奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年五月号

発行 平成三十年(二〇一八)五月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

弥生朔日、さる3月1日は、小林秀雄先生のご命日であった。

今年も、梅香るなか、ご息女の白洲明子はるこさんの墓参に塾生有志がお供をし、その後、山の上の家にてゆっくりと歓談させて頂いた。

今号では、その貴重な一日について特集を組み、橋本明子さんと松本潔さんに寄稿頂いた。

橋本さんは、「ごく普通の父娘の暮らし」の中にあった、数々の活き活きとしたエピソードを伺いながら、父親としての小林先生が、「生涯、家族を守った」姿を思い浮かべる。そこに、先生の文章の中でもひしひしと感じられる「人として大切にすべきこと」を感得された。

松本さんは、ご自身の実生活や実業家としての実体験も踏まえ、「小林先生の『実行家の精神』と、家族に対する深い責任感と愛情」を体感された。「人形」や「徳利と盃」という先生の作品は、今回、直に触れられた「家庭人としての小林先生」と響き合い、「ご家庭の空気が見えてくる気さえ」したという。

 

 

巻頭随筆には、森康充さんが、医者としての立場で、医者としての宣長さんについて、寄稿された。一見カルテのごとき関連情報の羅列に見える宣長さんの「済世録」について、「単なる帳簿」ではなく、「宣長の生きた証の一つである」という。小林先生の文章を長年愛読されてきた医師としての直観と洞察を味読頂きたい。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、溝口朋芽さんと山内隆治さんに寄稿頂いた。

溝口さんは、「本居宣長」の冒頭にある、謎多き「遺言書」をテーマに選んだ。「源氏物語」の「雲隠の巻」で宣長が出会った「死の観念」は、「古事記」の「神世七代」へと発展し、上古の人が千引岩ちびきいわを置くなかに、「生死を観ずる道」として完了した。その完了する、という行為を言葉にしたものが、くだんの「遺言書」ではないかと思いを馳せる。

 

山内さんの、山の上の家の自問自答は、上田秋成による本居宣長への難詰を、小林先生が「架空の問題」と呼んだことについてであった。その後も思索は続き、「本居宣長」の脱稿後、先生が「変な気持ち」と呼んだ内容に及び、さらに、清々しい「好、信、楽」の道へと続いていく。

 

 

「美を求める心」の飯塚陽子さんは、パリ在住である。カルチェラタンを、「群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」あるように歩き続けながら、詩人ボードレールが、うごめく都市まちについて感じた「感覚的実体」、そして「整調された運動」を直覚する。その横を早足で通り過ぎ去ったのは、小林秀雄先生ではなかったか。

 

風薫る皐月がやってくる。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十二 言葉の行為

 

1

 

前々回以来、小林氏が言った「『源氏物語』という詞花による創造世界に即した真実性」ということに向きあっている。ここにもう一度、第十八章から引用する。

―宣長は、「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

「物語」は、今日でもふつうに耳にする言葉だが、文学が論じられる場では一定の意味合を帯びて用いられる。『日本国語大辞典』等によれば、「物語」とは日本の文学形態の一つで、作者の見聞または想像をもととして、人物・事件について誰かに語る形で叙述された散文、である。狭義には平安時代の作り物語と歌物語とを言うが、「歌がたり」も「歌ものがたり」も同じであり、意味するところは歌についての物語、あるいは歌にまつわる物語である。

今日、最もよく知られている歌物語は「伊勢物語」だと言えるだろうが、その「伊勢物語」は、歌の詞書が長文化することによって生まれた、すなわち、歌に散文的要素が加わり、その散文的要素が膨らんで生まれた形である。したがって、「伊勢物語」は、「歌についての物語」というよりは「歌にまつわる物語」なのだが、いずれにしても宣長が「源氏物語」を歌物語として見る意味合は、「伊勢物語」が世間で歌物語と呼ばれているのとは大きく異っていた。つまり、「源氏物語」は、作中に見える歌の詞書が長文化し、それらが繋ぎ合されて五十四帖の長篇になったのではない。「源氏物語」という五十四帖の長篇物語それ自体が一個の歌なのであり、そういう意味において「源氏物語」は「歌物語」なのである。小林氏は、紫式部が最も心をこめて描いた光源氏と紫の上との恋愛で、この二人が詠み交す歌は、「物語」という大きな歌から配分された歌の破片である、というふうに宣長は読んだと思われると言っている。

そこを、もうすこし踏みこんでいけばこうだ。小林氏は、光源氏と紫の上との歌に対する宣長の読み方を示した後に、

―そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

と言っている。この「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉は、「紫文要領」巻下にあるのだが、そこではこう言われている。

―歌道の本意を知らんとならば、この物語をよくよく見てその味ひを悟るべし。また歌道の有様を知らんと思ふも、この物語の有様をよくよく見て悟るべし。この物語の外に歌道なく、歌道の外にこの物語なし。歌道とこの物語とは、まったくその趣き同じことなり。……

これに対して、問者が問う。

―問ひて云はく、この物語と歌道と、その本意まつたく同じきいはれはいかに。……

宣長が答える。

―答へて云はく、歌は物のあはれを知るより出で来、また物のあはれは歌を見るより知ることあり。この物語は物のあはれを知るより書き出でて、また物のあはれはこの物語を観て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣き一つなり。……

こういうふうに見てくると、宣長が「源氏物語」こそが、また「源氏物語」だけが、本質的な意味で歌物語だという理由は、「源氏物語」のみが「もののあはれを知る」という、歌と同じ制作動機によって書かれている、そこにあると言えそうだ。

 

こうした宣長の見解を背に、小林氏は言う。

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品からき出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉をもてあそぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

そしてこれに、前回引いた次の文が続くのである。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。……

宣長が、「源氏物語」を、本質的な意味合で歌物語と呼んだもう一つの理由は、「源氏物語」の書かれ方、言葉の用いられ方と、歌の詠まれ方、歌の言葉の用いられ方、この双方の「趣き」が、「同じことなり」ということだったようだ。

それがどういうことかと言えば、紫式部は、「源氏物語」で、「もののあはれを知る」ということを濃やかに描いて読者に知らしめようとしたのだが、それを観念的に、論理的に書き表すことはできなかった、なぜなら、「あはれ」は、要は感情であるが、この感情は、「説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」、だから、この現実の感情経験の伝達は、筆者の表現力如何にかかっている、宣長は、それを逸早く感知し、紫式部の示す「もののあはれ」を知ろうとすれば、「もののあはれ」の意味を湛えた「源氏物語」の詞花の姿から直かに感知するほかないとして、「源氏物語」の詞花を徹底して翫び、紫式部が「源氏物語」で馳駆した表現法は、歌人が歌で訴えるときの手法とまったく同じだと読み取った、ということなのである。

では、読む者に、「もののあはれを知る」ということを納得させようとして、紫式部が馳駆した表現力とはどういうものであったか。それは、詞花の工夫であり、詞花に演技を課すということであったと小林氏は言うのだが、ならばその、「詞花に演技を課す」とはどういうことであったのか。前回はひとまず、「紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴った」という言い方をしたが、より実態に即して言うなら、小林氏は、この擬人法を演劇畑から借りたのではなく、音楽の世界の「同じ趣き」に思いを致してこう言ったと思われるのである。

 

2

 

小林氏は、昭和二十五年(一九五〇)四十八歳の四月、「表現について」を発表し、そこでこういうことを言った。

日本語の「表現」は、英語やフランス語の「expression」の訳語だが、

―expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑みかんを潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中味を出すという意味の言葉だ。若し芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から喧ましくなったという事に注意すれば、expressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。……

浪漫主義は、一八世紀の末からヨーロッパに興った芸術上の運動である。それまでの古典主義の様式・形式重視に反抗し、感情、空想、個性、自由、自然といったものの価値を主張した。文学ではルソー、ゲーテらを先駆とし、バイロン、ユゴーらに代表されるが、文学のみならず絵画、音楽と、各方面で展開され、音楽にはこういうことが起った。

―浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかという処にあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。……

そこへ一九世紀の半ば、ワグナーが登場する。

―純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、遂にワグネル(ワグナー)に至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならぬと観ずるに至った。この音の「行為」が舞台に乗らぬ筈はない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。……

Tatはドイツ語だが、ワグナーは、音楽という芸術の現象は音のTat、「行為」である、音が集って一つの劇を演じる、音という役者は和声という演技を見せてくれるのだ、そう観てとって、そこから「タンホイザー」「ニーベルングの指環」「トリスタンとイゾルデ」……と、相次いで舞台に載せたと言うのである。

 

小林氏の「本居宣長」を熟視し、写し取ることを主眼とするこの小文に、宣長とは縁もゆかりもないはずのワグナーが出てきたことに、戸惑ったり首を傾げたりされる向きも多いと思う。が、小文のもうひとつの主眼は、「本居宣長」の訓詁注釈にある。小林氏は、「源氏物語」の迫真性は、紫式部が詞花に課した演技から誕生した子であると言ったが、物語の作者が言葉に演技を課すとはどういうことか、そこに思いをひそめているうち、私の思考は自ずとワグナーへと飛んだのである。

 

この連想は、私としては少しも唐突でない。小林氏は、「本居宣長」で、人間にとって言葉とは何か、そこをあらゆる角度から探究したのだが、この探究課題は氏の六十年にわたった文筆活動に一貫していたものであり、氏はその課題をボードレールから手渡されたという意味のことを前々回、「詞花を翫ぶべし」で書いた。今回ここで注視するワグナーは、そのボードレールに言葉とは何かの閃きをもたらした音楽家なのである。再び「表現について」から引く。

―ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった、それがボオドレエルであります。……

―音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠ヴィクトル・ユゴーの表現が、余りに文学的である事に気付いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多あまたの芸術の綜合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気付かせたという事だ。……

「音楽の雄弁」とは、先に言われていた「どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという表現力の万能」、すなわち、音楽の並外れた暗示力ということである。「詩の饒舌を自覚した」とは、ユゴーを頂点として当時の詩が、感情や空想の自由な告白に夢中になったあまり、ありとあらゆる雑多の観念を詰めこんで散文同様の饒舌に走ってしまっていた、そこに気づいたということである。そうではない、詩には詩の役割がある、音ではなく言葉を用いる詩も、音楽の暗示力に倣うのだ、そうすれば、これまで言葉では表現しきれなかった領域にも、詩なればこその暗示力で到達できるにちがいない……。ボードレールは、それまで、自分たちが生きているこの世には、言葉ではどうしても表現しきれない領域がある、どんなに精緻に詩や文章を書き上げても、言葉の及ばない領域があるということを思い知らされ、苛立っていた。それがそうではない、ワグナーが音楽で音に演技させているように、自分が言葉に演技をさせれば、言葉はその領域にも及ぶのではないか、言葉の持っている意味や観念を超えて、音楽の音のように感覚的実体として読者に働きかける、言葉にそういう演技をさせることで、詩は「沈黙の言葉」としての表現領域を切り開くことができるのではないか、ボードレールはそこに気づいたというのである。

こうしてボードレールは、象徴詩と呼ばれる詩法を創始した。その血脈を最後に輝かせたヴァレリーの言を借りるなら、「音楽からその富を奪回しようとした」ボードレール以下の詩人は、

―ワグネルが音楽を音の行為Tatと感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。……

これを、詩の側からばかりでなく、小説の側から見れば事はいっそうはっきりする。

―対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見る様な錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。……

ボードレールは、ワグナーから啓示を受けて、言葉のTat「行為」に詩を預けた。紫式部も言葉の「行為」に「もののあはれ」を託した。紫式部が伝えようとした「もののあはれ」にも、どんなに言葉を尽しても伝えきれない機微があった。だが、紫式部には、幼時から身につけた歌があった。歌を詠むのと同じ手順、同じ心得で、ということは、「歌道」に則って「源氏物語」を書いた。これが、紫式部が詞花に演技を課したということの意味である。ワグナーが言ったTatとは、和声の行為である。「和声」とは、複数の和音の連結である。歌も、五七五七七の言葉の和音である、「源氏物語」は、そういう和音の連結なのである。言葉が相集って、一つの「行為」を自ずから演じているのである。

つい先ほど引いた小林氏の文、「詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに……」と、「対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では……」をつないで読み替えれば、世に行われている物語の言葉は、専ら読者の観念を刺戟する目的のための記号である、物語のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、読者の頭だけが働く、肉体は休んでいる、だが歌では、言葉は意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける、つまり歌という現実の運動は、読者の全体を動かす、読者は、読者の知性や感情や肉体が協力した詩的感動をもって直接歌に応じる……となる。

まさか宣長が、ましてや紫式部が、こういうことをこういう言葉で考えたり言ったりしたはずはないのだが、小林氏は、まちがいなくこう考えただろうと私は思う。ここまで考えて、宣長が、「源氏物語」こそは、「源氏物語」だけが、歌物語だと言った真意を得心したであろうと思う。

 

3

 

ワグナーは、一九世紀の人である。本居宣長は一八世紀の人である。両者の間に交渉はない。ましてや紫式部は一〇世紀から一一世紀初めの人である。紫式部の心中を宣長が推し量り、なんらかの確信を得ることはあるだろう、だがそこに、ワグナーを割込ませるとは、何がなんでも乱暴ではないか、そういう声も聞えてはいる。

だが、小林氏は、「表現について」でこう言っている。

―犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。併し芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

小林氏の批評は、以後も、いかに生きているかの認識・自覚としての表現、そして、いかに生きるべきかの実験としての表現で、「本居宣長」まで一貫していた。「本居宣長」第十八章ではこう言われる。

―彼(宣長)の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。

第四十九章に至ると、こういう言葉に会う。

―宣長が「上古言伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったという通念から、彼は全く自由であった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えていれば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人性の基本的構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。……

そして、最後の第五十章では、こう言われる。

―宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発ハジメの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

「ふり」とは、「表現」である。「表現」の姿、形である。「人間性の基本的な構造」「人性の基本的構造」「人間の変らぬ本性」……いずれにしても、小林氏が批評を書くことで追究したのは人生いかに生きるべきかであったが、それを考えるために、終始注意を払ったのが、人間は、特に人間の心というものは、どういうふうに造られているかであった。そういう小林氏の眼には、紫式部も本居宣長も、ワグナーもボードレールも、洋の東西、時代の新旧を問わず、「人性の基本構造」を見究め、それを表現することに生涯をかけた先達と映っていたはずである。

(第十二回 了)

 

ブラームスの勇気

十二

ある時、小林秀雄は、「私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家というものは……」と吉田秀和に語ったことがあったという。ただそれが、「独創的な思想家というものはもう出つくした」ということだったのか、「自分がそうでないことがわかった」ということであったのか、その先ははっきり思い出せないと吉田秀和は回想している(「演奏家で満足です」)。

小林秀雄が言った「演奏家」を「批評家」に、「独創的な思想家」を「作家」に置き換えてみれば、この発言は嘗て彼が志賀直哉に書き送った「僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました」という表明の一変奏となるだろう。だがこの発言は、戦前になされたものではない、「モオツァルト」を発表したさらに後になってからのものである。ならば、この「演奏家」は「コメディ・リテレール」座談会で言われた「平凡な解説」者に、「独創的な思想家」とは「早く獲物がしとめたい猟師」としての批評家に置き換えてみるべきだろう。そうすれば、前者の「原文尊重という智慧」、すなわち「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る」という批評の方法が、主観的な解釈を避けてひたすら原曲に肉薄しようと努める演奏家の態度に相似したものであることがわかるはずである。しかも小林秀雄の言う「演奏家」は、ただ他人の音楽を奏でる者の謂ではなかった。彼に言わせれば、作曲家モーツァルトもまた、訓練と模倣とを旨とする「演奏家」であったからである。

 

彼の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。彼が大即興家だったのは、ただクラヴサンの前に座った時ばかりではないのである。独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。(「モオツァルト」)

 

モーツァルトの音楽は、当代の様々な音楽の模倣に過ぎないというのではない。またそれは、あらゆる模倣の訓練を終えた後に新たに書き始められたと言っているのでもない。その音楽の掛けがえのない独創性は、モーツァルトが当代のあらゆる音楽を模倣し尽くした、まさにその瞬間に生じたと言っているのである。、文章は次のように続く。

 

模倣は独創の母である。唯一人ほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える程、独創という観念を化物染みたものにして了った。

 

小林秀雄は、「独創的な思想家というものはもう出つくした」と言おうとしたわけでも、「自分は独創的な思想家でないことがわかった」と卑下したわけでもなかっただろう。他人の歌をどこまでも上手に模倣することで自ずと表れる独創性、それがあれば自分は満足だと言ったのである。「ゴッホの手紙」から「『白痴』について Ⅱ」を経て「感想」へと至る「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の批評の軌跡がそれを証している。彼が振り捨てたのは「独創」ではない、「独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図」であった。

この発言に接した吉田秀和も、前掲の「モオツァルト」の一節を敷衍しながら、小林秀雄が「演奏」という一語で表したものは、随分前から彼の文章に出ていた「創造と伝統」の問題についてのある中核的な思想、あるいは内的な手ごたえを指すと書いている。だがそれと同時に、「近年のは、少し様子がちがうように感じられる」とも言い、「そこに何か、それまでなかったものが加わった」と言う。そしてもし晩年の小林秀雄の思想というものが語られるとすれば、この「演奏」という一語で彼が表したものと無関係ではないだろうと述べている。

これまで見てきたように、「一番立派な解説(演奏)が一番立派な批評でもある」という考え自体は、「ドストエフスキイの生活」を書き終えた頃から既に小林秀雄の裡に胚胎していたものであった。しかし彼が語った「私はもう演奏家で満足です」という言葉(おそらく彼はこの言葉通りに語ったのだろう)には、「演奏家」とは何か、「独創的な思想家」とは何かという問題以上に、「演奏家」と「独創的な思想家」というこの二つの極を巡り巡った末に、自分は畢竟「演奏家」であるという事実へのはっきりした自覚と肯定、そして「演奏家」として生涯を全うすることについての最後の覚悟が込められていたはずである。発言の重点は、「私はもう演奏家で満足です」の「もう」と「満足です」の二語にあった。吉田秀和が感じた「それまでなかったもの」とは、小林秀雄のこの最後の自覚と覚悟のニュアンスではなかったか。

小林秀雄が吉田秀和にそれを語ったのが何時のことであったのかは定かでないが、吉田秀和のこの一文が第三次小林秀雄全集の月報に寄せられたのは、昭和四十二年九月である。五味康祐を相手に「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語ったのは、同じ年の三月であった。「本居宣長」の連載第十二回が発表された頃である(『新潮』四月号)。ちなみにその前の第十一回が出たのは前年の『新潮』十月号で、この二回の間には半年間の空白がある。同誌昭和四十年六月号より開始された連載は、最初の四回までは毎号発表されたが、その後は基本的に隔月で発表され、時にそれ以上の期間を挟むこともあったが、第十一回と第十二回の間の半年間は、十一年半続いた連載の中で最初の大きな中断であり、かつ最も長い間隙であった。

その「本居宣長」第十一回と第十二回は、内容的にみても最初の大きな節目となっている。第十一回は、「随分廻り道をしてしまったようで、そろそろ長い括弧を閉じなければならないのだが……」とあるように、宣長を語ろうとしてまずは契沖、続いて藤樹、仁斎、徂徠と語り継いでいった長大な序論の結語にあたる章である。その「長い括弧」を閉じて、いよいよ第十二回から本論が始まる。宣長の「もののあはれ」論である。「本居宣長」の文体が、ブラームスの音楽のように肌理が細かくれるようになっていくのも、このあたりからだといっていいだろう。妹の証言によれば、その前年に行った講演の中で、彼は「源氏物語」を読まなければ宣長のことは恥ずかしくて書けない、これから本気で「源氏物語」を読むつもりだと語ったそうだが、その後半年間何も書かなかったのはそれを実行したからだという(高見澤潤子『兄小林秀雄との対話』)。いずれにせよこの空白は、本居宣長という大海へいよいよ飛び込もうとした小林秀雄が、その大海原を前にして一つ大きく息を吸い込み手綱を締め直すための沈黙期間であった。「『本居宣長』はブラームスで書いている」という発言は、その沈黙を破るのと同時に行われたということ、そしてこの時、彼が次のような確信を懐いて飛び込んだということが肝心なのである。

 

彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感と呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。(「本居宣長(十一)」)

 

これが、小林秀雄が語った「演奏家」という道であり、「演奏家」であることの「満足」であった。ここで言われた「彼等」とは、「長い括弧」の中で辿られた中江藤樹から本居宣長へと至る「貫道する学脈」を指すが、小林秀雄の中ではその「一と筋」に、ブラームスもいたのである。そして「モオツァルト」で提示された「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」という命題が、次のように再現される。

 

彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚もこうしようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであった……(同前)

 

「音楽談義」の最後で、小林秀雄は、もう自分は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことだと語っていた。それは、一面非常な感動と敬意を覚えながらも結局自分は愛さないと言明したワーグナーの話に続けて言われた言葉であった。音楽史上、この芸術家こそ、「独創的な思想家」たらんとした最大の野心家であっただろう。とすれば、「私はもう演奏家で満足です」と語った小林秀雄は、「私はもうブラームスで満足です」と語ったことにもなる。そのブラームスは、ベートーヴェンという古典を愛し、これを模傚することに生涯を賭した作曲家であった。ブラームスにとっては、それがということであった。少なくとも小林秀雄はそう考えていたはずだ。

小林秀雄がそのブラームスにいつ頃から心を寄せるようになったのか、それも定かでない。だが「独創的な思想家」としてではなく「演奏家」として、ワーグナーではなくブラームスとしての批評の道を全うしようとした小林秀雄の最後の自覚と覚悟が定まったのは、おそらく、「本居宣長」の連載を開始する二年前、「感想」を中断して旧ソ連へ渡った昭和三十八年六月から十月にかけての欧州旅行でのことであったと思われる。敢えて言えば、それは、彼がペテルブルクの街中を流れる早朝のネヴァ河をひとり眺め、続いてバイロイトで接したワーグナーの「ニーベルングの指輪」の最終場面においてなされたと思われる。

(つづく)

 

うごめく都市まち

陰鬱なパリの秋が深まる頃、理由もなくカルチェラタンを彷徨った日があった。今考えると、季節の変化についてゆけず少し元気を失くしていたのだと思う。秋が来て、街から一気に光と色が消えたように感じた。鮮やかで眩しい夏が心底恋しかった。このままでは自分からも光と色が消えてしまう。行きたい場所もなかったけれど、その日はとりあえず街を歩き回った。

パリの人は、歩くのが早い。遠方に住む友人と再会した時「随分歩くの早くなったね」と指摘されたので、私自身、足取りだけはパリジェンヌになっているらしい。ともあれ、パリジャン・パリジェンヌの、焦っているような、自信に満ちたような、あの勢いある足取りは、何とも言えない「他人」感を放つ。大通りを歩くと、動き回る無数の「他人」に巻き込まれてゆくような、しっかり足を踏ん張らなければ転んでしまうような、不思議な感覚を覚える。

その日は特に、通りに溢れる「他人」がどぎつく感じた。自分から半分、光と色が消えていたからかもしれない。通行人が冷たい波を作っていた。途中から私は、その動きの中に巻き込まれるために歩いているような状態になった。「一人の陰気で孤独な散歩者が、群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」(1)……嫌でもこの言葉が浮かんだ。偉大な詩人と自分を並べるつもりなど毛頭ないが、文字通り一人で通行人の波に飲まれ歩いていた私は、ああ、ボードレールは確かにパリにいたのだ、それだけは確信した。

 

J.G.Fへと記された『人工天国』の献辞で、ボードレールは群衆を浪にたとえ、街を海にたとえた。このメタファー自体は決して斬新なものではないが、plongé(沈められた、浸りきっている)という過去分詞には、詩人の革新性を感じる。沈むからには深さがあり、その深さは「沈ませる」「沈められる」という主客の関係が生まれる空間となるのだ。フランス語で multitudeは群衆を意味するが、同時に数の大きさも含意する。無数の匿名の個人が深さのある波を作り、その中に詩人が沈み込むとは、どういうことだろう。

批評『現代生活の画家』においては、「完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波打つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住いを定めることは、はてしもない歓楽である」(2)と、遊歩者フラヌールのあり方を語る。「波打つもの」とは群衆を指すのであろう。やはり、遊歩者フラヌールは無限に限りなく近い「数」としての群衆が作る、「運動の」「中に」入る必要があるようだ。ボードレールはパリを詩的探究のテーマにした詩人であるが、なぜ都市を観察することが、対象を固定することや対象と距離をとることに矛盾するのだろう。なぜ、自ら移ろう対象に飛び込むのか。

詩篇『悲シミヲサマヨフ女』では、愛する女性を象徴する穏やかな明るい海と、その果てにある輝く楽園との対比として、都市は暗黒の海原のイマージュに重ねられる。「語れ、きみの心は時に飛び立つか、アガートよ、/穢らわしい都会の真黒な海原を遠く離れ、/処女おとめのように青く、明るく、深く、/燦然と光の輝く、もうひとつの海原へと?/語れ、きみの心は時に、飛び立つか、アガートよ?」(3)すべての詩篇を挙げることはできないけれど、ボードレールの作品の中で都市は、しばしば広大で深い海のイマージュを纏う。韻文詩では、このように負の価値が付加されることが多いが、散文詩、例えば『すでに!』では、海は「己の裡に、かつて生きた、いま生きている、これから生きるであろうすべての魂のもろもろの気分と、断末魔の苦悶と、法悦とを蔵し、自らの戯れ、身のこなし、怒り、微笑によってそれらを表象するかに見える」(4)莫大な場所であり、それは都市と言ってもよさそうだ。

こうした海の広大なイメージとは対照的に、詩篇『七人の老人たち』では「Fourmillante cité蟻のように人間のうごめく都市」(5)、『小さな老婆たち』では「le fourmillant tableau蟻のように人がうごめくパリの画面」(6)という表現が、鮮烈な都市の映像を作る。都市が、莫大な量の液体の流動だけではなく、無数の固体の運動の総体として表れる。極小と極大、固と液を行き来して都市を語るこのダイナミズムは、それだけで大変魅力的ではある。しかし最も興味深いのは、「数」と「運動」に本質が見え隠れすることだ。この二つが、都市からポエジーを抽出する鍵になるだろう、間違いない……。

パリとは、都市とは、一体ボードレールにとってどんな外部世界であったのだろう? なぜ詩人は、永遠に時をめぐる神話から刻一刻変わりゆく都市へ、詩の舞台を引き下ろしたのだろう? なぜパリに拘り、同時に保守的であり革新的であるような、複雑な詩作に挑まなければならなかったのだろう? ボードレールに限った話ではないが、パリは、とりわけ19世紀、文学的探究の場所であると同時に探究の対象そのものだった。「匿名の群衆」が誕生した時代において、都市は、自己や他者について、自己を取り巻く外部世界について、思索する場所でもあったはずだ。歴史の移り変わりの中に生きることを引き受けた詩人は、詩が祈りや賛美であった古代への憧れを胸に、アクチュアルなパリを見詰め、考え続けたに違いない。そんな思考の中から出てきたのが「数」「運動」といった概念だったのではないだろうか……。

「数」や「運動」と言えば、『人工天国』に、こんな一節がある。「文法、無味乾燥な文法そのものが、何かしら降霊の呪術のようなものとなる。語たちは肉と骨を身につけて蘇生する。名詞はその実質ゆたかな荘厳さの裡に、形容詞は、名詞にかぶさって上塗りのように色づける透明な衣服として、そして動詞は、文を始動させる、動きの天使さながらに」(7)。ジャン=ピエール・リシャールは、著書『詩と深さ』でこの文章を引用し、名詞が深さを、形容詞が水平に広がる透明を、動詞がそうした構造に運動を与えると解説している。これは、ボードレールの言語世界とポエジーとを繋げる、核心的な指摘であるように思う。ボードレールは撞着する形容詞を並べるのを好むけれど、それも当然であって、撞着する語々はその落差ゆえ、動詞の生む運動をより大きく空間に拡げる役割を果たしている。作品を読むと、それがよく納得される。

「詩人は、[…]言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている」(8)と小林秀雄は言う。詩は、それがどんな主題を持とうとも、言葉の生々しさに触れ運動を与えることによってしか作りえないだろう。数があり韻があれば、直截的な意味で運動は生むことができる。しかし詩的言語の本質さえ保存されていれば、散文でもそれは可能だ。それを実現したのがボードレールその人である。散文詩集『パリの憂愁』は一見詩人のパリ観察録のようであるが、ボードレールはパリの「描写」を目指したわけでは決してない。この作品が詩集たりえるのは、「表現エクスプレシヨン」による「表象ルプレザンダシヨン」がそこにあり、言葉がそれらに運動空間を与えているからだろう。

なるほど、詩的言語という明瞭には把握することのできない体系を知性と想像力によって構築、それに則って己の思想を「表現」した詩人がボードレールだったのだ。ここまで考えると、パリという都市を介在させてこそ、彼は詩作をなしえたのだと分かる。都市のもつ「数の夥しさ」や「群衆のうごめき」はボードレールの詩的言語に生命を与える要素であり、詩人の求めるポエジーが抽出される場所だったのだ。海が本質的に深さや透明、運動を伴うものだとすると、そのイマージュのもとに描かれる都市が、リシャールの指摘するような言語世界によって再構築されるのも不思議ではない。

「数」と「運動」が焦点となったけれど、これは群衆のうごめく近代都市の性質であると同時に、詩の本質でもある。前者は律動を生む音節であり、後者は日常の言葉が詩的言語として生まれ変わるための条件だ。都市の都市性と詩の詩性は、こうやって繋がるのか……空恐ろしい感動に襲われる。匿名の、無数の個人がうごめくパリの街で、ボードレールはポエジーを抽出し、小林秀雄の言葉を拝借するなら「認識」であり「自覚」である「表現」を目指したのだ。脈動する街に投げ込む身体と、遊離して観察する眼力の両方を駆使して、「表現」へと向かったのだ。ロマン主義の遺産を背負いながら近代都市の海原に飛び込んだ詩人の生き様に、21世紀のパリを散歩するだけの私は、ただ畏敬の念を覚える。

小林秀雄は、「[…]一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」というボードレールの格言を引用し、詩作の根本に言及する。「詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。」(9) ボードレールの異様な明晰さは、詩人として必然だったのだろう。ラマルティーヌと違い感傷的な共感を徹底して拒むのも、ボードレールらしさだ。

ランボーが神と崇めたこの詩人は、まさに詩の神でありながら、自分が直に触れる世界をこそ大切にした。うごめくパリの街で知性を研ぎ澄ませ、量と質とを統合するイマージュを創り出し、そこに街から抽出したポエジーを包み込んだ。やわらかな光が心地よい、穏やかな春が来た今、新たな気持ちでパリの街へ繰り出したいと思う。春も、夏も、秋も、冬も、ボードレールが自分の足で歩き回った街だ。気まぐれな散歩がここまで私を翻弄してくれるのだから、歩けば歩くほど何かに出会えるだろう。書き留めておきたくなるような出会いが訪れることを、こっそり期待している。

 

(1) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.198
(2) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.164
(3) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.152
(4) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.108
(5) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.200
(6) 同上、P.206
(7) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.246
(8) 小林秀雄『表現について』(「小林秀雄全作品」第18集、p.44)
(9) 同上、(同p.41)

(了)

 

小林秀雄先生のご命日

3月1日、小林秀雄先生のご命日の墓参に参加させていただきました。

お亡くなりになったあの日の事は、その後数ヵ月間にも渉った新聞雑誌上の追悼記事に加えて、不思議な事ながら、私個人がその日職場であった事や帰宅して妻と話した内容も含めて、明瞭に記憶しております。昭和58年(1983)の事でした。以来、今年で丸35年となります。

何年か前から、施主でいらっしゃる小林先生のお嬢様・明子はるこさんのお供をして、池田塾塾生有志がお墓参りに参加させて頂いているとは聞いておりましたが、私自身は一昨年も昨年も都合がつかず、ご命日にお墓参りするのは今回が初めての経験です。

 

30年ほど昔の私個人のお話になります。

父母が亡くなってから年月が流れ、故郷の町に住む者が誰も居なくなってしまった。兄弟6人で話し合って、次男坊であったけれど私が松本家の相続をすることとなり、故郷・北海道厚岸町から当時私が暮らしていた仙台市にそっくりお骨を移転し、その管理を私がしていく事と決まった。墓地を用意し新しい墓石も準備しなければいけない。いざ自分でお墓を造るとなると、無知な私には、墓とは何なのか、何を意味するのか、遠い昔の先祖から父母に至るまでの累代の死者に対して、どのような礼儀を尽くせば良いのかが見当も付かなかった。仮に分かったとしてもどういう形のお墓が良いのか? そんな問題が生まれた事がありました。

 

私は、それ以前から小林秀雄先生のお墓にお参りしたいと願っていたのですが、その問題が生まれた時、これは先生のお墓を訪問する良い機会に恵まれたと思いました。とりわけ先生ご自身が、生前に京都で入手し、ひと時、山の上の家のお庭に置いて、後に東慶寺に墓石として設置した五輪塔が、どのようなものなのか実際に自分の目で確かめたい、出来得れば自分が墓石を用意する参考としたい、そんな考えもあったのでした。

妻とともに仙台を車で出発し、半日かけて神奈川県綾瀬市に住む長兄宅に到着。それから兄も乗せて、3人で初めて鎌倉東慶寺を訪問しました。夏のもう日が暮れそうな時刻でした。

入口右奥のご住職の住まいを訪ねて先生のお墓の在り処をお訊きし、鬱蒼と樹木が茂り昼間の暑熱がまだ残る谷戸の、むせ返る緑の匂いの中を、おそるおそるの気持ちでお墓に辿りつきました。

それは想像よりも小さくて、何ともさっぱりした、いかにも美しい形のお墓でした。今風の五輪塔に見られる鯱張しゃちこばった圭角がありません。後智慧では鎌倉時代初期の作というから、年月とともに風化したのでしょうか。その時は、ああここに小林秀雄が眠っているのか、この塔の下に遺骨があるのか、遂にここにやって来たぞという感慨が先立ってしまい、墓とは何なのか、何を意味するのかなぞも考えられなくなり、妻や兄と何を話したのかも覚えておりません。自分の家の墓石の参考にするなど、そんな不遜な考えは小林秀雄が遺した美の形の前で吹っ飛んでしまっておりました。

 

その後東京へ引っ越して来て、池田塾にお世話になってからは、これまで2回、一人でお墓参りをいたしました。午前の陽光の下で見る五輪の塔は、最頂部・空輪の下辺から風輪・火輪にかけての表面を、薄い黄緑色の苔が柔らかに覆っていて、昔夕暮れ時に見たものよりもさらに深い味わいが感じられました。石の表面はザラザラしており、手のひらでそっと触れば気持ちが良さそうです。そして水輪(円石)の前面には如来仏が刻まれています。

 

私は18歳の時に初めて小林作品に触れて以来、幾十冊かの雑誌や単行本を漁ったのですが、ある雑誌の中に、鎌倉八幡宮境内にある県立美術館前での写真がありました。昔からの読者には馴染みの1枚と思われます。和服姿の小林先生とともに写っておられる、18~9歳の、マフラーをした明子さんはすらっとスタイルが良くて、右横の何かを見ている目には力が溢れておりました。

今回のお墓参りではその明子さんにお目にかかることが出来るというのです。これは、その昔、初めて写真を拝見した時には考えられなかった事であり、少しミーハー風に言えば、53年来の憧れでもあり、大きな楽しみでした。

 

さて、小林先生の文章に明子さんが出てくる箇所は何ヵ所かありますが、その一つは「人形」(『小林秀雄全作品』第24集、p.130)です。

大阪行きの食堂車で先生が食事を摂っていると、「前の空席に上品な老夫婦が腰をおろした」。「細君の方は、小脇に」「おやと思う程大きな人形」を「抱えている」。

「もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない」。「妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる」。

「そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て座った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った」。「彼女は(中略)この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか」。

 

もう一つ「徳利と盃」(同、p.82)にはこんなエピソードがあります。

「思いもかけず、刷目の徳利と鶏竜山の盃とが、私の所有に帰したのは嬉しかったが、帰途、さてお礼をどうしたものかと考えた途端に当惑して了った。と言うのは、彼が欲しい物は(中略)、私には解っていたからである」「イランのギランの発掘で、何に使ったか知らないが、小さな金の押出しの装身具があった。それを彼はしきりに賞めていた。蛇が蛙をぐるりと取巻いている。(中略)蛙は鳥羽僧正の蛙のように、水っぽく、ぬらりとして、きょろきょろしたような、あわれなような感じを実によく出していた。それが気に入って買ったのだが、娘が欲しがったので、やって了ったから、今は私の所有ではない。仕方がない、娘を呼んで、と言うわけだから返してくれ、と言うと、こっちの言い分が、よっぽど馬鹿々々しかったらしく、大笑いで返してくれた」

 

ご命日の朝、11時近くになると池田塾頭を中心に仲間達が三々五々先生の墓石の前に集まって来ました。そうしているうちに明子さんがお嬢さんとともにお花とお水とお線香をお持ちになり、お線香を私達にも分けて下さいました。簡素で気持ちの良いお墓参りが始まりました。

その後は、席を、私達が毎月学んでいる山の上の家(旧小林秀雄邸)に移して、20数名が、明子さんを囲んで色々なお話をお聴きする事が出来たのです。明子さんが身に付けているジーパンには膝から下の部分に、赤の色調のお花が刺繍されていて、これがお洒落で、実によくお似合いでした。後で何人もの女性たちから、そのセンスに対して感嘆の声を聞いたほどです。

私は明子さんのお顔と眼の力、話す内容、声質とリズムに接して酔うような気持ちでした。そして時間の経過とともに、明子さんに、一度もお会いしたことがないのに、小林先生の姿がダブってくる不思議を覚えていました。

お話の中で、今振り返ってみると一番しっかりと覚えているのは、「物書きの中には、表面は華やかに見えても、内情は家庭の経済が大変なおうちが多かったようですが、わが家ではそんな事は全然なかったですよ」という話です。

そうでしょう。いくら小林先生の高名が響き渡っていたとは言え、ベストセラーを出す小説家と違い、それほど売れる性質の作品群ではないのですから、大変な時も必ずあったに違いない。私は自分の親の自営業の姿を見てきましたし、自分自身も商売を営んできた経験から、それは心底からよく分かります。それを克服したのは小林先生の「実行家の精神」と、家族に対する深い責任感と愛情であったに違いない。

上に引いた「人形」では、先生が大学生らしき娘さんの「鋭敏」を感じ取り、その娘さんが「私の心持まで見てしまったとさえ感じ」る。それは自分には同じ年ごろの娘がいるからだ、と書かれています。普通、父親というものは、娘を理解している事をそこまではっきりと明言出来ないものです。明快に断言出来るのは、常日頃、先生が如何に深く鋭く明子さんの気持ちを考えていたかの証左でありましょう。「人形」を初読した時に私はそこに、ポッと胸が温まるような感銘を受けました。

そして「徳利と盃」では、明子さんは、その父の気持ちに応えるように、父上からいったん貰った装身具を「返してくれ、と言うと、こっちの言い分が、よっぽど馬鹿々々しかったらしく、大笑いで返してくれた」というのです。大らかで豪放と表現したくなるような明子さんの、その時の笑い声が聞こえてまいります。まことに、この父ありてこの娘あり、ご家庭の空気が見えてくる気さえ致します。

 

常日頃、小林先生の作品から私は、先生が文学や歴史や美や哲学を如何に味わって、自分の思想を如何に打ち立てていったかに感嘆するのですが、今年の命日では、明子さんにお目にかかった事を契機として、ほんの少しではありますが、家庭人としての小林先生を想像する事が出来ました。

明子さんに心より感謝を申し上げます。

(了)

 

小林秀雄先生の日常と、父の顔
―白洲明子さんと過ごした、ご命日

平成30年3月1日、
小林秀雄先生没後35年。

 

春の嵐の予報を裏切り、北鎌倉の東慶寺には、柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。明け方の激しい雨が洗った空、真っ黒な土の上に椿、風が運ぶ梅の香―小林秀雄先生のご命日の朝、墓前で、小林家ご家族が再会された。ご家族とは、墓中の小林先生の父豊造さんと母精子さん、小林先生と喜代美夫人、そして、墓前に立つご長女・白洲明子はるこさんと、明子さんのご長女・千代子さん、親子四代、6名である。すらり長身の明子さんと千代子さんは、ささっと手際よく、枝ぶりのよい桜と瑞々しい菜の花を墓前に生け、線香を手向けられた。今年の墓参には、池田雅延塾頭と塾生十余名が、お供した。

 

その後、山の上の家まで徒歩で約20分。歩き慣れた道を足早に進む母娘と、その前後に塾頭、塾生の一団。左に折れる道の角で、所用で東京に向かう千代子さんと別れ、明子さんは上り坂をスタスタと進む。1年ぶりに訪れた山の上の家の門の前に立ち、溌剌とした声で「昔は、この坂道を上がって山越えすると、建長寺に出たのよ」と、幼い頃の思い出を教えてくださる。

 

明子さんが山の上の家に住んだのは、昭和23年(11歳)から40年(28歳)までの17年間。ちょうど思春期、そして自立を志して東京で働き出した頃だった。学校や職場から帰ると、いつも父・秀雄は、応接間の長椅子に寝転び、レコードを聴いていた。

 

平成30年を生きる私たちも、明子さんを囲んで、塾生三浦武さんの選んだレコードを3枚、昭和4年(小林先生文壇デビューの年)に作られた蓄音機に載せて聴いた。1枚のレコードが終わるまでの時間は、約4分。明子さん曰く「レコードはCDと違って短い時間で終わるのね。昔、レコードを替えるのは、私の役目だったのよ。だから、せっかちになったのかもしれないわね」。そして、2枚目のレコードに針が落ちた。音の一つひとつ、言霊ならぬ音霊が、イングリッシュ・ブラウン・オークの蓄音機を震わせ、日本家屋を抜けて、開け放たれた窓から庭に流れ出す。その先、遥かに見えるのは、いつもの、波がきらきらと光る海。

 

「私が小学生の頃、夏は毎日のように、一緒に海に行きました。そのころ住んでいた扇ヶ谷の家からは、私の足では海まで何十分もかかりましたよ」。冬に雪が降れば、鎌倉の坂道は住民たちの簡易ゲレンデとなった。気まぐれなスキーヤーが去った後、登校前の雪かきは、明子さんの仕事だった。「当時はどこの家でもそうでしたけど、我が家の前で転ぶ人が出てはいけない、と言われていたからね。踏み締められた後の雪かきは大変だったけれど、そのうち楽しくなりました」。父はかつて、野球少年でもあった。「キャッチャーミットなんてない時代に、キャッチャーを任されて。練習が終わった頃には、手がぱんぱんに腫れてしまったそうよ」と、活動的な一面を紹介してくださった。

 

明子さんは他にも、小林家の日常の風景を、次々に、いくつも語ってくださった。

 

山の上の家での父の朝は書斎の窓辺で執筆、お昼は近くに食べに行ったり自宅で摂ったり。夜には、小林家の離れに一時期一家で住まわれていた大岡昇平さんや、鎌倉在住の文士や編集者らとの一献の時間があった。酒を間に置いて議論の尽きない面々の側で、幼い明子さんは寝ていた。「客間は、家の中で一番あたたかい部屋だったからね」。だから明子さんは、批評家としての父の顔も知っている。

 

一方で、ごく普通の、父娘の暮らしもあった。

 

せっかちな父娘が道を歩いていると、近所の人に「どこに行くの」と尋ねられ、「散歩です」と答えたところ、「その早足で」と驚かれたこと。父は、考え事をすると周りが見えなくなるため、よく置いてけぼりにされたこと。開館したばかりの県立近代美術館に、しばしば二人で絵を観に行ったこと。だから今も、美しいものが好きなこと。山の上の家の水道は、当時は十分な水圧がなく、夜だけちょろちょろと蛇口から流れる水道水をやかんや鍋に溜めておいて飲み水にしていたこと。父は毎日一升瓶2本を背負い、小町通り交差点傍にある鎌倉十井の一つ「くろがね」まで水を汲みに行き、家に戻ると、「うまいぞ」と言って、その水を飲ませてくれたこと。飲み水以外は、敷地にあった井戸を使い、雨水はすべて地下に溜めてそれも使っていたこと。宿題を教えてと頼むと、ううむ、と真剣に考え始めてしまい、しびれを切らした明子さんが遊びに出て帰ってくると、奥から「わかったぞ」と声がして解き方を教えてくれたこと。小さい頃は時に父の雷が落ち、大きくなれば娘が父を叱った日もあったこと。

 

そして、父は生涯、家族を守ったこと。

 

戦時中も、小林家は鎌倉で暮らした。戦況が悪化し、鎌倉の住民のなかには一家で疎開したり、年寄と子供だけを疎開させたりする家もあった。年寄と子供を抱えたわが家はどうすべきかを考えるために、父は市内を見渡せる山に登った。そこから見下ろした鎌倉にはたくさんの谷戸やと(山と山の間の谷)があって、その谷に点在する家は空からの集中砲火を浴びることはまずあるまいと思ったのだと、後に明子さんに話したそうだ。また、文士の妻は質屋通いが当たり前の時代、父は締切りを必ず守り、妻は質屋通いをせずにすんだらしい。「無茶苦茶していたけれど、考えることは、考えていたんだね」と、明子さんは思っている。

 

最後に、今も心に残る、父の姿を教えてくださった。

 

扇ヶ谷時代、母屋と父の書斎とは濡れ縁でつながっていた。暗くなってそこに置きっぱなしになっていた芝刈鋏を踏みつけ、幼い明子さんが踵をざくりと切ったことがあった。救急病院などない時代だ。驚いた父は、何時間も明子さんの傷口に手をかざしていた。そのうち、気がつくと、噴き出ていた血は止まっていた。その姿を見て、「あぁ、父親なんだな、と思ったのよね」。それは、大事な娘の怪我を、何とか治したいという、強い気持ちの表れだったのだろうが、「父は、晩年の母の心を支えるため、母が信じていた、いわゆる『お光さま』に入信していましたから、あれは、お光さまの手当てだったのでしょう」。この思い出話を語っていた明子さんは、ふいに「まぁ、父の心には、確かに神様はいましたよ」と言った。その時、何が明子さんの心に浮かんだのだろうか。

 

目の前の父のあるがままを、そのまま受け止め生きてこられた、明子さん。率直にお話くださる、伸びやかで寛容な心。小林先生が大切に育てられた明子さんは、人として大切にすべきことを、私共に丁寧に伝えてくださった。

 

明子さん、貴重なひと時を、どうもありがとうございました。

(了)

 

「変な気持ち」

「私が一番言いたいのはね。なんか変な気持ちがするんですよ。こうして本になってみると……。今まで、なんにも言ってくれた人なんて、いやしないですよ」

小林先生が、ある講演の冒頭でこのようにお話しされるのを、皆さんも録音でお聞きになった事があると思います。とにかく一番言いたいこと。あの『本居宣長』を書き終えた小林先生の、一番言いたいことが、何故この、<変な気持ち>の事なのだろう。これが僕にとって、大きなひっかかりでした。その事が、ちょっと、わかったかもしれないので、皆さん、聞いていただけますか? まず「無私の精神」の一部を引いてみたいと思います。

 

私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。この無口な人に口癖が二つあった。一つは「御尤ごもっとも」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も」と言った。自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。(中略)私は、よく彼の事を思い出しては感ずるのだが、一と口に実行家と言っても、いろいろある。しかし、彼の場合の様に、傍から見ていても、それとはっきり感じられるのだが、並み外れた意識家でありながら、果敢な実行家である様な人、実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家、そういう人は、まことに稀れだし、一番魅力ある実行家と思える。 

 (新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.100)

 

実行するとは意識を殺す事であるという。そして、この後のセンテンスでは、実行家は、これから出会う、事実や知識を空想しているだけではなく、常に新しい物の動きに歩調を合わせて黙々と実行する者であると続きます。

私、山内は以前、東北のある漁港の水産加工工場に出かけたことがあります。そこで教わった言葉に、「目は臆病、手は鬼という」というものがあります。工場では、うず高く積まれたわかめを一本ずつ手に取り、芯と葉にわけるという、とても根気のいる作業が行われており、少し手伝わせていただいた僕などは、いっこう減らないわかめの山にすぐに音を上げるのでした。その時、工場のひとりの、年かさの女性が僕に、こう言うのでした。「目は臆病、手は鬼だよ!」。作業を待つワカメの山を見て、「なんだ、まだ、こんなにあるのか!」と臆病になるのは、目のなせるわざで、手は鬼のように、気がついたら作業を終わらせている。ぼんやり眺めているだけでは、億劫になるだけなので、まず手を動かせというのである。意識を殺すとは、まさにこのことではないでしょうか。こうした労働の現場で、語り継がれる素朴な言葉。そこに含まれる実用的な力が、小林先生の文章から得られるものと符合することにも驚きと喜びを感じます。

さて、冒頭に引いた小林先生の<変な気持ち>ですが、これは、小林先生が、まさに意識を殺して『本居宣長』の執筆を行い、ついに完成し、意識を取り戻した時に感じた<変な気持ち>だったのではないかと私は思うのです。月刊誌『新潮』で『本居宣長』が連載されていた時、文壇や批評空間、また世間は、まるで息を殺すように、遠く取りまき、小林先生の仕事を見つめていたと聞きます。そして、小林先生ご自身も、意識を殺し、息を潜めて宣長に取り組まれました。時には「源氏物語」を、時には漢和辞典と首っぴきで荻生徂徠を、さらに先行のあらゆる宣長研究書にあたり、そして何より浩瀚な宣長の著作に、ひとり取り組み、宣長その人と対話をされました。孤独な作業の末に完成した『本居宣長』。書き上げて、ふと、気がついてみると、本は大変な売れ行きで、世の中の多くの人に読まれている。ひとりで藪を切り拓いて歩いたはずの道を、いまは、多くの見物人がぞろぞろ歩いているような、そんな状況が、<変な気持ち>を生んだのではないでしょうか。

関連して、先日、私が塾でさせていただいた質問を紹介します。ここにも実行家と空想家が登場します。質問の対象となったのは、以下の箇所です。

 

勿論、秋成は、ただ「神代紀をよく見よ」では、承知しなかった。自分としても「神代紀」ぐらいはよく見ている、という考えだったからだ。だが、宣長の言葉は、相手に向けられた形は取っていたが、実は、彼自身の事しか語っていない、そういう含みが、其処にはあった。言ってみれば、古えの道を見極めたと信じた人の、明言し難い、押し隠された喜びが、実は、彼の言葉の真の内容をなしていたのである。(中略)彼の眼には、道とは何ぞやと、人々に明答を要求しているような問題は、当然、拵えものと映った。返答に窮したのではない、実は、架空の問題に、かかずらいたくなかったのだ。返答に窮したという、その事が、自分は、学者の良心にかけて、明答などして、世の「識者」達を安心させるわけにはいかないという、はっきりした態度の表明だったのである。

 (同第28集p.115)

 

この箇所について、以下の質問を立てました。

 

上記、宣長への秋成の難詰を、小林先生は「架空の問題」と呼びます。これはどういうことでしょうか。私は「その道を歩かぬ者が、空想で立てる問題」と読み取りました。「道には、どんな花が?」「ゴールは、どんな景色?」といった質問に、言葉を尽くして答えても、道を歩かぬ質問者は、勝手な理解を以って安心するだけで、「明言し難い、押し隠された喜び」を共有することはできない。「歩けばわかる」というより他はない。古学の外から質問を投げてくる秋成に、ただ「神代紀をよく見よ」と宣長が簡潔に答えるのは同断。それ以上の明答で、人々を安心させ、本当の経験を妨げないよう努めた。「架空の問題」を巡り、このように考えました。

 

この読み筋は、合っているでしょうか? という質問です。「合ってます」とのことでした(良かった!)。

 

また、さらに、小林先生が講演で話された「わかる」ということと「苦労する」ということは同じ意味である、という言葉も、やはり同じ問題に通じていると考えます。不遜ながら私は最初「物事をわかるためには、苦労をしなさいよ」という単純なお説教だと思って聞き流していたのですが、そうではない。「わかる」ということは、「わかっている」状態になることではなく、苦労して体験をするという過程を指すのであるという、この大きな違いに気づきました。人は如何に生きるべきかについて、小林先生は一貫して、<ある状態になること>ではなく、動きと過程の時間をともなった体験そのものに価値を置かれています。質問本文にあるような「ゴールは、どんな景色?」というような質問は、私も日常、ついつい、してしまいます。意識が、空想が、実行に先んじて頭をもたげます。ゴールという広場のようなところにたどりつくために「道」があるのではなくて、自分で実際に歩き、楽しむための「道」が、どこまでも続いている、小林先生の『本居宣長』を読む学び自体がそのように思えます。

 

空想で頭をいっぱいにして、間違いのない人生を探すよりも、やがて気づいた時に<変な気持ち>がするくらい、好み信じた道を楽しみ没入する清々しさを小林先生の生き方に見ます。

(了)

 

遺言書へむかう道

小林秀雄氏の「本居宣長」で、いきなり第1章から紹介されている宣長の遺言書は、読むものを仰天させるような特異な内容となっている。冒頭の書き出しからして奇妙で、忌日や時刻の定め方に始まり、小林氏が「殆ど検死人の手記めいた感じ」と表現する、遺体の取り扱い方、その始末等々が続き、山室の妙楽寺に埋葬を指定し、さらに菩提寺である樹敬寺には空送カラタビとすること、妙楽寺の墓については仔細に墓所地取図まで描き、桜を植えること、等々、読み手はどう捉えてよいものか戸惑う、大きな謎である。

そして、「本居宣長」の、遺言書について書かれた章の最後は次のような言葉で締めくくられている。彼の最初の著述である「葦別小舟アシワケヲブネ」に、「もう己の天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来る」のだが、「幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである」、こう言って第2章が終わる。

宣長の残した遺言書を謎と受取ったのは、私だけではなく、宣長のそばにいた人々をも誤解させるようなものだった、ということのようだ。そしてますます疑問が深まる中で、第50章まで読み進めた最後にはこう言われている。「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」。なぜ小林氏はこう言わざるを得なかったのであろうか。

 

「本居宣長」の最終章である第50章の冒頭では、宣長が古学の上で窮めた、上ツ代の人々の「世をわたらふ」にあたっての安心について、門人達に説明することの難しさがつづられている。門人達の質疑に答えたところを録した「答問録」では、「小手前の安心」というものだけは得たいと思う門人に対して、「小手前の安心は無い」としか言いようがない宣長が「くだくだしい」物の言い方をしている。道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていて、神道にあっては、「安心なきが安心」それこそが「神道の安心」である、と言い切る。つまり、上古の人々の心には「私」はなく、ただ「可畏カシコき物」に向かっており、測り知れぬ物に、どう仕様もなく捕えられていると考えていた。その上古の人々の示した「古事記」の「神世七代」を読み終え、宣長は「感嘆した」と書かれているが、「神世七代」に到達する、その途上で、「源氏物語」についてのもうひとつ重要な見解がある。

 

光源氏の死を暗示する表題があるだけで、本文の存在しない巻である「雲隠の巻」について、何故、作者の紫式部は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、という問いの姿に、宣長は見入った、と書かれている。この巻で主人公の死が語られることはなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかった。宣長は著書「玉のをぐし」で、この問題について独特な二つの見解を述べている。一つは、光源氏というよき事のかぎりを尽した人の“衰えた様子”や“死”を書くことを避けたのではないか、ということ。二つ目は、「物のあはれ」をもっとも深く知る源氏の君自身が死んでしまうということは、そのかなしみをほかの誰にも語りつくすことはできない、という考えから、何も書かれていない、ということである。

読者に「物のあはれを知る」ということを伝えるという作者、紫式部の心ばえは、「此世」の物に触れたところに発しているはずだとすると、はたして「死」とは「此世」のものなのか、と小林氏は問い、「われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。(中略)愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確める事によって完成したと言えよう」と述べている。では、此世のものではない「死」を「認識する」とはどういうことか。紫式部が「雲隠の巻」に込めたこの「死の観念」に宣長は出会ったのである。

 

そうした「源氏物語」を経て「古事記」の「神世七代」を読むに至って、宣長の「死の観念」は、次のように発展していることを小林氏は指摘している。「伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が『黄泉神ヨモツカミ』の姿を取って、完成するのを宣長は見たのである」。彼(宣長)は何を見たか。「神世七代」が描きだしている、その主題のカタチである。主題とは、「生死の経験に他ならない」と書かれている。「神世七代」で宣長が得た啓示とは、「人は人事ヒトノウエを以て神代をハカるを、我は神代を以て人事を知れり」であった。「測り知れぬ物に、どう仕様もなく、捕えられていた」上古の人々が抱いていた生死観が、「神世七代」において「揺るがぬ」ものとなり、それを受けて宣長は「奇しきかも、霊しきかも、妙なるかも、妙なるかも」と感嘆している。そして「死の観念」を確かに「神世七代」から受け取った宣長をさらに驚かせたのは、「源氏物語」では名のみの巻であった「雲隠の巻」は、「神代を語る無名の作者達にとっては、名のみの巻ではなかった」ことであった。伊邪那美命の嘆きの中で、この女神が、国に還らんとする男神に、千引石チビキイワを隔ててノタマう「汝国ミマシノクニ」という言葉に宣長は次のように註を施している。「汝国とは、此の顕国ウツシクニをさすなり、ソモソモミズカラ生成ウミナシ給る国をしも、かくヨソげにノタマふ、生死の隔りを思へば、イト悲哀カナシき御言にざりける」。上古の人々は「汝国」という、黄泉ヨミの国の女神が万感を託したこの一と言を拾い上げたことで、「名のみの巻」に「詞」を見出したのである。その一と言で、宣長には、「天地の初発ハジメの時」の人達には自明だった生死観が鮮やかに浮び上がって来たに違いない、と小林氏はみた。

 

「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はない」、と宣長は考えていた。ではどのように「完了」し得るのか。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足どりが、『可畏カシコき物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しないのであった」とある。まさに上古の人々は「死」というものに直面し、測り知れぬ悲しみに浸りながら、千引石を置く、という「死のカタチ」を、死の恐ろしさの直中から救い上げ、「生死を観ずる道」を「完了」したのである。

 

このありさまを受けとめ、「妙なるかも」と感嘆した宣長は、自身の精神に照らして、この「生死を観ずる道に踏み込」み、そして「完了する」という行為を、言葉にした。それが、あの「遺言書」なのではないだろうか。そして、小林氏が「遺言書」を宣長の「最後の述作」と呼んだ意味が、第50章の最後にあるこの文章にあらわれているように思う。「宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰り返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出してきた、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識できなければならない。そう、宣長は見ていた」……

(了)

 

医者としての宣長

宣長の偉業はもちろんその学問にあるわけだが、彼の本職である医業の実態については「済世録」という記録が部分的にだが残っている。簡潔に患者の症状が付記してある場合もあるのだが、それはむしろ稀で、「済世録」を読む人は、日付、その日の天候、患者名、処方、調剤数、謝礼(今で言う医療費)が箇条書きに記載されているのを見るであろう。これは、現代の感覚で言うと、いわゆるカルテというより帳簿(医療用語でいうとレセプト)に近いものである。帳簿に近いということは、「宣長の文体」は感じられず、書体も学問上の著作のような楷書では書かれていない。小林先生は、「彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい」と書いているが、済世という言葉を辞書で調べてみると、社会の弊害を取り除き人民の苦難を救うこと、世の中を救うこと、世人を救い助けること、などと書かれている。なるほど、学者としての宣長を知っていると彼にはそぐわない言葉のように聞こえて、確かに「医は生活の手段に過ぎなかった」とも思える。

それに対して、薬の広告文である六味地黄丸の記載はまさしく学者宣長の文体である。帳簿と広告文との違いのせいだろうが、済世録の一見無味乾燥な文章とは根本的に異なっている。ここはやはり原文(小林秀雄全作品27集 49頁)を読んで、その文体も味わうのが良いだろう。

「六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々ココニ挙ルニ及バズ、然ル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、是亦世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而巳サノミ其吟味ニも及バズ、煉薬レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユヱニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品を撰ミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しも麁略ソリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、且又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」(大意:薬は、たとえ成分は同じであっても、薬種や製法が変われば、その効果は変わるものなのに、世人はあまり気に留めない傾向がある。本居製の六味丸は、極上品の薬種を用い、製法も念には念を入れて厳密におこなっている。よって効能が大いに期待できる。しかも薬代も世間の相場より安くしている。)

宣長という人は、難しい内容でも簡潔に分かりやすく書くことに非常に長けた人であったが、この広告文は、現代の薬の宣伝と比べても、何とも説得力のある文章、文体だと思う。まさに、「家のなり なおこたりそね(家業はまめやかに努めるべし)」ではないだろうか。ちなみに蛇足だが、薬種や製法が変われば薬の効果も変わる、というくだりは、今の時代によく話題になることで、薬の主要成分は同じでも製薬会社によって製造方法や添加物は若干異なるということ、つまり、先発医薬品と各社後発品(ジェネリック)の違いを想起させる。医師によって、先発品と後発品はほぼ同じもので効能に違いなど無いとする者と、効果や副反応の出易さに違いはあるのだと主張する者とに分かれている。つまり、宣長のこの広告文は江戸時代の文章だが、現代日本の医療情勢にも通じるものがある。

こうやって「済世録」と六味地黄丸の広告文とを並べて眺めていると、宣長にとって、その思想と実生活とは付かず離れずの関係を保ち、小林先生の言葉を借りれば、両者の間の通路として中二階の書斎への階段に例えられて、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取り外しも自在にして置いた」という意味が、よく味わえるように思われる。

 

宣長が、家の没落のため、母親からも勧められて医者になろうと思ったいきさつや、宣長と同様の境遇に直面し周りから医業を勧められたのにそれを潔しとせず拒否して儒学に専念した伊藤仁斎との比較の記述は、将来の進路に悩む若者に通じるものがあり、これも現代的で面白い。ここのところを小林先生は、「言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった」と評している。

学問の講義中、外診の為に、屡々しばしば中座した、という話は、まさに「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の実践であるし、宣長が最晩年まで現役の医師を続けたのも、単に経済面だけではなく、彼にとって医者という仕事が、学問と同様、一生を通じてやりがいのある興味深いものであったからではあるまいか。宣長のような鋭敏な人が、人間を相手にする医業を面白いと思わなかったわけがない。おそらくは、生涯、医師であり続けようとしたのであり、遺言書でも彼は、自分の屍体に、当時の医者の正装である十徳じつとくと脇差をするよう指示しているのである。「医は生活の手段に過ぎなかった」だけではなく、医業もある意味、「好信楽」の一つであったのかも知れない。

このような想像をしながら、一見無味乾燥な「済世録」を眺め直してみると、宣長にとっては、症状など一々メモしなくても、その患者の生活や病歴、診察時の体調、現在いかなる治療をするのが最善か、などといった重要なことが、鋭い直観として彼の脳裏に浮かんだことは容易に考えられるのではないか。宣長の学問を知り、かつ、宣長が医業もとても大切にしていたことを知っている者であれば、そう考えざるを得ないのである。ここに至って我々は、済世録は単なる帳簿ではない、やはり宣長の生きた証の一つである、ということを理解するのである。このような宣長の臨床は、決して私の空想ではないことを信じたい。

 

小林先生も、人間ドックのような検査漬けの医療や臓器別の分業的な医療には否定的で、名医の直観が大切だと仰っていたとお聞きしている。また、人間は本来、人間としての作られ方があり、手術や西洋薬などの人工操作ではなく自然を良しとする思想を持ってみえたと伺っている。この小林先生を感心させ信頼を得ていた医師が、私の知る限り、お二人いた。一人が、毎日午後三時になるたびに先生を襲った胃の痛みを治すため、絶妙の言葉(本気で禁煙するなら煙草は持ち歩きなさい)で禁煙させた赤坂の大堀泰一郎医師であり、もう一人が、西洋医学の欠陥を見抜き、自然を基本に置いた診療をしていた、漢方の専門家である蒲田の岡山誠一医師である。

人間を分割せずトータルで見る、そもそも人間とはエレメントに分割できるような代物ではない。これは医師にとっては、患者を臓器で分割せずトータルで診るということを意味する。木だけを見ていたら森は見えないのである。私は実を言うと、医師生活がちょうど三十年になったところであるが、この三十年の間には、医師としての仕事や研究が忙しく、本居宣長や小林秀雄から少し遠ざかっていた時期もある。しかし、患者をできるだけトータルで診ようとする診療態度はなぜか崩さなかった。内科の中でも腎臓病を特に専門にするようになってからも、その専門だけに固執したり専門外を蔑ろにしたりはしなかった。意識してそうしていたというより、結果的にそうなっていたという方が実感に近い。高校時代から小林秀雄を愛読していた結果、細かい臓器別診療に徹した医療には知らず識らずのうちに嫌悪感を抱いていたせいかも知れない。

医学の自然科学的側面が進歩していることには私も異論が無い。小林先生が苦しんだ胃潰瘍を例にとると、昭和四十年代頃までは非常に治療が難しい病気で、外科的手術が必要なことも多かったというが、今は薬だけで比較的簡単に治る時代になった。しかし、だからと言って、現代の医師達が皆、大堀泰一郎氏になったわけではないし、無論、大堀医師を超えたわけではあるまい。岡山医師のように、大きな自然の中で人間を見る、患者を診る大切さがわかっているであろうか。更に遡って、江戸時代の本居宣長医師に並ぶような臨床を現代の医師達が本当にやっているのか、現代医療は本当に本居医師の医療よりも優れていると言えるのか、真剣に自問自答しないといけないように私には思われる。

(了)