小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)四月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)四月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
春号の幕開けは、荻野徹さんの「巻頭劇場」からである。いつもの四人が話題にしているのは、本居宣長が「徂徠学の急所があると認め」て印写している孔子の言葉である。三百篇もの詩を、たんに暗誦することは「詩」を学ぶことではない、『詩』は言語の教えである、という考えが、(坂口注;荻生)徂徠の言葉を引きながら精しく述べられている件だ。たとえ難解ではあっても、ここに「本居宣長」の急所あり、と直観したかのように、四人の対話は急速に深まっていく。
*
「『本居宣長』自問自答」には、本多哲也さんと橋本明子さんが寄稿された。
本多さんが熟視したのは、宣長の文章から感じられる「うまく表現できないもどかしさ」についてである。いや、より正確に言えば、その「もどかしさ」に小林先生がいかに向き合ったのか、についてだ。先生が記している本文を丁寧に追っていくと、そこに「先生にとっての訓詁の根幹」が見えてきた。「もどかしさ」に向き合う先生の姿が見えてきた。
橋本さんは、第四十三章にある、宣長にとって「古事記」という「御典を読むとは、わが心を読むという事であった」という小林先生の言葉を熟視している。宣長は、三十五年間、その「御典」と毎日向き合った。彼は晩年、その心構えについて「うひ山ぶみ」に詳しく記している。しかしその言葉は、宣長の「感想」として片づけてしまえるほど、軽い言葉ではないことに、橋本さんは気付かされた。さらには、人口に膾炙している、あの、宣長が詠んだ歌の深意にも触れることができた。
*
今号から、本多哲也さんによる「先人の懐に入り込む——小林秀雄と丸山眞男をめぐって」と題した新連載が始まった。連載寄稿のきっかけとなった小林先生の言葉がある――「私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている」(「哲学」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)。この言葉を胸中に抱きつつ、本多さんはこれから、徂徠や宣長は言うまでもなく、丸山眞男氏や小林先生の懐にどのように入り込んでいくのか、興味が尽きない。乞うご期待の新連載である。
*
私たち「小林秀雄に学ぶ塾」では、小林先生が「本居宣長」の執筆に少なくとも十二年六ヶ月をかけたことに倣い、一年に全五十章の通読を十二回繰り返すという、螺旋的な学びの階段を少しずつ登ってきた。毎年、「本居宣長」のなかの熟視対象箇所を定めると、そこに何度も向き合い、所定の字数を前提に、池田雅延塾頭を介した小林先生への質問と自答を考え、整え、担当月に発表に立つ。さらには、池田塾頭からの助言を踏まえて、本誌への寄稿のための文章として磨き上げる、そんなサイクルを何度も繰り返してきたのだ。本年度は、いよいよその最後の一段を登る。
質問の事前検討や本誌寄稿のための磨き上げには相応の時間もかかるし、簡単には行かない。初学者であればなおさらだ。そんななか、本塾に途中参加した私自身にとって、力強い支えとなってきた、宣長が晩年に残した言葉がある。
「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、また暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」(「うひ山ぶみ」)
晩学で、実生活上の時間的余裕もそう多くは持てない身として、どれだけ助けられたことか知れない。もちろん、この文章の深意については、小林先生が「本居宣長補記Ⅰ」で詳しく記されている通りである。とにかくこの一年も、「倦ずおこたらずして、はげみつとむる」ことを肝に銘じ、いよいよ胸突き八丁となる最後の一段を登ることとしたい。
はたしてその先には、どのような光景が眼前に広がっているのであろうか。
*
杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)
三十八 あやしき言霊のさだまり
1
今回は、「本居宣長」第二十八章の結語部だが、次のように書き起されている。
――そういう次第で、宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼の「誦習」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理をのみ旨とせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習はし賜はむは、無用ごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……
「古事記」の編修を発意された天武天皇は、諸氏族が保有している帝紀(歴代天皇の系譜を主とした記録)や旧辞(神話、伝説、歌謡などを中心とした伝承)を、「人となり聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す」と評判だった稗田阿礼に「誦み習はしめたまひき」と「古事記」の「序」に記されているが、この稗田阿礼の「誦習」を宣長は非常に大事な事と見た。宣長のこの着眼は何故にであったかを小林氏が言う、
――ここで言われている「義理」とは、何が記されているかという記録の内容の意味で、この内容を旨とする仕事なら、「日本書紀」の場合のように、古記録の編纂で事は足りた筈だが、同じ時期に行われた「古事記」という修史の仕事では、その旨とするところが、内容よりも表現にあったのであり、その為に、阿礼の起用が、どうしても必要になった。宣長の言い方で言えば、阿礼の仕事も、「漢文の旧記に本づいた」のだが、「直に書より書にかきうつしては、本の漢文のふり離れがた」いので、「語のふりを、此間の古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ」と言うのである。……
「古事記」は、歴史書として史実に忠実であるべきこと、言うまでもないが、それ以上に天武天皇が大事と見たのは、漢字、漢文の渡来と普及で消滅の危機に瀕していた日本古来の話し言葉の保存だった。当時すでに、諸氏族が保有している帝紀や旧辞もその多くが漢字、漢文で記されており、それをそのまま写し取ったのでは漢字、漢文の語意とふりにひきずられて日本の歴史ではなくなってしまう、歴史は須らくその土地の言葉で残されなければならない、そこで天皇は家々から提出させた漢文の帝紀や旧辞を天皇自ら古来の日本語に戻し、さらにそれらを天皇自ら音読して、日本語のふりまでもをそっくりそのまま稗田阿礼に記憶させたのだと宣長は言うのである。
――宣長は、稗田阿礼が天鈿女命の後である事に注意しているが、篤胤のように、阿礼という舎人は「女舎人」である、とは考えなかった。阿礼女性説は、柳田國男氏にあっては、非常に強い主張(「妹の力」稗田阿礼)となっている。稗田氏は、天鈿女命を祖とする語部猿女君の分派であり、代々女性を主とする家柄であった事が、確信を以て説かれる。宣長の言うように(「古事記伝」三十三之巻)、舎人が男でなければならぬ理由はない。「阿礼」は、「有れ」であり、「御生れ」、即ち神の出現の意味だ。「阿礼」という名前からして、神懸りの巫女を指している、と言う。……
稗田家は女系だった、阿礼自身が女性だった、とする柳田國男の説もあるというのである。天鈿女命は天照大神が天の岩屋に隠れたとき、岩屋の前で踊って大神を誘い出した女神である。
2
小林氏は、続けて言う、
――折口信夫氏となると、「古事記」を、「口承文芸の台本」(「上世日本の文学」)とまで呼んでいる。語部の力を無視して、わが国の文学の発生や成長は考えられない、という折口氏の文学の思想には、あらがえぬものがあるだろう。少くとも、極く素直な考えで、巧まれた説ではない。折口氏が推し進めたのは、わが国の文学の始まりを考える上で目安になるものは、祝詞と宣命であるという宣長の考えである。……
次いで言う、
――或る纏った詞が、社会の一部の人々の間にでも、伝承され、保持されて行く為には、その詞にそれだけの価値、言わば威力が備っていなければならない。その点で、折口氏も亦、先ず言霊が信じられていなければ、文学の発生など、まるで考えられもしない、と見ているのである。言霊の力が一番強く発揮されるのは、祭儀が必要とする詞に於てであり、毎年の祭にとなえられる一定の呪詞を、失わぬよう、乱さぬよう、口から口へと熱意を以て、守り伝えるというところに、村々の生活秩序のかなめがあった。政治の中心があった。この祭りごとから離れられぬ詞章が、何時からあったか、誰も知るものはなかったが、古代の人々にとって、わが村の初めは、世の初めであったろうし、世の初めとは、という問いに答えるものは、天から神々が降って来て、言葉が下され、これに応じて、神々に申し上げる言葉がとなえられるところにしかなかったであろう。折口氏の説は詳しいが、此処では略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……
小林氏の筆致は明快である、したがってこの件も文意をわざわざ解読するには及ぶまいが、一点、注解を加えておきたい文言はある、それは「折口氏の説は詳しいが、此処では略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。」と言われている中の「祝詞」と「宣命」についてである。今日、一般には「祝詞」は神に向かって唱える言葉、「宣命」は天皇の命を伝える文書、と解されているから、折口氏の説は「祝詞」に関しては逆であり、「宣命」に関しては「天皇の命を伝える」と「神に申し上げる」の違いがある。折口氏がそこを取り違えたとは考えられず、では小林氏が読み違えたかと推量してみても落ち着かない、ならばと小林氏が示している原典、折口氏の「上世日本の文学」にあたってみると、――上代文学史として取り扱う祝詞、すなわち口頭の古い祝詞について言うと、祝詞に対して寿詞があり、祝詞は神が天降って「お前たちにかくかくの事を聞かせるぞ、承れ」というものであり、「承知いたしました、貴方さまもどうぞご健康で」と言うのが寿詞であるが、祭事の場での祝詞と寿詞の掛け合いから物語が発生し、発達し、そのうち寿詞という言葉は忘れ去られて寿詞も祝詞ということになった、……と言われていて、そこから祝詞は「神に向かって唱える言葉」という、本来は寿詞の意味合で定着したらしいのである。
そして宣命だが、「宣命」という漢字は「のりと」という日本語に宛てたもので、宣命も実は「のりと」に含まれていたが、否むしろ「のりと」の本体であったが、そういう「のりと」から「宣命」「祝詞」の二つの熟語が出来たと見るべきであると折口氏は言っている。だとすれば「宣命」も「寿詞」の語感を帯び、神に申し上げる詞となって定着したのだろう。
3
今一度、引用を繰り返すが、小林氏は、
――折口氏の説は詳しいが、此処では略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……
と言った後に、
――「昔の人の考え方で行くと、歴史は、人々の生活を保証してくれるもので、其歴史を語り、伝承を続けて行くと、村の生活が正しく、良くなって行くのであった。其語り伝えられた歴史の中で、最よく人々の間に守り続けられて行ったのは、神の歴史を説いたものである。現在残って居るもので、一番神の歴史に近いのは、祝詞及び宣命である」(「上世日本の文学」)と折口氏は言う。……
と言い、続けて、
――宣長は、祝詞の研究では、「出雲国造神寿後釈」「大祓詞後釈」と「後釈」の名があるように、真淵の仕事を受けて、これを整備し、発展させたのだが、宣命の研究は、宣長に始まるので、これが、晩年の「続紀歴朝詔詞解」の名著になって、完成した。だが、既に書いたように、宣長が宣命に着目したのは大変早いので、「古事記伝」の仕事の準備中、真淵に書送っていた質疑が、「万葉再問」を終え、直ちに「続紀宣命」の質疑に移ったのは、明和五年の事であった。奈良朝以前の古言を現した文詞は、延喜式にのった祝詞の古いものを除いては、「続紀」が伝える宣命の他にはない、と宣長は見ていたのだが、「万葉」では、歌の句調にはばまれ、「記紀」では、漢文のふりに制せられて、現れ難かった助辞が、祝詞、宣命には、はっきりと現れている、という宣長の発見が、真淵を驚かした。宣長の研究の眼目は、初めから助辞の問題にあった。「詞の玉緒」で、「万葉」の古言から「新古今」の雅言にわたり、広く詠歌の作例が検討されて、「てにをは」には、係り結びに関する法則的な「とゝのへ」、或は「格」と言うべきものがある事が、説かれたについても、既に書いた。
宣長は、これを、「いともあやしき言霊のさだまり」と呼んだ。国語に、この独特の基本的構造があればこそ、国語はこれに乗じて、われわれの間を結び、「いきほひ」を得、「はたらき」を得て生きるのである、宣長はそう考えていた。「古事記伝」の「訓法の事」のなかには、本文中にある助字の種類が悉くあげられ、くわしく説かれているが、漢文風の文体のうちに埋没した助字を、どう訓むかは、古言の世界に入る鍵であった。それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。「歴朝詔詞解」から引こうか、――「そもそもこれらのみは、漢文にはしるさで、然カ語のまゝにしるしける故は、歌はさらにもいはず、祝詞も、神に申し、宣命も、百官天ノ下ノ公民に、宣聞しむる物にしあれば、神又人の聞て、心にしめて感くべく、其詞に文をなして、美麗く作れるものにして、一もじも、読ミたがへては有ルべからざるが故に、尋常の事のごとく、漢文ざまには書キがたければ也」――文字を知らぬ昔の人々が、唱え言葉や語り言葉のうちに、どのような情操を、長い時をかけ、細心にはぐくんで来たか。そういう事について、文字に馴れ切って了った教養人達は、どうして、こうも鈍感に無関心なのであろうか。宣長は、この感情を隠してはいないのである。……
4
今回は、ここまでとする。私は今回、
――宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼の「誦習」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理をのみ旨とせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習はし賜はむは、無用ごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……
という小林氏の文章の引用から始めたが、最後が、
――それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。……
という引用で終えることになるとは思っていなかった。しかしこうしていざ終ろうとしている今、ある種の感慨を覚えてもいる。私は当初、「いともあやしき言霊のさだまり」を今回の表題として第二十四章にも遡り、宣長のテニヲハ研究にわずかなりとも立ち入るつもりでいた。ところが、第二十八章の終盤に至って「いともあやしき言霊のさだまり」という言葉に再会したとき、宣長は三十五歳の年から毎日「古事記」と向き合ったが、テニヲハ研究の書「詞の玉緒」は四十二歳の年までに成ったと言われるから、その頃以後の宣長は、毎日「古事記」に見入って「いともあやしき言霊のさだまり」と何度も呟いたのではないだろうかという思いに駆られたのだ。だからこそ宣長は、稗田阿礼の「誦習」をいっそう大事な事と見たにちがいないと思ったのである。
(了)
八、肥後牢人の「肥後道記」
西山宗因とは、第二章でも触れた通り、ともに元禄の文豪とも呼ばれた松尾芭蕉や井原西鶴が敬愛した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師である。宗因(諱は豊一)は、加藤清正の家臣、西山次郎左衛門の子として、慶長十年(一六〇五)に熊本で生まれた。慶長十年と言えば、関ヶ原の戦いも終結して五年、清正も、天草など一部を除く肥後全土を領有し、「肥後守」の官途も得て順風満帆、熊本にも平穏が訪れていた頃である。
その後、慶長十六年(一六一一)に清正が没し、翌年には息子の虎藤が加藤忠広として正式な相続を許された。ほぼ時を同じくして、契沖の祖父下川又左衛門とともに、清正と忠広を支えてきた加藤右馬允正方が、阿蘇内牧城代から八代城代に異動した。その約七年後の元和五年(一六一九)、十五歳の宗因は正方の側近として仕えることになる。
肥後の国難の極みともいえる、加藤家の改易の処分が下されたのが、それから十三年後の寛永九年(一六三二)である。同年五月には、忠広と正方は江戸に召喚された。宗因は、熊本に引き返して城を受け取る幕府上使を迎える準備を担当した正方に同行し、慌ただしい時間を過ごしたものと思われる。城の明け渡し後も、ただちに正方に従って上洛、さらに江戸に下ったあと、翌十年(一六三三)の七月頃に京都へ戻った。
しかし、「猶、住みな(慣)れし国の事はわすれ(忘)れがたく、親はらから(同胞)恋しき人おほ(多)くて」(以下()は坂口注)、城主も替わってしまった熊本に帰郷する。しかし、家族と再会を果たしても、前年からの一連の出来事について、交わす言葉も見つからなかった…… 老親や旧友には慰留されたものの、「行末とてもさだ(定)めたる事もなけれど」、京都では人目をはばかることもなかろうと、ついに宗因は、故郷を出て再上京することを決意、九月下旬に出発した。
その道中を記した紀行文が遺されている。「肥後道記」(*1、以下「道記」)である。「道記」については、専門書や論文のなかでは一部を抜粋するかたちで紹介されているものの、一般書でその内容や注釈を概括的に目にする機会はほとんどないため、ここでは少し詳しく本文を見て行きたい。少々長くなるが、読者の皆さんには、ぜひ当時の宗因の心持ちになって、もしくは宗因の旅に同行する立場で、ともに読み進めていただければと思う。
まず、冒頭は「飛鳥川の渕瀬常ならぬ世は、今更おどろくべきにしもあらねど」という前置きから始まる。この文章は、「古今和歌集」(以下、「古今集」)の以下の歌が背景にあるようだ。
世の中は なにか常なる あすか川 昨日の淵ぞ 今日は瀬となる
(よみ人しらず 巻第十八、雑歌下 九三三)
飛鳥川は河道が不安定なため、常ならぬことを現すものとして歌われてきたように、宗因にとっても、今般の改易の事態はあまりにも急襲であった。それは、寛永九年五月二十九日に改易決定、六月四日には配流の地、庄内に向けて出立した主君の忠広にとっては、なおさらのことであり、他の事案と比べても「かかるとみ(頓)の事はな(無)くやありけむ」(こんなに急なことは例がないだろう)と宗因は嘆いている。
そして前述の通り、苦渋の決断の末、家族や友人からの慰留を断ち京都へ向かった。彼はその時の心持ちを、このように記している。
「道すがらも涙にくれまど(暗れ惑)ひて、かへり(顧)みる宿の梢もいとどしく、朝霧ひまなく立ち渡りて……」
ここにある「宿の梢」という表現は、太宰府への左遷が決定した菅原道真が、道中、山崎という場所で出家した後、都に残してきた妻に向けて詠んだ歌にも使われていた言葉である。
君が住む 宿の梢を ゆくゆくと 隠るるまでも 返り見しはや
(「大鏡」)
道真は、出立後の道すがら、妻が住む家の梢が隠れて見えなくなるまで、何度も振り返り見た。それでは宗因は、何を返り見たのか? 熊本の城である。
「此城郭をきづ(築)きて、玉の台にみが(磨)きしつらひ給ひし時は、いつの世までも我御すゑのみとこそおぼし置けめど、わづか二代にしてかく引かへうつろひ行さま、夢とやいはむ、うつつとやいはむ」。
「古今集」にある、壬生忠岑の歌が思い出される。
あひ知れりける人の見罷りにける時によめる
寝るがうちに 見るをのみやは 夢と言はむ はかなき世をも 現とは見ず
(巻第十六、哀傷歌、八三五)
正方の側近として見聞きしてきた、華やか行事の数々も脳裏をよぎる。
「そのかみ、栄花のさか(盛)りにいまして、春秋の時につけたる遊興などまのあたり見聞きし事どもなれば、なみだもをさへがたし」。
続けて、こういう歌を詠んだ。
思出る 見し世の花は 目の前の 木の葉ともろき なみだなりけり
古人が詠んだ、こういう歌もあった。
木の葉散る しぐれ(時雨)やまが(紛)ふ わが袖に もろき涙の 色とみるまで
(右衛門督通具「新古今和歌集」、五六〇)
あの栄花は、今や紅涙となって、わが袖を濡らしている……
思いがけず自身を急襲した境遇の辛さに耐えられず、もう一首詠んだ。
か(掛)けざりし 今のつらさに さだめなき 世は又たの(恃)む 行末のそら
懐かしい八代城も最後に一目と思ったが、精進してきた歌の道も、まだ一人前ではない身で、うろうろしている様を人に見られるのも憚られ、引き返した。
「八代の城は、としごろ(年頃)たの(恃)みしかげにてすみなれたる所なれば、名残りに見にまかりたくは侍れど、さすがに時にあひはな(華)やかなるふるま(振舞)ひこそせざりしかど、あたりちかくつか(仕)へ、こと更つらね歌の道にまつ(纏)はされたる身の、おとろへものげな(物気無)きあしもとにて、さまよひみ(見)られんよりもとおもひ返す。ことにおもひ出るは、ゆふば川、悟真寺、白木社の御前の山也。
春の山 秋のもみぢに しめゆひ(染木綿)し かげしも今は たれならすらん」。
鳥津亮二氏によれば、ここで「八代の城」とは正方が築城した八代城(松江城)、「ゆうは(夕葉)川」は球磨川、「悟真寺」は征西将軍懐良親王(後醍醐天皇の皇子)を供養する曹洞宗の名刹、「白木社」は妙見信仰と華やかな祭礼で有名な妙見社(現八代神社)、その「御前の山」とはかつて相良氏時代の八代城(古麓城)が築かれた山々を指しており、いずれも八代の自然と歴史を象徴する景観である(「西山宗因と肥後八代・加藤家」、「宗因から芭蕉へ」所収、八木書店)。
九月二十五日の夜には、肥後の最北、筑後との国境に位置する南関に着いた。以前訪れた、水都、筑後柳川の町のことが思い出された。
「柳川と云所に、さることありて二度三たびまかりかよひし時は、里のおさなどこよろぎの(小余綾の、「いそぎ」にかかる枕詞)いそ(急)ぎありきて、あるじまうけ(饗設)などとりまかなひ、さまざま興有しことども、今のやうにおぼえて、
いで我を 関の関守 とがむなよ むかしをしのぶ 袖の涙ぞ」
野間光辰氏によれば、文中にある「さること」とは、容易ならざる「こと」であった。元和六年(一六二〇)八月、筑後の領主田中忠政が逝去、後嗣がないため領地没収となった。この時、隣境する佐賀・熊本両藩は番勢を差し遣わすよう命ぜられ、加藤家からは正方が、相当の人数を具して出張したのである(「宗因と正方」、「談林叢談」所収、岩波書店)。宗因もその一員となったようだが、正方の側近となって二年目の出来事であり、記憶も鮮明だったのだろう。
二十七日の夜には、筑前の飯塚の宿で粗食をとり、歌を詠んだ。
ふるさとを こふるなみだに ほとび(潤)けり 椎の葉にもる いゐづか(飯塚)の宿
飯塚という地名に掛詞の着想を得たのだろう。「伊勢物語」の九段、有名な三河八橋の件にある、「みな人かれいひ(乾飯)の上に涙落してほとびにけり」という表現を使っている。ちなみに、「椎の葉にもる」という表現は、皇太子中大兄皇子らにより謀反の濡れ衣を着せられた有間皇子が、囚われ紀伊に護送される途中に詠んだ歌にある。
家なれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(「万葉集」巻二、挽歌、一四二)
有間皇子ではないが、道中の宗因は眠れぬ夜を過ごした。
「夜更けぬれば、時雨あらあら(荒々)しうして、いとどしくね(寝)られぬままに、き(来)し方行さきおもひつづくる中にも、とし老たる親のことを思ひて、さらぬわかれはなくもがなと、諸天にあふぎて、
人の子の いのるよはひ(齢)や 霜の松
住みなれし 草のいほりを 思出る おりあはれなる 小夜時雨かな
親の次に思い出したのは、幼児の頃から和歌の手ほどきを受けた、熊本釈将寺の豪信僧都の面影だった。
「釈将寺豪信僧都は、吾あげまき(総角)のころよりなにはづ(難波津、幼児が手習の初めに学んだ歌、*2)のことの葉をもをしへ給ひて、師弟のむつ(睦)び年久しく侍れば、別の時も、後会頼りがたしとおもへるけしき(気色)のわす(忘)れがたくて、
老いぬれば 是やかぎりと 歎きける 人の別れぞ ことにかなしき」。
野間氏によれば、慶長十七年(一六一二)、宗因は、八歳入学の古例に従って、釈将寺に寺入りして、僧都から和歌を学んだものと思われる。岩立山一乗院釈将寺は、天台宗比叡山正覚院の末寺、法印権大阿闍梨豪信大和尚(寛永十二年寂)が開山、その後明治にいたって廃寺となった。現在の、熊本市西区京町台地にある九州森林管理局(旧、熊本営林局)の辺りと推定される。近くには、幼い宗因が息を切らしつつ登ったであろう細い坂道があって、今や、釈将寺坂という名称だけが当時の名残を感じさせる(*3)。
二十九日には、関門海峡を渡り、赤間関に着いた。これからは海路となるため、順風を待つこと二、三日。その時間を使って、源氏と平家の壇ノ浦の戦いに敗れ、平清盛の妻、二位殿とともに入水した幼帝安徳天皇が祀られた阿弥陀寺(現、赤間神宮)を参拝した。「雲上の龍、下って海底の魚とならせ給ふ」という「平家物語」(巻第十一、早鞆)の一節を思い出し、「感涙肝に銘じ、つたなき詞をつづりて、いともかしこき御前に廻向し奉る。
あら(荒)かりし 波のさはぎや 聞人の 代々のなみだの 海と成らん
散失ぬ 名を聞あとの もみぢかな」。
なんとか順風到来、十月三日に船出ができた。
「神無月三日、船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、こなたの山のふもとに社頭あり。……四日、にはか(俄)に風おこり、波あれたり。五日、六日、同じ風なれば、おなじみなと(湊)にあり」。
陸に降りてみると、松の木陰にこじんまりとした小庵がある。菊やりんどうが植えてあり、趣きがある。年老いた法師が住んでいて、案内されるがまま中にお邪魔した。「五柳先生(陶淵明)の閑居のようですね」と申し上げると、「そうではありません。花々を仏さまに差し上げたいだけで……」というふうに語り合った。「和歌や連歌を嗜まれるなら、忘れ形見にひとつ」と所望されたので、こう詠んだ。
よりてこそ それとしら菊 磯の波
翌日は天候もよく出帆となった。老僧は、おぼつかない足どりで海辺まで出てきてくれて、船が遠ざかるまで、しっかりと見送ってくれた。その時の心持ちを、宗因はこのように述懐している。かの老人はどんな経緯があって、このような場所で世捨て人として暮らしているのだろうか……立ち寄ってみたからこそ、思いもかけず、渚に近い小庵で美しい白菊を眼にすることができた。もちろん、その花を丹精込めて育てている老法師にも。
七日の昼頃、釣り船があったので、釣り人の爺さんに声をかけ、釣果を見せてもらった。見たことのない魚ばかりで、あれやこれや言っていると、爺さんは代金を支払うのが遅いことに腹を立て、「もう買ってもらわなくてもいい!」などと怒っている。そこでこう詠んだ。
釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いか計せん 魚のあたひ(値)ぞ
その後、三原から尾道を通る。当時も酒蔵が多い場所だったようだ。波穏やかな海域でもあり、宗因の気持ちも少しは緩んだのだろうか。
をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人
同夜には、当時から「潮待ちの湊」として栄えていた鞆の浦に着き、順風を待つ。
「観音堂の鐘の声、泉水島の松風、心すごくきこえて、ねられぬままにおきゐつつみれば、あま(海人)のいさ(漁)り火しろ(白)う霜は天に満て、楓橋の夜泊おもひやらるる夜のさま也。
波をやく 漁火寒き 入江かな」
夜更けに微睡んでいると、夢中なのか、故郷のことを見ているような心持になった。
「時雨の苫打音におどろかされて名残かなしく、ものをつくづくとおもふに、故郷に母あり、秋風涙といふ旧詩をふと思出て、なみだも時雨とともにふりまさりて、
故郷に とま打つ雨は ならひ(冬季に吹く寒風)にき いたくなか(掛)けそ あら磯のなみ
さらぬだに 旅はねぬ夜の 時雨哉」
ここで「秋風涙といふ旧詩」とは、我が国に漂着した迂陵島(鬱陵島)の異国人に代わり、源為憲(*4)が作ったという漢詩で、故鄕有母秋風涙(故郷に母有り秋風(しうふう)の涙)という文言がある。
夜中に船出し、朝になると、あちこちの岩に松が生えていて、絵師に見せたいほどの光景が広がった。
「浦の苫屋より、煙のほそ(細)う立のぼりたるもおかし。釣の翁、あまの子どもの何事にかあらん、聞もしらぬことさへづりて、かいつもの(貝つ物)ひろ(拾)ひて行帰るさまも、所に(似)つけたる見もの也。う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさ(慰)む事はおほかれ」。
欲を言えば、こんなときこそ同行の友がいてくれたら、とも思う。
松を見ば 霜のしら洲の 渚哉
そういう人たちがいてくれたら、この発句に脇句を考えてくれ、とか、第三句もぜひ……などと言い合うところなのだが、仕方がないので、自ら脇句と第三を付けた。
なみの立居に 千鳥なく声
あま衣 うら風さむみ 舟よせて
ちなみに、連歌や俳諧では、連句の場合、発端の句を五・七・五で詠み「発句」と呼ぶ。その発句に連ねて七・七で詠むのが「脇句」であり、体言の漢字留めとすることが多い。さらに発句と脇句に連ねるのが「第三」であり、第四句以降の「平句」につながるよう助詞留めがよいとされている(ここでは「て留め」)。なお、俳諧では、その後の発展に伴い、この三句の付け方の違いが変化していったり、発句だけが独立して詠まれることも多くなる。
九日には、室の津の湊に着いた。美しい月に促されるように、明神(賀茂神社)に参詣すると、拝殿のそばに旅人らしい法師がいた。
「いづくよりいづくへ行人ぞとと(問)はれしかば、
人とはば そもそも是は 九州の 肥後牢人の わぶ(侘)と答えん
とおもへど、はじめたる人に歌よみかけんもいかがにて、ただにし(西)国より京へのぼる也とこたふ」。
今度は、こちらから「あなた様はどちらへ」と聞いてみると、自分は山法師で因幡に下ったのち、都に戻るところだと答えた。仮に自分(宗因)が歌で答えていたとしたら、このような返歌が欲しかったところだと、心のうちで詠んだ。
立別 いなば(因幡・去なばを掛ける)の山の 畑におふる ひえ(稗・日枝を掛ける)坂もとと きかばたづねん
十日は、播磨灘を東へ進む。高砂を過ぎると、明石の浦が見えてきた。さすがに名の通った磯の風情の見事さは、言語に絶する。柿本人麻呂が詠んだ光景そのものだった。
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れゆく 船をしぞ思う
(巻第九、羇旅歌、四〇九)
ここまで来ると、「源氏物語」に描かれた情景も眼に浮かぶ。明石の入道が、高潮を恐れて、娘を住まわせていた「岡部の宿」もあの辺りにあったのかと想像をふくらませてみた。
「かの入道のおこなひつとめたるすみかも、かの見ゆる岡べにやと、さまざま心とまる浦のけしき也。若紫の巻に、はりま(播磨)のあかしのうら(明石の浦)こそ猶ことに侍れ、なにのいたりふかきくま(至り深き隈)はなけれども、ただ海のおもて(面)を見わたしたるほど、こと(異)所にに(似)ずゆほびかなる所に侍るとかける紫式部が筆の海に、あまの小舟うかびたるをみて、
目にさはる 物こそなけれ あかし潟 あまの釣する 小舟ならでは
月の時に みぬをあかしの うらみ哉」。
続いて、須磨を通過する。この場所で、都から遠ざかっていた在原業平や、十五夜の宵に都を思う源氏の君によって詠われた歌を思い出し、袖を濡らしてしまった。
田村の御時に、事にあたりて、摂津国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内につかわしける
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ
(在原業平朝臣、巻第十八、雑歌下、九六二)
見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども
(「須磨」、「源氏物語」)
敦盛塚が近づいてきた。ここは、十七歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって御首掻かれた場所である(「平家物語」巻第九「一の谷」)。直実はこれに発心し、出家したと言われている。わずかに卒塔婆だけが見える。
「さしも優なる若武者の、此渚に身をを(終)はりけるよと、哀もすくなからず。まことや、直実がたけきもののふごころ(猛き武士心)に、たちまち悪念をひるがへして讃仏乗の因となせる、有がたき道心かなと、結縁もせまほしくて、
苔の下の 霜にうづまぬ なぎさ哉」。
十二日には、ようやく難波に着いた。
「入江に舟よせておりぬ。江村夕照を打ながめて、心ある人に見せまほしく、沢のほとりをうそぶきありくに、西行法しの夢なれやといひし、あしのかれ葉のなみよるを見て、
ながめすてて 夢と成りにし ことのはを なにはのあしに 残すうら風」。
西行は、こう詠んでいた。
津の国の 難波の春は 夢なれや あしの枯れ葉に 風渡るなり
(「新古今和歌集」冬)
十四日、夜が明けてから、川船で江口、鳥飼という付近を遡行する。
「紀貫之、土左の任のは(果)ててのぼる道の日記に、よこ(横)ほれる山の見ゆるとかけるもあの山にや、とながめやりて行に、ほどなく男山のふもとを過る」。
ここで宗因は、貫之と同じように淀川を遡行しており、「土佐日記」の記述を思い出している。いや、私には、この「道記」そのものが、「土佐日記」をまざまざと想起させる。まず「土佐日記」は、五十五日分の記事が日付順に収められており、「形態的には日次記である漢文日記を踏まえたもの」(*5)と言われているが、「道記」も同様である。第二に、日記文学と歌が一体化している「旅日記風の歌語り」(*6)という点でも共通している。第三に、十月三日の段に「船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、……」という記述があるが、「土佐日記」にある「楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」という語勢と共鳴する。第四に、これが最も重要なことであるが、作品の背景にある作者の心持ちに思いを致してみたい。
貫之は、任地の土佐で、連れて行った女児を亡くした。さらにはその任期中、最大の庇護者であった藤原兼輔(紫式部の曽祖父)、「古今集」の編纂を命じられた醍醐天皇、兼輔の母、歌合せで世話になった宇多天皇、そして、もう一人の庇護者であった藤原定方を立て続けに亡くしていた。さらには、帰京後の官途も定まっていないという、大きな人生の不如意に直面する中で「土佐日記」を書き上げたのである(*7)。一方、宗因については、言わずもがなであろう。
少々脇道にそれたので、終幕に近づいてきた宗因の旅に戻って先に進めよう。
十四日には、京都に入った。
「かくてとしごろたのみたる人、今は世の望もなし、年の残りもいくばくならじとて、かざりをもおろし、しもつかたの堀河法花三昧おこなふ寺あり。その寺の林下にやぶれたる風の庵りをむすばれしに、予も又かたはらちかき夕顔の小家をしつらひて、ゑみの眉ひらけぬ有さまにてぞ侍る也」。
「としごろたのみたる人」とは、長年仕えた加藤正方、改め加藤風庵のことである。風庵は、一足はやく京都堀河六条の本圀寺の塔頭了覚院に隠棲していた。ちなみに「ゑみの眉ひらけぬ」というのは、「源氏物語」の「夕顔」の中で、源氏の君が訪問先の隣家の夕顔の花に見とれている場面で、「白き花ぞ、おのれひとり笑の眉ひらけたる」(真白い花がわれひとり快(こころよ)げに咲き匂っている)(*8)と言う言葉を逆手に取ったものだ。心配事ばかりで心休まらぬと言いたいのである。
続けて、宗因はこのように言う。
「世中はいづくかさしてといへる古歌に、よくもかな(適)へる身かな。
くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)」
ここで「世中はいづくかさしてといへる古歌」とは、「古今集」にある次の歌である。
世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる
(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)
たとえ野であれ山であれ、行きどまった所をわが住処と定めよう、という心境を、宗因も自らのものとしていたのであろう。
一方「倭文の苧環」とは、古代の質素な倭文織りの糸巻のことを言い、繰り返し糸を巻き付けることから、「繰返し」「賤し」などと縁の深い言葉である。あの忌まわしい事件が起きてからというもの、非情な世の中を何度憂いてみたことか、いや、所詮賤しい身であればこそ、何度でも立ち上がってみせよう。
私は、彼が道記の最後に詠んだ歌に、弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをえなかった。
(*1)「西山宗因全集」第四巻所収、八木書店。小宮豊隆氏は「道記」を「飛鳥川」と呼んでいる(「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」(岩波書店)所収)
(*2)王仁(わに)が仁徳天皇に奉ったと伝わる、「古今集」仮名序にある「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という歌。
(*3)昭和三十四年に発表された野間氏の論文(「西山宗因」、「談林叢談」所収、岩波書店)によれば、郷土史家の豊田幸吉氏の調査によって判明したこととして、営林局の敷地の南北済に歴代住持の墓碑が残存するとのことだが、現時点では確認できていない。
(*4)?~寛弘八年(一〇一一)
(*5)西山秀人「土佐日記」解説、角川ソフィア文庫
(*6)木村正中「土佐日記 貫之集」解説、新潮日本古典集成
(*7)坂口慶樹「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ――紀貫之の『実験』」、本誌2024年冬号所収
(*8)円地文子訳「源氏物語」巻一、新潮文庫
【参考文献】
・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)
・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ――西山宗因生誕四百年記念」八木書店
・野間光辰「談林叢談」岩波書店
・伊藤博「萬葉集注釈」集英社
(つづく)
【はじめに】
小林秀雄と丸山眞男と言えば、それぞれ「無常という事」、「『である』ことと『する』こと」という高校で学ぶ国語の定番教材の筆者であり、近代日本を代表すると言える人物である。と、つまらない紹介から始めても仕方がないのだが、実のところ私が両氏を知ったのは、高校時代の国語の授業だった。ちょうど十年前のことである。大学受験を目指す多くの高校生の一人として、さまざまな文章を読み、知識の詰め込みに勤しんでいた青年の脳に、この二作は、明らかに異質な刺激をもたらした。それは一言で言えば、感動の体験だったということだが、それならば私は何に感動したのか。ここで、あの表現が素晴らしかった、とか、あの論理に感嘆した、とか、言おうと思えば言えるのだろうが、それを言って何になるのか、という思いが、余計な言語化をためらわせる。要は、単に次のように言ってしまいたい。ただ、読むというより見つめるように作品に触れ、文章の姿に圧倒された体験があった。そういう体験が、小林秀雄と丸山眞男によって与えられたのである。
私は、小林秀雄に学ぶ塾、その中でも山の上の家の塾に入って二年が経った。池田雅延塾頭が主宰される「本居宣長」精読十二年計画は、途中からではあるが参加させていただき、いよいよ令和六年度の一年間を残すのみとなった。塾生として、「本居宣長」の精読、熟読はこれからも欠かせない。しかし、塾での学びとは別に、小林先生と丸山眞男氏の二人について、まとまった論考を書きたいという思いが強まった。なぜこの二人を引き合わせるか。それは、後に引用する「考えるヒント」の一節が契機になっている。両氏の思索のあり方には、それぞれ力強い個性がある。この二つの個性と同時に向き合うことは、難しいに違いないが、精一杯挑戦してみたい。小林先生は、偉大な日本の先人として、本居宣長を見たが、契沖や荻生徂徠や賀茂真淵らも生き生きと登場させることで、「本居宣長」という思想劇を書き上げた。私は、当然その仕事の足元にすら及ばないとしても、小林秀雄と丸山眞男という先人たちの、生きた思索の姿を描き出すことができればと願っている。それが本論考の動機である。もちろん、小林、丸山両氏の全てを包括するような、論考を企図しているわけではない。あくまで、山の上の家塾同様、具体的な文章の熟視、そこから生まれる自問自答によって、筆を進めていきたい。
【問い 懐に入り込むとは】
小林秀雄先生は「考えるヒント」連載の一つである「哲学」の中で次のように言っている。
――丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集p.173-4)
ここで挙げられている丸山眞男氏の「日本政治思想史研究」は三つの論文を単行本としてまとめたもので、論文の内訳を示すと「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』――制度観の対立としての――」「国民主義の『前期的』形成」の三つである。とりわけ、荻生徂徠について述べられているのは、前二者(それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)であるから、小林先生が言及しているのはこの二篇と推定できる。また、この二篇は、朱子学の批判者として現れた徂徠の姿を追った後に、本居宣長が国学者の立場から何を言っていたかについても細かく言及がなされる点で共通している。このことを念頭に論を進めていく。
先の「哲学」の一節に対して、私が問いたいのは、「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことか、である。小林先生は、丸山氏の論文を読んだ上で、もっと徂徠の懐に入り込む道を行った。この道について考えることは、同時に、私が、小林先生や丸山氏の懐に入り込む実践にもなるのではないか、そういう期待で、自問自答していきたい。
それではまず、小林先生が読んだ丸山氏の仕事について、見ていこう。
【研究の性質について】
丸山氏は、「第一論文」の中で、自らの論文の課題を、表面的な言説の分析ではなく、「思惟方法」の研究であることを明確にしている。
――(近世日本における:本多注)朱子学派・陽明学派の成立、さらに宋学を排して直接原始儒教へ復帰せんとする古学派の興起といふ近世儒教の発展過程は、宋における朱子学、明における陽明学、清における考証学の成立過程と現象的には類似してゐる。しかしその思想的な意味は全く異る。それは儒教の内部発展を通じて儒教思想自体が分解して行き、まさに全く異質な要素を自己の中から芽ぐんで行く過程なのである。たしかに日本儒教の狭義の政治思想は近世を通じて上述した様な封建的制約を終始脱出しなかつた。かヽる制約は儒教のみならず、それに対立する国学についてもいはれる。しかし変革は表面的な政治論の奥深く思惟方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行してゐたのである。われわれの課題はなによりまづこの過程を徂徠学にまで辿ることによつて、それが、徂徠学における思惟方法を継受しながら之を全く転換せしめた宣長学の成立を如何に準備したかを窺ふことにある。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.14)
思想は外的な「現象」だけでは判断できないとして、「表面的な」言説の「奥深く」にある「思惟方法」に目を向けようとする丸山氏の研究方法は、たとえば小林先生の以下のような文章と並べてみると、その性質がわかりやすくなろう。
――文化現象を一応客観的対象と見なし、これを分析的に研究する一定の方法を見出す、それはよい。それが学問の進歩なのである。だが、文化現象は、誰も知る如く、形ある物であるとともに形のない意味でもあるのだから、研究上の客観的な方法は、飽くまでも遠慮勝ちなものである筈なのだが、文化を論ずるものは、知らず識らずの間に、自ら使役する方法に吾が身が呑まれて了う。客観的態度という言葉を弄しているうちに、考えてみれば、客観的態度というような、文化に対し、普通、人間が取れもしない態度が身に付いて了うものらしい。(「天という言葉」、「小林秀雄全作品」第24集p.148)
ここで使われる「文化」の語を「思想」に置き換えてみれば、ここで小林先生が批判している、研究の方法に呑まれてしまった学者のうちに、少なくとも先述の表明をしている丸山氏は入らないことが推察できる。それどころか、思惟方法すなわち学者の内部と向き合おうとする丸山氏は、思想現象すなわち学者の外部にあるものだけを「客観的」に分析することの限界に自覚的だったという点で、小林先生と問題意識を共にしているとさえ言えまいか。「第一論文」より以前に書かれた、「政治学に於ける国家の概念」で丸山氏は次のように言っている。
――しかしまず第一に私は政治的思惟が結局はあらゆる社会的思惟に付着している存在被拘束性をば只最も濃厚に帯びているからとて、その科学性に疑問を投げかけようとは思わない。何故なら社会的思惟に於て本質上不可分な主体と客体とを引き離し、一方、研究者をば社会的地盤を無視した「意識一般」に迄高め、他方対象の歴史性を抽象的普遍化により抹殺する思惟方法自体が一定の歴史的産物であり、現今その限界を露呈しつつあるものに他ならぬからである。寧ろ私は政治的思惟の不可避的な歴史的制約を率直に承認することから出発する。(岩波書店刊『丸山眞男集』第1巻p.7)
ここに引用した「何故なら」以降で述べられている思惟方法、すなわち社会的思惟における本来分離不可能な主体と客体を分離し、およびその双方を「一般化」ないし「抽象的普遍化」する思惟方法について、丸山氏ははっきりと「限界」を感じている。その代替となる研究方法は、研究対象についても研究者たる自身についても、社会的や歴史的な制約があることを率直に認めることから始まる、というのが丸山氏の考えであり、これはほとんどこれ以降の研究の所信表明とも言える。このことを踏まえて、先の第一論文の言葉を読み直し、また小林先生の「天という言葉」の一節を読み直すとき、両氏に共通するものとして、一つの手法に過ぎない客観性とか一般性とか普遍性といった言葉に惑わされずに学問をする姿勢が浮かび上がってくる。
同時に、両氏の相違にも目が向く。丸山氏が、政治学ないし政治思想史において「科学」であると考えているのは、「その科学性に疑問を投げかけようとは思わない」という表現から明らかである。一方で、小林先生は、科学として批評活動をしていたわけではない。すでに確認したように、両氏の学問において土台となる姿勢、視座には共通するものがありうるとは言え、それが彼らの仕事が類似したものであることを示す根拠には全くならないことは、現時点で一言付け加えたいと思う。
【丸山眞男の二つの論文の構成】
さて、ここからは、丸山氏が徂徠についてどのような考察をしたかを細かく見ていこう。そのために、第一論文、第二論文の構成目次を見る。
「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」(第一論文)
第一節 まへがき――近世儒教の成立
第二節 朱子学的思惟様式とその解体
第三節 徂徠学の特質
第四節 国学とくに宣長学との関連
第五節 むすび
「近世日本政治思想における『自然』と『作為』――制度観の対立としての――」
(第二論文)
第一節 本稿の課題
第二節 朱子学と自然的秩序思想
第三節 徂徠学における旋回
第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義
第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承
第六節 幕末における展開と停滞
両論文の構成目次だけを見ても明らかなように、丸山氏の筋道は、前提としての朱子学、その批判者としての徂徠、さらにその継承者としての宣長、という一本線が見えやすくなっている。徂徠を述べるにあたって、前提としての朱子学とその帰結としての思想構造を述べる第一論文の第二節、第二論文の第二節。次いで徂徠はその批判者として位置付けられる第一論文の第三節、第二論文の第三節と第四節。その徂徠の思惟方法が、特に宣長についてどう継承されているかの確認が続く第一論文の第四節、第二論文の第五節。以下では、この両論文に共通するこの筋道に沿って、朱子学、徂徠学、宣長学の特質を、両論文を合わせて吟味していきたい。
それに先立ち、一点留意したい。先の概略を述べるにあたり、便宜上、私は、徂徠を「批判者」としたが、その急所は、徂徠の朱子学への批判がどのような性質であったかということである。ここを見落とすと丸山氏の論文の意義が全く失われると言ってよい。すでに引用した箇所からも窺える通り、徂徠による批判は、朱子学の見解に対する表面的な批判ではなく、そもそものより根本的な思惟方法に変革をもたらすような批判であったということが、丸山氏の強調するところなのである。このことは常に忘れず筆を進めよう。
【丸山論文に沿って その一 朱子学について】
まず徂徠の批判の矛先であった朱子学について、丸山氏は第一論文の第二節で次のように要約している。
――かくてわれわれは厖大な朱子学体系を蒸溜してそこに、道学的合理主義、リゴリズムを内包せる自然主義、連続的思惟、静的=観照的傾向といふ如き諸特性を検出し、かうした諸特性を貫く性格としてオプティミズムを挙げた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.29)
ここで使われているいかにも概念的な用語については、丸山氏がこれより以前の部分で詳しく書いているが、ここで一つひとつを追い直す余裕はない。とは言え、列挙された概念は相互に結びついているので、それぞれ独立したものとして確認することにそもそも意味はない。むしろ、そのうちのいくつかに絞って再検討をすることで、丸山氏が描こうとした朱子学の特性全体の適切な要約を書き得ると考えられる。そこで、「連続的思惟」と「オプティミズム」に絞って、その意味されるところを確認する。
――かうした道徳性の優位にも拘らず、道理は同時に物理であることによつて、換言せば倫理が自然と連続してゐることによつて、朱子学の人性論は当為的=理想主義的構成をとらずむしろそこでは自然主義的なオプティミズムが支配的となる。(同p.27)
あるいは次の箇所も参照しよう。
――人性論におけるオプティミスティックな構成はこの様に規範が自然と連続してゐる事に胚胎してゐた。ところでこの連続的思惟といふことがまた朱子哲学の大きな特色である。われわれが宇宙論において見た「理」の超越即内在、実体即原理の関係もかヽる連続的思惟の表現である。(同p.28)
丸山氏が「連続」と言って特に述べているのは、倫理ないし規範と自然の連続のことである。オプティミズムすなわち楽観主義とは、この連続性を疑わない思惟方法を指している。この連続性を保証しているのは「理」である。これを踏まえて、第二論文の第二節の中にある次の文章、
――天地万物は現象形態に於て千差万別であるが、それは畢竟一理の分殊したものにほかならぬ。自然界の理(天理)は即ち人間に宿つてはその先天的本性(本然の性)となり、それはまた同時に社会関係(五倫)を律する根本規範(五常)でもある。
まとめれば、理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。
(つづく)
「枕草子」のなかに、一条天皇(*1)の中宮定子が、天皇の祖父、村上天皇(*2)時代の逸話を披露する場面がある。左大臣、藤原師尹が娘の芳子への教育の一環として、第一に習字の稽古、第二に琴など絃楽器の演奏、第三に「古今和歌集」(以下、「古今集」)二十巻の暗誦を推奨していた。さらには、ある時「古今集」の歌に関する村上天皇からの質問に対して、芳子は全巻にわたり一句も誤ることなく答えられたそうで、その話を聞いた一条天皇も感心しきりであったという(「枕草子」第二十段)。
このような「古今集」の暗誦や筆写は、当時の宮廷や貴族の娘にとっては、必須の教養であった。それは「源氏物語」の作者、紫式部にとっても同様であったことは言うまでもない。
ちなみに、「源氏物語事典」(池田亀鑑篇、東京堂出版)によれば、式部が引用している「古今集」の歌は、百九十二首ある。次いで、「拾遺和歌集」七十八首、「後撰和歌集」七十四首であることからすれば、「古今集」からの引用が群を抜いている。具体例を見てみよう。
「若菜下」の巻に、源氏の君が柏木(衛門の督)の方を凝視しながら、このように言う場面がある。
「『過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門の督心とどめてほほゑまるる、いと心はづかしや。さりとも今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老はえのが(逃)れぬわざなり』とて、うち見やりたまふに……」
これは、源氏の不在に乗じて、彼のもとに輿入れしていた女三の宮に通じた、若き柏木に対して、それを察知した初老の源氏が、朱雀院の五十賀の試楽(リハーサル)の場で、見えぬ矢を射通すように発した科白である。ちなみに、このあと柏木は、恐怖と絶望から病臥の身に陥ってしまう。これは、本巻の核心中の核心と言ってもいい科白なのである。
一方、「古今集」には、こういう歌が収められている。
さかさまに 年も行かなむ 取りもあへず 過ぐる齢や ともに帰ると
(巻第十七、雑歌上、八九六、よみ人知らず)
詠われているのは、「年月よ、逆行してくれないだろうか、過ぎ去ってしまった私の年齢が戻ってくるように」という切実な気持ちだ。先ほどの源氏による「さかさまに行かぬ年月よ」という言葉は、まさにこの歌の心が汲み取られていたのである。
もう一つ紹介したい。「若菜上」の巻で、女三の宮との新婚四日目、源氏は、それにより正妻の立場をなくした紫の上を慮って、ひとまず紫の上の住まいに戻った。翌朝、源氏は三の宮へ文を出し、紫の上への配慮か、その返事を屋外で待つ、という場面である。
(源氏は)「白き御衣どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、友待つ雪のほのかに残れる上にうち散り添う空をながめたまへり。鶯の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きたるを、『袖こそ匂へ』と花を引き隠して、御簾おしあげてながめたまへるさま、夢にも、かかる人の親にて、重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり」。
ここで、「友待つ雪」とは、あとから降る雪を待ちうける雪、の意であり、例えば、紀貫之は「降りそめて 友待つ雪は ぬば玉の わが黒髪の かはるなりけり」(「貫之集」八一七)という歌を詠んでいた。さらに、源氏が言った「袖こそ匂へ」という言葉は、「古今集」の、次の歌をもとにしたものである。
折りつれば 袖こそ匂へ 梅の花 ありとやここに 鶯の鳴く
(巻第一、春歌上、三二、よみ人知らず)
源氏は、この歌を踏まえて、鶯が近くまで来ていたので、女三の宮への文に添えるために先ほど手折った梅の枝を隠したのである。
以上見てきたように、「散文の中によく知られた歌の一節を引用し、その歌全体の表現を想起させることによって文章に奥行を与える技法、あるいは引用された歌自体のこと」(*3)を引歌というが、式部のその技の秀抜さについては、竹西寛子氏が書いている次の文章こそ正鵠を得ていると思うので、そのまま引いておきたい。
「この物語の作者に養分を吸い上げられた『さかさまに……』の一首は、物語の中では、具体的な、多くの現象を収斂する、いきいきした言葉として生まれ変わっているのであり、古今集の中で読むこの歌の、理につき過ぎたという印象さえほとんど疑わせるほどの新たな活用ぶりに、源氏の物語の作者の、物語作家としての古今集享受の一様相を知らされるのである」(*4)。
このように、式部の作品には、貫之が編纂した「古今集」や貫之の歌が、多数血肉化されたかたちで息づいている。それでは、貫之自身は、そのような先達の作品を、自らの養分としてどのように吸い上げていたのか、具体的に見ていこう。
そこでまずは、貫之にとって先達とは、どういう存在だったのだろうか。その一つが「万葉集」の歌人や編纂者たちであったと思われる。ヒントは「古今集」の二つの序文にある。
一つは、貫之が記した「仮名序」である。終盤に、集の編纂を命じた醍醐天皇(*5)について触れている件がある。
「よろづの政をきこしめすいとま(暇)、もろもろのことを捨てたまはぬあまりに、いにしへのことをも忘れじ、古りにしことをも興したまふとて、今もみそなはし、後の世にも伝はれとて、延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少官凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らにおほせられて、萬葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ……」
天皇は、政務の合間をぬって、古い出来事や今や古びてしまった歌を後世に伝えようと、貫之をはじめとする四人の撰者に対し、「万葉集」に選定されていない古歌や、撰者と同時代の歌について編纂を命じたのである。
もう一つは、紀淑望が記した「真名序」である。
「ここに、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少官凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑等に詔して、おのおの、家集幷びに古来の旧歌を献ぜしめ、続萬葉集と曰ふ」。
つまり、「古今集」は編集の初期段階において「続万葉集」と名付けられていた(*6)。
これら二つの「序」に記されたことからも、貫之ら撰者にとっては、「万葉集」が特別な存在であったことが推測される。
さらに、「古今集」には「よみ人知らず」の歌も多いが、これらのなかには「万葉集」にも収められている重出歌が、十二首ほどあると言われている(*7)。以下に一例を示す。
さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ
(「古今集」巻第四、秋歌上、一九二、よみ人知らず)
佐宵中等 夜者深去良斯雁音 所聞空 月渡見
(「万葉集」巻第九、一七〇一、柿本人麻呂歌集)
鈴木宏子氏によれば、「一般的には、貫之たちの生きた時代には『万葉集』は稀覯本と化しており、容易に手にすることはできず、そもそも万葉仮名を読み解くことも難しくなっていたと考えられている」(*3)。しかしながら、先に見たように、「仮名序」では、「万葉集」に選定されていない古歌を選んだという。そこで鈴木氏は、撰者は収集した歌々について「万葉集」との照合作業を行ったのではないか、貫之らは、宮廷の書庫深く蔵されていた「万葉集」の閲覧を許され、和歌の素養も生かして、ある程度まで読み解くことができたのではないか、そうした照合と点検の努力にも拘わらず、結果的に若干の重出歌が残ってしまったのではなかったか、と見ている。そのうえで、こう述べている。
「重出歌の残存は、貫之たちの弁別作業が困難であったこと、つまり『万葉集』からの流伝歌が、撰者たちの近くに、さほど大きな違和感のないものとして生きつづけていたことを意味しているであろう。こうした歌の存在は、万葉と古今のあいだに――古代和歌史にと言ってもよい――ゆるやかな連続性があったことを示している。『よみ人知らず』の歌の中には、万葉歌の水脈が流れ込んでいるのである」。
しかし、「古今集」には、よみ人知らずの歌にのみ「万葉集」の水脈が流れ込んでいるわけではない。「古今集」所収の貫之の歌には、「万葉集」の言葉を明らかに利用した歌が見られる。そのような事例を紹介したい。
「万葉集」に、額田王が次のように詠んだ歌がある。
三輪山 乎然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
(三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも隠さふべしや)
(「万葉集」巻第一、一八)
これは、天智六年(六六七)、近江の大津の宮への遷都に伴い、住み馴れた大和(飛鳥)を去るにあたって惜別の情が述べられた歌で、三輪山を覆う雲に恨みを投げかけて、いつまでもこの山を見ながら行きたい、という希いを、額田王が天智天皇の御言持ち歌人として代詠したものである。
そこで貫之は、その歌の趣旨をよく踏まえて、こう詠んだ。
春の歌とてよめる
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ
(「古今集」巻第二、春下、九四)
すなわち、山を隠してしまっている霞の奥には、きっとまだ人目に触れぬ花が咲いていることでしょう、という意である。
小川靖彦氏によれば、「額田王の歌の第二句『然毛隠賀』は、動詞『隠す』の活用語尾『す』を表記していません。貫之はこれを補って適切に読み下しています。しかも、読み下すばかりでなく、一八番の歌の心も十分に読みとった上で、初句・第二句を利用しています。……額田王の歌の心に寄り添い、貫之なりに三輪山の神聖さを賛美して、<古代>の世界に参入してゆこうとする姿が見えます。……貫之は『万葉集』の歌句をそのまま使うことによって、『万葉集』の『古代』にダイレクトに関わろうとしたのです。貫之にとって『万葉集』の歌句の利用は、理想的な<古代>への通路であったのです」(*8)。
さて、貫之の没後六年が経った天暦五年(九五一)、村上天皇は、「古今集」の編纂を命じた醍醐天皇の意思を引き継ぎ、第二の勅撰和歌集「後撰和歌集」(以下、「後撰集」)の編纂に加えて、「万葉集」二十巻本の「訓読」を進めた(古点)。命じられたのは、清少納言の父である清原元輔、紀時文、大中臣能宣、源順、坂上茂樹の五名であり、編纂所の名称をとって「梨壺の五人」と呼ばれている。
この訓読事業のおかげで、「万葉集」は、漢字本文の次に「かな」による読み下し文が加わる新しい書物に生まれ変わった。その後、「後撰集」や私撰集「古今和歌六帖」(撰者未詳)には、かなで書かれた万葉歌が収録され、広く読まれるようになる(*9)。したがって、紫式部も、「後撰集」や自身が生きていた時代に編纂された「古今和歌六帖」、さらには当時普及の始まった「人麿集」や「家持集」などを通じて、かな文字による万葉歌に触れていたことになる。
ちなみに、式部の時代の貴族社会では、女性の裳着(*10)・婚儀・出産や宮廷行事などに際して、美しい料紙や能書による揮毫、装丁に贅をつくした調度本の歌集が贈り物とされていた。そういうなかで、式部は、母方の曽祖父である藤原文範から、書写された、漢字とかなによる「万葉集」二十巻本を贈られていた可能性もあるという(*8)。
それでは、紫式部は「万葉集」の時代の歌々から、何をどのように汲み取っていたのだろうか。ここでは、「源氏物語」において、独自な万葉歌の享受が見られると言われている場面に向き合ってみよう。
一つは、「末摘花」の巻で、源氏の君が、ひどく荒れ果てて寂しげな邸に住む故常陸宮の姫君、末摘花を訪れる場面である。雪の降る寒い夜だった。格子の間から中を覗くと、几帳(*11)などはひどい傷み様である。食器も古びて見苦しい。女房達は、そんな場所で粗末な食事を取っている。隅の方で、とても寒そうにしている女房は、白い衣装が煤けているようだ。すると、こんな会話が聞こえて来た。
「『あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にも逢ふものなりけり』とて、うち泣くもあり。『故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり』とて、飛び立ちぬべくふるふもあり……」。
「ああ、なんて寒い年でしょう。長生きすると、みじめな目も見なければなりません」と、泣いている。「常陸宮さまがお亡くなりになって、これほど心細い有様になっても、どうやら死にもせずにいられるものですね」と、まるで飛び立ちそうに身慄いしている者もいる。
ここで、「飛び立ちぬべく」という表現は、「万葉集」に収められた山上憶良の長歌「貧窮問答歌」(巻第五、八九二)の反歌(同、八九三)を踏まえたものと言われている(*12)。長歌は「風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ……」というように、「窮乏を極限までせり上げていく描写」が続く(*13)。そこで憶良は、こういう反歌を詠んで、自身の感想を披歴した。
世の中を 厭しと恥しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
世の中は、いやな所、身も細るような所と思うが、捨ててどこかへ飛び去るわけにもいかない。人間は、しょせん鳥ではないので……という歌意である。
どうであろうか。この「貧窮問答歌」の長歌と反歌を踏まえることによって、源氏が垣間見た、女房たちのみじめな暮らしが、現実逃避できない境遇が、よりまざまざと、読者の身にも沁み入るように伝わってはこないだろうか。
なお、先に、「万葉集」の訓読事業の進展により、「かな」によって広く読まれるようになったことに触れたが、小川氏によれば、「貧窮問答歌」は、式部の生きた時代には「かな」による読み下し文がなかったという。そうだとすると、式部は「貧窮問答歌」を漢字本文で読み解き、憶良が遺した歌の意まで汲み取っていたことになる。
式部による万葉歌享受のもう一つの事例は、「宇治十帖」の「蜻蛉」の巻にある。薫と匂宮という二人の男性の間に立って苦悩する浮舟は、宇治川への入水を決意し失踪する。激しい雨の降るなか、浮舟の母君は宇治に到着するや、一方ならず泣き惑う。亡骸だけでもちゃんと葬ってやりたい、という母の思いをよそに、周囲の人々は、入水の噂が拡がることを恐れ、亡骸なきまま簡略に葬送を済ませてしまった。その後に浮舟入水のことを聞いた薫は、宇治を訪れ、阿闍梨(*14)に対して手厚い法要を依頼すると帰京の途につき、宇治川のそばを行く場面である。
「道すがら、とく迎へ取りたまはずなりにけることくやしく、水の音聞こゆる限りは、心のみ騒ぎたまひて、骸をだに尋ねず、あさましくてもやみぬるかな、いかなるさまにて、いづれの底のうつせにまじりにけむ、など、やるかたなくおぼす」。
帰りの道中も、浮舟を早く京へお引取りにならなかったことが残念で、川の水音の聞こえてくる間は、思い乱れ、亡骸さえも捜し出せないとは何と情けない始末か、一体どこの水底の貝殻に交じっているのか、などと、どうしようもない思いでいらっしゃる、という薫の内言が述べられている件である。
「骸」、「うつせ」という言葉に注目したい。小川氏は、この式部の文章を、主に大伴家持の歌が収められた「家持集」にある次の歌を踏まえたものだと見ている。
今日今日と 我が待つ君は 岩水の からに交じりぬ ありと言はめや
(西本願寺本三十六人集、三〇九)(*15)
ここで「我が待つ君」は、亡くなっていた(岩間から流れる水の貝殻に交じっていた)のである。
式部の文中にある「うつせ」とは「うつせ(虚)貝」、中身が抜けて空になった貝殻のことを言っている。それは、次の歌にもあるように「から(殻・骸)」と連想関係にある言葉であった。
波の立つ 三島の浦の うつせ貝 空しきからと 我やなりなむ
(「好忠集」四六四)
「紫式部の感性は『家持集』にかろうじて残った、『万葉集』に独特な死の表現に、時代の常識を超えて激しく反応した」のであり、それを「深化させて、水底で亡骸が貝殻と交じっているという、命というものを全く感じさせない死の光景を創り上げ」たのである(*8)。ちなみに、式部は、「蜻蛉」の巻において「骸」という言葉を、例えば「むなしき骸をだに見たてまつらぬが」「骸もなく亡せたまへり」など、上記も含めて六ケ所ほど用いている。
ここで「『万葉集』に独特な死の表現」とは、古代人が抱いていた死生観がおのずと表出したものと言うことができるように思う。というのも、「古代を八世紀ころまでと規定して言うならば、古代日本人は、『ひと』(生)とは、『からだ』(体)に『たましひ』(魂)の封じこめられた存在だという考えを持っていた。人としての実体は「身」とも呼ばれ、「身」には「寿」の文字を宛てることもあった。だから、古代日本人にとって、「死ぬ」ということは、「身」の中にある「魂」が萎びて、やがて抜け出てしまうことであった」(*16)(*17)からである。
その事例は、小林秀雄先生が「本居宣長」において、契沖の「大明眼」の例(「萬葉代匠記」巻第二)として紹介している、「天智天皇の不予(*18)に際して奉献した大后の御歌」にも見ることができる(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収、p105)。
青旗の 木幡の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも
(巻第二、一四八)
木幡の山の上を御魂が行き来しておられるのが目には見えるが、わが君に、じかにはお逢いすることができない、という歌意である。この歌は、実際には、木幡から北に八キロメートルほどのところにある山科において、崩御後の天皇を葬った際に詠まれた歌と見られている。小林先生が書いているように「皇后にとっては、目に見える天皇の御魂も、直かに逢う天皇の聖体も、現実に、直接に、わが心にふれて来る確かな『事』」だったのである。ちなみに、のちに持統天皇がその遺詔によって仏式の火葬に付されるまでは(七〇三年)、尊卑を問わず、亡骸をある期間、土葬せずに一定の場所で大切に保管し、側に仕えて「身」から抜け出た「魂」が舞い戻るように祈る「新城」の礼(殯宮儀礼)が行われてきており(*19)、六七一年に崩御した天智天皇も同様であった。
ちなみにここで、前稿(「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅲ」「好*信*楽」2024年冬号所収)にて紹介したように、貫之による「土佐日記」にも、「貝」という言葉が使われている次のような件があったことを思い起こしてみてもよいだろう。
任地の土佐で幼い女児を亡くした「船の人」(貫之自身でもある)は、このような歌を詠んでいた。おそらく式部も、眼にした歌であろう。
寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ
そこでたまらず、「ある人」(これも貫之である)もこう詠んだ。
忘れ貝 拾ひしもせず 白玉を 恋ふるをだにも かたみと思はむ
「宇治十帖」に話を戻そう。「源氏物語」最後の巻でもある「夢浮橋」には、こんな件もある。横川の僧都が、薫に対して、亡骸もなく逝ってしまったと思われていた浮舟を発見し、介抱のうえ意識を戻らせた経緯について話をしている場面である。
「『……この人も、亡くなりたまへるさまながら、さすがに息は通ひておはしければ、昔物語に、魂殿に置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、さやうなることにや、とめづらしがりはべりて、弟子ばらのなかに験ある者どもを呼び寄せつつ、かはりがはりに加持せさせなとなむしはべりける。……』」
この方(浮舟)は、亡くなられたも同然の様子ながら、どうやら息は通っておいでなので、昔物語に、魂殿においてあった人が生き返ったという話のあるのを思い出し、万一そのようなこともあろうかと、法力のある弟子を呼び寄せて、交代で加持させました、と僧都が語るシーンである。
この「魂殿」こそ、前述した「新城」の礼において亡骸を安置する場所そのものを指している。ちなみに、漢文に深い知識があった式部が読みこなしていた「日本書紀」には、自死した莵道稚郎子が、宇治の地において、大鷦鷯尊(仁徳天皇)による「新城」の礼とおぼしき行為によって蘇生させられる場面もある。「日本書紀」に限らず、幼少の頃から昔物語によく親しんでいた式部ならではの表現なのかも知れない(*20)。
以上見てきたように、紫式部は、みずからの曽祖父や祖父と昵懇であった、先達の紀貫之と「古今和歌集」や「土佐日記」を通じて向き合ってきた。のみならず、貫之の作品を介し、または直かに、さらなる先達である「万葉集」や記紀の時代を生きた古代の人たちとも向き合ってきた。前稿にも書いた通り「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部、古歌や物語に人一倍親しんできた式部であればなおさらのこと、古代人の心を我が心のようにしていたのであろう。
さて、本稿の主題は、小林先生が言っている「紫式部が飲んだ物語の生命の源泉」についてである。彼女が、貫之や古代の人たちによる、歌や物語における言語表現を通じて汲み取ってきたものについては、おぼろげながら見えてきたところもある。しかしながら、その「生命」や「源泉」そのものに至るには、さらに深く降りて行く必要があるようだ。
そこで改めて、式部自身が語るところに耳を傾けてみたい。さらには宣長や小林先生は、その語りに、いかに聴き入ったのだろうか。
(*1)天元三年(九八〇)頃~寛弘八年(一〇一一)
(*2)延長四年(九二六)~康保四(九六七)
(*3)鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス
(*4)竹西寛子「古典日記」中央公論社
(*5)仁和元年(八八五)~延長八年(九三〇)
(*6)詳細の経緯については、小川靖彦「万葉集と日本人」角川選書(第二章)などを参照
(*7)鈴木宏子氏、小川靖彦氏の前掲書など
(*8)小川靖彦氏、前掲書
(*9)「古今和歌六帖」には、約一二六〇首の、かなによる「万葉歌」が収められている。これらの歌については、口頭伝承という説も有力とのことであるが、小川氏は訓読されたものと考えている。
(*10)女子が成人して初めて裳をつける儀式。徳望のある人を選んで裳の腰ひもを結わせ、髪上げをする。
(*11)他から見えないように、室内に立てる障屏具。
(*12)鈴木日出夫「源氏物語と万葉集」『国文学 解釈と鑑賞』第51巻第2号
(*13)伊藤博「萬葉集釋注」集英社
(*14)修法や儀式の導師。
(*15)ちなみに「万葉集」には、柿本人麻呂の死を知って悲しむ妻依羅娘子の歌「今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡に交りて ありといはずやも」(巻二、二二四)もあるが、この「かひ」は山峡の意が通説となっている。
(*16)伊藤博「萬葉のいのち」「はなわ新書」塙書房。伊藤氏によれば、日本語で身体の各部分を示すことばには、植物と対応するものが多く、「身」には「実」が、からだ・なきがら(亡骸)の「から」には、草木の葉や花の落ちた「幹(から)」が対応している(本田義憲「日本人の無常観」も参照)。実際に「万葉集」には、「我がやど(宿)の 穂蓼古幹(ほたでふるから) 摘み生し 実になるまでに 君をし待たむ」(巻第十一、二七五九)という歌がある。
(*17)柳田国男氏によれば、死体は「ナキガラであって霊魂ではな」く、「一般に霊のみは自由に清い地に昇って安住し、または余執があればさまよいあるき、或いは愛する者の間に生まれ替ってこようとしてもいた」(「根の国の話」、「海上の道」岩波文庫)。
(*18)天皇や上皇が病気になること。但し、歌詞の内容が、危篤になったという題詞(歌を作った日時・場所・背景などを述べた前書き)の内容と合わないことから、崩後、天皇を山科に葬った折の歌と見るべきとの指摘がある(伊藤氏(*13)書)。
(*19)「新城」の期間は、七世紀以降の貴人の場合には半年から一年が普通で、天武天皇の場合のように二年強に及んだ例もある((*16)書)。
(*20)「手習」の巻には、「もし死にたる人を捨てたりけるが、よみがへりたるか」、「さやうの人の魂を、鬼の取りもて来たるにや」という表現もある。一方、当時は、陰陽師が活躍していた時代であり、古代からの信仰と大陸由来の陰陽道が結びつけられ、そのような「魂」にまつわる観念が習俗化していた面もあったことは留意しておきたい。
【参考文献】
・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二、清水好子校注)
・円地文子訳「源氏物語」新潮文庫
・「21世紀のための源氏物語」「芸術新潮」2023年12月号
・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス
・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)
・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)
・村松剛「死の日本文学史」角川文庫
(つづく)
言うまでもなく、本居宣長は人生の半分、三十五年をかけて「古事記伝」を著した学者です。「古事記」は、それまで誰も読むことのできなかった、宣長の生きた江戸時代から見ても千年以上前に漢字のみを使って書かれていた書物です。その「書物」を、当時の、ということは古代の日本人の心で解読するという、今日では想像することさえ容易でない偉業を成し遂げたのですが、本人は自身の学問について、晩年の随筆集「玉勝間」に「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題する文章を残し、「自分には別段人に伝えるべき教えなどない」と言っていて(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28 集p. 100)、ますます宣長は偉大だと思わせられますし、宣長への関心はいっそう深まります。
私は昨年、「本居宣長」第四十三章の「御典を読むとは、わが心を読むという事であった」という件に目が留まり、この一文が何を伝えるものか理解したいという思いから、今年の一月、自問自答を行いました。
第四十三章に、小林先生が「御典を読むとは、わが心を読むという事であった。この道を行けるところまで行ったのが、自分が『此身の固め』に心を砕いたという、その事であった」と言われているのは、宣長が、道を究めようと弛まず続けてきた取組みを振り返って述べた、感想でしょうか。それは言い換えれば、誰も読むことのできなかった「古事記」を読むため、わが心に漢意が染みついてはいないかと常に疑い、漢意の欠けらでもあれば徹底的に捨て去る、これを繰り返し繰り返して、とうとう、生きとし生けるものであれば誰もが持つ、自身のまごころに気づいた、そういうことでしょうか。……
ここに見られる「御典」は「古事記」を指すと、宣長の学問論「うひ山ぶみ」で言われていますが、宣長はその「うひ山ぶみ」で、「詮ずるところ、学問は、ただ年月長く、倦ず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて」と言っているとおりに三十五年間、毎日「古事記」に向かい、その間ずっと、自分の心に漢意が染みついていないか、確かめ続けたというのです。その理由を記した件があります。
わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に「やまと魂」と呼ぶには当たらぬ事だ。それは、内の事を「外にしたるいひやう」で、「わろきいひざま」であるが、残念乍ら、その心構えが、かたまっていないのだから、仕方なく、そういう言い方もする。何故かたまらないかと言うと、漢意儒意に妨げられて、かたまらない。――「からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然れども世の人、とかく倭魂かたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、麗しといふにはあらず、詞の巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也、すべて学問すぢならぬ、よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし」(同、第27集p. 284)
倭魂はかたまりにくく、漢書を読めばすぐに惑わされ、たじろいでしまう。「古事記」を読むということは、目で文字を追い、書かれた内容を客観的に分析するのではなく、やまと心をもって「古事記」の心を理解することであると、宣長は考えていました。自身のやまと心に漢意が染みついていないかを確かめ続け、いつのまにか染みついている、染みつきそうだ、と思えた漢意は徹底的に捨て去る、この継続は生半可な覚悟ではできず、容易ならぬ経験を味わった、とあります。
もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず、素膚にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負うがごとく、かならずからごゝろに落入べし。(「初山踏」)
「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭は、「何事であれ漢意は人に理屈を押しつけようとし、人間の生き方にまで勝手な理屈を押しつけてきます、宣長はそこを見ぬいていたのです」と説明され、私の自問自答にある「感想」という言葉はあまりに軽く、ここは漢意はどんなに手強い敵であったか、その手強い敵と宣長はどう戦ったか、戦いぬいたかの「告白」なのだと教えてくださいました。
さらに宣長は、「やまと心」は説明が適わないものだから、自分の歌を一首、見てもらう、この歌の姿を素直に受け取ってほしいと言います。これを受けて小林先生は、先に引いた「わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に『やまと魂』と呼ぶには当たらぬ事だ。……」の文章の最後で、「『やまと心』とは何かと問われても、説明が適わぬから歌を一首、歌の姿を素直に受取って貰えば、別に仔細はない、と宣長は言うのである」と言われています。その歌とは次の一首です。
しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花
「やまと心って、どんな心なんですか?」と人に訊かれたら、私はこう答える、澄んだ春の青空を背に、朝のやさしい日差しを受けて美しく柔らかく咲く山桜、あの山桜のような心です、と……。そうであるならば、やまと心は「道」の中心にある、人のまごころではないでしょうか。
まごころについては、本塾の塾生の溝口朋芽さんが考えを深められていて、本塾の別の回で、「まごころ」とは「人の心のおのづからなるありよう」を言った言葉、言い換えれば、人なら誰もが生まれつき与えられている純朴な心であると話されていました。
また、第三十七章には、次のような一節があります。「そういう次第で、明らかに、宣長の歌学の中心にあった『物のあはれを知る心』が、『道』の学問では、そのまま『人のまごころ』となるのである」(「小林秀雄全作品」第28集p. 66)。
美に接すると思わず震え、その場に坐りこみさえするような、柔らかで、時に弱々しい、人の心のおのずからなるありようを素直に認める、自分の心が、無意識のうちに漢意に囚われていないかと疑って、よくよく見つめる、こうした姿勢で生活することが、よく生きるということだと、このたび「本居宣長」から学びました。しかし、宣長にしてみれば、「あなたが生まれながらに持つ心、まごころを大切にしているのであれば、「おのれとり分て人につたふべきふしなし」ということなのかもしれません。
(了)
本誌前号に掲載した「作家の表現力に学ぶ人間の力」において、私は「表現力」について考えた。今回の自問自答では、その延長として、「うまく表現できないもどかしさ」について考えたい。というのも、本居宣長は、はっきりした考えがあっても、うまく説明できない、もどかしい、そんな困難が要所で文章に現れる人物である、と小林秀雄先生が「本居宣長」の中で何度も繰り返していたからである。
初めに確認したいのは、「本居宣長」の全編にわたって、小林先生が宣長のもどかしさについて述べている箇所である。
たとえば、宣長にとって「源氏物語」はいかなるものであったかについて、小林先生は次のように言う。
――だが、この自分の「源氏」経験を、一般的な言葉で言うのは、彼には、大変面倒な事であった。彼は、「紫文要領」のなかで、それを試みているがうまくいっていない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.140)
同じ「紫文要領」の問答体の部分について、次のようにある。
――しかし、問う者だけを責められない。宣長も、勝手に、「物のあはれ」に、限定された意味を附しながら、このどうとでも取れる曖昧な言葉以外の言葉を持ってはいないからである。平俗に質問されれば、彼は平気で、同じ言葉を平俗に使っている。従って、この辺りの宣長の評釈文は、一見混乱しているのだが、宣長自身が、問いを設けた文章である以上、混乱は、筆者によく意識されているのであって、その意のあるところを推察して読めば、極めて微妙な文と見えて来るのである。(同第27集p.154〜5)
あるいは、次の箇所である。
――ところが、面白い事には、宣長は、飽くまで相手に、勝手な問いをつづけさせ、自ら窮地に陥って見せている。明らかに、問題の微妙に、読者が気附いて欲しいというのが、宣長の下心なのである。(同第27集p.155〜6)
「あしわけ小舟」を詳しく述べる前段には、次のように書かれている。
――これが、宣長の眼に映じていた歌の伝統の姿であったが、彼にしてみれば、それは、直知という簡明な形のものだったに相違ないが、面倒は、その説明にあった。(中略)「紫文要領」で、「あはれ」の説明に苦しんだと同様な事が、「あしわけ小舟」の問答体で既に起っているのが面白い。(同第27集p.243〜4)
ここまでは、和歌や「あはれ」が話題の中心であるが、「古事記」の話に移っても、宣長の調子は変わらない。
――しかし、問題の本質的な困難は、「受行ふべき道なき」を道とする「神の道」が、「道といふことの論ひ」で、説明がつくわけがないというところにあった。そして、言うまでもない事だが、これにはっきり気付いていたのは、宣長独りであった。「古事記」を「かむがへ」て、得られた確信が、いよいよ明瞭になるとは、これを分析的に説く事が、いよいよ難かしくなる事に、他ならなかったからである。(同第28集p.36)
あるいは、「おのづから」ということについて、一見似て見える老荘思想と神の道については次のようにある。
――彼の体得したところには、人に解り易く解いてみせる術のないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。(同第28集p.126〜7)
一旦、引用を止めよう。それぞれの文章が、その時、小林先生が焦点を当てている問題についての記述であることに注意したい。本来は、それぞれ宣長の書いた本文と合わせて読まれるべきものである。だから、単純に、宣長がうまく説明できない箇所には共通点があるなどと語るのは無理である。しかしながら、どの著作を読んでいても現れる宣長のもどかしさを、小林先生がその度に付き合い、向き合ったという事実、その歴史が「本居宣長」という形になっているということが肝要だと、私は考える。
以上、前置きが長くなったが、私が問いたいのは、小林先生は、どういう心持ちで、宣長の説明のうまくいかなさ、もどかしさと向き合っていたか、ということである。このことを「訓詁」という言葉を手掛かりに考えたい。
訓詁とは何か。先に「あしわけ小舟」について小林先生が語っているところを引用したが、そこをさらに進んでいくとこういう言葉がある。
――彼には、難問が露な形で、見えていた。避けて通る事は出来ないし、手際のいい回答は拒絶されている。「秘スベシ秘スベシ」とは、問題に、言わば当たって砕けるより他はない、という彼の態度を示す。この態度から、磨かれぬ宝石のような言葉が、ばらまかれて行くのだが、私が、煩をいとわず、これを追うのも、私の仕事の根本は、何度くり返して言ってもいいが、宣長の遺した原文の訓詁にあるので、彼の考えの新解釈など企てているのではないからだ。(同第27集p.253)
宣長は、決して、難問に対して論理明快な答えや説明を示さない。だから、ときにもどかしそうな書き様になる。しかし、それを等閑視して、彼の意見は要約すればこうであると断定してしまえば、議論は円滑に回り出すように見えて、空転するにすぎないのである。小林先生は、宣長と徹底して付き合うことの困難、面倒を隠さず率直である。裏を返せば、難問に対して、こんなことは造作もない、と簡単に済ますことも素通りすることもないのである。徹底して考える宣長に、徹底して付き合う。それが小林先生にとっての訓詁の根幹であった。
この訓詁のあり方について、「あしわけ小舟」の訓詁に一区切りをつける段になって、小林先生は次のように言う。
――宣長から、わかりにくい文ばかりいくつも引用し、これを上手に解説も出来なかったのは、読者が見られた通りだが、わかりにくい例証を、私が、先きに磨かれぬ宝石のようなと形容したのは、そこに見えた宣長の露わな姿を言ったので、磨いてみたいというような意は、少しも含まれてはいなかった。歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。(同第27集p.265)
「磨かれぬ宝石を、磨いてみたいわけではない」という小林先生の言葉に、訓詁のあり方が表現されている。宣長にとって難問が、「上手に解かねばならぬ問題の形」で現れなかったように、宣長の「わかりにくい文」は、小林先生にとって、わかりやすく解こうとしてはならない問題であった。訓詁の仕事は、解釈や解説とはっきり違うものだったのである。
上手に解こうとしてはならない、ということに関連して、もう一つ引用しよう。熊沢蕃山が「三輪物語」の中で、神書の「あやしさ」を処理しようとする、その態度に対して、小林先生は宣長とともに次のように言う。
――宣長に言わせれば、この理由は、基本的には、極めて簡単であって、それは、「世ノ中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」ところに在る。この「さかしら」が、学者等と神書との間に介在して、神書との直かな接触を阻んでいる、というのが実相だが、彼等は、決してこの実相に気附かない。何故かというと、彼等の「さかしら」は因習化していて、彼等はその裡に居るからだ。彼等は、神書の謎に直面した以上、当然これを解かねばならぬという顔をしているが、実は、解くべき謎という、自分等の「さかしら」が作り上げた幻のうちに、閉じ込められているに過ぎない。(同第28集p.120〜1)
現在の自分にわからぬ「謎に直面」して、それに答えがあるはずだ、「解かねばならぬ」と構えれば、謎が謎でなくなる。後は解きたいように解くことになるが、それで本来の謎が何か意味を持って、私たちの人生に関わったことになるだろうか。謎と「直かに接触」するには、解こうとしてはならない。小林先生は、ただ宣長の行った道を、余計な外の概念、「さかしら」に惑わされずに辿り続ける覚悟をもって、宣長がもどかしそうに説明しているところに出会っても、いや、出会ったときこそ易きに流れず、もどかしさも含めて体得しようとする。それが、小林先生の訓詁、もどかしさと「身交ふ」方法だったのではないだろうか。
最後に、池田雅延塾頭が主宰する「本居宣長」精読十二年計画も、令和六年度で最終年度となる。私は、十二年を通して参加したわけではなく、最終年度が三年目にあたるが、ここまでの二年間で多くの学びを得てきた。そう自覚するからこそ、最終年度は、改めて「本居宣長」を謎であると再認識することから始めようと思う。すでに熟視し、自問自答した箇所についても、わがこととなっているか、いや、まだまだ付き合いが足りない。「わからない」を種として、その謎を解こうとせず、徹底して向き合い続けたい。
(了)
いつものような『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女。今日は、どの辺が話題だろう。
元気のいい娘(以下「娘」)『本居宣長』のなかで、どこが一番好き?
江戸紫が似合う女(以下「女」)好きかどうかっていわれても困るけれど、初めて通読し たとき一番心に残ったのは、第四十九章の最後の方、「そういう次第で、宣長が『上古言伝へのみなりし代の心』を言う時、私達が、子供の時期を経てきたように、歴史にも、子供の世があったという通念から、彼は全く自由であった」という一文から始まる数節かな(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集188頁)。
凡庸な男(以下「男」)大河ドラマが大団円に近づいきてたときみたいに、読んでいて、力が入るというか、緊張してしまうところだね。
女 いや、そんな大それたことじゃないの。まだ、何もわからなかったし。とにかく、投げ出さずに、文字を追うのが精いっぱいで、論旨を追うなんて段階ではなかったわ。
娘 じゃあ、どうしてそこが、印象に残ったの?
女 お恥ずかしい、というか、申し訳ない話だけど、いわゆる原始人を想像しちゃったのね。
男 いわゆる原始人?
女 ええ。子供向けの図鑑とか学習漫画とかにあったじゃない。毛皮を腰に巻いて、ひげも じゃで、石斧みたいなのを手にした、ザ・原始人。
生意気な青年(以下「青年」)あああれね。ちょっと粗野だけど純朴で、みたいなステレオタイプのやつ。
女 うん、それでね、その原始人のおじさんが子供と手をつないで、夕陽を見てるのよ。
男 なんだって?
女 そういうイメージがわいてきたの、読んでいて。
娘 それって「……自分等を捕らえて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向かい……」(同)という辺りかなあ。
女 そうそう。青息吐息でページをめくり続けてきて、何にも頭に残らなかったんだけど、なぜかそこで、パっと、何かが見えたような気がしたのね。
青年 見えてきたって、理解のきっかけというか、ヒントが得られたとでもいうのですか?
女 いえいえ、全く。文章の意味とか、そんなレベルじゃないのよ。小林秀雄先生のお考えとかとは全く関係なく、なにか、イメージが湧いてきたの。
男 お得意の「妄想」かな。
女 ええ、まさにそう。上古の人々が、長い時の流れのどこかで、言葉を獲得していく。そこだけ見ると未開の原始人なんだけど、「どんな昔でも、大人は大人であった」(同)。つまり、上古の人たちは、文明の利器に囲まれ、人工的な環境に保護されている私達とちがって、大自然の猛威に生身の体で向き合っていたわけでしょう。五感の働きもはるかに鋭敏だったはずだし、周囲の状態を観察して、これから起きることを予期する力なんかも、はるかに強かったと思うの。命がけなんだから。「自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々」(同)なんかには、及びもつかぬことだわ。
男 講釈師見てきたようななんとやら、だね。結局は妄想の域を出ないよね。
青年 あっ、そこなんだけど。
娘 なにか手がかりがあるの?
青年 最近、ゴリラ学者の講演を聞いてね。
娘 ゴリラ?
青年 うん。ゴリラも人間も、一千万年くらいさかのぼれば共通の祖先がいて、そこから枝分かれしたわけ。だから、共通する特徴もあるし、もちろん違いもある。ヒトはヒトとして進化し、ついに言葉を獲得する。
男 それがどうかしたのかい?
青年 ゴリラの生態を観察してほかの霊長類と比較したり、ゴリラと別れた後の人類の進化の過程を調べたりすると、いろんなことが分かって来るらしいんだ。
娘 たとえば?
青年 うん。たとえば、「現代人の脳の大きさはゴリラの三倍ある。では、いつ脳が大きくなり始めたかというと二百万年前である。しかも現代人並みの脳の大きさになったのは四十万年前で、言葉の登場よりずっと前だ」(注1)っていうんだ。
男 脳が大きいからこそ、言葉を使えるわけでしょう、万物の霊長たる所以だよ。
青年 でもね、人間が言葉を獲得したのは、七~十万年前ということらしいんだけど、「ホモサピエンスは二十~三十万年前に登場し、それ以前に脳は現代人並みの大きさになっている」(注2)というんだな。そして、霊長類の場合、「集団のサイズが大きい種ほど、脳の新皮質比(脳に占める新皮質の旧皮質に対する割合)が大きい」ことが分かっていて「日常的につき合う仲間の数が増えるとそれを記憶する脳の容量が増える」(注3)というわけ。言葉が登場する遥か前の二十~三十万年前に、百五十人くらいの集団ができあがっていたというんだな。
女 ああ、そうか。言葉が誕生する前にも、社会生活のようなものがあって、何らかのコミュニケーションが行われていたということね。
娘 身振りや手振り、足踏み、踊りのようなしぐさ、色んな音色の声を出すとかかなあ。なにか、楽しそうね。
男 誰かさんの妄想に出てきた原始人の親子の間にも、そういう、言語以前の身体的なコミュニケーションがあったのかもしれないね。
娘 言葉以前の身体的なコミュニケーション?
女 そういえば、人々が赤ちゃんに話しかけるときの言葉遣いには、文化圏を超えた共通性があるって話を聞いたことがある。
青年 対乳児発話とかいうやつかな。むくつけきオッサンでも、赤ちゃんには、ゆっくりとしたテンポで、抑揚がある高めの声で話すよね。
男 それで赤ちゃんがニッコリしてくれると、オッサンも満更でもない、ってことだね。
娘 そうやって、気持ちを伝えあう。まだ、言葉にはなっていないけど、人間どうしのコミュニケーションの原点がそこにあるわね。
女 言葉の、原型というか芽吹く前の種というか。そこに、言葉を生み出す原動力が宿っている感じね。
娘 ひょっとして、言霊?
男 それは飛躍。妄想も甚だしい。それはともかく、ちょっとホッコリする話だよね。
青年 でも、ショッキングな話もある。一万二千年前くらい前と比べると、現代人の脳は十~三十パーセント縮んでいるという説があるんだって。
娘 どういうこと?
青年 「人間が言葉の獲得に至った理由の一つは、脳の中の記憶を外に出すためだったのではないか」(注4)というんだ。
女 なるほど。赤ちゃんをあやすみたいな、その場面に応じて行われる身体的なコミュニケーションと違って、言葉というのは、なんていうか、一種の記号だから、データとして処理しやすくなる。脳の機能を外部のデバイスで代替しちゃうのね。
娘 あっ、それってやばいかも。スマホなくすと、自分の予定も、決済情報も、友達の連絡先も分かんない。好きな曲も聴けないし、気になる動画も見らんなくて、どうやって生きていけばいいか分かんない。
青年 他人ごとじゃないな。「今後、脳が不要になる時代が来るかもしれない」(注5)なんてことまでいうんだ。
女 でもそれは、書き言葉のことじゃないかしら。
青年 確かに、話し言葉であれば、「同じ言葉でも、それを発する人、受け取る人、互いの関係、置かれている状況、さらには声の大きさ、高さ、抑揚、手振り、身振り、態度によって意味は微妙に変わる。それが文字になった時には、相手はいない。発信者の意図と受信者の解釈にはずれがあり、それを即座に修正することはできない」(注6)からね。
女 そうでしょう。
青年 でもね、比喩の働きなんかは、話し言葉でも、十分に発揮されるよね。誰かのことを、オオカミのように残忍な、といえば、その人の行動を事細かに説明するより、はるかに簡単に済む。一瞬のうちに、強烈なイメージを喚起できる。敵愾心をあおって、一緒に戦う同志的連帯感まで湧いてくるかもしれない。
女 いまのは随分剣呑な喩えだけど、太陽のように輝くとか、海のように青いとか、山のように気高いとか、比喩の働きによって物事の捉え方や、感じ方、その伝達の仕方をより豊かに、よりきめ細かくしてくれるわね。
青年 そうなんだ。そしてその前段階の物事に名前を付けるということ自体に、重要な意味があるよ。サルだって、空を見上げれば何かがまぶしいとか、目の前に水の流れがあって進めないみたいなことは分かるかもしれないけど、それらに、お日様とか川とか名付けることで、その時その場で目にした光景の記憶にとどまらない、色んな意味を持つようになるよね。
女 単に気持ちを通わせるというだけじゃなくて、「世界を切り取って要素に分け、意味を付与して物語にし、それを仲間と共有する」(注7)というところにまで行くわけね。
青年 そういう意味で、たとえ無文字であっても、言葉を獲得したということの意味は大きいよね。
娘 身体的なコミュニケーションだけの世界から言葉が誕生していく過程は、実に神秘的よね。
女 だからこそ、宣長さんは、(輝く太陽、青い海、高い山などの)「計り知りえぬ威力に向かいどういう態度を取り、どう行動したらいいか、『その性質情状』を見究めようとした大人達の努力に、注目していた」(前掲書188頁)のね。
娘 それに続く、「これは言霊の働きを俟たなければ、出来ないことであった。そしてこの働きも亦(また)、空や山や海の、遥か見知らぬ彼方(かなた)から、彼等の許にやって来たと考える他はないのであった。神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼らに通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。そういう声が、彼等に聞こえて来たという事は、言ってみれば、自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かなことはないと感じて生きて行く、その味わいだったであろう」(前掲書189頁)という文章も、とても美しいね。
男 でも、難解だよ。
女 そうね、私も書かれた文章の意味というか、論理的な内容を理解できているわけではないわ。
青年 そもそも、人間が言葉の象徴作用を獲得したプロセスなんて、それを言葉で表現しようとすること自体、無理があるんじゃないの?
女 そうかもしれないわね。でも、このあたりの文章、声に出して読みたいほどだわ。そして、音楽を聴くように文章のリズムと響きに感じ入っているうち、何かが頭の中に下りて来て、イメージを映し出してくれるような気がするの。
男 それが、原始人親子のイメージってわけ?
女 図柄が陳腐で、センスがないのは認めるわ。でも。
男 でも、何?
女 小林先生は、文章の力で色んなイメージを喚起することによって、普通では表現できな いこと、伝達できないことを、読者の心の中に再現してくださってているような気がするわ。
男 おやおや、大きく出たね。『本居宣長』の理解が進んだってわけ?。<マル、トル>
女 あら、そんなつもりはないわ。せっかくの美しく力強い文章なのに、月並みのイメージしか浮かんでこないのは、お恥ずかしいかぎり。でも、好きなんだわ、この一節が。
娘 初めからそういえばよかったのに。
女 そうね。難しいことを理解できたわけではないけれど、この一節に出会えたことで、この本全体がとても好きになったわ。それで、あなたは?
娘 なあに?
女 一番好きなのは、どこ?
四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。
(了)
注1 山極壽一『森の声、ゴリラの目』(小学館新書)77頁
注2 前掲(注1)85頁
注3 前掲(注1)77頁n
注4、注5 山極壽一『共感革命』(河出新書)13頁
注6 前掲(注1)94頁
注7 前掲(注1)86頁