小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和五年(二〇二三)一月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和五年(二〇二三)一月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
新年第一号となる今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組が注目したのは、「才学に公の舞台を占められて、和歌は楽屋に引込んだ」という小林秀雄先生の一言である。それでは和歌は、引き込んだ楽屋で何をしていたのか? 「本居宣長」を片手に、四人のおしゃべりはさらなる深みへと降りて行く。対話の質も回を重ねるたびに熟成が進み、かつ鋭敏さも増しているようだ。
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「『本居宣長』自問自答」には、田中佐和子さん、溝口朋芽さん、荻野徹さん、松宮研二さん、入田丈司さんが寄稿された。
田中さんは、フランスに駐在していた五年間、言葉や身振りなども含めて、意識的にフランス人になり切ったという。裏腹に「日本語からは突き放され」てしまった…… 帰国後、日本語との復縁を図ろうとする未だ暗い道筋を照らし出してくれたのが、「本居宣長」に記されている小林先生の言葉であった。その道筋こそ、宣長が明らめた「言辞の道」である。田中さんが取り戻しつつある大切なものとはいったい何か?
溝口さんは、時間をかけて、「本居宣長」の全編にわたって登場する「しるし」という言葉を眺め続けてきている。これまでも、その前後の文章から大いなる気づきを与えられたようで、本稿では、宣長の「源氏物語」経験に関して、第二十四章に登場する「明瞭な人間性の印し」という言葉に的を絞った。では、「明瞭な人間性」とは何か? 小林先生の文章を丹念に追っていくと、聞こえてきたのは、小林先生の導きの言葉であった。
「巻頭劇場」でおなじみの荻野さんは、「自問自答」についても、十八番である対話劇のかたちでまとめられた。批評家である小林先生は、紀貫之のみならず、本居宣長も、紫式部も批評家である、と書いている。そのうえで、わけても「紀貫之が批評家であるとは、いかなる意味か」という問いが話題となっている。「古今和歌集」仮名序も片手に味わっていただきたい名対話、もう一つの劇場をお愉しみいただきたい。
松宮さんは、E.H.カーの「歴史とは何か」を新訳で読み返し、「歴史家は絶えまなく『なぜ』と問い続けています」という一節に眼がとまった。そこでこう思った。宣長なら、「なぜ」とは言わないだろう、と。その直観を、松宮さんはどのようにして得たのか? ヒントは、カーと小林先生が同じく引用していた、イタリアの歴史家クローチェによる言葉にあった…… そこにいたのは、「四人の歴史家」であった。
入田さんは、「紫式部という作家の創造力とはどのような力なのだろうか?」という自問を立てた。ヒントだと直知した、小林先生の文章があった。先生が宣長について、「『よろづの事を、心にあぢはふ』のは、『事の心をしる也、物の心をしる也、 物の哀をしるなり』と言う」との一文である。先生の言葉に沿って思いを巡らせ行くと、私たちが良く生きるためのヒントもまた、見えてきたようだ。
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「様々なる意匠」という作品は、小林先生が二十七歳の時に書いた文壇デビュー評論として名高い。ただ、「意匠」という言葉からして難解だと感じるのは、今回「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんだけの実感ではなかろう。しかし、第二節冒頭の言葉に注目してみると、そのことばが油然として生気を帯びてきたという。まさに同感するところ大である。今だからこそ、読み返してみよう!
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小林秀雄先生は、小中学生に向けた「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)の冒頭で、絵や音楽が解るようになるためには、「頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものでは」なく、「何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」と述べている。その教えに沿って、新年早々ホールに足を運んだ。お目当ては、マーラーの交響曲第七番である。彼の楽曲はとにかくのお気に入りで、CDでは何度も聴いてきたのだが、この曲に限っては自分の身体がうまく馴染めていないことに、もどかしさを覚えてきていた。演奏の機会も少ない曲だけに、まさに時機到来だ。
無心に聴いた。八十分近い演奏が終わって、私は大きな感動の波のなかにいた。CDでは聴き取りにくい弦楽器のコル・レーニョ(弓で弦をたたく奏法)のニュアンスや、この曲ならではのテノールホルン、マンドリンやギターの繊細な音色も鮮明に届いた。そして何よりも、八十分の演奏が一瞬の出来事のように感じられた。
本番を前に、指揮者はこの曲についてこう語っていた。――喜び、悲しみ、妬み、怒りなどが混ざりあったドロドロした感情を、イタコ状態で表現する必要がある。それも、イタコの語りをメモしているような感じの指揮はつまらない。自分の口でしゃべっているようでなくてはならない。本番ではそれを目指します。
なるほど面白い例えだ。指揮者や演奏家は、作曲家の魂を表現するという意味では、死者の「口寄せ」をする青森のイタコのような存在である。そう指揮者が言うのであれば、自分だってイタコの語りを第三者的にメモする感じではなく、直かに全身で演奏を受けとめよう、そう決意して席に着いたことも奏功したのかも知れない。いや、まさにこういう聴き方こそ、小林先生が勧めていたものではなかっただろうか……
そこでこう決意した。今年もまた何事においても、そのような態度で作者達に向き合っていこう。
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連載稿のうち、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」及び、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)
減七度下行の和音の鉄杭が、硬く凍てつく永久凍土の大地に突如打ち込まれたかのように、その最後のピアノ・ソナタは始まる。「かく運命は扉を叩く」と、ベートーヴェン伝説の大家アントン・シンドラーは、ここでも同じ台詞を捏造することが許されただろう。鉄杭は、三度、打ち込まれ、やがて打ち割れた大地の裂け目からアレグロ・コン・ブリオ・エド・アパッショナートの主部が流れ出す。ソナタ形式の裡にフーガを融合させながら進行するその書法は、晩年のベートーヴェンの作曲様式の典型であるが、その音楽が内に孕む楽想は、作品1-3のピアノ・トリオ以来、この作曲家が繰り返し書き続けたハ短調アレグロ・コン・ブリオの直系に連なるものであり、その掉尾を飾る音楽となった。小林秀雄が坂本忠雄氏に「あれは『早来迎』だ」と語ったはずの「後期のソナタの最終楽章」とは、このベートーヴェン最後のハ短調アレグロ・コン・ブリオに続く第二楽章、ハ長調アダージョ・モルト・センプリーチェ・エ・カンタービレの長大な変奏楽章であったと私は思う。実際に小林秀雄がこの楽章を指してそう呼んだというのではない。彼は大江健三郎氏に「ベートーベンの後期のソナタの最終楽章は、みな『来迎図』のようだ」(傍点杉本)と語ったのであるから、必ずしも一曲に限定したということではなかっただろう。しかし彼が坂本氏に言った「早来迎」という言葉の意味するところのものは、三十二曲あるベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後のソナタのうちに、もっとも象徴的に、もっとも凝縮された形で表れているように思うのだ。私にはこのソナタはその事を、ただその一つの事だけを伝えている音楽であるようにさえ思われる。そしてその所以は、繰り返すが、このソナタの「最終楽章」が自ら表現しているというだけでなく、この第二楽章が、ベートーヴェンの数あるハ短調アレグロ・コン・ブリオのために書かれた「最後の最終楽章」であったという事実にあると思うのである。それは、この作曲家が自身の「宿命の主調低音」をまたしても掻き鳴らしつつ、これを遂に解決し終えたところの最終楽章であった。すなわちベートーヴェンの三十二番ソナタとは、「彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて」(「モオツァルト」)、この作曲家が自ら克明に描いてみせた音楽であった。小林秀雄はおそらく、そう聴いたのではないか。
ベートーヴェンのハ短調、とりわけこの調性がアレグロの速度と生気をもって突き進む時に表出される或る特殊な調べについては既に触れたが、この事実をベートーヴェン自身がどのように自覚していたのか、そのことを自ら語った言葉が残されているのかどうか、寡聞にして私は知らない。「ベートーヴェンのハ短調」を語る人は多いが、というよりもそのことに触れないベートーヴェン論というものは考えられないくらいだが、それをベートーヴェン自身の言葉によって傍証した文章をかつて読んだことがないのである。「ベートーヴェンのハ短調」に通底する或る特殊性とは、あくまでもこの作曲家が残した数々のハ短調アレグロの音楽が聞く者に直接与え、示唆するところの心的印象に根拠を持つものであり、しかもこの印象は、ベートーヴェンを聞くおそらくほとんどの人に伝達され共有し得るものであることから、論者はその特殊性については論証も実証も必要としない、ただ「この作曲家にとってハ短調は特別な調性であった」と言えば皆が納得してしまう、という体のものなのかもしれない。
ただし、次のことは知っておく必要があるだろう。シンドラーによれば、ベートーヴェンの蔵書の中には調性格論の古典であるクリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルトの「音楽美学の理念」があり、ベートーヴェンは他の音楽家にもこの書を勧めていたというのである。シンドラーのベートーヴェン伝には、このテーマについて詩人兼作曲家のフリードリヒ・アウグスト・カンネと交わした会話の内容が伝えられている。カンネは調性に内在する固有の性格を否定したのに対して、ベートーヴェンはこれを肯定し、それぞれの調性は一定した情調と関連するものであること、如何なる楽曲も移調すべからざるものであることを主張したという。シンドラーは、「それぞれの調性の特殊な性格を理由もなく否定することは、ベートーヴェンにとっては潮の干満に対する太陽と月の影響を否定するようなものであった」とまで書いている。もっともベートーヴェンは、シューバルトが長短二十四の調性についてそれぞれ規定した性格そのものを全面的に肯定したわけではなかったようだが、他にもたとえば、若い頃に熱中していた詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックの偉大さを「マエストーゾ、変ニ長調」と言い表したことが音楽評論家フリードリヒ・ロホリッツからの手紙に伝えられているなど、少なくともベートーヴェンが作曲するにあたって調性を決定する時、その調自体が孕む「特殊な性格」が明確に意識されていたことは確かなようである。ちなみにシューバルトの定義によれば、ハ短調という調性には「愛の宣言であると同時に、不幸な愛の嘆き。愛に酔った魂のすべての苦しみ、憧れ、ため息」があるとされる。
このシューバルトの性格規定がベートーヴェンのハ短調にそのまま当て嵌まるかどうか、それはひとえにここにいう「愛」をどう捉えるかに依ると思われるのだが、今はその議論は措こう。それよりも、この調性がベートーヴェンによって実際にどのように取り上げられてきたのか、その軌跡を辿っておきたいのである。実はベートーヴェンという作曲家は、ハ短調というこの彼にとって特別であったらしい調性を生涯を通じて間断なく取り上げていたわけではないのである。そこには一つの、はっきりとした断絶があった。
ベートーヴェンの四十余年に及ぶ作曲家としての創作生涯において、最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」が現れるのは作品1-3のピアノ・トリオであることは既にお話ししたが、「ベートーヴェンのハ短調」ということでは、それよりもさらに十年以上遡ることになる。現存するこの作曲家の最初の作品であり、初めて世に出版された曲に、この調性が与えられているのである。十二歳になる年に作曲されたと推定される「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」がそれである。
変奏曲であるから、主題の調性がそのまま曲の主調を決定することになるわけで、主題そのものはドイツ・リートの作曲家でありテノール歌手としても活躍したエルンスト・クリストフ・ドレスラーによるものである。この頃、少年ベートーヴェンはクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事して本格的な作曲の勉強に取り組んでいた時期であった。ドレスラーのハ短調主題はしたがって、ベートーヴェン自身が選択したものではなく、ネーフェが課題として与えたものであったことも考えられる。しかし仮にそうであったとしても、この曲以前にも作曲の習作は数多く行われていたと考えられており、その中で初めて出版するに値する曲となった音楽の調性がハ短調であったという事実、さらにはその最終変奏が、第五シンフォニーおよび三十二番ソナタと同様ハ長調で結ばれているという事実は、象徴的あるいは暗示的という言葉だけでは片付けられないような強く明確な意志をそこに――それが少年ベートーヴェンにどこまで自覚されたものであったのかはともかくとして――感じざるを得ないのである。少なくともこのベートーヴェン最初の音楽作品には、たとえばモーツァルトが八歳で書いた最初のシンフォニーにこの作曲家の個性の何たるかを見るよりも、ベートーヴェンという音楽家の無二の個性が紛うことなく現れているように思う。なおネーフェは、翌一七八三年三月二日号の「音楽雑誌」にルポルタージュを寄稿し、ベートーヴェンがこの変奏曲を自分の指導のもと出版したことを伝えているが、「必ずや第二のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるだろう」という有名な予言は、その記事の中に記されている。
その後十年あまりの間にベートーヴェンは五十曲ほどの習作を作曲し、そのほとんど全ては当時の慣習にしたがって長調で書かれているが、そのうち短調で作曲された数少ない例外のうちの一つに、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの詩に作曲したリートがあり(WoO 118)、その冒頭のレシタティーヴォがやはりハ短調で書かれている。十四から十五歳になる年に作曲されたもので、タイトルは、「愛されない男のため息――応えてくれる愛」だ。ビュルガーの歌詞を写してみよう。
[レシタティーヴォ] 汝はすべての生けるものに愛を与えなかったのか、わが母よ、自然よ?
[アンダンティーノ] 木々も苔も愛で結ばれているのに私には応えてくれる愛がない。
[応える愛] あなたが私を思ってくれることがわかったなら、わが身は燃え尽きるだろう。
この音楽を、ハ短調とは「愛の宣言であると同時に、不幸な愛の嘆き。愛に酔った魂のすべての苦しみ、憧れ、ため息」というシューバルトの性格定義を裏付ける例証の一つと考えるかどうかは聞く人の自由だが、ベートーヴェンがシューバルトの調性格論のうち意見を異にしたのは長音階に関するもので、短調のそれについては特に異議を唱えなかったらしいことは付け加えておこう。だがそれよりも重要なのは、このリートの[応える愛]からの旋律が、後に作品80の「合唱幻想曲」(ハ短調)に用いられることになり、やがて第九シンフォニーのあの「歓喜に寄す」の主題旋律へと育って行く――少なくともその最初の萌芽であることを予感させる旋律となっている、という事実である。
さてベートーヴェンの作曲歴の中で、このリートの次に生まれたハ短調が、すでにお話ししたこの作曲家がはじめて書いた「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」であり、ベートーヴェンが最初の作品番号を与えた(ベートーヴェンは自分の作品の作品番号を自ら管理した最初の作曲家であった)三曲のピアノ・トリオ中の一曲であった。作曲されたのは二十三から二十五歳になる年にかけてのことである。作曲が開始される前年の十一月、ベートーヴェンは生まれ故郷であるボンでの宮廷楽師の職務を一年間の約束で休職し、ハイドンの教えを受けるためにウィーンへ留学した。モーツァルトがこの都で亡くなった一年後のことである。そして以後、二度と故郷の地を踏むことはなかったが、そのウィーン到着の翌月、父ヨハンがボンで死去している。最愛の母マリアは、十六歳の時にすでに喪っていた。二十二歳のベートーヴェンは一家の長として二人の弟の面倒を見なければならない立場となるが、最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」は、そのベートーヴェンの独立独歩の生涯の始まりに際して生み落とされたのである。
このハ短調ピアノ・トリオがハイドンの前で初演された時のエピソードについては既に触れたが、その時のあらましをベートーヴェンの弟子フェルデナント・リースの覚書によってあらためて伝えておこう。
作品一として出版されようとしていた、ベートーヴェンの最初の三重奏曲三曲は、リヒノフスキー候邸の夜会で、芸術界に紹介される計画となった。音楽家と音楽愛好家のほとんど、とくに、一同がその意見を聞きたがっていたハイドンが招待された。三重奏が演奏されるや、ただちに異常な注目を集めた。ハイドンもそれらについて、いろいろの賛辞を呈したが、三番目のハ短調は出版しないようにと忠告した。その三重奏のうち、ベートーヴェンは第三曲を最上と考えていたし、やはり一ばん喜ばれ、効果も最高であったから、彼もこれにはおどろいてしまった。そんなわけで、ハイドンの批評に悪い印象を受けたベートーヴェンは、ハイドンが自分をうらやみ、ねたみ、好意をもっていないのだと考えてしまうようになった。ベートーヴェンがこれを私に語ったときは、ほとんど信じられなかったことを告白する。それで私は、おりをみてハイドン自身にそれをたずねた。ところが彼の答は、ベートーヴェンの言葉を確証した。公衆がこの三重奏曲を、あのように早く、また容易に理解したり、好意的に受け入れたりするとは思わなかった、というのが彼の言であった」(アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」大築邦雄訳より)
小林秀雄は「モオツァルト」の冒頭章で、メンデルスゾーンがピアノで弾いて聞かせたベートーヴェンのハ短調シンフォニーの第一楽章に動揺するゲーテと、ワーグナーの音楽を熱愛しながらやがてそこに「ワグネリアンの頽廃」を聞き分け、執拗な攻撃を行ったニーチェとの間に「深いアナロジイ」を見たが、ベートーヴェン壮年期のハ短調シンフォニーに苛立つ八十歳のゲーテと、青年ベートーヴェンのハ短調トリオを受け入れようとしなかった六十過ぎのハイドンとの間にも、もう一つのアナロジーを見出すことができるのではないだろうか。古典主義者ゲーテと古典派ハインドを単純に引き比べようというのではないが、二人の老作家が若きベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオに聞き分け、驚きと恐れを感じながらある種の拒否反応を示したところのものは同じであったように思われるのである。昭和六年、日本で翻訳出版された二つ目のベートーヴェン伝であるパウル・ベッカーの「ベエトオヴェン」はそのことを示唆したもので、河上徹太郎が翻訳した同じ著者の「西洋音楽史」を愛読した小林秀雄も、「モオツァルト」の執筆に際して手に取った文献の一つであったはずだが、ベッカーはこのピアノ・トリオ初演時のエピソードを紹介しながら、次のように述べている。
ハイドンの周知の率直と高潔とは、彼がベエトオヴェンを嫉妬したということを著しくあり得べからざることにするが、これに反して、ハ短調の曲が彼を驚かしたことと、彼がそれの出版を不遜と考えたことは甚だありそうなことである。後年ゲエテが気づいた、そして穏やかな不同意を以て気づいたベエトオヴェンの個性のうちにある「無拘束」な或物は、技巧的に円熟した大規模に設計された作品のうちに初めて現われた。そして、これは驚愕と懸念とを以てハイドンの心を満たし得たことであったろう。ハイドンは六十歳であった。そして、赤裸々な感情のこの奔放な表現の魅力を、また伝統的な拘束及び制限に対してのこの反抗を感ずる一つの新時代がベエトオヴェンと共に育っていた事実を看過した。彼は霊魂の内密のこの暴露のうちに、知的な未熟の徴候を、彼の趣味と思考の習慣とに対して不快な或物を見た。(大田黒元雄訳)
「モオツァルト」の読者なら、このベッカーの一節に続けて、ハイドンは「青年期のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか」という「モオツァルト」第一章の言葉を思い出さずにはいられないはずである。ベッカーはその「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」たるハ短調ピアノ・トリオを「自己のものたるべき新領土への最初の決定的な打開」と評したが、小林秀雄はそれを「自分(ベートーヴェン)の撒いた種」と呼んだのだと言える。
この最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」を発表した後、ベートーヴェンは同じく数曲一組の楽曲セットに一曲だけ短調の音楽を挿入し、これをハ短調で書くということを、さらに二度繰り返した。一つがその二年後、二十七から二十八歳になる年にかけて作曲された弦楽三重奏(作品9-3)であり、もう一つが二十八から三十歳になる年に書かれた弦楽四重奏(作品18-4)――小林秀雄が「ベートーヴェンの作品十八、彼のトーンはあそこでもう決定している」(鼎談「文学と人生」)と語ったときに名指していたはずの一曲――である。弦楽トリオはピアノ・トリオと同様三曲一組の中の一曲、弦楽カルテットの方は六曲一組の中の一曲である。いずれも「アレグロ・コン・ブリオ」の指定を直接与えられた楽章を持つわけではないが、両曲の第一楽章アレグロは紛うかたなき「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の系譜に属する音楽である。
このうち弦楽四重奏というジャンルは、ベートーヴェンにとっては交響曲、ピアノ・ソナタと並んで最重要な楽曲領域であり、この作曲家が生涯の最後に完成させた音楽もまた弦楽四重奏であった。作品18はその最初の、満を持しての作品群である。しかもこのジャンルは、交響曲とともにハイドンが完成させたジャンルであった。ベートーヴェンが作品18の全六曲を完成し終えた時点で、ハイドンは六十八曲に及ぶ全カルテットをすでに発表しており(編曲や偽作を含めれば八十曲を超える)、この作曲領域は言わばハイドンのホームグラウンドのようなものであった。その師ハイドンが創り上げた弦楽四重奏の傑作佳作の森の中で初めて自分の作品を世に問うにあたって、ベートーヴェンは師の音楽から十二分に教わり、奪えるものは存分に奪い尽くした上で、その中に一曲、自ら「最上」と考える作品を、かつて師に否定された「ハ短調」の調べをもって添えたのである。作品1とは違い、ベートーヴェン自身がこのハ短調カルテットを六曲中の「最上」と考えたという記録があるわけではないが、この一曲がそれ以外のカルテットに比べて圧倒的な異彩を放っていることは疑いなく、そこにはベッカーの言う「赤裸々な感情のこの奔放な表現の魅力」が横溢し、「霊魂の内密の暴露」がより劇的かつ精緻に行われている。ベートーヴェンにとって作品1の「最上」がハ短調ピアノ・トリオであったのなら、作品18についてもこの作曲家にとっての「最上」は間違いなくハ短調カルテットであっただろう。一方、これも作品9の「最上」と言っていいハ短調弦楽トリオについても、二十年後、さる「篤志家」が編曲したものをベートーヴェン自身が大幅に手を入れ直し、作品104の弦楽五重奏として出版していることを付記してしておきたい。
この他、ベートーヴェンが三十歳になるまでに書いたハ短調作品としては、弦楽トリオの一年ほど前に完成されたと推定されるピアノ・ソナタ第五番がある(作品10-1)。ピアノ・ソナタは先にも述べたようにこの作曲家のもっとも重要な曲種であり、またもっとも内的な自己との対話と実験の場でもあって、初期から晩年に至るまでたゆまず作品を生み続けた唯一のジャンルであった。ベートーヴェンが書き残した三十二曲のピアノ・ソナタ(ドレスラー変奏曲の翌年に作曲された三つの「選帝侯ソナタ」など作品番号が付いていないものも含めれば三十七曲となる)には三曲のハ短調ソナタがあり、いずれも第一楽章はアレグロ・コン・ブリオの指定を持つ。作品10-1はその記念すべき最初の作品であった。
しかし私は、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の真の誕生は、この第五ピアノ・ソナタに続く2番目のハ短調ソナタによってもたらされたものであったと考える。そのソナタの直筆譜は現存しないため正確な作曲年代は不明だが、現在では作品9-3のハ短調弦楽トリオと同じ頃の作であるとされる。作品18-4のハ短調カルテットが書かれる一年前である。
小林秀雄は「モオツァルト」の中で、モーツァルトがハイドンに捧げた弦楽四重奏群の最初の一曲、二十六歳の時に作曲したK.387について、「彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるという想いに感動を覚える」と書いているが、私は、「”Grande Sonate pathétique”(大ソナタ 悲愴)」と二十八歳のベートーヴェンが自ら命名したこの第八番ピアノ・ソナタ(作品13)、中でもその音楽の開幕とともに天から垂直に落雷するあの激烈なハ短調主和音の一撃を聞くたびに、「ベートーヴェンの真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまる」という想いに強い感動を覚えるのである。四半世紀後、三十二番ソナタの序奏において三度打ち込まれることになるあの減七度下行の鉄杭は、ここにおいて初めて古典派という永久凍土の大地を割ったのである。
(つづく)
※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものである。
「樣々なる意匠」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第1集所収)は昭和四年、小林秀雄氏が二十七歳の時に書いた、論壇デビュウ作である。百年近く前に書かれた作品といふことになるが、この文章が今日の我々に訴へかけることとは何であらうか。
タイトルにある「意匠」といふのは、普段聞き慣れない、難解な言葉である。「樣々なる意匠」で小林氏は、印象批評、マルクス主義、藝術の為の藝術、写実主義、象徴主義、新感覚派文学、大衆文藝を論じてゆくが、これらの主義、立場が意匠であるとはどういふことであるのか、今一つ腑に落ちない。
しかし、「樣々なる意匠」第二節冒頭の言葉に注目してみると、意匠といふ考へは生気を帯びてくる。「『自分の嗜好に從つて人を評するのは容易な事だ』と、人は言ふ。然し、尺度に從つて人を評する事も等しく苦もない業である」。印象・主観批評批判に対する痛烈な再反論であるが、この一説を、尺度に対する依存といふ問題として敷衍するならば、事態は我々の身近に広く認められるはずである。例へば、我々はよく「X新聞は信用できる」、「専門家の~氏が言つてゐるから本当だ」と言ふ。殊に新たな病気の蔓延、戦争など、未知なる、不確実な事態と向きあはねばならないやうになると、その傾向が一層強まる。しかし、それは結局、ある新聞社なり専門家といふ「尺度に從つて」現実を見ることが、「苦もない業である」ためなのであらう。そして現実そのものに向き合ふといふ態度は忘れ去られる。同じことは「樣々なる意匠」における、マルクス主義批評家についての言及にも見てとれる。小林氏からすれば、マルクス観念学は彼らの脳中において、まさにマルクス主義がいふところの「商品の一形態となつて商品の魔術をふるつてゐる」のである。彼らもまた、目の前の現実と向き合ふことを忘れ、尺度によつて現実を見てしまつてゐる。マルクス主義以外の、印象批評、藝術の為の藝術、写実主義、象徴主義、新感覚派文学、大衆文藝といふ立場も、それが出所を離れて世に流通すれば、安直に利用される尺度となる。意匠は尺度として人間の前に姿をあらはすのである。そして世に意匠が蔓延つてゐることは、意匠の種類こそ違へど、現代も変はらない。
「樣々なる意匠」が面白いのは、尺度が当初の目的を失ひ使用される様を批判するだけではなく、尺度そのものが発生した場へと遡つてゐる所である。そこで、尺度に対する評価は一変する。例へば小林氏はマルクスについて「時代の根本性格を寫さんとして、己れの仕事の前提として、眼前に生き生きとした現實以外には何物も欲しなかつた」と述べるが、この評価は、尺度により現実を見ることにとらはれたといふ、マルクス主義者に対する評価とは対照的である。小林氏の目にマルクスは、己が全存在ともいふべき「宿命」に対して忠実に従ひ、あるがままに現実をみようとした人物として映る。尺度の根底に、そのやうな人間の姿を認めるのであれば、主義と主義の対立も意味を失ふ。「寫実主義」といふ言葉も、「象徴主義」といふ言葉も、藝術家が「各自の資質に從つて、各自の夢を築かんとする地盤」を指すやうになる。意匠を生み出す人間は銘々の宿命に即して、「常に生き生きとした嗜好を有し、常に潑剌たる尺度を持つ」のである。
ここで、現代の「焦燥な夢」を持つ読者は、次のやうな疑問に駆られるのではないか。潑剌たる尺度があることはわかつた、では尺度と尺度の対立はどうなるのか。マルクスは詩人を、『資本論』から追放したとあるが、小林氏はマルクスと詩人、どちらを正としてゐるのか。答へを求めて文章を彷徨する内に、読者は冒頭で次のやうに述べられてゐることに気が付く。「私は、こゝで問題を提出したり解決したり仕ようとは思はぬ、私はたゞ世の騒然たる文藝批評家等が、騒然と行動する必要の爲に見ぬ振りをした種々な事實を拾ひ上げ度いと思ふ」。なるほど小林氏本人が問題を解決しないといつてゐるのだから、答へは文中に見つかるまい。不満を抱へつつ、我々は文章から退く。しかし「解決したり仕ようとは思はぬ」といふ態度は、単に問題を扱はないといふ消極的なものではなく、積極的な何ものかを孕むのではないか。小林氏はマルクスと詩人の問題について、次のやうに述べてゐる。
これは決して今日マルクスの弟子達の文藝批評中で、政治といふ偶像と藝術といふ偶像とが、価値の對立に就いて鼬鼠ごつこをする態の問題ではない。一つの情熱が一つの情熱を追放した問題なのだ。或る情熱は或る情熱を追放する、然し如何なる形態の情熱もこの地球の外に追はれる事はない。
幾つかの言葉については理解のために、当時の文壇事情や、マルクスについての知識を必要とするかも知れない。しかしこの一節から我々は、異なる宿命を背負つたもの同士の、壮絶なる対立を思ひ浮かべることが出来るであらう。そのやうな光景に出会つた時、我々が為すべきことは何か。それは、「騒然と行動」して、手持ちの尺度により事態を測らうとすることではなく、まづは問題を眺め、情熱同士の格闘を目に焼き付けることであるはずだ。仮に決着の道があるとして、出発点はそこにしか存在しない。「解決したり仕ようとは思はぬ」といふ小林氏の言葉は、騒然と行動しては消えてゆく者たちを尻目に、困難な事態を困難であるがままに見つめる態度を示す。
「樣々なる意匠」は一見したところ、意匠で身を固めた当時の知識人批判の書である。しかしそこには、現実と直に向き合ひ、尺度の根底に情熱を探らうとする、小林氏のものの見方が示されてゐる。そして、その見方自体が「生き生きとした嗜好」と「はつらつたる尺度を有」してゐるのだ。「樣々なる意匠」が今日の我々に訴へかける事は何か。それは尺度によらず、ひたすらものや藝術と向き合ふこと、「傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音」がきこえるまで、傑作を彷徨し続けることの必要性であらう。これは平凡な自明の理かも知れないが、騒然とした世においてその理を守ることは、頗る難しい。ものがその姿を我々の目の前によくあらはすためには、我々の努力が要るのである。
(了)
「源氏物語」の「蛍の巻」で、絵物語に熱中する玉鬘のもとを源氏君が訪れ、物語について語り合う場面がある。そこで小林秀雄先生が「会話中の源氏の一番特色ある言葉」として紹介しているのが、「(元来物語というものは)神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、ただ、かたぞばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という文章である。(「f本居宣長」第十六章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収)
これは、「物語の作者というものは、口の上手な、嘘をつき慣れた人なんだろうね……」、という源氏の言葉に機嫌を損ねた玉鬘が、立腹気味に「私には本当のこととしか思われません」と返したことに対し、源氏が笑いながら、少し冗談めかして「ぶしつけに物語のことを悪く言ってしまった、『日本書紀』など及ぶところではなく、物語にこそ人の世の真理を含む詳しいところが書いてあるよね」と返したシーンである。
そこで小林先生は、このように言っている。「彼女(坂口注;紫式部)は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは『神代よりよにある事を、しるしおきけるななり』という言葉は、其処から発言されている……」
そのあとに続くのがこの言葉である。
「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」。
簡明率直にして、それこそ底が深い泉のように感じられるこの言葉に先生が込めた深意について、本居宣長と紫式部という人物と向き合いながら、思いを巡らせてみたい。
先生は、「飲んでいる」と書いている。そこに私は、式部の、「物語の生命」の源泉に対する強い確信と当事者たらんとする強い意思を感じる。それでは、彼女のそのように強い気持ちは、どのようにして育まれたのだろうか? 宣長は、その思いの強さをどのように受け止めたのか? さっそく二人の肉声を聴いてみよう。
宣長は、「紫文要領」において、「古き物語どもの趣き、それを見る人の心ばへなど」が「源氏」の巻々に見えるという十二の例を引いている。ここでは、そのうち三例を引く。
まずは、蓬生の巻から。
「――はかなき古歌・物語などやうの御すさびごとにてこそ、つれづれをもまぎらはし、かかる住ひをも思ひ慰むるわざなめれ。(坂口注;慰めることができるのである)
『かかる住ひ』とは、末摘花の心細くさびしき住ひなり。さやうのことをも慰むるは、古物語に同じさまのこともあれば、わが身のたぐひもありけりと(坂口注;古物語に自分と同じ様子の事がらも書かれているので、自分のような境遇の人もいるのだと)、思い慰むなり。
次に、総角の巻から。
「――げに古言ぞ人の心をのぶるたよりなりけるを(同;のびのびさせる手段であるということを)、思ひ出で給ふ。
この『古言』は古歌のことなれど、物語も同じことなり」。
最後に、胡蝶の巻から。
「――昔物語を見給ふにも、やうやう人の有様、世の中のあるやうを見知り給へば、……
すべて物語は、世にあることの趣き、人の有様を、さまざま書けるものなれば、これを読めばおのづから世間のことに通じ、人の情態を知るなり。これ、物語を読む人の心得なるべし」。
そのうえで宣長は、こう概括している。
「それ(坂口注;物語)を見る人の心も、右に引けるごとく、昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また己が身の上をも昔にくらべてみて、今の物の哀れをも知り、憂さをも慰め、心をも晴らすなり。(坂口注;物語を読む人は、昔の出来事を今の出来事に引き比べて、昔の人が感じていたもののあはれを体感し、また自分の現在の身の上を昔と比べることで、自らが感じている「もののあはれ」を再認識し、悲しみを慰め、これを晴らす)
右のごとく巻々に古物語を見ての心ばへを書けるは、すなはち今また『源氏物語』を見るもその心ばへなるべきことを、古物語の上にて知らせたるものなり。(同;そういう気持ちであるということを、古物語に託して読者に教えているのである)右のやうに古物語を見て、今に昔をなぞらへ、昔に今をなぞらへて読みならへば、世の有様、人の心ばへを知りて、物の哀れを知るなり」。(傍点筆者)
続いて、式部の肉声を「紫式部日記」から聴いてみよう。夫の源宣孝との死別(1001(長保三)年)、一条天皇の中宮彰子のもとへの出仕(1005(寛弘二)年)を経た、一〇〇八(寛弘五)年十一月中旬に記した回想である。
「年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋にゆきかふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにとばかり、行くすゑの心ぼそさはやるかたなきものから、はかなき物語などにつけてうち語らふ人、おなじ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけどほき、たよりどもをたづねてもいひけるを、ただこれをさまざまにあへしらひ、そぞろごとにつれづれをばなぐさめつつ、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかりのがれたりしを、さも残ることなく思ひ知る身のうさかな」(傍点筆者)。
これを口語に訳してみれば、次のようになろう。
夫が亡くなってから幾年か、私は涙に暮れながら夜を明かし日を暮らした。花の色も鳥の声も空しく、この身はただ物憂い日々を過ごしているだけだった。春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪などを目にするに付けても「そんな季節になったのか」とだけは分かるが、心中はただ「いったいこれからどうなってしまうのだろう」とそのことばかりで、将来の心細さはどうしようもなかった。私には、取るに足りないものではあるけれど物語についてだけは、語り合える友たちがいた。同じ心を抱き合える人とはしみじみと思いを述べた手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも連絡を取り、私はただこの「物語」というものひとつを手掛かりに、様々の試行錯誤を繰り返しては、慰み事に寂しさを紛らわした。私など、世の中を生きる人の数には入らない。それは分かっているが、さしあたってこの小さな家の中で暮らし、気心の知れた仲間と付き合う世界では、恥ずかしいとかつらいとかいう思いを味わうことを免れていた。(*1)
文意よりも、その姿を虚心にながめてみると、宣長が直覚したように、彼女自身が、物語そのもの、そして物語について語り合う仲間たちの存在に大いに助けられながら、なんとか日々の生活を重ねて来ることができた、そう痛感している姿が眼に浮かぶ……
さて、先に引いた「紫文要領」からの引用は、「古物語」に特化したものであり、「源氏物語」において、「物語」という言葉は、談話、雑談、親しい人との語らい、など多種多様なニュアンスで使われている(*2)。また、式部が暮らしていた当時、語り合われた題材は、物語だけではなく、歌もその対象であった。「歌語り」と言われ、ある歌やその歌にまつわる話をめぐって語り合うことが、盛んに行われていたのである(*3)。
例えば、式部は、こんな歌を詠んでいる。
「わづらふことあるころなりけり。『かひ沼の池といふ所なむある』と、人のあやしき歌語りするを聞きて、『こころみに詠まむ』といふ
世にふるに などかひ沼の いけらじと 思ひぞ沈む そこは知らねど」
これは、式部が病気をしていた時、人が「かい沼の池という所があって……」と、不思議な歌にまつわる話をするのを聞いて詠んだ歌である(「紫式部集」)。
また、「源氏物語」にも「歌語り」の場面は多い。
例えばこれは、光源氏が紀伊守の屋敷を訪れた際、源氏の御座所の西側の部屋から、若い女性たちのおしゃべりする声が聞こえてきた時のことである。
「ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿の宮の姫君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」(帚木の巻)
(源氏君は)別段のこともないので、途中までで聞くのをおやめになったが、いつしか式部卿の宮の姫君に源氏が朝顔の花をお贈りになった時の歌などを、少し文句を間違えて言うのも聞こえてきた。有閑婦人気取りで、何かと言えば歌を口にすることよ、やはりがっかりする手合いだろうな……(坂口注)
機会を改めて詳しく検討するつもりであるが、このような「歌語り」については、実体としては平安期を遡る古代からあったと言われている。ちなみに、「歌語り」というわけではないものの、先ほど引いた式部の日記にある「花鳥の色をも音をも」という言葉は、「後撰和歌集」(*4)にある歌に見える。(夏212番)
花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かるる身は 過ぐすのみなり
花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ。(坂口注)
作者は、式部の祖父、藤原雅正である。彼女の一族は、藤原氏の中でも名門の北家に属しており、直系の曽祖父である藤原兼輔は従三位中納言、もう一人の曽祖父である藤原定方は右大臣という高位にあった。ところが、雅正の代から一変、凋落の一途をたどったと言われている。
ちなみに、兼輔の歌も「御撰和歌集」に収録されている。入内した娘、桑子が帝の醍醐天皇の寵愛を受けられるかどうかが心配でたまらず、帝に奉ったものだ。
人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな
子を持つ親の心ときたら、暗くもないのに迷ってばかり。子を思うがゆえに、分別をなくしてしまうのです。(同)
「源氏物語」の中で、この歌の趣旨が背景にあると思われる箇所は、二十六に及ぶ(*5)。彼女自身も、夫の没後は女手一つで娘の賢子を育て上げており、兼輔が感じていた痛いような思いを自らのものとしていたのであろう。(*6)
ところで宣長は、「紫文要領」のなかで論を進めるにあたり、式部の「気質」「性質」にまで目を配っている。ここで、式部が「日記」のなかに記している、ある出来事を紹介しておきたい。
中宮彰子が、一条天皇の二男となる敦成親王を出産した年(1008(寛弘五)年)の新嘗祭でのこと。内裏の数ある祭のなかで最も華やかな出し物となるのが、四人の童女による「五節の舞」である。帝をはじめとする衆目を浴びながら舞を披露する童女たちを見て、式部は、彼女たちが感じている、顔から火が出るような心持ちを想像し、そこに自らが初めて内裏に出仕した当時の心持ちを重ね合わせる。我が心が我が心を見つめる…… そのまま、こう独りごつ。――今や宮仕えにもすっかり馴れて、あれほど恥ずかしくて嫌だった、人と直かに顔を合わせることもすっかり平気になってしまった。私は一体これからどうなってしまうのだろう、末恐ろしくも思われ、眼前の舞も上の空になってしまった……
式部は、他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていたようだ。そうであればなおさら、「古歌」や「物語」に対する彼女の思い入れの強さも、さらによく理解できよう。
このように、「古歌」や「物語」については、式部自身が人一倍親しみ、「昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また己が身の上をも昔にくらべてみて、今の物の哀れをも知り、憂さをも慰め、心をも晴らす」という、その功徳もよくよく体感していたことがわかる。かてて加えてその功徳は、上古の人々から、「古歌」や「物語」において体感され、平安の「今、ここ」の世に至るまで、連綿と受け継がれてきているものであることを、彼女は鋭く直観していたように思う。
本稿で熟視した、「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」という言葉の少しあとで、小林先生はこのように語っている。
「物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、ただ、かたそばぞかし』と言ったのである」。
本稿では、物語の生命の源泉に向けて、宣長も直覚していた式部の気質に光を当てるかたちで論じてきたが、さらなる深みへと降りて行く必要があるように思われる。
(*1)山本淳子「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)
(*2)藤井貞和氏によれば、「『源氏物語』のなかに『物語、御物語、古物語、昔物語、物語絵、物語す』などの辞例が二百二十余りある」。(『物語論』、講談社学術文庫)
(*3)「『歌がたり』とか『歌物がたり』とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す」(「本居宣長」第十八章、「小林秀雄全作品」第二十七集所収)
(*4)村上天皇の命による、「古今和歌集」に次ぐ第二の勅撰和歌集。
(*5)井伊春樹編「源氏物語引歌索引」(笠間書院)による。
(*6)賢子は藤原道長の兄道兼の子兼隆との間に女子をもうけた後、時の東宮(皇太子)の皇子の乳母となった。その皇子はのちの後冷泉天皇で、その功績により三位という高位を授与された。
【参考文献】
・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子校注)
・「紫文要領」『本居宣長集』(同、日野龍夫校注)
・「紫式部日記・紫式部集」(同、山本利達校注)
・清水好子「紫式部」岩波新書
・藤井貞和「物語史の起動」青土社
・山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」朝日新聞出版
(了)
小林秀雄さんの『本居宣長』を読み込んでゆく中でずっと注目し、問いとしても抱え続けている文章がある。それは、次の言葉である。
「源氏」を成立させた最大で決定的な因子は、この、言語による特殊な形式に関し、この作家に与えられた創造力にあるのであり、これに比べれば、この作家の現実の生活や感情の経験など言うに足りない、そういう、今日でも猶汲み尽す事の出来ないむつかしい考えが、宣長の「源氏」論を貫き、これを生かしているのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.205、16行目~、「本居宣長」第十八章)
この、紫式部という作家の創造力とはどのような力なのだろうか?
これについて宣長はどのように考えていたと、小林秀雄さんは述べているのか。
難しい問いだと思うが、これに対する自答を追求していこうと思う。
『本居宣長』から自答のヒントとして私が一番に選んだのは次の箇所である。とても重要と思うゆえ、いささか長い引用となる。(同第27集p.164、3行目~、同第十五章)
「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、 物の哀をしるなり」と言う。(中略)「情」が「感」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。
引用はさらに続く、
宣長が、「源氏」に、「人の情のあるやう」 と直観したところは、そういう世界なのであって、これは心理学の扱う心理の世界に還元して了えるようなものではない。もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。(同p.164、3行目~、第十五章)
私がまず着目したのは、「心にあぢはふ」たことを、感じ取った内面から「生き生きと表現」することができる、しかも語るという形で「現に、誰もが行っている事」、「殆ど意識せずに、勝手に行っている」というくだりである。これは、生き生きと表現するための根源となるエネルギーは、「よろづの事を、心にあぢはふ」ことであって、それが誰もがおこなっている語りという表現へと向かわせる、ということだろう。
ここから、世の人の振る舞いなど「よろづの事を、心にあぢは」ひ尽くす力が、式部の創造力の一つの要素である、と言ってよいであろう。
次に、「内観による、その意識化が、遂に、『世にふる人の有様』という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を『みるにもあかず』と観ずるに至った」という一文である。式部は、実際に見聞きして起きたことを直に書いたのではなく、「『世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる』味い」を心眼に描き出して、物語として書き記したことが、大事なのだ。それゆえ、「心にあぢはふ」たことを内観による意識化によって、「世にふる人の有様」の物語として語りたくなるほどに、思いを充分に育て熟成する力がまた、式部の創造力であると受け取れる。
そして、「この思いを、表現の『めでたさ』によって、秩序づけ、客観化し得たところ
を、宣長は、『無双の妙手』と呼んだ」との文である。「無双の妙手」、今の言葉で言えば、並ぶもの無き優れた技の持ち主、とは何と強い言葉であろうか。
これにより、熟成した思いとしての物語を、詞花言葉を徹底的に駆使して「人の情のあるやう」を読者に語りかけるように、言葉の世界へ描き出す力が、三つ目の式部の創造力であると言えよう。
即ち、紫式部の創造力とは、まず、人の振る舞いなど「よろづの事を、心にあぢはひ」尽くす力。次に、このあぢはひから「情」が「感」き内観による意識化によって、「みるにもあかず」と思わず語りたくなるほどに、思いとしての物語を充分に育て熟成する力。そして、熟成した思いとしての物語を、詞花言葉を徹底的に駆使して「世にふる人の有様」、人の情のあるやう」を読者に語りかけるように、言葉の世界へ描き出す力。この三つの力が合わさったものと読み取れる。
ところで、式部の創造力と読み取った三つの力は、順を追って発揮されるものなのか、あるいは順序といった区別はないものなのだろうか。
先に『本居宣長』から引用した箇所を再読すると、「事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい」とある。さらに、宣長が「源氏物語」に「人の情のあるやう」を感じ取った世界は、「根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界」と書かれている。これを受けて、式部の創造力である三つの力は、順番を区別されることなく同時に発揮されるもの、と言えるであろう。
ここで、宣長が「無双の妙手」とまで記した、言葉の世界に物語を描き出す力について、『本居宣長』からもうひとつ引用し少し補強の考察をしたい。
彼(宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見た。(同p. 206、1行目~、第十八章)
現実に触れて感情が動いても、それは「機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」ゆえに、「作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない」と言う。これは、古来より詞花言葉を駆使して物語を創り出す作家が現れ、また物語が読み継がれていく、人々の行為の源流を示唆しているように思われる。
心を有して生きてゆく“ひと”は、感情や思いを、詞花言葉を使って物語るなど何らかの表現をおこなって明瞭化し意味を問い、その表現を多くの人と共有し、また受け継いでいかなければ、生きがいを持って生きてはいけない存在なのではあるまいか。
そう考えると、本稿の初めに引用した「『源氏』を成立させた最大で決定的な因子は(中略)、この作家に与えられた創造力にあるのであり、これに比べれば、この作家の現実の生活や感情の経験など言うに足りない」という小林秀雄さんの言葉が、たいへん説得力を持って感じられてくる。
繰り返しになるが、感じ尽くす力、感じた思いを熟成させる力、それと一体となって詞花言葉を徹底的に駆使して語る力、が「人の情のあるやう」を映し出す物語の創造力であり、ここまでの創造力を発揮し得た稀有の人物が紫式部なのだろう。
現代の我々も、物語ることはあるだろうが、ともすれば、小洒落た言葉を使うような狭義のレトリックに終始してしまっていないだろうか。
ときには、「驚くべき永続性」(同p. 139、後ろから5行目、第十三章)を有する古典を紐解き、記されている詞花言葉に真摯に向き合い耳を澄ますならば、その作者と出会い、さらに創造の技に触れることができて、我々自身が言葉を使い人々と共有する行為も真に深みを増していくのではなかろうか。それは結局のところ、手応えを持って生きていく、良く生きることに繋がっていくと思うのだ。
(了)
歴史の授業が好きだった高校生のころから高校生に歴史の授業をしている現在まで、小林秀雄先生が「無常という事」の中で「多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収p.145)と書かれていることが、気にかかっていた。過去を「心を虚しくして思い出す事」が歴史であるとは、どういうことなのだろうか?
「本居宣長」第三十章では、歴史家に対してさらに手厳しい。「凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ」(同第27集p.348~349)。
これと対置されているのが、本居宣長が「古事記」に向き合った姿勢である。宣長が、倭建命の述懐に「所思看は、淤母富志売須那理祁理と訓べし」と注したことについて、小林先生は「訓は、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る。『いといと悲哀しとも悲哀き』と思っていると、『なりけり』と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい」と書く(同p.348)。宣長は、古人の内部に入り込んで、古人が生きた経験を自分の心のうちに迎え入れ、これを生きてみることを実践し、それによって古人の「ふり」を体得した。これこそ「歴史家が自力でやらなければならない事だ」という(同p.350)。すなわち、宣長こそ歴史家である、と小林先生は言う。
大学などで歴史を学ぶ者にとって、E.H.カーの『歴史とは何か』は、文字どおり「歴史とは何か」を学ぶ上での必読書とされている。長く清水幾太郎訳(岩波新書、1962年)で読まれてきたが、このほど近藤和彦による新訳が出て面目を一新した(岩波書店刊、2022年)。
新しい訳文で読み返しながら、ふと目についたのが、「歴史家は絶えまなく『なぜ』と問い続けています」という一節だった。宣長は「なぜ」とは言わないだろう、と思った。「ここは『なりけり』と読まねばならない」とまで倭建命と一体化した宣長が、「なぜこうしたのか、ほかにもっと良いやり方はなかったのか」などと問いかけることは考えられない。
「なぜ」への答は、後付けの解釈だから、必ず「さかしら」に陥る。いにしえから遺ったままの姿に心惹かれるという素直な態度が取れず、すべてに合理的と思えるような答を出さないと気がすまない、という姿勢が「さかしら」である。「なぜ」という問いと「さかしら」な解釈は、過去に対しても現在に対しても、それらを外側から裁断したり改造したりできるかのような態度をもたらすだろう。
「なぜ」と原因を問うのは、結果をコントロールしたいという意志があるからだ。カーは、「人が過去の社会を理解できるようにすること、人の現在の社会に対する制御力を増せるようにすること、これが歴史学の二重の働きです」(同p.86)、あるいは「私たちは合理的原因と偶発的原因を区別します。合理的原因の方は、他の国、他の時代、他の諸条件にも応用可能で、実のある一般化にいたり、教訓を学べるでしょう」と論じている(同p.178)。
カーが『歴史とは何か』の中で、イタリアの歴史家クローチェの「すべての歴史は『現代史』である」という言葉を取り上げたことは有名だ。カーは、この言葉を「歴史の本質は過去を現在の目で見ること、現在の諸問題に照らして見ること」と説明している。
また、カーは「私たちがどこかから来たという確信は、私たちがどこかへ向かっていくという確信と切り離せません」ともいう。彼は、歴史を学ぶことは、過去と同じく現在をも理解し、よりよい未来へ導けるように、現在の社会に働きかけてゆくことだと確信していたのだ。
小林先生も、同じクローチェの言葉を引いている。昭和四十五年に、国民文化研究会の「全国学生青年合宿教室」に集まった学生たちへの講演で「『歴史はすべて現代史である』とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです」と語った(「講義 文学の雑感」、新潮文庫「学生との対話」p.28)。
「本居宣長」においても「総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい」と繰り返される(同第27集p.351)。過去を知ることは、現在の自分の生き方を知る、そしていかに生きるべきかを考えることである。
歴史を学ぶことは自分の生き方を考えることだ。宣長はそのように生きた人であるからこそ、歴史家である。また、そうした宣長の生き方を、そのように学んだ小林先生も歴史家である。
クローチェ自身は、どのように考えていたのだろうか。彼の「思考としての歴史と行動としての歴史」(上村忠男訳、未来社刊、1988年。原著は1938年)には、次のような言葉がある。
「事実を収集しただけのものは実録、事記、回顧録、年代記などとは呼ばれるが、歴史とは呼ばれない。……単に事実を収集したものにとどまっているかぎり、……ついにわれわれの真理、言い換えれば、われわれによって、われわれの内なる経験にもとづいて産み出された真理となることはない」(同p.7~8)
「われわれは他の民族や他の時代の歴史をそれらが充足していたもろもろの欲求がわれわれのうちに生き生きと再現してこないかぎり理解はできない」(同書p.11)
「歴史学において通常史料と呼ばれているものにしても、……わたしのうちに存在する心の状態の記憶をわたしのうちに呼び覚まし確認させてくれるのでなければ、史料として働いていないのであり、史料ではないのである」(同p.14)
これらは、小林先生が「学生との対話」の中で「歴史家とは、過去を研究するのではない、過去をうまく蘇らせる人を歴史家というのです。……歴史家の精神の裡に、過ぎ去った歴史が生き返っていて、その生きたさまを書くから、僕らを捉えるのです。歴史家の目的は、歴史を自分の心の中に生き返らせることなのです」と語られていることと響き合う(「講義『文学の雑感』後の学生との対話」、同p.109)。
クローチェは、「ナポリ王国史」(1923年)、「十九世紀ヨーロッパ史」(1932年)などの執筆と並行して、ムッソリーニの政権と対峙して、言論による抵抗を続けた。その生き方は、「十九世紀ヨーロッパ史」を自由とカトリシズムや絶対王政などとの闘いとして描いた彼の歴史叙述に呼応しているだろう。
カーが『歴史とは何か』を書いたのは第二次世界大戦の終結から十数年後のこと。カーをはじめとする歴史学者たちは、人類の進歩、社会の進歩を信じ、それに歴史学や自分たちが参画してゆく、人々は歴史を学ぶことで人類・社会を進歩させることができる、と考えていた。
現在、世界はまるで第二次世界大戦前に戻ったようにも見える。進歩への信頼・確信を持ちにくい今、歴史の学び方は、宣長や小林先生に立ちかえるべきではないか、と思う。
(了)
女 今度の山の上の家の塾、あなた発表の当番よね。自問自答のテーマは?
男 「貫之が批評家であるとは、いかなる意味か」だよ。
女 ああ、あの箇所ね。小林秀雄先生は、紀貫之について、「やはり、彼の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだったのではあるまいか」(新潮社刊『本居宣長全作品』第27集306頁)とおっしゃっている。どうしてここ選んだの。
男 批評家という言葉は、やはり気になる。『本居宣長』という本を読む上で、一つの鍵になる言葉かもしれないと思ってね。
女 そうね、小林先生は、別のところで、(宣長という)「この大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい」(同上146頁)とも、書かれているわね。
男 だからさ、小林秀雄という大批評家が貫之という大批評家を発明したといってよい、なんてね。
女 あなた、そんな駄洒落みたいなことでいいと思ってるの。
男 厳しいな、どうしてさ。
女 小林先生ご自身は、いま私たちが普通に使う意味での批評家だけれども、貫之が批評家であり、式部が批評家であり、宣長が批評家であるというのは、それぞれ、小林先生が、考え抜いた末に述べた言葉でしょう。「発明した」という言葉にも、何か含みがありそう。そういう、それぞれの文脈を抜きに、単純に同じ意味とは考えられないわ。
男 それぞれの文脈が大事なのは分かるけれど、その上で、同じ言葉を使ったようにも思うんだけど。
女 そうかしら。でも、こういう抽象的な議論はだめね。具体的に、貫之について、あなたの答えはどうなの。
男 要点は、貫之は、『古今和歌集』の『仮名序』において、和歌論を和文で書くことに成功した、ということだと思う。
女 文を書いたから、批評家だというの。
男 和歌を詠むのではなく、和文を書いて歌を論じたわけだから。
女 歌と文とは、そんなに違うの。
男 それはそうさ。和歌はもともと声を出して歌うものだけど、和文は黙って目で読むのだから。
女 文字の有無が問題なの。
男 うん。我が国には、固有の言葉はあっても、それを表す文字がなかった。だから、大陸由来の漢字を転用して使っていた。
女 万葉仮名ね。でも、和歌以外の言葉も、万葉仮名で表せば同じことじゃないの。
男 なんだって。
女 文字がもたらされる前だって、「その先はがけで危ない」とか、「初霜が下りたらこの作物は急いで刈り取る」とか、情報伝達のための言葉はあったはずでしょう。散文的、とでもいうのかしら。これは別に、貫之さんの発明品じゃないわね。
男 まあ、それはそうだけど。
女 もちろん、太古の昔のそのまた昔、ヒトという生物がコトバを獲得した時点にまで遡れば、思いのたけを振り絞るような、感情の表出とも意思の伝達ともつかぬ、声やら身振り手振りやらの混淆した何かが、言葉の源だったかもしれないわね。そういう光景を、言葉は歌として生まれた、なんていうこともできそう。でも、『万葉集』が編まれたころには、まがりなりにも国家なるものが成立していて、いろんな出来事を記録するための言葉の使い方もあったはずでしょう。
男 そうだね。だから、『万葉集』にも、歌そのものとは別に、題詞や左注として、作歌の場所とか経緯とか、作者についての説明とか、補足情報みたいなものが書かれているよね。でも、それらはみんな、漢文なんだ。
女 それが不思議ね。
男 話し言葉と書き言葉の間には、大きな隔たりがあるということかな。だから、初めてそれを乗り越えて、和文で自分の言いたいことが書けた貫之さんは偉い、そういうことじゃない。
女 貫之さんが偉いのは、その通りだけど、それだけじゃ、貫之さんの資質は批評家のものだった、ということにならないわ。
男 また厳しいね。そうだな。小林先生は、「言葉が、音声とか身振りとかいう言葉でないものに頼っている事はない、そういうものから自由になり、観念という身軽な己れの正体に還ってみて、表現の自在というものにつき、改めて自得するという事がある」(同上309頁)と仰っている。表現の自在っていうくらいだから好きに書けばいいのに、なんて思っちゃうな。
女 そこよね。『万葉集』の編纂者たちは、題詞や左註を、外国語である筈の漢文で自由に書くことが出来た。これもすごいことだけど、でも、それだけの能力のある人たちが、和文を書くことはしなかった。
男 できなかったということ? でも、なぜだろう?
女 それが、和文の「体」ということかしら。
男 「体」というのは、文体みたいなことかな。
女 その辺は、私も、正確につかんでいるわけではないけれど、もっと根本的な、書き言葉の型みたいなもののことじゃないかしら。夏目漱石が、言文一致の現代書き言葉を作った、なんていうでしょう。
男 それは聞いたことがある。理屈はよくわかんないけど、実際、漱石は読めても、樋口一葉なんて歯が立たない。
女 それはあなたご自身の問題が、あっ、ごめんなさい、話を戻すわね。作者一人一人のスタイルの違いというより、もっと根本的な、書き言葉の型のようなものが必要なのじゃないかしら。貫之の『仮名序』によって、その型が生まれた。
男 なるほどね。でも、さっきの意趣返しじゃないけど、『仮名序』に何らかの型を見いだせるとしても、それだけじゃ、貫之が批評家であるという意味は明らかではないよ。
女 そうね。むしろ、「論文が和風に表現されたのは、これが初めてであった」(同上308頁)というところにヒントがありそうね。
男 和風に表現する、というところ?
女 ええ。表現するためには、形式がいる。小林先生は、「貫之は、自分で工夫し、決定した表現形式に導かれずに、何一つ考えられなかった筈である」(同上308頁)と書かれているでしょう。
男 表現形式なんていうと、なにか、出来合いの鋳型みたいなイメージがわいてしまうけど。
女 そうじゃないの。自分の考えを導いていく筋道というか、自分の考えをまとめることと、それにふさわしい言葉を与えることとが、表裏一体になっている。そういう働き全体が、「自分で工夫し、決定した表現形式」なのじゃないかしら。
男 それが、「和歌の体」に対応する「和文の体」ということなのかな。
女 湧き上がる思いがあってもそれがそのまま歌になるわけではない。歌として完成するためにはそれにふさわしい表現形式を持つ必要があるでしょう。そういう和歌の体があってこそ、歌に込められている思い自体がはっきりと見えてくる。
男 和文については、どうなるのかな。
女 から歌とやまと歌の違いについては、『万葉』のころから、なんていうのかな、言わずもがなの機微として、歌人たちは分かっていたはずよね。そのあたりの微妙なところを、貫之は、「やまと歌は、人の心を種として」と書いた。
男 ああ、そうか。貫之がそういうふうに書けたということは、そういうふうに考えることが出来たということでもあるんだね。それが批評というわけか。
女 ええ。貫之は、「和歌では現すことが出来ない、固有な表現力を持った和文の体」(308頁)を作り出すことによって、歌を詠むのではなく、詠むことについて深く考えて、表現した。そのとき、考えることと表現することとは、混然一体で、切り離すことはできないのね。
男 すると、こうかな。心の中の思いとしては、似たような事柄が浮かんだり消えたりするかもしれないけれど、その思いにふさわしい姿かたちを与えられるかどうかは別のことなんだ。だからこそ、和歌にとって「和歌の体」が肝心であるのと同じ意味で、和文にとっては「和文の体」が決定的なんだね。ずいぶん頭が整理された気がする。ありがとう。
女 でも、自問自答を三百字で書けるかしら。きちんとした和文の体で。
男 とことん厳しいなあ。でも、書いてみることにするよ。
(了)
『本居宣長』本文には「しるし」という言葉が全編を通して登場する。小林秀雄先生が「しるし」という言葉を使われているところには、私が本作品を読み進める上での大事な気づきを、これまで幾度も与えられた。第二十四章に登場する「明瞭な人間性の印し」と書かれた箇所を、今年の山の上の家の塾での質問で取り上げた経緯があり、今一度この機会に辿ってみたい。
第二十四章の後半では、宣長が『源氏物語』をどう捉えたかについて、あらためて述べられている。
……歌を味わうというような事は、末の問題だと語る声が、「源氏」から、はっきりと聞えて来た、と宣長は言う。(中略)「源氏」には、歌学者を、歌の世界から、歌が出て来る本の世界に連れ戻すと言っていい、抗し難い力がある。(中略)「源氏」の作者は、歌を詠むだけではなく、歌を詠む人について語りもするのだが、この物語の語り手としての力量は、歌の詠み手としての力量を遥かに凌ぎ、これを包む、と宣長は見た。(中略)「源氏」に歌の姿を見ず、「大かた人の情のあるやう」を見たと、宣長の「源氏」経験が言うなら、言葉通り受取ればよい。
この文中にでてくる「大かた人の情のあるやう」という表現に注目したい。この「情」と書いて「こころ」とよむ時の宣長の考えについて、小林先生は第十五章で触れ、読者に注意を促している。
……宣長が、「情」と書き「こころ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」と言う言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「情」と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。(中略)自分の不安定な「情」のうちに動揺したり、人々の言動から、人の「情」の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人の情のあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。
この「まざまざと直知させる世界」が宣長の捉えた『源氏物語』であった。作者の紫式部は、どのようにこの「まざまざと直知させる世界」を書きえたのかが次に語られる。
……心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出した……
具体的には『玉のをぐし』二の巻、において、宣長は次のように書いている。紫式部のことを「みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心」の持ち主であるとした上で、
……「世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるるにつけて、そのこころをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼほれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかに書顕はして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」
紫式部は「物語る」という手段で、人の情の「意識化」をはかった。宣長にとっての「物の哀れを知る」という行為が、紫式部によって「物語」として成立しているのを目の当たりにし、「彼の心のうちで、作者(紫式部)の天才が目覚める」ということが起こった、とある。宣長は『源氏物語』を「めでたき器物」と見さだめた。「めでたさ」を別の言い方で、「人の情のあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも書いている。第二十四章後半で小林先生は、宣長の『源氏物語』の読み筋をたどりながら、「文学という特殊な表現の世界から出て、一般人の普通の言語表現の世界」に話を移していく。
……生活経験が意識化されるという事は、それが言語に捕えられるという事であり、そうして、現実の経験が、言語に表現されて、明瞭化するなら、この事は、おのずから伝達の企図を含み、その意味は相手に理解されるだろう。(中略)言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何を措いても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。
ここで、本稿の冒頭に挙げた「明瞭な人間性の印し」が登場する。ここまで読み進めてきた私たち読者は、こう言いかえることができるのではないだろうか。「生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする」ことこそ、「人の情のあるやう」をそのままあらわしていて、そのことを「明瞭な人間性の印し」と小林先生は表現したのではないか。では明瞭な人間性とは何か……第十三章で小林先生はこれと近いもので「生きた情の働き」と言う表現をしているが、宣長が人間の根本にある情の働きを、『源氏物語』を通して見つめ続けたことが、この表現からも非常に強く伝わってくる。
……「宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人の情のあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。
小林先生はこのように書かれたあと、「宣長は、経験という言葉を使わなかった」として、宣長の物言いをふたたび紹介している。
……「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也(中略)わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(中略)そうすると、「物のあはれ」は、この世に生きる経験の、本来の「ありやう」のうちに現れると言う事になりはしないか。
この「ありやう」とは何かについて、直前で「曖昧な、主観的な生活経験の世界」と説明されているのだが、これだけでは、少々意味が取りづらい。そこで第十五章に目を戻すと、一箇所、「刻印」(これも、しるし、の字が共通している)という表現が出て来るところがあり、宣長がどのように「ありやう」という言葉を捉えていたのか、が見えてくる。
……事物を味識する「情」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「情」が「感」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。
“そのまま受取る”という言葉が直前の「刻印」という言葉に呼応し、まさに「ありやう」を表現していると感じた。前掲の文章で、小林先生が、「『情』と呼ぶ分裂を知らない直観」という表現をしている箇所を挙げたが、その言葉をここでまた想起してみる。“そのまま”“ありやう”“分裂を知らない”という言葉をつくづくながめるならば、おのずと宣長の考えていたことがこれらの言葉となったことに思いが至る。「情」の曖昧な働きは、曖昧ではあるが、情という、人間の持つ直観そのものは、確かにそこに存在している、ということなのだ。一人一人の内部に起こることは、誰もが「殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ」とある。その無意識下で行われるさまこそが、「人の情のあるやう」そのもの、ということであろうか。少なくとも、その“内容”ではなく、その“ありよう”のことを宣長は見ていたのだということがよく伝わってくる。そして人間にはさらに「想像力」という、小林先生の言うところの「素朴な認識力」が備わっているという。『源氏物語』を宣長が「そらごとながらそらごとにあらず」と言ったのは「人の情のあるやう」を式部が「想像力」と表現のめでたさによって物語の中で完成させたところにある、宣長はそう言っているのである。
第二十四章の最後にある、
……「事」の世界は、又「言」の世界でもあったのである。
ここで小林先生が言っているのは、第十五章に書かれている次の文章と呼応していることに気がつく。
……事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。
そうであれば、「見る事の世界は、また、それを人の情のあるやうそのままに、語る事=言の世界でもあった」と置き換えることができるのではないだろうか。ここまで考えを進めてくると、『本居宣長』の後半第三十四章で「徴」が登場するくだりに、そのまままっすぐ考えをすすめてよい、と小林先生が言ってくれているように思えてきた。この件はまた別の機会にとっておくことにしたい。
(了)
約五年に渡るフランス駐在生活を終え、帰国した私は思わぬ壁にぶち当たった。日本語で自分の話ができなかったのだ。それでも用を足すための言葉は、最低限だが話すことができた。ただ、人から自分の話をふられると、ネットワークがフリーズしてグルグル回転するように、静止してしまうのだった。フランスでは、私以外は現地スタッフのみで、上司からは、フランス人として生きなさいと指導されていた。声のトーン、身振り、仕草、目線、話し方の全てを変えて、フランス人として生きる私を築き上げた。その経験と引き換えに、帰国後の私は、いつしか日本語との親密な関係を失っていた。フランス語で話す自分は確かにいるのに、日本語から突き放された私は、ここで、どう生きていけばいいのか分からず途方に暮れていた。そんな戸惑いを心の裡に秘めて、日本語との関係を取り戻す長い旅が始まった。その旅の道筋を切り開いてくれたのが、まさに小林秀雄先生が書いた「本居宣長」だったのだ。
基本的な日本語さえも怪しくなっていた私にとって、「本居宣長」を読み続ける道は険しかった。そこで同時に日本語が生まれた風土を身体で経験するため、奈良をはじめ様々な土地を旅し、難解な言葉を、五感全てを動員して咀嚼しようと努めた。その往還を幾度も重ねた私は、「本居宣長」の第二十三章で、開眼する言葉と出会った。ずっと影を落とし暗くて見えなかった道に、初めて光がさしたのだ。それは宣長、小林先生、そして私たちの生きている世界は、日本語という言語の力によって象られてきた歴史という繋がった道があるということだ。私はその日本語との親密な関係を閉ざしてしまったために、道に迷ってしまったのだ。小林先生は、第二十三章で、宣長の「物を見る」比類なき眼差しが、「歌」を通して、言葉の道を明らかにしていくさまを描くことで、私に道を照らしてくれているように思えた。
宣長の「歌」への眼差しの出発点は、「歌学者」として名を成すためでも、「歌」を巧みに詠む技巧を追求するためでもなく、「歌」によって自ずから心が突き動かされる不思議にあるからではないだろうか。だからこそ、宣長は、当時すでに確立されていた、「ただの詞」を「文」によって装飾する歌の技芸が発達したという「歌の道」の通念にも、契沖も賀茂真淵も大事にしていた、語義を分析して、本義正義を定める方法にも引き込まれなかった。
「『和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツゞクル道也』という彼の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりした言葉と受取らねばならない。歌は『人情風俗ニツレテ、変易スル』が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元して了う事は出来ない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬ事はないだろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.252)
宣長は、「歌」が生まれる瞬間にまで奥深く歩みを進め、「歌」は性情を化することが目的ではなく、「歌」は言辞の道であるとことを見出す。現実の性情は歌の誕生と引き換えに消滅し、別種の生として誕生した歌は、死ぬことなく、自足した言語表現の世界を作り出す「カタチ」となる。この宣長独自の「歌」への眼差しは、どのように獲得され得たのだろうか。
「歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。それは『古言を得る』という具体的な仕事のうちで、経験されている手答えのある『物』なのであった。正直な心で正視すれば、本質的に難解な表情が見えて来る相手であった」(同第27集所収、「本居宣長」p.265)
この言葉から、小林先生が小説、詩、絵画など一つの作品を批評の対象とする際、その作家がどう物を見ているか、詰まるところ、いかに生きようとしているかを見つめ続けてきたことを想像すると、宣長も同じく、「歌」ひいては「言辞」がいかに生まれ、今までどのように生きてきたのかを見つめ続けていた姿が浮かび上がってくる。そして和歌が言辞の道であることを見出した宣長が、言葉の生まれる瞬間まで歩みを進めて見えてきたものは何だろうか。
「又ひたぶるに、かなしかなしと、たゞの詞に、いひ出ても、猶かなしさの忍びがたく、たへがたきときは、おぼえずしらず、声をささげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばはりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよく文ありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、必異なる物にして、その自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるる也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづから文ある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑言」巻一、同第27集p.259)
今私たちが親しむ「歌」は、時間をかけて発達し、その形式が出来上がった姿だ。その姿に慣れた人たちにとって、まず日常生活において、目的を果たすための手段としての「ただの詞」があり、それから「ただの詞」を「文」によって装飾する歌という技芸が、発達したという通念で「歌」を捉えてしまう。だが宣長の言語に対する非常な鋭敏性と柔軟性により、彼は「ただの詞」よりも、歌という「かたち」が先に発生する、さらには「歌」よりも声の調子や抑揚が整うことが先だという言語観にたどり着く。小林先生は宣長の言語観を深く見つめることによって、言葉そのものがいかに発生したのかについて言及している。
「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。 いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生まれ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない」(同第27集p.261)
人は耐え難き悲しみが内部に留まり、その混乱を整えようとして、その対象を徹底的に見ることによって、歌が自ずと「かたち」として姿を現す。声長く文をなす「かたち」から始まり一つ二つと足跡が連なった道が、今私たちが親しむ歌として表れている。そして宣長は、この歌という「物」を生み出す力は、人間が生きるために生まれつき備わっている構造だと認識していたと、小林先生は考えている。
この、先生の考えを、今の私に置き換えて想像してみる。フランスでの約五年間、経験したことのない数多の感情が私を掴んで放さなかった。自ずと裡からほとばしる感動、苦しみ、悲しみ、孤独を、私はフランス語によって、私という人間に象ってきた。フランス語で象られた情の「カタチ」と、日本語によって象られた情の「カタチ」は、恐らく、ある同じ一つの経験を介しても、同じ「カタチ」にならないのではないかという認識に私は至った。日本の各地を旅する中で私は、新たに喜び、侘しさ、切なさ、無常など沢山の内部に湧き上がる混乱を日本語によって象る行為を重ねていくことで、日本語によって「私が生きる」ということを取り戻していく経路が体の中につくられていく実感を覚えたのだ。
今を生きる私たちの中で、情の「カタチ」を見定めようとする「シカタ」を身をもって経験している人間が、どれだけいるのだろうか。私も、このような葛藤を抱える経験がなかったとしたら、言葉は、用を足すコミュニケーションツールとしての認識に留まっていたかもしれない。古の人たちは、情が言葉によって「カタチ」になるまで向き合う眼差しを養ってきた。そして「カタチ」になるまでの時間に耐える力を身につけてきた。そこには、古の人が時間をかけて、情の「カタチ」を生み出し、独立した「カタチ」が積み重なった言語世界の土壌の上で、「生きる」ことができているという認識があったのではないか。それに対して私たちは、生きるために生まれつき備わった、この知恵をいつしか忘れてしまったのかもしれない。そして、生きていると自ずと湧き上がってくる私たちの情は、「カタチ」にすることができず、ネットワークの大海に散り散りにばら撒かれ、あるいは私たちの心の裡の中で閉ざされたまま漂っている。その情は、新しい生を生きることなく、消し去ることもできないまま、ただ腐って悪臭を放ち続けるのだろうか。
少なくとも私はこれからも「本居宣長」を読み続けることによって、古人のように「カタチ」にできる力を身につけていきたい。宣長そして小林先生が照らす道が消えてしまわないように、小さな足跡にしかならないかもしれないが、一歩ずつ歩みを進めていきたい。
(了)