九 「あしわけ小舟」を漕ぐ(下)
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契沖は、真言宗の僧である。寛永十七年(一六四〇)の生れだから、享保十五年(一七三〇)に生れた宣長からすれば九十年前の人である。
その契沖については、出自から死去まで、「本居宣長」第七章に精しく書かれている。それはまた小林氏の契沖に対する共感の深さを示すもので、契沖の学問と生涯の神髄は、「本居宣長」の第六章、第七章で尽くされていると言っていいほどだ。が、「萬葉代匠記」の経緯については、第七章に次のように書かれているのみである。
――契沖の研究が、仏典漢籍から、ようやく国典に及んだのは、十年ほどの泉州閑居時代であった。「萬葉代匠記」が起稿されたのは、天和三年(四十四歳)頃と推定されているから、契沖の歌学と言われているものは、すべて二十年に足らぬ彼の晩年の成果であったと言ってよい。時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介な性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかかりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこころをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをささぐ」と契沖は書いている。……
これに先立って、小林氏は、第六章に「あしわけ小舟」から、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」を引き、次いでこう言っている。
――彼(宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……
「本居宣長」を読んできて、私はいま、宣長の「もののあはれ」の説の濫觴へと遡り、「あしわけ小舟」を読んでいる。それは、契沖が「源註拾遺」で、「源氏物語」は「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言い、宣長はその「可翫詞花言葉」の体得・体現を徹底することによって「もののあはれ」の説に到達したのだが、宣長にとって「可翫詞花言葉」は、「源氏物語」に即して契沖に言われるより先に、十九歳で始めた詠歌修業を通じてすでに身についていたと思われるというところから始めている。そしてその「可翫詞花言葉」は、詠歌に打ちこむなかで定家本人から教わってもいて、契沖が「源註拾遺」で言った「定家卿の詞に、歌ははかなくよむ物と知りて、その外は何の習ひ伝へたる事もなしといへり、これ歌道においてはまことの習ひなるべし、然れば此物語を見るにも大意をこれになずらへて見るべし」にもただちに反応し、詞花言葉を翫ぶという詠歌の経験をそのまま「源氏物語」を読むという経験に活かしたと思われるのだが、そのとき、宣長が明瞭に意識においていたのが契沖の「一大明眼」であった。
契沖は、古歌や古書にはその「本来の面目」がある、「萬葉集」の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏物語」の雅言はこれを書いた人の雅意をそのまま現す、そこに思い当った、この直覚・直観こそが契沖の「一大明眼」であり、契沖は「萬葉集」を前にしても「源氏物語」を前にしても、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を見る、直かに見る、この態度を貫いた、これもまた契沖の「一大明眼」の具現であったのだが、契沖にその「一大明眼」をもたらしたのが「萬葉集」の校訂と注釈、すなわち「萬葉代匠記」の執筆だったのである。
小林氏は、「本居宣長」は、宣長について何か新しい説を打ち出そうとしたものではない、自分の行ったことは、宣長が残した文章の訓詁注釈である、そう言っている。「訓詁」とは古文に見える語句や文字の意味を明らかにすること、「注釈」とはその「訓詁」から進んで文意を汲み取ることと解していいが、それと同じ意味合で、私は小林氏の文章の熟視と訓詁を志している、ここでは、「萬葉代匠記」という言葉の訓詁を試みようと思う。
契沖の「泉州閑居時代」とは、室生山麓の岩窟で死のうとしたが果たさず、再び高野に上って修行した、それからのことである。小林氏も拠った朝日新聞社版『契沖全集』第九巻「伝記及伝記資料」所収の久松潜一氏「契沖伝」によれば、契沖が再び高野山を下りたのは三十歳前後と推定され、三十代のほぼ十年、和泉の国(現在の大阪府南部)の久井、次いで万町と、いずれも契沖の学徳に感じた人の家に寄寓して仏典、漢籍、和書に親しんだ。
前半五年ほどの久井時代は、真言宗に信心の篤い辻森吉行に招かれ、同家の蔵書であった仏典、漢籍の研究に従った。次いで延宝四年(一六七四)、三十四歳の年からは、祖父同士が加藤清正に仕えていたという縁で万町の伏屋長左衛門重賢家に移り、邸内の養寿庵にこもって同家所蔵の日本の古典を読破した。この万町時代が「萬葉代匠記」の揺籃となった。
「水戸義公」とは、水戸藩の第二代藩主、徳川光圀である。若くして修史の志を抱き、藩主となるや史書編纂のための「彰考館」を設け、俊英学者を全国から招聘して日本史の編纂事業を大規模に推し進めた。その成果が、今日、「大日本史」の名で知られるもので、「本居宣長」でも第三十一章で言及されているが、光圀は「大日本史」の編纂と並行して、日本の古典の蒐集整備にも力を注いだ。その古典整備の最たる対象が「萬葉集」だった。
宣長が現れるまで、「古事記」は誰にも読めない碑文のような存在になっていたが、「萬葉集」も同じだった。「古事記」ほどではなかったにしても、そこに書かれている萬葉仮名と呼ばれる漢字の群れをどう読めばよいのか、こうではないか、こうだろうという読みは古来いくつも試みられたが、それらはいずれも誰にも得心がゆくというものではなかった。
しかも、それだけではなかった。いつしか「萬葉集」は、文字が読める読めないの困惑もさることながら、「萬葉集」とは本来、どういう姿の歌集であったのか、それがわからなくなっていた。平安時代以来、萬葉仮名をなんとか読もうとした人たちが、「萬葉集」と言われる本を写し写ししている間に、誤字・衍字も混じれば脱字や恣意的改変も起り、かくして何種類もの「萬葉集」が存在することになった。そこでたとえば、これは柿本人麻呂の歌であると左注(歌の左側にある注記)に書かれていても、人麻呂はこの歌を、ほんとうにこう詠んだかどうかは疑わしいというような事態に陥っていた。
光圀は、そこを憂慮した。日本の修史にこれだけの手を尽す、そうであるなら日本の古典、就中「萬葉集」の再建も喫緊の大事と思った。光圀にそう思わせるに至った悲劇は、九〇〇年前、「萬葉集」が大伴家持によってその全容を調え終えられた直後に起っていた。
新潮日本古典集成『萬葉集』の伊藤博氏の解説によれば、「萬葉集」の編纂は七世紀の末、巻第一に「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」の歌を残した持統天皇が、皇位を譲って上皇となった文武年間(六九七~)に始り、桓武天皇が即位した天応元年(七八一)前後の頃まで、八十余年の歳月を閲して行われたらしいという。
したがって、編者も何度か入れ替わった。初期には歌人としても傑出していた柿本人麻呂が、次いでの時期には太安万侶が、さらには山部赤人、坂上郎女らが、歴代の編者として想定され得るが、今日見られる全二十巻の最後を担ったのは大伴家持である。
家持の前までに、今日の巻第一から巻第十六まではほぼ出来ていた。家持は、そこに最後の手を加えるとともに、巻第十七から巻第二十までを編み足して全二十巻とした。まだ整備すべきところが残ってはいたが、それにしても日をおかず、家持はその全容を公にして朝廷の認証を得るつもりであった、ところが、そうはいかなかった。
家持は、「萬葉集」を完結させた直後の延暦四年(七八五)に死去した。のみならず、死んで二十日余り、藤原種継暗殺事件が起り、家持はその首謀者とされて官位を剥奪され、罪人に落とし入れられた。種継は、桓武天皇の信任篤かったが、皇太子の早良親王とは対立していた。家持は、早良親王の東宮大夫であった。したがって、事件の首謀者というのは濡れ衣で、東宮大夫であったがための連座であったかも知れないのだが、ともあれ罪人の関わった財産や書類はすべて官庫に没収する、それが当時のならわしだった。家持は、「萬葉集」最後の巻第十七から巻第二十までだけでなく、巻第一から巻第十六までの最終整備にも深くかかわっていた。そのため、「萬葉集」は、全巻が罪人の書として忌避され、官庫の一隅に長く放置されることになったらしいと伊藤氏は言っている。
「萬葉集」が日の目を見たのは、それから約二十年後である。延暦二十五年(八〇六)三月、桓武天皇の病平癒のための大赦があり、家持は二十一年ぶりに罪を解かれて名誉を回復した。奇しくもこの日、桓武天皇は崩御し、平城天皇が即位して大同元年となった。平城天皇は、桓武天皇がひらいた平安京よりも古京・平城京を愛した。その平城天皇の前に「萬葉集」が据えられ、古き時代の風雅・文雅の結晶「萬葉集」は、平城天皇によってようやく認証されたのであろうという。
しかし、「萬葉集」にとって、吹いた逆風はこの二十一年ではすまなかった。史上、国風暗黒時代と呼ばれる時代が「萬葉集」を襲った。平城天皇の弟、嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~)から淳和天皇を経て仁明天皇に至るまでの三十年間、制度、文物、すべてに唐風すなわち中国風がよしとされ、文芸面では漢詩文がもてはやされて倭歌は片隅に追いやられた。その兆しはもう桓武天皇の時代に見えていたが、嵯峨天皇は兄平城天皇と戦を交えたほどの天皇である、「萬葉集」に関してはその存在さえ知らなかったかも知れない。平城天皇の在位はわずかに四年であった。この四年間を除いて「萬葉集」は、五十年にもわたって忘れ去られたも同然の境遇に置かれたのである。
五十年といえば、現代でも多くの物事が忘却の彼方へ去り、退化や風化が嘆かれるが、「萬葉集」の悲劇は現代文明の比ではなかった。「萬葉集」は、萬葉仮名で書かれていた。五十年の間に、その萬葉仮名が石化し、誰にも読めなくなっていった。国風暗黒時代がようやく幕を閉じ、「古今集」に代表される国風文化の幕が開く直前の寛平五年(八九三)、嵯峨天皇の即位から言えばざっと八十年の後、菅原道真の撰とされる「新撰萬葉集」が編まれた。その「新撰萬葉集」の序には、「萬葉集」は、「漸くに筆墨の跡を尋ぬるに、文句錯乱し、詩にもあらず賦にもあらず、字体雑糅し、入ること難く悟ること難し」、そう書かれている。「賦」はここでは漢詩と解しておいてよいだろうが、「雑糅」は、種々の物事が雑然と入り混じっているさまである。要するに、「萬葉集」は、菅原道真級の学識をもってしても読めない、何がなんだかさっぱりわからない、そう言われていたのである。
「萬葉集」が編まれた頃は、平仮名も片仮名もまだ生まれていなかった。文字と言えば漢字しかなかった。その漢字が中国から日本に渡ってきたのは今から二〇〇〇年ほど前と言われているが、だとすれば「萬葉集」が編まれ始めた七世紀の末は、漢字が渡来してからもう数百年が過ぎた頃である。したがって、当時の知識人はかなり自在に漢字を使いこなしていたようなのだが、その漢字を用いて日本語を書き留めるということも漢字が渡来した直後の一世紀に始まり、五世紀、六世紀になるとその数はいちだんと増えていた。そして七世紀、「萬葉集」の時代ともなると、人それぞれに漢字による日本語表記の知恵を競うようにもなっていた。
こうして生まれた漢字の用法、後に「萬葉仮名」と呼ばれるようになる漢字の使用法によって記された萬葉歌を並べてみよう。( )の中は『国歌大観』で打たれている番号である。
熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜(八)
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山(二八)
東野炎立所見而反見為者月西渡(四九)
田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留(三一八)
宇良宇良尓照流春日尓比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆(四二九二)
「萬葉集」には約四、五〇〇の歌が収録されている。その約四、五〇〇首すべてが、こういう表情で並んでいたのである。まさに「字体雑糅し、入ること難く悟ること難し」であるが、いまここに引いた五首は、今日では次のように訓まれている。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山
東の 野に炎の 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ
田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 情悲しも 独りし思へば
「萬葉仮名」で書き残された萬葉歌は、今ではこうしてほとんどが読める。依然として難訓歌はあり訓みをめぐって議論の絶えない歌もいくつかあるが、ともかく「萬葉集」は今は読める。永きにわたって仮死状態に陥っていた「萬葉集」が、ここまで息を吹き返したについては、何人もの学者や歌人の蘇生努力、すなわち萬葉仮名訓読の試行錯誤が繰返されたのだが、それらを踏まえてというより、それらを一気に飛び越えてと言っていいまでに、今日通行の訓みの過半を示したのが契沖だった、契沖の「萬葉代匠記」だった。大伴家持の手で「萬葉集」が最終的に成ってから、契沖が「萬葉代匠記」を書き上げるまで、その間およそ九〇〇年の歳月を要した。
「萬葉集」は、世に顧みられることなく放置されていた八十年の間に、誰にも訓めなくなった。一言で言えば、萬葉仮名には、こう読ませるためにはこう書く、こう書かれていればこう読むというような、万人共有の正書法などはまるでなく、すべては筆録者各人の恣意に拠っていた。漢字には表意性と表音性が備っているが、日本語を漢字で、漢字だけで記すにあたっては、その両方が随時、随意に利用された。
『新潮日本文学辞典』の「萬葉集」の項で一見しよう。まずは表意文字として漢字を用いた場合である。これには、日本語の意味に相当する漢字を用いたものと、漢語をそのまま用いたものとがある。前者の例としては「我」(われ)「暖」(はる)「丸雪」(あられ)「京師」(みやこ)などがあり、後者の例としては「餓鬼」(がき)「法師」(ほうし)「布施(ふせ)」などがある。
次いで、表音文字としての用法では、漢字の音を借りたものとして「和礼」(われ)「波流」(はる)「安良礼」(あられ)「美夜故」(みやこ)などがあり、漢字の訓を借りたものとして「鴨」(助詞の「かも」)「名津蚊為」(なつかし)などがある。
さらには、表意性、表音性の外に出て、戯書と呼ばれるものもある。「蜂音」「牛鳴」は蜂の飛ぶ音、牛の鳴く声の擬声語を利用してそれぞれ「ぶ」「む」の音を表す、あるいは「二二」で「し」の音を表し、「重二」も「し」、「二五」は「とお」、「十六」は「しし」、「八十一」は「くく」の音を表すなどの数遊びめいたもの、「山上復有山」と書いて「出」と読ませるような手の込んだものもある、「出」の字の形はたしかに「山の上にまた山」である。
それどころか、『日本古典文学大辞典』の「萬葉仮名」の項によれば、「萬葉集」の多彩な文字づかいの背後には、歌の筆録者たちの文学的な用字意識があり、漢字を仮名として使用しながら表意性を捨てきることはせず、漢字の意味喚起性にもこだわったところから多様な文字選択が生じているという。たとえば「恋」は、「孤悲」とも書かれている。ということは、それによって萬葉仮名は、いっそう複雑になり、「文句錯乱、字体雑糅」の度をますます深めていたのである。
この、「萬葉集」の「文句錯乱、字体雑糅」状態を、最初に重く見たのは村上天皇であった。大伴家持が死んだ延暦四年からでは一六六年後の天暦五年(九五一)、村上天皇は宮中の梨壺に和歌所を設け、坂上望城、紀時文、大中臣能宣、清原元輔、源順の五人に「古今集」に次ぐ勅撰集「後撰集」の編纂と、「萬葉集」の付点とを命じた。「点」とは本来は漢文訓読のための補助記号を言い、返り点などがそれにあたるが、そこから転じて注釈のことも「点」と言うようになった。
村上天皇は、この「梨壺の五人」に、「萬葉集」を読み解けと命じたのである。これは史上唯一の公式事業であるばかりでなく、平仮名・片仮名が生まれた後の時代で、初めて「萬葉集」を一般に読めるものにしたという意味で画期的だったと『日本古典文学大辞典』にはある。この「梨壺の五人」が残した訓みは「古点」と呼ばれ、その数、四〇〇〇首を超えていたと推定されている。ちなみに、清原元輔は清少納言の父である。
これを承けて、平安時代には藤原道長らの「次点」が現れもしたが、梨壺の五人に次いで特筆されるのは鎌倉時代の僧、仙覚である。仙覚は十三歳で「萬葉集」の研究を志し、四十四歳の年に諸本を見る機会を得て校訂本をつくり、それまでは点のついていなかった一五二首に訓をつけた。その後も校訂作業を続けて仙覚新点本を完成させ、最後は「萬葉集註釈」を著して難解歌八一一首に注を施すなどした。この仙覚の校訂事業と注釈は、「萬葉集」の享受・承継史上、不滅の意義をもつとされている。
それから四〇〇年余り、「萬葉集」はその間にまた錯綜し、江戸期に入って光圀が立った。光圀は、水戸家の事業として、「萬葉集」の自前の校訂と注釈とを志していた。延宝五年(一六七七)、彰考館の史臣、佐々宗淳らに京都で「萬葉集」関係の書を集めさせ、天和元年(一六八一)には注釈を、翌年には校合を史臣たちに命じ、それと並行して下河辺長流に協力を頼んだ。しかし長流は、小林氏の文を引けば「病弱の為か、狷介な性質の為か」、任を果さずに死んで光圀の要請は契沖が引き継いだ。
契沖は、天和三年(一六八三)頃、「萬葉代匠記」の執筆にかかり、貞享四年(一六八七)頃に初稿本を完成、さらに元禄二年(一六八九)、初稿本の全面改稿にかかり、翌三年、その結果を精選本として光圀に献じた。初稿本は初稿本で、今日なお輝き続ける大著だが、光圀はそのすべてをよしとして満足はしなかった。契沖が叩き台として用いたのは、当時最も流布していた木活字本の寛永版本であった。契沖は他の本はほとんど見ず、寛永版本だけで本文改訂や改訓を行い、註釈を施していた、光圀の不満は、契沖の用いた本が寛永版本だけであったことにあった。そこで光圀は、水戸家で集めた四種の本を校合した「四点萬葉」その他の本を契沖に貸し与え、契沖は、その、より精密な校訂本を叩き台としてまた全巻にわたって「萬葉集」を読み解いた、それが精選本だった。初稿本から精撰本まで、要した歳月はわずかに七年ほどだった。契沖の学識の広さ深さと集中力を思うべきだろう。
こうして「萬葉集」は、契沖によって、本来の姿と心に復した。契沖の「萬葉代匠記」は、大伴家持が仕上げたまま石化していた「萬葉集」の大半を、ほぼ家持が意図したとおりの「萬葉集」として蘇生させた。林勉氏によれば(「万葉代匠記と契沖の万葉集研究」、岩波書店「契沖研究」〈一九八四年刊〉所収)、契沖が底本としたと思われる寛永版本に、彼がどの程度の本文校訂や改訓を試みたかを見てみると、その該当箇所は三五七〇ヶ所に上り、うち一九六一ヶ所、すなわち約五〇パーセントが現在なお「萬葉」研究の世界で認められている、部分的な支持まで加えれば、約六三パーセントが今日も生きているという。林氏は、「萬葉代匠記」の「萬葉」研究史上における重要度は、その質の高さは言うまでもなく、創見の量においても注目に価すると言っている。
先に、戯書と呼ばれる萬葉仮名として「山上復有山」を紹介したが、これを「出づ」と初めて訓んだのも契沖だった。
この戯書は、巻第九の「虚蝉乃 世人有者……」と始まる長歌(一七八七番歌)の中に、「毎見 恋者雖益 色二 山上復有山 一可知美」と見えているのだが、契沖が底本としたと思われる寛永版本の訓は、濁点を補って書き写すと、「ミルゴトニ コヒハマサレド イロイロニ ヤマノヘニマタ アルヤマハ ヒトシリヌベミ……」だった。
これを契沖は訓み変えた。まず初稿本ではこう言っている。
――これは色に出でば人しるぬべみといふべきを、「古楽府」に藁砧今何在、山上更有山といふは、藁砧をば、砆といふゆへに夫の字とし、出の字は、まことには、中の画上下をつらぬきて、二の山にはあらざれども、しか見ゆれば、夫はすでに遠く出てゆけりといふ心に、山上更有山と作れるをふみて、出るといふ事を、山のうへにまたある山とはいへり。唐ノ孟遲が詩に、山上有山不得帰と作れるも、「古楽府」によれり……
そして、精選本ではこう言っている。
――色二山上復有山、者、今按、此ヲ三句ニヨメルハ非ナリ。(中略)イロニイデバ、ト一句ニ読ベシ、其故ハ「古楽府」ニ、藁砧今何在、山上更安山、云々。此山上更安山トハ、出ノ字ヲ云へり。正シク山ヲフタツ重テカクニハアラネド、見タル所相似タル故ナリ。唐ノ孟遲ガ、山上有山不得帰、ト作レルモ此ニ依レリ。今モ此義ヲ意得テ、イデト云フタ文字ヲ、山上復有山トハカケルナリ。……
宣長の言う「難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」の「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ」がここにも見て取れるが、「ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタ」契沖の「一大明眼」は、宣長と上田秋成との論争を紹介し、宣長の「古学の眼を以て見る」ということに説き及ぶ第四十一章に至って披露される。
――自分の学問は、古書を考える学問に於いて、古今独歩たる契沖の大明眼によって、早速に目がさめたところに始った、と宣長は言うのだが(「あしわけをぶね」)、その契沖の古伝についての考えはというと、――「和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。ただ仰てこれを信ずべし」(「萬葉代匠記」巻第二)という、まことに簡明なものであった。……
とまず小林氏は言い、次いで、契沖の注を読む。
――この契沖の言葉は、天智天皇の不予に際して奉献した大后の御歌、「青旗の 木幡の上を かよふとは 目には見れども 直に逢はぬかも」の訓詁の結びとなっている言葉だ。「木ノシゲリタルハ、青キ旗ヲ立タラムヤウニ見ユ」という意味合から、「青旗」は、「木幡」の枕詞をなす。木幡は天皇の御陵のある山科に近い。天皇崩じ給わん後、「神儀ノ天カケリテ木幡ヲ過、大津宮ノ空ニモ通ハセ給ハム事ヲ、皇后兼テ能ク知食セドモ、神ト人ト道異ナレバ、ヨソニハ見奉ルトモ、ウツツニ直ニハエアヒ奉ラザラムカト、歎テヨマセ給ヘルカ」と契沖は按ずる。そして、「いかさまにも只ならぬ御詞なり」と感歎するのである。……
これを承けて、小林氏はさらに言う、
――皇后にとっては、目に見る天皇の御魂も、直に逢う天皇の聖体も、現実に、直接に、わが心にふれて来る確かな「事」であるのに変りはないので、そういう生活感情の率直な表現は、人を動かさずには置かず、其処には、この判じにくい表現は、何の譬喩かというような、曖昧な思索の入りこむ余地はない、というのが、契沖の「只ならぬ御詞」という言葉の含みなのだ。歌の姿が神異なら神異で、「ただ仰てこれを信ず」るがよいのである。「歌道のまこと」を得るには、他に道はない。この契沖の明眼は、宣長の学問のうちに播かれた種であった。国史を遡って行けば、それは神歌神語に極まるのだし、もし現在のうちに過去が生きているのを感得出来ずに、歴史を云々するのは意味を成さない事なら、契沖の得た「まこと」は、今日も猶「まこと」である筈だ。そういう一と筋の道が、人の道を問う学問を貫くのを、恐らく宣長は、契沖を知った時に、早くも予感していたと見ていい。……
これを小林氏は、第六章の末尾ではこう言っている。
――彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……
しかし宣長は、「萬葉代匠記」を、読み通すことはできなかったようだ。初稿本だけは写本を読めたようだが、精選本は読めなかった。「萬葉代匠記」は、そもそもは光圀の、水戸家の「萬葉集」再建事業のための基礎資料として要請されたものであった。したがって、契沖から水戸家に献じられた後は、水戸家の「釈萬葉集」のための参考資料として秘蔵された。そのため、精選本の写本が世に流布することはほとんどなかったらしいのである。宣長が今井似閑の「似閑書入本」を読んで言った、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」には、そういう事情が伴っていたと思われる。小林氏が精読した「青旗の 木幡の上を かよふとは」の歌の注釈は、精選本に見えるものであるが、ここに小林氏が引いている注釈の結語、「和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。たゞ仰てこれを信ずべし」は、初稿本に記されている。
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こうして契沖は、藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」を「萬葉集」で実行し、「萬葉集」の「詞花言葉」を「翫味」「翫索」して「一大明眼」をひらき、そしてついに前人未到の歌学を打ち立てて古歌本来の面目に達したのだが、その契沖に先立って、歌を詠むという実際行動の心構えとして「可翫詞花言葉」を宣長に示したのは定家であった。
先に、小林氏は、歌とは何かという課題が宣長の体当りを受け、これを廻って様々な問題が群がり生じた、歌の本質とは何かに始り、その風体、起源、歴史……と、あらゆる問題が宣長に応答を迫ったと言い、この意識の直接な現れが「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成していると言っていたが、わけても歌の歴史を追い、「新古今集」に至って定家に説き及ぶくだりは殊のほか煮えたぎっている。
宣長は、歌の道の興廃を論じれば、と言って、上代の「古事記」「日本書紀」に見えている歌から説き起こし、「萬葉集」、「古今集」、そしてそれ以後の勅撰集と、歌が興隆してきた歴史を辿っていき、「新古今集」に至って言う。
――サテ新古今ハ、此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ、上一人ヨリ下々マデ此道ヲモテアソビ、大ニ世ニ行ハルル事、延喜天暦ノ比ニモナヲマサリテ、此道大ニ興隆スル時也、凡ソ歌道ノ盛ナル事、此時ニシクハナシ、歌ノメデタキ事モ、古ヘノハサルモノニテ、マヅハ今ノ世ニモカナヒ、末代マデ変ズベカラズ、メデタクウルハシキ事、此集ニスギタルハナシ……
「新古今集」は第八番の勅撰和歌集である。後鳥羽上皇の命で鎌倉時代の初期、元久二年(一二〇五)に一応の完成を見た。「古今集」からでは三〇〇年ちかくが経っていた。
「上一人」は天皇である。「延喜天暦ノ比」は醍醐天皇と村上天皇の時代、すなわち、「古今集」と「後撰集」が編まれた時代である。歌の道は、そういう盛時をも凌いで、「新古今集」に至って頂点に達した、この上はもうないと言うのである。
しかも、「新古今集」の時代は上も下も歌に粉骨砕身したから、名人も多く出た、その名人の数でもこの時代を抜く時代はないが、
――ソノ名人ノ中ニモ、定家卿コトニスグレ玉ヘリ、サレバ俊成卿ノ子息トイヒ、コトニ歌モ父ヨリモナヲスグレテ、他人ノ及バヌ処ヲ詠ミイデ玉フユヘニ、天下コゾッテアフグ事ナラビナシ、マコトニ古今独歩ノ人ニテ、末代マデ此道ノ師範トアフグモコトハリ也、予、又此卿ヲ以テ、詠歌ノ規範トシ、遠ク歌道ノ師トアフグ処也……
定家は「新古今集」の撰者のひとりでもあった。
では、その「新古今集」のような歌を詠もうと思えばどうするか。「新古今集」ばかりを見るのはよくない、レベルが違い過ぎるからだ。そうではなくて、「古今集」に始る三代集、すなわち「古今集」「後撰集」「拾遺集」をよく見るのがよい。現に「新古今集」時代の名人たちは、いずれも三代集を手本にした、なかでも定家は、心を古風に染めよ、そのためには三代集を手本にせよ、と言った、三代集をよくよく学べば、おのずから風体がよくなり、「新古今集」を髣髴とさせる歌になるのだ、と宣長は書いている。
いずれ詳しく見ることになるが、定家の時代、他の諸芸と同じように、歌も父から子へ、師から弟子へという伝授が重視されていたと思われている。が、宣長は、とんでもないと言う。歌の道に伝授ということが言われ、それが幅をきかすようになったのは定家の子、為家の代からであり、定家の代まではそういうことはない。定家自身、「コノ道バカリハ身一ッニアル事ナリ」と言っているが、
――ヨクヨク歌道ノ本意ヲ味フテミヨ、古今ノ序ニ、人ノ心ヲタネトシテヨロヅノ事ノハトナルトイヒ、定家卿ハ、和歌ニ師匠ナシ、旧歌ヲ以テ師トストノ玉ヘル如ク、此道バカリハ、心ヨリイデクル事ニテ、ナカナカ人ヨリ伝フベキ事ニアラズ、フルキ歌ヲ、イク度モイク度モミテ、心ヲソムルヨリ外ノ伝授ハ、サラニナキ事也……。
そう宣長は書いている。
こうして、歌の歴史から説き起して詠歌の心得を説く宣長の背後に、定家はずっと立っていたのだが、近世になって、先達と言われる人たちですら歌道に暗く、歌学に疎くなった。そのため、古書の注解なども浅薄で誤りが多くなった、歌というものは、深い心と玄妙な味を探らなければ真意は表れ難い、注によってはとんでもない歌に見えてしまうこともしばしばある、契沖は、そういう蒙昧暗愚な近世の歌学界に現れた、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……」、この宣長の敬歎と感服は、「あしわけ小舟」のいわば最終章で言われるのだが、それに続いてほとんど結語のように、宣長はこう言うのである。
――ヨッテ詠歌ハトヲク定家卿ヲ師トシテ、ソノオシエニシタガヒ、ソノ風ヲシタフ、歌学ハチカク契沖師ヲ師トシテ、ソノ説ニモトヅキテ、ソノ趣キニシタガフモノナリ……
定家に発して契沖を経た「可翫詞花言葉」は、こういう実地に歌を詠むという切実な経験のなかで宣長に受け取られたと思われるのだが、この「可翫詞花言葉」が容易でないことは、「あしわけ小舟」でもう言われている。小林氏は第六章に引いている。
――源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……
これが、小林氏が言った、「詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事」であった。
宣長の「もののあはれを知る」の説は、これだけの手間暇をかけて、「あしわけ小舟」に続いた「紫文要領」で本格的に打ち出されるのだが、「あしわけ小舟」において「もののあはれ」という言葉自体は、ただ一ヵ所に見えるのみである。
――スベテ此道ハ風雅ヲムネトシテ、物ノアハレヲ感ズル処ガ第一ナルニ、ソレヲバワキヘナシテ、タダモノヒタフルニ流義ダテヲ云ヒ、家ノ自慢バカリヲスルハ、大キニ此道ニソムク大不風雅ノ至リ、我慢我執ノ甚ダシキモノ也トシルベシ……
宣長の「もののあはれを知る」も、第八章以降、小林氏によって語られる中江藤樹から伊藤仁斎、荻生徂徠へと受け継がれた「独」の血脈を承けていた。
(第九回 了)