「そんなこんなで1時間ですね、どんどんしゃべっちゃうもんでね」
講義が終わりに近づき、吉田悦之館長がこう言われたとき、受講者の方々から笑いがおきたが、私はその笑いで、あっという間に時が経過していたことに気づいた。
さかのぼること4時間前、勤めている学校の補習授業を終えたその足で、東京駅から新幹線に飛び乗った。松阪駅からタクシーを飛ばしてもらって、会場である松阪公民館にすべりこんだのがちょうど14時。すでに会場は満席だったため、隅にあったパイプ椅子をそっと出して、息を切らせながら着席した。そこまでして今回の松阪行きを決めたのは、吉田館長の「宣長十講」を拝聴したかったからである。
館長の講義は、宣長がどのように生きてきたかだけでなく、その当時の人々の暮らし、息遣いまでが想像できる内容で、まるで時間旅行をしているようだった。
宣長といえば、古文の授業では『玉勝間』や『源氏物語玉の小櫛』などを題材にする。今年のセンター試験でも『石上私淑言』が出題されたが、大学でも毎年、入試問題として多く出題される。私は中高一貫校で国語を教える身であるが、授業中はどうしても文法事項や意味理解が主となってしまい、文面の背景にある考え方を深く追うこともなく時間が過ぎていく。吉田館長の講義の余韻に浸っていた私は、はっと自分のことを振り返り、「生徒たちにとって私の授業はさぞかし長いものだろう……」と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
2日目には本居宣長記念館の収蔵庫を拝見する機会に恵まれ、館長からたくさんの資料を見せていただいた。そこで驚いたことは、宣長の字の細かさと丁寧さである。電気がなく明かりと言えば蝋燭だけの時代に、しかも筆字である。この文字を見たときに、ふと随筆『玉勝間』の一節が思い出された。
――常に筆とる度に、いと口惜しう、言ふかひなく覚ゆるを、人の請うままに、面なく短冊一ひらなど、書き出でて見るにも、我ながらだに、いと見苦しうかたくななるを、人いかに見るらむと、恥づかしく胸痛くて、若かりし程に、などて手習ひはせざりけむと、いみじうくやしくなむ……。
現代語に訳してみればこうなる。
――いつも筆をとるたびにとても残念で情けなく思われるのだが、人が望むままにあつかましく短冊一枚など、書きしるしてみるにつけても、自分自身でさえとても見苦しくみっともないので、人はどのように見ているのだろうと恥ずかしく胸が苦しくて、若かったころになぜ習字をしなかったのだろうと悔やまれてならない……。
授業でこの部分を扱うと、「宣長さん、すごい人なのに字は下手なのね」と反応する生徒もいれば、「謙遜しているんだよ、そんなこと言っている人に限って字が上手なんだから」という生徒もいる。ただ、この丁寧な字を見る限り、「恥づかしく胸痛く」なるほど字が下手だとは思えなかった。国語の便覧や解説書のようなものをみても、当然のことながらそれに関する記述は見当たらない。そもそも受験指導とは関係のない内容だからだろう。しかし、それを知ることで、古典への親しみがわくのは確かだった。筆者を知ることで古典の世界がさらに広がるからである。昨日の「宣長十講」の惹きつけるようなあの講義。1時間をあれほど短く感じさせることのできる吉田館長だったら、どういう返答が返ってくるのだろう。私は思いきって聞いてみることにした。
「いや、それはね、本当に字が下手だと思っているんだと思いますよ、大きな字を見てごらんなさいよ、ほら、勢いがないの。しかも震えているでしょう?……」
記念館にあるスクリーンを拡大してみせ、わかりやすく説明してくださった。ふう~んとこちらが納得して話が済みそうになったとき、思い出したかのようにこうおっしゃった。
「あとね、謙遜とか、そういう、心に思ってないことを口に出すってことはね、彼はしないと思いますよ……」
小林秀雄は『本居宣長』の中で、
――実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。
と述べている。まさにそこに書いてあることが、宣長の全てであり、「謙遜」などの余計な解釈はいらないのである。そして館長の言葉は、いかに私自身が解釈だらけで日々過ごしているかを思い知らされる言葉でもあった……。
「……もうひとつ、館長、お聞きしたいんです。蘭学について宣長は医者としてどのように、思っていたのでしょうか?」
前野良沢とは人を介して手紙のやり取りをしたそうだが、宣長は悪いところを切ったり、切ったところを縫ったりする西洋医学とは距離を置きたいと考えていたようである。それよりもまずは「元気」(人が本来持っている治癒力)を高めることのほうが大切だと考えている人だった、と分厚い文献を見ながらご教示いただけた。現代の医学で、ある意味問題視されている部分を、的確に言い当てている宣長の考え方にますます感服したのである。
この話を聞いて、池田雅延塾頭がおっしゃっていたあるエピソードを思い出した。
「小林先生はね、自分がちょっとでも風邪ひいたかな? と思ったら、とにかく寝るの。どんなに高熱が出ても西洋医学の薬はいっさい服まず、うんうん唸りながらも部屋を暖かくして蒲団をかぶり、自分の身体が回復するのを待つんだよ」
これこそ宣長のいう「元気」に基づいた小林秀雄の行動であろう。西洋医学の薬は服まなかったといわれる彼は、自身の治癒力を信じていたのである。
吉田館長の話しぶりは、あくまでも客観的かつ冷静で、自分の想像だけで発言することはない。だからこそ、その背後に宣長がいるような、宣長が自身の思いを吉田館長に言わせているような、そんな気がしてならないのである。
幸運にも2日間とも天候にめぐまれ、タクシーの車内や宣長記念館、街中を歩いていても松阪の人々の優しさにふれた。また、松阪は食べ物も素晴らしい場所。このような場所で長い年月をかけて、名もなき人々が精神の研鑽を積み、その中のひとりとして宣長が生まれたのは必然であるように思われた。
(了)