小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和元年(二〇一九)八月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和元年(二〇一九)八月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
今年は、全国的に例年より遅い梅雨明けとなった。
そんな時季の刊行を迎えた今号は、今や本誌の顔とも言える人気ページ、荻野徹さんによる「巻頭劇場」で幕を開ける。今回の対話劇では、いつもの男女四人が、契沖、仁斎、徂徠、真淵、そして宣長という「豪傑くん」達の豪傑たる所以、その本質に迫る。本誌読者の皆さんも、その対話の一員として参加するような心持ちで読み進めていただければと思う。
*
「『本居宣長』自問自答」は、鈴木美紀さんと森本ゆかりさんが寄稿された。
「小林秀雄に学ぶ塾」のベテランメンバーの一人で、毎度斬新な視点に目を開かされる鈴木さんが今回眼を付けたのは、宣長さんの書斎と奥墓の位置関係である。思索を深めるにつれ、鈴木さんの眼に映じてきたものは、歴史の流れを遡り源流に向かって独り小舟を漕ぐ、宣長さんの姿であった……
広島県から鎌倉の本塾に通われている森本さんは、初めての「自問自答」を経験された。森本さんが「本居宣長」と向き合うなかで直覚した宣長さんの「好・信・楽」を極めるという生き方の本質と、自らが鍼灸師として、また人間としていかに生きるべきかという自問自答が重なり合う。自らの「好・信・楽」は本塾そのものだと言い切る森本さんの姿に、初心の大事を改めて思い出した。
*
「人生素読」には、「小林秀雄に学ぶ塾in広島」などに参加されている森原和子さんが寄稿された。日々の生活経験は言うまでもなく、中学校への通学の道すがらお父さまから聞いた「文字を介さない」お話をはじめ、四十年間続いている読書会の経験、『本居宣長』や古典の精読など、森原さんの人生への向き合い方に背筋が伸びる思いがする。と同時に、そんな森原さんが「確かな手ごたえ」を感じたという「小林秀雄に学ぶ塾」の一員であることを、ありがたいとつくづく思った。
*
音楽をよく聴く人には、この一曲に如くはなし、という思い出の曲があるようだ。「もののあはれを知る」に寄稿された櫛渕万里さんにとっては、モーツアルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調」がそれである。小林秀雄先生を結節点として、お父様とモーツアルト、そして櫛渕さんが毎日詠んでいる和歌が響き合う。その調べはト短調である。
*
森本さんのエッセイの冒頭に、小林秀雄先生が、当時編集担当だった池田雅延塾頭に言われた「ユニバーサルモーター」の話が紹介されている。
これを機に、小林先生が「ユニバーサルモーター」という言葉で具体的に何を仰りたかったのか、池田塾頭にあらためて訊いてみた。
先生がこの話を塾頭にされたのは昭和52年の暮、『本居宣長』が単行本として出たばかりの頃だった。先生は森本さんが書いているような話を唐突にされると、すぐにまた別の話題に移った。しかし塾頭は、先生は暗にこう言われたのだと思ったという。すなわち、僕は『本居宣長』を、ユニバーサルモーターが造られるのと同じ気持ちで書いた、読者はみな人生という大海を航海している、その大海のどこかで心の帆柱を折って途方に暮れることもあるだろう、そういうとき、とにもかくにも読者が人間としての港へ帰り着くためのモーターとして、スピードは出ないが絶対に壊れないモーターとして、『本居宣長』を積んでいてくれればうれしい……。
池田塾頭が聞き取った小林先生の思いを胸に、今号のエッセイを読み直してみると、荻野さん、鈴木さん、櫛渕さん、そして森原さんも、人生航路のヨットにしっかりと『本居宣長』を積んでいることがありありと感じられる。そして森本さんもまた、今まさに積み込み完了、である。
(了)
二十 契沖と長流
1
前回、第六章で、小林氏がこう言うのを聞いた。
――問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……
「宣長の逆の考え方」とは、すぐ前で言われていた「詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった」をさしている。
そして、「詠歌は、歌学の方法としても大へん大事なものだ」は、これもすぐ前の「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」という、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている大事の要約として言われている。
宣長は、生涯に約一万首の歌を詠んだ。契沖も、六千余首の歌を詠んだ。二人は終生、詠歌に勤しんだ。
「歌学」とは、読んで字のとおり、和歌に関する学問である。『広辞苑』は、次のように言っている。
――和歌の意義・本質・変遷、作歌の法則・作法・故実・文法・注解、歌人の伝記・逸話などを研究する学問。……
また『日本国語大辞典』は、次のように言っている。
――和歌についての知識や理論を整理し研究する学問。和歌の意義、本質、起源、美的理念などの研究や詠作の作法の整理、また訓詁、注釈や秘訣の解明、さらに歌集の校訂や編纂などを行う。その萌芽は奈良時代にすでに見られるが、平安中期頃から本格化した。……
この『広辞苑』『日本国語大辞典』の説明は、当然ながら現代の「歌学」まで含んで行われている。そこでひとまず、ここから「和歌の意義、本質」を除く、そうして残った「歌学」の諸相、これが「固定した知識の集積」と小林氏が言っている「従来の歌学」である。この、奈良時代、平安時代以来の「歌学」を、契沖は一変させた。知識の集積に留まらず、歌とは何か、その意味とは、価値とは、一言で言えば、歌というものの「本来の面目」とは何かを問う新しい精神が、新しい「歌学」の幕を切って落したのである。
『広辞苑』『日本国語大辞典』がともに最初に言及している「和歌の意義、本質」は、契沖が着目した歌というものの「本来の面目」に近いと言えば言え、契沖以後、「歌学」の最重要事項として位置づけられるようになったとも言えるのだが、その実質には天と地ほどのひらきがあることを忘れまい。そこを宣長は、「あしわけ小舟」でこう言っている。「モドク」は、似せる、真似る、である。
――チカゴロ、契沖ヲモモドキテ、ナヲ深ク古書ヲカンガヘ、契沖ノ考ヘモラシタル処ヲモ、考フル人モキコユレドモ、ソレハ力ヲ用ユレバ、タレモアル事也。サレド、ミナ契沖ノ端ヲ開キヲキタル事ニテ、ソレニツキテ、思ヒヨレル発明ナレバ、ナヲ沖師ノ功ニ及バザル事遠シ。スベテナニ事モ、始メヲナスハカタキ事也。……
端的に言ってしまえば、契沖は先代未聞の「一大明眼」で歌を見た。契沖をもどいた学者たちは、その「明眼」を必要としなかった、契沖に倣うだけでよかった。
ではその契沖の「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり、磨かれたか。そこは、宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は「契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うあたりに深く関わる。契沖の「歌とは何か、その意味とは、価値とは」とは、観念の世界で問われているのではない、どこまでも「自分にとって」歌とは何か、その意味とは、価値とは、なのである。それこそが、歌学を知識の集積ではなく、自立した学問に一変させた精神の新しさであった。「自立した学問」の「自立」とは、権威にも家門にも左右されることなく、我が身ひとつの課題としていかに生きるべきかを問い続ける精神である。小林氏は言っている、
――宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……
2
かくして第七章は、次のように書き起される。
――上田秋成が、契沖が晩年隠棲した円珠庵を訪い、契沖の一遺文を写し還った。文は、「せうとなるものの、みまかりけるに」とあって、兄、如水の挽歌に始っている。……
その挽歌は、
いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて うき世の事に なかむとやする
ともし火の のちのほのほを 我身にて きゆとも人を いつまでか見む
これに続けて小林氏は、「如水」は晩年の法号であり、出家する前は下川元氏と名乗った武士であったと言い、そこから下川家の由来と契沖の祖父元宜の代の栄耀、その子元真の代の不運な没落、そして浪人生活を余儀なくされた契沖の父元全の北越での客死と筆を進め、父の死を悼んだ契沖の歌を引く。
聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも 思ひ解かばや かゝる歎に
兄如水を偲んで歌を詠み、兄の文箱をさぐると武蔵の国を旅していた兄に宛てた母親の手紙が出てくる。旅空にある我が子の苦労を思いやる母の心中を思って、契沖は涙が止まらなくなる。
なには潟 たづの親子の ならび浜 古りにし跡に ひとり泣くかな
そこへ、祖父や父親の書いたものも出てくる。「契沖は思い出の中を行く」と小林氏は言い、
――元宜は、肥後守加藤清正につかへて、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、……
を引く。「こま」は「高麗」で朝鮮のこと、豊臣秀吉の朝鮮出兵を言っている。熊本城は加藤清正の城である。
しかし、家運は元宜の子、元真の代に暗転、一族は苦境に陥る。
――兄元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやうなれば、……
「法師」は契沖自身と弟快旭のことであろう、契沖は七歳で寺へやられた。「をなご」は召使いの女の意、「さそり」はジガバチの古名である。
そのうち元氏から、一族の中から一人、そのつもりで育てて家を嗣がせるようにしたいと言ってきたが、よい思案は浮かばず、いずれその時がくれば対処しましょうと答えたままになっていた、だがしかし、このままでは父の名も消えてしまうと思い、次の歌を詠んだ、
近江のや 馬淵に出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父
ここまで、仔細に下川家の事歴を記してきた小林氏は、やや唐突に次のように言う。
――読者は、既に推察されたであろうが、私は、契沖の家系が語りたいのではない。むしろ家系とは何かと問う彼の意識であり、父親に手向けるものは歌しかなかった彼の心である。これを感じようとするなら、彼の遺文は、彼の家系を知る上に貴重な資料とも映るまいし、その歌も、家系を織り込んだ愚歌とは思うまい。文は、そのままこれを遺した人の歎きであり、確信でもあり、その辛辣な眼であり、優しい心である。……
ここで言われている「歌」は「近江のや 馬淵に出し 下川の……」を指し、「文」は特に「元宜は、肥後守加藤清正につかへて……」以下をさすと思われるが、遺文の冒頭に置かれた兄如水に手向ける挽歌二首、「いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて……」と「ともし火の のちのほのほを 我身にて……」、さらに父元全の死を悼んだ「聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも……」、さらに我が子を思う母の心中を偲んだ「なには潟 たづの親子の ならび浜……」、これらの歌も、そのまま契沖の歎きであり、優しい心であり、辛辣な眼である。
小林氏は、ここまで書いて、この契沖の歎きと優しい心、そして辛辣な眼を、しっかり感じておいてほしいと読者に言っている。人生の節目節目で、これらの歌を詠んだ、というより、父に、母に、兄に、手向けるものはこれらの歌しかなかった契沖の歎きと心が、とりもなおさず彼の「一大明眼」を形づくっていたからである。
続いて氏は、契沖個人の歎きの跡を訪ねていく。
――契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪して、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍梨位を受けて、摂津生玉の曼陀羅院の住職となったが、しばらくして、ここを去った。……
「阿闍梨位」は、真言宗で僧に与えられる職位、「摂津生玉」は今日の大阪市天王寺区生玉町で、曼荼羅院は生國魂神社の北側にあった僧坊である。
――水戸藩の彰考館の寄り人に安藤為章という儒者があったが、国学を好み、契沖を敬し、「萬葉代匠記」の仕事で、義公の命によって、屡々契沖と交渉した人だ。この人の撰した契沖の伝記によると、寺の「城市ニ鄰ルヲ厭ヒ、倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、遁レ去ル、一笠一鉢、意ニ随ツテ、周遊ス」(「円珠庵契沖阿闍梨行実」)とある。……
「城市」は城壁をめぐらした町、あるいは城のある町、転じて都会、というのが辞書的な意味だが、ここは市街地と解してよいだろう。自分の寺のすぐ近くに、繁華な市街地があるのを疎ましく思ったのである。
倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、遁レ去ル、和歌を作り、壁に書き残して、逃げるように去った。
――どんな歌を作ったかは、わからないが、契沖の父親が死んだのは、丁度この頃であり、壁間の歌の心も、「思ひ解かばや かゝる歎に」という趣のものだったに違いない。……
そして、
――僧義剛が、又、この頃の契沖に就いて書いている。義剛は、高野で、契沖と親交のあった弟子筋の僧であり、これは信ずべき記述であるが、「阿闍梨位ヲ得、時年二十四ナリ、人ト為リ清介、貧ニ安ンジ、素ニ甘ンジ、他ノ信施ニ遇ヘバ、荊棘ヲ負フガ如シ、且ツ幻躯ヲ厭フコト、蛇聚ヲ視ルガ如シ、室生山南ニ、一巌窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、乃チ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニ塗ル、命終ルニ由ナク、已ヲ得ズシテ去ル」……
「幻躯」は、人を惑わす身体。その幻躯を厭い、契沖は、室生山麓で石に頭を打ちつけ死のうとした、だが、死ねなかった。
3
小林氏の、旅は続く。
――契沖は、再び高野に登って修学し、下山して、和泉の僻村に閑居した。時に三十歳の頃だが、「わが身今 みそぢもちかの しほがまに 烟ばかりの 立つことぞなき」と詠んでいるから、心はまだ暗かったであろう。……
「和泉の僻村」とは、久井村である。今日では大阪府和泉市久井町となっている。
――彼には一人、心友があった。下河辺長流である。長流の家柄は不明だが、契沖のように、零落した武家の出だったと推定されている。二人の交遊は、契沖の曼陀羅院時代に始った。当時、中年のこの国学者は、父母兄弟を失い、妻子なく、仕官の道も絶え、独り難波に隠れて、勉強していた。……
長流の閲歴を、『日本古典文学大辞典』等に拠って補えば、生年は元和九年(一六二三)とも寛永元年(一六二四)とも寛永三年(一六二六)とも言われるが、仮に寛永三年の生れとしても寛永十七年(一六四〇)に生れた契沖からすれば一回り以上の年長である。大和の国に武士小崎氏の子として生まれ、少年時代は遊猟に熱中したが叔父の忠言で歌学に専心、二十一歳の年、京都文壇の中心的歌人、木下長嘯子を訪ねて教えを請うなどした。次いで三十歳の頃、京都の公家の名門、三条西家に、平安時代の村上天皇の皇子、具平親王が書写した「萬葉集」と、同じく平安時代の歌人、顕昭が注した「萬葉集」があることを知り、それらを書写すべく青侍となって同家に仕え、六年後にやっと許しを得て八年がかりで写した。その間、「萬葉集」関係の註釈も手がけていたと見られ、そのなかには契沖の「萬葉代匠記」の下地となった「萬葉集管見」もあったようだ。三条西家を辞した後は、隠士としての生涯を大坂で送った。
契沖と長流の交遊は、契沖の曼荼羅院時代に始ったと言われていたが、曼荼羅院に入った年、契沖は二十三歳だった。それから数年してそこを去り、一笠一鉢の旅に出た。長流は四十前後から四十代前半だった。
――契沖は、放浪の途につくについて、誰にも洩さなかった様子だが、この友には二首の歌をのこした。……
むかし、難波にありて、住ける坊を、卯月のはじめに
出とて、長流にのこしたる歌
繁りそふ 草にも木にも 思ひ出よ 唯我のみぞ 宿かれにける
郭公 難波の杜の しのび音を いかなるかたに 鳴かつくさん
たよりにつけて、おこせたる、かへし 下河辺長流
出て行 あるじよいかに 草も木も 宿はかれじと 繁る折しも
語るだに あかずありしを こと問ぬ 草木をそれと いかゞむかはん
時鳥 聞しる人を 雲ゐにて つくさん声は 山のかひやは
――契沖が高野を下りて、和泉の久井村に落着いたと、風のたよりに知った長流が、歌を贈る。契沖がかえす。会う約束をする。直ぐ贈答である。
春になりて、山ずみとぶらはむと、いひおこせければ
さわらびの もえむ春にと たのむれば まづ手を折りて 日をや数へん
かへし
岩そゝぐ 久井のたるひ 解なばと 我さわらびの 折いそぐ也……
――二人の唱和は、貞享三年、長流が歿するまで、続くのである。読んでいると、契沖の言う「さそりの子のやうな」境遇に育ち、時勢或は輿論に深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて来る。「思ひ解かばや」と考えて、思い解けぬ歎きも、解けぬまま歌い出す事は出来る。「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と契沖から贈られている長流にも、同じ想いがあったと見てよい。唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ。……
これが、歌とは何か、その意味とは、価値とは、「本来の面目」とは、という問いを契沖に抱かせた、契沖自身の経験であった。今回の主題は、ここからである。
――契沖とても同じだが、彼は、歎きのかえしを期している。例えば、
たびたびよみかはして後、つかはしける
冬くれば 我がことのはも 霜がれて いとゞ薄くぞ 成増りける
葛かれし 冬の山風 声たえて 今はかへさむ ことの葉もなし
かへし 下河辺長流
かれぬとは 君がいひなす ことのはに 霰ふるらし 玉の声する
冬かれん 物ともみえず ことの葉に いつも玉まく 葛のかへしは
「霜枯れ」た「ことの葉」を贈れば、「玉の声」となって返って来る。言葉の遊戯と見るのはやさしいが、私達に、言葉の遊戯と見えるまさに其処に、二人の唱和の心は生きていた事を想いみるのはやさしくない。めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである。……
唱和の世界でどんな不思議が起るか、と先に言われていた不思議とは、めいめいの心にあっては解けぬ嘆きが、歌を唱和することによって解けるという不思議である。そこには、めいめいの心の力を超えた、言葉の綾の力がはたらくからである、ということは、歌というものの伝統の力がはたらくからある。
契沖は、その唱和の不思議を身をもって経験した。人間にとって歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とは何かという問いは、こうして契沖生涯の問いとして契沖の前に立ち現れたのである。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言ったのは、契沖が長流との間でもった唱和の経験を源流とするのである。
加えてさらに、契沖と長流の間には、「萬葉集」があった。
――時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介な性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と契沖は書いている。長流は、契沖にとって、学問上の先輩であったが、長流の「萬葉集管見」と、契沖の「代匠記」とは、同日の談ではないのであるから、無論、これは契沖の謙辞であって、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい。しかし、長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先達後輩の関係を超えるものであり、惟うに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか。……
小林氏は、契沖の実生活のみならず、萬葉歌学の発明においても、長流が契沖の唯一人の心友であったという事実はなくてかなわぬものだったと言う。長流が、契沖の唯一人の心友として契沖の前に現れ、長流との間で歌の唱和を繰返したればこそ、契沖はそれまでの歌観を一新した。そこから自分にとって、ひいては人間にとって、歌とは何かの問いを心に蓄えた。
さらに、小林氏は言う。
――詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。私にはそう思われる。……
4
長流の「萬葉集管見」と、契沖の「萬葉代匠記」とは、同日の談ではない、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい、と小林氏は言った。それはそのとおりである。だが、契沖が「萬葉代匠記」初稿本の序に、「かのおきなが、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と書いているのを小林氏は契沖の謙辞と言っているが、この「謙辞」には一言を要する。
大正時代の末に、古今書院から「萬葉集叢書」が刊行され、第六輯に長流の「萬葉集管見」が収録された。その巻頭に置かれた国語学者、橋本進吉氏の研究報告に、次のように言われている。原文は文語文であるが、口語文に移して引用する。
――「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の説及び著書の引用が甚だ多く、「管見抄」もしばしば引用され、巻四から巻十の間に四十二箇所に及ぶ(巻四に十一、巻五に八、巻六に四、巻七に七、巻九に一、巻十に一)。いま「萬葉代匠記」初稿本と「萬葉集管見」とを比べてみると、ただその説が同じというに留まらず、語句に至るまでほとんどすべて一致する。……
橋本氏は、さらに概ね次のように言う。
――「萬葉代匠記」の初稿本の長流説の引用箇所を見ると、「燭明抄」「続哥林良材抄」「管見抄」のように書名を明示しているもののほかに、「長流が抄に」「長流が本に」「長流が昔の抄に」などと書名を挙げていない箇所もある。また、ただ漠然と「長流いはく」「長流申」「長流は……と心得たり」とだけ言って、長流の著書から引いたか、あるいは直話によるものか明らかでない箇所もあるが、「長流が抄」「長流が本」「長流が昔の抄」「長流が昔の本」「長流が若きときかける抄」「長流が注」などの言い方で引用しているものはすべて「管見抄」の説に一致し、その多くは語句に至るまで同じである。すなわち長流の「管見」は、契沖の「代匠記」の基をなしている。……
小林氏も多くを学んだ「契沖伝」の著者、久松潜一氏が、岩波書店刊「日本思想大系」の月報25で、「萬葉代匠記」の「匠」は初稿本では長流が意識され、精撰本では水戸光圀が意識されているようだと言っているのを読んでたちどころに納得した記憶がある。実際のところ、いま橋本氏の研究報告で見たように、「萬葉代匠記」は長流に代って書いたという契沖の、長流を立て通す素志が註釈文の筆づかいからも明らかなのである。ということは、契沖の気持ちの底には、長流に対して詠歌の心友としての親炙の期待とともに、歌学の先学としての敬仰があったと明白に言えるのである。したがって、小林氏が言った契沖の「謙辞」は、いわゆる外交辞令としての「謙辞」ではない、萬葉歌学の先駆者下河辺長流の業績を、あらためて水戸光圀に具申しようとした契沖の心の声なのである。
また、小林氏が、長流が契沖の得難い心友であったという事実は「学問上の先達後輩の関係を超えるものであり」と言っていることにも注意を要する。小林氏は、契沖と長流の親交は学問領域での先達後輩関係を前提としておらず、したがって二人は、歌の唱和には学問領域での先達後輩関係からくる遠慮会釈は毫も介在させていないと言っているのであって、二人は学問で結ばれていたのではない、あるいは学問に重きは置かれていなかったなどと言っているのではない。それどころか、契沖と長流との間にあった「萬葉集」は、学問上の先達後輩の関係をきちんと保って契沖に分け持たれていた。
契沖が長流との間でもった唱和の経験が契沖に抱かせた、歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とはという契沖のいわば自問は、自答を求めて「萬葉集」という歌の沃野を駆けたのである。ということは、「萬葉集」の全註釈という具体的な仕事に恵まれなかったとしたら、長流との唱和で得た契沖の明眼も、宣長をして「一大明眼」と言わしめるほどには研磨されなかったかも知れないとはあえて思ってみたいのだ。
契沖の僥倖は、心のなかの解こうにも解けぬ歎きが自ずと解ける唱和の相手として長流を得たというだけではない、その長流は、契沖と出会ったとき、「萬葉集管見」をすでにものしていた。長流の「管見」は、小林氏が言った「従来の歌学」を二歩も三歩も抜いていた。その「管見」の先見の明が、契沖の明眼をまず研いだと言えるのである。
実際、契沖の「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の「管見」の説がいくつも引かれているとは先に橋本進吉氏の研究で見たが、引かれているどころではない、ほとんどそっくりそのまま転記されている箇所も少なくないのである。たとえば、巻第九の歌、
細比禮乃 鷺坂山 白管自 吾爾尼保波弖 妹爾示
(「国歌大観」番号一六九四)
については、「代匠記」に次のようにある。
――ほそひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細き毛のながくうしろさまに生たるが、女の領巾といふ物かけたるににたれば、ほそひれの鷺坂とはつづけたり。此細ひれをたくひれともよめり。其時は白きといふ心なり。鷺の毛の白ければ、是もよく相かなへり。……
「管見」には次のようにある。
――細ひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細キ毛のながくうしろさまに生たるが、女のひれトいふ物かけたるににたれば、ほそひれノ鷺さかトハつづけたり。此細ひれを、たくひれ共よめり。其時は白きトいふ心なり。鷺の毛ノ白ければ、是もよく相かなへり。……
一句の相違もない全的転記である。
この歌は、今日では「拷領巾の 鷺坂山の 白つつじ 我れににほはに 妹に示さむ」(新潮日本古典集成「萬葉集」)と訓まれている。
私は、「本居宣長」の単行本を造らせてもらう過程で、この契沖と長流の交友に一方ならぬ関心を抱き、『本居宣長』の刊行後に長流の「萬葉集管見」と契沖の「萬葉代匠記」初稿本との逐一照合を試みた。巻第一から巻第二十まで、「代匠記」に採られている「管見」の説は「管見」の該当部に傍線を引いていった。こうして完了した照合作業を見渡してみると、傍線は長流が註釈対象として取り上げた歌のほとんどに引かれていた。むろん、ここに挙げた「細比禮乃」の歌のように傍線が全文にわたっている場合もあれば全面不採用もあり、長流の注釈文のほんの一部でしかない場合もあって一概には言えないが、契沖は長流の注釈文を子細に検分し、慎重に取捨していったにちがいないとは明らかに見てとれた。
だが、光圀の新たな要望を受けて初稿本を全面改稿した精撰本の序に長流への言及はない。本文でも、長流の名はすべて略されている。すなわち、精撰本に至って長流の学問は、小林氏の言うとおり、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではないのである。
これに次いで一言を要するのは、
――詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、……
と小林氏が言っている側面である。歌は「萬葉集」の時代から、まずもって「わが心を遣る」ものだった。すなわち、心に滞るものを他におしやる、心のうさを晴らす、心を慰める……、久しくそれが、歌とは何かであり歌の意義であり価値だった。ところがそこに、契沖は「わが心を見附ける道」を見出した。それは、長流の知らぬ心の戦いの末にであったと小林氏は言う、これもおおむね、そのとおりであっただろう。
だが、長流は、自分の歌を、「わが心を見附ける道」とは思ってみさえしなかったかも知れないが、契沖の歌は契沖の心の叫びであり、それを的確に聴き取れる者は自分以外、ひとりとしていないとは十分に心得ていただろう。止住していた寺が「城市ニ鄰ルヲ厭」って「遁レ去」り、「幻躯ヲ厭フコト、蛇聚ヲ視ルガ如」くにして自殺を図ったというまで潔癖に徹した契沖が、「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と詠んで贈るほどの唱和を長流との間で続けたについては、長流が契沖の熱い期待と信頼を受けるに足る人物であったこと、わけても歌を「わが心を遣るもの」とのみはせず、契沖の心の戦いにも共に臨んでいただろうことに思いを馳せておきたい。そのことは、小林氏が紹介した二人の唱和の長流の調べからも察せられるのである。
長流が二十一歳の年に訪ねて歌の教えを請うた木下長嘯子は、豊臣秀吉の室ねねの兄木下家定の長子であった。そのため関ケ原の戦後は封を奪われて隠棲したが、和漢の学に通じ、何物にもとらわれない文芸観、古典観のもとで詠み続けた歌は一時期を画し、俗語を交えた雅文には自照、すなわち自己省察の色が濃かった。
長流は、そういう長嘯子に教えを請うたのである。したがって、長流もまた捉われることを極度に嫌った。彼の歌道は因習に縛られた堂上歌道ではなく、「萬葉集管見」も堂上歌学ではなかった。
(第二十回 了)
謝 辞 本稿執筆に際し、坂口慶樹氏「やすらかにながめる、契沖の歌」(『好・信・楽』2018年8・9号所載)を参看した。記して謝意を表する。 筆者識
その四 秋の日のヴィオロンのため息~ジャック・ティボー
……やがて窓が明るみ、二人は店を出る。
――雨は降り止まず、街全体が中国の水墨画のように霞んでいた。リュクサンブール庭園にさしかかった時、不意に、彼は庭園の木々を差し示した。よく見ると、その指差す先にぽつんと一点、秋には珍しい小枝の緑である。それは清々しく私の心を打った。
「あの小さな緑を御覧……。世の中は、あたかもこの雨や風のように灰色だが、我々は、必ず、あの緑でなければいけないね……」
その時、その人、ヴェルレーヌの口から零れたこの呟きは、そのまま飄然と霧雨の彼方へ消えて行った寒々とした後姿とともに、今なお、私の胸に耐え難い郷愁を疼かせる。
それから三月ほど経った一八九六年一月九日、新聞は僅か十行ほどで、この詩人の訃を報じたのであった。
(ジャック・ティボー『ヴァイオリンは語る』)
詩人の眼にこの人の世は、蒼然たる暮色であった。そしてその灰色の光景に、一点仄かに光る緑があれば、彼はそれに執着した。十七歳のランボオは、まずヴェルレーヌによって見出されたのである。この二人の愛の彷徨は、ブリュッセルでのとある日、撃鉄の音とともに突然終わった。もっともヴェルレーヌの放蕩は止まず、その後の学校教師時代にも、教え子の美少年と出奔している。が、六年に及んだその漂泊も友の死によって終わり、自ら破壊した家庭との和解は果たされず、その転落の晩年は、パリの娼婦に救済されるようにして、辛うじて露命をつないでいたのである。
ティボーは、この時十五歳。パリ音楽院マルタン・マルシック教授のクラスに入って二年が過ぎようとしていた。が、いま一つ結果を出せずにいた。ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキは入学して六ヵ月でプルミエ・プリを獲得し卒業したのだ……まさかそんな神話的な列伝に自らの名を連ねようと思っていたわけではなかったにせよ、八歳にしてシャルル・ド・ベリオとアンリ・ヴュータンの曲で最初の演奏会を成功させ、さらには巨匠ウジェーヌ・イザイにその才能を保証された身としては、出世に少々手間取りすぎていはしないか、このままでは市井の凡庸な一ヴァイオリン奏者として終る他ないのではあるまいか、つまりは自分には特に秀でた芸術家たるの資格などなかったのではないか……街のカフェでアルバイトの演奏を済ませた後、驟雨に遭って店先に佇んでいたティボーの胸中に、そんな不安はなかっただろうか。たぶんそんな気分のところに、先ほどまで客席にあって演奏を聴いていた一人の詩人――ヴェルレーヌがやって来たのである。ティボーは誘われるままに近くの酒場に赴き、そこで語り明かしたのであった。ティボーもまたなかなかの美少年であったから、詩人はそこに眼をつけたのであったかも知れない。いずれにせよ、文学、芸術、分けても音楽……話題は尽きなかったことであろう。ひょっとしたら、ヴェルレーヌは、持てる最後の情熱を、この美少年の芸術家に、その芸術家の魂に注いだのであったかも知れない。事実、ほどなくティボーは一等賞を得てパリ音楽院を卒業するのだから、この夜の思いがけない邂逅こそが、少年ヴァイオリニストの人生をその閉塞から救ったという、その可能性もないとはいえないわけだ。
さて、驟雨の中の緑。それが芸術の本性ならば、ティボーの音楽はまさにそういうものであった。故郷のボルドーからパリにやって来たばかりのティボーに、よく知られた伝説がある。パリでは当初叔父のアパルトマンに居候した。その叔父は、人生に意欲を失った無気力な人であった。ところがある時、ティボーがヴァイオリンを取りあげて一曲奏でると――それはバッハ「G線上のアリア」であった――叔父はにわかに陽気になり仕事に励むようになった。またアパルトマンの他の住人たちも、廊下を渡り階段を伝って響いてくるその音を聴いて、離婚の危機を忘れて仲直りをしたり、自殺を思いとどまったり、つまりは悉く救済され、皆、幸福を指して生き始めたのであった……。
「澆季の世に枯渇した尊い夢を私たちへ齎すためにこの地上に現れた人こそ、ヴェルレーヌだった」とはティボーの述懐だが、ティボー自身もまた、その混濁の時代にささやかな「夢」を齎すべく、大衆の前に現れた人であったのだ。
「ビクター洋楽愛好家協会」と銘打たれた戦前日本のレコード・コレクションがある。これは志の高い企画だ。全八巻。1935年に始まる第1巻から1940年の第6巻までは、毎年10月から月一枚ずつ、一年をかけて各巻十二枚、予約制で頒布された。艶やかなその盤面から、質のよいシェラックであることが見てとれる。もっとも途中から盤質が劣化しはじめるが、レコードなどは戦費調達のための課税政策の恰好の標的であったから、それもやむを得ないことであったろう。続く第7巻と第8巻はそれぞれ六枚頒布となって企画も縮小し、1942年、計八十四枚をもって完結した。
第1巻の最初の一枚RL-1はヤッシャ・ハイフェッツだ。これは、当時の日本において、クラシック音楽の主役が、まさにヴァイオリンであったことを示唆している。ヴァイオリンを携えた旅芸人とその末裔たち……村の辻に立っていたヴァイオリニストが、街に出、カフェで弾き、やがて国境を越えてとうとう海を渡った……彼らは、少なくとも二十世紀の半ばまでは、漂泊者の魂を受け継いでいたように思われる。そのお陰で極東のこの国も、1921年のエルマンを皮切りとして、以後続々とその第一級の奏者を迎えることができたわけだ。
もとよりこの企画、ヴァイオリンだけでは無論ない。RL-7はあのシャリアピンだ。その十八番というべき「ヴォルガの舟歌」と「蚤の歌」の熱唱は、コレクター志望の青年が古いレコードを聴き始める頃、その道の先輩たちに、「マスト・アイテム」だと念を押されることになる一枚である。シャリアピンは、1936年2月、来日公演の折にこれを録音し、その年の暮れに亡くなった。つまりこの日本盤が、不世出のバスの、最後のレコーディングになったのだった。
しかしながら、やはり、今でもひと際人気の高いのは、ヴァイオリン独奏のRL-11であるらしい。曲はヴェラチーニのソナタ。ジャック・ティボーがたった一曲、日本の音楽好きの大衆のために遺してくれた貴重な日本録音、もとより「マスト」である。
この「ビクター洋楽愛好家協会」盤はよほど売れたようで、今でも、たとえば神田あたりの老舗のSPレコード店を訪ねれば容易に見つかるし、よほど都会から隔たった寒村の旧家の蔵に眠っていたりもする。第1巻から3巻までは専用の豚革のアルバムがあるが、「そのせいで日本中から豚がいなくなってしまったのよ」とは、某レコード店の偉大なるおかみさんである。
私の郷里の実家にも、その第1巻はあった。たぶん今でも、探せば家の何処かに見つかるであろう。
それを蔵の奥から掘り出したのは、受験勉強最中の夏であった。私はそこに籠って勉強漬けを装っていた。蔵の中はいつも涼しいのである。少しは勉強もしたけれど、古い漆器をくるんだ戦前の新聞紙だの早逝した祖父が遺した本だの書簡だの、そちらの方が面白いのは当たり前で、そんなものを不思議な情熱をもって読み耽ったり、漸くそれに飽く頃には気持のよい午睡に身を任せたり。そんな、後になれば苦しい後悔に襲われるとわかっていて、しかしどうにもならないという、焦燥を内包した安逸のある日、驚くほどの存在感をもってそいつは出現した。如何にも重厚なアルバムである。もとより開いてみてはじめてレコード・アルバムと知れたので、最初はなんだかわからなかった。アルバムの一頁一頁がレコードのスリーヴになっている。ハイフェッツ、フィッシャー、そしてシャリアピン……その時分の私はクラシック音楽など聴いてはいなかったが、聞き覚えのある名前ではあったから、一枚ずつ捲っては、順番にレーベルの文字を読んでいった。ところが、それがおおむね終わろうという最後の方の一頁、そこだけが空になっている。裏表紙の一覧表で確認すると、それはジャック・ティボーの盤、ヴェラチーニのソナタであった。
「ビクターのレコード、一枚なくなってるね」
晩酌を始めた父に私は言ってみた。そのいきさつに興味があったわけではない。珍しく親父と話す話題がある、それだけのことだった。父は私を見た。
「ビクターのレコード?」
「蔵の中のだよ。昔の」
「ああ、あれはもう聴きようがないやつだ。捨ててしまえばいい」
「そう?聴けないのか。一枚だけなかったよ」
父の眼は宙を彷徨うようだ。
「……ベラチーニ、だな。チボー」
「そうそう、そう書いてあった」
「べラチーニのソナタ、あれは俺が学生の頃好きだったんだ」
「……」
「それで海軍に持って行った」
「……戦争に」
「そう。聴くことなんかないのだけれど」
「……」
「でも一回だけ聴けた。昼飯にレコードをかける習慣で、そのときにかけてもらったんだ」
「案外さばけているもんだね」
「海軍はな」
ジャック・ティボーは戦前に二度来日している。一回目は1928年のことだ。1921年エルマン、22年ジンバリスト、23年クライスラーとハイフェッツ……続々とやって来た一流ヴァイオリニストは、そのほとんどがユダヤ系の、秀でたメカニックをもつ腕利きだ。エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツはロシア系ユダヤで、サンクトペテルブルクからアメリカに移ったレオポルト・アウアー門下、クライスラーは言わずと知れたウィーン派だが、その出自はポーランド系ユダヤである。そうした文脈のなか、ユダヤ系以外の、フランス派のヴァイオリニストとして初めてやって来たのが、ティボーだった。
「本日世界的大提琴家ティボー氏入京す! 欧米に赴かずかくの大芸術家の神技に接し得るは日本現代人の幸福なり。妄りに料金額の高きを責むるは愚かなり。芸術の真価と来演の諸費とを考へれば、寧ろ二円、五円、七円は廉なり。廿六日よりの開演を御期待あれ」
(『読売新聞』昭和3年5月23日付 帝国劇場広告)
「……彼の演奏は実に繊細と典雅の二字に尽きる。……ウイーンの古謡やそこの優雅な舞曲を何人もウインナ人のようには弾く事が出来ないように、フランクやフォーレやサン=サーンスの作品は正に彼のために書かれたものの感がある。……」
(「ティボーを迎えて」近衛秀麿)
「……久しぶりで本当の芸術家の芸術に接したという感じがいたします。たしかにそれはクライスラーと並び称せらるべき第一流のヴァイオリニストです。宣伝沢山で来る旅芸人達と一緒にしてはいけません。ティボー氏の演奏が=その風采までが=全く予期した通り精錬し切った「フランセ―」そのものであった事は、うわさで聞いた通り、レコードを通してあこがれていた人達にとって、どんなに親しさと満足とを感じさせたでしょう。アウアー門下の人達の派手な技巧や、強大な音になれた日本人にティボー氏の粋な、むしろ渋過ぎる演奏が本当に受容れられるものであろうかという事は、在留フランス人をはじめ、ティボーを知る程の人達が心配していた事のようでした。が、実際ティボー氏の演奏に接して見ると、それは全くき憂で、今更ながら、日本人ほどフランス趣味のわかる国民はないという事をつくづく感じさせます。……」
(「ティボー氏を聴く」野村胡堂あらえびす)
「日本人ほどフランス趣味のわかる国民」云々はともかく、ジャック・ティボーの抒情性は、たしかに日本の民衆の裡にある感受性に深いところで共鳴する、親和的な性格のものであった。
二回目の訪日は1936年、この年は先述のシャリアピンの他に、チャップリン等も来日した。また16歳の諏訪根自子が単身渡欧した年でもある。他方、二二六事件も日独防共協定締結もこの年で、どうやら得体の知れないエネルギーが充満した、華やかで危機的な、そんな季節だったようだ。
その最中にティボーはやって来た。批評家たちは悉く絶賛、ことにフランクのヴァイオリン・ソナタを称える文面が目立つが、これは第一回来日公演のときと同じである。ティボーといえばフランス気質、パリ気質なのである。もとよりティボー自身はフランス南西部ボルドーの出身であるから、彼のパリ気質は、彼自身のパリへの憧れによる創造物であるかも知れない。
「……従来エルマン、ジンバリストはもとよりあの完璧な巨匠クライスラーに至るまで、来朝した世界的ヴァイオリニストの中に私はいわば芸の切売りの如きものだけしか見出せない淋しさを感じていた。しかしティボーが来て初めて私は、一人の人間がヴァイオリンを弾くのに接したのであった。音楽家がヴァイオリンを弾くのですらない。人間がヴァイオリンを弾くのだ。……」
(「ティボー」河上徹太郎)
「……其の後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない。それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラヂオも、私の渇を癒してはくれなかった。……」
(「ヴァイオリニスト」小林秀雄)
実はティボーは「最後」ではない。翌1937年にも、エルマンが二回目の来日を果たしている。しかし、小林秀雄にとって「最後」は「チボー」だったのだろう。後にふり返れば、それはやはり「最後」というべき光景だった。
フランスからやって来たヴァイオリニストが、身体としてこそ実存する人間として、工匠の肉体が確かに作り出し、二百年の時間を超えて持続するヴァイオリンを、今まさに混沌の世を生きつつある自分の、その目の前で奏でている。このような偶然の邂逅が、一回性の切実な邂逅への愛惜こそが、信じるに値するヒューマニズムというものがもしあるとするならば、その唯一の根拠なのではないか。
ところで、私の父が海軍応召に際して持参したレコードというのは、この1936年5月27日に録音されたものである。ヴェラチーニ作曲ソナタホ短調、ピアノ伴奏タッソ・ヤノプロ。ヴェラチーニなどという作曲家は、ロックばかり聴いている青年には全く無名であるから、蔵の一件の時には、どんな曲かもわからなかった。
それから十年も経った頃、私は大学を終え、かといって次の人生の展望も定まらぬまま、まことに頼りなく生きていたのだが、そんなところに親父が上京して私の下宿に泊まるということがあった。あの時は弱った。大学だか海軍だかの集まりで、引っ込んでいた東北の郷里からいそいそと上京なさったわけだが、狭い部屋で面突き合わせても、「おう、どうだ」「どうって、まあ元気にやってますよ」「そうか」「……」、まことに気まずいことであって、つまりコミュニケーションというものが、ない。もっとも親父と息子というのは、いつの世もそんな感じなのに違いない。せがれどもを見ていても、私と何かのはずみで二人きりになったときなど、たしかに困惑している。もっとも私の場合、親父がその胸の裡に帝国海軍という青春の誇りを温存していたから、それを焦点にただ対決していれば格好はついた。戦争だの封建主義だのと言って侮蔑し拒絶するという態度をとることで、自分の位置を定めることができたわけである。それに対して我が家の諸君は、その親父が帝国海軍でも企業戦士でさえもないから、対決するにもしようがないらしい。頑固親父というのは、息子を困惑させぬための配慮であるかも知れない。
その頃の私は、親父と対決する時期はむろんとうに過ぎていたから、それなりに友好的にやってやろうと思っていた。それでちょっと悪戯心を起こした。あのヴェラチーニの盤を親父に聴かせてやろうか。その少し前に、私は小さな蓄音機を手に入れていて、ジャズやロックの古いレコードを聴いたりし始めていたのである。私は自分の思い付きに心が弾んだ。どんな顔をするだろう。親父はあの出征の時を最後に、学生時代に好きだったという「チボー」など、一度も聴く機会のないままに生きて来たに違いない。そう考えると、もう躊躇などない、早速神保町に出かけたのであった。すると目的の盤はすぐ見つかった。試聴させてもらうと、いかにも甘く感傷的な旋律である。びっくりした。あの親父が、如何に青年時代とはいえ、こんなものを好むだろうか。それも死を覚悟した出征の時に。
親父がやって来た日は、朝から雨で、彼は近所の史跡の木立を散策する予定を立てていたのだが、結局のところ億劫がって、寒い部屋で煙草を吸ってばかりいた。
「……なんだ、それは……蓄音機か」
「そう」
「そんなものを持ってるのか」
「なにか聴いてみますか」
「いや、いい。俺には珍しくもない。しかし、そんなもの、今でも売ってるのか」
「売ってるんだよ。いい音がするもんだね」
「いい音がするって、ステレオみたいなのに比べたらダメだろう」
「そんなことはないよ。こっちの方がいい」
「懐古趣味だ」
「御冗談。そんな過去はオレにはないよ。歴史との邂逅です」
私はレコード棚から件の盤を取り出してターンテーブルに置いた。クランクを回して発条を溜め、サウンドボックスを慎重におろした。シェラックに刻まれた溝を鉄針が滑る。そのノイズがしばらく続いた後、優しく微笑ましい、舞曲風の誘うような旋律がぱっと輝く。親父は顔をあげた。遠くに森でも見るような、そんな眼をして、凍結した。演奏はメヌエットから活気あるガヴォットへと移り、やがて片面が終わった。私はレコードを取りあげ、裏返し、針を付け替えて後半の演奏に取りかかる……。
「もういい」
「……」
「もういい、ありがとう」
親父は、ほとんど灰になった煙草を指に挟んだまま、しばらくは、ターンテーブルに回り続ける「べラチーニ」の盤を見ていた。
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ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 三度目の来日を行程に含む演奏旅行に発って間もなく、搭乗機エール・フランス・コンステレーションがフランスアルプスのモン・スメ峰に激突。妻から贈られて以来、手許から放すことがなかったストラディヴァリウス「バイヨー」とともに不帰となった。1953年9月1日。パリでは音楽葬が、日本でも追悼演奏会が行われた。
ヴェルレーヌ……Paul Marie Verlaine 1844-1896
秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの/ひたぶるに/身にしみて/うら悲し
ランボオ……Jean Nicolas Arthur Rimbaud 1854-1891 フランス、アルデンヌ出身の詩人。
マルタン・マルシック……Martin Marsick 1848-1924 ベルギー出身のパリ音楽院教授。
ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。
プルミエ・プリ……一等賞。
シャルル・ド・ベリオ……Charles de Beriot 1802-1870 ベルギー出身のヴァイオリニスト。
アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps 1820-1881 ベルギー出身のヴァイオリニスト。
ウジェーヌ・イザイ……Eugene Ysaye 1858-1931 ベルギー出身のヴァイオリニスト。
大衆の前に現れた人……たとえば「国際大芸術家協会」というティボーのプロジェクトがある。1935年に設立されたその組織は、シネフォニーと称する音楽短編映画を構想し、一般大衆に音楽芸術を普及するために聴覚に視覚を加えた音楽鑑賞の場を作り出した。ティボー自身も、タッソ・ヤノプロの伴奏でシマノウスキの「アレトゥーズの泉」やアルベニスの「マラゲーニャ」を収録、他にニノン・ヴァランやコルトーらも参加している。
シェラック……二十世紀前半のレコードの原料で、カイガラムシの分泌物から精製する樹脂状の物質。
それで終了となった……シャリアピンやティボーの盤等、人気のあったものは、戦後再発されている。なお「ビクター洋楽愛好家協会」については、神田富士レコード社のSさんに教えていただきました。
シャリアピン……Fyodor Chaliapin 1873-1936 ロシアのオペラ歌手。
ヴェラチーニ……Francesco Veracini 1690-1768 イタリアのヴァイオリニスト。
SPレコード……二十世紀前半に普及したレコード。スタンダード・プレイング。この呼称は日本独特のものだ。二十世紀後半に普及したLPレコードが一分間に約33回転であるのに対して、これはおおむね78回転である。78rpm。
アルバム……レコード複数枚にわたる組み物を収納する冊子状のもの。78回転時代のレコードは片面四分強の演奏時間であったから、交響曲などは一曲が数枚に及ぶことになる。それを収めるのがアルバムである。LPレコード一枚をアルバムと呼ぶのはその名残である。
フランク……Cesar Franck 1822-1890 フランクのソナタはティボーの代名詞で、アルフレッド・コルトーとの二度の録音があるし、この来日直前のモスクワ公演では、聴衆が客席にいたコルトーを歓声と拍手で促して、急遽このデュオによるフランク・ソナタのライヴが実現したそうだ。
アルフレッド・コルトー……Alfred Cortot 1877-1962 ティボーとのデュオ、それにカザルスを加えたトリオは一種の伝説になっている。大戦中、ヴィシー政権やナチスとの関りから絶縁状態となった。戦後、ティボーは関係の修復を望んでコルトーを訪ねたが、拒まれたようだ。しかしながら、ティボー遭難の報に接して、コルトーは悲痛なコメントを寄せている。「近いうちに、友よ、あの世で!」
(了)
ウール県はヴェルノンの
ジヴェルニーにて居を構え
夏にも冬にも欺かれぬ眼にて
絵筆を執るモネ様へ
ステファヌ・マラルメ
(*1)
1922年、現在パリのオランジュリー美術館で観ることのできる「睡蓮」の大装飾画の国家への寄贈を終えた82歳のクロード・モネ(1840-1926)は、白内障のため視力が極端に悪化した状況のもと、16歳の時、画家のブーダン(1824-1898)と出会った頃を、こう思い出していた。
「突然、目の前のとばりが引き裂かれたかのように、絵画がどうあるべきかを悟った。既成概念にとらわれず自己の芸術に心を燃やしているこの画家のたった一枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれたのだ」(「モネ 新潮美術文庫26」)
そんなブーダンの作品を、先日「バレルコレクション展」(bunkamuraザ・ミュージアム)で観た。展示の3点は、いずれもノルマンディー海岸の「浜辺の女王」と呼ばれたトゥルービルの海景画で、水色の海にはヨットや帆船が、水色の空には雲がやさしく浮かんでいる。陽光の反射によって作り出された、帆布や雲の鮮やかな白が目に飛び込む。気持ちよく晴れ切った戸外で画布に向かう画家の心持が、直に伝わってくるような作品である。そんなブーダンと海辺でイーゼル(画架)を並べた、青年モネの胸の高鳴りまで聞こえてくる感じさえ覚えた。
その後パリに出て絵を学び続けていたモネは、1865年の官展(サロン)に二点を出品し入選、世に認められる。ともに海景画であったが、守旧的なサロンであることを意識してか、伝統的手法に依ったものであった。その後、67年のサロンでは、戸外の光のもと製作に没頭した「庭の女たち」で落選、生活も苦しくなり、68年には自殺を図ったこともあった。そんな失意のモネを、ラ・グルヌイエールという水浴場兼カフェに引っ張り出したのがルノワールである。二人はそこで仲良くイーゼルを並べ、モネはその水面きらめく作品をサロンに出展するが、またしても悔し涙を呑んだ。その時の審査委員を務めていたのが、モネがその作品に強い関心を抱き、交流も始まっていたドービニー(1817-1878)であった。彼は支持していたモネの作品が不当に拒絶されたと抗議し、審査委員を辞す。
そんなドービニーの没後140周年を記念して開催された「ドービニー展」(損保ジャパン日本興亜美術館)にも足を運んだ。彼の作品は、審査委員の辞任という激しい自己主張とは裏腹に、列をなして泳ぐ鴨の群れや河畔で水を飲む牛たちが描き込まれた田園風景が広がり、静かに時が過ぎて行く。そのギャップを面白く思った。
初期の作品は、昵懇だったコローの作品のように、目の前の自然がリアルに描き込まれたものだが、後年になると、あたかも実験を進めるかのように筆触が変わっていく。例えば、「旅する画家」とも呼ばれただけに、所有するアトリエ船ボッタン号に乗って画布に向かう自らを描いた作品がある。その水面の筆触は、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法を使ったということで知られる前述のモネの作品「ラ・グルヌイエール」のそれとそっくりである。私は、先達と後進が刺激を受け合いながら前進する様を、如実に見たような気がした。
もちろん、そのモネの手法は、小林秀雄先生が「近代絵画」(モネ、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)で書いているように、ターナーらの影響も受けており、「これを徹底的に極めたのは、モネであった」。先生はそう言った後、こう続けている。
「モネは、生涯、この知的な分析的な手法の為に苦しんだ。理論は殆ど役に立たなかったからである」。
*
その初夏の日、直島(香川県香川郡)の空は、爽快に晴れ渡っていた。私は、高松港からのフェリーを降り、藍緑色にきらめく瀬戸内海を眺めながら、30分程歩いて地中美術館へと向かった。
その一室には、モネの最晩年、オランジュリーの大装飾画と同じ時期に描かれた「睡蓮」シリーズの作品群が展示されている。靴を脱いで室内に入る。暗い前室を進むと、その先の展示室正面にある2×6メートルの大作「睡蓮の池」(1915-26)が少しずつ大きく浮かび上がる。自然光のみの展示室に入る。五つの「睡蓮」に囲まれる。あまりの荘厳さに足が止まった。何か人智を超えた存在が、そこにいる。時間の進行が止まってしまったかのような錯覚に陥る。自ずと涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢して、正面の絵に歩を進めた。
徐々にモネの筆触が露になる。当初に感じた何か大きな存在に包み込まれるような感覚は逆に薄れ、画面に近づくほどに、大胆で荒々しく、今描かれたばかりで、絵具の匂いがしそうな感じさえした。しかも描かれたものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、一向に判然としない。それは、小林先生が書いているように「この美しさには、人を安心させる様なものは少しもなかった。……モネの印象は、烈しく、粗ら粗らしく、何か性急な劇的なものさえ感じられる。それは自然の印象というより、自然から光を略奪して逃げる人のようだ」。
ちなみに、開館準備中から、これら「睡蓮」の修復に加え、合わせガラスによる隔離密閉という展示方法までも提案された絵画修復家の岩井希久子さんによると、これらの「睡蓮」作品群は、特別に保存状態が良いという。岩井さんの言葉である。
「地中美術館のモネは、モネが描いたままの絵具の質感とつや、絵具の突起がそのまま残っていました。生クリームを泡立ててピンと角が立つように、絵具がつぶれずに立っている。そうやって残っている絵は、世界じゅうで2割あるかないかだと思います」。
確かに一つの作品には、画布に塗られた絵具の盛り上がりの中に、モネの絵筆の毛が一本、ピンと突き刺さったまま残っていた。(*2)
*
話を元に戻そう。モネはいったい何に苦しみ続けてきたのか。
フランスの批評家でモネと親しかったジェフロワによれば、モネは、1890年、50歳から睡蓮の習作を描き始めた。その頃に彼が書いた手紙の言葉に耳を傾けてみよう。
「私はまたまた、水とその底にうねっている水草という、できっこないようなシロモノと取り組みました……見れば実に素晴らしいのですが、いざそれを描こうとすると気が違ってしまいそうです。だが毎日毎日それに取り組んでいます」。
「思うようにはかどらなくて、絶望してしまうのですが、しかしやればやるだけ、私が追求している“瞬時性”を、とくにまわりを包んでいるもの、あたり一面にひろがっている光を表現できるようにするためには、うんと描き込まねばならないことがわかってきます」。
ここで小林先生の言葉を借りれば、「瞬時も止まらず移ろい行く、何一つ定かなもののない色の世界こそ、これも又果なく移ろい行く絵かきに似つかわしい唯一の主題だと信じていたのであろうか。そして、それは、瞬間こそ永遠、と信ずる道だったのだろうか」。(同前)
1894年には、ジヴェルニーのモネの庭に、睡蓮が植えられた。「積み藁」や「ルーアン大聖堂」の連作を描き終えると、モネの眼は、ジヴェルニーの庭、そして睡蓮の池に集中していく。一方で、その眼は視力を徐々に失っていった。それでもモネはへこたれない。習作を続けてきた彼は、ジェフロワにこんな手紙を寄こした(1908年)。
「私は仕事に没頭している。水と反映の風景は、憑き物みたいになってしまった。私の老いた力を超えたものだが、私が感じとったものを表わしとげたいと思う。私は毀してはまた始め、なんとかして何かを作り出してみたい」。
さらに、「睡蓮」の大装飾画に着手した2年後の1918年、80歳の時に、ジヴェルニーへの訪問客に向けて語った独白に注目したい。
「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものを摑もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」。
モネにとっては、もはや目の前にあるものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、ということは二の次になってしまったようだ。彼が摑もうとしていたのは、眼前の、ありとあらゆる物象から反射された色のかけら、すなわち光の壊れ方だけだった。私は先に、画布上に描かれた物が一体何なのか判然としないと書いたが、色と物との対応関係を判然とさせ自得する必要など全くなかったのである。
そのことを小林先生は、こう書いている。
「光は物象を壊しはしないが、光の壊れ方を追求する絵かきの視覚にとっては、物象は次第に壊れて来た。この事が、音楽家が音を考える様な具合に、画家が自ら色を考える様になる大変好都合な条件になった。画家はオレンヂで考える、青で考える、その考えたところが、確かに蜜柑や海を現しているか、いないかという事は、これは別の事である、別の考えである。文学的な、或は抽象的な秩序に属する考えである。そういう強い意識が画家に生れた。光の壊れ方に気附いた時、画家は、物との相似性の観念をもう壊していた」。(同前)
さらに先生は、同前書「セザンヌ」の中でこう敷衍する。
「自然観が彼(筆者注:モネ)に於いては、もう変わったものになっているという事なのだ。……自然の命とか魂とかいう曖昧なものは、画家の仕事に入って来る余地が全くなくなって来る。自然に向い乍ら、自然の存在というものさえ、実験出来ない単なる観念として、知らず識らずの中に、画家の考えから消え去った。彼等の努力は、専ら、具体的な、疑い様のない知覚や感覚に集中され、これを純化する事が、取りも直さず絵を純化する事だという道に進んで行った。モネの絵筆の動きを、考えの上から言えば、彼は絵筆を動かしながら、視覚というものに関する言わば経験批判論を書いていたと言っていい。視覚を分析批判して、純粋視覚というものを定義しようと努めていたと言っていい」。
私が直島で、「睡蓮」の生々しい筆触に視たものは、いよいよ発展する色彩の科学的理論に惑わされることなく、その自ら信ずる視覚を只ひたすら純化せんとする、モネの格闘の様だったのである。思えば、その展示室に足を踏み入れた瞬間に「何か大きな存在に包み込まれるような感覚」を得たとき、私は、そんな格闘するモネの精神と見られる対象とが、遂に一体化するに至った何ものかを直覚していたのかも知れない。
そのようなモネの眼玉を、詩人マラルメは「欺かれぬ眼」と呼び、批評家小林秀雄は「異様な眼」と呼んだ。
(*1) 1890年夏モネ宛ての封筒に書かれた四行詩
(*2) 2019年9月23日まで、国立西洋美術館(東京、上野)で開催中の「松方コレクション展」では、2点の「睡蓮」を見ることができる。その内、1921年に松方幸次郎がモネから直接購入した「睡蓮、柳の反映」(2×4メートル)は、戦時下フランスに接収され所在不明になっていたところ、2016年にルーブル美術館の一角で、上半分が消失した状態で発見された。今般、1年の修復を経て展示され、下半分の状態は良好で、赤い3本の睡蓮の花には直島の「睡蓮」で見られる生々しいモネの筆触を見ることができる。
【参考文献】
岩井希久子「モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事」美術出版社
ギュスターブ・ジェフロワ「クロード・モネ ――印象派の歩み」黒江光彦訳 東京美術
シルヴィ・パタン「モネ――印象派の誕生」渡辺隆司・村上伸子訳、創元社
(了)
1756年1月27日は、モオツァルトの誕生日である。その184年後の1940年1月27日に、私の父は生まれた。
「モオツァルトとお父さんは、同じ誕生日なんだよ」。嬉しそうに語り、暇さえあると、チェロを奏でている父の姿はあたりまえの日常だった。幼い私にとって、チェロという名前の茶色い大きな怪物はお腹のあたりから滑らかな低い声を鳴らすかと思えば、ギコギコとぎこちない掠れた音を出す不思議な物体だった。その怪物を抱えて体を揺らす父の顔はいつもは見せない独特の顔つきになる。人を寄せつけない空間がそこに生まれる。私は父と遊びたい気持ちを胸にしまっておくしかなかった。
20代の頃からサラリーマンで構成される虎ノ門交響楽団に所属していた父は、田舎に住まいを移してからも隔週の練習通いは欠かさなかった。さらに、田舎にも本物の音楽があった方がいいと仲間を見つけて、アルプ弦楽四重奏楽団を立ち上げた。祭りの太鼓と笛の音頭はあっても、クラシック音楽などあまり馴染みのない小さな町である。怪訝な目を向けられながら、しかし、聴衆がたった一人でも構わない、とにかく弾くのが喜びで、「僕は音楽が好き」だった。
小学生になると、私は楽譜の譜めくり役になった。「お父さんがウンとうなずいたら譜面をめくるんだよ」と教えられ、五線譜に並んだ音符や拍子を目で追いながら、父だけの神聖な空間に入れてもらえたような気がして嬉しかった。初めての舞台には真っ白いワンピースを着て脇に立ち、演奏が始まると、自分が失敗すれば前へ進もうとする和音が崩れるかも(実際はそんなことはないのだが)と緊張感いっぱいに譜面をめくった。
その思い出の曲が、モオツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調」である。ピアノの繊細な音と3つの弦が対等にからみあい、この曲を聴くと、あらゆる感情があふれて涙がこぼれる。そういえば、小林秀雄の「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)を貫いているのも、ト短調の調べである。「大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」という文の冒頭には「交響曲第40番ト短調」の楽譜の一節まで書かれている。「文学者がこんな音楽の本を書いているぞ」と教えてくれたのも父である。モオツァルトはト短調の曲を4つ書いていて、小ト短調とも呼ばれる「交響曲第25番」そして「弦楽五重奏曲第4番」と続く。小林秀雄は生前「わたしはヴァイオリンがとても好きだ」と語っていたそうだが、とりわけ、「弦楽五重奏曲第4番ト短調」には心底魂を揺さぶられていた。この名文はあまりにも有名である。
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない」(同上)
なぜ、ト短調を聴くと、こんなにも心がはかなく、ほろほろと、感くのだろうと立ち止まる。短調の音階が人に情趣をもたらし、その情趣に人がこれほどまでに魅かれるというのは、なぜなのか。
私がト短調を聴いて涙がこぼれるのは、まさに、若き父の夢が現実との狭間で思い出されて胸がつまるからである。じつは、田舎に居を移したのは、当時恋人だった母の父が急逝して、四姉妹の長女であった母は婿養子を迎えて家業を継がねばならなくなった。父の「僕は音楽が好きだ」の根柢には、「かなし」が鳴っていたのである。
ト短調の交響曲について、小林秀雄は書いている。
「僕は、その頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。モオツァルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつ向きになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れて了っているに違いない。二重瞼の大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている。ある巨きな悩みがあり、彼の心は、それで一杯になっている。眼も口も何んの用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物の耳の様に動いているかも知れぬ。が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生れたものに間違いはない、僕はそう信じた。何んという沢山な悩みが、何んという単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では、言い現し難いものがある。全く相異る二つの精神状態の殆ど奇蹟の様な合一が行われている様に見える。名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか。それが即ちモオツァルトという天才が追い求めた対象の深さとか純粋さとかいうものなのだろうか。ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った」
この考えは、短調の音階が人に情趣をもたらし、その情趣に人がこれほどまでに魅かれるのはなぜなのか、という音楽の最大の不思議のひとつに答えるものではないだろうか。
そんなことを考えるようになったのも、山の上の家で、自分が和歌を詠むようになったからである。ある塾生の「もののあはれを知るには、どうしたらいいですか?」という単刀直入な質問に対して、「それは、歌を詠むことです」と即答された池田雅延塾頭は「一日一首詠んで、千本ノックならぬ千首をめざしなさい」と言われた。半信半疑のまま、和歌と短歌の違いもわからず、詠みはじめて八〇〇首近くにはなっただろうか。教科書代わりの「古今和歌集」はボロボロである。
自分が心に思うことを古語の世界に浸り歌に詠む、あるいは、本歌取りを通じて「万葉」や平安の古人の感性や思考にふれていく。その行為はもしかしたら、父がモオツァルトの曲を弾いていたことと似ているのではないかと思う。
本居宣長は「あしわけ小舟」で「只心の欲するとほりによむ、これ歌の本然なり」と歌は心のありのままに詠むべし、と諭すとともに、「ただ古き歌をよくよくみならふべし」という。その心に本づき、「物のあはれにたへぬ時のわざ」とは歌であり楽器であると言えるなら、古人や作曲家のふりに倣うことはどちらも「もののあはれを知る」行為といえるだろう。
ト短調と和歌。モオツァルトと父。
私にとってすべてが互いに響きあう。そのいちばん濃い重なりに存在するのが小林秀雄である。いずれも、私という人間はいかに生きるのか、という問いを私に突きつけ続けているように感じている。
(了)
〈はじめにひと言〉
「小林秀雄に学ぶ塾in広島2018/10」に参加した時、広島で「小林秀雄素読塾」が毎月あることを知り、11月から仲間に入れてもらっています。「小林秀雄に学ぶ塾in広島 2019/4」で池田塾頭と初めて直接話しました。塾頭の気さくなお人柄に魅せられて、無防備に、広島の素読塾での心地よさを話しましたら、こんな文を書く破目になりました。本誌『好・信・楽』を一度も見たことがなく、戸惑い、おどおどしている今です。
〈日本語文字の始まり〉
令和元年5月末、台東区立書道博物館を訪ねた。漢字3500年の変遷が展示されている。その中で、日本語が文字化されたことについての最初の説明に目が止まった。古代日本人は文字を持たなかった。中国からもたらされた漢字を、日本語表記に当てた、例えば「なにはづ」を「奈尓波都」とした。こういうふうに「古事記」をすべて漢字で書いた太安万呂の後、漢字を書くには時間がかかるので、簡略化した「草仮名」を生み出し、それが正式表記の漢字「真名」に対する通俗平易の字としての「仮名」である「平仮名」となった。
「古事記」序に、安万呂が稗田阿礼の口伝を記録として残したことを言い、文献によるものではないと書いている。安万呂は、阿礼の誦習を非常に大切なこととして受け止めた。皇紀、神話も阿礼は真実と思って後世に伝えるべく責任を感じ、それをそのまま記録に残すべきと安万呂は感じて、私心を交えず書き留めた。漢字の知識は豊富な安万呂であるから、古代人の世界を文字であらわすについては、古代人が信じた世界を表現するにふさわしい字を選んだはずだ。安万呂は、阿礼の語りぶりに隠れた力を感じ取り、直感と想像力を駆使して、いささかも私のさかしらを交えず筆録した。「古事記」が編まれた当時はそれを読める人もいたが、時代が過ぎてゆくと読める人も少なくなり、江戸時代には世の片隅に追いやられていた。
古典に関しては、後世の註、すなわち解釈を重ねることによって、とんでもない伝えに変わっているものがあった。江戸初期に研究を重ねた中江藤樹から、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、賀茂真淵らは、社会的権力からも富からも一線を画して、一般の人の如何に生きるべきかは、古典を究めればわかるはずと信じて、その底に流れる血脈に向かって、孤独な自問自答を繰り返す道を迷わず進んだ。私は、「清貧」という生き方が、日本の歴史の中で幹として、大きく育っていることを小林秀雄先生の「本居宣長」で再確認した。
宣長は、古典が本来持つ価値を認め、書物が彼の体の一部となるほどに向き合い親しんだ。虚心になるにつれ自然に、古人の姿、形が浮かんできて万人が信じることができるほどまで見極めて行った。その恩恵に、小林秀雄先生を通して今日、この私でさえあずかれる幸運を得ている。
〈私の神話時代〉
灰色の空一面に銀の破片最初の記憶空襲らしい
昭和17年(1942)生まれの私の幼少期は物のない時代であった。私は、父の膝の上に乗り摩訶不思議な世界に見入っていた。父が分厚い英語辞書の右端角に描いた線画の人物がページをめくれば動くのだ。父が魔法の力を持つと思い込んでいた。大人になって知れば、仮現運動に過ぎない。当時は、本も無く、父は、ざら紙に水彩で「桃太郎」や「舌きり雀」の絵を描いて昔話をしてくれた。物がない時代でも、工夫して育ててくれた。親のありがたさに気が付いたのは、両親が亡くなってからだ。
中学校へ進学した私は、毎朝、父と歩いて通学した。父が勤務する高校と方向が同じだったのだ。私が進学した中学校は、裕福な家庭の生徒が多くて、ほとんどの者が、バスあるいは自転車通学だった。自転車で追い越していく同級生を羨ましく見ていたが、今では貴重な時間だったとありがたく思っている。父と一緒に歩きながら様々なことを聞いた。鷗外、漱石、トルストイ、ドストエフスキー、日本の陰暦月名、社会問題等、私が知らないことを話してくれた。目には見えなくても広い世界があるのだと豊かな気持ちになったものだ。文字を介さない私の神話時代である。
この体験があるから、阿礼が語ったことを事実と信じて安万呂が残したことが、私にはそのままだと思える。そして、宣長が自分の価値観を交えることなく、古人の情をそのまま受け止めるべく虚心に書物と向き合ったことも受け入れられる。
最初にこの本を読んだときは、宣長の生涯をかけたすさまじさに打たれたものの、「古事記」、「源氏物語」についての彼の功績は印象に残らなかった。私に、受け止めるだけの準備ができていなかったのだ。
〈物のあはれ〉
「源氏物語」は、金力、権限を持つ男の身勝手という最初の印象が払拭できず、これまで、私は、その価値に肯けなかった。名作を味う力がないのかと負い目さえ感じていた。今回読み直して、少しわかってきたことがうれしい。紫式部は、子どもが感じるそのままを損なわず「うれし、おかし、たのし、かなし、こひし」の心の奥底を探りだし、それらをじっくり味わう物語を編み出したのだ。人間のどうしようもない感情に翻弄される哀しさが、よく描かれている。やっと日本の古典に出会うことができたという喜びがある。
〈感動することの大切さ〉
夫が逝って4年半経った。夫を一人残してはならぬ、一人のやるせなさを夫にさせてはならぬ。私が、40代初めに、夫の両親を自宅で見送ったときから、私が夫に恩返しできることはこれしかないと思って体力維持にも気を付けてきた。夫は、「単なる妻、母で終わるな、勉強しろ」と言い続けてくれた。読書会が、今日まで40年続いているのも夫の理解があったからこそだ。私が公職に推されてためらっていると、夫は私の背中を押してくれた。読みたい本を話題にすれば、夫は、その本を机の上に置いてくれた。二人の読書会は何物にも代えがたい至福の時であった。最良のパートナーを失った喪失感は言葉では言い表せない。
自分を必要とする者がいない、ただ呼吸するだけでも社会資源を消費する、何のために生きているのかと思いだした頃、私は、「小林秀雄に学ぶ塾」を知った。小林秀雄先生は、高い嶺だが、その登山口を見つけた。案内人に導かれて高度を上げて行けば、広い視野が広がるに違いないと思えて飛び込んだ。今、私は、確かな手ごたえを感じている。
テレビで、指揮者、大野和士が話しているのを観た。クロアチアがユーゴスラビアから分離独立するとき、クロアチアの首都ザグレブで、ザグレブフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めていた。戦闘中も休みなく定期演奏会を続けたが、毎回立錐の余地なく立ち見席が埋まったと言う。明日にも命が果てるかもしれない惨状下、人々は感動を求めて音楽を聴きに来た。感動こそ人間であることのあかしだ、自分は必要とされていると自覚して、覚悟して取り組むようになったと話した。
夫が亡くなった直後、息子が私に語ってくれた。人間は感動が多いほど老いから距離を置ける。今、手にしている感動場面を大事に持ち続けるようにと。もっと知りたいと思うこと、気になることがあれば、もう恥を気にする歳でもないので、人からどう思われようとも好きなことをしていこうと思っている。思うように動けるのも、後、残り何年かだろうから、これくらいのことは許されると思っている。
夫に再会した時、夫のレベルに近づいていたい。だから、夫から、よく頑張ったねといってもらいたいと思うようになってきた。
「小林秀雄に学ぶ塾」に感謝します。こんな時が来るとは思いもしなかった。生きていればこそだ。
(了)
平成27年10月12日に行われた“第1回小林秀雄に学ぶ塾in広島”、これが小林秀雄氏との初めての出逢いでした。
そのときの池田雅延塾頭の講演の中で、最も印象に残ったのは「ユニバーサルモーター」のお話です。
「世界中のヨットというヨットが、ユニバーサルモーターを積んでいる。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。世界中のヨットがこのモーターを積んでいるのは、港を遠く離れた海上で帆柱が折れるといった緊急事態に陥ったときも、確実に港まで帰り着くためだ。各社競ってスピードの出るモーターを開発しているが、スピードの出るモーターは壊れやすい。ユニバーサルモーターだけが、絶対に壊れないモーターとして造られ続けているのだ……」と、小林秀雄氏がお話されていたという内容でした。これを聴いて、私は、正しい信念があれば、周りのスピードとは関係なく、真理に近づける、歩みは遅くてもいいんだ、と言われた気がしました。これからどうやって生きていけばいいのか、心の奥底で長い間ずっと求め続けていたものが見つかったという感動で全身に鳥肌が立ちました。
当時、愛犬の死を切っ掛けに始めた動物愛護活動を通し、私達人間は、多くの生き物の犠牲の上に生きていたんだということを目の当たりにしていた時期でもありました。また社会はそんなことを一々考える暇もなく、時代は猛スピードで駆け抜けていく。その速さには到底ついていけず、先行く人達を見ては、羨ましがったり妬んだりしている自分にも嫌気がさしていました。鍼灸を生業としている私は、何が正しくて、何が間違っているのかも分からない不安定な状態のまま、人の身体や心に触れる仕事をしている。「今のまま、この仕事を続けてはいけない……」と日々、悩んでいましたが、小林秀雄氏の思想に触れることで私の心の軸ができ、問題との向き合い方が見えてくると直観しました。
その後、“小林秀雄に学ぶ塾in広島”と鎌倉で行われている塾に参加するようになりました。しかし、本が難しくて読み進めることができなかった私は、懇親会の席で、池田塾頭に「小林秀雄氏の本が解るようになりたいのですが、難しくて読めないのです」という正直な気持ちを打ち明けました。すると塾頭は、とても穏やかに「読書は、意味を取ろうとしなくていい。景色や写真を眺めるように全体を眺めて、声に出して読むんだよ。意味は後からついてくるから」と読書の方法を教えて下さいました。早速、小林秀雄氏の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)の素読みを始めました。
そのうち、正しい読書とは、鍼灸師の私にとって患者さんとの向き合い方の訓練なのだと感じるようになりました。鍼灸の施術は患者さんの訴える症状にだけ鍼や灸をするわけではありません。患者さんの心の訴えを感じ、その人の背景にある不安、考え方の癖、生まれつきの体質等を総合的に診て、その方に合うであろうツボの組み合わせ、鍼や灸の刺激量を変えていきます。同じ患者さんでも、日によって心身の状態は微妙に変化し、それを見逃さないように気をつけていないといけません。鍼灸師側が「きっとこの患者さんは、こういう人だろう」と思い込んで決めつけてしまうと、患者さんの心の声が聞えなくなってしまいます。鍼の技術の乏しい私には、心の声を感じるということは、とても大切な課題です。
そんなことを考えながら素読みを続けていると、気になる箇所が出てくるようになりました。
“自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である” (第5章)
“一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼儀自ら備わるという状態があったのも当然なことである。”(同)
“人々が、その限りない弱さを、神々の目に曝すのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退っ引きならぬ動きを、誰もが持って生まれて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。”(第50章)
しかし、何故これらの箇所が気になるのか、自分にとって都合のよい所だけを引っ張ってきているだけではないのか、そもそも私は正しく読書ができているのか? と、考えれば考えるほど不安は大きくなる一方でした。
そんな時、広島の塾の主催者である吉田宏さんに背中を押して頂いたのが切っ掛けで、鎌倉の塾で質問に立つことになりました。早速、質問を池田塾頭にメールで送り、ご指導いただいたことは、「山の上の家で小生が求めている『質問』とは、小林先生の『本居宣長』のどこか一ヵ所を取上げ、その本文の行間で言われている深意について自問自答するというものです。今回の『質問』では第5章の『好信楽』という言葉が取り上げられていますが、300字という字数をフルに『好信楽』に宛て、この言葉に託した宣長の意志や覚悟を縦横に推察するということを試みて下さい。300字という限られた字数には森本さんの経験や感想を述べ立てている余裕はありません」という内容でした。
教えて頂いたことを頭に叩き込み、本と向き合った時、「質問締め切りまで、もう時間がない」という焦りから、私は、本居宣長の意志、覚悟は何か? と意味を取ろうとしてしまい、全く何も見えなくなってしまいました。ふと、「あ、これは患者さんと向き合う時にも、私が陥りやすい現象だ」という思いがよぎりました。落ち着いて池田塾頭から頂いたメールと塾でのノートを読み返しました。すると過去に教えて頂いた読書についてのメモが目につきました。意味を取ろうとせず、眺めるように、再度、素読みしていくと、「もしかして、こういうことかな」という答えが自然と見えてきました。
本居宣長の言う「好信楽」とは、趣味のような軽々しいものではなく、実生活で実践しながら学問するということであり、生半可な生き方をしていては到底出逢えるものではないのではないか、という、今までとは全く違った景色が見えてきたのです。得心がいった瞬間でした。
そこで、私が提出した質問は、“自分のこの『好信楽』という基本的な態度からすれば、『凡百雑技』から『山川草木』に至るまで、『天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ』と言う。このような態度を保持するのが、『風雅ニ従』うという事である” について、本居宣長の言う『好信楽』とは、実生活で実践しながら学問するということなのでしょうか? また “之ヲ好ミ信ジ楽シム” という、その対象と出逢うためには“凡百雑技”から“山川草木”に至る天地万物などの身の回りのもの全てが教えであり、“上古、人心質朴の頃”のような有るが儘の生き物としての自然な情の現れを知り、自分自身を、正しく、冷静な目で見つめなければならないということなのでしょうか? でした。
ところが、池田塾頭は、「森本さん、自答の最後の最後で気を抜いてしまったね。『自分自身を、正しく、冷静な目で見つめなければならない』というのは、現代社会で言われている通念です。現代社会の通念をここに持ち込んだのでは宣長が言わんとしている大事なことが宙に浮いてしまいます。宣長が言わんとしているのは客観の真反対の主観こそ大事ということで、小林先生が言われている「宣長の『好信楽』という基本的な態度」とは、何事にも自分自身の感性で……、ということは主観で向きあうという態度です。だから自答も原文を現代語に翻訳するのではなく、最後まで宣長の言葉に即して行わなければならないのです」、さらにその後の懇親会でも「森本さん、わかったかい? 最後が肝心なんだよ。『徒然草』の『高名の木登り』だよ」と、今回の私の質問で足りなかった点について丁寧にご指導下さいました。「高名の木登り」の話は、「徒然草」の第百九段に出ていました。
私にとって「好信楽」とは、小林秀雄に学ぶ塾そのものです。ここで学ぶ事は、鍼灸の修行であり、人生の全てに繋がっています。これからも、塾での学びを深め、小林秀雄氏の思想に触れ、良い鍼灸師を目指し、学んだ事を一人でも多くの患者さんに活かしていきたいと思います。山の上の家では、かけがえのない時間を過ごさせて頂いています。池田塾頭はじめ、いつも優しくて親切な先輩方に出逢うことができ、私にはこれ以上の幸福はありません。
最後に、このような、奇跡的な御縁を作って下さった吉田宏さん・美佐さんご夫妻に心から感謝を申し上げます。
(了)
宣長の書いた遺言書は、なぜこんな風になったのか。奥墓の場所はどうして山の上を選んだのか。
宣長という人の不思議、宣長の残したものが含有するものを少しでも分かりたい……と、これまで小林秀雄の「本居宣長」を読み続けてきて次第に強く思うようになってきた。そして現時点においては、宣長の奥墓に関しての問いを続けながら読んで行けば、何かしっくりくる、まとまった思いが湧き上がってくるかもしれない、という淡い期待のもと、自分の考えの及ぶところから、ゆっくりと納得のいく思いを繋いで行こうと考えている。
今回は、宣長の書斎を一つのきっかけとして、書斎と奥墓の位置関係を考えてみた。宣長の作ったものに思いをめぐらせることで、何か見えてくるものがあるのではなかろうか。以下はその視点から連想された、取り留めのない言葉のかけら群である。なお宣長に関しての情報は、本居宣長記念館のホームページや吉田悦之館長著の『宣長にまねぶ』(致知出版社)を元とした。
奥墓は松阪のはずれの山室山の頂ちかくにある。山の上というのは、どういうところか。様々な形容する言葉が出てくるが、一つしか選べないのであれば、今の私は「高い」を選ぶ。高いという言葉が示す徳はなんだろうか。子供は大きくなりたいと望み、遊びとして木に登る。鳥を眺めてあんなふうに空高く飛んでみたいなぁと思う……といったことは、人に備わった普遍的な自然な欲求ではないだろうか。もちろん、高所恐怖症の人もいるわけだけれど。
宣長は若かりし頃、よく四五百の森に行ったらしい。往診にかこつけて、薬箱を下げながら森を歩いて思索したこともあったという。五十代のとき、宣長は書斎を作った。中二階の四畳半の小部屋で、階段はごみ箱になっていて取り外しが可能だった。歩きながらから、座しての思索に変化した。本人は座したとしても、人の思いは常に移ろうものだ。言葉は漂う。思考も漂う。階段を外した書斎は、中空に浮かぶ「思索の神殿」のようである。洋の東西を問わず、天へ思考を飛ばす感覚があるのだろうか。バベルの塔の発想も、考え方の根っこは同じように思える。出雲等の神も高床だ。何となく幽体離脱のイメージも浮かぶ。後の世から見ると、ついつい余計なことを引き合いに出してしまう。でも逆に、宣長が自ら作った書斎が、色々に見えてくること自体がすでになかなか面白い。宣長の家は松坂の魚町にあり、先代からある屋敷であって宣長自身が建てたわけではない。しかし書斎は宣長が自ら望んで自分好みに作り上げたものだ。以前、松阪に行ったとき、鈴屋遺蹟の書斎を見てまず思ったことは、すっきりしていていいなぁということだった。しつらえは簡素だが、柱や壁板に桜の木をつかうなどのこだわりがあるという。シンプルだからこそ、見る側の想いが映るのか。色々に見立ててしまえるのである。魚町にあった当時は、書斎の窓をあけると四五百の森が見えたという。若き時代の思索の場と書斎が視覚を通じて繋がるのだ。日々、実際にその森を自らの目を通じて眺める時、空間的・時間的に思想が錯綜することもあったのではなかろうか。そして春には四五百の森の桜を愛でた。書斎を新築した時のお披露目は、桜が咲くのを待って行われたという。余談だが、当時の松坂においては、自分好みの書斎を作り、人に披露することは珍しいことではなかったらしい。
一階に居ては見えないが、書斎に登れば四五百の森までの眺望が得られる。宣長はもともと高い所が好きだったという。富士山に登ったこともあるし、京都に行けば清水寺の舞台からの眺めを楽しんだ。東寺の五重の塔にも登ったことがあるらしい。高みにのぼる書斎を作った、そしてその書斎は階段を外すことで切り離された空間にもなった、という書斎の姿には、宣長らしさというものがあるのかもしれない。宣長らしさというのは、これまた難問ではあるけれど。
書斎を作った前後で、宣長は自画像を描いた。四十代の時と、六十代の時に描かれている。宣長は京遊学から帰る際、温厚で円満な常識の衣として、早々と薙髪になり十徳に袖を通して帰郷した。自ら着るものを選び、そこに憂いや迷いはすでにない。その後、医師はもとより本居家の主、歌人、源氏物語講義者、古事記読解者など様々な顔を幾つも持つ。そんな中で描かれた自画自賛像は、自分はただ桜の好きな宣長という名前の一人の人間であるという宣言に見えなくもない。賛を読めば桜好きと分かる。四十代の自画像には桜や机を描きこんでいるが、六十代の自画像は本人と賛のみになり、年月を経て、すっきりしていくところが面白い。体現したものがいつのまにか学問となったひとりの人間の姿であり、自画自賛像は彼の自発的行為の一つである。そうさせたのは彼の充実した自己感であろう。医業できちんと家族を養い、学問の著作も着々と完成させていた。
自画像といえば、以前、山の上の家の塾において皆で自画像の話をした時、塾生の村上哲さんが「遺言書の奥墓の絵は、宣長の未来の自画像だ」と言った。なるほど……そう言われてからは、今はそうとしか思えなくなっている。
すっきりというのは宣長を巡るひとつのキーワードに思える。小林先生は、宣長の奥墓を見て、「簡明、清潔で、美しい」と書いた。「本居宣長」には、小林先生の感想めいた言葉はほとんど無いから、この一文はすごく印象的だ。でも、これはなにも奥墓だけにとどまらず、宣長の自画像、書斎にも当てはまる。そして「簡明、清潔で、美しい」とは、宣長の暮らし、仕事ぶり、全てに当てはまる言葉だとも思っている。「古事記伝」は大作だが、その手書きの文字は整然としていて美しい。吉田館長の『宣長にまねぶ』にも同じことが書いてあった。「源氏物語」が「もののあわれ」を知ることをはちきれんばかりに語ったものなら、宣長の人生は「簡明、清潔で、美しい」をはちきれんばかりにしているものがあるかもしれない。宣長は自身の死の直前に、知らせを受けてやって来た長女を見て「さっぱり、美しゅうなった」という言葉をかけたという。父からこの言葉をもらった娘の心中は、いかばかりであっただろうか。
宣長は書斎で思索して、「古事記」の神代の時代にまで自力で辿りついてしまった人だ。宣長が生身の肉体を持ち生きていた時は、神代へ通じる道は書斎という中空に浮かぶ小部屋が起点だったと言えるかもしれない。死してからは奥墓を起点にしようと思ったのであろうか。宣長の奥墓は山の上にある。つまり、宣長の肉体が眠る奥墓の地下は書斎よりも高い位置にある。死してなお、さらに高い所に行きたかったのだろうか。
そもそも「古事記伝」は、「あめつちのはじめのとき……」と始まる。奥墓のある山の上は、まさにその天と地の境を体感できるような場所だ。生きている人間が日々目にする、人の営みの周囲を取り囲む世界である。宣長はそういう起点にずっといたい、と思ったのであろうか。山室山の上からは海がみえる。富士山も見えることがあるという。宣長は松坂に生まれ育ち、仕事をし、そしてそこで死した人だ。そんな人が眠る墓から、自分が暮らした町のみならず、海も富士山も一望できるなんて、なんて素敵な場所を見つけたのだろうとつくづく思う。宣長の戒名は「高岳院石上道啓居士」である。「石上」は号で、「道」は代々本居家当主の戒名に付くらしい。戒名にも「高」を入れる宣長は、相当に高い所好きに思われる。宣長は高い所だけでなく、地図も好きだった。本居宣長記念館で見た、若い頃に描いたという「端原氏城下絵図」はすごかった。宣長は江戸や京都には行ったことあるが、日本の土地すべてに行ったわけではない。しかし、土地々々の言葉を探求しながら言葉の日本地図を通じて縦横無尽に国中を旅している。松坂のみならず、海も、日本一高い山も見えるような、そして天地に抱かれるような場所で、誰にも邪魔されず永遠の眠りにつく。高い所好き、地図好きの人の墓として、奥墓のある場所は一つの理想ではなかろうか。そういう場所に、宣長は自分だけの墓を作ることにした。宣長とはそういう個性の持ち主である。墓を通じて、後の人に見せたいものは、天地が始まるところに桜が咲いている景色だけなのかもしれない。家に置く位牌には「秋津彦美豆桜根大人」と記すよう指示した。
両墓制という風習は当時近畿地方を中心にあったようである。遺体を埋葬する埋め墓と詣り墓に分けるのが基本的な考え方の様だが、宣長の奥墓は逆である。土葬の時代は、朽ちていく遺体を人里離れた遠くに埋葬して、お参りするための墓を別に作るということは、衛生面などにおいても、長年の暮らしの知恵として意味のあることだったかもしれない。しかし、宣長は通常の発想とは逆で、遺体のある方を、家族とは別の独自の詣り墓として、奥墓に参るよう望んだ。山室山を選んだきっかけは、山室山の妙楽寺が本居家と縁の寺だったらしいので、その近くで……というようなごく単純なものだったかもしれないが、奥墓の完成形の姿の中には実に様々な意味が詰まっているようにも感じる。初めは山の中腹を選んだが、最終的には眺望のいい頂ちかくとなった。偶然の成り行きだったのかもしれないが、でもなにか必然的なものを感じる。このように、後の世の我々は、勝手にはちきれんばかりによけいな意味合いを見出そうとしてしまう。でも、仕掛けられている、とも思えるのだ。
日本は海に囲まれた島国だが、実はとても山国だ。山を越えないと違う土地には行けない。雪解け水は山にしみこみ、地下水が恵みとなり里を潤す。山が御神体という発想も多い。今回は「高い」ということを手掛かりに書斎から奥墓へと考えてみたが、「山」ということをめぐっても、いずれもっと考えなければならないだろう。漕ぎ手は一人の宣長は、川に乗り出した。その小舟は、どっちに向かって漕ぎ出たか。上流に向かって、源流に向かって漕いだであろう。下流に向かうなら漕ぐ必要はない。時代の流れをさかのぼり、言語というものを手掛かりに、「古事記」の世界を目指した人は宣長だけではないが、自力で行って来てしまった人は宣長だけである。宣長の肉声は、神代見聞録でもあるかもしれない。「古事記伝」を書きながら時間的には神代にまで、言葉の地図作りや言語研究で空間的には日本全国を、肉体が及ぶところを超越して、彼方此方隈なく旅をした、そういう宣長が獲得した死生観を、これからも考え続けてみたいと思っている。
(了)
……小林秀雄『本居宣長』を読んではとりとめもないおしゃべりをする男女四人、今日は第八章から第十章あたりまでが話題になっているようだ……
元気のいい娘(以下「娘」) ボク、決めた。
生意気な青年(以下「青年」) 決めたって何?
娘 ゴーケツになるの。
青年 ええええええ!
凡庸な男(以下「男」) うーむ、それは、小林先生のいう豪傑のことかな。
娘 そう。「万葉」を読んだ契沖、「語孟」を読んだ仁斎、「六経」を読んだ徂徠、「万葉」を読んだ真淵、「古事記」を読んだ宣長。こういうオジサンたち。
男 ええと、その、どういうところが豪傑なの?
娘 卓然独立して倚るところなし、でしょ。決まりだわ。
青年 そんな無茶な。
江戸紫の似合う女(以下「女」) 元気がおありで、よろしゅうございますわ。
娘 他人は知らず自分はこの古典をこう読んだ、そういう責任ある個人的証言が出来るような人でしょ。立派。こういう人に私はなりたい!
女 素敵、Girls, be ambitious!
青年 そんなこと、できるわけないさ。非現実的だよ。
女 君はいつもそう。Boys, be suspicious ! (笑)
青年 からかわないでください、謙虚なだけです。
男 それで、その、「自分」とか、「個人的」とかいうのは、個性とか、独創とかいうことなのかな。
娘 そうじゃない。他人の受け売りをしないで、ということ。
男 ううむ、古典には、膨大な註釈の伝統があるからね。註釈の集積から抽出された理論ではなく、古典の本文を読みなさいということかな。
青年 そういう原典主義っていうのは、なにかモダンな感じがする、方法論的に。
娘 それは全然違う。あくまで、無私の精神よ。
青年 いまの学問だって、客観主義というか、実証主義というか、個人の恣意は排除しているよ。
女 でも、その中身が大違いじゃなくて。現代の学問は、それぞれの分野の専門家集団が、皆が共有する方法論で研究を進め、先行業績を踏まえつつ一定の差異が認められれば、独自業績として受け入れられるわけでしょう。個々の研究者の恣意は許されないっておっしゃるけど、その担保は、結局、他人の評価でしょう。
青年 (娘に)君の言う豪傑さんたちは違うっていうのかい。
娘 そうよ。自分一人の決断として、古典への信を新たにするためひたすら努力した。「論語」であれば、孔子が言おうとしたことそのものに耳を傾けようとしたの。
青年 何でそんな無理をするんだい。タイムマシンがあるわけでなし、孔子の声を直接聞こうなんて。僕らの目の前にあるのは、時の経過の果て、たまたま残った文献だけじゃないか。だから、厳密なテクストクリティークを経てさ。宣長さんたちの文献校合も厳格なもので、実証主義の萌芽だって聞くけど、現代の学問にはより洗練された方法論があるのさ。
女 そうやって、古典を切り刻んでしまう、それが今の学者さんたちのなさりよう。古典はあくまで、ご自身の理論構築のための素材に過ぎないのでしょう。「見るともなく、読むともなく、うつらうつらと詠め」て初めて分かるようなことは、はなから対象になさらない。再現性がないものは実証的ではないとされてしまう。現代の価値観では受け入れられない部分は、時代の制約とか、歴史的限界とかおっしゃって、切り捨てておしまいになる。
青年 じゃあ、貴女たちいったい、何が知りたいわけ。
娘 道とは何か、人生如何に生きるべきか、ということよ。
青年 そんな、いきなり戦前の学校教育における「修身」の授業みたいなこといわれても。道学者流の封建道徳の押し付けはご免だね。
女 あら、モダンの世界でも、個人の尊厳とか、人格の尊重とか、よくおっしゃるでしょう。それは何のことかしら。生きることの意味って、何かしら。
青年 意識高いのは結構だけど、答を出す見通しがあるの。
娘 豪傑くん達は、道を知るには歴史を深く知ることだ、と考えたの。
男 ええと、それは、貴女たちがさっき否定した、先人の注釈の蓄積を踏まえることと、どう違うのかなあ。
女 今風の用語法に頼らずに、古人が発した古言そのものを知りたい、だから、歴史を意識するのですわ。
男 それは、そのう、倫理的な価値の体系の歴史的な変遷をフォローする、みたいなことかな。
女 いいえ。確かに、歴史って変化ですわ。人々の暮らし向きは、時代とともに遷り変わりますもの。でも、人間が生きるということに何か意味があるとすれば、それは、太古の昔から変わりようがないと思うの。人間の価値というか、人生如何に生きるべきかについての教えというようなものが、歴史の変転の中を貫いて、伝えられているのではないかしら。それを見出すため、過去を、つまり古人の言葉や立ち居振る舞いを上手に思い出す努力をする。歴史を知るというのは、こういうことではなくて。
男 そ、そんなこと、できるのかなあ、思い込みじゃないのかなあ。
女 もちろん、簡単な事だなんて申しません。古今の別ある歴史の中に、古今を貫透する古人の教えを見出そうというのだから、大変な精神の緊張を要することですわ。でも、時代が違えばそれぞれの時代に色々な考えがある、なんて言い出したら、古人の教えにはたどり着けませんわ。豪傑といわれた方々は、時代の変化やら歴史の相対性とやらに逃げず、張り詰めた思考を妥協せず持続なさったの。
男 そうはいっても、世の中って、どんどん変わっていくよね。歴史について僕らが知り得るのは、結局、過去の人々の生活の痕跡だけじゃないのかな。しかも、言葉も変わる。人々の日々の暮らしを支えているのはその時々の言葉なんだから。そういう言葉の変化が、歴史と言うものなんじゃないの。だから、文書でも、他の物的資料でも、過去の言葉の残像でしかない。とんだ判じ物だね。
女 おっしゃるとおりですけれど。でも、過去と今とをつないでくれるのも、また、言葉でしょう。生身の人間も、その暮らしも思いも、みな消えてしまうけれど、言葉は残る。世は言を載せてもって遷る。
男 でもなあ、古今変わらぬ古人の教えというものがあったとしても、如何に生きるべきかという智慧に変わりがないとしても、それを伝え表す言葉が変化してしまうことは避けがたいのじゃないの。言は道を載せてもって遷る。そうだとすると、歴史を、つまり言葉を学んでいて、「道」にたどり着くことができるというのは、なぜなんだろう。
娘 それは、きっと、言葉が「物」だからよ。
青年 えっ、何を言い出す。
女 あら、あら、あら、そうそう、そうですわ。言葉は私たちの外にある。もちろん、私たちの頭の中、心の中、いや体の中にも言葉が詰まっていて、私たちは、言葉なしには、考えることも、喜んだり悲しんだりすることも、痛いとか寒いとか感じることもできないわ。でも私たち人間は、たとえ宣長さんみたいな大学者だって、日本語そのものを生み出すことはできない。原始の頃からの長い長い時間のなかで営まれた人々の生活の膨大な集積として、ことばが生まれた。
青年 だからなんなのさ。
女 言葉は私たちの思う通りになる道具ではないの。だから、かつて古人の口から発せられ長い年月を経て今に伝わる言葉は、石碑に刻まれ風雨にさらされ消えかけた文字の痕跡を見るように、その形を、やすらかに、見るほかはないの。
青年 で、何かが見えてきたとでもいうつもり?
女 滅相もない。わたくしなりの考えを、勇を鼓してお話ししているだけですわ。古人の言行が今に伝わるというのは、古人が言葉を発したり、何かの立ち居振る舞いをなさったりしたそのときの、人々の驚きや悦びが口伝えに広まっていき、そしてそれが、後々の世のそれぞれの時と所で、あらためて人々の気持ちを動かし続けてきたということでしょう。そういう言葉には、時と所を超えた、人間の変わらぬ姿が映し出されているのではなくて。
男 そうだとしても、それは、僕らにとってはどういう意味があるんだろう。
女 それは、ご自身でお考え遊ばせ。わたくしについては、そうね。人間の変わらぬ姿、本来の在りようが多少とも見えてくれば、それとひき照らして自分を見つめてみる。いつどこで生まれて、カクカクシカジカの生き方をしてきたというような、「時代的社会的制約」とかいうのかしら、そういう余分な物を取り払った本来のわたくしの姿が見えて来るかもしれないわ。そうなれば、人生如何に生きるべきかという問いを独りで考え抜く勇気が湧いてくるような気がするの。
男 独りになる勇気か。(娘に)で、豪傑にはなれそうかな。
娘 あのね、さっきは豪傑になりたいなんて言っちゃったけど、ホントはあこがれっていうか、ボクのアイドルだな、豪傑くんたち。だって、カワイイじゃん。
青年 カワイイ???
娘 とっても難しいコト考えてるはずなのに、しかめっ面じゃなくて、何か楽しそう。学問をする悦びっていうのかな。古人の教えに近づけば近づくほど、ハラハラドキドキしてくる。ボクも、プレゼントたくさんもらうけど、本命のカレシからのは、リボンを解くの、ちょっとためらうみたいな。
青年 そういう譬えって、何さ。だいいち、君っていったい……、
女 (さえぎって)およしなさい。小林先生も、仁斎についてこう書いているわ。(「論語」という)「惚れた女を、宇宙第一の女というのに迷いはなかった筈はあるまい」(*)
……取り留めもないおしゃべりは、取り留めもなく続いてゆく……
(*)「好き嫌い」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第23集33頁)
(了)