「本居宣長」はいつも、光源となって私の内面を照らし、その影かたちの細部までを浮き上がらせる。読み返すたびに、新しい”引っかかる語”が眼前に立ち現れ、私がいま何を考えているのか、何に興味があり、何を必要としているのかを教えてくれる。“引っかかる語”とはつまり、自身の内の奥底で問題意識を持っている事柄に関係する単語であり、それは「本居宣長」を読んでいくための方位磁針にもなるだろうと思われる。
私は、楽譜でも本でも、音や言葉の構成要素を分類し、それらの関係性を見つめるために、ラインマーカーを引きながら読んでいくのが好きだ。「本居宣長」を読むにあたっても、”引っかかる語”を文中に見つけるたびに印をつける。”引っかかる語”は読み返すたびに増え、単語ごとに色を変えて印をつけていくので、私の「本居宣長」はとてもカラフルだ。
“引っかかる語”のひとつに「こころ」がある。「本居宣長」において「こころ」は、「心」、「情」、「こころ」または「こゝろ」と書き分けられ、表記の違いによって意味が違う。「こころ」または「こゝろ」と平仮名で表記されるのは、主に、本居宣長や賀茂真淵らの文章から引用されている場合である。また、「意」にも、「ココロ」とルビが振られる場合がある。「意」は、その漢字のとおり「意味」という語義で使われているようだが、それをわざわざ「ココロ」と読ませるのだから、何か意図するものがあるに違いない。そこで、「こころ」については、表記の違いによってさらに色分けし、印をつけることを徹底して行った。私が「こころ」という単語に引っ張られてしまうのは、やはり、作曲家として、人の心の働きについて知りたいと、無意識ながらも、常に思っているからだろう。私は作曲という行為を通して、自分の、そして、人の心が如何につくられているかを知ろうとしている。
今回は、「心」と「情」の微妙な違いに焦点を当ててみたい。私なりに「本居宣長」を精査した結果、人の心には「心」と「情」の両方を用い、事物の心には「心」のみが用いられていることがわかった。つまり、人の心は「情」になり得るが、事物の心は「情」にはなり得ないということのようだ。私たちは日頃、「心」という言葉を曖昧に使ってしまっている。一般的には、人の精神活動をつかさどるもの、気持ち、物事の本質などを意味するが、そもそも「心」とは何であろうか。まず人の「心」について考えてみたい。小林秀雄先生は「紫文要領」から、以下の部分をたびたび引用している。
「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるゝにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、151頁、8行目)
すべての事を心で味わい、事の質を自らの心で分別する。人の「心」には、事物を味わい、分別する働き、つまり、事物を味識する働きが備わっているというのである。さらに本文を参照していく。
「『感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也』(『紫文要領』巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事に触れて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない」(同第27集、151頁、18行目)
「しかし、事物を味識する、『情』の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。『情』が『感』いて事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証することは出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう」(同第27集、164頁、4行目)
「『人の実の情をしるを、物の哀をしるといふなり』(『紫文要領』巻下)。『人の実の情』は知り難い。こんなに不安定なものはないからだ。『感は動也といひて、心のうごくこと』(『玉のをぐし』二の巻)だからだ」(同第27集、262頁、2行目)
以上の参照箇所などから、人の「心」とは、事物に触れた際に機能するセンサーのようなものであろうと思われる。その感じて動く性質、それ自体が、心を「心」たらしめる。そして、人の心の機能は、その心の本体を所有している本人でさえ、コントロールすることができない。心が事物に触れたら最後、自ずからその機能が働いてしまうのだと強調されている。
「情」は、動いている状態の「心」の本体とその機能を表すようだ。「『情』の曖昧な働き」「『情』が『感』いて事物を味識する様」「感く人の情」などのように、「情」は必ず、動きを伴っている。「心」は事物に触れて動く。その動くさまが「情」であり、「情」が自らその動きの質を見極めることによって、対象の事物を味識する。
人はみな、本能的に、「心」を自らの内に所有していることを知っている。が、実のところ、自分の内に心が在ることを意識するのは、気持ちや感情を見出したとき、つまり、「心」本体が「心」として機能して動き、「情」となって「情」の機能が働いたときだ。それらの働きは瞬時に起こるので、すべてを一緒くたにしてしまいがちだが、本質的には「心」と「情」の機能が、実情や感情を見出している、というのが正しいのではないだろうか。
「問題は、人の情というものの一般的な性質、更に言えば、その基本的な働き、機能にあった。『うれしき情』『かなしき情』という区別を情の働き浅さ深さ、『心に思ふすぢ』にかなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう」(同第27集、150頁、9行目)
事物の「心」は、その事物の「本質」という語義で使われている。しかし、事物の心といっても、「事の心」と「物の心」とは、私たちにとって大きく違うように思う。「事」とは出来事であり、「事」が起きたとき、私たちはすでにその出来事に関わっていて、起こった「事」を自身の内に受け取っているので、自然に、事の心を自らの心で感じることができる。しかし、物の心は知り難いように思う。なぜなら、物の心のほうから、人の心に近づいてくることはないと思われるからだ。私たちが積極的に「物」に関わり、物の心を知ろうと努力しない限り、私たちの心が物の心に触れることはできないだろう。
「情」というのが、動いている「心」の状態とその機能であるならば、本文中で、事物に対しては「情」が使われていないことに、納得がいく。事物の心は人の心のようには機能しない。しかしながら私は、事物の心も、ある一定の動きを持っているのではないかと感じることがある。私たちの心は、おのずから、音という、物理的には空気の振動にすぎないものに、美しさや感情など、様々なものを聴き出そうとする。その聴き出そうとする努力により、感動することができる。そのとき「心」は、実際に空気の振動によって振るわせられ、それによって感動を見出しているのではないだろうか。
「心が事に触れて感く」という表現に、心同士が物理的に「触れて」いるような感覚を得ることができる。「心が事に触れて感く」とき、人の心と事物の心とは、現実に「触れ」合っているのではないだろうか。事物の心はある一定の振動を持ち、人の心は、実際に事物の心に触れることによって、事物の心の振動を受け取る。すると、人の心は事物の心と共振する。人の心は共振を引き起こされることによって、事物の心の振動の質を知ることになる。これが、「事の心を知り、物の心を知る」ことではないだろうか。
「触れる」ということに関しては、小林先生の文章にこのような表現がある。
「焼き物好きは、いつの間にか、触覚に基づいて視力を働かすようになっている。陳列棚の焼き物も、硝子越しに、触るように見ているものだ」(同第25集、132頁、10行目)
「心が事に触れ」ることを「事物と情との交渉」とも言い換えることができるようだ。
「宣長が、『源氏』に、『人の情のあるやう』と直観したところは、(中略) ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れてくる事物と情との緊密な交渉が行われている世界である」(同第27集、164頁、13行目)
さらに、小林秀雄先生の文章のなかには、「物に心が在ったら」などと、物を人に見立てるような表現が時折見られ、それらにも、事物の心の振動を感じることができる。
「『源氏』という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向に気に掛けはしまい。だが、凡そ、文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう」(同第27集、196頁、14行目)
「誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知ることではないだろう。そんな格別な事を行うより先きに、物事が生きられるという極く普通な事が行われているだろう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経験の世界に現れて来る物は、皆私たちの喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、無色の物が這入って来る余地などないであろう。それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい」(同第27集、277頁、2行目)
「私は壺が好きだ。もし焼き物に心があるなら、盃も徳利も皿も鉢も、みんな壺になって安定したい、安定したいと願っているようにさえ感じられる」(同第25集、133頁、12行目)
おそらく、この世の事物の心は、すべて振動している。私たちは、自らの心の機能を鍛えていくことによって、より多くの事物の心の振動を察知することができるようになり、より深く、事物との交渉を試みることができるのだろう。私たちは事物と関わることによって、自らの心をチューニングすることができるのだ。
(了)