小林秀雄氏の椅子

冨部 久

北海道の山々にも遅い春が訪れる。

うず高く降り積もった雪が濁流となって海に流れ出すと、雪の下には、はや若い命が息づいている。

私はまだ深い残雪を踏み分けながら、山道を急いでいた。

昨年、九州の段谷福十氏と契約した下駄棒十万足の納期が切迫していたのである。

ふと、私は道端の異様なふくらみを持った「タモの切り株」に目がとまった。

タモはモクセイ科に属し、北海道の代表的な木材である。

この地方では、冬、雪の上で立木を伐採すると、乾いているような粉雪の上をソリで山出しする。雪の下で切り倒すから、雪がとけると地上に一メートルもの高さのある切り株が顔を出すのだ。

私は衝動にかられて、やにわに腰に下げた手斧を振りあげ、その切り株のふくらみを削った。黒くなった樹皮の下から真白い木肌に、うずを巻いたような「もくめ」が現れた。

その、あまりの美しさに、私はしばらく我を忘れて見惚れていた。

「朽ちるにまかせているこの沢山の切り株。このなかには、このように美しい杢木が少なからずある。生かす道はないだろうか? もし、生かすことが出来たら―」

 

北三会発行『ツキ板に生きる―尾山金松の生涯―』冒頭より

 

歴史にタラレバは禁物だが、それでも、私は思わずにはいられない。もし、下駄職人であった尾山金松さんが、大正9年にこの「タモの切り株」を見逃していたら、そして、仮に目に留めたとしても、手斧を持っていなくて削ってみることが無かったら、そしてさらに、これが一番肝要なのだが、削って現れた「もくめ」が、玉杢たまもく(うずを巻いたような木目のこと)ではなく、何の変哲もない木目だったら(実は、美しい玉杢が現れるタモ材は、数十本に一本くらいの希少な存在なのである)、どうなっていたことか?

恐らく、タモの玉杢を下駄に貼った「すずらん履」も、昭和新宮殿の国産材による簡潔かつ風格のある内装も、ニューヨーク・リンカーンセンターにある音楽ホールのモアビ材による華麗な演出も、そして、最近では、JR九州の「ななつ星in九州」の豪華列車内にふんだんに使われている銘木壁紙シートもこの世に存在しなかったことだろう。

しかし、これら三つの偶然がたまたま積み重なって、賽は投げられたのである。

この尾山金松氏を創業者とし、ツキ板(注・ツキ板とは木材を薄く切削したものを言い、現在の日本での標準厚みは約0.2㎜である)を始めとする銘木製品の製造に特化した北三株式会社に、私は1980年に入社した。以来ほとんど毎日のように、様々な木の、ありとあらゆる木目を眺め、味わい、吟味し、製品にして世に送り出してきた。

 

太古の昔より人類の傍らにあって慣れ親しんできた木材は、人々に安らぎや寛ぎを与えてくれる有り難い自然素材である。そして、人の顔が一人一人違うように、同じ樹種でも丸太を削った後に現れる木目は、その色柄が厳密に言えばみんな違う。色の薄いものもあれば、濃いものもあり、年輪間隔の広いものもあれば、狭いものもある。枝の位置に至っては、一つとして同じものはない。人が生まれ育ってきた環境によって、様々な個性を持つのと同じように、木もまた、親木の持つ遺伝子、根付いた場所の土壌の質、太陽の光の当たり具合、気温や気候、その他様々な因子により、様々な個性を持つのである。だから、長年ずっと木目を見ていても決して飽きることはない。新しい木に出会うたびに、また新しい発見があるのだ。

 

こんな自分であるから、小林秀雄氏の山の上の家でも、自然とそこで使われている様々な木に目が行くのであるが、ある時、池田塾頭に氏が使われていた椅子についてお伺いすると、いかにも歴史を感じさせる二脚の木製椅子を指さされ、「これは小林先生がご存命の時からありました。先生をお訪ねした日はいつも、私もこの椅子に坐って先生とお話ししました」とおっしゃった。座には荒々しい木目の浮かぶケヤキのような木が使われていて、背や脚の部分は針葉樹のようなのっぺりとした木が使われている。裏をよく見ると、『YEW WOOD WINDSOR CHAIR』という文字と共に、判別し辛い数字が手で書かれたシールが貼ってあった。

その後、『ウィンザーチェア大全』という本が日比谷図書館に所蔵されていることが分かり、さっそく仕事の帰りに立ち寄って借りてみた。読んでみると、ウィンザーチェアとは17世紀後半にイギリスで生まれた木製椅子のことで、シンプルでありながら美しいデザインを持ち、頑丈かつ座り心地が良く、世界的にも人気のある椅子であるとの記載がされていた。

使われている木についてであるが、YEW WOODは日本ではイチイと呼ばれ、針葉樹にしては重厚な材質を持つことから、家具によく使われる木であることは知っていた。中でも、小節が適度に入っているものが好まれるが、この椅子に使われているものもまた、節が所々に入っていて、かつては枝であった痕跡が味わい深い。

そしてケヤキだと思ったのは、ELMであることも分かった。ホラー映画(エルム街の悪夢)や昭和の歌謡曲(高校三年生)の歌詞でも有名なこの木は、日本では欅の代用として家具等に使われる。ちなみに、ELMもケヤキもニレ科の木である。人馬等に輸送の手段が限られていた当時の家具職人は、まずは地元にある木を切って、これを利用したとされている。それはどこなのかと本のページをさらに繰っていると、様々な形をした椅子の写真が掲載されていて、鎌倉の山の上の家にあるものは、イギリス中部のヨークシャー辺りで製作されたボウバックタイプのものと同じ形状をしていることが分かった。

ここまで分かれば、今度はいつ頃制作されたものなのかの確証を得たくなった。シールの数字は辛うじて『179X』とは読めるが、このシールが200年以上前に貼られてそのまま残っているとは考えにくい。そこで、本の著者の一人である西川栄明氏に連絡を取って話を伺うと、その形状から、19世紀初頭(18世紀の終わりも入るに違いない)に作られたものではないかということであった。とすると、シールに記載されている数字はある程度信頼できるものだと言える。フランスではナポレオンが帝政を始め、日本では寛政の改革が終焉を迎えた時代に、世紀を跨いで日本の鎌倉の山の上の家にやって来る運命を持った二脚の椅子が、イギリスのヨークシャー地方で誕生したのだ。

 

同書では、日本にウィンザーチェアを系統的に紹介した人物としては、バーナード・リーチ、柳宗悦、そして濱田庄司が挙げられている。彼らは白樺派の志賀直哉や武者小路実篤とも交流を持っていたので、小林秀雄氏は親しかった志賀直哉を通じて、ウィンザーチェアのことを知っていたのかもしれない。氏がどういういきさつでこの椅子を手に入れたのかについて思いを巡らせていたところ、奇しくも去る3月1日、小林秀雄氏の命日にその娘さんである白洲明子さんが北鎌倉の東慶寺に墓参される折、池田雅延塾頭と塾生の有志とで同行する機会に恵まれ、その後の山の上の家での茶話会で、直接明子さんにお伺いしてみた。すると、椅子は、小林家が山の上の家へ引っ越して来た日、秀雄氏自らが横浜に行って買ってきたものだという。恐らく、本物の骨董品を見射貫くと同じ目をもってして、伝統を引き継ぐ優れた家具職人が作ったウィンザーチェアもまた購入されたのだろう。

第五次小林秀雄全集別巻IIの表紙や季刊誌『考える人』2013年春号には、氏がこの椅子に座っておられる写真が掲載されている。氏の様々なる思索のいくつかを、このウィンザーチェアがしっかりと支えていたこともあったに違いないと思うと、大変感慨深いものがある。

 

そして今、池田塾での勉強中は、その二脚の椅子の上に小林秀雄氏の大きな遺影が載せられている。氏は少し微笑みながら、我々をじっと眺めている。優しそうではあるが、その透徹した視線に見詰められていると、自然と背筋が張ってくる。本物に少しでも近づき、その魂に触れることがあなたがたの使命だと、その瞳は我々塾生にしっかりと語り掛けてくれているような気がする。

(了)