を『なほざりに思ひすつる』人々は、『言霊のさきはふ国』の住人とは認められない」(同第28集p.48)

僕らが「阿呆」と「馬鹿」を日常の会話でとても繊細に(しかし無意識に)文脈に沿って使い分けているのは、それら日本語が僕らの心に直結した言葉となっているからだ。ここに、「意味」が同じであるなら構わないだろう、では済ますことの出来ない微妙な問題がある。宣長が「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」で示したのは、当時の通念に異を唱え、言葉の「姿」を第一と考える、ということだった。

ところで、和歌における「意」と「姿」に対する宣長の考えを典型的に示した発言があるので紹介する。「新古今集」の注釈書である「新古今集美濃の家づと」にある一節である。

 みよし野山もかすみてしら雪のふりにし里に春は来にけり

これは摂政太政大臣の詠んだ歌だが、それに対して宣長は次のような注釈をしている。

「めでたし、詞めでたし、初句もじ、いひしらずめでたし、ともともあらむは、よのつねなるべし」

宣長はこの歌をとても良いとしたうえで、「みよし野は」の「は」に注目して「みよし野の」や「みよし野や」だったら平凡だった、と評価している。

ここで注目すべきは、「の」や「や」に変えても「意」は変わらないが歌は平凡になる、という宣長の認識だ。歌の「姿」はたった一文字入れ替えただけで「麗しさ」がなくなってしまう、生きた言葉を捉える宣長の感受性を示した一節である。歌の「姿」に対する繊細な感性、これが「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という宣長の言語観なのである。

 

僕ら建築家は、空間のスケールやサイズにとても気をつかっている。それが空間の「姿」に出てしまうからだ。例えば和室を設計した際に柱の太さが1cmないし2cm変わった場合、機能にさして影響は無いけれど空間の質や緊張感が失われてしまうことがある。あるいは、8畳間の天井の高さは10cm高くなっただけでも、どこか居座りが悪いと感じることがある。何故かというと、その感覚は特に建築家でなくても僕ら日本人には染み付いたものだからだ。和室などに表れた「姿」(プロポーション)は、僕たち日本人には日常であり、何世代にもわたった空間の経験である。この日本人が作り伝えて来た伝統的な空間は、僕たちの生活に備わった財産であり共通の感覚を養ってきた。

先ほどの例に戻るなら、「阿呆」と「馬鹿」を日常の会話でいとも簡単に適切に使い分けているのは僕らの心に直結した言語となっているからであり、和室では天井の高さや柱の微妙なサイズに敏感に応じるのは身体に染み付いた感覚になっているからだ。言語であれ空間であれ、その「姿」は長い歴史の中で培われ形作られた。宣長が歌について「姿」の重要性を語るのは、言語のその発生まで遡ってみたときに現れた「姿」が、「意」よりも根源的だと気が付いたからである。だとするなら、僕らは同じ経緯をたどって「空間」を見る必要があるのではないだろうか? そんなことを思い描いているときに、丹下がなぜ空間の「姿」を第一として「美しきもののみ機能的である」というエッセーを書いたのか、その理由が解ったような気がした。

「機能、機能」と言う人は、「姿」に直接向かい合わず、空間と空間の「関係」を目指している。空間と空間をどのように繋げたら「使いやすいか?」にその神経が集中している。丹下が「美しきもののみ機能的である」とのエッセーで伝えたかったことは、古代から人間が本来持っている空間の「姿」に直接対峙するその感受性を忘れるな、ということではなかったのか。

丹下は、同じエッセーの中で機能主義者に対してこんなことを言っている。

「人の肉体を心地よくさせ、目を見はらせ、そうして精神を感動させる『美しさ』に背を向けているかぎり、彼らはに背を向けていたのである」

(了)

 

「分るとは苦労すること」について

大分以前の話だが、或る新聞の文化欄が小林秀雄の生誕百年を記念して特輯記事を組んだことがあつた。その記事のことを今でも忘れずにゐるのは、その中に小林が生前語つてゐたことに触れた箇所があつて、そのことについて暫し考へ込んだことをよく憶えてゐるからである。

確か見出しだか惹句だかに「分るとは苦労すること」とあつて、小林が生前よく口にしてゐたといふのは次のやうなことであつた―何でも苦労せずに手つ取り早く分りたいといふのは現代の病気で、分るといふことは苦労するといふことと同じなのだ。

このやうな言葉に接すると、大抵の人はこんな風に受止めるのではなからうか―大事な問題はさう簡単に分るものではない、苦労しなければ分らない、その代り然るべき苦労をすれば何れ分るやうになる、と。勿論、私も最初のうちはさう考へたが、もし考へがそこで止つてゐたら、やがてこのことは頭から消えて、この記事のことも忘れてしまつたであらう。

そのうちに、この考へ方はあまりにも常識的に過ぎるのではなからうか、小林秀雄がそんな凡庸なことを云ふだらうか、といふ思ひに捉へられた。すると、こんな思ひが脳裡をよぎつた―小林は、分りたかつたら苦労せよとか、苦労すればきつと分るとか、そんな次元のことが云ひたかつたのではなかつたのではないか、文字どほり、分るといふことは分らうと思つて苦労することと同義だと云つてゐるのではないか、敢へて云へば、苦労した結果分つても分らなくてもいいので、苦労するといふ体験そのものが大事なのだ、その体験が自覚されれば、それが分るといふことなのだ。

これは大袈裟に云へば私にとつて一つの啓示であつた。

或るとき小林の次のやうな言葉が眼に止つた

「凡そものが解るといふ程不思議な事実はない。解るといふ事には無数の階段があるのである。人生が退屈だとはボードレールもいふし、会社員も言ふのである。」(「測鉛Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第集所収』)

小林秀雄の全集はひととほり読んでをり、作品によつては繰返し読んでゐるから、この言葉にも出会つてゐた筈だが、読み流してゐたらしい。これが眼に止つたのは、右の「啓示」を得たあとだつたからである。今にして次の引用文の意味がよく分るのも同じ理由からである。

「骨折り損のくたぶれ儲けといふ事がある。これは骨さへ折れば、悪くしたつてくたぶれ位は儲かるといふ意味である。現実的な骨折りをすれば、くたぶれだつて現実的な内容をもつてゐる。その内容はいつも教訓に溢れてゐる。」(「批評に就いて」、同第3集所収)

小林秀雄の文章が難解だとはよく云はれることで、私も決して易しいと思つたことはないが、最近はさほど難解だとは思はなくなつた。と云ふよりも、これは分らないなと思つても、分らないことが分つたと思ふやうになつたのである。つまり、苦労して得たのは「くたぶれ」だけだつたとしても、それを「骨折り損」とは思はなくなつたと云ふことである。勿論、小林の文章を読むからには、小林の分つたところまで分りたいとは思ふが、分るといふことの「無数の階段」のどの辺に自分がゐるか、問題は常にそこにある。

分ることに無数の階段があるなら、分らないことが分ることにも無数の階段がある。例へば、小林の「モオツァルト」は難しくてよく分らないとは、西洋古典音楽に関する知識が皆無に近い読者甲も、一応の知識があつて主要な作曲家それぞれの曲のイメージが想ひ浮べられる読者乙も云ふであらうが、甲と乙では難しさや分らなさの度合と質がまつたく異る筈である。しかし甲にしても乙にしても、諦めずに苦労して、なぜ自分には分らないのか、その依つて来る原因が摑めたなら、それだけでも相当なことが分つたことになるだらう。少くとも一種の自己認識を得たことにはなるだらう。それなら確かに「教訓に溢れ」た「くたぶれ」を「儲け」たのである。

小林秀雄の文章が一般に難しいと思はれてゐるおそらく一番の理由は、批評文であるのに物事を理路整然と説明してくれる文章ではないところにあると云つてよいであらう。小林の文章は自身の経験を読者と分たうとする、つまり読者の経験と想像力に訴へて直接悟らせようとする。批評的散文で書かれてはゐるが、発想は詩人の発想なのである。従つて小林の文章が分るか分らないかは、読者の方に自らの経験に照して思ひ当る節があるかないか、或は読者の想像力が刺戟されて小林の体験的知覚にまで迫れるか否かに依る。

最近、小林と三島由紀夫の対談「美のかたち」を読返す機会があつたが、これも以前は読み流してゐた次の一節が新たに印象に残つた

「……ドストエフスキイの小説を愛して、何度も読んでるとね、ドストエフスキイの魂のフォームつていふものが判るでせう、ああ、これだ、といふ。それには言葉はないですよ。それを言葉にしようと思ふと、一つの別のフォームの発明を要する……。人に説明するつていふことは、これはフォームを発明する事ではない。人の判断に訴へることなんだから。説明ではダメなものがあるでせう。やつぱりドストエフスキイの精神のフォームを画家みたいに描いて、一目で見えるやうにする工夫が要るわけだな。」

小林は少し前の所でかうも云つてゐる

「フォームはフォーマリズムには関係がないのです。フォームの形式といふ訳はいけないですね。姿と訳した方がまだいい。言葉は詩となる時だけフォームを持ちます。」

のちに小林は「本居宣長」の第三十二章で、荻生徂徠の「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」に触れて、「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」が詩であり、「言語は物の意味を伝へる単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と云つてゐる。

以上の引用文から分ることは、小林自身、散文を書いてゐても、文章表現に働く詩の機能を常に自覚してゐたといふことである。

ところで、これは余談だが、このやうな小林秀雄の文章に、丸谷才一がときどき苦情を云つてゐたのを憶えてゐる。小林の文章は気合で云ひ切つてしまふことの多い文章で、それは散文本来のあるべき姿ではない、かういふ文章を教科書に採用したり、試験問題に使用するのは考へものだと云ふのである。このことについて、長年小林の著作の編輯に携はつて来た新潮社の池田雅延氏から面白い話を伺つたことがある。或るとき何人かの編輯者が小林秀雄を囲んで懇談してゐたが、談たまたま丸谷の発言に及び、皆がまつたくもつて怪しからんと憤りの口吻を漏らすと、当の小林が、いや、丸谷の云つてることは正しい、と云つたので、皆は呆気に取られたと云ふのである。そのとき小林は、まあ、丸谷には俺の文章は分らんだらう、とも云つたさうである。

小林は既に「国語といふ大河」(同第21集所収)といふエッセイで、自分の文章が試験問題や国語教科書に向かないのは「当人が一番よく知つてゐる」と書いてゐたから、編輯者を前にして奇を衒つてみせた訳ではないだらう。それでも往年小林の文章は多くの教科書や試験問題に採用された。その辺の経緯については正直に書いてゐる

「……国定教科書によつてたゝき込まれた教科書神聖の実感は、今もなほ、私の心に厳存してゐるらしく、自分の文章が国語のお手本になるのは名誉なことだと思ふのである。さて、諾否を求められた、こま切れにされた自分の文例がいつも気に食はない。私だつて、もう少しましな文章は、他に書いてゐる、と考へてみるが、こちらからそんなことを進言する筋もない。さりとて、はつきり拒絶する理由もない。とくに、教科書にのるのらぬは、本の売行きにも大いに関係があることを考慮に入れゝば、なほさらのことである。気が進まぬまゝに、放つておくと催促がくる。……えゝいめんだうだ、みんな諾にしておけ、で出してしまふ……。」

余談はさておき、「分るとは苦労すること」といふ言葉に触発されて、以上私なりに苦労してみたが、最後に、特に苦労した訳ではないが何年も掛つて「分るといふことの無数の階段」をほんの少しだけ昇つた話を書いて終りにする。

それは小林が「高野山にて」と「偶像崇拝」(ともに同第18集所収)の冒頭で触れてゐる高野山明王院の「赤不動」に関するもので、小林はこれを「つまらぬ絵」だとはつきり云ひ切つてゐる。園城寺の「黄不動」にも劣るし、青蓮院の「青不動」とは比べものにもならないと云ふ。三十年以上も昔これを初めて読んだとき、私はそれらの絵の存在すら知らなかつたから、ふうん、と思つただけで、そのままになつてゐた。二、三年前、家内が京都に行く用があり、青蓮院にも行くと云ふので、ふと思ひ出し、もし見られたら「青不動」をよく視て、写真を売つてゐたら買つて来るやう頼んだ。家内は、護摩の煙に遮られてよく見えなかつたと云ふ。私は写真を見ただけだが、一応のイメージは得た。つい最近、テレヴィジョンの或る番組を見てゐたら、高野山の「赤不動」が映つた。たまたま録画してゐたので、小林の言葉を思ひ出しながら繰返し視てみたが、何だか顔が漫画のやうであまり怖くない。どちらも本物を見た訳ではないから、小林の言葉が分つたとは云へない。「黄不動」は写真すらまだ見てゐない。今のところこれだけの体験である。存在すら知らなかつた頃に比べれば、三十年以上掛つてほんの少しだけ階段を昇つた訳だが、小林秀雄の言葉の力がこちらの関心を途切れさせなかつたのだと思つてゐる。

(了)