松阪へ、『恩頼図』の中へ

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした―」

三月十七日、松阪公民館で本居宣長記念館・吉田悦之館長のお声が響いた。『宣長学に魅せられた人々』と題し、宣長さんを巡る人々を約三十名も登場させたご講義終盤のことだった。江戸時代の松坂へと誘われタイムスリップした気分で、ふと資料最終ページの『恩頼図』を見ると、図の中央部の円がすうっと球体に膨らんだように見え、はっとした。

この『恩頼図』は、宣長さんの学問の系譜を表し、上中下と三つに分かれた瓢箪のような形をしていて、次のように名前や著作名が書かれている。

上部…先人や師の名前(堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家など)

中央…宣長さんの位置を示す円のみが中央に描かれている

下部…門人や著作の名前(棟隆、直見、大平、道麿、千秋、『古事記傳』、『玉勝間』など)

宣長さんの死後、養子の大平おおひらが門人に頼まれ図示したという。上部には十五、下部には六十二もの書き込みがあるが、中央の宣長さんの部分は空白になっている。その真っ白い平面の円がすうっと膨らむように見えたのだ。

 

ご講義の中で、吉田館長はこの『恩頼図』に書かれた人々の生身の声を、書簡や文献をもとに生き生きと蘇らせていかれた。

上部に書かれた師の堀景山は「この男は見所があるぞ」と直観し、『日本書紀』や契沖の『百人一首改観抄』を貸し与える。賀茂真淵は生涯一度の対面ながら、「万葉集を直接教えてやりたい。江戸に抜け出してこい」と訴え、自身の学問の継承を望む。

下部に書かれた門人は宣長さんの元に次々と押し寄せる。松坂の嶺松院歌会では、いながきむねたかが「なぜ人は歌を詠むのか、もののあはれとは何か」と問う。田中道麿は美濃から松坂まで一晩中歩いてきて「直接質問できたおかげで、生まれ変われた」と歓喜する。

横井千秋は「『古事記伝』を理解できたわけではないがこの世に広めたい、これこそ大事だ」と私財を投げうって刊行費を出資する。ほうらいひさたかは『古事記伝』を書き写し「古典の注釈でこれほど詳しく考えた人はいない、尊い世の宝となるはずだ」と確信する。

一方で、儒者のいちかわかくめいは、『古事記伝』の「なほびのみたま」の草稿「みちといふことあげつらひ」を批判した『まがのひれ』を刊行する。宣長さんは『くずばな』を書き、「『古事記伝』の中で都合の良いところだけ持っていくのは駄目だ、すべて是かすべて非かどちらかだ、『直霊』が分からなければ駄目なのだ」と激しく反論する。

小林先生は『本居宣長』第二章でこう書かれている。

「或る時、宣長という独自な生まれつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである……」

吉田館長もこの部分をご講義冒頭で読み上げられ、「まさに思想の劇なんです」とおっしゃった。

もう一度『恩頼図』を見ると、思想劇の中心である宣長さんを示す球体は、上部とも下部とも繋がりつつも、動じないような、それでいて内部は動き続けているような量感を感じさせた。

 

「ここが宣長さんの頭の中です」

翌日、吉田館長に記念館の収蔵庫に入れていただいた。厚い防火ドアを抜けると、左手には千数百枚もの版木が、中央や右手には膨大な書物や巻物が並んでいた。ここが『恩頼図』中央の内部……と思った瞬間、ほの暗く静謐な空間の先はどこまでも奥深く続き、その虚空にも多くのものが漂っているように見えた。

ここに飛び込んで小林先生は『本居宣長』を……、そして吉田館長は『宣長にまねぶ』を、池田塾頭は「小林秀雄『本居宣長』全景」をお書きになっている。ここにはどれだけの文字と、それを生み出した目に見えないものがあるのかと思うと足がすくんだ。

吉田館長が貴重な直筆の『枕の山』を開いてくださった。宣長さんが遺言書を書いた後、愛してやまない桜を詠んだ歌を三百首以上も綴ったものだ。その文字はごく小さくあまりに細く、だが絹糸のように生々しいものだった。ふとそこにあるすべての文字が脈打っているように感じた。

収蔵庫を出ると、その脈動に感応するかのように、来館者の方々が陳列ケースのガラスに額を押し当て資料に見入っていた。記念館主催の『古事記伝』素読会では、松阪の方々が難解な古語を朗々と読み上げていた。記念館近くの路上では、散歩中の男性二人が「おや、スミレが咲いてるよ」「これは、何のスミレかな?」と足を止めて語り合っていた。

「あ、宣長さん、須賀直見……」と思った。その姿に、吉田館長のご講義を思い出したのだ。

「須賀直見は『源氏物語』の読み合わせにも最初から参加し、信頼された弟子ですが、三十五歳の若さで亡くなりました。その三日前、宣長さんは枕元で『狭衣物語』を読み聞かせました。『我をおきて いづちにいけむ 須賀の子は 弟とも子とも 頼みしものを』という歌を詠んで嘆いていますが、ここまで激しく感情を表した歌は、ほかにありません。直見は野辺に咲くスミレを掘って庭に植えるほどスミレが好きでした。男性でスミレの花を愛おしむなど軟弱と見る向きもありますが、宣長さんは六十八歳で『源氏物語玉の小櫛』九巻を書き終えた末に、『なつかしみ またも来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも』と詠み、スミレの咲く春野を『源氏物語』にたとえて三十年以上も前に直見と読んだことを懐かしんでいます」

その時、宣長さんの眼差しが浮かんだ。自画像のきりっとした目元とは違ったものが見えた気がした。

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした――」

吉田館長のお言葉が蘇る。

「松阪に行くと、これからの学びが立体的になりますよ」

今回の松阪旅行幹事の山内隆治さんのお言葉も蘇る。『恩頼図』の中央内部で足がすくみはしたものの、宣長さんのことをもっと知りたいと思った。そして、ここ松阪に宣長さんはたしかに生きて、今も松阪のいたるところに……と実感した旅だった。

 

帰途につく前、松阪城址から宣長さんの眠る山室山の奥墓の方角を探し、皆でその方向をしばらく見やった。前日の奥墓でのことを思い出した。

池田塾頭が宣長さんの墓石の前でこうおっしゃった。

「では、しばらくそれぞれ目を閉じて……」

その言葉に、皆の呼吸がすっと揃った。次の瞬間、光が消え、音が失せ、無が広がった。思わずかすかに目を開けると、墓石と山桜の幹が見え、その空間を包むように立つ皆の気配を感じた。ふっと小林先生の『本居宣長』最終第五十章の一節が浮かんで、息がつけ、また目を閉じた。

「死は『千引石』に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来る……此の世の生の意味を照し出すように見える」

第一章では、小林先生はこうお書きになっている。

「彼には塚の上の山桜が見えていたようである」

必ずまた松阪へ、山桜の頃に奥墓へ……と、思っている。

(了)

 

教師のいる風景

松阪の本居宣長記念館を訪れるたびに、小林秀雄先生が講演で語った言葉を思い出す。

昭和36年8月15日、長崎県雲仙。「現代思想について」という演題の講演(注)で、一年後に還暦を迎える小林先生が語るのは、歳をとることと物を考えることとの関係、ユングやフロイト、ベルグソンの思想、そして教師というものについてである。

このなかで先生は、伊藤仁斎が京都で開いた塾を例に、教師とは「真理とはこういうものだと人に教えようとする一人の人物」のことだと力強く説く。

 

私にとって七度目の松阪、本居宣長記念館。すべて、池田塾の塾生とともに、本居宣長の奥墓参拝と吉田悦之館長のお話を伺うことが目的の旅である。今回は、宣長研究者を招いて年に十回開催される「宣長十講」、平成29年度の最終講義で、吉田館長が「宣長学に魅せられた人々」というお話をされた。配られた資料のはじめに、小林秀雄「本居宣長」から「或る時、宣長といふ独自な生まれつきが、自分はかう思ふ、と先づ発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反発したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである」の一文が引かれている。吉田館長は、宣長とその学問に魅せられて、これを支えた松坂の人々や、学者としての素質を見抜いて宣長学に大きな影響を与えた堀景山や賀茂真淵、宣長の熱心な読者から門人となる人や思想的な対立にいたる人物までを含めて、宣長の学問に関わる運命にあった人々の、まさに「思想劇」を具体的に描き出してくださった。

 

幸運なことに、今回も、吉田館長のご配慮で、記念館の資料収蔵庫を見学することができた。吉田館長はこの収蔵庫を「宣長さんのアタマの中」と表現する。そこには、本居宣長直筆の書物や、「古事記伝」の版木、その他宣長の学問に関する資料が保管されている。暖かい色合いの優しい照明を受けながら吉田館長が書物を紐解く場面では、歴史に直に触れている感覚が生じて、緊張の中、大きな安心感に包まれるような不思議な心持ちになる。

いつも思うことなのだが、ついさっきまで本居宣長と会っていたのかと錯覚するほど、吉田館長から伝え聞く「宣長さん」にはリアリティがある。質問があるとすぐに、数ある資料の中から該当するものを取り出しては、宣長や宣長学に関わった人々のエピソードを、思い出話のように話してくださる。そして「宣長さんの学問や生活への気配りは、とても一人の人間がやれる仕事の量ではない。不思議だ。不思議だ」と言って、首をかしげている。膨大な資料が整然と保管されている様が美しいその場所は、宣長さんのアタマと吉田館長のアタマが時を超えて重なり合う空間なのだ。

 

二日目には、記念館で毎月行われている「古事記伝」の音読を体験した。参加しているのは、松阪の老舗旅館の女将など、生まれ育った町を愛し、松阪が生んだ宣長を誇りに思う人たちだ。

吉田館長の音読に続いて参加者が音読する。時折、館長の解説が入る。皆、「古事記伝」原本の複写に目を落とし、必死に漢字を追いかけながら音読する。それだけを繰り返す。全四十四巻、宣長三十五年間の思索の轍を辿る旅。吉田館長が「この音読、自分の寿命を勘案すると、とても最後までたどり着けない」と笑うと、続いて参加者も笑う。

このような光景に接するとき、私は、「教師」について語った小林先生の言葉を思い出すのである。

小林先生は冒頭の講演の中で、教師というのは、自分の信念を受け取る人があると信じている人であり、これは弟子に魂がうつるということで、それこそが教育の原理だと述べる。松阪の人たちが、吉田館長という教師と向かい合って、共鳴し合う光景。私にはそれが美しいと感じられた。その共鳴がある空間には、音にはならない振動があって、なんとも心地が良い。吉田館長は、自分が好み、信じる宣長さんの姿と魂を追いかけながら、生徒のほうを振り返っては、これをできるかぎり伝えようと努めておられる。そういう教師のもとに集う人の心のなかでは、宣長さんに魅せられていることと、吉田館長に惹かれていることとは判別できないものになる。仁斎や宣長が行った講義に集まった人々も、きっと、同じような心持ちで学んでいたのだろう。

 

宣長が「源氏物語」の講釈を行っていたその土地に、宣長の魂を伝えようとする一人の教師が現れた。松阪の、歴史を湛えたような町並みのなかで、「古事記伝」の音読を淡々と続けている吉田館長と松阪の人たちの姿が、長い年月をかけて学問を続けた本居宣長や小林先生と重なり、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている「倦まずおこたらず」の大切さを、はっきりとした形で認識することができた、貴重な松阪訪問となった。

(了)

 

(注)新潮CD小林秀雄講演 第4巻所収。
 

言葉から人間を知るということ

私たちは、誰かの言葉が心にしみて生きる勇気をもらったりすることもあれば、そんな気はなくても出てしまった言葉で人を傷つけたりすることもある。言葉は美しくもなるし恐ろしくもなる。また、素晴らしい詩や小説に出会うと、自分の枠から抜け出た世界へ連れて行かれたり、日記や手紙を書くと心が整理されて落ち着いたりするという、心の切り替えを促す手がかりにもなる。人は普段、言葉に埋もれて生きているせいか、それ自体が人間にとってどのように大切なものなのか、その意味を考えることには無頓着である。そして、考えようにもその働きはなかなか見定められるものではない。

小林秀雄先生の『本居宣長』には、この立ち止まってもなかなか正体がつかめない言葉への見通しが幾筋もの光のように放たれている。

 

入塾して間もない昨年の春、池田塾頭から、小林先生は『本居宣長』を執筆される際、折口信夫氏に「本居宣長は源氏ですよ」と助言されたというお話を伺った。自然と私は、その意味を追うように、この殿堂のような作品を読み進めて行ったのである。

しかし、「『源氏物語』の味読による宣長の開眼」は、そう易々とは景色を現さない。読む人は、引用された宣長の原文を咬みしめ、前へ戻りつ先にあずけられつしながら、丁寧な小林先生の語り口をじっと見つめることで、全容が浮かび上がってくる仕掛けを知るのである。そこには、必ず見入ってしまう花や木のある寄り道があり、その香りに誘われて、ついもとの道を忘れてしまうほどだ。私はこの、宣長の森をくるくると冒険しながら、「言語表現の問題」という謎めいた不思議な木に遭遇してしまった……。

 

本居宣長と言えば、「物のあわれ論」が有名であるが、小林先生はこれを、宣長にとっては、歌人たちが当たり前に扱ってきた言葉ではなく、日常語として使われようとも、その含蓄する意味合いの豊かさに驚くべき力を持つ表現性であったと言う。そしてそれをまず、「物のあわれ」と「物のあわれを知る」とに区別して、「物のあわれを知る」とはどういうことかに読者の関心を誘う。

 

そもそも「物のあわれ」とは何か。宣長に聞いてみると、「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、こころの深く感ずることをいふ也。俗には、たゞ悲哀ひあいをのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上いそのかみ私淑ささめこと」巻一)と言っている。現代の感覚では、「あわれ」と聞けば、物悲しいとか、情趣を催す言葉のイメージしかなかったけれど、この、喜びも悲しみも、最初はすべて「あわれ」であったという言葉の成り立ちの中に身を置くと、人間の「心」のスケール感を省みざるを得ない。便利さや効率のおかげで、一見いつも平常心を備えているかのような現代人からすると、衣食住や生死が、今よりはるかに思うままでなかった古代の人の心の景色は、もっともっとダイナミックだったのだろう。

しかし、宣長は続ける。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、たゞかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)と。「あわれ」はこうして何時の間にか、特に悲哀の意に使われるようになっていった。人は、願いが叶うと、すんなり次の行動に移して、それまでの切実な願いは忘れてしまうが、叶わない場合は、そこに深さ浅さはあるけれども、悲しみや苦痛に立ち止まって、自分の心を見つめてしまう性質があるというのだ。

 

さて、宣長によれば、「歌」とは、この「あわれ」をはらすために生れた最初の「物」であるという。しかしそれはどうも、私たちが思っている歌のような、心の動きによって、何かを表現したい感情から作られたものとは違うというのだ。もっと原初的な叫びのかたちであり、頭で考えて発話する言葉よりも先に発生したものであるらしい。

「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよくあやありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、かならずコトなる物にして、その自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづからあやある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑言」巻一)

身近な例でいえば、私は、「たゞの詞」(橋岡注:日常の発話)の表現を知らない赤ん坊の泣き声を想像する。赤ん坊の欲望の表し方は、その種類によってトーンが違う。眠くてたまらない時は、激しく始まり、だんだん弱くなって眠りにつくが、その自分の声のリズムに慰められながら安心して寝入っていくように見える。この、泣くというリズミカルな「かたち」が歌の始まりに似ているのではないだろうか。

そしてその歌より重要なことは、この「カタチ」なのだと宣長は言う。それは赤ん坊が、泣くというリズムによって「安定する」、こういう妙技が、人間の性情の中に組み込まれているからだろう。小林先生も、「歌とは、先ず何をいても、『かたち』なのだ。或は『あや』とも『姿』とも呼ばれている瞭然りょうぜんたる表現性なのだ。歌は、そういう『物』として誕生したという宣長の考えは、まことにはっきりしているのである」と付け加えられている。それ故に、人々が古来、深い悲しみや願いからやる方なしに発した嘆きは、歌となり、礼、楽、舞踏などに発展し、「カタチ」に基づく表現性として、それらは今日でも芸術という創造の道に広がっているのだろう。

 

ところで、宣長には「和歌の功徳」という考え方がある。

「『心ニオモフ事』は、これを『ホドヨクイイツゞクル』ことによって死に、歌となって生れ変る。歌の功徳は、勿論もちろん歌の誕生と一緒であるから、『心ニオモフ事』のうちに在るはずはない」。この考え方を受けて先生は、「もし、『心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイイツゞクル』詠歌の手続きが、正常に踏まれ、詠歌が成功するなら、誕生したその歌の姿は、『マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也』と宣長が言っている事になる」と言う。

私は、この「和歌の功徳」のくだりがとても好きだ。これまで、心が動いた経験から出る感情は、ずっと心の糧として無くならないものだと信じていた。それを、自分の思考でどうにか表現したものが歌なり文章なりになり、きっかけとしての心の動きも、「カタチ」となった言葉も、すべて一つの「私自身」と思い込んでいた。しかし宣長は、それを人間の内面の機能として、意外な、しかし本質的な心の働きとしてこちらの認識を新たにする。「実の心」と「歌の実」は直に連続していない別物だと。小林先生は、それを「『言辞ノ道』がはらんでいる謎めいた性質」であり、「詠歌の『最極無上』とする所は、自足した言語表現の世界を創り出すところにある」と言っている。私は自分の思い込みが清々しくくつがえされ、この辺りから、「物のあわれを知る」の「知る」に目を向けよと言う小林先生の声がしっかり聞こえてくるのだった。

 

歌は、まず「カタチ」、あるいは「あや」や「姿」として誕生したとすれば、「歌とは、意識が出会う最初の『物』だ」と先生は言うが、その「意識」とは何か。先生は、「何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向かって広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう」と言っている。これは先ほどからの「物のあわれ」の出現と同じで、意識もここで関わるということである。

私には、意識とは、心が哀しみを感じたとき、自分の経験から知る様々な色の哀しみの中から一瞬にそれを察するもので、それによって、少しずつ深い「認識」へ降りていくような、その「認識」の入り口にある道案内のイメージがある。謂わば直観に似たものかもしれない……だがこれでは戯言のようなので、物慣れない自作だが、かつて詠んだ歌を例に挙げてみる。

 

雨宿り いかづち鳴りて 巻く雲の 色に染まれり 恋心はや

 

二人で駆けこんだ路辺の軒下、雷鳴が轟いて、「意識」が現れる。不意の夕立で恋心が意識され、雨雲の広がりや稲妻によって空がみるみる変化する様に、もどかしく、整理のつかない不安を覚え、すっかり濡れた髪をあきらめる時間は、その心をより深くかみしめる認識の時間だ。

 

小林先生はこのように言う。「堪え難い悲しみを、行動や分別のうちに忘れる便法を、歌道は知らない。悲しみを、そっくり受納れて、これを『なげく』という一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫という一と筋を行く。誰の実情も、訓練され、馴致じゅんちされなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その『かたち』を『つくづくと見る』事が出来る対象とはならない」。はちきれそうな悶々とした思いは、単なる錯乱であり、「自分」ではない。それが歌に成ることによって、そこではっきり「恋」という我が心を所有するのである。

 

「物のあわれを知る」の「知る」とは、この、歌の極意にある「認識」であると言えよう。そしてまた、不安定な心を「カタチ」として安定させていくこの「認識」は、歌に限ったことではない。「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。 ―中略― 言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい」と先生は言う。それは、私たちが、日常の中で様々な困難に遭遇しても、悲哀の呻きに分裂することなく安定を保とうとする「認識」、生きる上での必須の肉体の機能のことであると私は思う。

 

宣長の森で出会ったものは、「源氏物語」や和歌の御簾の向こうにくっきり見える、「言葉は肉体機能である」とでも言っているような宣長と小林先生の大きな影であり、自分自身の影でもあった。小林先生は、宣長を「人間通」と表現されているが、それは、言葉から人間を知ろうとして得た宣長の確信に基づくのだろう……いずれそう見定めたいと願いつつ、私は、まだまだ先を急げない森の深さに圧倒されるばかりである。

(了)

 

文字なき世には文字なき世の

生きるとは何か。人生とは、道とは何か。いつの頃からか、そのような漠然とした不安とともに、山の上の家に、迷子のように辿りついていたように思う。通信簿で1をとるほど、国語の苦手な私が、小林秀雄の本を読むなど、まして、池田塾の同人誌の原稿をこうして書こうなど、夢のまた夢であり、人生とはなんなのか、またもや迷いの淵に立っているのだが、辿りついてみないとわからないものだと、小林氏の声が聞こえるようで文字を書きはじめている。

 

小林秀雄氏を知ったのは、池田塾の募集に応募してからで、それまで氏の名前は響きとしてどこかに記憶されていただろうというほどのものであった。池田塾という名の、何かがあるという引力だけが私を引き寄せていたように思う。引き寄せられるままに聞いたのが、小林氏の講演を収録したCD「本居宣長」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻)である。その氏の語りを切り取ることは、全体の文脈を壊すことになりかねず、趣は氏の生きた声で語られるからこそであることは承知であるが、私の心を掴み、肉声となって聞こえてきた氏の声を、自問自答のはじまりとして、文字に起こさせて頂く。

―「ご承知のように、ソクラテスは、あの人は、一行も物を書かなかった人です。ソクラテスの書いた本なんてありゃしません。ソクラテスを登場人物として、プラトンがあとから書いていますけどもね、ソクラテスは何も書かないで死んだ男なんだ。そのソクラテスがこういう話をしてる、面白いがね、これもまた、宣長さんとおんなじなんです。僕はそれを読んでいて、あーこれは宣長だなぁと思った。宣長も、文字というものを軽蔑してたんです」……

この氏の語る「宣長も、文字というものを軽蔑してたんです」であるが、「軽蔑」という言葉に私の心は鷲摑みされていた。

 

私は、子供の頃から国語に対して嫌悪感を抱いていた。その理由がわかったのは大人になってからで、ナレーターを仕事とされる方に、私の朗読を聞いてみていただいたとき、どこか人と違うという指摘を受けた。難読を機能的にもっているのではないかということだった。今では、そんなこともあろうかというぐらいだが、確かに子供の頃から摑み所のない不安があった。

何処を読んでいるかわからなくなり、鉛筆でなぞりながら読んでいた。そして漢字に丸をつけ、ひらがなは一つ一つを追い、その構成する意味で区切り斜線を引く。例えるなら、ひらがなの一つ一つは、五線譜のない譜面に行き場を失い、音を奏でる自由を奪われた音符のようで、その文字は紙と黒いインクの色彩にゆらぎ、読み進める視線にずっしりと抵抗感を生み出していた。意識すればするほど怖かった。

そういった言語経験のうちに、今は気づかずに、線を引く時もあるが眺めるように読んでいる。

小林氏の「軽蔑」という言葉は、私のこの経験的な無意識に、鍵となって扉を開け、光となって飛び込んできていたように思う。

 

「軽蔑」の意味を、宣長の「くず花」を引き、小林氏は講演で語っている。

―「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」……

読み上げた氏の声は、大きな世界観をもって、静かに刃物のように次の言葉を切り出した。

―「人生ってものは、そういうもんだって言うんだな」…

この宣長のわずか数行の言葉に、「人生ってもの」があると言うのだ。私は時がとまるような思いで耳をかたむけた。

古の文字なき世には、文字なき世の心がある。今の心をもって昔を見ると、さぞかし文字のない世は不便であるように感じるが、そうではない、文字なき世は文字が無い故に、心を動かし、心で記憶していた。その記憶こそが精神の働きである。託する文字がない故に、頼る物がない昔は、自分自身を頼るしかなかったであろう、自分の心を信じるしかなかっただろう。だから、心に記憶していた。驚くべき記憶力だった。

精神の力で、過去の力をいつでも呼び覚ましているからこそ、生きている。精神の力っていうものが生きている。そして過去を呼び覚ます精神の力が知恵である、と、小林氏は言う。

 

氏の言う「軽蔑」は、文字への軽蔑ではなく、現代の、何かにつけて何かに託そうとする私たちの精神に対する軽蔑である。私たちは、便利な世の中でいろんな物に自分を託している。自分のこころを働かせることが少なくなってしまっている。そういう現代人に対し、昔の人は、みんなこころを働かせていたのだと言うのだ。

 

そして、文章は、一生懸命読むとみんな難しいと言う。本当は、どういうことを言いたかったんだろうと思って読むと、文章はみんな難しい。文章の底には、みんな人間がいる。その人間が、いったいどんなつもりで言語表現をしたのか、ちょっと考えれば文章はみんな難しい。たった一つの歌だって、この歌人はいったいどういう心持ちで歌ったんだろうかと思って読むと、歌ってものはいくら読んでも難しい。

そう語り、小林氏は、外から摑む「難しい」という言葉を、内から摑む言葉に切りかえる。

―「難しいとも言わない。『味わい』というものがあるじゃないか」……

 

文字に対する私の嫌悪感は、自分自身を外から文字に託した私の愚昧な心である。精神の裡から摑む光輝な氏の言葉は、崇高な光をもって、私を鞭打っていた。そして、味わいのなかで歌人の顔が見えてくる、と言うのである。

 

宣長は、文字の徳が、言伝えの徳に取って代わった、などと言っているのではないと小林氏ははっきり言っている。言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれる事になったのだが、これは、言霊の動きを大きく制限しないでは行われはしなかった、そういう決定的な事に、世人が鈍感になってしまったと言う。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、172頁6行目)

 

私達の母国語は、文字を生み出した歴史を持たない。帰化人に託して、外部から漢字がもたらされた。私達の言伝えの豊かな言霊の動きは、借りた漢語の殻には納まるはずがなく、生きてもがき、コンクリートを割って芽をだす草木の如く、想像を絶する時間との戦いのうちに、言霊の力が内部から母国語として、新たな姿を成して来たのだ。そういう逆境において己を摑み直す言霊の動きに、万葉歌人の鋭敏な愛着と深い信頼の情は「言霊のさきはふ国」という言葉をつむぎだす。小林氏は時代の「おもむき」を言霊の歴史的生態に見ている。

 

また小林氏は、「詞の玉緒」に、宣長のこの言語問題の扱いを見ている。宣長は、言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の動きを、内から摑もうとすると言う。私達に与えられた道具には、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろうと言っている。「さだまり」は、古より湧き流れる言霊が文字という道具と合体して、まるで私達が母親から生まれ、受け継がれた肉体と精神をもち、悩み苦しみ人生の道を切り開くように、繰り返し引き継がれ、生きられた姿なのだ。古より受け継がれた「さだまり」の姿は、私達自身だと言っていいだろう。氏は言う、私達はこの「さだまり」を意識しながら、「さだまり」に捕らえられているからこそ自在に言葉を使いこなせると。内から摑もうとする宣長は、その言霊の流れを常に見る。湧き流れる精神の内に、自由になれるのだ。物質や時間をも超え、生きた経験を知ることは、己を知ることだと言っているのだ。

私の国語に対する嫌悪感は、この、「さだまり」に捕らえられているからこそ私たちは自在に言葉を使いこなせる、という小林氏の言葉によって打ち消されていったように思う。

 

「本居宣長」第30章にある、小林氏の言葉を引きたい。

―過去の経験を、回想によってわが物にする、歴史家の精神の反省的な動きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己の生き方を知る事に他なるまい。人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味わう事ができるか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己を離脱することを許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。(同、350頁18行目)

 

小林氏の言葉の根底には、「無私と自足」が高次な経験の豊かな流れを生み出す、「物のあはれを知る」という「道」の、宣長のこころの泉と小林氏の精神がともに底流する。

 

さて、もう一度、小林氏の講演に戻る。

氏は言う。本なんかには、哲学の一番肝心なことは書かれていないと、プラトンは手紙に書いている。本当はそうかもしれない、人の知恵が一番伝わるということは、こころを開いて、人と語り合うしかないんだと、ソクラテスと同じことを言っている。そして小林氏も宣長もまた同じことを考えていた。この源泉たる問答は、小林氏が言う、知ることと感ずることが同じであるような、全的認識力の直覚であろう。本質を直に摑み、真理を問う純粋な精神にとって、時に、文字や言葉は副次的な物であろう。

 

小林氏の講演の声を、私たちに届けてくださった新潮社に、心から感謝する。

私は今、北鎌倉の骨董屋で偶然見つけた山桜の短刀の鐔と、小林秀雄氏の「本居宣長」を常に持ち歩いている。

(了)

 

エピファニーについて

ある人が、一つの仕事に取り組んで、それが未完で終わってしまうということ、そして、その仕事について、後の公開を禁じるということは、一体何を意味するのだろうか。

小林秀雄さんが『感想』で目指されたことは、それくらい大きなことだったのだろうと思っている。そして、そのことについて後世の私たちが考える時、真っ先に心がけるべきはその向こうにある巨大な仮想世界のことであろう。

『感想』の冒頭、有名な蛍のくだりがある。蛍を見て、それが亡くなったお母さまだとわかる。この「気づき」ないしは「手がかり」に、全てが込められている。

小林秀雄は、エピファニーの人だった。ここに、「エピファニー」とは、元来は宗教的な意味合いの言葉だが、転じて、現代では、自分の人生について何か本質的で深い洞察をもたらしてくれるような出会い、気付き、覚醒を指す。

道頓堀のモーツァルトにせよ、折口信夫さんの「宣長さんはね、源氏ですよ」にせよ、あるいはゴッホの絵画にせよ、小林秀雄さんの大切な仕事は、エピファニーに端緒を持つ。そこから始まる探究の過程を、小林さんは一つの作品として私たちの前に見せてくれる。

エピファニーが興味深いのは、その一瞬の気づきに全てが込められているように感じられるからである。その後の長い道程は、あたかも、ただ詳細を明らかにするだけのプロセスであるかのように思われる。何故かはわからないが、一瞬のエピファニーの中に、全てがあらかじめ提示されているように感じられるのである。

エピファニーは、科学的探究においても指導的な役割を果たす。例えば、アルベルト・アインシュタインの相対性理論は、15歳の時に抱いた「光を光の速度で追いかけたらどうなるか」という発想が端緒になったとされる。それから10年間、粘り強く考えた結果が、物理学の革命につながった。

アインシュタインの相対性理論で示された、ローレンツ変換の背後にある時空の幾何学や、質量とエネルギーの等価性といった図式が、「光を光の速度で追いかけたらどうなるか」というエピファニーに全て込められていたと考えるのは不思議な気がする。不思議だが、どうもそのようなことがあるらしい気もする。そのように考えないと説明できないことが、世の中にはあるように思う。少なくとも、ある種の創造性の機微は、そのようなプロセスの中にしかない。

ある創造者の大きさは、その人の持つエピファニーの質によって決まると言っても良いだろう。小林秀雄さんは、大きなエピファニーを持つ人だったからこそ、大きな仕事をしたのである。

エピファニーは、常に不意打ちで訪れる。あらかじめ準備されたエピファニーなどない。むろん、そこに至るまでのさまざまな経験や、無意識の思考などはあるかもしれない。自然は連続しており、何事も飛躍しない。意識の側面から見れば非連続に見えるエピファニーもまた、その背後にあるプロセスを見れば連続しているのであろう。

それでも、意識から見れば、エピファニーは突然顕れる。エピファニーは、意識を不意打ちする。そのような形式に最も自覚的だった作家の一人は、ジェームズ・ジョイスであろう。

ジョイスの自伝的小説『若き芸術家の肖像』では、当時のカトリックの価値観が抑圧的なものとして描かれている。その一方で、ジョイスの描く人間像には、エピファニーを重要なものとして捉えるという視点において、キリスト教的な感性からの連続性が見られる。

エピファニーは、キリスト教的文脈で言えば、いわゆるキリストの「顕現」と関連付けられる。キリストの生誕、東方三博士の礼拝、その後の「変容」と言った一連の出来事を通して、キリストの本質が示される一連のプロセスが「エピファニー」である。

ジョイスの『ダブリン市民』は、完璧と言って良い文体と構成を持つ短編からなるが、その各短編において、登場人物は何らかのエピファニーを経験する。いわば、ダブリン市民たちがさまざまな現場、時点において、人類としての総体的な「エピファニー」を経験するのである。

ジョイス自身は、『ダブリン市民』を当初、後に『ユリシーズ』に結実する現代版のオデュッセウスの物語と関連させる構想を持っていたという。ジョイスがオデュッセウスに興味を持ったのは、この英雄が、人類が経験するさまざまな側面の総体を代表する存在だったからだとされる。

ジョイスは、エピファニーを通して、宗教を失った神なき世界においても、人類全体の経験を支えたいと思ったのではないか。無意味の沼地に全体が陥ることを避けたかったのではないか。その意味では、ジョイスは宗教の最良の精神の後継者だと言える。

『ダブリン市民』で最も感動的なのは、そのエピファニーが猥雑な日常の中に突然顕れることである。

私たち一人ひとりは、どうにも整理のつかない、雑然とした人生を送っている。仕事をしたり、休んだり、ものを食べたり、排泄したり、散歩をしたり、眠ったり、親しんだり、反目したりして、決して美しくすっきりなどしない日々を重ねている。

そんな人生の中に、突然、何らかの本質が顕示されることがある。その瞬間、時間は止まって、私たちはあたかも「永遠」に接続したような気分になる。美の原質を垣間見たような気持ちになる。そのようなエピファニーの感触が、私たちの魂をどこか遠いところに連れていってくれる。

日常の中に突然顕れるエピファニーの姿を描く点において、ジョイスは卓越した書き手であった。そして、小林秀雄さんもまた、エピファニーの書き手であった。

ウィーン楽友協会ホールでウィーンフィルの演奏を聞いていて、モーツァルトの本質が降りてくるのではない。道頓堀の雑踏の中を歩いていて、突然それがやってくるからこそ、エピファニーなのである。

音質の悪いSPレコードだけでモーツァルトを聞いていたとしても、それはやってくる。エピファニーは言い訳をしない。エピファニーは、「こんにちは」とは言わない。それは、唐突に挨拶もなしにやってくる。それを捉える感性と誠実さを持つことができるか。焦点はそこにある。

小林秀雄さんは、エピファニーに誠実な人だった。だからこそ、一つの作品として世に問うた。長い時間をかけて、自分のエピファニーに取り組み、付き合った。そこにこそ人間の本質があると信じたからである。

はっきりとしたビジョンや、美意識なしに行われる企ての多くは迷走し、そこに注ぎ込まれたエネルギーや資源が空費され、関わった人みんなが結果としては不幸になる。何故ならば、ビジョンなき企ては、質の低下を招くだけだから。そのような事例を私たちはたくさん見ている。

エピファニーは、その向こうにある無限の可能性へのドアである。直覚することで、より精しく探究する上での道筋、方向が示される。一瞬訪れて去っていってしまうエピファニーを信じてみる勇気があるかどうか、それからの長い道を歩く脚力があるかどうかが、恵みの深さと広さを決める。

小林秀雄さんの著作を読む重大な楽しみの一つは、エピファニーを受け取り、それを追いかける魂の旅路を経験できることである。その意味において、小林秀雄さんは人類経験の総体の中を遍歴する一人の「オデュッセウス」であった。

小林秀雄さんの旅は、心ある人によって受け継がれて、未来へと続いている。

人類の総体として。

(了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年五月号

発行 平成三十年(二〇一八)五月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

弥生朔日、さる3月1日は、小林秀雄先生のご命日であった。

今年も、梅香るなか、ご息女の白洲明子はるこさんの墓参に塾生有志がお供をし、その後、山の上の家にてゆっくりと歓談させて頂いた。

今号では、その貴重な一日について特集を組み、橋本明子さんと松本潔さんに寄稿頂いた。

橋本さんは、「ごく普通の父娘の暮らし」の中にあった、数々の活き活きとしたエピソードを伺いながら、父親としての小林先生が、「生涯、家族を守った」姿を思い浮かべる。そこに、先生の文章の中でもひしひしと感じられる「人として大切にすべきこと」を感得された。

松本さんは、ご自身の実生活や実業家としての実体験も踏まえ、「小林先生の『実行家の精神』と、家族に対する深い責任感と愛情」を体感された。「人形」や「徳利と盃」という先生の作品は、今回、直に触れられた「家庭人としての小林先生」と響き合い、「ご家庭の空気が見えてくる気さえ」したという。

 

 

巻頭随筆には、森康充さんが、医者としての立場で、医者としての宣長さんについて、寄稿された。一見カルテのごとき関連情報の羅列に見える宣長さんの「済世録」について、「単なる帳簿」ではなく、「宣長の生きた証の一つである」という。小林先生の文章を長年愛読されてきた医師としての直観と洞察を味読頂きたい。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、溝口朋芽さんと山内隆治さんに寄稿頂いた。

溝口さんは、「本居宣長」の冒頭にある、謎多き「遺言書」をテーマに選んだ。「源氏物語」の「雲隠の巻」で宣長が出会った「死の観念」は、「古事記」の「神世七代」へと発展し、上古の人が千引岩ちびきいわを置くなかに、「生死を観ずる道」として完了した。その完了する、という行為を言葉にしたものが、くだんの「遺言書」ではないかと思いを馳せる。

 

山内さんの、山の上の家の自問自答は、上田秋成による本居宣長への難詰を、小林先生が「架空の問題」と呼んだことについてであった。その後も思索は続き、「本居宣長」の脱稿後、先生が「変な気持ち」と呼んだ内容に及び、さらに、清々しい「好、信、楽」の道へと続いていく。

 

 

「美を求める心」の飯塚陽子さんは、パリ在住である。カルチェラタンを、「群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」あるように歩き続けながら、詩人ボードレールが、うごめく都市まちについて感じた「感覚的実体」、そして「整調された運動」を直覚する。その横を早足で通り過ぎ去ったのは、小林秀雄先生ではなかったか。

 

風薫る皐月がやってくる。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十二 言葉の行為

 

1

 

前々回以来、小林氏が言った「『源氏物語』という詞花による創造世界に即した真実性」ということに向きあっている。ここにもう一度、第十八章から引用する。

―宣長は、「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

「物語」は、今日でもふつうに耳にする言葉だが、文学が論じられる場では一定の意味合を帯びて用いられる。『日本国語大辞典』等によれば、「物語」とは日本の文学形態の一つで、作者の見聞または想像をもととして、人物・事件について誰かに語る形で叙述された散文、である。狭義には平安時代の作り物語と歌物語とを言うが、「歌がたり」も「歌ものがたり」も同じであり、意味するところは歌についての物語、あるいは歌にまつわる物語である。

今日、最もよく知られている歌物語は「伊勢物語」だと言えるだろうが、その「伊勢物語」は、歌の詞書が長文化することによって生まれた、すなわち、歌に散文的要素が加わり、その散文的要素が膨らんで生まれた形である。したがって、「伊勢物語」は、「歌についての物語」というよりは「歌にまつわる物語」なのだが、いずれにしても宣長が「源氏物語」を歌物語として見る意味合は、「伊勢物語」が世間で歌物語と呼ばれているのとは大きく異っていた。つまり、「源氏物語」は、作中に見える歌の詞書が長文化し、それらが繋ぎ合されて五十四帖の長篇になったのではない。「源氏物語」という五十四帖の長篇物語それ自体が一個の歌なのであり、そういう意味において「源氏物語」は「歌物語」なのである。小林氏は、紫式部が最も心をこめて描いた光源氏と紫の上との恋愛で、この二人が詠み交す歌は、「物語」という大きな歌から配分された歌の破片である、というふうに宣長は読んだと思われると言っている。

そこを、もうすこし踏みこんでいけばこうだ。小林氏は、光源氏と紫の上との歌に対する宣長の読み方を示した後に、

―そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

と言っている。この「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉は、「紫文要領」巻下にあるのだが、そこではこう言われている。

―歌道の本意を知らんとならば、この物語をよくよく見てその味ひを悟るべし。また歌道の有様を知らんと思ふも、この物語の有様をよくよく見て悟るべし。この物語の外に歌道なく、歌道の外にこの物語なし。歌道とこの物語とは、まったくその趣き同じことなり。……

これに対して、問者が問う。

―問ひて云はく、この物語と歌道と、その本意まつたく同じきいはれはいかに。……

宣長が答える。

―答へて云はく、歌は物のあはれを知るより出で来、また物のあはれは歌を見るより知ることあり。この物語は物のあはれを知るより書き出でて、また物のあはれはこの物語を観て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣き一つなり。……

こういうふうに見てくると、宣長が「源氏物語」こそが、また「源氏物語」だけが、本質的な意味で歌物語だという理由は、「源氏物語」のみが「もののあはれを知る」という、歌と同じ制作動機によって書かれている、そこにあると言えそうだ。

 

こうした宣長の見解を背に、小林氏は言う。

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品からき出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉をもてあそぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

そしてこれに、前回引いた次の文が続くのである。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。……

宣長が、「源氏物語」を、本質的な意味合で歌物語と呼んだもう一つの理由は、「源氏物語」の書かれ方、言葉の用いられ方と、歌の詠まれ方、歌の言葉の用いられ方、この双方の「趣き」が、「同じことなり」ということだったようだ。

それがどういうことかと言えば、紫式部は、「源氏物語」で、「もののあはれを知る」ということを濃やかに描いて読者に知らしめようとしたのだが、それを観念的に、論理的に書き表すことはできなかった、なぜなら、「あはれ」は、要は感情であるが、この感情は、「説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」、だから、この現実の感情経験の伝達は、筆者の表現力如何にかかっている、宣長は、それを逸早く感知し、紫式部の示す「もののあはれ」を知ろうとすれば、「もののあはれ」の意味を湛えた「源氏物語」の詞花の姿から直かに感知するほかないとして、「源氏物語」の詞花を徹底して翫び、紫式部が「源氏物語」で馳駆した表現法は、歌人が歌で訴えるときの手法とまったく同じだと読み取った、ということなのである。

では、読む者に、「もののあはれを知る」ということを納得させようとして、紫式部が馳駆した表現力とはどういうものであったか。それは、詞花の工夫であり、詞花に演技を課すということであったと小林氏は言うのだが、ならばその、「詞花に演技を課す」とはどういうことであったのか。前回はひとまず、「紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴った」という言い方をしたが、より実態に即して言うなら、小林氏は、この擬人法を演劇畑から借りたのではなく、音楽の世界の「同じ趣き」に思いを致してこう言ったと思われるのである。

 

2

 

小林氏は、昭和二十五年(一九五〇)四十八歳の四月、「表現について」を発表し、そこでこういうことを言った。

日本語の「表現」は、英語やフランス語の「expression」の訳語だが、

―expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑みかんを潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中味を出すという意味の言葉だ。若し芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から喧ましくなったという事に注意すれば、expressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。……

浪漫主義は、一八世紀の末からヨーロッパに興った芸術上の運動である。それまでの古典主義の様式・形式重視に反抗し、感情、空想、個性、自由、自然といったものの価値を主張した。文学ではルソー、ゲーテらを先駆とし、バイロン、ユゴーらに代表されるが、文学のみならず絵画、音楽と、各方面で展開され、音楽にはこういうことが起った。

―浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかという処にあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。……

そこへ一九世紀の半ば、ワグナーが登場する。

―純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、遂にワグネル(ワグナー)に至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならぬと観ずるに至った。この音の「行為」が舞台に乗らぬ筈はない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。……

Tatはドイツ語だが、ワグナーは、音楽という芸術の現象は音のTat、「行為」である、音が集って一つの劇を演じる、音という役者は和声という演技を見せてくれるのだ、そう観てとって、そこから「タンホイザー」「ニーベルングの指環」「トリスタンとイゾルデ」……と、相次いで舞台に載せたと言うのである。

 

小林氏の「本居宣長」を熟視し、写し取ることを主眼とするこの小文に、宣長とは縁もゆかりもないはずのワグナーが出てきたことに、戸惑ったり首を傾げたりされる向きも多いと思う。が、小文のもうひとつの主眼は、「本居宣長」の訓詁注釈にある。小林氏は、「源氏物語」の迫真性は、紫式部が詞花に課した演技から誕生した子であると言ったが、物語の作者が言葉に演技を課すとはどういうことか、そこに思いをひそめているうち、私の思考は自ずとワグナーへと飛んだのである。

 

この連想は、私としては少しも唐突でない。小林氏は、「本居宣長」で、人間にとって言葉とは何か、そこをあらゆる角度から探究したのだが、この探究課題は氏の六十年にわたった文筆活動に一貫していたものであり、氏はその課題をボードレールから手渡されたという意味のことを前々回、「詞花を翫ぶべし」で書いた。今回ここで注視するワグナーは、そのボードレールに言葉とは何かの閃きをもたらした音楽家なのである。再び「表現について」から引く。

―ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった、それがボオドレエルであります。……

―音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠ヴィクトル・ユゴーの表現が、余りに文学的である事に気付いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多あまたの芸術の綜合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気付かせたという事だ。……

「音楽の雄弁」とは、先に言われていた「どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという表現力の万能」、すなわち、音楽の並外れた暗示力ということである。「詩の饒舌を自覚した」とは、ユゴーを頂点として当時の詩が、感情や空想の自由な告白に夢中になったあまり、ありとあらゆる雑多の観念を詰めこんで散文同様の饒舌に走ってしまっていた、そこに気づいたということである。そうではない、詩には詩の役割がある、音ではなく言葉を用いる詩も、音楽の暗示力に倣うのだ、そうすれば、これまで言葉では表現しきれなかった領域にも、詩なればこその暗示力で到達できるにちがいない……。ボードレールは、それまで、自分たちが生きているこの世には、言葉ではどうしても表現しきれない領域がある、どんなに精緻に詩や文章を書き上げても、言葉の及ばない領域があるということを思い知らされ、苛立っていた。それがそうではない、ワグナーが音楽で音に演技させているように、自分が言葉に演技をさせれば、言葉はその領域にも及ぶのではないか、言葉の持っている意味や観念を超えて、音楽の音のように感覚的実体として読者に働きかける、言葉にそういう演技をさせることで、詩は「沈黙の言葉」としての表現領域を切り開くことができるのではないか、ボードレールはそこに気づいたというのである。

こうしてボードレールは、象徴詩と呼ばれる詩法を創始した。その血脈を最後に輝かせたヴァレリーの言を借りるなら、「音楽からその富を奪回しようとした」ボードレール以下の詩人は、

―ワグネルが音楽を音の行為Tatと感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。……

これを、詩の側からばかりでなく、小説の側から見れば事はいっそうはっきりする。

―対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見る様な錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。……

ボードレールは、ワグナーから啓示を受けて、言葉のTat「行為」に詩を預けた。紫式部も言葉の「行為」に「もののあはれ」を託した。紫式部が伝えようとした「もののあはれ」にも、どんなに言葉を尽しても伝えきれない機微があった。だが、紫式部には、幼時から身につけた歌があった。歌を詠むのと同じ手順、同じ心得で、ということは、「歌道」に則って「源氏物語」を書いた。これが、紫式部が詞花に演技を課したということの意味である。ワグナーが言ったTatとは、和声の行為である。「和声」とは、複数の和音の連結である。歌も、五七五七七の言葉の和音である、「源氏物語」は、そういう和音の連結なのである。言葉が相集って、一つの「行為」を自ずから演じているのである。

つい先ほど引いた小林氏の文、「詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに……」と、「対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では……」をつないで読み替えれば、世に行われている物語の言葉は、専ら読者の観念を刺戟する目的のための記号である、物語のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、読者の頭だけが働く、肉体は休んでいる、だが歌では、言葉は意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける、つまり歌という現実の運動は、読者の全体を動かす、読者は、読者の知性や感情や肉体が協力した詩的感動をもって直接歌に応じる……となる。

まさか宣長が、ましてや紫式部が、こういうことをこういう言葉で考えたり言ったりしたはずはないのだが、小林氏は、まちがいなくこう考えただろうと私は思う。ここまで考えて、宣長が、「源氏物語」こそは、「源氏物語」だけが、歌物語だと言った真意を得心したであろうと思う。

 

3

 

ワグナーは、一九世紀の人である。本居宣長は一八世紀の人である。両者の間に交渉はない。ましてや紫式部は一〇世紀から一一世紀初めの人である。紫式部の心中を宣長が推し量り、なんらかの確信を得ることはあるだろう、だがそこに、ワグナーを割込ませるとは、何がなんでも乱暴ではないか、そういう声も聞えてはいる。

だが、小林氏は、「表現について」でこう言っている。

―犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。併し芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

小林氏の批評は、以後も、いかに生きているかの認識・自覚としての表現、そして、いかに生きるべきかの実験としての表現で、「本居宣長」まで一貫していた。「本居宣長」第十八章ではこう言われる。

―彼(宣長)の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。

第四十九章に至ると、こういう言葉に会う。

―宣長が「上古言伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったという通念から、彼は全く自由であった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えていれば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人性の基本的構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。……

そして、最後の第五十章では、こう言われる。

―宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発ハジメの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

「ふり」とは、「表現」である。「表現」の姿、形である。「人間性の基本的な構造」「人性の基本的構造」「人間の変らぬ本性」……いずれにしても、小林氏が批評を書くことで追究したのは人生いかに生きるべきかであったが、それを考えるために、終始注意を払ったのが、人間は、特に人間の心というものは、どういうふうに造られているかであった。そういう小林氏の眼には、紫式部も本居宣長も、ワグナーもボードレールも、洋の東西、時代の新旧を問わず、「人性の基本構造」を見究め、それを表現することに生涯をかけた先達と映っていたはずである。

(第十二回 了)

 

ブラームスの勇気

十二

ある時、小林秀雄は、「私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家というものは……」と吉田秀和に語ったことがあったという。ただそれが、「独創的な思想家というものはもう出つくした」ということだったのか、「自分がそうでないことがわかった」ということであったのか、その先ははっきり思い出せないと吉田秀和は回想している(「演奏家で満足です」)。

小林秀雄が言った「演奏家」を「批評家」に、「独創的な思想家」を「作家」に置き換えてみれば、この発言は嘗て彼が志賀直哉に書き送った「僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました」という表明の一変奏となるだろう。だがこの発言は、戦前になされたものではない、「モオツァルト」を発表したさらに後になってからのものである。ならば、この「演奏家」は「コメディ・リテレール」座談会で言われた「平凡な解説」者に、「独創的な思想家」とは「早く獲物がしとめたい猟師」としての批評家に置き換えてみるべきだろう。そうすれば、前者の「原文尊重という智慧」、すなわち「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る」という批評の方法が、主観的な解釈を避けてひたすら原曲に肉薄しようと努める演奏家の態度に相似したものであることがわかるはずである。しかも小林秀雄の言う「演奏家」は、ただ他人の音楽を奏でる者の謂ではなかった。彼に言わせれば、作曲家モーツァルトもまた、訓練と模倣とを旨とする「演奏家」であったからである。

 

彼の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。彼が大即興家だったのは、ただクラヴサンの前に座った時ばかりではないのである。独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。(「モオツァルト」)

 

モーツァルトの音楽は、当代の様々な音楽の模倣に過ぎないというのではない。またそれは、あらゆる模倣の訓練を終えた後に新たに書き始められたと言っているのでもない。その音楽の掛けがえのない独創性は、モーツァルトが当代のあらゆる音楽を模倣し尽くした、まさにその瞬間に生じたと言っているのである。、文章は次のように続く。

 

模倣は独創の母である。唯一人ほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える程、独創という観念を化物染みたものにして了った。

 

小林秀雄は、「独創的な思想家というものはもう出つくした」と言おうとしたわけでも、「自分は独創的な思想家でないことがわかった」と卑下したわけでもなかっただろう。他人の歌をどこまでも上手に模倣することで自ずと表れる独創性、それがあれば自分は満足だと言ったのである。「ゴッホの手紙」から「『白痴』について Ⅱ」を経て「感想」へと至る「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の批評の軌跡がそれを証している。彼が振り捨てたのは「独創」ではない、「独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図」であった。

この発言に接した吉田秀和も、前掲の「モオツァルト」の一節を敷衍しながら、小林秀雄が「演奏」という一語で表したものは、随分前から彼の文章に出ていた「創造と伝統」の問題についてのある中核的な思想、あるいは内的な手ごたえを指すと書いている。だがそれと同時に、「近年のは、少し様子がちがうように感じられる」とも言い、「そこに何か、それまでなかったものが加わった」と言う。そしてもし晩年の小林秀雄の思想というものが語られるとすれば、この「演奏」という一語で彼が表したものと無関係ではないだろうと述べている。

これまで見てきたように、「一番立派な解説(演奏)が一番立派な批評でもある」という考え自体は、「ドストエフスキイの生活」を書き終えた頃から既に小林秀雄の裡に胚胎していたものであった。しかし彼が語った「私はもう演奏家で満足です」という言葉(おそらく彼はこの言葉通りに語ったのだろう)には、「演奏家」とは何か、「独創的な思想家」とは何かという問題以上に、「演奏家」と「独創的な思想家」というこの二つの極を巡り巡った末に、自分は畢竟「演奏家」であるという事実へのはっきりした自覚と肯定、そして「演奏家」として生涯を全うすることについての最後の覚悟が込められていたはずである。発言の重点は、「私はもう演奏家で満足です」の「もう」と「満足です」の二語にあった。吉田秀和が感じた「それまでなかったもの」とは、小林秀雄のこの最後の自覚と覚悟のニュアンスではなかったか。

小林秀雄が吉田秀和にそれを語ったのが何時のことであったのかは定かでないが、吉田秀和のこの一文が第三次小林秀雄全集の月報に寄せられたのは、昭和四十二年九月である。五味康祐を相手に「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語ったのは、同じ年の三月であった。「本居宣長」の連載第十二回が発表された頃である(『新潮』四月号)。ちなみにその前の第十一回が出たのは前年の『新潮』十月号で、この二回の間には半年間の空白がある。同誌昭和四十年六月号より開始された連載は、最初の四回までは毎号発表されたが、その後は基本的に隔月で発表され、時にそれ以上の期間を挟むこともあったが、第十一回と第十二回の間の半年間は、十一年半続いた連載の中で最初の大きな中断であり、かつ最も長い間隙であった。

その「本居宣長」第十一回と第十二回は、内容的にみても最初の大きな節目となっている。第十一回は、「随分廻り道をしてしまったようで、そろそろ長い括弧を閉じなければならないのだが……」とあるように、宣長を語ろうとしてまずは契沖、続いて藤樹、仁斎、徂徠と語り継いでいった長大な序論の結語にあたる章である。その「長い括弧」を閉じて、いよいよ第十二回から本論が始まる。宣長の「もののあはれ」論である。「本居宣長」の文体が、ブラームスの音楽のように肌理が細かくれるようになっていくのも、このあたりからだといっていいだろう。妹の証言によれば、その前年に行った講演の中で、彼は「源氏物語」を読まなければ宣長のことは恥ずかしくて書けない、これから本気で「源氏物語」を読むつもりだと語ったそうだが、その後半年間何も書かなかったのはそれを実行したからだという(高見澤潤子『兄小林秀雄との対話』)。いずれにせよこの空白は、本居宣長という大海へいよいよ飛び込もうとした小林秀雄が、その大海原を前にして一つ大きく息を吸い込み手綱を締め直すための沈黙期間であった。「『本居宣長』はブラームスで書いている」という発言は、その沈黙を破るのと同時に行われたということ、そしてこの時、彼が次のような確信を懐いて飛び込んだということが肝心なのである。

 

彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感と呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。(「本居宣長(十一)」)

 

これが、小林秀雄が語った「演奏家」という道であり、「演奏家」であることの「満足」であった。ここで言われた「彼等」とは、「長い括弧」の中で辿られた中江藤樹から本居宣長へと至る「貫道する学脈」を指すが、小林秀雄の中ではその「一と筋」に、ブラームスもいたのである。そして「モオツァルト」で提示された「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」という命題が、次のように再現される。

 

彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚もこうしようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであった……(同前)

 

「音楽談義」の最後で、小林秀雄は、もう自分は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことだと語っていた。それは、一面非常な感動と敬意を覚えながらも結局自分は愛さないと言明したワーグナーの話に続けて言われた言葉であった。音楽史上、この芸術家こそ、「独創的な思想家」たらんとした最大の野心家であっただろう。とすれば、「私はもう演奏家で満足です」と語った小林秀雄は、「私はもうブラームスで満足です」と語ったことにもなる。そのブラームスは、ベートーヴェンという古典を愛し、これを模傚することに生涯を賭した作曲家であった。ブラームスにとっては、それがということであった。少なくとも小林秀雄はそう考えていたはずだ。

小林秀雄がそのブラームスにいつ頃から心を寄せるようになったのか、それも定かでない。だが「独創的な思想家」としてではなく「演奏家」として、ワーグナーではなくブラームスとしての批評の道を全うしようとした小林秀雄の最後の自覚と覚悟が定まったのは、おそらく、「本居宣長」の連載を開始する二年前、「感想」を中断して旧ソ連へ渡った昭和三十八年六月から十月にかけての欧州旅行でのことであったと思われる。敢えて言えば、それは、彼がペテルブルクの街中を流れる早朝のネヴァ河をひとり眺め、続いてバイロイトで接したワーグナーの「ニーベルングの指輪」の最終場面においてなされたと思われる。

(つづく)

 

うごめく都市まち

陰鬱なパリの秋が深まる頃、理由もなくカルチェラタンを彷徨った日があった。今考えると、季節の変化についてゆけず少し元気を失くしていたのだと思う。秋が来て、街から一気に光と色が消えたように感じた。鮮やかで眩しい夏が心底恋しかった。このままでは自分からも光と色が消えてしまう。行きたい場所もなかったけれど、その日はとりあえず街を歩き回った。

パリの人は、歩くのが早い。遠方に住む友人と再会した時「随分歩くの早くなったね」と指摘されたので、私自身、足取りだけはパリジェンヌになっているらしい。ともあれ、パリジャン・パリジェンヌの、焦っているような、自信に満ちたような、あの勢いある足取りは、何とも言えない「他人」感を放つ。大通りを歩くと、動き回る無数の「他人」に巻き込まれてゆくような、しっかり足を踏ん張らなければ転んでしまうような、不思議な感覚を覚える。

その日は特に、通りに溢れる「他人」がどぎつく感じた。自分から半分、光と色が消えていたからかもしれない。通行人が冷たい波を作っていた。途中から私は、その動きの中に巻き込まれるために歩いているような状態になった。「一人の陰気で孤独な散歩者が、群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」(1)……嫌でもこの言葉が浮かんだ。偉大な詩人と自分を並べるつもりなど毛頭ないが、文字通り一人で通行人の波に飲まれ歩いていた私は、ああ、ボードレールは確かにパリにいたのだ、それだけは確信した。

 

J.G.Fへと記された『人工天国』の献辞で、ボードレールは群衆を浪にたとえ、街を海にたとえた。このメタファー自体は決して斬新なものではないが、plongé(沈められた、浸りきっている)という過去分詞には、詩人の革新性を感じる。沈むからには深さがあり、その深さは「沈ませる」「沈められる」という主客の関係が生まれる空間となるのだ。フランス語で multitudeは群衆を意味するが、同時に数の大きさも含意する。無数の匿名の個人が深さのある波を作り、その中に詩人が沈み込むとは、どういうことだろう。

批評『現代生活の画家』においては、「完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波打つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住いを定めることは、はてしもない歓楽である」(2)と、遊歩者フラヌールのあり方を語る。「波打つもの」とは群衆を指すのであろう。やはり、遊歩者フラヌールは無限に限りなく近い「数」としての群衆が作る、「運動の」「中に」入る必要があるようだ。ボードレールはパリを詩的探究のテーマにした詩人であるが、なぜ都市を観察することが、対象を固定することや対象と距離をとることに矛盾するのだろう。なぜ、自ら移ろう対象に飛び込むのか。

詩篇『悲シミヲサマヨフ女』では、愛する女性を象徴する穏やかな明るい海と、その果てにある輝く楽園との対比として、都市は暗黒の海原のイマージュに重ねられる。「語れ、きみの心は時に飛び立つか、アガートよ、/穢らわしい都会の真黒な海原を遠く離れ、/処女おとめのように青く、明るく、深く、/燦然と光の輝く、もうひとつの海原へと?/語れ、きみの心は時に、飛び立つか、アガートよ?」(3)すべての詩篇を挙げることはできないけれど、ボードレールの作品の中で都市は、しばしば広大で深い海のイマージュを纏う。韻文詩では、このように負の価値が付加されることが多いが、散文詩、例えば『すでに!』では、海は「己の裡に、かつて生きた、いま生きている、これから生きるであろうすべての魂のもろもろの気分と、断末魔の苦悶と、法悦とを蔵し、自らの戯れ、身のこなし、怒り、微笑によってそれらを表象するかに見える」(4)莫大な場所であり、それは都市と言ってもよさそうだ。

こうした海の広大なイメージとは対照的に、詩篇『七人の老人たち』では「Fourmillante cité蟻のように人間のうごめく都市」(5)、『小さな老婆たち』では「le fourmillant tableau蟻のように人がうごめくパリの画面」(6)という表現が、鮮烈な都市の映像を作る。都市が、莫大な量の液体の流動だけではなく、無数の固体の運動の総体として表れる。極小と極大、固と液を行き来して都市を語るこのダイナミズムは、それだけで大変魅力的ではある。しかし最も興味深いのは、「数」と「運動」に本質が見え隠れすることだ。この二つが、都市からポエジーを抽出する鍵になるだろう、間違いない……。

パリとは、都市とは、一体ボードレールにとってどんな外部世界であったのだろう? なぜ詩人は、永遠に時をめぐる神話から刻一刻変わりゆく都市へ、詩の舞台を引き下ろしたのだろう? なぜパリに拘り、同時に保守的であり革新的であるような、複雑な詩作に挑まなければならなかったのだろう? ボードレールに限った話ではないが、パリは、とりわけ19世紀、文学的探究の場所であると同時に探究の対象そのものだった。「匿名の群衆」が誕生した時代において、都市は、自己や他者について、自己を取り巻く外部世界について、思索する場所でもあったはずだ。歴史の移り変わりの中に生きることを引き受けた詩人は、詩が祈りや賛美であった古代への憧れを胸に、アクチュアルなパリを見詰め、考え続けたに違いない。そんな思考の中から出てきたのが「数」「運動」といった概念だったのではないだろうか……。

「数」や「運動」と言えば、『人工天国』に、こんな一節がある。「文法、無味乾燥な文法そのものが、何かしら降霊の呪術のようなものとなる。語たちは肉と骨を身につけて蘇生する。名詞はその実質ゆたかな荘厳さの裡に、形容詞は、名詞にかぶさって上塗りのように色づける透明な衣服として、そして動詞は、文を始動させる、動きの天使さながらに」(7)。ジャン=ピエール・リシャールは、著書『詩と深さ』でこの文章を引用し、名詞が深さを、形容詞が水平に広がる透明を、動詞がそうした構造に運動を与えると解説している。これは、ボードレールの言語世界とポエジーとを繋げる、核心的な指摘であるように思う。ボードレールは撞着する形容詞を並べるのを好むけれど、それも当然であって、撞着する語々はその落差ゆえ、動詞の生む運動をより大きく空間に拡げる役割を果たしている。作品を読むと、それがよく納得される。

「詩人は、[…]言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている」(8)と小林秀雄は言う。詩は、それがどんな主題を持とうとも、言葉の生々しさに触れ運動を与えることによってしか作りえないだろう。数があり韻があれば、直截的な意味で運動は生むことができる。しかし詩的言語の本質さえ保存されていれば、散文でもそれは可能だ。それを実現したのがボードレールその人である。散文詩集『パリの憂愁』は一見詩人のパリ観察録のようであるが、ボードレールはパリの「描写」を目指したわけでは決してない。この作品が詩集たりえるのは、「表現エクスプレシヨン」による「表象ルプレザンダシヨン」がそこにあり、言葉がそれらに運動空間を与えているからだろう。

なるほど、詩的言語という明瞭には把握することのできない体系を知性と想像力によって構築、それに則って己の思想を「表現」した詩人がボードレールだったのだ。ここまで考えると、パリという都市を介在させてこそ、彼は詩作をなしえたのだと分かる。都市のもつ「数の夥しさ」や「群衆のうごめき」はボードレールの詩的言語に生命を与える要素であり、詩人の求めるポエジーが抽出される場所だったのだ。海が本質的に深さや透明、運動を伴うものだとすると、そのイマージュのもとに描かれる都市が、リシャールの指摘するような言語世界によって再構築されるのも不思議ではない。

「数」と「運動」が焦点となったけれど、これは群衆のうごめく近代都市の性質であると同時に、詩の本質でもある。前者は律動を生む音節であり、後者は日常の言葉が詩的言語として生まれ変わるための条件だ。都市の都市性と詩の詩性は、こうやって繋がるのか……空恐ろしい感動に襲われる。匿名の、無数の個人がうごめくパリの街で、ボードレールはポエジーを抽出し、小林秀雄の言葉を拝借するなら「認識」であり「自覚」である「表現」を目指したのだ。脈動する街に投げ込む身体と、遊離して観察する眼力の両方を駆使して、「表現」へと向かったのだ。ロマン主義の遺産を背負いながら近代都市の海原に飛び込んだ詩人の生き様に、21世紀のパリを散歩するだけの私は、ただ畏敬の念を覚える。

小林秀雄は、「[…]一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」というボードレールの格言を引用し、詩作の根本に言及する。「詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。」(9) ボードレールの異様な明晰さは、詩人として必然だったのだろう。ラマルティーヌと違い感傷的な共感を徹底して拒むのも、ボードレールらしさだ。

ランボーが神と崇めたこの詩人は、まさに詩の神でありながら、自分が直に触れる世界をこそ大切にした。うごめくパリの街で知性を研ぎ澄ませ、量と質とを統合するイマージュを創り出し、そこに街から抽出したポエジーを包み込んだ。やわらかな光が心地よい、穏やかな春が来た今、新たな気持ちでパリの街へ繰り出したいと思う。春も、夏も、秋も、冬も、ボードレールが自分の足で歩き回った街だ。気まぐれな散歩がここまで私を翻弄してくれるのだから、歩けば歩くほど何かに出会えるだろう。書き留めておきたくなるような出会いが訪れることを、こっそり期待している。

 

(1) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.198
(2) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.164
(3) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.152
(4) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.108
(5) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.200
(6) 同上、P.206
(7) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.246
(8) 小林秀雄『表現について』(「小林秀雄全作品」第18集、p.44)
(9) 同上、(同p.41)

(了)