小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)一月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)一月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
まずは、令和六年能登半島地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方に、心からお見舞い申し上げます。
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「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、本多哲也さん、小島奈菜子さん、入田丈司さん、磯田祐一さん、荻野徹さんが寄稿された。
溝口さんが「本居宣長」を幾度も読み返すたびに着目してきたのは、「物」という言葉である。今回は、小林秀雄先生が、宣長の「源氏物語」に向かう態度について、「物語という客観的秩序が規定した即物的な方法」と書いている中でも「即物的」という言葉を、「読み過ごしてはいけない」ものと直観した。その言葉の深意を解く鍵は、契沖が遺した「定家卿云、可翫詞花言葉」という言葉にあった。
本多さんが熟視を重ねたのは、小林先生が、紫式部について書いている「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」という言葉である。そこで「平凡な生活感情」とは? 「具体化」とは? 小林先生の文章を、「本居宣長」はもちろん、「近代絵画」や「文学者の思想と実生活」なども含めて丹念に読み込んでいくと、その本質が見えてきた。真に偉大な作家たちが表現してきたものの真髄が見えてきた。
小島さんが挑んだのは、荻生徂徠も、宣長も、そして小林先生も、そこに「急所があると認め」た、孔子が詩の特色として挙げている「興」の功と「観」の功についてである。小島さんの文章をながめていると、徂徠の著作と直かに向き合ってみて、大きく情を動かされた小島さんの姿が目に浮かぶようだ。わけても「興」については、小林先生が書いている「普通の意味での比喩ではない」という言葉の深意を、小島さんが直知、体翫されたように感じる。
入田さんは、「本居宣長」を繰り返し読んでいくなかで、「和歌ハ言辞ノ道也」という宣長の言葉に注目している。自らの実体験も踏まえながら、古代を生きた人たちにとって、言葉がどのように使われ、機能していたのかに思いを馳せる。そして、歌というものが、どうして現代に至るまで、かたちを変えながらも詠まれ続けてきているのか? 入田さんが、実例として挙げている和歌と短歌も、心を落ち着けて、ゆっくりと味わってみたい。
磯田さんによる、今回の自問自答は、池田雅延塾頭の講義のなかで、中江藤樹や荻生徂徠らを「読書の達人」と呼ぶ小林先生の意図について質問したことに原点がある。池田塾頭からは「語意を追わずに、行間を読むということです。小林秀雄先生の読書も同じです」というアドバイスがあった。その真意を呑み込めないまま、改めて「本居宣長」を読み熟していくと、日常のふとした出来事から、直知するところがあった。
荻野さんは、おなじみの対話仕立てである。小林先生が書いている「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失う」という文章において、女は小林先生の「自由」という言葉に、男は「歴史を限る枠」という言葉に眼を付けた。本文を丁寧にたどりながら、対話を紡いでいくと、過去を生きた人たちの「行動の自由」に思いを致すことで、今を生きる私たちの「自由」についての視界も、大きく開かれた。
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「考えるヒント」に寄稿された村上哲さんには、「本居宣長」を読み進める上で強く感じている二つのことがある。それは、著者である小林先生の「直観の強さとしか言いようのないもの」と「弛むことのない分析の力」である。一見相反するように見える「直観」と「分析」をどのように受け止めればよいのか…… ヒントは、小林先生が本文で紹介している、宣長と上田秋成という、対照的な二人が繰り広げた論戦のなかの「すれ違い」のさまにあった。
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昨年も、小林先生の「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」(「美を求める心」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)という教えを守り、生の音を求めて演奏会場へ頻繁に足を運んだ。
わけても年末に聴いた、小林秀雄に学ぶ塾の塾生でもある桑原ゆうさんが作曲した「死神」(世界初演)から受けた、いわく言いがたい強い印象が、いまだに身体から離れないでいる。これは、初代三遊亭圓朝が西欧の話を翻案したと言われている落語と、三味線、ヴァイオリン、チェロが四位一体となった作品である。落語は古今亭志ん輔師匠が、楽器はそれぞれ、桑原さんも参加している「淡座」のメンバー、三瀬俊吾さん、竹本聖子さん、本條秀慈郎さんが担当された。
先に「いわく言いがたい」と書いたのにはわけがある。まさに「何も考えずに」臨んだ演奏会のあとに、楽器の旋律の明確な印象がほとんど残っていないのである。だからと言って、落語の噺だけに心動かされたわけでもない。私は、四位が一体となって紡ぎ出されたものに、おのずと没入し、あたかも自らの身体も含めた五位が一体となったような感覚を覚えたのである。
桑原さんは、今回の公演にあたり、このように語っていた。
――落語はそれ自体で完成しています。物語、登場人物や情景の描写など、聴衆に与えるべきすべての要素が、完璧にバランスのとれた状態で、すでにそのなかにあります。その完成された「落語」に、あえて音楽を加えるのですから、それによって情報過多になり、聴くひとの想像力を抑制してしまうようでは意味がありません。音によってその演目から新しい一面を引き出し、通常とはひと味ちがう体験を共有することを目指さなくてはなりません。(中略)淡座では、落語もアンサンブルの一員として、言葉と音楽ができるだけ対等に関わり合いながら、全体が「成っていく」ような作品をつくることに挑戦しています。
まさに桑原さんたちの挑戦は奏功し、私はその次元を超えた四重奏に没入してしまったのであろう。思えばそこには、言葉と歌が生れ出る源泉、その母体に触れたかのような感触があった。
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荻野徹さんの「巻頭劇場」と杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)
三十七 太安万侶の苦心
前回は、「『古事記』の文体」と題して、元明天皇に「古事記」の撰録を命ぜられた太安万侶が、中国から渡来した漢字を用いて日本語を書き表すという難題を負って苦心する第二十八章の前半を読んだが、その最後には、「宣長は続けて言う」として、次のように言われていた。
――「此記は、もはら古語を伝ふるを旨とせられたる書なれば、中昔の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書にこそせらるべき」、――言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体の事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……
前回はここまで読んで一区切りとしたのだが、これに続く第二十八章の後半は、次のように書き継がれている。
――わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。事に黙って巻き込まれてみなければ、事の真相に近づく道は、開かれていなかったに相違ない。……
中国で生まれた漢字が、日本に渡ってきたのは一世紀のことであるらしく、令和六年、西暦2024年の今日からだと一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも言われているようだが、いつしか「古事記」と呼ばれるようになった歴史書の撰録を元明天皇が太安万侶に命じられたのは和同四年(七一一)九月十八日であったと安麻呂は「古事記」の序に記しているから、仮に小林氏が「本居宣長」の第二十八章を書いた昭和四十五年(一九七〇)を起点として一五〇〇年遡ると西暦470年となり、安麻呂が「古事記」の撰録を命じられた和同四年は漢字が日本に渡来してから二四〇年ほど経ってからだったという計算になる。
その二四〇年の間に、日本人は漢字をどう迎え、どう対応したかについて、小林氏は次のように言っている。
――漢語に固有な道具としての漢字の、驚くべき働きが、日本人に次第に明らかになって来るにつれて、国語に固有な国字がない事、持込まれたのは出来ない相談であった事が、いよいよ切実に感じられて来たと考えてよい。と同時に、相談に一たん乗った以上、どうあっても先きに進むより他はない事も、しかと観念したであろう。ここに、わが国上代の敏感な知識人なら、誰もが出会っていた一種特別な言語問題があった。理窟の上で割り切る事は出来ないが、生きて何とか納得しなければならない、誰もがそういう明言し難い悩みに堪えていたであろう。教養あるものの書く正式の文章とは、漢文であるという、いよいよ安定して来た通念も、この悩みを覆い切れるものではなかった。安万侶があからさまに語っているのは、その事である。……
と、小林氏は、「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を懸命に思い出しながら続ける。
――彼(太安万侶/池田注記)は言う、自分は、謹んで詔旨に随おうと努めた、――「然ルニ上古ノ之時、言意並ニ朴ニシテ、敷キレ文ヲ、構フルコトレ句ヲ、於テレ字ニ即チ難シ、已因テレ訓ニ述ベタル者、詞不レ逮バ心ニ、全ク以テレ音ヲ連ネタル者、事ノ趣更ニ長シ、是ヲ以テ今或ハ一句之中、交ヘ用ヒ二音訓ヲ一、或ハ一事ノ之内、全ク以テレ訓ヲ録ス、即チ辞ノ理叵レ見エ、以テレ注ヲ明スレ意ヲ、況ムヤ易キハレ解リ更ニ非ズレ注セ」。……
これに続けて小林氏は、
――宣長の註には、「上古之時云々、此文を以テ見れば、阿礼が誦る語のいと古かりけむほど知られて貴し」とあり、又「言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし」と言う。……
と言って、次のように続ける、小林氏が、安麻呂と宣長の啓示を受けて、日本の古語の何たるかに開眼した、その告白とも言える文である。
――なるほど、よく思えば、安万侶の「言意並ニ朴」と言うのは、古語の表現形式、宣長の言い方では、古語の掛け代えのない「姿」を指して、朴と言っているのだと解るだろう。表現力の豊かな漢文の伝える高度な意味内容に比べれば、わが国の、文字さえわきまえぬ古伝の語るところは、単純素朴なものに過ぎないという卑下した考えを、安万侶は言うのではない。そのような考えに鼓舞されて、漢文を正式の文章とする通念も育って来たのだが、言語の文化が、この一と筋道を、どこまでも進めたわけではなかった。六朝風の書ざまに習熟してみて、安万侶の眼には、国語の独特な構造に密着した言いざまも、はっきりと見えて来たのであり、従って朴とは、朴とでも言うより他はないその味わいだと言っていい。古語は、誰かが保存しようとしたから、保存されたのではない。私達は国語に先立って、どんな言語の範例も知らなかったのだし、私達は知らぬまに、国語の完成された言いざまの内にあり、これに順じて、自分達の思考や感情の動きを調えていた。ここに養われた私達の信頼と満足とが、おのずから言語伝統を形成して、生きつづけたのは、当り前な事だ。宣長は、これを註して「貴し」と言うのである。……
小林氏は、続けて言う、
――こうして生きて来た古語の姿が、そのまま漢字に書き移せるわけがない、そうと知りながら、強行したところに、どんな困難が現れたか。国語を表記するのに、漢字の訓によるのと音によるのと二つの方法があったが、どちらを専用しても、うまくいかない、と安万侶は言う。「已ニ因テレ訓ニ述ベタル者、詞不レ逮バレ心ニ」とは、宣長によれば、「然言こゝろは、世間にある旧記どもの例を見るに、悉く字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字(当て字/池田注記)なるが多くて、其は其ノ字の義、異なるがゆゑに、語の意までは得及び至らずとなり」、そうかと言って、「全ク以テレ音ヲ連ネタル者、事ノ趣更ニ長シ」。「然言こゝろは、全く仮字のみを以テ書るは、字ノ数のこよなく多くなりて、かの因テレ訓ニ述ベたるに比ぶれば、其ノ文更に長しとなり」、そこで、安万侶は「或ハ一句ノ之中、交ヘ二用ヒ音訓ヲ一或ハ―事ノ之内、全ク以テレ訓ヲ録ス」という事で難題を切り抜けた。……
宣長の註解は、要を得ていると思われるので、ここでも、それに従うが、音訓を並用した文の他は、皆訓を以て録したのは何故か、と言えば、――「全く真字書にても、古語と言も意も違フことなきと、又字のまゝに訓めば、語は違へども、意は違はずして、其ノ古語は人皆知リて、訓ミ誤マることあるまじきと、又借字にて、意は違へども、世にあまねく書キなれて、人皆弁へつれば、字には惑ふまじきと、これらは、仮字書は長き故に、簡約なる真字書の方を用ふるなり、一事といひ、一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり」、「凡て此ノ序ノ文、同字を用ることを嫌へり」とある。……
――安万侶の言うところを、その語調通りに素直に受け取れば、(それがまさに宣長の受取り方なのだが)、「全ク以テレ訓ヲ録ス」と言うのが、彼の結論なのは明らかな事である。訓ばかりに頼っては拙いところは、特に音訓を並用もしたが、表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるというのが、彼が本文で実行した考えである。言い代えれば、国語によって、どの程度まで、真字が生かされて現に使われているか、という当時の言語感覚に、訴えた考えである。それでも心配なので、「辞ノ理叵レ見エ、以テレ注ヲ明スレ意ヲ」という事になり、極めて複雑な表記となった。……
――言うまでもなく、「古事記」中には、多数の歌が出て来るが、その表記は一字一音の仮字で統一されている。いわゆる宣命書も、安万侶には親しいものであった。しかし、宣長に言わせれば、歌は「詠むるもの」、祝詞宣命は「唱ふるもの」であり、仮字と言えば、音声の文に結ばれた仮字しか、安万侶の常識にはなかった。阿礼の誦み習う古語を、忠実に伝えるのが「古事記」の目的であるし、それには、宣長が言ったように、理窟の上では、全部仮字書にすればいいのは、安万侶も承知していたであろうが、実際問題としては、空言に過ぎないと、もっとよく承知していただろう。仮りに彼が常識を破って、全く音を以て連ねたならば、事の趣が更に長くなるどころか、後世、誰にも読み解けぬ文章が遺っただけであろう。阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった。歌は、物語に登場する人物によって詠まれ、物語の文を成しているので、歌人によって詠まれて、一人立ちしてはいない。宣長なら、「源氏」のように、と言ったであろう。安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であったと言っていい。……
第二十八章は、さらに続く……。
(第三十七回 了)
六、牛方馬方騒動
慶長十七年(一六一二)六月十四日、徳川幕府から加藤忠広に無事朱印状が下され、忠広は父清正の跡を継ぎ、肥後五十四万石を正式に襲封することになった。
ところが、それを待つことなく、契沖の祖父下川又左衛門元宣が逝ってしまう。清正の肥後入国以来、長きにわたり「るすのかみ」として、堅牢な銃後の守りを果たしてきた人物であっただけに、十一歳の忠広も藩も大きな支柱を失ってしまった。
この事態を受け幕府は、加藤丹波守(丹後、南関城代、加藤美作の息)、加藤右馬允(正方、八代城代)、加藤大和守(与左衛門、佐敷城代)、並川但馬守(志摩守、一番備頭)、下川又左衛門(熊本城留守居役)という五家老による合議制を指示した。ここで下川又左衛門とは、元宜の嫡男、契沖の伯父元真のことである。
翌慶長十八年(一六一三)、徳川家と加藤家との血縁をさらに深めるべく、家康の三女振姫と会津藩主蒲生秀行(*1)との間に生まれた琴姫を、将軍秀忠の養女として忠広の正室に迎えることが決まった。ちなみに、第五章でも述べたように、忠広の相続と引換えに幕府が破却を命じた宇土城の天守は、熊本城に移築された。琴姫を迎えるという趣旨もあったのだろう。現在私たちが目にする熊本城の天守閣は大天守と小天守の二つからなっているが、当時の小天守は、宇土から移築されたものだったのである(*2)。なお、従来から、熊本城の宇土櫓(国指定重要文化財)は宇土城から移築されたものと言われてきたが、現在では俗説として否定されている。
一方、慶長十九年(一六一四)の大阪冬の陣、慶長二十年(元和元年、一六一五)の夏の陣を経て、豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、矢継ぎ早に天下統制策を打ち出していった。まずは同年六月に「一国一城令」を発令。熊本では、すでに清正から忠広への相続時に、熊本城以外の七支城のうち、水俣、宇土、矢部の三城が破却されていたため、残る南関、内牧、佐敷、八代のうち八代城以外が破却され、例外的に一国二城となった。
同年七月には、「武家諸法度」も発布された。同時に、天皇や公家に向けては「禁中並公家諸法度」が、寺社には「五山十刹法度」が発布され、すべての武家・公家・寺社に対する統制が強まったのである。
翌元和二年(一六一六)には、ついに徳川家康が逝去した。二代将軍秀忠は、弟でもある高田藩の松平忠輝(*3)の改易など、諸大名への統制の手綱をさらに引き締めていく。
そのような、江戸幕府からの引き締めが一層強くなりつつある状況のなか、熊本の加藤家内では不穏な空気が流れ始めていた。若い藩主忠広の家臣団が、家老の加藤右馬允派(通称、馬方)と加藤美作派(同、牛方)の二つに分かれ、例えば、大阪の陣の際の対応のあら捜しをするなど、いがみ合っていたのである。福田正秀氏によれば、この通称「牛方馬方騒動」のことは、当時、小倉藩主であった細川忠興(*4)の耳にも届いており、熊本のなかだけでは収まらない状況に至っていたようである。
この騒動も、ついに元和四年(一六一八)には、幕府の知る所となる。加藤家の政治顧問であり、幕府から国政監察の役目も与えられていたと思われる棒庵が、幕府に目安(訴状)を上げたのである。この訴状に対しては、牛方の美作・丹後親子から反論があり、その中で、契沖の伯父下川又左衛門元真も、馬方派の一人としてやり玉に挙がっている。幕府は、忠広と、牛方・馬方の主要人物を江戸城に集め、将軍秀忠が双方の言い分を聞いた。結論としては、牛方の負けと裁断され、結果として、家老で牛方派の頭目である加藤美作親子、藩主忠広の伯父玉目丹波など二十六人が他家へ配流御預けとなるなどの処分が下った。十七歳の忠広はまだ若く藩政を執っていなかったとして、無罪、お構いなし。他藩では、似たような状況下で改易となった事案があっただけに、下川又左衛門も大いに肝を冷やしたに違いない。
幕府は、向後、馬方家老の加藤右馬允(正方)を中心に執政に当るよう命じた。それを受けて加藤家内では、家臣団の新体制への刷新が行われた。騒動の論功も行われ、下川又左衛門は、二千九百石あまり加増され一万石の三番家老となった(「加藤家御侍帳」(永青文庫蔵・時習館本))。
騒動の翌年、元和五年(一六一九)三月には、八代地方に大地震が起きた。当時の記録によれば、「山鳴り、谷応え潮翻り水湧き城郭崩壊し……」とあり(「浄信寺興起録」)、平成二十八年(二〇一六)に起きた熊本地震のような感じではなかっただろうか…… 「城郭崩壊」とある通り、熊本の支城で筆頭家老が居城する八代城(当時は、麦島城)が完全崩壊してしまった。右馬允は忠広を通じて再建に動いた。幕府としては「一国一城令」を発していたところに加え、先だっての騒動があったばかり、という状況にも拘わらず、南隣する薩摩島津藩の動向も見据えつつ、対外的な防衛上の要所としても認識していたため、再建を認めることとなった。
一方忠広は、徳川幕府に対してもしっかり汗をかいた。新八代城を着工したばかりの元和六年(一六二〇)、幕府から北国・西国の大名に対して、大阪城の再建につき「天下普請」の要請が下りた。この工事は、秀吉の築いた旧大阪城の石垣を地中深く埋め、その上に旧城を遥かに上回る規模で新しく石垣を築き、まったく新たな徳川大阪城を完成させるという一大プロジェクトであった(*5)。加藤家は、城の表口となる大手口を担当した。現在のNHK大阪放送局や大阪歴史博物館付近から大阪城公園に入り、大手門より城内に入った正面に、忠広が築いた「大手口升形の巨石」群を目の当たりにすることができる。なかでも真正面にある「大手見附石」は、表面が約二十九畳敷(約四十八平方メートル)で城内第四位の大きさを誇る(*6)。今やほとんどの観光客は素通りするのみだが、読者の皆さんには、ぜひ近くに寄ってその大きさと重量を体感するとともに、当時の忠広の心持ちにも思いを馳せてみていただきたい。さらに忠広は、その新天守閣の建設も命じられた。竣工は寛永三年(一六二六)、彼にとっては外聞を憚るような騒動もあったなかで、清正来の「土木の神様」の家系を継ぐ者として、大いに面目躍如するところがあっただろう。
七、肥後の国難、極まる
寛永九年(一六三二)は、「肥後の国難」が極まる一年となった。
一月、三代将軍徳川家光(*7)を差しおいて幕府の実権を掌握していた「大御所」秀忠が亡くなった。忠広にとって秀忠は、正室の琴姫の父に当る。しかし、その秀忠の大喪により許された熊本への帰国に際し、忠広は、こともあろうに側室の法乗院(玉目丹波の長女)と、その間に生まれていた子ども、藤松と亀姫との三人を江戸藩邸から熊本へ連れ帰ってしまった。「武家諸法度」で大名妻子の江戸居住が規定されるのは、三年後の寛永十二年(一六三五)からとはいえ、すでに広く慣習化している決まりごとであり、幕府からすれば大いなる暴挙と映っても仕方がない行動であった。
さらに四月には、忠広の嫡男の豊後守光正(正室、将軍秀忠の養女琴姫との子)が事件を起こした。ちょうど三代将軍家光が、秀忠の喪中にも拘わらず家康の十七回忌にあたり日光東照宮へ参詣を決めたばかり、という時節であった。
「幕府年寄の土井利勝と加賀藩主の前田利常が結託して謀反を起こすことを将軍家光が知り、誅伐されることになった。先手をとって家光を討たれよ、お見方申し上げる」という趣旨の文書が、旗本の井上新左衛門の屋敷に届けられたのだ。幕府が捜索したところ、届けた者は加藤光正の家来で、主人の指示によると白状した。井上新左衛門は光正の知人であり、光正にしてみれば、ほんの悪戯のつもりだったようだ。しかしながら、家光にしてみれば、父秀忠の死去を受け、幕藩体制のさらなる強化に向けて将軍としての力を発揮しようとしていた矢先であったし、わけても幕府と肥後藩の間には、忠広への相続時に確約した「この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと」などを含む「五ケ条の起請文」もあった。
光正は、当時外桜田にあった泉岳寺で謹慎蟄居、熊本にいて幕府からの召喚を受けた忠広は急遽上京、池上本門寺で謹慎し沙汰を待つことになった。福田氏によれば、「幕府は慎重に関係者を取り調べて捜査を進め、諸大名に事件の経緯を事前に知らせ、複数の老中を派遣して忠広父子の言い分も聞き、徳川御三家の意見も聞いた上で処分を決定し」た。
五月二十九日、忠広父子に幕府の沙汰が下りた。光正の罪状は、謀書の件で「御つめのはしを汚し」(「綿孝輯録」巻三十二加藤家旧臣・田中左兵衛差出)たこと。「御つめのはし」とは、光正が母を通じて将軍家の血筋にあることを言っている。処分は、本来「切腹をも仰付られるべき儀」ではあるが「命の儀赦免なされ」飛騨高山の金森重頼(*8)預りとなった。一方、忠広の罪状は、「近年諸事無作法」(*9)に加え、江戸で生まれた子どもとその母を幕府に無断で熊本へ帰したたことが「公儀を軽ろしめ曲事」と判断された。処分は改易、肥後五十四万石を収公のうえ、出羽庄内の酒井忠勝(*10)預かりとなった。加藤家は、首の皮一枚、というかたちで残されたのである。
ちなみに周囲の諸藩や世評の大方の予想は、父子の切腹断絶であり、幕府にとっては寛大な、加藤家にとっては最悪の事態だけは避けられた処分となったわけである。とはいえ、肥後五十四万石(*11)の領地と清正渾身の名城熊本城が召し上げとなる。加えて、加藤家家臣団は、少なくとも一万人以上が一挙に家禄を奪われ、野に放たれることになった。
そのような江戸での処分を受けて、熊本の家臣団はどう動いたのか。幕府からの上使への城明け渡しか? 籠城か? 彼らは、現代の私たちもよく知る、それから約七十年後に播磨赤穂藩で起きた有名な事件と同じような決断を迫られたのである。
幕府の上使は、既に稲葉丹後守など四人が決まっていたところ、備後福山藩主の水野勝成(*12)が追加された。勝成は、当時七十歳手前の、百戦錬磨の戦国武将であり、忠広の公母清浄院(家康の養女として清正と結婚)の実兄でもあった。人脈と、豊富な戦闘経験を踏まえた有事の指揮官として期待された追加措置だったのだろう。
実はこの十三年前、幕府は、安芸広島の福島家改易時の開城に手こずった経験を踏まえ、主君忠広直々の、城を明け渡すようにとの指示を家老の加藤右馬允と下川又左衛門に持たせ、国許へ走らせていた。二人の家老らは、六月二十日過ぎに熊本に到着。まもなく熊本城の明け渡しが決まった。籠城と戦闘は回避された。
一方、上使を含め、関係諸藩の軍勢一万強が、細川藩の小倉港に到着したのは、七月十二日のことであった。さっそく細川忠利から熊本の加藤右馬允と下川又左衛門に対して、「(筆者注;七月)十四・五日の頃、(同;上使と一万強の軍勢は)此の方を御立ち有るべく候間、肥後の内、兵糧・馬の飼・沓・わらぢ・薪・ぬかくさ、切れ申さずように御申し付け有るべく候」という懇切丁寧な連絡が届いた。契沖の伯父下川又左衛門も、城明け渡し後まで、膨大な残務処理に多忙を極めていたに違いない。
さて、他所への配流となった忠広と光正は、その後どうなったのか。
まず、忠広は庄内藩の酒井忠勝預かりとなった。同年六月三日の出立である。同行した者は約五十名、忠広生母の正応院(玉目氏)と側室(「しげ」と推定)の他、二十名の若き士分の者が入っている。その頃に詠まれた忠広自筆の歌日記「塵躰和歌集」のなかに、こういう歌が遺されている。父清正が愛用していた長い片鎌槍を形見に持参していたのだろう(*13)。
たらちねの 父の片鎌 身に添へて ふたたび名をも 覚えける武者
そしてこの日記は、寛永十年(一六三三)九月八日の歌で終わっている。
ひとり寝の 寝られぬ秋の 枕には 虫のなく音も なを色々に聴く(*14)
「なを色々に聴く」という結句の言葉をながめていると、庄内から山側に入った丸岡の地で聴いた虫の音は、長く暮らした江戸や熊本で聴いたものとは、随分違っていたようである。
慶安四年(一六五一)、同行していた生母の正応院が亡くなった。
その死から二年後の承応二年(一六五三)、忠広も急逝する。加藤家の断絶であった。
一方、光正の一行は、十五人という少人数で、父忠広より一日早い六月二日に江戸を出立し同月中旬頃には高山へ入った。光正は、平安時代創建の古刹天性寺で過ごした。真っ先に行ったのは、祖父清正の位牌作りだった。しかし、彼の高山生活は短く、翌寛永十年(一六三三)七月に同寺で病死したと伝えられている。なお、高山藩主金森重頼が光正の一周忌供養に併せて建立した日蓮宗の菩提寺が、法華寺として今も残っている。そこには光正の位牌が、自作の清正の位牌と並んで祀られている。
さて、その光正が亡くなった約二か月後、故郷の肥後を京の都に向けて出立する、旧加藤家家臣の一人の若者がいた。西山宗因である。
(*1)天正十一年(一五八三)~慶長十七年(一六一二)
(*2)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション、北野隆「加藤時代の熊本城について」谷川健一編『加藤清正 築城と治水』。
(*3)天正二十年(一五九二)~天和三年(一六八三)
(*4)永禄六年(一五六三)~正保二年(一六四五)。三男の忠利に家督を譲った。
(*5)北川央「怨霊と化した豊臣秀吉・秀頼」『大阪城をめぐる人々』創元社
(*6)現在の大阪城の京橋口から城内に入ったところに、「肥後石」と呼ばれている城内第二位の「京橋口枡形の巨石」があり、従来、加藤清正が運んできたとの伝承があったが、現在では備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれたことが判明している。
(*7)慶長九年(一六〇四)~慶安四年(一六五一)
(*8)慶長元年(一五九六)~慶安三年(一六五〇)
(*9)細川家史料における忠興と忠利の書簡を見ても、忠広について、気が触れたという意味合いの表現が頻出している。忠広の乱行について他藩にまで漏れ聞こえる状況にあったらしい。
(*10)文禄三年(一五九四)~正保四年(一六四七)
(*11)清正代から検地実高は七十三万石、忠広代には拡張が進み九十六万石あったと言われている。
(*12)永禄七年(一五六四)~慶安四年(一六五一)
(*13)清正愛用の片鎌槍をもった銅像を、熊本市西区花園にある本妙寺公園で見ることができる。自動車で直接行くこともできるが、ぜひ、本妙寺の大本堂から清正公の墓所・浄池廟へと続く「胸突雁木」百七十六段と、その先の三百段の石段を歩いて登っていただきたい。ちなみに、浄池廟は清正の遺言を踏まえて、熊本城に相対し天守閣と同じ高さの地に置かれている。
(*14)徳川黎明会刊「金鯱叢書 史学美術史論文集第二輯」によれば、忠広自筆稿では「ねらぬ秋の……」となっているが、「ねられぬ秋の……」(れ脱)との頭注があり、本稿でもそのように記載した。
【参考文献】
・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション
・鳥津亮二「西山宗因と肥後八代・加藤家」、『宗因から芭蕉へ』八木書店
(つづく)
小林秀雄著『本居宣長』を読んでいて、直観の強さとしか言いようのないものを感じるのは、私だけではないだろう。その一方で、紡がれていく文章には、弛むことのない分析の力が、紙背で張りつめている。
もちろんこれは、『本居宣長』が分析的な文体を持っている、ということではない。ただ、一度つかんだ直観を確かなものとするうえで、分析的手法は避けがたい。だからこそ、その手法に引きずられ、逆に直観が曖昧になることは避けなければならない。そのような、いうなれば直観の糸を緩ませない辛抱強い力が、『本居宣長』を支えている。そしてそれは、古書の読解に実証的手法をとりながら、ついに古典の愛読者としての直観から目をそらさなかった、本居宣長その人の歩んできた道だった。
――贋物に欺かれない事と、真物を信ずる事とは、おのずから別事であろう。どちらが学者にとって大事か。先ずどちらの態度を、学者として取るのが賢いことか、君はどう思う、と秋成に問うのである。この、見たところ簡単な疑問の底が、非常に深い事を、宣長はよく知っていた。(「本居宣長」第五十章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.180)
――十枚の色紙のうち、一枚は真物であるのを知りながら、何故、それを選び、取り上げないか。言うまでもなく、選ぶには、その証拠が不充分だからであろう。それだけの話なら、特に文句を附ける筋ではない。彼が難ずるのは、この当たり前な事も、当世の学者等の手にかかると妙な具合になる、その気質に染められ、歪められずにはいないという事だ。(中略)真偽は物の表裏であろうが、真を得んとする心と、偽を避けんとする心とでは、その働きは全く逆になるだろう。それが、彼等には見えていない、と宣長は言うのである。彼等が固執する態度からすると、大事なのは、真ではなく、むしろその証拠だと言ってよい。真が在るかないかは、証拠次第である。証拠が不充分な偽を真とするくらいなら、何も信じないでいる方が、学者として「かしこき事」と思い込んでいる。(同、第28集p.182)
証拠がなければ真ではない、一見もっともなこの言い分も、真剣に探求を続けるなら、非常に怪しい話となる。
本居宣長と上田秋成の論戦、いや、論戦というより対比といった方がいいような、全く心ばえの違う二人のすれ違いは、『本居宣長』の終盤に向けてたびたび取り上げられているが、ここは、科学的論証や史実などという曖昧な言葉遣いが蔓延っている現代において、非常につまずきやすい部分ではなかろうか。
例えば、秋成は「ゾンガラスと云ふ千里鏡で見たれば、日は炎々たり、月は沸々たり」(同、第28集p.91)といって、古伝が日や月を人体にときなすのをとりあげ、古伝をあるがままに信ずべしという宣長を非難する。一見もっともな意見と見えるかもしれないが、「月は沸々たり」は、現代から見れば明らかにおかしいとわかるであろうし、「日は炎々たり」すら、正確を期すのであれば少々注意が必要になる。もちろんそれは現代からの意見であり、時代の制約を考えねばなるまいが、時代を言い出すならば、現代の説もまた、いずれ難ぜられる未来を思わねばならない。また、今度は逆様に、人体を、日や月を見る時と同様、千里鏡を通すように見てみれば、眼鼻や手足とて、なかなか人体とは見えてこないだろう。ひいては、まず人を人と見なければ、その人の体を人体とは見がたいことに思い至るはずだ。
続ければキリがない以上細かい言挙げはこれくらいにしておくが、分析的論難とはそういうことだ。当然ながら、傍証を集め偽を避けんとする手法も、学者のとる手段の一つではあろう。そんなことは宣長も承知していた。何より、宣長自身こそ、非常に優れた実証家であった。
正確な論証や事実の探求を拒む理由などどこにもない。だが、まず真と信ずるところがなくば、何ができるというのか。もう一歩踏み込むならば、秋成の論難すら、つまるところ秋成が真と信じたところ、それも、古学への興味とはおよそ縁のないところから出た話であり、その真を正確に証するものすら、どこにもない。ただ、秋成の知る範囲で偽ではないと思われるだけの話だ。それを、秋成は真の証拠と思ってしまっている。古伝のような未開の人間の思い込みによる未熟な観念に惑わされぬ、冷静で正確な認識と思ってしまっている。秋成の意見ではなく、秋成のこの態度こそ、宣長の難ずる点だった。受け入れるにせよ反対するにせよ、これに付き合うということは、秋成の態度にそって論ずるということになる。秋成は言葉をはぐらかすような宣長の態度に怒ったが、宣長からすれば、秋成のほうこそ、頭から言葉をはぐらかしに来たと見えただろう。
証拠がなければ真ではない、そんな乱暴な話はあるまい。真は真だ。それでも証拠の存在に問題を置くとするならば、まず、我々の検証能力がどこまで届きうるか、その原理的限界を考えねばなるまい。
はたして、証拠を集めれば真を得られるのか。はっきり言って、人間にそんなことは不可能だ。一見そのようなことが可能なのは、少なくともすでにいくつか候補を予感し、たまたま、一つ以外を退けることが出来た、あるいは、そう出来るように候補が誂えられていたからに過ぎない。
逆様に言えば、得られた直観が本当に正しいと証することもまた、できはしない。そこに、分析の力、すなわち、偽りを避けんとする辛抱強い力が必要となる。それは、直観そのものの偽を問うということだけではなく、むしろ、得られた直観をより精しくするためにこそ、必要な手順だろう。
ここで私が思い浮かべるのは、仏師の振るうノミのようなものだ。まず素材の中に仏の姿を予感していなければ、それを彫り出すことはできまい。そして、彫り進めるほどに、仏の姿はより鮮明になってゆく。しかし、仏の体にノミが振るわれてはならない。ノミを振るうとは、そこに仏の体がないことを確かめるということだろう。
もちろん、分析の結果、直観の間違いを確かめるということもある。そして、特段の理由でもなければ、間違いと確かめたことにわざわざ言及する必要もない以上、分析には、いうなれば、自らの足跡を消していくような働きがある。それゆえ、辛抱強く分析を続けられた仕事からは、むしろ分析の色は抜けていき、いよいよ直観の姿が露わになっていくものだ。この辛抱を要する道行きに、昔も今もあるものではない。
さらに言えば、直観が正しいことを証せない以上、分析の手が、自ずから止まるということはない。分析の終わり、それは、自らの手の限界を悟った時だ。これ以上進むことのできない頂に立った時、人は分析の手を止めざるを得まい。
それは、直観の正しさが証されたということではない。もはや自分はこう考えるよりほかにない、ただそのことを確かめるということだ。
さて、今回、直観について書いてきたが、ここでいう直観は、カント的な、純粋に先天的能力としての『直観』というより、言葉の厳密性など意図しない人々が、日々の生活のなかで互いに通じ合うことを信じて使用するところの直観、あえてその意味を問うのであれば、案出されたものではない、わかるからわかる、見えるから見えるとしか言いようのない、そういう直観として受け止めてもらいたい。それを純粋なところまで突き詰めれば、一つの根源としてカント的『直観』まで行きつくであろうが、そのように窮まった所から考えてしまえば、話がより込み入ると思い、こうして注釈を置くことにした。
余談になるが、このような直観と分析について考えた時、推理小説というものについて、個人的に面白く感じるところがある。推理小説は、まさに解かれるために用意された謎ではあるが、その推理がどれほど精巧でも、いや、その推理が精巧なものであるほど、その話は荒唐無稽にならざるを得ない。推理小説に命を吹き込むのは、推理の正しさというよりも、むしろ、探偵の着想だ。初動がどれだけ地道な調査であっても、探偵が直観を得たところから、推理小説が始まる、そう言ってもいいだろう。どれだけ整合的説明が与えられても、それらの情報から探偵が真相を見つける時、そこには余人の立ち入り難い飛躍がある。でなければ、探偵などいらないはずだ。
新たな発見におけるこの種の飛躍は、数学や物理の世界でも常にある。もちろん、発見に至る実験や理論の積み重ねは必要だ。しかし、その瞬間、そこにいれば、誰もが発見者になれた、そんな呑気な考え方に、私は賛同できない。歴史の必然とは、必然が歴史を作ったということではないだろう。歴史に流された人が発見者になったのではない。歴史を背負って立った人が、発見者となるのだ。
『本居宣長』は、宣長に流れ込んだ学脈や当時の学風を細かに追っていくが、そこに描かれているのは、流れの中に配置された本居宣長という役割ではなく、そのような歴史を背負って立つ、本居宣長という人の姿だ。
(了)
「本居宣長」において、宣長の「物のあはれ」論は、第十二章から詳述される。但し同章は、序章のような位置付けであり、「宣長が、『ものゝあはれ』論という『あしわけ小舟』の楫を取った」という最後の決めの一言を受けて、第十三章から本論が始まる。小林秀雄先生は、その冒頭で「もののあはれ」という言葉の最初の用例として、紀貫之(*1)の「土佐日記」について、さらには、同じく貫之が綴った「古今和歌集」(以下、「古今集」)の「仮名序」について触れている。ちなみにこれは、前稿「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ」(「好*信*楽」2023(令和五)年冬号)で述べた、紫式部が「源氏物語」の「蛍の巻」で自身の物語論を、登場人物の口を借りて語っている件の前段にあたる。
その「仮名序」と「土佐日記」については、第二十七章において、改めて詳述され、「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところが、宣長を驚かしたのである」という決め台詞で終わる。ここで小林先生が言っている「同じ方法」とは、一言で言えば、貫之が「土佐日記」の執筆を通じて行った「和文制作の実験」のことである。すなわち、「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて、「何の奇もないが、自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみる」ということだ。さらに先生は、それこそが「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕えるという、その事になる」と言っている。
それではまず、その「実験」の詳細を、「土佐日記」に向き合いながら体感してみよう。
「土佐日記」は、当時六十代後半の紀貫之が、国司、土佐守としての四年の任期満了後、任地の土佐(現、高知県)から京都まで帰る船旅、五十五日間の模様を、経日的に綴った日記(日次記)である。もちろん貫之以前にも、入唐僧や太政官の役人による公的な日記(*2)は存在していたが、私的な日記が書かれるようになるのは、貫之が生れた九世紀後半からのことである。例えば、「宇多天皇日記(寛平御記)」寛平元年(八八九)十二月条には、天皇が愛猫の様子を生き生きと書いている件があるが、漢文で書かれている。それを、「女手」とも言われた平仮名で、筆者は前土佐守に仕えた女房という体裁で書いたのが、貫之の「実験」だったのだ。
それでは、その「土佐日記」に書かれた内容を、喜・怒・哀・楽に分けるかたちで具体的に見てみよう。
まずは、喜と楽である。
「二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原のときざね、船路なれど馬のはなむけす。上中下酔ひあきて、いとあやしく、潮海のほとりにてあざれあへり」(傍点筆者、以下同様)。
出発に際し、船旅なのに、馬のはなむけ(元来は旅の無事を祈り旅先の方角に馬の鼻を向けることであったが、その後、送別の宴や餞別の意味に用いられた)、という駄洒落である。また、「あざる」の二つの意味、「魚が腐る」と「ふざける」を利用し、塩海で腐るはずないのに、酔っ払いが「あざれ」合っているという諧謔もある。これは、「古今集」など和歌で用いられた「掛詞」の応用である。
「六日、澪標のもとより出でて、難波に着きて、川尻に入る。みな人々、媼、翁、額に手を当ててよろこぶことふたつなし。かの船酔ひの淡路の島の大御、『都近くなりぬ』といふをよろこびて、船底より頭をもたげて、かくぞいへる。
いつしかと いぶせかりつる 難波潟 葦漕ぎそけて 御船来にけり」。
船は、ようやく京へ向かう川上りの体勢に入った、これで、ひどい風波に悩まされることもない。船酔いで寝ていたおばあさんの破顔も、眼に浮かぶ。
次は、怒である。
「かく別れがたくいひて、かの人々の、口網も諸持ちにて、この海辺にて担ひ出せる歌、
をしと思ふ 人やとまると 葦鴨の うち群れてこそ われは来にけれ
といひてありければ、いといたく賞でて、行く人のよめりける。
棹させど そこひも知らぬ わたつみの 深き心を 君に見るかな
といふ間に、楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」。
「本居宣長」第十三章の冒頭でも紹介されている、土佐出発の件である。見送りの人々は声を一つにして惜別の歌を詠み上げる。それに感動した前土佐守は、李白の詩を踏まえ心を込めて歌を返した。楫取りは、そういう微妙な機微も解することなく、しこたま酒を飲むと、「早く船を出そう」と騒ぐ。「いい気なもんだ!」というところだろうか……
最後は、哀である。
「二十七日。大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし女子、国にてにはかに亡せにしかば、このごろの出立ちいそぎを見れど、なにごともいはず、京へ帰るに、女子のなきのみぞ、悲しび恋ふる。ある人々もえたへず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、
都へと 思ふをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりけり
また、あるときには、
あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらととふぞ 悲しかりける」。
貫之には、京で生まれ、若い妻とともに土佐に同行したものの、当地で亡くした女児があった。すでにこの世にいないことを忘れて、「あの子はどこに?」と自問してしまう悲しさよ……
「四日。……この泊りの浜には、くさぐさのうるわしき貝、石などおほかり。かかれば、ただむかしの人をのみ恋ひつつ、船なる人のよめる、
寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ
といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、
忘れ貝 拾ひしもせず 白玉を 恋ふるをだにも かたみと思はむ
となむいへる、女子のためには親幼くなりぬべし」。
「むかしの人」とは、亡児のことである。悲歌を詠む「船なる人」も「ある人」も、作者の分身としての貫之自身なのであろうか。忘れ貝は拾わない、白玉のようなあの子を恋い慕うこの気持ちを持ち続けることだけが、あの子の形見なのだから……
なお、「女子のためには親幼くなりぬべし」という表現は、貫之の最大の庇護者であった藤原兼輔の歌「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな」(「後撰和歌集」十五)を念頭に置いたものと言われている。ちなみに、兼輔は紫式部の曽祖父であり、「源氏物語」の中にも、この歌の趣旨を踏まえた表現が二十六箇所にも及んでいることは、前稿で紹介した通りである。
「池めいてくぼまり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに、千歳やすぎにけむ、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、『あはれ』とぞ人々いふ。思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌、
生まれしも 帰らぬものを わか宿に 小松のあるを 見るが悲しき
とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ。
見し人の 松の千歳に 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや
忘れがたく口惜しきことおほかれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ」。
前土佐守の一行は、なんとか京の家に到着した。しかし、しばらくぶりに眼にした、家屋や庭は見るも無残な廃屋のように荒れ果てていた。しかも、この家で生まれたあの子は帰ってこない。そこに、小さな小さな松が生えていた……
ちなみに、貫之が心底慕っていた藤原兼輔は、貫之の土佐在任中の承平三年(九三三)に亡くなっていた。貫之は、帰京後、兼輔のいない屋敷を訪れ、そこに松と竹があるのを見て、次の二首を詠んでいた。
松もみな 竹も別れを 思へばや 涙のしぐれ 降るここちする
(貫之集 第八 七六七)
陰にとて 立ちかくるれば 唐衣 ぬれぬ雨降る 松の声かな
(同、七六八)
前者の歌意は、松も竹もみな故人との別れを惜しんで泣いているのか、涙が時雨となって降っているようだ、である。後者は、松の木陰に故人を偲ぼうと身をひそめると、松籟(*3)が、その死を悼む涙の声となって、衣を濡らさずに降りそそぐ雨音のようだ、という歌意である。
わけても、後者は、兼輔の生前、その屋敷で酒宴が開かれた時に詠んだ歌でもあった。その時の歌意は、松の木陰に隠れると、松籟が、まるで衣を濡らさずに降る雨音のように聞こえます。ご主君(兼輔のこと)のお蔭で、厳しい世の中に泣く思いをすることもなく、ありがたい限りです、である。このように、貫之はまったく同じ歌を、歌意を替えて人生で二度詠んだ。彼にとって、その松は、兼輔の面影をありありと思い出させるものだったのだ。
土佐への赴任中に、貫之が失ったかけがえのない人は、女児と兼輔だけではなかった。延長八年(九三〇)には醍醐天皇が崩御、その諒闇(*4)のなかで、兼輔の母が亡くなった。さらには、承平元年(九三一)には宇多天皇が崩御。翌年には、もう一人の庇護者であった藤原定方が逝去していた。
なかでも醍醐天皇は、貫之にとって、距離的に必ずしも彼方の人ではなかった。「古今集」編纂の発案者であり、歌人としての力量や編集実務能力に長けた撰者の一人として、三十代前半の貫之が選ばれていた。彼は、当時のエピソードを「貫之集」のなかの一首の詞書として遺している。
延喜の御時、大和歌知れる人を召して、むかしいまの人の歌奉らせたまひしに、
承香殿の東なるところにて歌撰らせたまふ。夜の更くるまでとかういうほどに、
仁寿殿のもとの桜の木に時鳥の鳴くを聞こしめして、四月六日の夜なりければ、
めづらしがりをかしがらせたまひて、召し出でてよませたまふに、奉る
こと夏は いかが鳴きけん 時鳥 今宵ばかりは あらじとぞ聞く
(貫之集 第九 七九五)
紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑ら四人の撰者は、延喜初年から四年(九〇一~九〇四)頃の初夏、内裏の奥深く、天皇の居所である清涼殿からほど遠くない承香殿のなかの東の一隅を供されて、編集作業に没頭した。気付けば深夜、仁寿殿の桜の木で、その年最初の時鳥が鳴いた。その声を聞いて心動かされた醍醐天皇から歌を所望され、貫之が詠んだのが、「こと夏は……」の歌である。
さらに、その醍醐天皇の父である宇多天皇も、和歌への関心は深かった。その治世では、「寛平御時后宮歌合」「是貞親王家歌合」などの催しを行い、二十代前半の貫之も出詠していた。ちなみに、両歌合は、後に編纂された「古今集」の重要な撰集資料ともなった。
以上見てきたように、貫之は、土佐への赴任中に、文字通りかけがえのない人たちを失ってしまった。私には、「土佐日記」に記された、船旅のなかで実感した喜・怒・哀・楽、わけても女児をなくした哀しみには、貫之が日常生活のなかで体験してきた出来事や、親交を結んできた人たちの俤が、より奥行の深いところで凝縮、表出しているように思われてならない。
ところで、三十代前半の若き貫之は、「仮名序」にこのように記していた。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」。
和歌は、人間の心を種として生い茂った、とりどりの「言の葉」だと言えよう。この世に暮らしている人間は、様々な出来事に遭遇するものなので、その折々の心情を、見るもの聞くものに託して言い表す。……力をも入れないで天地を動かし、眼に見えない「おにかみ」の心をも感じ入らせ、男女のあいだをも和やかにして、勇敢な武人の心さえも和らげるのは、歌なのである。
「人麿亡くなりにたれど、歌の事とどまれるかな。たとひ、時移り、事去り、たのしび、かなしび、ゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、正木の葛長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎていまを恋ひざらめかも」。
柿本人麻呂が亡くなってしまっては、歌の道も途絶えてしまうように思うが、今の世に留まって、この集を編んだ。たとえ時代が移り変わり、出来事も過ぎ去り、楽しいことや哀しいことが行き来しても、この歌という名は長く存在し続けるだろう。物事の深意を感得している将来の人は、大空の月を観るように、歌の興った昔を仰ぎ見て、「古今集」が成った今を恋しく思うに違いない。
それから約三十数年後、「土佐日記」を書き上げた六十代後半の貫之は、こんな心持ちではなっただろうか。「おにかみ」の情を動かし、男女の仲を和やかにし、武人の心も和らげるという功徳は、和歌ならではのものだと思っていた。しかし、思い立って、漢文とは違う身軽な文字である仮名で和文を書いてみると、まったく同じ功徳を体感した。「仮名序」に記した和歌の本質は、和文においても見事に通貫するものだったのだ!
ところで、先に「土佐日記」における具体例を示した、喜・怒・哀・楽を感じる、ということは、自らの動く情を知る、ということであろう。小林先生が本文で繰り返し述べているように、「すべて人の情の、事にふれて感くは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」)と述べた宣長は、「物のあはれを知る」ことを論じる起点として「仮名序」を選んだ。ここで私が感じた貫之の心持ちは、宣長も実感したところでもあったと想像してみることは、過ぎたことではないように思われる。
ともかくも、本稿では「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕え」た貫之による「和文制作の実験」の仔細を見てきた。冒頭で紹介したように、小林先生は、宣長を驚かしたのは「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところ」だと言っている。
それでは、のちに「源氏物語」を書いた紫式部は、その方法をどのように応用したのだろうか。いや、その前に、前稿で触れたように「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部は、自身の曽祖父兼輔を心底から敬愛してやまなかった貫之、さらには兼輔の長男すなわち我が祖父雅正とも個人的な悩みを分かち合う友であった貫之と、「古今集」や「土佐日記」などを通じて、どのように向き合ったのであろうか。
(*1)貞観十年(八六八)頃~天慶八年(九四五)頃。平安前期の歌人、歌学者。歌集に「貫之集」など。
(*2)入唐僧によるものとしては、慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」。太政官によるものとしては、「外記日記」「内記日記」など。
(*3)松の梢に吹く風、その音
(*4)天皇などの喪に服する期間
【参考文献】
・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)
・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)
・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス
(つづく)
男 今回の熟視対象は、どこかな?
女 第三十章の結語部分に「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失うであろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集351頁)とあるでしょう。
男 そのどこが気になるの?
女 「自由」という言葉が、何かを感じさせるの。
男 僕はむしろ、「歴史を限る枠」っていうのにひっかかる。どういう意味かな?
女 引用文と同じパラグラフの前の方に「歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない」(同上)とあるでしょう。ここでいう「年表という歴史を限る枠」のことよ。
男 ああそうか。「年表的枠組」という表現もあるね。でも、年表って、過去を振り返って作成された記録だよね。それがどうして、歴史を限る枠になるのかな?
女 言ってることがよく分からないわ。
男 証拠に裏付けられた客観的な事実とは別に、歴史なんてありえないよね。年表って、客観的な事実の集合体なんだから、歴史そのものなんじゃないの?
女 ああ、そういう話ね。もちろん、いついつ何々が起きたという記録を無視した歴史認識はあり得ないし、「かくかくの過去があったという証言が、現存しないような過去を、歴史家は扱うわけにいかない」(同350頁)。
男 学問なんだから、客観主義に徹すればいいんじゃないの?
女 確かに、そういう「証言証拠の受身な整理が、歴史研究の風を装っている」(同349頁)こともあるわ。でも、宣長さんの学問はそうではないの。
男 というと?
女 宣長さんは、「『古事記』という『古事のふみ』に記されている『古事』とは何か」(同)を突き詰めていった。その際「主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人の意の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られる」(同)ということなのね。
男 年表は、「過去に起った単なる出来事」の羅列に過ぎないというわけだね。客観的な証拠や証言だけでは不十分なのかな?
女 そうね。「証言が現存していれば、過去は現在に蘇るというわけのものではあるまい。歴史認識の発条は、証言のうちにはない」(同350頁)ということよ。
男 歴史認識のバネか。でも、客観的な証拠や証言を離れて、どうするのかな?
女 「古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみる」(同)ということなんだわ。
男 共感とか、追体験とか、そういうことかな。でも、そんなことが可能かな?
女 簡単なことではないわ。それでも、「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、(中略)総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事」(同350,351頁)はできる、そう考えてはどうかしら?
男 面白そうな話だけど、うまくいくのかな。各自が勝手に、自分の願望を投影しただけのものにならないのかな?
女 少なくとも宣長さんは、こういう方法で、「古事記」について何百年たっても通用するような読み解きをすることができた。でも、誰でもできることではないわね。「確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい」(同351頁)ということじゃなくて?
男 宣長さんも、もちろん、勝手な自己主張をしたわけではないよね?
女 そうよ。「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明」なの(同349頁)。
男 何か、強烈な意思のようなものを感じるけど、どうかな?
女 宣長さんの場合、「何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導」いていたのね(同349頁)。そういう宣長さんなればこそ、「倭建命の『言問ひ』は、宣長の意に迎えられて」はじめて、「息を吹き返した」(同351頁)。「年表的枠組は、事物の働きを象り、その慣性に従って存続するが、人の意で充たされた中身の方は、その生死を、後世の人の意に託している」(同)というわけね。
男 そうなると、生死を託された後世の人の意の働きがどのくらいあてになるか、心もとない気がするけど、どうかな?
女 そうよね。後世の私たちは答えを知っている。戦の帰趨であれ何であれ、結局どうなったのか分かっている。そういう年表的枠組には手を付けないでいて、「過去の経験を、回想によってわが物とする」(同350頁)ことになる。
男 そうするとさ、追体験するにしても、所詮この人は最後はこうなる、なんて考えてしまう。それで、本当の意味で、過去を蘇らせたことになるのかな?
女 たしかに、過去の人々の行動について、大きな時代の流れの中の一つのエピソードくらいに考えがちよね。歴史的な必然性とか法則性、あるいは実証主義に基づく歴史解釈とか、そういったものの具体的な一事例として扱ってしまう。
男 それでは結局、「証言証拠のただ受身な整理」(同349頁)としての歴史学と大差ないんじゃないかな?
女 だからこそ、「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失う」(同351頁)ということなんだわ。
男 どういうこと?
女 過去の人々にとって、その時点での未来は、当然、未知のものだった。結果論で言えば、「抗しがたい運命に翻弄されていた」ということになるかもしれないけど、彼らは、その運命に抗おうと奮闘していた。行動の自由があったんだわ。それを、「所詮、時代の流れには抗しがたかった」みたいに後知恵で裁いてしまうと、歴史の中心点を失うことになる。
男 中心点を失うっていうと?
女 結果論や後知恵では、年表的枠組しか掴めない。たまたま目の前にある証言証拠を眺めて、いつでも誰でも分かることを再確認しているだけなんだわ。それでは過去は現在に蘇らない。歴史の中心点、つまり歴史認識の最も重要な部分にたどり着けない。こういうことじゃないかしら。
男 なるほど。そうすると、自問自答の域を超えてしまうかもしれないけど、こうも言えるかな。今を生きる僕らも、過去の経緯とか、漠然とした時代の流れとかいったものには、何か抗いがたいものを感じている。でも、宣長さんのように歴史に向き合い、過去の人々の行動の自由に想いを馳せ、人間経験の多様性を自己の内部に再生して味わうことができれば、僕ら自身が、社会通念や固定観念から離れて、未来に向けての自由を取り戻す道が開かれることになる。なんて。言い過ぎかな。
女 ええ、言い過ぎは言い過ぎね。でも、同感、そうこなくっちゃ、だわ。
(了)
私は、二年前に東京の神楽坂で毎月開講されていた新潮講座「本居宣長」に初めて参加した。講座の内容は、第九章の中江藤樹、伊藤仁斎についてであった。講義前のフリートークの時間に、読書の仕方について、講師の池田雅延塾頭に質問した。「中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠、そして宣長と、みな読書の達人と小林秀雄先生は言われましたが、どのような読み方なのか何かヒントがあるでしょうか」という主旨の質問であった。小林秀雄先生の「学問」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)に次の一文がある。
「仁斎の読書法では、文章の字義に拘泥せず、文章の語脈とか語勢とか呼ぶものを、先ず摑め、と教える。個々の動かぬ字義を、いくら集めても、文章の語脈語勢という運動が出来上るものではない。先ず、語脈の動きが、一挙に捕らえられてこそ、区々の字義の正しい分析も可能なのだ。(中略)歌に動かせぬ姿がある如く、聖人の正文にも、後人の補修訂正の思いも寄らぬ姿がある」(第24集p.20)
「歌に動かせぬ姿がある如く」、その姿が現れるまで読みこなすということが、本に向き合う態度なのである。
話をもとに戻そう。さきの私の質問に対して池田塾頭は、「語意を追わずに、行間を読むということです。小林秀雄先生の読書も同じです」という内容のアドバイスをされた。私には、その言葉の示すことがよく呑み込めていなかった。ただ、漠然と詩を読むように、何よりも感じることが先であると思っていた。詩の意味を理解することは不可能だからである。
山の上の家の塾の学びを重ねるにつれ、まず、歌や文の「かたち」を繰り返し模倣することで、「姿」に出会うことができると思うようになった。「行間を読む」という作法について、小林先生が徂徠の素読にまつわる「告白」の中で、私に教えてくれた箇所がある。
「例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も『見るともなく、読むともなく、うつらゝと』詠めるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。『本文』というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。(中略)もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう」(同第27集p.116)
読書とは、内的視力を要するもので、裸の言葉との交渉持つことであって、小林先生は、「仁斎の心法」について「『心目ノ間ニ瞭然タラシム』る心法を会得しなければ、真の古典批判は出来ぬ、と仁斎は考えた」と書いている(同第24集p.21)。これは、心法という便利な方法があるのではない、時間をかけて古書の内部に入込み、「物」の「かたち」を捕らえるということである。
ここで、「かたち」を持ち出したのは、作品を作る側の作者にとっても、作品という「かたち」を生み出す苦心が心法を用いることになると考えられるからである。それは、自分の心の動きを見定める必要に迫られるということである。
作者が作る「かたち」は、単なる文章の形式ではなく、宣長の言う「かたち」という言葉がぴったりと来る。この「かたち」については、歌を題材にして第二十三章に詳しく述べられている。「『あゝ、はれ――あはれ』という生まの感動の声は、この声を『なげく』『ながむる』事によって、歌になる」(同第27集p.258)。「――むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのずから、ほどよく文ありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、必異なる物にして、――(「石上私淑言」巻一)」(同第27集p.259)。
感動することとながめることは一緒のことだとわかるだろう。同時に私達はそのような行動を取ると言った方がよい。言語組織の動き、働きによって作られるものが歌の「かたち」となる。この「かたち」は感動を導く仕方と言ってよいものだが、宣長は、ただの言葉とは区別しているのである。
また、第二十三章の宣長の「つくゞと見る」という言葉と、徂徠の「見るともなく、読むともなく」読む素読が、重なり合って見える。宣長は、つくづくと見るを奈我牟流というので、「ながむる」という語源を辿り、「あゝ、はれ――あはれ」という生の感動の声は、この声を「なげく」「ながむる」ことによって、歌になる、と言う。歌うことと「ながむる」と「つくゞと物を見る」は、繋がっている。読書とは、本をつくゞと「ながむる」ことだと思えば合点が行く。余計な意味など洗い流して、たゞ、見るのである。
「物思ふときは、常よりも、見る物きく物に、心のとまりて、ふと見出す雲霞木草にも、目のつきて、つくゞと見らるゝものなれば、かの物おもふ事を奈我牟流といふよりして、其時につくゞと物を見るをも、やがて奈我牟流といへるより、後には、かならずしも物おもはねども、たゞ物をつくゞ見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし」(『石上私淑言』巻一)(同p.262)。
「うつらゝ」として意識が朦朧とする中で見えてくる、「つくゞと見る」ものが「かたち」である。行間を読む読書を、「かたち」が見えてくるまで何度でも繰り返すという努力が読書の達人たちの工夫であった。
そこで、読書とは、内的視力を要するもので、裸の言葉と交渉を持つことだとすれば、裸の言葉とはどのような言葉であろうか。それは、歌であり、詩の類であろうか、「たゞの詞とは、必異なる物」である。内的視力が働く時を私の日常から切り抜いてみる。相手は、素の子供の感想文である。
実家を整理していたら、小学一年生の時の自分の作文が見つかった。五十音をやっと覚えた最初の作文で、五十五年も経っているので、まるで碑文のごときものであった。難解な言葉などあるはずもなく、単純で、余計な修飾語などない文である。淡々と事実だけが書かれている。題は、「ぶんちょう(文鳥)について」である。しかし、反って新鮮であった。私は、思い出すという以外に何もしていないし、裸の言葉とはこのようなものでないかと思った。言葉の「かたち」という原型に出会ったように思えた。どんな意欲も持たない、目的のない言葉が、裸の言葉であって、無心な心の印を発見したようである。
「言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼(徂徠)の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている『事実』も『事』も『物』も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。各人によって、思い出す上手下手はあるだろう。しかし、気儘勝手に思い出す事は、誰にも出来はしない。私達は、しようと思えば、『海』を埋めて『山』とする事は出来ようが、『海』という一片の言葉すら、思い出して『山』と言う事は出来ないのだ」(同第27集p.117)
さらに小林先生は、宣長になり代わったように、このように言っている。
「空理など頼まず、物を、その有るがままに、『天地はたゞ天地、男女はたゞ男女、水火はたゞ水火』と受取れば、それで充分ではないか。誰もが行っている、物との、この一番直かで、素朴な附き合いのうちに、宣長の言い方で言えば、物には『おのゝその性質情状』が有る、という疑いようのない基本的な智慧を、誰もが、おのずから得ているとする」(同第28集p.40)
現代の科学的な、合理的な事実とはほど遠い性質情状を直に見ることが宣長の読書であった。性質情状を明らかにするとは、言葉本来の力による、と小林先生は言う。それは、言葉の素直な働きに身を任すということである。そこに、行間のリズムや呼吸が生まれる。読者が文章の間に乗せられるということが、起こる。「悲しみを、そっくり受納れて、これを『なげく』という一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫という一と筋を行く。誰の実情も、訓練され、馴致されなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その『かたち』を『つくゞと見る』事が出来る対象とはならない」(同第27集p.263)
本の行間を読むとは、まずは、その純粋な表現性に触れて、作品のもつ「かたち」を明らかにしていくことではないだろうか。強いて言えば、「感じ方の工夫」という一筋を行く、作者という人間のモデルに出会うことではないのか。
(了)
小林秀雄さんの『本居宣長』を読み込んでゆく中で、ずっと注目していることの一つに、和歌と言葉についての次の文章がある。
「和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツゞクル道也」という彼(宣長)の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりとした言葉と受取らねばならない。(第二十二章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.252、9行目~)
この「和歌ハ言辞ノ道也」とは、どのような意味を持っているのだろうか?
これを問いとして自答を追求していこうと思う。上に引用した少し後に、次の文章が書かれている。
私達の現実の性情は、変異して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬ事はないだろう。「心ニオモフ事」は、これを「ホドヨクイヒツゞクル」ことによって死に、歌となって生れ変る。(中略)宣長は、こう言っている事になる、――もし「心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツゞクル」詠歌の手続きが、正常に踏まれ、詠歌が成功するなら、誕生したその歌の姿は、「マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也」と。(第二十二章、同p.252、12行目~、)
確かに、私達の現実の感情や思いは移ろうていく。例えば、悲しみが残り続ける場合も、その悲しみの内実は固定されたものではなく、思いが強まることも含め、時を追って変化していくだろう。それゆえ、その時の思いは移り変わって、やがて消滅するが、歌を詠むことで新たな形になって生を受けるというのは素直に納得できる。
難解なのは、宣長が「歌は言辞の道であって、性情の道ではない」、言わば歌は言葉の道であって思いの道ではないと述べると同時に、「誕生したその歌の姿は、『マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也』」と述べていることである。
これは、次のように考えられると思う。心というものは移ろいやすく、そのまま心の中を覗いたのでは、自らの心中がどのような状態であるかを認識することはできない。むしろ、良い歌になるよう言葉を選ぶこと、また歌としての語調を整えることに集中して努力を尽くせば、できあがった歌は心の真実が映し出されたものになっている。これが、宣長の考えていたことと読み取れる。
さらに、小林秀雄さんは次のような力強い文章で書いている。
まだ「歌の実」という表現性を得ない「実の心」の単なる事実性などは、敢えて「妄念」とか「散乱した心」とか呼ぶがよろしい、と宣長は言うのである。
「情は自然也」と言っただけでは足りない。「自然と求めずして在る」心は、そのままでは、「心散乱シテ、妄念キソヒオコ」る状態を抜けられるものではない。言葉という「手がかり」がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思う心を「ほどよく言ふ」では言い足りない。一歩すすめて、乱れる心を「しづむ」「すます」「定むる」と言うべきだ。「石上私淑言」では、「むねにせまるかなしさを、はらす」と同じ意味合で「はらす」という言葉が使われている。悲しみを詠むとは、悲しみを晴らすことだ。悲しみが反省され、見定められなければ、悲しみは晴れまい。言葉の「手がかり」がなくて、どうしてそれが人間に出来よう。(第二十二章、同p.257、6行目~)
ここで、筆者自らを振り返ってみると、苦しいことに出会った時には、自然と言葉を探しはじめ、心の内で言葉を使って自分との対話をしていた。歌を詠んでいたわけではないものの、いつも自分自身との対話によって、つらい心境を整え心の平衡をなんとか得ていたことが思い起こされる。
古の時代に、言葉とは単に人と人との連絡を担い社会を形作るためのものだけではなく、自らの心や人の心を認識するために必須のもので、言葉の手がかりがあって心の内の認識が初めてできる、むしろそこが一番大事だと宣長が見抜いていたのは、素晴らしい慧眼である。
和歌が長い歴史を通じて詠み続けられ、現代においても短歌という形で受け継がれている理由のひとつは、この歌を詠むことに自らの心を認識する作用があるからかもしれないと思う。
小林秀雄さんは、和歌と言辞の関係についての宣長の考え方に触れ、次のように書いている。
何故、「只心ノ欲スルトヲリニヨム、コレ歌ノ本然ナリ」という単純明白な考えに立ち還ってみようとしないのか。其処から考え直そうという気さえあれば、「歌の道」の問題は、「言辞の道」というその源流に触れざるを得まい。そうすれば、歌とは何かという問題を解くに当り、「うたふ」という言葉が、どういう意味合で用いられる言葉として生れたかを探るところに一番確かな拠りどころがあると悟るだろう。言語表現というものを逆上って行けば、「歌」と「たゞの詞」との対立はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語を摑むことが出来るだろう。この心の経験の発見が、即ち「うたふ」という言葉の発明なら、歌とは言語の粋ではないか、というのが宣長の考えなのである。(第二十三章、同p.260、16行目~)
ここまで読み進めてきたことを踏まえれば、「和歌ハ言辞ノ道也」とは、どのような意味を持っているのかという問いについて、自答を書くことができると思う。
「和歌ハ言辞ノ道也」とは、和歌は言語の精髄であるということ。即ち、和歌を詠むに当たって、心に思うことを、事実にとらわれることなく、こういう歌に表したいと心が欲する通りに、言葉の「文(あや)」、「姿」が良きものとなるよう、徹底的に言葉をつかみとって、和歌を形作っていく。そうすると、生れた和歌には、自分が本当に思っていた心が映し出されており、歌を詠むことによって自分の内で騒がしく散乱していた妄念が静まり、心の在り方が定まってくる。そして、詠歌によって自分の内面の真実を知ることができる。このような意味合と言える。
これまで和歌と言葉について詳しく自問自答を進めてきたが、和歌の実例をあげての説明までは『本居宣長』に記述されておらず、筆者が述べた文章も、やや抽象的なものとなっている。
それゆえ、あえて筆者が和歌と短歌を一首ずつ選び、説明の補強を試みたいと思う。
いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を 返してぞ着る
(小野小町 「古今和歌集」 巻十二 恋歌二 554番歌)
一説によれば、小町の時代には夜具を裏返して着ると、夢で想い人に会えるという俗説があったそうだが、実際に小町が夜具を裏返して眠ったのかは問題ではないだろう。想い人が恋しく会いたくてたまらない心境を、気高い女性が俗説に頼ろうとまでする心根に託し、「むばたまの夜」という黒髪を思わせる言葉を選んで、心の内の苦しさせつなさを見事な和歌にしている。元々の、乱れてやまないであろう小町の心の中が、言葉を駆使することで形作られ見定められた、と言えるのではなかろうか。
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
(塚本邦雄 歌集『感幻樂』 昭和44年)
馬を洗うのならば魂が冴えるほど徹底して、ひとを恋するなら殺してしまうほど一途な心で、という大胆な比喩と対比を使っての短歌である。過剰な表現にもかかわらず心に残るのは、「洗はば」「戀はば」というリフレインを含む言葉、「たましひ冴ゆる」「人あやむる」の並立で生まれる歌全体の透明感が、良い響きを成しているからだろうと思う。この昭和時代の短歌も、作者の元々の心情そのものではなく、言葉の選択や並び、音の響きに至るまで工夫を凝らしたがゆえに、作者の真の想いが形作られたと言えるのではなかろうか。
小林秀雄さんの『本居宣長』には、宣長の考えを批評する形で、言葉が人に、とくに言葉が人の内面に対して、どのような働きをしているかの深い考察が籠められている。その考察は、「自分を知り、より良く生きるには」という答えの出ない問いに対する大きなヒントである、と改めて感じている。
(了)
小林秀雄の『本居宣長』には、我々現代人が忘れている言語の本来の力について、江戸時代の国学者たちの考え方が詳述されている。主軸は、第三十二章以降で描かれる荻生徂徠の言語観だ。本居宣長が熟読していた徂徠の代表作『論語徴』の、「陽貨第十七」の注釈にある「興」と「観」という二つの働きが、言葉の力の源泉であると言う。言葉は本来、人が物事に対峙したときに生じた心の動揺を、身振りや発声などで表現し認識する行為だった(第三十六章など)。その時点では言葉と意味とは分割されず表裏一体であるが、発明した当人以外の者には、言葉の形(肉声、身振り)とその意味とは別のものに見える。「興」は言葉に意味を結びつける力であり、「観」の力によって言葉から物の姿を受取る。つまり「興」によって言葉が成り、「観」によって伝達・認識されるということだ。このことが、第三十二章に次のように書かれている。
宣長が書写した「論語徴」の全文は、「詩之用」は、「興之功」「観之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。
徂徠が、「引レ譬連レ類」という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテ已マズ」と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、――「典常ヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、愈出デテ愈新タナリ。辟ヘバ繭ノ緒ヲ抽クガ如ク、諸ヲ燧ノ薪ニ傳クニ比ス」と徂徠は言っている。「観之功」の方も同様で、「得失ヲ考見スル」というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、「黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ」、「観トハ是ナリ」とある。
(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.126行目〜太字は引用者による、以下同)
「興之功」である「言語の本能としての、比喩の働き」は、「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」と小林秀雄は言う。「普通の意味での比喩」とは、「雪のように白い」とか、「鳥のように自由」など、「〜のように」と比喩であることを明示して物に準える表現方法のことだ。そのような「意識的に使用」される比喩とは違う、「本能としての」比喩の働きとは、どのようなものだろうか。
徂徠が採用した「引レ譬連レ類」(譬えを引いて類似したものを連ねて言う)という古注について、中国文学者の吉川幸次郎の著書『論語』に、「詩経」の例を引いた以下の解説がある。
古注に引く孔安国の「引譬連類」。それならば、比喩と連想による婉曲な、しかしそれだけに有効な伝達、ということになろう。「詩経」の詩がもつ比喩の要素は、二つの面から指摘される。一つは、歌謡そのものが比喩的表現に富むことであって、ことに多いのは、たとえば開巻第一の「関雎」の詩で、「関関たる雎鳩は、河の洲に在り」と、仲のよい礼儀ただしい鳥の様子が、そのつぎに「窈窕たる淑女は、君子の好き逑」と、主題が明示されるにさきだってある、というごとき表現である。この種の表現は、もっともしばしば「詩経」に見え、「詩経」に特有なものとして、「詩経」注釈家から、「興」、冒頭の暗喩、と呼ばれている。ここの「可以興」も、それと連絡するとすれば、比喩的な表現が、詩の特殊な効用として可能である、ということになる。
(筑摩書房刊吉川幸次郎全集 第四巻『論語』陽貨第十七p.565)
「興」が『詩経』に特有な、「主題が明示されるにさきだ」つ「冒頭の暗喩」である、とは具体的にどういうことか。同じく吉川幸次郎の『詩経国風』に一層詳しく、次のように書かれている。
「興」と呼ばれる一種の比喩の技法は、やはり「詩経」にのみ普遍であり、後世の詩には稀である。すなわち、ある主題を歌うにさきだち、歌わんとする主題と似た現象を、自然の中に見いだし、それによって歌いおこす技法、それが「興」である。「関雎」の第一章はその例であって、関関となかよくよびかわす雌雄の雎鳩の鳥が、河の中洲にいるということが、窈窕とものしずかな淑い女が、君き子の好き逑たるべき、その比喩として、まず歌われている。「桃夭」の詩の三章、またすべてそうである。ぎらぎらとかがやく桃の花、ふくれたその果実、ふさふさとしたその葉、すべては若く美しい花嫁の比喩として、まず歌われている。それは自然と人間との微妙な交響を、意識的に、あるいは意識せずして、指摘するものである。
こうした「興」の技法に対し、まっすぐに事がらをのべた部分は「賦」と呼ばれる。つみぐさをする女房が、「芣莒のくさを采り采る、薄か言れ之れを采る」といい、うれいをいだく貴婦人が、麦ばたけの中に車をはしらせて、「我れ其の野を行けば、芃芃たる其の麦」というのは、「賦」である。また単なる比喩は「比」と呼ばれる。わたしの心は洗濯しない着物のよう、「心の憂うるは、澣わざる衣の如し」というのは「比」である。「賦」と「比」と、前にのべた「興」、この三つの修辞法のいずれかに、「詩経」のすべての行は属するとされる。
(筑摩書房刊吉川幸次郎全集 第三巻『先秦篇』「詩経国風」解説 p.32)
ここで言われているように、比喩的な表現ではあるけれども「〜の如し」などとは言わない、普通の比喩ではないものが「興」と言われており、それには「意識せずして指摘する」ものも含まれているという。これは『本居宣長』第三十二章の太字部分で言われている「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」という言い方に通じるものだ。吉川氏も同様に「言語の本能としての比喩の働き」について書いていると言えるだろう。
上記二つの文章中に例があるように、『詩経』の「冒頭の暗喩」は、自然の風物(仲の良い鳥のつがい)を表す言葉が、人の世における物事(よい女性がよい男性と連れ合うこと)を表す言葉の前に置かれている。両者は「似たもの」であると直観的に捉えられており、これを「暗喩」と言い表すのは、『詩経』研究における慣例のようだ。「言語の本能としての比喩」が、通常の比喩ではないことを言い表す上で、「暗喩」という語はこのように使われている。
「言語の本能としての比喩」について考えるもうひとつの糸口として挙げられているのが、賀茂真淵の『冠辞考』だ。「興」についての詳しい記述の直後に、次のように触れられている。
扨て、ここで、真淵の「冠辞考」について書いたところを、思い出して貰ってもいいと思う。「冠辞考」は、宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究であった。宣長の思想に大きく影響したものであった。真淵の文から浮び上って来るものは、やはり徂徠の言語観である。真淵が冠辞の名の下に直面したのは、徂徠の言う、詩に於ける「興之功」に他ならなかった。
(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.15 11行目〜)
再読を促されている「真淵の『冠辞考』について書いたところ」は第十九章にあり、第三十二章の「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」と同じ意味合いで「メタフォーア(隠喩)」と言う語が使われる。第十九章には「興」という語は現れないが、「言語の本能としての比喩」は以下のように、万葉集においても見られる。
冠が頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。真淵の用語で言えば、「おこすことば」と「たすけことば」という別々のものが、互に相映じ、両者の脈絡は感じられるが、決して露わにではない。真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸をとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。
ところで、この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗な傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙を埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。
(第十九章 「小林秀雄全作品」第27集 p.21 98行目~)
ここで言われている「おこすことば」と「たすけことば」のあり方は、吉川幸次郎氏が『詩経』の「冒頭の暗喩」と言っているものと同じく、いずれも徂徠の言うところの「興」であり、小林秀雄はこのメタフォーアを「具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像」と言っている。「誰にも共通の知覚が求めたいという願い」があればこそ、誰にとってもわかりやすい物、目に見えたり耳に聞こえたりする物についての表現を借りて、古人達は胸の内を言葉にした、ということだ。学者である賀茂真淵や吉川幸次郎の記述よりさらに一歩踏み込み、古人の胸の内を推して「なぜこのような表現方法が生まれたのか」まで小林秀雄は考察しているのである。
暗喩は隠喩とほぼ同じ意味で使われる語であり、上の文章に「メタフォーア」の脚注として「隠喩。ある観念を表わすために、それに類似、共通した性質を示す別の観念を持つ言葉を用いることをいう」とある。意識的にせよ無意識的にせよ、「似ている」「共通する」と感じたものごとを、別の観念の表現と並べて用いるのが「言語の本能としての比喩」であり「興」なのだ。吉川氏の言葉で言えば「自然と人間との微妙な交響」が、「万葉集」の時代の人々にも「言語の意味体系の生長発展に、初動を与えた」。そればかりか、現代の散文で使われている語も「遠い昔のメタフォーアの残骸」で成り立っているのが「言語学の常識」である、と言われているが、これは例えば言語学者フンボルトの『言語と精神』に記述がある(注1)。どんな語も源泉には、「興」の力で生まれた感性的な言語像があったということだ。
「興」の力は、古代中国においても日本においても同じように働いていた。だからこそ、『論語徴』における徂徠の言語観と『冠辞考』における真淵の言語観は、他の点でも共通している。
「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、仇し語を本に冠ら」す、――調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、而も表現を求めて止まぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安から脱れようとするのは当たり前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であっても差支えあるまい。或いはこの何処からとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊の佐くる国」「言霊の幸ふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来れるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。
(第十九章 『小林秀雄全作品』第27集p.21 814行目〜)
なぜ言語において「よそほひ」の発生が必至であるのか。「私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じて」いる(上記p219)、つまりまず形を作ることで、「歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事にな」り、意味はあとからおのずと備わるということだ。「誰にも共通の知覚が求めたいという願い」が、類似していると感じられる物事、見えたり聞こえたり触れたりして感受できる物事を表す言葉をまず求める。例えば第十九章に登場する枕詞「あしびきの」を『枕詞辞典』(高科書店刊、1989年p20)で引いてみると、「万葉中期には、すでに原義が不明になっていて、当時の語源解釈からこのような文字(足引、足曳)を当てるようになったと推定される」と書かれているものの、「山はあえぎつつ足を曳いて登るからとか、山の裾の長く延えた義とかいう」とあり、運動感覚や視覚と結びついて想像されている。これは吉川氏の『論語』の解説で言われている「類似」よりも「連想」に該当するが、「直接感性に訴えて来る」という点は共通している。
第三十二章にあるように、『冠辞考』は「宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究」だったが、そこまで熟読した上で宣長はあらためて「冠辞」を「枕詞」と言い直している。第十九章の最後に「玉勝間」から引用されているのがそれだ。
「是を枕としもいふは、かしらにおく故と、たれも思ふめれど、さにはあらず。枕はかしらにおく物にはあらず。かしらをさゝゆるものにこそあれ。さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて、間のあきたる所を、さゝゆる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、明たるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも、そのでうにてぞ、いひそめけんかし」(八の巻)
(第十九章 「小林秀雄全作品」第27集 p.220 18行目~)
太字部分にあるように「物が浮いて、間のあいている所を、支える物」だから「まくら」ことばなのだ、と彼が言うのも、同じく徂徠の言う「興」の力が考えられていたから、と言えるだろう。「間のあきたる所」という宣長の言い方を、小林秀雄は二つ前の段落で「この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう」と言っている。その「裂け目」を埋め、「暗所」を明らめることで下支えするのが、類似や連想によって感性的な物と繋ぐ「言語の本能としての比喩」なのだ。徂徠自身はこのことを、「辟ヘバ繭ノ緒ヲ抽クガ如ク、諸ヲ燧ノ薪ニ傳クニ比ス(繭から糸を抽き出すように、薪に火がつくように)」と物に喩えていた。冒頭に引いた第三十二章のあとで、小林秀雄は次のように言う。
言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観に基いて、徂徠が、興観の功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、或は、これに耳を傾ける者に、如くものはなかろう。この事を念頭に置いて、興観の功の説明を締め括る、徂徠の言葉を読むべきだ、と私は思う。
詩人は「類ニ触レテ賦シ、従容トシテ以テ発ス」と、彼は言う。其処に、一旦、意味附けの端緒を摑めば、彼はもうこの緒を手離しはしないだろう。ただの記号に成り下った、ばらばらな単語も、その繭から抽き出す緒で、連結されれば、新たな意味の脈絡を生み、実物の味いを取戻す。こういう事を行う詩人のうちに入込んだ徂徠の発言が、「天下ノ事、皆ナ我レニ萃ル」という風な言い方になるのは、全く自然な事だと言ってよかろう。そういう言い方は、外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方に他ならないからである。
(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.13 14行目〜)
徂徠の「類ニ触レテ賦シ」という言葉にある「賦」とは、通常の「詩を作る」という意味とともに、吉川氏が「詩経国風」について言うところの「まっすぐに事がらをのべ」ることでもあるだろう。表現したい当の物事を言葉にする前に、類似している物事を「まっすぐに」述べることで「従容(ゆったり)トシテ」言葉を継ぐことができるのは、それが「意味附けの端緒」になってくれるからなのだ。
ここで言われている「歌うたう者」と「耳を傾ける者」との間で営まれる「言語生活」については、徂徠の言葉では「諷咏相ひ為す」、「唱酬相ひ承けて」という言い方で、「興」と「観」に続く「羣」と「怨」の注釈にある(注2太字部分)。この二つは、「興」と「観」の働きが言語生活にどのように作用するかを言った項で、少し後で小林秀雄は「健全な言語生活を営むものは、誰も、語る事が即ち語り合う事である事を承知している」とも書いている(第28集p.152行目〜)。徂徠がここで考えているのは人同士の対話のようだが、「興」によって見出された「新しい意味」が、「観」によって「物の姿を、心に映し出」す、この二つの働きが一人の身の上で起きることによって、「歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事にな」るのではないか。「興」によって言葉を生み出し、「観」によって自ら認識することで、歌におのずと意味が宿る、小林秀雄はこのことを「語る事が即ち語り合う事である」と言っているのではないだろうか。これは主に第三十五章以降で「人に聞する所、もつとも歌の本義」を主題として深められているので、稿を改めて考えたい。
注1:フンボルト『言語と精神』より
概念と音声という異質のものを結合するためには、音声と結びついている物体的音響を一応度外視し、単に表象そのものの前で結びつけるとしても、それでも、概念と音声とが出会うことのできるような第三者による媒介が必要となるのである。この媒介者は明らかに感性的な性質を持っている。理性には(そのヌンフトという部分をみれば分るように)受取る・考える(という動詞の名詞化)という表象が潜み、悟性には(シュタントというシュテーエンの名詞形が含まれていて)立っている・存続しているという表象が、花・開花には内なるものが外に向って湧き出すという表象がそれぞれ蔵されていることを思えば、媒介者が感性的なものであることは明らかになろう。【中略】
個々の言語の語を詳しく調べてみると、多くの細かい点においては例外があるにせよ、個々の言語の持つ関連性を貫いて束ねているさまざまな糸の筋目を認識し、その言語における普遍的な働き方を、大づかみな輪郭にすぎないにせよ、個性に即して示すことができる。そうすると、具体的な語から、いわば根幹となっている直観および感受へと上ってゆくという努力がなされることになる。つまり、そういう直観や感受に基づき、どんな言語においても、その言語に生気を与えている守護神とでもいうべき精神に従って、多くの個々の語の中で音声と概念とが媒介されていることになるのである。
(法政大学出版局刊『言語と精神−−カヴィ語研究序説』ヴィルヘルム・フォン・フンボルト p160 ()内は原注)
注2:荻生徂徠『論語徴』陽貨第十七 全文
子曰く、「小子何ぞ夫の詩を学ぶこと莫き。詩は以て興す可く、以て観す可く、以て羣す可く、以って怨す可し。之れを邇くしては父に事ふまつり、之れを遠くしては君に事ふまつる。多く鳥獣草木の名を識る」と。
「詩は以て興す可し」、孔安国曰く、「興は、譬へを引き類を連ぬ」と。「以って観す可し」、鄭玄曰く、「風俗の盛衰を観る」と(以上、古註)。後漢は前漢を去ること未だ久しからざれども、孔説は鄭の能く及ぶ所にあらず。何に況や朱子を乎。大氐詩は性情を道ひ、諷詠を主とし、類に触れて賦し、従容として以て発す。言は典則にあらず、旨は微婉に在り。繁繁雑雑、零零碎碎、大小具在し、左右原に逢ふ。ゆゑにその義窮まり無く、大いに它[他]経の比にあらず。然れどもその用は興と観とに在る已。興なる者は、その自ら取るに従ひ、展転して已まざる、是れなり。観なる者は、黙して之れを存し、情態の目に在る、是れなり。朱註の「志意を感発す」とは、観なり、興にあらざるなり。「得失を考見す」といふは、僅かにその是非の見耳、安ぞ以て「観」の義を尽くす可けん乎。凡そ諸々の政治風俗、世運の昇降、人物の情態、朝廷に在りては以て閭巷を知る可く、盛代に在りては以て衰世を識る可く、君子に在りては以て小人を識る可く、丈夫に在りては以て媍人[婦人]を識る可く、平常に在りては以て変乱を識るべく、天下の事、皆な我れに萃まる者は、「観」の功なり。『書』は聖賢の大訓為り、しかうして礼楽は乃ち徳の則なれども、苟くも詩之れが輔けを為すにあらずんば、則ち何を以て能く諸れを性情に体し周悉して遺さざらん哉。「興」以て諸れを取るに及びては、則ち或ひは正或ひは反、或ひは旁或ひは側、或ひは全或ひは支、或ひは比或ひは類、典常と為らず、「類に触れて以て長じ、引きて之れを伸ばし(易、繋辞上)、愈々出でて愈々新たなり。辟へば繭の緒を抽くが如く、諸れを燧の(火の)薪に傳くに比す。取ること我自りする者は天下に施す可し。是れ「興」の功なり。礼楽典誥は、教法渝はらず。若し詩以て之れが輔けを為すこと有らずんば、則ち何を以て能く事物に応酬して変化尽くること莫からん哉。此れ詩の用、全く是の二者に在るなり。「以て羣す可く、以って怨す可し」は、皆な詩を用ふるゆゑんの方なり。「羣」は、孔安国曰く、「群居相ひ切磋す」と。「怨」は、孔安国曰く、「上の政を怨刺す」と(以上、古註)。けだし此の二者は、皆な「興」「観」を以て之れを行ふ。事なきときは則ち群居して切磋す。諷咏相ひ為すときは、則ち義理窮まり無し。黙して之れを識るときは、則ち深く道に契ふ。此れ「羣」にあらず乎。事あるときは則ち「文を主として譎諫す」(詩、大序)。或ひは唱酬相ひ承けて以て之れを引く者は「興」なり。或ひは言はずして賦して以て之れを示す者は「観」なり。「言ふ者は罪なく、聞く者は怒らず」(詩、大序)。此れ「怨」にあらずや。朱註の「和して流れず、怨みて怒らず」は、皆な詩に関すること無し。「之れを邇くしては父に事へ、之れを遠くしては君に事ふ」も、亦た皆な「興」「観」「羣」「怨」を以て之を行ふ。「多く識る」といふに至りては、乃ち「その緒余」、旧註(朱註)之れを尽せり。
(平凡社刊『論語徴2』東洋文庫576陽貨第十七p.289〜291()内は原注、[]内は引用者注旧字体漢字は一部置き換え)
(了)