小林秀雄氏の考える「宣長問題」

「宣長問題」とは加藤周一氏が初めて使った言葉であり、「宣長の古代日本語研究がその緻密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは何故か」というものだった。その「宣長問題」について小林秀雄氏(以下、氏と略)は著書「本居宣長」第四十章で「宣長の皇国の古伝説崇拝は、狂信というより他はないものにまでなっているが、そういう弱点を度外視すれば、彼の学問の優秀性は疑えないという意見は、今日も通用している」としている。そして氏は「新潮CD、小林秀雄講演第三巻『本居宣長』」において「宣長にそのような二重性はない」と明言し、さらに「それをあきらかにした経緯が著書『本居宣長』には書いてある」と言っている。ここでは氏の「本居宣長」においてその経緯がどのように記されているかを追い掛け、なぜ「宣長にそのような二重性はない」といえるのかを明らかにしたい。

 

氏は宣長の人柄に魅かれ、その思想に感じ入るまでにいたっていた。それは「宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい」の表現に現れている。しかも遺言書を「信念の披瀝」とまで言っている。そして宣長を「健全な思想家」で「誠実な思想家」であると言うとともに「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものでもあった」と言いつつ、しかしながら「傍観的な、或いは一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼(=宣長)の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今も変わりはないようだ」と宣長を取り巻く風潮を指摘する。そうした風潮に関して「決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれている」村岡典嗣氏ですらも「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しい」と氏はしたうえで、氏自身は「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は自明な事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は彼について書きたいという希いとどうやら区別し難い」と言うとともに「宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところ」と言っていた。そして「この名優(=宣長)によって演じられたのは、我が国の思想史の上での極めて高度な事件であった」と言って「彼(=宣長)の演じた思想劇」を辿っていったのだった。

 

「宣長問題」について「本居宣長」の第四十章ではまず村岡氏の見解を紹介している。村岡氏は「皇国の古へを明らめる」のを目指した宣長学について、「宣長学は、文献学たる埒外を出でて、単に古代人の意識を理解するに止まらないで、その理解したところを、やがて、自己の学説、自己の主義として唱導するに至っている」と言ったが、それに対して氏は「理解する所と唱導する所とが一体となって生きている、宣長というたった一つの個性の姿が、先ず心眼に映じているという事がなければならない」にもかかわらず、村岡氏にはそれがないと言う。それがなければ宣長が「どういう風に(自身の学問に)開眼するに至ったかという、宣長の思想の自発性には触れる事は出来まい。それを逃しているのでは、宣長の個性に推参したと見えても、やはり、これに到着せず、……」と言って村岡氏に反論するのだった。

 

その宣長の思想の自発性については「玉勝間」(二の巻)を引用して述べている。そこでは「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、……くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに……」を引き、氏は「ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう」と言う。さらに「『あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに』という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には彼自身にとって外的なものはほとんどないのである」と言うのだが、これこそは宣長の思想の自発性の実体と思われた。

 

宣長の開眼に関しては「本居宣長」において上述の村岡氏に対する反論の直後に記載があり、それは「『源氏』による開眼」に関する内容ではあるものの、重要なのは宣長が「何に開眼したか」ではなく「どういう風に開眼するに至ったか」だった。開眼そのものについては「源氏物語」論である「紫文要領」の「後記」を引用して語っており、それによれば氏は宣長が「此の物語(=源氏物語)を読み、考えさとった肝腎のところは、突如として物が見えて来た」、「決して順序を踏んだ結論というものではなかった」と言う。そして宣長にはその開眼について「非常に鋭い意識」があり、そのために「必人をもて言をすつる事なかれ」「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」という「二つの警告めいた言葉」を吐いたと言う。そして宣長は全く異なる新しさに読者に注意を促し「見む人あやしむ事なかれ」と言ったのだが、氏はその真意はむしろ充分怪しんで欲しい、自分の考えには見る人を怪しませずにはおかない本質的な新しさがある事に注目して欲しいという事だったと言う。さらに「(宣長が)ただこれはと驚く新しい発見をした」、「そういう自分の極めて自然な行為が、見る人の怪しむような姿となって、現れることになったのなら、これは致し方のない事ではないか」と言って、上述の「二つの警告めいた言葉」になったと言うのだった。以上が宣長が「どういう風に開眼するに至ったか」の全貌であり、これは「源氏物語」のみならず「宣長学」においても同様と考えてよいのだった。

 

 「源氏物語」体験が「宣長問題」の背景となる理由については宣長が70歳のころに書いた「玉勝間」(七の巻)にあり、その内容はまず「本居宣長」第四十章で述べられている。それによれば「宣長の学問は、歌の事から、道の事に進んだが、」「出来上がった彼の学問では、道の正しさと歌の美さとの間に、本質的な区別など立てられはしなかった」のであり、「同じ真実が、道となって現れもするし、歌となって現れもする、と言っても差支えない」のだった。そして「本居宣長」第十二章でも「古書を直かに味読して、その在るがままの古意を得ようと努める他に、別に仔細はない」のが宣長の学問であり、「全く無私な態度で、古書に推参すれば、古書は、誰にも納得のいく平明な真理を、向うから明かす筈」であって、宣長はその「『いかにもいかにも、世にひろくせまほし』いものが、私智を混えぬ学問上の真である事を信じていた」のであり、「そういう学問の組織なり構造なりは、『露ものこしめ』る必要のない、明らさまなものと考えていた」、つまり「源氏物語」にせよ「古事記」にせよ、明かした真理を全く隠すことなく世に広く知らしめるのが学問と心得ていたのだった。さらに「古事記」について宣長は「本居宣長」第四十三章にあるように「神の物語の呈する、分別を超えた趣を、『あはれ』と見て、この外へは、決して出ようとしなかった」のであり、そうする事によって「何事も、古書によりて、その本を考え、上代の事を、つまびらかに明らむる学問」をしたのであって、宣長も氏も古伝説が分別を超えていたことは承知の上なのだった。また「本居宣長」第五十章にあるように宣長には「古人の心をわが心としなければ、古学は、その正当な意味を失うという確信」があった。それは「古伝説の内容と考えられていたもの、宣長の言う、『神代の始メの趣』と素直に受け取られたものも、古伝説の作者達からすれば、自由に扱える素材を出ないからだ。そこまで遡って、彼らの扱い方が捕らえられなければ学問は完了しない」と考えていたからだった。加えて「本居宣長」第四十九章にあるように、宣長は「真を見分ることをばえせずして、ただ贋に欺かれざる事を、かしこげにいひなせる」学者を「なまさかしらといふ物」と難じていた。「偽を避けんとする心」ではなく「真を得んとする心」が大事と言うのだった。それは「生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決して……恐れるものではない」と考えていたからだった。

 

以上により、宣長の古伝説崇拝は外見上狂信に見えただけであり、「宣長問題」で話題になるような二重性などないのであって、宣長本人は他人の思惑など頓着せずに信念を以て古学を進めていただけなのだった。

(了)

 

宣長の「信じる」とは

この小論では、「信じる」という言葉について、「本居宣長」を読みながらその時々に思い感じたことを、できるだけ率直にそして正確に伝えるよう努めたいと思っている。

「信じる」という言葉が気になりだしたきっかけは、40章から始まる本居宣長と上田秋成の論争について、小林秀雄氏の「論争というのがそもそも不可能なのである」との発言からだった。なぜ小林氏は論争が不可能だと言うのか、二人の論争で最初から嚙み合っていなかった点は何だったのか、その真意が知りたくて、論争を扱った40章から42章、そして49章を繰り返し読むことになった。

ある時、同じ言葉が何度も使われていることに気が付いた。わけてもそれは論争が白熱する場面では顕著で、次のような具合であった。

「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に②信ずべき事をえしらざるひがこと也、此言の如くにては、③信じ居るにはあらずして、④信ずるがほして居る也、これぞ漢人の偽の常なる、もし、実に⑤信ずべくば、天地は一枚なれば此国の人のみならず、万国の人みな⑥信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には⑦信ずることなかれ、ただ⑧信ずるかほして居よといはぬばかり也、いかでか是を直しといはむ」(新潮社刊、「小林秀雄全作品」28集182頁)

わずか300字にも満たない文章で、「信じ(ず)」るが8回も登場している。この文章は、49章にある宣長の発言だが、「信じる」という言葉に強い執着を感じ、それでは、と数えてみることにした。

結果は、この章だけで34回使われていた。確かに多い。同じように論争を扱った40章から42章を数えると、40章3回、41章14回、42章5回となった。なお念のため補足するが、確信、信頼などの熟語は含まず、ここではあくまでも「信じる(信じない)」の訓読みの語に限っている。49章の34回は例外的に多いとしても、40章3回、41章14回、42章5回が、他と比較してどうなのかも気になり、「本居宣長」の全章を調べることとなった。ここまで来ると我ながら呆れたりもするのだが、何事も実証してみないと気が済まない性分なのでもうしばらくお付き合い頂きたい。すると上記の章を除いて、8回使われている章が1つ、5回使われている章が4つ、あとは概ね0回から3回に収まっている。ばらつきはあるが、平均して3回程度であった。確かに論争を扱った章は概ね多く、40章を除いては予期した通りであった。

勿論、数えることに集中している間は文意など頭に入らず、そんなことをしてどんな意味があるのか、このような脇道を通っていると小林氏の声は近くなるどころかどんどん遠ざかってしまうのではないか、と自らの行為に疑念を抱くこともあった。何処かに目標があるわけではなく、興味を抑える事が出来なかった、というのが正直なところだ。

 

ではここで、そもそも宣長と秋成の論争とは何だったのか、小林氏に倣い簡単に振り返ってみよう。宣長は「すべての神代の伝説は、みな実事(マコトノコト)」と、「古事記」に記された言葉を信じて、その姿勢を終生崩さなかった。当然儒学者など当時の知識人から声が上がる中、特に秋成が史実としてのいかがわしさを強く主張したことで激しい論争となった。実証的、合理的な「常見の眼」で見たら、「古事記」に対し「無批判無反省に、そのまま事実と承認し、信仰した」宣長よりも、「論難の正確」な秋成のほうに肩入れもしたくなる有名な論争であった。

 

では再度「信じる」にもどろう。ここからはもう少し詳細に眺めてみたい。49章で34回登場する「信じる」を分類すると、秋成が3回、宣長が15回、その発言が引用されている。更にその内容をみると、それぞれの用法に違いがあることが見えてくる。

「信じる」という言葉を使う時、話者は文脈に照らして微妙にそのニュアンスを変えている。例えば、二字熟語である信用、信頼、自信、確信、信念、さらに、軽信、狂信の類まで、この「信じる」はそれら熟語に相当するニュアンスを含んでいるが、通常、使う場面や人によってそのグラデーションは微妙に異なる。ただし、今回調べてみて気が付いたのだが、宣長と秋成に限れば、その用法はどこか決定的な違いを見せているように思われた。ではどのような違いか、小林氏に倣い「無理に定義しようとせず、用例から感じ」とってみよう。

まず、宣長との論争の後、「不快な思い出」として語った秋成の一説を取り上げる。

「ゐ中人のふところおやぢの説も、又田舎者の聞いては信ずべし、京の者が聞けば、王様の不面目也、やまとだましひと云ふことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましひが国の臭気也」(同28集91頁)

文脈からすると、ここでの「信ず」るは、教養のあるなしを前提として使っているようだ。秋成にとっては、宣長の主張は田舎者が信ずる程度の信であり、少しでも教養ある人にはまともに扱う事ができないものと映っていた。合理的な判断(常見の眼)からすれば、宣長の主張は迷信・狂信の類であり受け入れられない、と言うことになる。

次に二者が同時に使っている条があるので、そこを参照しよう。冒頭に紹介した条である。

「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に②信ずべき事をえしらざるひがこと也、此言の如くにては、③信じ居るにはあらずして、④信ずるがほして居る也、これぞ漢人の偽の常なる、もし、実に⑤信ずべくば、天地は一枚なれば此国の人のみならず、万国の人みな⑥信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には⑦信ずることなかれ、ただ⑧信ずるかほして居よといはぬばかり也、いかでか是を直しといはむ」(同28集182頁)

「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべき」は秋成の発言であり、他は全て宣長の発言である。宣長は、秋成の発言を徹底的に批判したが、秋成のこの発言だけをみれば、宣長に倣って「古事記」に書かれている内容を「信じ」ることは正しい、と言っているように読める。

ただし、小林氏も言う通り、秋成の「信じ」るは「人情の世界」での「信じ」るである。秋成は、表面上信じる態度をとるが、先に言及した通り、合理的真偽から〔信じる―疑う〕の判断をするので、本心では「古事記」に記された内容を疑っていた。宣長は、「此国の人は」という一言からそれを嗅ぎ取り、批判はそこに向けられた。このあたりの宣長の言語感覚には本当に感服する。

対する、宣長の「信じる」はどうか。宣長にとって②「信ずべき事」とは、「古事記」に記された言葉であり、古代の人々の信仰(それは宣長にとっての信仰でもある)であった。ここでの「信じる」は、信仰と確信そして信念が入り混じったもので、その反対(例えば疑うこと)などありえないものであった。

続いて③④および⑦⑧の「信ず」るは、②と同様に宣長の信仰・確信の意味と考えられるが、「信ずるがほ(かほ)」となると一変する。後者は秋成の表面的な信であり、宣長の「信じる」とは似て非なるものとなる。

⑤⑥の「信じる」は、②と同じく、宣長の信仰・確信・信念である。更に言えば、「古事記」に読み取ったのは「人性の基本構造」であり、宣長はそこに普遍性をみていた。この「信じる」はそこからの発言と思われる。

秋成にとっては、「信じる」は自分の外に置いた基準(例えば実証性や客観性)から判断するものであり、内面から絞り出したものでは無かった。宣長が「信ずるかほ」と言ったように、取り繕うことが可能な、どこか仮面のような信であり、第三者のような信であったとも言えよう。対する宣長は、内面で熟成された確信に基づく当事者のもので、その反対がありえないような信念である。そのあたりを、小林氏は次のように言っている。

「彼は、『うひ山ぶみ』にあるように、『何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問』をしたわけだが、明らめるとは、傍観する事ではなかった。研究するのは、人の『心ばへ』なのであるから、これを他人事のように、見て知るわけにはいかなかった。これを明らめる事は、この驚くほどの天真を、わが心とする事が出来るかどうかを、明らめる事と離せなかった」(同28集122頁)。

論争の不可能性について言えば、宣長は「常見の眼」を離れて「古学の眼」になって話しているが、秋成はその場まで下りて来ることはなかった、と言えようか。

 

最後に、もう一度数の話で終わりにしたい。「信じる」が3回と、相対的に少ない40章だったが、実は「疑う」が7回登場していた。これは、それ以降の章で最も多い数だった。その〔信じる―疑う〕を仔細にみると、殆どが秋成の使った意味での〔信じる―疑う〕であった。つまり、合理的真偽に基づく〔信じる―疑う〕であり、小林氏は、40章を書き始めるに当たって、秋成の「信じる」を表に出して筆を進めている。

落語で枕というものがある。客に落語を聞きやすくするための重要な手法で、身近でしかも本編に関係のある話題から入る前振りである。枕は話すのではなく振るというが、それは客を振り向かせる、という意味でもあるらしい。

私は、40章の「信じる」が小林氏にとって一種の枕だったのではないか、との思いに誘われた。例えば、宣長の使う「信じる」が論争の冒頭から登場したら、果たして読者はついて行けただろうか。秋成の「信じる」は「常見」の「信じる」であり、私のような読者の「信じる」も「常見」の「信じる」である。だとすると、小林氏は、読者に寄り添うために枕を入れたのではないか、それが40章で使った「信じる」の役割だったのではないか。勿論、本編でそれを覆すわけだが、小林氏は宣長の「信じる」が簡単に伝わるとは思っていない。だから論争以外の章(43章~48章)を間に挟み、宣長の「信じる」を、詳細に、時間をかけ、言葉を尽くして何度も説明したのではないか。読者は徐々に階段を登るように理解の度を深め、49章に至って宣長の「信じる」がやっと腑に落ちる。腑に落ちるとは文字通り身体の一部になることで、それにはそれなりの時間がかかる。

以上はあくまでも私の勝手な想像だが、きっかけはやはり数であった。これが小林氏の仕掛けだったとすると見事に乗せられたわけだが、こんな思いに誘われたのも、今回の読書の楽しみの一つであった。

(了)

 

神に名をつけること

「古事記」の「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」には神々の名が次々に登場します。

天と地とが始まった時に、高天原たかまのはらには天之アメノ御中主ミナカヌシノカミタカ御産ミムビノカミ神産カミムビノカミという三神がお出になり、「独り神」として姿を隠していらっしゃった。一方、大地は浮いた脂のごとくクラゲのように漂っていた頃、そこに葦の芽のように萌え出したのが宇摩志阿斯訶備比古遅ウマシアシカビヒコヂノカミでした。この神もまた高天の原に生じた神々と同様に姿を隠してしまわれるが、その後も続いて神を生じさせ、独り神から男女対偶の神となり、ついには伊邪那いざな伊邪那いざなという兄妹が誕生します。この二神は、天空に浮かぶ天の浮橋にお立ちになり、大地以前の地表をかき回してシマをつくり、その島に降りて結婚し、蛭子ルゴを生むという失敗の後、大地や島を生み、風や木や山や野といった自然を神として生み出しました。こうした流れで次々に神の名があげられます。

小林秀雄著『本居宣長』を読んでいると、次の文章に目がとまります。小林氏は「『古事記』の『神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ』は、神の名しか伝えていない。『古事記』の筆者が、それで充分としたのは、神の名は、神代カミヨの人々の命名という行為を現している点で、間違いのない神代の事跡コトノアトだからだ」といいます。「神の名しか伝えていない」ことで充分としたというのはどういうことなのでしょうか。

その答えを得るべく、さらに読み進め、また戻って読み返してみて、それについてふれられている文章をまず取り上げてみます。

 

古い時代、世上に広く行き渡っていた、迦微カミに関する経験にしても同じ事で、先ず八百万の神々の、何か恐るべき具体的な姿が、漠然とでも、周囲に現じているという事でなければ、神代の生活は始まりはしなかった。

その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実は、その事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダに神其ノ物を指シて」産巣日神と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神と名付ければ、その「誘ふ」という徳が、又、天照大御神と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「コトバココロナラビニスナオ」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だったろう。(小林秀雄全作品 28集 84頁10行目~)

 

迦微をどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がったことばの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別ふんべつが、浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい、生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声ヨムコエあがさがり」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同85頁4行目~)

 

そして、暗記すべきほどに最も重要であると池田雅延氏が指摘されているのが次の文章です。

 

上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、各人かくじん各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部からあきらめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。(同86頁15行目~)

 

神仏という絶対的存在の名を呼ぶ、称えるという行為が現代でも宗教の一番大切な行いとして日々の生活の中に溶け込んでいます。例えば仏教の場合、ナムアミダブツやナムシャカムニブツは念仏や称名といわれ、仏の名を呼ぶことで、仏がまさに自分の前にあらわれ、我々を救ってくださるという。

こうして名を呼ぶことで神仏から「直かに触れているという確かな感じ」を受けることによって大きな安心を手に入れることになります。そして人々はますます信仰の思いを強くするのでした。そうした言葉による確かな手応えは上古の時代からあって、人々は一番大事で身近ではありますが、よくわからない恐るべき存在が神仏であり、本居宣長が「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微とは云なり」というように、「上は産巣日神から、下は狐のたぐいに至るまで、善きも悪しきも、貴きも賤しきも、強きも弱きも、驚くほど多種多様な神々が現れていた」と述べます。神々に共通な、神たる特質は「可畏き物」という存在だったのです。そしてその一つ一つに名前を付けたのでした。

神を畏れつつも、神の名を呼ぶことで神とちかしい、あるいは一体であるという豊かな充足感が人々の日常を支えていたし、「古事記」の編纂の上でも当然の前提として存在していたと考えます。

神の名について「本居宣長補記 Ⅱ」には次の内容の記述があります。(同362頁)

宣長晩年の述作に「伊勢二宮さき竹の弁」と題する伊勢二所大神宮の祭神についての考証があり、外宮の祭神について中世の頃より様々な異説が行われていたことが述べられます。

「内宮と並び祭られる外宮の祭神が、食物の神であるとは、まことに心もとない次第である」、「例えば、祭神を天ノ御中主ノ神とか国ノ常立ノ尊とかする合理的解釈によって、人を納得させる道も開けたとする」とする考えについて宣長は次のように語ります。

「そもそも世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてはかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万ヅの事はあるなり」と。

これを承けて、小林氏は次のように述べます。

食欲は動物にもある、という事は、人間の食べ物についての経験は、食欲だけで、決して完了するものではないという意味だ。では、どういうところで、どういう具合に、人間らしい意識は目覚めるのか。この種の問いに答える為に、「食の恩」と言う言葉ほど簡明適確な言葉が、何処に見附け出せようか。いや、この意識の目覚めと、この言葉の出現とは同じ事だ。そう、宣長は言いたい。彼の信ずるところによれば、人生に於ける食物の意味合は、「食の恩」という言葉で、完了するわけだが、更に言えば、「食の恩」を知るという情の動きは、そのまま、感謝の対象を、想像裡に描き出す働きでもあった。それも、神の御名が称えられるほど、鮮やかに描き出す働きでもあった。そういう古人の内容充実した経験豊かで、間然するところのない認識の姿は、「神代の伝説のこゝろ」を、吾が「こゝろ」としてみようと努めさえさえすれば、又、その上で、持って生れた想像の力を信じ、素直に、無邪気に、これに従って行きさえすれば、誰の心中にも歴然たるものがあろう。宣長は、これを、人間に本来備わる智慧の現れ方と、素直に受け取れば足りるとした。(同364頁19行目~)

 

古事記の「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」が「神の名しか伝えていない」のはこういう理由からでした。私たちが「古事記」を読むにあたっても現代人の感覚を見直して、古人の思いを想像し、古人の気持ちになって読むこと、これこそが欠くことの出来ない、たいへん大切なことだと感じられました。

(了)

 

名に込められた命

「古事記」は、その序に続き、天地開闢の物語を以下の文章で始める。

 

天地初めてオコりし時に、 高天タカアマハラに 成りませる神の名は、天之御中主アメノミナカヌシの神。(高の下の天を訓みてアマといふ。シモこれにナラへ) 次に、高御産巣日神タカミムスビノカミ。次に神産巣日神カミムスビノカミ。この三柱の神は、みな独神と成りまして、 身を隠したまひき。(『古事記』、新潮日本古典集成、p26)

 

これについて、小林秀雄氏は、神の古意について書かれた「古事記伝、三の巻」の文章を引いた後、以下のように記している。

 

―附言して置くが、「天地初発之アメツチハジメノトキ於高天原成神名タカマノハラニナリマセルカミノナ」三柱あるうち、宣長は神名の上から、天之御中主神アメノミナカヌシノカミには、さしたる神格を認めず、特に高御産巣日神タカミムスビノカミ神産巣日神カミムスビノカミとに注目している。そして、この二柱の神が、高天原に成りまして後、「古事記」には、どちらか一柱の神としてしか、姿を現していないことから、産巣日神という一柱が信じられていた、と解してよいとしている。(小林秀雄『本居宣長』 第三十八章、全作品28、p78)

 

本居宣長によって成された「古事記」の訓読があって、今を生きる私達は「古事記」が読めるようになった。とはいえ、この僅か数行の文章に立ち止まることはなかなかできない。どうしても、ああそうかと通り過ぎてしまいがちだ。しかし、二人の先人は、この神々の名こそ、熟読玩味しなければならないと教えてくれている。

神々の命名について、小林秀雄氏は、「古事記伝」に遺された本居宣長による綿密な訓読の吟味を受けとめ、「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」と記している。

 

迦微カミをどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がったコトバの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が、浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声ヨムコエの上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同、第三十九章、p85)

 

「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」というのはどういうことなのだろうか。この言葉の意味をきちんと受けとめることこそ、生きていく上で大切な何かを見逃し、忘れてしまいがちな現代人(もちろん、私自身を含む)に対して、生きることを直視し続けた古代の人々が教えてくれる何かが詰まっているのではないだろうか、そう直感し、『本居宣長』の本文にあたると、「古事記」のこの数行から始まる、神々の命名にこそ、上古の人々の思いや営みが見えてくると感じられるようになる。

小林秀雄氏は、「産巣日神」という名から宣長が感じ取ったことについて、「古事記伝」を引きつつ、具体的に述べている。

 

―宣長は、「産巣日神」の「御霊」という古言の「ふり」から、直ちに、万物生成の思想が、わが国の古代の生活のうちに、生きていた事を感じ取ったのだが、それも古意に従って、けば、「産霊ムスビ」の「御徳ミメグミ」、或いは「御所為ミシワザ」とも言うべき、生むという純粋な働きの形式で、体得されていたとした。古言は、この御霊について、天地の初めの時に、高天原に、成りましたと言う他、何も余計な事を言っていない。古伝は、まだこの万物生成の、言わば原動力が、先ず自らの形体カタチを生成した事を、有るがままに語れば、足りるとしたに違いないのである。 そこで、宣長の註釈だが、注意して読むなら、註釈には、霊という「こころ」の働きは、「コトバ」の働きでもあるという、微妙な含みのある事が、はっきりするだろう。

「上ノ件三柱ノ神は、如何なるコトワリありて、何の産霊ムスビによりて成リ坐セりと云こと、其ノ伝へ無ければ知りがたし。るはイトイトクスしくアヤしくタヘなることわりによりてぞ成リ坐しけむ、されどはさらに心も詞も及ぶべきならねば、モトヨり伝へのなきぞうべなりける、又此神たちは、天地よりも先立ちて成リ坐しつれば、ただ虚空中オホゾラにぞ成リ坐しけむを、高天ノ原に於いて成りますとしも云るは、後に天地成リては、其ノ成リ坐セりしところ、高天ノ原になりて、後まで其ノ高天ノ原に坐シ坐ス神なるが故なり、(元来モトヨリ高天ノ原ありて、そこに成リ坐スと云にはあらず、)」(同、第三十八章、p80)

 

「万物生成の思想」というと、現代社会では特定の宗教や特定の人物によって説かれる考えへの賛否のように誤解されがちかもしれないが、むしろ、以下の本文にあるとおり、古代の人々の日々の実際の暮らしの中において、神々について、言葉が交わされ、そして、その中から名が定着していったと考えていくのが素直な態度であろう。

 

―宣長には、迦微という名の、所謂本義など思い得ても得なくても、大した事ではなかったのだが、どうしても見定めなければならなかったのは、迦微という名が、どういう風に、人々の口にのぼり、どんな具合に、語り合われて、人々が共有する国語の組織のうちで生きていたか、その言わば現場なのであった。「人は皆神なりし故に、神代とは云」うその神代から、何時の間にか、人の代に及ぶ、神の名の使われ方を、忠実に辿っていくと、人のみならず、鳥も獣も、草も木も、海も山も、神と命名されるところ、ことごとくが、神の姿を現じていた事が、確かめられたのである。(同、第三十九章、p82)

 

そこで、あらためて気付かされるのが、産巣日神に宿る「す」というハタラきであり、伊邪那岐神や伊邪那美神にある「イザナふ」という徳である。

 

―その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実はその事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダ神其ノ物を指シて」産巣日神と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神と名付ければ、その「イザナふ」という徳が、又、天照大御神と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「言意並ニ朴」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だっただろう。(同、第三十九章、p84)

 

生命誕生の不思議は、科学が進歩した現代にあっても、なかなか語り尽くすことはできない。人が人に惹かれ結び合う、それが生命誕生の起源だとわかっていたとしても、その心の動きや揺らぎそのものの解明にはほど遠い。むしろ、初めは他者であったそれぞれが、どちらともなく「イザナう」ことがあって、心が一つとなり、それが新たな生命誕生のはじまりとなる。そうした、一見、あたりまえのことについて、古代の人々は考え、直覚し、言葉を交わし、その不思議を神々の名として残してくれたのだろう。まさに「神に直かに触れているという確かな感じ」がそこにあって、その直観の内容を「内部から明らめようとする努力」で誰の心も一ぱいであったこと、そして、これら、小林秀雄氏の生きた言葉に触れることを通じて、私自身の心の中にも、ごく僅かなのかもしれないが、彼らの直観や努力が残っていると感じることができる。

 

―上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれの己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立ち会ったもの、又、立ち会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引き出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。(同、第三十九章、p86)

 

世間にはたくさんの名が溢れている。多くの名はただ通り過ぎていくばかりだ。そこで立ち止まることもなかなかない。しかし、よくよく考えてみれば、現代社会にあっても、命名という営みは、けっして軽いものではなかったと誰でも思い出すことができるだろう。

今年、ちょうど、二人目の娘が成人式を迎えた。彼女が生まれる前、いろいろな名を考えていたが、初めて、その顔を見たとき、考えていた名の候補がすっと一つにまとまり、そして、妻や家族たちと、言葉を交わしながら、その名に決めた。彼女が、どんな人生を送ってほしいか、大切にしてほしいことは何か、そんなことを話したが、その対話の真ん中に、その名があった。不思議なもので、赤ん坊を見れば見るほど、その名こそ相応しいと感じられたものだ。

そういえば、私の名も両親がつけてくれたものだ。その時も同じだったのだろう。その名が重たいと感じたことは何度もあったが、その名に相応しい生き方をしようと決めたときから、それこそ覚悟ができてきたように思う。命名とは、そこにある命に名を付けることであると共に、名に命が込められることなのかもしれない。

(了)

 

「個人の感想です」

小林秀雄の『本居宣長』を読む四人の男女。今日はどの章を読むともなく、とりとめのないおしゃべりが続いている。

生意気な青年(以下「青年」) おや、浮かない顔だね。

元気な娘(以下「娘」) コロナでオヤジが巣ごもり、家でゴロゴロしてて邪魔くさいんだよ。

凡庸な男(以下「男」) 邪魔だなんて言わないであげて、お父さんも多感なお年頃なんだから。

娘 ナントカ相哀れむってやつ、ウザッ。

江戸紫が似合う女(以下「女」) まあ。それで、お父さま何なさってるの。

娘 テレビショッピングにはまっちゃって。ああいう番組に、利用者の声みたいなのが出て来るでしょう。「個人の感想です」というテロップ付きで。あれが気に入らないらしくて、ぶつぶつ言ってるの。

女 どういうことかしら。

青年 ああそうか。あれって、商品の品質の信用度を高めるために、利用者個人の証言を示したつもりなんだろうけど、同時に、同じ効能を保証するわけではないと逃げを打ってるわけでしょう。

男 客観的な商品テストの結果を示さずに、主観的な体験談でごまかすのはおかしい、ということかな。

青年 それはそうだね。主観的、客観的といえば、普通、客観的の方が、いいに決まってる。主観的なものは個人の勝手な思い込みだけど、客観的なものは正しい、と考えるよね。

娘 あっ、でも、小林先生は、そうじゃないみたい。

男 なんだって?

娘 『本居宣長』の中で、「中身を洞ろにしてしまった今日の学問の客観主義」では、宣長さんの学問を説明できないと仰ってる(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集103頁。以下引用は同作品集から)。

男 どういうことだろう。宣長さんの学問は、客観的ではないの?

青年 そんなことないよね。「古事記」の訓詁であれ、「源氏」の注釈であれ、宣長さんの業績は、後世の学者も認めざるを得ないものだ。

男 そうだね。

青年 それに、古典を解釈する際に、儒教道徳や仏教教理を持ち込むようなことをしていない。あくまで、その作品自体に向き合うというか、その作品ができた当時にさかのぼって、一つ一つの言葉の意義を探っている。そしてその結論の多くは、現代でも支持されている。

男 結局、客観的だったということじゃないの。

女 それはそうですわ。でも、小林先生は、語釈の結論がどうのこうのではなく、学問の在り方そのものの違いを問題にされているんじゃないかしら。現代の学問、現代の学者とは違うのだと。

青年 現代の学問は、自然科学が典型だけど、先行業績を踏まえて、新たな仮説を立て、正確な観察と実験により、その仮説を論証していくわけだね。観察や実験の正しさや、推論の適切さは、他の学者が検証する。こういった、反証が可能だが、反証されていないということが、その結論の正しさを保証するというわけだね。

娘 それって、当たり前の事じゃないの。

青年 そうさ。小林先生も、こういう意味での、自然科学というものを否定しているわけではないよ。

女 ただ問題は、こういった学問についての考え方は、言葉の意味、歴史の姿、そして人間の在り様について研究する場合には、そのままでは通用しないということだと思いますわ。

娘 どういうこと? 自然科学と、歴史や言葉の研究が違うというのはわかるけど。

男 でも、文系の学問だって、実証的であることは必要だよ。

娘 証拠もないのに結論を出したり、価値観を事実認定に持ち込んだりしたら、つまり、実証的でなかったら。学問とは言えないよね。

女 それはそうですわ。宣長も、そこは手堅いのだと思う。でもそれにとどまらないということかしら。現代の学問では、実証的な証拠が得られないことには言及しない。そのような禁欲が、研究者の学問的な良心だとみなされるのですわ。

男 だから、調べて得られた客観事実を羅列すれば、それが学問だということになりかねない。

女 自然の観察であれば、調べて得られた事実の羅列でとどまっても、それでいいというか、余計な推論を加えない方がいいのかもしれない。でも、そういう態度では、たとえば歴史は分からないということではなくて?

青年 放射性同位元素を用いれば、ある「物」がいつごろできたのか、その年代の測定がかなりの精度で出来る。そういう方法で、仮に、色んな史料の年代推定ができたとしても、それは考古学であって歴史ではない。そうやって観察され、実証された史料を並べても、そこに書かれた言葉の意味を知ることはできない。

女 歴史って、昔から語り継がれてきた事柄よね。ある世代の人々が語らずにいられなかったことは、次の世代の人々も聞かざるを得なかった。こうして、文字がなくても、時の流れを越えて語り継がれたものが、歴史なのですわ。

娘 語り継がれ、聞き継がれるに値するほどに、物語りが面白かったということかな。

女 そうやって歴史の語りを聞き、歴史についての文章を読むことで、かつての世の有様が、と脳裏に浮かんできますわ。そして、自分だったらどうだろうというふうに想像し、追体験してみる。こんなふうに、わが身に歴史的事実を自分のものにするということ。かに得た知識ですわ。

娘 どうしてこういう違いが生じるのかな。

女 学問分野による目的の違い、事実の分析記述を主とするかどうかという違いじゃないかしら。

青年 自然科学は、まさに、自然の在り様の分析と記述だよね。自然法則は、人類の誕生前にも、人類の滅亡後にも、同じように妥当する。問題は、言葉とか、歴史とかに関する学問で、自然科学と同じようなことがそもそもできるのか、ということでもあるよね。

男 そうなんだ。でも、自然科学の発展と、その知見に支えられたテクノロジーが現代文明を支えていることは、誰にも否定できないよね。だから、人間の心や言葉、歴史や世の中のあり様を調べていく学問も、「科学」を名乗ることになるんだね。

青年 学問自体が、社会的な制度になっていて、たとえば、大学の学科として認められなければ、一つの学問分野として承認されているとは言えない、そのためにも、自然科学のような装いを身に着けたい、みたいな考え方になるんだろうね。

男 いろいろな学問分野が、それぞれ、対象分野を限定し、方法論を確立し、その分野での先行研究との差分を研究業績とするようなものになる。学問が細分化され、専門化される。でも、歴史や言葉を扱う学問分野に、ニュートンの法則やアインシュタインの理論のようなものが現れるわけもないから、膨大な事実の羅列で終わるんじゃないのかな。

娘 宣長さんの学問は、どう違っていたの。

女 宣長さんは、現代の学問の方法論などとは無関係に、古言の意味を探ろうとしたのですわ。その際、宣長さんは、「古事記」や「源氏物語」のような古言をにして、というか、古人の心を知るのが難しいことをいいことに、勝手に自説を展開したのではありません。古言に天地あまつちとあればそのまま天地あまつちと受け取るべきだとお考えだった。そのようにして、あるがままの、というか、物に名前がつく前の、物そのものを知ろうとなさった。でも、それを客観的事実と呼ぶと、ちょっと違うのかもしれませんわ。

娘 何かを知ろうとするときの、やり方のひとつということ?

女 見方を変えて言うと、こうかしら。私達が何かを経験し、何かを知るということは、私達の個人的、主観的な心の働きでしかありえないでしょう。だからこそ、そこで知ったことは、生き生きとした切実なものになるのですわ。言葉で組み立てた理屈よりも、こころで感じる体験の方が大事。そういう特定の誰かの具体的な体験から切り離された、客観的な事実とか、相互の因果関係なんかは、結局、間接的な知識ですわ。

青年 でも、そういう間接的な知識にすぎない学者の見解が、たとえば歴史観とか社会思想、あるいは新しい価値観みたいな形で、世間に流布し、人々に影響を与えていることも事実だよね。

女 それは便利ですからね。一応、客観的という装いをまとえば、どんな見解でも、一人一人の個人的、主観的体験を経るという手順を抜きにして、多くの人々に影響を及ぼしてしまう。社会生活を運営する上では、能率的で、応用が利くものですわ。

娘 あーあ、能率か。

女 結局、常套句に過ぎないのですわ。最新の常套句づくりを知的にやってみせるのが、インテリというわけ。万人向けに正しいものとして作られているから、人々も、すうっと受け入れてしまうけど、本当に腑に落ちたものかどうかわからない。だから、時を追うごとに、新たなスローガンが登場し、ひととき世間を支配し、やがて廃れていくのですわ。

男 とっかえ、ひっかえ、その時々の価値観を受け入れては忘れていく。かつては活字の論壇、次にテレビなど電波メディア、いまはネットの世界かな。饒舌で自己主張が強い人が現れ、それに心酔する人々がいるけど、どちらも心は空っぽじゃないのかな。

娘 じゃあ、どうすればいい?

女 むずかしいわね。小林先生は、『本居宣長』の連載と同時期の対談で、「持って生まれた自分の気質というものの抵抗をまるで感じ」ないで常套句に走る文士に懸念を示されている(同第26集220頁。『交友対談』)。でも、宣長さんは、そうではないでしょう。この辺りがヒントにならないかしら。

娘 よくわかんないよ。

女 でも、ひょっとすると、「個人の感想です」も馬鹿にできないのかもしれませんわ。

青年 さっき言ってたテレビショッピングのこと? 何言ってるのさ、あれは、あざといよ。

男 テレビのはそうかもしれない。でも、もし本当に自分の商品に自信があって、お客さんの為になると信じているなら、誰かにその良さを体験談として語ってもらうのが、一番いいんじゃないのかな。買う方だって、信頼できる知人の体験に基づくお薦めが、やはり一番の参考だ。

女 そうですわ。そういう、人々の日常の暮らしの中から生まれ育ってきた生活の知恵みたいなのは、意外と、馬鹿にできませんわ。

男 (娘に)お父さんも、着眼はよかったのさ。

娘 そういう主観的見解は、却下、却下!

 

四人の話は、とりとめもなく続いていく。

(了)