「歌の美しさ」と「歌の歴史」

「自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p241~242)。永らく、「本居宣長」第二十一章のこの一文が、分かるようで、分かりませんでした。

 

歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ……。一見まるで関係性が感じられない「歌の美しさ」と「歌の歴史」とがなぜ繋がるのだろうか。山の上の家の塾では、次のように自問自答を立てましたが、満足のいく自答には至っていませんでした。

――「自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ」という文中にある、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ」とはどういう意味でしょうか。歌には「一首々々掛け代えのない性格」があるということが分かることが「歌の美しさがわが物」になるということで、どの歌も、「世ノ風ト人ノ風ト経緯ヲナシテ、ウツリモテユク」中で「人ノ情」に連れて「変易」しつつしか生まれ得ない、またそれが「和歌ノ本然」だと分かることが「歌の歴史がわが物」になるということでよいでしょうか。……

 

そこで次には、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った」の「悟る」に注目し、「歌の美しさ」と「歌の歴史」の繋がりにこだわるよりも、悟ったということが大事ではないかと思い、質問は「悟る」とは何か、に立てました。

 

「宣長は議論しているのではない」という文章が先の引用文のすぐ前にあります。「議論」と反対の言葉として「悟る」という言葉が使われており、「悟る」を分かるには「議論」が分かればよいのではないかと思いました。

さらにもう一文さかのぼって、冒頭の引用箇所に加えると次のようになります。

「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであって、『かはらざる所』を見附け出して、この厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道など、全くないのである。宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ」。

ここから、「厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道」というのが「議論」というものだと分かります。「厄介な多様性」はどうして宣長の上に現れるかといえば、「歌を味わう」ことによって現れます。「歌を味わう」とは、その「姿」に「附合う」ことです。こうして得られたものが、「議論」では突き詰めて知ることのできない「面倒な経験」です。そして、歌を「議論」の俎上に載せて、要素、事実に分別する「処分」などでは到底理解も納得もできない「面倒な経験」が、やがて教えてくれるという分かり方が「悟る」ということではないかと思いました。

 

しかし、それでも冒頭の一文は、分からないままでした。宣長が歌の「本然」に気付くことができたのは、「歌の歴史」を辿り、眺めたからではないか。そこで、さらに質問は、「歌の歴史」は宣長にどう映ったのか、と立てました。

 

まず、人は何故歌を詠むのだろうか。生まれつき自分が完全に分かっていれば、これは無駄なことだ。自分は何を感じ何を考えているのか。それをはっきり知るには、無論、言葉以外に手立てはないのであろうが、自分で自分を分析し尽くすことはできない。それでは、自らの言葉と自分はどのように影響しあい、結びついているのだろうか。それらを知るには「歌を詠む」ことによって「心」が「歌に化せられる」という「歌の功徳」が必要だ、というのが歌学者としての宣長の結論ではないだろうか。「記紀」から「万葉集」、「古今集」、「新古今集」へと至る歌の歴史に宣長は何を見たか。素朴な表現が洗練されていき、「詠歌」の「意識化」が頂点に達した「新古今集」の「面貌」は歌学者としての宣長に何を教えたか。「歌の美しさ」とは何故「一首々々掛け代えのない性格」なのだろうか。言うまでもなく、昔も今も、誰もが「現代」に生まれて来る他はないし、その時、歌の伝統が生き生きと感じられる時代であるかどうかは分からない。しかし、歌は詠まれ続け変わり続けてきた。それは歴史が現した変わらぬ歌の生命力というものだろう。そして、皆、生まれ合わせた時代の中で、資質を元に「一首々々掛け代えのない性格」として歌を表し、「歌の功徳」の恩恵に我知らず浴して、心を慰め、励まし、そして、自らを知りながら歩んでいる。そう見えてくることが「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になる」ということではないだろうか。そのようにして一所懸命に生きている人達から、終生目を離さずに自らの学問を深め、「歌を詠む」ことを促し続けた宣長を想像してもよいと思われます。

(了)

 

むだ話が大好き

いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する四人の男女。今日は、第二十四章と第三十五章が話題のようだ。

 

元気のいい娘(以下「娘」) 寄席、行ってきたんだけどさ。

生意気な青年(以下「青年」) うん。

娘 噺のなかで、長屋の連中が、寄り合って「馬鹿っぱなしでもしようじゃないか」ってくだりが出てきてさ。

凡庸な男(以下「男」) よくあるよね。それが、どうかしたの?

娘 どんな「馬鹿っぱなし」するのかな。

男 そりゃ、大屋の悪口とか、誰かの失敗談とか、他愛のない話でしょう。

娘 なんか、楽しそうだなって。

男 まあ、話の中身というより、みんなでわいわいやるのがいいんじゃないの。

娘 わいわいやる?

江戸紫の似合う女(以下「女」) そうね、言葉のやりとりはあるわけだけど、描写でも、説得でも、論難でもないのね。話題も次々移り変わるし、最初は何の話だったか誰も覚えていないかもしれない。でも、なにか、ぺちゃくちゃ、おしゃべりしたなっていう満足感は残る。そういうことかしら。

娘 わいわいとか、ぺちゃくちゃとか、擬態語でいうけど、どういうことかな。

青年 そうなんだ。一語一語の意味を、詩人みたいに吟味しているわけじゃない。でも、おしゃべりとしては成立してるのかな。

娘 カワイイと、ヤバイと、キモいと、ダイジョーブだけで成り立ってる会話でも、話し手の、そのとき、その人なりの気持ちがこもってるよね。

青年 一応ね。その瞬間の思いつきに過ぎないとも思えるけど。

男 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び、ってわけか。

娘 ゲッ、そういう知ったかぶりって、キモくない?

男 だって、すぐに消えちゃうんだろ?

女 そこは少し違うかもしれないわ。誰かが何かを見聞きする。心の中に何かもやもやしたものが生まれる。でもそこでとまるんじゃなくて、それを言葉にするの。そしてその言葉が、語られ、聞かれる。そうすることで、心の中のもやもやしたものが、はっきりとした「気持ち」って呼べるようなものに変化するのじゃなくて。

青年 「これヤバくね」「うん、ヤバイヤバイ」みたいな会話でもそうなの?

女 そう思うわ。

青年 でも、一方の「ヤバイ」と他方の「ヤバイ」が同じ意味とは限らないよ。

女 もちろん、どんな会話でも、すれ違いとか、ずれとかはあるわ。そうじゃない方が珍しいのかもしれない。同じ人でも、一つの言葉を、その都度、微妙に色合いを変えて使うわ。言葉の意味を特定するとか、その意味が正確に伝達されたか検証するとか、そういう問題じゃないの。

男 小林秀雄先生は、「生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集276頁。以下引用は同作品集から)と書かれているね。

女 おしゃべりとして成り立ったということが大事なんだと思うわ。

青年 そんな御大層なことなの? 第一、「意味を帯びた言葉」って、なんだろう。「ヤバくね」なんて言葉に、なんか意味があるの? ああ、ヤバイも形容詞か、ヤバかろう、ヤバかった・ヤバくない、ヤバイ、ヤバいとき、ヤバければ、って活用もするわけだ。

娘 こいつの頭ん中、キモすぎ。

女 意味っていうか、何か感じているのよね。あっ、これ、なんか変わってる、ちょっとびっくり、この気持ちお友達と共有したい、みたいにね。そしてそれを、伝えようとするのでしょう。

青年 それって、言葉なのかなあ。そういう漠然とした感じだけでは、自分を取り巻く世界を認識したことにはならないんじゃないかな。曖昧模糊とした感覚の世界に、分節化っていうのかな、折り目を入れて秩序を与え、きちんと認識できるようにするのが、言葉の働きなんじゃないの。

女 人間の言語活動を、そういうふうにとらえて議論することは出来るわね。それはそれで、どうぞご自由に。でも、わたしたちが生まれ育ってきた過程で身に着けた言葉って、少し違うのじゃないかしら。きちんと分る、という以前に、何かを感じているような。

男 そういえば、小林先生が、宣長さんの「物のあはれ」をめぐる説明に関し、次のように書かれているね。「明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識を説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」(第27集151頁)。

青年 そういわれてもなあ。別に、「発達した認識」なるものを自慢するつもりはないけど、個人の感覚や感情を離れて、世界を正確に知ろうとすることは、大切なことでしょう。僕たちの文明生活の基礎だよ。

女 もちろんそういう世界があることは否定しないの。でも、言葉と私達の関係って、ちょっと不思議なところがあるでしょう。わたしたちみんな、いつの間にか国語としての日本語を話せるようになっているけど、その過程というのは、外国語を人工的に習うのとはずいぶん違うでしょう。

娘 人工的? ああ、落語や漫才の小咄に時々出てくるやつね。学校英語をネタに、「鉛筆を片手に『イズ・ディス・ア・ペンシル?』って、そんなの見ればわかるだろ」とか、「男子生徒が『アム・アイ・ア・ボーイ?』って、それは自分で考えろ」とか突っ込んで笑わせる。日本語はそんなふうには習わないよね。

男 小林先生は、先ほどの続きで、こうも書かれている。「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている」(第27集152頁)

女 そうですわ。こういう、おのずからなる心のウゴきが、自分の身体の外にほとばしり出る、それが言葉ではないかしら。ふつうの言葉でなくても、身振りでも、手振りでも同じだと思うけれど、身体の外側に出て、誰かほかの人に向かっている。何かを伝えようとしている。それが相手に届けば御の字だけれど、たとえ届かなかったとしても、伝えようとしたそのことで、自分の気持ちに形ができる、自分でもそれを味わえるようになる。そういうことですわ。

娘 思っているだけでは、だめなの?

女 だめというわけではないわ。遠くの恋人を思い浮かべ心の中で愛を告げるようなことも、同じだと思うの。とにかく、誰かに何かを伝えようとすることで、「意味を帯びた言葉」が生まれるのだと思うわ。

男 普段僕たち、そんな難しいこと考えてないよ。

女 そうじゃないの。まだ片言の幼な子が、犬を見て喜んで「ワンワン」っていう。まわりに優しい大人がいれば「そうだね、ワンワン、かわいいね」って答えてくれるかもしれない、でも、そうならなくても、その子は、もう、私たちと同じ言葉を話す仲間じゃないかしら。

男 なるほどね。もったいつけて言えば、幼な子が、犬を見て喜びや驚きといった感情をいだくことと、目の前の動くモノをニャンニャンでなくワンワンとして、つまり犬を犬として認知することが、「ワンワン」という一言で同時に実現している、ということかな。

娘 幼な子の頭の中にあるのが、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」ということかなあ。

女 そうね。でも、子供段階の、発達の途上に限られるというわけではないと思うわ。「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴく」というのは、大人も含めた、すべての人の言語活動の基になるものだと思うわ。

娘 ああそうか。だから、秀麗な「新古今集」の調べでも、「これヤバくね」「うん、ヤバイヤバイ」みたいな会話でも、根っこには、「おのずから心がウゴく」ということがあるんだね。

青年 学術論文を読んだり書いたりするのであれば、あらかじめ用語の定義や論述のスタイルが決まっている。だからそれを学ぶことから始めるわけだけど。

女 普通の言葉はそうじゃないのね。

娘 どういうこと?

女 小林先生が「『お早う』とか『今日は』という言葉を、先ずその意味を知ってから、使うようになったなどという日本人は、一人もいないだろう」(第28集48頁)と仰っているように、ことばは、まずは使ってみるという面がありますわ。

青年 でもそれは、子供が、挨拶のような定型を身に付けるときの話でしょう。

女 そうでもなくてよ。大人でも、或るとき或る場面の状況や気持ちにぴたりと合う言葉なんて簡単に見つかりそうにないけど、でも、何か言ってみるでしょう。

男 「これ、ヤバくね」とかでもいいのかね?

女 ええ、まずは言葉という形にする。そういう発話の積み重ねが、その人の言葉の世界を豊かなものにしていくのではないかしら。

青年 「うん、ヤバイヤバイ」でもそうだっていうの?

女 豊かにする、なんて言い方が気取りすぎかもしれないわね。でも、友達同士、何か通じ合うものがあれば、それは一歩前進でしょう。そのためには、言葉という形が必要なのよ。

娘 「初めにアヤがあったのであり、初めに意味があったのではない」(第28集48頁)ということかな。

女 そうね。そうだとすると、小林先生の「大人になったからと言って、日に新たな、生きた言語の活動のうちに身を置いている以上、この、言語を学ぶ基本的態度を変更するわけにはいかない」(第28集48頁)というお話も、すこし分るような気がしますわね。

娘 何気ない、ぺちゃくちゃおしゃべりすることも、人間にとって大切なんだね。

男 我々四人のおしゃべりも、意味があるのかな。

娘 どうかな。約二名のキモイのは要らないかも。

女 あら、いいじゃない。小林先生も仰っているわ。「私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである」(第27集276頁)

 

 四人のむだ話は、いつにもまして、延々と続いていく。

(了)