教師のいる風景

松阪の本居宣長記念館を訪れるたびに、小林秀雄先生が講演で語った言葉を思い出す。

昭和36年8月15日、長崎県雲仙。「現代思想について」という演題の講演(注)で、一年後に還暦を迎える小林先生が語るのは、歳をとることと物を考えることとの関係、ユングやフロイト、ベルグソンの思想、そして教師というものについてである。

このなかで先生は、伊藤仁斎が京都で開いた塾を例に、教師とは「真理とはこういうものだと人に教えようとする一人の人物」のことだと力強く説く。

 

私にとって七度目の松阪、本居宣長記念館。すべて、池田塾の塾生とともに、本居宣長の奥墓参拝と吉田悦之館長のお話を伺うことが目的の旅である。今回は、宣長研究者を招いて年に十回開催される「宣長十講」、平成29年度の最終講義で、吉田館長が「宣長学に魅せられた人々」というお話をされた。配られた資料のはじめに、小林秀雄「本居宣長」から「或る時、宣長といふ独自な生まれつきが、自分はかう思ふ、と先づ発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反発したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである」の一文が引かれている。吉田館長は、宣長とその学問に魅せられて、これを支えた松坂の人々や、学者としての素質を見抜いて宣長学に大きな影響を与えた堀景山や賀茂真淵、宣長の熱心な読者から門人となる人や思想的な対立にいたる人物までを含めて、宣長の学問に関わる運命にあった人々の、まさに「思想劇」を具体的に描き出してくださった。

 

幸運なことに、今回も、吉田館長のご配慮で、記念館の資料収蔵庫を見学することができた。吉田館長はこの収蔵庫を「宣長さんのアタマの中」と表現する。そこには、本居宣長直筆の書物や、「古事記伝」の版木、その他宣長の学問に関する資料が保管されている。暖かい色合いの優しい照明を受けながら吉田館長が書物を紐解く場面では、歴史に直に触れている感覚が生じて、緊張の中、大きな安心感に包まれるような不思議な心持ちになる。

いつも思うことなのだが、ついさっきまで本居宣長と会っていたのかと錯覚するほど、吉田館長から伝え聞く「宣長さん」にはリアリティがある。質問があるとすぐに、数ある資料の中から該当するものを取り出しては、宣長や宣長学に関わった人々のエピソードを、思い出話のように話してくださる。そして「宣長さんの学問や生活への気配りは、とても一人の人間がやれる仕事の量ではない。不思議だ。不思議だ」と言って、首をかしげている。膨大な資料が整然と保管されている様が美しいその場所は、宣長さんのアタマと吉田館長のアタマが時を超えて重なり合う空間なのだ。

 

二日目には、記念館で毎月行われている「古事記伝」の音読を体験した。参加しているのは、松阪の老舗旅館の女将など、生まれ育った町を愛し、松阪が生んだ宣長を誇りに思う人たちだ。

吉田館長の音読に続いて参加者が音読する。時折、館長の解説が入る。皆、「古事記伝」原本の複写に目を落とし、必死に漢字を追いかけながら音読する。それだけを繰り返す。全四十四巻、宣長三十五年間の思索の轍を辿る旅。吉田館長が「この音読、自分の寿命を勘案すると、とても最後までたどり着けない」と笑うと、続いて参加者も笑う。

このような光景に接するとき、私は、「教師」について語った小林先生の言葉を思い出すのである。

小林先生は冒頭の講演の中で、教師というのは、自分の信念を受け取る人があると信じている人であり、これは弟子に魂がうつるということで、それこそが教育の原理だと述べる。松阪の人たちが、吉田館長という教師と向かい合って、共鳴し合う光景。私にはそれが美しいと感じられた。その共鳴がある空間には、音にはならない振動があって、なんとも心地が良い。吉田館長は、自分が好み、信じる宣長さんの姿と魂を追いかけながら、生徒のほうを振り返っては、これをできるかぎり伝えようと努めておられる。そういう教師のもとに集う人の心のなかでは、宣長さんに魅せられていることと、吉田館長に惹かれていることとは判別できないものになる。仁斎や宣長が行った講義に集まった人々も、きっと、同じような心持ちで学んでいたのだろう。

 

宣長が「源氏物語」の講釈を行っていたその土地に、宣長の魂を伝えようとする一人の教師が現れた。松阪の、歴史を湛えたような町並みのなかで、「古事記伝」の音読を淡々と続けている吉田館長と松阪の人たちの姿が、長い年月をかけて学問を続けた本居宣長や小林先生と重なり、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている「倦まずおこたらず」の大切さを、はっきりとした形で認識することができた、貴重な松阪訪問となった。

(了)

 

(注)新潮CD小林秀雄講演 第4巻所収。
 

言葉から人間を知るということ

私たちは、誰かの言葉が心にしみて生きる勇気をもらったりすることもあれば、そんな気はなくても出てしまった言葉で人を傷つけたりすることもある。言葉は美しくもなるし恐ろしくもなる。また、素晴らしい詩や小説に出会うと、自分の枠から抜け出た世界へ連れて行かれたり、日記や手紙を書くと心が整理されて落ち着いたりするという、心の切り替えを促す手がかりにもなる。人は普段、言葉に埋もれて生きているせいか、それ自体が人間にとってどのように大切なものなのか、その意味を考えることには無頓着である。そして、考えようにもその働きはなかなか見定められるものではない。

小林秀雄先生の『本居宣長』には、この立ち止まってもなかなか正体がつかめない言葉への見通しが幾筋もの光のように放たれている。

 

入塾して間もない昨年の春、池田塾頭から、小林先生は『本居宣長』を執筆される際、折口信夫氏に「本居宣長は源氏ですよ」と助言されたというお話を伺った。自然と私は、その意味を追うように、この殿堂のような作品を読み進めて行ったのである。

しかし、「『源氏物語』の味読による宣長の開眼」は、そう易々とは景色を現さない。読む人は、引用された宣長の原文を咬みしめ、前へ戻りつ先にあずけられつしながら、丁寧な小林先生の語り口をじっと見つめることで、全容が浮かび上がってくる仕掛けを知るのである。そこには、必ず見入ってしまう花や木のある寄り道があり、その香りに誘われて、ついもとの道を忘れてしまうほどだ。私はこの、宣長の森をくるくると冒険しながら、「言語表現の問題」という謎めいた不思議な木に遭遇してしまった……。

 

本居宣長と言えば、「物のあわれ論」が有名であるが、小林先生はこれを、宣長にとっては、歌人たちが当たり前に扱ってきた言葉ではなく、日常語として使われようとも、その含蓄する意味合いの豊かさに驚くべき力を持つ表現性であったと言う。そしてそれをまず、「物のあわれ」と「物のあわれを知る」とに区別して、「物のあわれを知る」とはどういうことかに読者の関心を誘う。

 

そもそも「物のあわれ」とは何か。宣長に聞いてみると、「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、こころの深く感ずることをいふ也。俗には、たゞ悲哀ひあいをのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上いそのかみ私淑ささめこと」巻一)と言っている。現代の感覚では、「あわれ」と聞けば、物悲しいとか、情趣を催す言葉のイメージしかなかったけれど、この、喜びも悲しみも、最初はすべて「あわれ」であったという言葉の成り立ちの中に身を置くと、人間の「心」のスケール感を省みざるを得ない。便利さや効率のおかげで、一見いつも平常心を備えているかのような現代人からすると、衣食住や生死が、今よりはるかに思うままでなかった古代の人の心の景色は、もっともっとダイナミックだったのだろう。

しかし、宣長は続ける。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、たゞかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)と。「あわれ」はこうして何時の間にか、特に悲哀の意に使われるようになっていった。人は、願いが叶うと、すんなり次の行動に移して、それまでの切実な願いは忘れてしまうが、叶わない場合は、そこに深さ浅さはあるけれども、悲しみや苦痛に立ち止まって、自分の心を見つめてしまう性質があるというのだ。

 

さて、宣長によれば、「歌」とは、この「あわれ」をはらすために生れた最初の「物」であるという。しかしそれはどうも、私たちが思っている歌のような、心の動きによって、何かを表現したい感情から作られたものとは違うというのだ。もっと原初的な叫びのかたちであり、頭で考えて発話する言葉よりも先に発生したものであるらしい。

「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよくあやありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、かならずコトなる物にして、その自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづからあやある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑言」巻一)

身近な例でいえば、私は、「たゞの詞」(橋岡注:日常の発話)の表現を知らない赤ん坊の泣き声を想像する。赤ん坊の欲望の表し方は、その種類によってトーンが違う。眠くてたまらない時は、激しく始まり、だんだん弱くなって眠りにつくが、その自分の声のリズムに慰められながら安心して寝入っていくように見える。この、泣くというリズミカルな「かたち」が歌の始まりに似ているのではないだろうか。

そしてその歌より重要なことは、この「カタチ」なのだと宣長は言う。それは赤ん坊が、泣くというリズムによって「安定する」、こういう妙技が、人間の性情の中に組み込まれているからだろう。小林先生も、「歌とは、先ず何をいても、『かたち』なのだ。或は『あや』とも『姿』とも呼ばれている瞭然りょうぜんたる表現性なのだ。歌は、そういう『物』として誕生したという宣長の考えは、まことにはっきりしているのである」と付け加えられている。それ故に、人々が古来、深い悲しみや願いからやる方なしに発した嘆きは、歌となり、礼、楽、舞踏などに発展し、「カタチ」に基づく表現性として、それらは今日でも芸術という創造の道に広がっているのだろう。

 

ところで、宣長には「和歌の功徳」という考え方がある。

「『心ニオモフ事』は、これを『ホドヨクイイツゞクル』ことによって死に、歌となって生れ変る。歌の功徳は、勿論もちろん歌の誕生と一緒であるから、『心ニオモフ事』のうちに在るはずはない」。この考え方を受けて先生は、「もし、『心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイイツゞクル』詠歌の手続きが、正常に踏まれ、詠歌が成功するなら、誕生したその歌の姿は、『マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也』と宣長が言っている事になる」と言う。

私は、この「和歌の功徳」のくだりがとても好きだ。これまで、心が動いた経験から出る感情は、ずっと心の糧として無くならないものだと信じていた。それを、自分の思考でどうにか表現したものが歌なり文章なりになり、きっかけとしての心の動きも、「カタチ」となった言葉も、すべて一つの「私自身」と思い込んでいた。しかし宣長は、それを人間の内面の機能として、意外な、しかし本質的な心の働きとしてこちらの認識を新たにする。「実の心」と「歌の実」は直に連続していない別物だと。小林先生は、それを「『言辞ノ道』がはらんでいる謎めいた性質」であり、「詠歌の『最極無上』とする所は、自足した言語表現の世界を創り出すところにある」と言っている。私は自分の思い込みが清々しくくつがえされ、この辺りから、「物のあわれを知る」の「知る」に目を向けよと言う小林先生の声がしっかり聞こえてくるのだった。

 

歌は、まず「カタチ」、あるいは「あや」や「姿」として誕生したとすれば、「歌とは、意識が出会う最初の『物』だ」と先生は言うが、その「意識」とは何か。先生は、「何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向かって広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう」と言っている。これは先ほどからの「物のあわれ」の出現と同じで、意識もここで関わるということである。

私には、意識とは、心が哀しみを感じたとき、自分の経験から知る様々な色の哀しみの中から一瞬にそれを察するもので、それによって、少しずつ深い「認識」へ降りていくような、その「認識」の入り口にある道案内のイメージがある。謂わば直観に似たものかもしれない……だがこれでは戯言のようなので、物慣れない自作だが、かつて詠んだ歌を例に挙げてみる。

 

雨宿り いかづち鳴りて 巻く雲の 色に染まれり 恋心はや

 

二人で駆けこんだ路辺の軒下、雷鳴が轟いて、「意識」が現れる。不意の夕立で恋心が意識され、雨雲の広がりや稲妻によって空がみるみる変化する様に、もどかしく、整理のつかない不安を覚え、すっかり濡れた髪をあきらめる時間は、その心をより深くかみしめる認識の時間だ。

 

小林先生はこのように言う。「堪え難い悲しみを、行動や分別のうちに忘れる便法を、歌道は知らない。悲しみを、そっくり受納れて、これを『なげく』という一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫という一と筋を行く。誰の実情も、訓練され、馴致じゅんちされなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その『かたち』を『つくづくと見る』事が出来る対象とはならない」。はちきれそうな悶々とした思いは、単なる錯乱であり、「自分」ではない。それが歌に成ることによって、そこではっきり「恋」という我が心を所有するのである。

 

「物のあわれを知る」の「知る」とは、この、歌の極意にある「認識」であると言えよう。そしてまた、不安定な心を「カタチ」として安定させていくこの「認識」は、歌に限ったことではない。「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。 ―中略― 言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい」と先生は言う。それは、私たちが、日常の中で様々な困難に遭遇しても、悲哀の呻きに分裂することなく安定を保とうとする「認識」、生きる上での必須の肉体の機能のことであると私は思う。

 

宣長の森で出会ったものは、「源氏物語」や和歌の御簾の向こうにくっきり見える、「言葉は肉体機能である」とでも言っているような宣長と小林先生の大きな影であり、自分自身の影でもあった。小林先生は、宣長を「人間通」と表現されているが、それは、言葉から人間を知ろうとして得た宣長の確信に基づくのだろう……いずれそう見定めたいと願いつつ、私は、まだまだ先を急げない森の深さに圧倒されるばかりである。

(了)

 

文字なき世には文字なき世の

生きるとは何か。人生とは、道とは何か。いつの頃からか、そのような漠然とした不安とともに、山の上の家に、迷子のように辿りついていたように思う。通信簿で1をとるほど、国語の苦手な私が、小林秀雄の本を読むなど、まして、池田塾の同人誌の原稿をこうして書こうなど、夢のまた夢であり、人生とはなんなのか、またもや迷いの淵に立っているのだが、辿りついてみないとわからないものだと、小林氏の声が聞こえるようで文字を書きはじめている。

 

小林秀雄氏を知ったのは、池田塾の募集に応募してからで、それまで氏の名前は響きとしてどこかに記憶されていただろうというほどのものであった。池田塾という名の、何かがあるという引力だけが私を引き寄せていたように思う。引き寄せられるままに聞いたのが、小林氏の講演を収録したCD「本居宣長」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻)である。その氏の語りを切り取ることは、全体の文脈を壊すことになりかねず、趣は氏の生きた声で語られるからこそであることは承知であるが、私の心を掴み、肉声となって聞こえてきた氏の声を、自問自答のはじまりとして、文字に起こさせて頂く。

―「ご承知のように、ソクラテスは、あの人は、一行も物を書かなかった人です。ソクラテスの書いた本なんてありゃしません。ソクラテスを登場人物として、プラトンがあとから書いていますけどもね、ソクラテスは何も書かないで死んだ男なんだ。そのソクラテスがこういう話をしてる、面白いがね、これもまた、宣長さんとおんなじなんです。僕はそれを読んでいて、あーこれは宣長だなぁと思った。宣長も、文字というものを軽蔑してたんです」……

この氏の語る「宣長も、文字というものを軽蔑してたんです」であるが、「軽蔑」という言葉に私の心は鷲摑みされていた。

 

私は、子供の頃から国語に対して嫌悪感を抱いていた。その理由がわかったのは大人になってからで、ナレーターを仕事とされる方に、私の朗読を聞いてみていただいたとき、どこか人と違うという指摘を受けた。難読を機能的にもっているのではないかということだった。今では、そんなこともあろうかというぐらいだが、確かに子供の頃から摑み所のない不安があった。

何処を読んでいるかわからなくなり、鉛筆でなぞりながら読んでいた。そして漢字に丸をつけ、ひらがなは一つ一つを追い、その構成する意味で区切り斜線を引く。例えるなら、ひらがなの一つ一つは、五線譜のない譜面に行き場を失い、音を奏でる自由を奪われた音符のようで、その文字は紙と黒いインクの色彩にゆらぎ、読み進める視線にずっしりと抵抗感を生み出していた。意識すればするほど怖かった。

そういった言語経験のうちに、今は気づかずに、線を引く時もあるが眺めるように読んでいる。

小林氏の「軽蔑」という言葉は、私のこの経験的な無意識に、鍵となって扉を開け、光となって飛び込んできていたように思う。

 

「軽蔑」の意味を、宣長の「くず花」を引き、小林氏は講演で語っている。

―「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」……

読み上げた氏の声は、大きな世界観をもって、静かに刃物のように次の言葉を切り出した。

―「人生ってものは、そういうもんだって言うんだな」…

この宣長のわずか数行の言葉に、「人生ってもの」があると言うのだ。私は時がとまるような思いで耳をかたむけた。

古の文字なき世には、文字なき世の心がある。今の心をもって昔を見ると、さぞかし文字のない世は不便であるように感じるが、そうではない、文字なき世は文字が無い故に、心を動かし、心で記憶していた。その記憶こそが精神の働きである。託する文字がない故に、頼る物がない昔は、自分自身を頼るしかなかったであろう、自分の心を信じるしかなかっただろう。だから、心に記憶していた。驚くべき記憶力だった。

精神の力で、過去の力をいつでも呼び覚ましているからこそ、生きている。精神の力っていうものが生きている。そして過去を呼び覚ます精神の力が知恵である、と、小林氏は言う。

 

氏の言う「軽蔑」は、文字への軽蔑ではなく、現代の、何かにつけて何かに託そうとする私たちの精神に対する軽蔑である。私たちは、便利な世の中でいろんな物に自分を託している。自分のこころを働かせることが少なくなってしまっている。そういう現代人に対し、昔の人は、みんなこころを働かせていたのだと言うのだ。

 

そして、文章は、一生懸命読むとみんな難しいと言う。本当は、どういうことを言いたかったんだろうと思って読むと、文章はみんな難しい。文章の底には、みんな人間がいる。その人間が、いったいどんなつもりで言語表現をしたのか、ちょっと考えれば文章はみんな難しい。たった一つの歌だって、この歌人はいったいどういう心持ちで歌ったんだろうかと思って読むと、歌ってものはいくら読んでも難しい。

そう語り、小林氏は、外から摑む「難しい」という言葉を、内から摑む言葉に切りかえる。

―「難しいとも言わない。『味わい』というものがあるじゃないか」……

 

文字に対する私の嫌悪感は、自分自身を外から文字に託した私の愚昧な心である。精神の裡から摑む光輝な氏の言葉は、崇高な光をもって、私を鞭打っていた。そして、味わいのなかで歌人の顔が見えてくる、と言うのである。

 

宣長は、文字の徳が、言伝えの徳に取って代わった、などと言っているのではないと小林氏ははっきり言っている。言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれる事になったのだが、これは、言霊の動きを大きく制限しないでは行われはしなかった、そういう決定的な事に、世人が鈍感になってしまったと言う。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、172頁6行目)

 

私達の母国語は、文字を生み出した歴史を持たない。帰化人に託して、外部から漢字がもたらされた。私達の言伝えの豊かな言霊の動きは、借りた漢語の殻には納まるはずがなく、生きてもがき、コンクリートを割って芽をだす草木の如く、想像を絶する時間との戦いのうちに、言霊の力が内部から母国語として、新たな姿を成して来たのだ。そういう逆境において己を摑み直す言霊の動きに、万葉歌人の鋭敏な愛着と深い信頼の情は「言霊のさきはふ国」という言葉をつむぎだす。小林氏は時代の「おもむき」を言霊の歴史的生態に見ている。

 

また小林氏は、「詞の玉緒」に、宣長のこの言語問題の扱いを見ている。宣長は、言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の動きを、内から摑もうとすると言う。私達に与えられた道具には、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろうと言っている。「さだまり」は、古より湧き流れる言霊が文字という道具と合体して、まるで私達が母親から生まれ、受け継がれた肉体と精神をもち、悩み苦しみ人生の道を切り開くように、繰り返し引き継がれ、生きられた姿なのだ。古より受け継がれた「さだまり」の姿は、私達自身だと言っていいだろう。氏は言う、私達はこの「さだまり」を意識しながら、「さだまり」に捕らえられているからこそ自在に言葉を使いこなせると。内から摑もうとする宣長は、その言霊の流れを常に見る。湧き流れる精神の内に、自由になれるのだ。物質や時間をも超え、生きた経験を知ることは、己を知ることだと言っているのだ。

私の国語に対する嫌悪感は、この、「さだまり」に捕らえられているからこそ私たちは自在に言葉を使いこなせる、という小林氏の言葉によって打ち消されていったように思う。

 

「本居宣長」第30章にある、小林氏の言葉を引きたい。

―過去の経験を、回想によってわが物にする、歴史家の精神の反省的な動きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己の生き方を知る事に他なるまい。人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味わう事ができるか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己を離脱することを許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。(同、350頁18行目)

 

小林氏の言葉の根底には、「無私と自足」が高次な経験の豊かな流れを生み出す、「物のあはれを知る」という「道」の、宣長のこころの泉と小林氏の精神がともに底流する。

 

さて、もう一度、小林氏の講演に戻る。

氏は言う。本なんかには、哲学の一番肝心なことは書かれていないと、プラトンは手紙に書いている。本当はそうかもしれない、人の知恵が一番伝わるということは、こころを開いて、人と語り合うしかないんだと、ソクラテスと同じことを言っている。そして小林氏も宣長もまた同じことを考えていた。この源泉たる問答は、小林氏が言う、知ることと感ずることが同じであるような、全的認識力の直覚であろう。本質を直に摑み、真理を問う純粋な精神にとって、時に、文字や言葉は副次的な物であろう。

 

小林氏の講演の声を、私たちに届けてくださった新潮社に、心から感謝する。

私は今、北鎌倉の骨董屋で偶然見つけた山桜の短刀の鐔と、小林秀雄氏の「本居宣長」を常に持ち歩いている。

(了)

 

エピファニーについて

ある人が、一つの仕事に取り組んで、それが未完で終わってしまうということ、そして、その仕事について、後の公開を禁じるということは、一体何を意味するのだろうか。

小林秀雄さんが『感想』で目指されたことは、それくらい大きなことだったのだろうと思っている。そして、そのことについて後世の私たちが考える時、真っ先に心がけるべきはその向こうにある巨大な仮想世界のことであろう。

『感想』の冒頭、有名な蛍のくだりがある。蛍を見て、それが亡くなったお母さまだとわかる。この「気づき」ないしは「手がかり」に、全てが込められている。

小林秀雄は、エピファニーの人だった。ここに、「エピファニー」とは、元来は宗教的な意味合いの言葉だが、転じて、現代では、自分の人生について何か本質的で深い洞察をもたらしてくれるような出会い、気付き、覚醒を指す。

道頓堀のモーツァルトにせよ、折口信夫さんの「宣長さんはね、源氏ですよ」にせよ、あるいはゴッホの絵画にせよ、小林秀雄さんの大切な仕事は、エピファニーに端緒を持つ。そこから始まる探究の過程を、小林さんは一つの作品として私たちの前に見せてくれる。

エピファニーが興味深いのは、その一瞬の気づきに全てが込められているように感じられるからである。その後の長い道程は、あたかも、ただ詳細を明らかにするだけのプロセスであるかのように思われる。何故かはわからないが、一瞬のエピファニーの中に、全てがあらかじめ提示されているように感じられるのである。

エピファニーは、科学的探究においても指導的な役割を果たす。例えば、アルベルト・アインシュタインの相対性理論は、15歳の時に抱いた「光を光の速度で追いかけたらどうなるか」という発想が端緒になったとされる。それから10年間、粘り強く考えた結果が、物理学の革命につながった。

アインシュタインの相対性理論で示された、ローレンツ変換の背後にある時空の幾何学や、質量とエネルギーの等価性といった図式が、「光を光の速度で追いかけたらどうなるか」というエピファニーに全て込められていたと考えるのは不思議な気がする。不思議だが、どうもそのようなことがあるらしい気もする。そのように考えないと説明できないことが、世の中にはあるように思う。少なくとも、ある種の創造性の機微は、そのようなプロセスの中にしかない。

ある創造者の大きさは、その人の持つエピファニーの質によって決まると言っても良いだろう。小林秀雄さんは、大きなエピファニーを持つ人だったからこそ、大きな仕事をしたのである。

エピファニーは、常に不意打ちで訪れる。あらかじめ準備されたエピファニーなどない。むろん、そこに至るまでのさまざまな経験や、無意識の思考などはあるかもしれない。自然は連続しており、何事も飛躍しない。意識の側面から見れば非連続に見えるエピファニーもまた、その背後にあるプロセスを見れば連続しているのであろう。

それでも、意識から見れば、エピファニーは突然顕れる。エピファニーは、意識を不意打ちする。そのような形式に最も自覚的だった作家の一人は、ジェームズ・ジョイスであろう。

ジョイスの自伝的小説『若き芸術家の肖像』では、当時のカトリックの価値観が抑圧的なものとして描かれている。その一方で、ジョイスの描く人間像には、エピファニーを重要なものとして捉えるという視点において、キリスト教的な感性からの連続性が見られる。

エピファニーは、キリスト教的文脈で言えば、いわゆるキリストの「顕現」と関連付けられる。キリストの生誕、東方三博士の礼拝、その後の「変容」と言った一連の出来事を通して、キリストの本質が示される一連のプロセスが「エピファニー」である。

ジョイスの『ダブリン市民』は、完璧と言って良い文体と構成を持つ短編からなるが、その各短編において、登場人物は何らかのエピファニーを経験する。いわば、ダブリン市民たちがさまざまな現場、時点において、人類としての総体的な「エピファニー」を経験するのである。

ジョイス自身は、『ダブリン市民』を当初、後に『ユリシーズ』に結実する現代版のオデュッセウスの物語と関連させる構想を持っていたという。ジョイスがオデュッセウスに興味を持ったのは、この英雄が、人類が経験するさまざまな側面の総体を代表する存在だったからだとされる。

ジョイスは、エピファニーを通して、宗教を失った神なき世界においても、人類全体の経験を支えたいと思ったのではないか。無意味の沼地に全体が陥ることを避けたかったのではないか。その意味では、ジョイスは宗教の最良の精神の後継者だと言える。

『ダブリン市民』で最も感動的なのは、そのエピファニーが猥雑な日常の中に突然顕れることである。

私たち一人ひとりは、どうにも整理のつかない、雑然とした人生を送っている。仕事をしたり、休んだり、ものを食べたり、排泄したり、散歩をしたり、眠ったり、親しんだり、反目したりして、決して美しくすっきりなどしない日々を重ねている。

そんな人生の中に、突然、何らかの本質が顕示されることがある。その瞬間、時間は止まって、私たちはあたかも「永遠」に接続したような気分になる。美の原質を垣間見たような気持ちになる。そのようなエピファニーの感触が、私たちの魂をどこか遠いところに連れていってくれる。

日常の中に突然顕れるエピファニーの姿を描く点において、ジョイスは卓越した書き手であった。そして、小林秀雄さんもまた、エピファニーの書き手であった。

ウィーン楽友協会ホールでウィーンフィルの演奏を聞いていて、モーツァルトの本質が降りてくるのではない。道頓堀の雑踏の中を歩いていて、突然それがやってくるからこそ、エピファニーなのである。

音質の悪いSPレコードだけでモーツァルトを聞いていたとしても、それはやってくる。エピファニーは言い訳をしない。エピファニーは、「こんにちは」とは言わない。それは、唐突に挨拶もなしにやってくる。それを捉える感性と誠実さを持つことができるか。焦点はそこにある。

小林秀雄さんは、エピファニーに誠実な人だった。だからこそ、一つの作品として世に問うた。長い時間をかけて、自分のエピファニーに取り組み、付き合った。そこにこそ人間の本質があると信じたからである。

はっきりとしたビジョンや、美意識なしに行われる企ての多くは迷走し、そこに注ぎ込まれたエネルギーや資源が空費され、関わった人みんなが結果としては不幸になる。何故ならば、ビジョンなき企ては、質の低下を招くだけだから。そのような事例を私たちはたくさん見ている。

エピファニーは、その向こうにある無限の可能性へのドアである。直覚することで、より精しく探究する上での道筋、方向が示される。一瞬訪れて去っていってしまうエピファニーを信じてみる勇気があるかどうか、それからの長い道を歩く脚力があるかどうかが、恵みの深さと広さを決める。

小林秀雄さんの著作を読む重大な楽しみの一つは、エピファニーを受け取り、それを追いかける魂の旅路を経験できることである。その意味において、小林秀雄さんは人類経験の総体の中を遍歴する一人の「オデュッセウス」であった。

小林秀雄さんの旅は、心ある人によって受け継がれて、未来へと続いている。

人類の総体として。

(了)