小林秀雄先生のご命日

3月1日、小林秀雄先生のご命日の墓参に参加させていただきました。

お亡くなりになったあの日の事は、その後数ヵ月間にも渉った新聞雑誌上の追悼記事に加えて、不思議な事ながら、私個人がその日職場であった事や帰宅して妻と話した内容も含めて、明瞭に記憶しております。昭和58年(1983)の事でした。以来、今年で丸35年となります。

何年か前から、施主でいらっしゃる小林先生のお嬢様・明子はるこさんのお供をして、池田塾塾生有志がお墓参りに参加させて頂いているとは聞いておりましたが、私自身は一昨年も昨年も都合がつかず、ご命日にお墓参りするのは今回が初めての経験です。

 

30年ほど昔の私個人のお話になります。

父母が亡くなってから年月が流れ、故郷の町に住む者が誰も居なくなってしまった。兄弟6人で話し合って、次男坊であったけれど私が松本家の相続をすることとなり、故郷・北海道厚岸町から当時私が暮らしていた仙台市にそっくりお骨を移転し、その管理を私がしていく事と決まった。墓地を用意し新しい墓石も準備しなければいけない。いざ自分でお墓を造るとなると、無知な私には、墓とは何なのか、何を意味するのか、遠い昔の先祖から父母に至るまでの累代の死者に対して、どのような礼儀を尽くせば良いのかが見当も付かなかった。仮に分かったとしてもどういう形のお墓が良いのか? そんな問題が生まれた事がありました。

 

私は、それ以前から小林秀雄先生のお墓にお参りしたいと願っていたのですが、その問題が生まれた時、これは先生のお墓を訪問する良い機会に恵まれたと思いました。とりわけ先生ご自身が、生前に京都で入手し、ひと時、山の上の家のお庭に置いて、後に東慶寺に墓石として設置した五輪塔が、どのようなものなのか実際に自分の目で確かめたい、出来得れば自分が墓石を用意する参考としたい、そんな考えもあったのでした。

妻とともに仙台を車で出発し、半日かけて神奈川県綾瀬市に住む長兄宅に到着。それから兄も乗せて、3人で初めて鎌倉東慶寺を訪問しました。夏のもう日が暮れそうな時刻でした。

入口右奥のご住職の住まいを訪ねて先生のお墓の在り処をお訊きし、鬱蒼と樹木が茂り昼間の暑熱がまだ残る谷戸の、むせ返る緑の匂いの中を、おそるおそるの気持ちでお墓に辿りつきました。

それは想像よりも小さくて、何ともさっぱりした、いかにも美しい形のお墓でした。今風の五輪塔に見られる鯱張しゃちこばった圭角がありません。後智慧では鎌倉時代初期の作というから、年月とともに風化したのでしょうか。その時は、ああここに小林秀雄が眠っているのか、この塔の下に遺骨があるのか、遂にここにやって来たぞという感慨が先立ってしまい、墓とは何なのか、何を意味するのかなぞも考えられなくなり、妻や兄と何を話したのかも覚えておりません。自分の家の墓石の参考にするなど、そんな不遜な考えは小林秀雄が遺した美の形の前で吹っ飛んでしまっておりました。

 

その後東京へ引っ越して来て、池田塾にお世話になってからは、これまで2回、一人でお墓参りをいたしました。午前の陽光の下で見る五輪の塔は、最頂部・空輪の下辺から風輪・火輪にかけての表面を、薄い黄緑色の苔が柔らかに覆っていて、昔夕暮れ時に見たものよりもさらに深い味わいが感じられました。石の表面はザラザラしており、手のひらでそっと触れば気持ちが良さそうです。そして水輪(円石)の前面には如来仏が刻まれています。

 

私は18歳の時に初めて小林作品に触れて以来、幾十冊かの雑誌や単行本を漁ったのですが、ある雑誌の中に、鎌倉八幡宮境内にある県立美術館前での写真がありました。昔からの読者には馴染みの1枚と思われます。和服姿の小林先生とともに写っておられる、18~9歳の、マフラーをした明子さんはすらっとスタイルが良くて、右横の何かを見ている目には力が溢れておりました。

今回のお墓参りではその明子さんにお目にかかることが出来るというのです。これは、その昔、初めて写真を拝見した時には考えられなかった事であり、少しミーハー風に言えば、53年来の憧れでもあり、大きな楽しみでした。

 

さて、小林先生の文章に明子さんが出てくる箇所は何ヵ所かありますが、その一つは「人形」(『小林秀雄全作品』第24集、p.130)です。

大阪行きの食堂車で先生が食事を摂っていると、「前の空席に上品な老夫婦が腰をおろした」。「細君の方は、小脇に」「おやと思う程大きな人形」を「抱えている」。

「もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない」。「妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる」。

「そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て座った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った」。「彼女は(中略)この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか」。

 

もう一つ「徳利と盃」(同、p.82)にはこんなエピソードがあります。

「思いもかけず、刷目の徳利と鶏竜山の盃とが、私の所有に帰したのは嬉しかったが、帰途、さてお礼をどうしたものかと考えた途端に当惑して了った。と言うのは、彼が欲しい物は(中略)、私には解っていたからである」「イランのギランの発掘で、何に使ったか知らないが、小さな金の押出しの装身具があった。それを彼はしきりに賞めていた。蛇が蛙をぐるりと取巻いている。(中略)蛙は鳥羽僧正の蛙のように、水っぽく、ぬらりとして、きょろきょろしたような、あわれなような感じを実によく出していた。それが気に入って買ったのだが、娘が欲しがったので、やって了ったから、今は私の所有ではない。仕方がない、娘を呼んで、と言うわけだから返してくれ、と言うと、こっちの言い分が、よっぽど馬鹿々々しかったらしく、大笑いで返してくれた」

 

ご命日の朝、11時近くになると池田塾頭を中心に仲間達が三々五々先生の墓石の前に集まって来ました。そうしているうちに明子さんがお嬢さんとともにお花とお水とお線香をお持ちになり、お線香を私達にも分けて下さいました。簡素で気持ちの良いお墓参りが始まりました。

その後は、席を、私達が毎月学んでいる山の上の家(旧小林秀雄邸)に移して、20数名が、明子さんを囲んで色々なお話をお聴きする事が出来たのです。明子さんが身に付けているジーパンには膝から下の部分に、赤の色調のお花が刺繍されていて、これがお洒落で、実によくお似合いでした。後で何人もの女性たちから、そのセンスに対して感嘆の声を聞いたほどです。

私は明子さんのお顔と眼の力、話す内容、声質とリズムに接して酔うような気持ちでした。そして時間の経過とともに、明子さんに、一度もお会いしたことがないのに、小林先生の姿がダブってくる不思議を覚えていました。

お話の中で、今振り返ってみると一番しっかりと覚えているのは、「物書きの中には、表面は華やかに見えても、内情は家庭の経済が大変なおうちが多かったようですが、わが家ではそんな事は全然なかったですよ」という話です。

そうでしょう。いくら小林先生の高名が響き渡っていたとは言え、ベストセラーを出す小説家と違い、それほど売れる性質の作品群ではないのですから、大変な時も必ずあったに違いない。私は自分の親の自営業の姿を見てきましたし、自分自身も商売を営んできた経験から、それは心底からよく分かります。それを克服したのは小林先生の「実行家の精神」と、家族に対する深い責任感と愛情であったに違いない。

上に引いた「人形」では、先生が大学生らしき娘さんの「鋭敏」を感じ取り、その娘さんが「私の心持まで見てしまったとさえ感じ」る。それは自分には同じ年ごろの娘がいるからだ、と書かれています。普通、父親というものは、娘を理解している事をそこまではっきりと明言出来ないものです。明快に断言出来るのは、常日頃、先生が如何に深く鋭く明子さんの気持ちを考えていたかの証左でありましょう。「人形」を初読した時に私はそこに、ポッと胸が温まるような感銘を受けました。

そして「徳利と盃」では、明子さんは、その父の気持ちに応えるように、父上からいったん貰った装身具を「返してくれ、と言うと、こっちの言い分が、よっぽど馬鹿々々しかったらしく、大笑いで返してくれた」というのです。大らかで豪放と表現したくなるような明子さんの、その時の笑い声が聞こえてまいります。まことに、この父ありてこの娘あり、ご家庭の空気が見えてくる気さえ致します。

 

常日頃、小林先生の作品から私は、先生が文学や歴史や美や哲学を如何に味わって、自分の思想を如何に打ち立てていったかに感嘆するのですが、今年の命日では、明子さんにお目にかかった事を契機として、ほんの少しではありますが、家庭人としての小林先生を想像する事が出来ました。

明子さんに心より感謝を申し上げます。

(了)

 

小林秀雄先生の日常と、父の顔
―白洲明子さんと過ごした、ご命日

平成30年3月1日、
小林秀雄先生没後35年。

 

春の嵐の予報を裏切り、北鎌倉の東慶寺には、柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。明け方の激しい雨が洗った空、真っ黒な土の上に椿、風が運ぶ梅の香―小林秀雄先生のご命日の朝、墓前で、小林家ご家族が再会された。ご家族とは、墓中の小林先生の父豊造さんと母精子さん、小林先生と喜代美夫人、そして、墓前に立つご長女・白洲明子はるこさんと、明子さんのご長女・千代子さん、親子四代、6名である。すらり長身の明子さんと千代子さんは、ささっと手際よく、枝ぶりのよい桜と瑞々しい菜の花を墓前に生け、線香を手向けられた。今年の墓参には、池田雅延塾頭と塾生十余名が、お供した。

 

その後、山の上の家まで徒歩で約20分。歩き慣れた道を足早に進む母娘と、その前後に塾頭、塾生の一団。左に折れる道の角で、所用で東京に向かう千代子さんと別れ、明子さんは上り坂をスタスタと進む。1年ぶりに訪れた山の上の家の門の前に立ち、溌剌とした声で「昔は、この坂道を上がって山越えすると、建長寺に出たのよ」と、幼い頃の思い出を教えてくださる。

 

明子さんが山の上の家に住んだのは、昭和23年(11歳)から40年(28歳)までの17年間。ちょうど思春期、そして自立を志して東京で働き出した頃だった。学校や職場から帰ると、いつも父・秀雄は、応接間の長椅子に寝転び、レコードを聴いていた。

 

平成30年を生きる私たちも、明子さんを囲んで、塾生三浦武さんの選んだレコードを3枚、昭和4年(小林先生文壇デビューの年)に作られた蓄音機に載せて聴いた。1枚のレコードが終わるまでの時間は、約4分。明子さん曰く「レコードはCDと違って短い時間で終わるのね。昔、レコードを替えるのは、私の役目だったのよ。だから、せっかちになったのかもしれないわね」。そして、2枚目のレコードに針が落ちた。音の一つひとつ、言霊ならぬ音霊が、イングリッシュ・ブラウン・オークの蓄音機を震わせ、日本家屋を抜けて、開け放たれた窓から庭に流れ出す。その先、遥かに見えるのは、いつもの、波がきらきらと光る海。

 

「私が小学生の頃、夏は毎日のように、一緒に海に行きました。そのころ住んでいた扇ヶ谷の家からは、私の足では海まで何十分もかかりましたよ」。冬に雪が降れば、鎌倉の坂道は住民たちの簡易ゲレンデとなった。気まぐれなスキーヤーが去った後、登校前の雪かきは、明子さんの仕事だった。「当時はどこの家でもそうでしたけど、我が家の前で転ぶ人が出てはいけない、と言われていたからね。踏み締められた後の雪かきは大変だったけれど、そのうち楽しくなりました」。父はかつて、野球少年でもあった。「キャッチャーミットなんてない時代に、キャッチャーを任されて。練習が終わった頃には、手がぱんぱんに腫れてしまったそうよ」と、活動的な一面を紹介してくださった。

 

明子さんは他にも、小林家の日常の風景を、次々に、いくつも語ってくださった。

 

山の上の家での父の朝は書斎の窓辺で執筆、お昼は近くに食べに行ったり自宅で摂ったり。夜には、小林家の離れに一時期一家で住まわれていた大岡昇平さんや、鎌倉在住の文士や編集者らとの一献の時間があった。酒を間に置いて議論の尽きない面々の側で、幼い明子さんは寝ていた。「客間は、家の中で一番あたたかい部屋だったからね」。だから明子さんは、批評家としての父の顔も知っている。

 

一方で、ごく普通の、父娘の暮らしもあった。

 

せっかちな父娘が道を歩いていると、近所の人に「どこに行くの」と尋ねられ、「散歩です」と答えたところ、「その早足で」と驚かれたこと。父は、考え事をすると周りが見えなくなるため、よく置いてけぼりにされたこと。開館したばかりの県立近代美術館に、しばしば二人で絵を観に行ったこと。だから今も、美しいものが好きなこと。山の上の家の水道は、当時は十分な水圧がなく、夜だけちょろちょろと蛇口から流れる水道水をやかんや鍋に溜めておいて飲み水にしていたこと。父は毎日一升瓶2本を背負い、小町通り交差点傍にある鎌倉十井の一つ「くろがね」まで水を汲みに行き、家に戻ると、「うまいぞ」と言って、その水を飲ませてくれたこと。飲み水以外は、敷地にあった井戸を使い、雨水はすべて地下に溜めてそれも使っていたこと。宿題を教えてと頼むと、ううむ、と真剣に考え始めてしまい、しびれを切らした明子さんが遊びに出て帰ってくると、奥から「わかったぞ」と声がして解き方を教えてくれたこと。小さい頃は時に父の雷が落ち、大きくなれば娘が父を叱った日もあったこと。

 

そして、父は生涯、家族を守ったこと。

 

戦時中も、小林家は鎌倉で暮らした。戦況が悪化し、鎌倉の住民のなかには一家で疎開したり、年寄と子供だけを疎開させたりする家もあった。年寄と子供を抱えたわが家はどうすべきかを考えるために、父は市内を見渡せる山に登った。そこから見下ろした鎌倉にはたくさんの谷戸やと(山と山の間の谷)があって、その谷に点在する家は空からの集中砲火を浴びることはまずあるまいと思ったのだと、後に明子さんに話したそうだ。また、文士の妻は質屋通いが当たり前の時代、父は締切りを必ず守り、妻は質屋通いをせずにすんだらしい。「無茶苦茶していたけれど、考えることは、考えていたんだね」と、明子さんは思っている。

 

最後に、今も心に残る、父の姿を教えてくださった。

 

扇ヶ谷時代、母屋と父の書斎とは濡れ縁でつながっていた。暗くなってそこに置きっぱなしになっていた芝刈鋏を踏みつけ、幼い明子さんが踵をざくりと切ったことがあった。救急病院などない時代だ。驚いた父は、何時間も明子さんの傷口に手をかざしていた。そのうち、気がつくと、噴き出ていた血は止まっていた。その姿を見て、「あぁ、父親なんだな、と思ったのよね」。それは、大事な娘の怪我を、何とか治したいという、強い気持ちの表れだったのだろうが、「父は、晩年の母の心を支えるため、母が信じていた、いわゆる『お光さま』に入信していましたから、あれは、お光さまの手当てだったのでしょう」。この思い出話を語っていた明子さんは、ふいに「まぁ、父の心には、確かに神様はいましたよ」と言った。その時、何が明子さんの心に浮かんだのだろうか。

 

目の前の父のあるがままを、そのまま受け止め生きてこられた、明子さん。率直にお話くださる、伸びやかで寛容な心。小林先生が大切に育てられた明子さんは、人として大切にすべきことを、私共に丁寧に伝えてくださった。

 

明子さん、貴重なひと時を、どうもありがとうございました。

(了)

 

「変な気持ち」

「私が一番言いたいのはね。なんか変な気持ちがするんですよ。こうして本になってみると……。今まで、なんにも言ってくれた人なんて、いやしないですよ」

小林先生が、ある講演の冒頭でこのようにお話しされるのを、皆さんも録音でお聞きになった事があると思います。とにかく一番言いたいこと。あの『本居宣長』を書き終えた小林先生の、一番言いたいことが、何故この、<変な気持ち>の事なのだろう。これが僕にとって、大きなひっかかりでした。その事が、ちょっと、わかったかもしれないので、皆さん、聞いていただけますか? まず「無私の精神」の一部を引いてみたいと思います。

 

私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。この無口な人に口癖が二つあった。一つは「御尤ごもっとも」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も」と言った。自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。(中略)私は、よく彼の事を思い出しては感ずるのだが、一と口に実行家と言っても、いろいろある。しかし、彼の場合の様に、傍から見ていても、それとはっきり感じられるのだが、並み外れた意識家でありながら、果敢な実行家である様な人、実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家、そういう人は、まことに稀れだし、一番魅力ある実行家と思える。 

 (新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.100)

 

実行するとは意識を殺す事であるという。そして、この後のセンテンスでは、実行家は、これから出会う、事実や知識を空想しているだけではなく、常に新しい物の動きに歩調を合わせて黙々と実行する者であると続きます。

私、山内は以前、東北のある漁港の水産加工工場に出かけたことがあります。そこで教わった言葉に、「目は臆病、手は鬼という」というものがあります。工場では、うず高く積まれたわかめを一本ずつ手に取り、芯と葉にわけるという、とても根気のいる作業が行われており、少し手伝わせていただいた僕などは、いっこう減らないわかめの山にすぐに音を上げるのでした。その時、工場のひとりの、年かさの女性が僕に、こう言うのでした。「目は臆病、手は鬼だよ!」。作業を待つワカメの山を見て、「なんだ、まだ、こんなにあるのか!」と臆病になるのは、目のなせるわざで、手は鬼のように、気がついたら作業を終わらせている。ぼんやり眺めているだけでは、億劫になるだけなので、まず手を動かせというのである。意識を殺すとは、まさにこのことではないでしょうか。こうした労働の現場で、語り継がれる素朴な言葉。そこに含まれる実用的な力が、小林先生の文章から得られるものと符合することにも驚きと喜びを感じます。

さて、冒頭に引いた小林先生の<変な気持ち>ですが、これは、小林先生が、まさに意識を殺して『本居宣長』の執筆を行い、ついに完成し、意識を取り戻した時に感じた<変な気持ち>だったのではないかと私は思うのです。月刊誌『新潮』で『本居宣長』が連載されていた時、文壇や批評空間、また世間は、まるで息を殺すように、遠く取りまき、小林先生の仕事を見つめていたと聞きます。そして、小林先生ご自身も、意識を殺し、息を潜めて宣長に取り組まれました。時には「源氏物語」を、時には漢和辞典と首っぴきで荻生徂徠を、さらに先行のあらゆる宣長研究書にあたり、そして何より浩瀚な宣長の著作に、ひとり取り組み、宣長その人と対話をされました。孤独な作業の末に完成した『本居宣長』。書き上げて、ふと、気がついてみると、本は大変な売れ行きで、世の中の多くの人に読まれている。ひとりで藪を切り拓いて歩いたはずの道を、いまは、多くの見物人がぞろぞろ歩いているような、そんな状況が、<変な気持ち>を生んだのではないでしょうか。

関連して、先日、私が塾でさせていただいた質問を紹介します。ここにも実行家と空想家が登場します。質問の対象となったのは、以下の箇所です。

 

勿論、秋成は、ただ「神代紀をよく見よ」では、承知しなかった。自分としても「神代紀」ぐらいはよく見ている、という考えだったからだ。だが、宣長の言葉は、相手に向けられた形は取っていたが、実は、彼自身の事しか語っていない、そういう含みが、其処にはあった。言ってみれば、古えの道を見極めたと信じた人の、明言し難い、押し隠された喜びが、実は、彼の言葉の真の内容をなしていたのである。(中略)彼の眼には、道とは何ぞやと、人々に明答を要求しているような問題は、当然、拵えものと映った。返答に窮したのではない、実は、架空の問題に、かかずらいたくなかったのだ。返答に窮したという、その事が、自分は、学者の良心にかけて、明答などして、世の「識者」達を安心させるわけにはいかないという、はっきりした態度の表明だったのである。

 (同第28集p.115)

 

この箇所について、以下の質問を立てました。

 

上記、宣長への秋成の難詰を、小林先生は「架空の問題」と呼びます。これはどういうことでしょうか。私は「その道を歩かぬ者が、空想で立てる問題」と読み取りました。「道には、どんな花が?」「ゴールは、どんな景色?」といった質問に、言葉を尽くして答えても、道を歩かぬ質問者は、勝手な理解を以って安心するだけで、「明言し難い、押し隠された喜び」を共有することはできない。「歩けばわかる」というより他はない。古学の外から質問を投げてくる秋成に、ただ「神代紀をよく見よ」と宣長が簡潔に答えるのは同断。それ以上の明答で、人々を安心させ、本当の経験を妨げないよう努めた。「架空の問題」を巡り、このように考えました。

 

この読み筋は、合っているでしょうか? という質問です。「合ってます」とのことでした(良かった!)。

 

また、さらに、小林先生が講演で話された「わかる」ということと「苦労する」ということは同じ意味である、という言葉も、やはり同じ問題に通じていると考えます。不遜ながら私は最初「物事をわかるためには、苦労をしなさいよ」という単純なお説教だと思って聞き流していたのですが、そうではない。「わかる」ということは、「わかっている」状態になることではなく、苦労して体験をするという過程を指すのであるという、この大きな違いに気づきました。人は如何に生きるべきかについて、小林先生は一貫して、<ある状態になること>ではなく、動きと過程の時間をともなった体験そのものに価値を置かれています。質問本文にあるような「ゴールは、どんな景色?」というような質問は、私も日常、ついつい、してしまいます。意識が、空想が、実行に先んじて頭をもたげます。ゴールという広場のようなところにたどりつくために「道」があるのではなくて、自分で実際に歩き、楽しむための「道」が、どこまでも続いている、小林先生の『本居宣長』を読む学び自体がそのように思えます。

 

空想で頭をいっぱいにして、間違いのない人生を探すよりも、やがて気づいた時に<変な気持ち>がするくらい、好み信じた道を楽しみ没入する清々しさを小林先生の生き方に見ます。

(了)

 

遺言書へむかう道

小林秀雄氏の「本居宣長」で、いきなり第1章から紹介されている宣長の遺言書は、読むものを仰天させるような特異な内容となっている。冒頭の書き出しからして奇妙で、忌日や時刻の定め方に始まり、小林氏が「殆ど検死人の手記めいた感じ」と表現する、遺体の取り扱い方、その始末等々が続き、山室の妙楽寺に埋葬を指定し、さらに菩提寺である樹敬寺には空送カラタビとすること、妙楽寺の墓については仔細に墓所地取図まで描き、桜を植えること、等々、読み手はどう捉えてよいものか戸惑う、大きな謎である。

そして、「本居宣長」の、遺言書について書かれた章の最後は次のような言葉で締めくくられている。彼の最初の著述である「葦別小舟アシワケヲブネ」に、「もう己の天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来る」のだが、「幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである」、こう言って第2章が終わる。

宣長の残した遺言書を謎と受取ったのは、私だけではなく、宣長のそばにいた人々をも誤解させるようなものだった、ということのようだ。そしてますます疑問が深まる中で、第50章まで読み進めた最後にはこう言われている。「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」。なぜ小林氏はこう言わざるを得なかったのであろうか。

 

「本居宣長」の最終章である第50章の冒頭では、宣長が古学の上で窮めた、上ツ代の人々の「世をわたらふ」にあたっての安心について、門人達に説明することの難しさがつづられている。門人達の質疑に答えたところを録した「答問録」では、「小手前の安心」というものだけは得たいと思う門人に対して、「小手前の安心は無い」としか言いようがない宣長が「くだくだしい」物の言い方をしている。道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていて、神道にあっては、「安心なきが安心」それこそが「神道の安心」である、と言い切る。つまり、上古の人々の心には「私」はなく、ただ「可畏カシコき物」に向かっており、測り知れぬ物に、どう仕様もなく捕えられていると考えていた。その上古の人々の示した「古事記」の「神世七代」を読み終え、宣長は「感嘆した」と書かれているが、「神世七代」に到達する、その途上で、「源氏物語」についてのもうひとつ重要な見解がある。

 

光源氏の死を暗示する表題があるだけで、本文の存在しない巻である「雲隠の巻」について、何故、作者の紫式部は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、という問いの姿に、宣長は見入った、と書かれている。この巻で主人公の死が語られることはなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかった。宣長は著書「玉のをぐし」で、この問題について独特な二つの見解を述べている。一つは、光源氏というよき事のかぎりを尽した人の“衰えた様子”や“死”を書くことを避けたのではないか、ということ。二つ目は、「物のあはれ」をもっとも深く知る源氏の君自身が死んでしまうということは、そのかなしみをほかの誰にも語りつくすことはできない、という考えから、何も書かれていない、ということである。

読者に「物のあはれを知る」ということを伝えるという作者、紫式部の心ばえは、「此世」の物に触れたところに発しているはずだとすると、はたして「死」とは「此世」のものなのか、と小林氏は問い、「われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。(中略)愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確める事によって完成したと言えよう」と述べている。では、此世のものではない「死」を「認識する」とはどういうことか。紫式部が「雲隠の巻」に込めたこの「死の観念」に宣長は出会ったのである。

 

そうした「源氏物語」を経て「古事記」の「神世七代」を読むに至って、宣長の「死の観念」は、次のように発展していることを小林氏は指摘している。「伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が『黄泉神ヨモツカミ』の姿を取って、完成するのを宣長は見たのである」。彼(宣長)は何を見たか。「神世七代」が描きだしている、その主題のカタチである。主題とは、「生死の経験に他ならない」と書かれている。「神世七代」で宣長が得た啓示とは、「人は人事ヒトノウエを以て神代をハカるを、我は神代を以て人事を知れり」であった。「測り知れぬ物に、どう仕様もなく、捕えられていた」上古の人々が抱いていた生死観が、「神世七代」において「揺るがぬ」ものとなり、それを受けて宣長は「奇しきかも、霊しきかも、妙なるかも、妙なるかも」と感嘆している。そして「死の観念」を確かに「神世七代」から受け取った宣長をさらに驚かせたのは、「源氏物語」では名のみの巻であった「雲隠の巻」は、「神代を語る無名の作者達にとっては、名のみの巻ではなかった」ことであった。伊邪那美命の嘆きの中で、この女神が、国に還らんとする男神に、千引石チビキイワを隔ててノタマう「汝国ミマシノクニ」という言葉に宣長は次のように註を施している。「汝国とは、此の顕国ウツシクニをさすなり、ソモソモミズカラ生成ウミナシ給る国をしも、かくヨソげにノタマふ、生死の隔りを思へば、イト悲哀カナシき御言にざりける」。上古の人々は「汝国」という、黄泉ヨミの国の女神が万感を託したこの一と言を拾い上げたことで、「名のみの巻」に「詞」を見出したのである。その一と言で、宣長には、「天地の初発ハジメの時」の人達には自明だった生死観が鮮やかに浮び上がって来たに違いない、と小林氏はみた。

 

「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はない」、と宣長は考えていた。ではどのように「完了」し得るのか。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足どりが、『可畏カシコき物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しないのであった」とある。まさに上古の人々は「死」というものに直面し、測り知れぬ悲しみに浸りながら、千引石を置く、という「死のカタチ」を、死の恐ろしさの直中から救い上げ、「生死を観ずる道」を「完了」したのである。

 

このありさまを受けとめ、「妙なるかも」と感嘆した宣長は、自身の精神に照らして、この「生死を観ずる道に踏み込」み、そして「完了する」という行為を、言葉にした。それが、あの「遺言書」なのではないだろうか。そして、小林氏が「遺言書」を宣長の「最後の述作」と呼んだ意味が、第50章の最後にあるこの文章にあらわれているように思う。「宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰り返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出してきた、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識できなければならない。そう、宣長は見ていた」……

(了)

 

医者としての宣長

宣長の偉業はもちろんその学問にあるわけだが、彼の本職である医業の実態については「済世録」という記録が部分的にだが残っている。簡潔に患者の症状が付記してある場合もあるのだが、それはむしろ稀で、「済世録」を読む人は、日付、その日の天候、患者名、処方、調剤数、謝礼(今で言う医療費)が箇条書きに記載されているのを見るであろう。これは、現代の感覚で言うと、いわゆるカルテというより帳簿(医療用語でいうとレセプト)に近いものである。帳簿に近いということは、「宣長の文体」は感じられず、書体も学問上の著作のような楷書では書かれていない。小林先生は、「彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい」と書いているが、済世という言葉を辞書で調べてみると、社会の弊害を取り除き人民の苦難を救うこと、世の中を救うこと、世人を救い助けること、などと書かれている。なるほど、学者としての宣長を知っていると彼にはそぐわない言葉のように聞こえて、確かに「医は生活の手段に過ぎなかった」とも思える。

それに対して、薬の広告文である六味地黄丸の記載はまさしく学者宣長の文体である。帳簿と広告文との違いのせいだろうが、済世録の一見無味乾燥な文章とは根本的に異なっている。ここはやはり原文(小林秀雄全作品27集 49頁)を読んで、その文体も味わうのが良いだろう。

「六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々ココニ挙ルニ及バズ、然ル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、是亦世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而巳サノミ其吟味ニも及バズ、煉薬レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユヱニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品を撰ミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しも麁略ソリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、且又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」(大意:薬は、たとえ成分は同じであっても、薬種や製法が変われば、その効果は変わるものなのに、世人はあまり気に留めない傾向がある。本居製の六味丸は、極上品の薬種を用い、製法も念には念を入れて厳密におこなっている。よって効能が大いに期待できる。しかも薬代も世間の相場より安くしている。)

宣長という人は、難しい内容でも簡潔に分かりやすく書くことに非常に長けた人であったが、この広告文は、現代の薬の宣伝と比べても、何とも説得力のある文章、文体だと思う。まさに、「家のなり なおこたりそね(家業はまめやかに努めるべし)」ではないだろうか。ちなみに蛇足だが、薬種や製法が変われば薬の効果も変わる、というくだりは、今の時代によく話題になることで、薬の主要成分は同じでも製薬会社によって製造方法や添加物は若干異なるということ、つまり、先発医薬品と各社後発品(ジェネリック)の違いを想起させる。医師によって、先発品と後発品はほぼ同じもので効能に違いなど無いとする者と、効果や副反応の出易さに違いはあるのだと主張する者とに分かれている。つまり、宣長のこの広告文は江戸時代の文章だが、現代日本の医療情勢にも通じるものがある。

こうやって「済世録」と六味地黄丸の広告文とを並べて眺めていると、宣長にとって、その思想と実生活とは付かず離れずの関係を保ち、小林先生の言葉を借りれば、両者の間の通路として中二階の書斎への階段に例えられて、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取り外しも自在にして置いた」という意味が、よく味わえるように思われる。

 

宣長が、家の没落のため、母親からも勧められて医者になろうと思ったいきさつや、宣長と同様の境遇に直面し周りから医業を勧められたのにそれを潔しとせず拒否して儒学に専念した伊藤仁斎との比較の記述は、将来の進路に悩む若者に通じるものがあり、これも現代的で面白い。ここのところを小林先生は、「言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった」と評している。

学問の講義中、外診の為に、屡々しばしば中座した、という話は、まさに「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の実践であるし、宣長が最晩年まで現役の医師を続けたのも、単に経済面だけではなく、彼にとって医者という仕事が、学問と同様、一生を通じてやりがいのある興味深いものであったからではあるまいか。宣長のような鋭敏な人が、人間を相手にする医業を面白いと思わなかったわけがない。おそらくは、生涯、医師であり続けようとしたのであり、遺言書でも彼は、自分の屍体に、当時の医者の正装である十徳じつとくと脇差をするよう指示しているのである。「医は生活の手段に過ぎなかった」だけではなく、医業もある意味、「好信楽」の一つであったのかも知れない。

このような想像をしながら、一見無味乾燥な「済世録」を眺め直してみると、宣長にとっては、症状など一々メモしなくても、その患者の生活や病歴、診察時の体調、現在いかなる治療をするのが最善か、などといった重要なことが、鋭い直観として彼の脳裏に浮かんだことは容易に考えられるのではないか。宣長の学問を知り、かつ、宣長が医業もとても大切にしていたことを知っている者であれば、そう考えざるを得ないのである。ここに至って我々は、済世録は単なる帳簿ではない、やはり宣長の生きた証の一つである、ということを理解するのである。このような宣長の臨床は、決して私の空想ではないことを信じたい。

 

小林先生も、人間ドックのような検査漬けの医療や臓器別の分業的な医療には否定的で、名医の直観が大切だと仰っていたとお聞きしている。また、人間は本来、人間としての作られ方があり、手術や西洋薬などの人工操作ではなく自然を良しとする思想を持ってみえたと伺っている。この小林先生を感心させ信頼を得ていた医師が、私の知る限り、お二人いた。一人が、毎日午後三時になるたびに先生を襲った胃の痛みを治すため、絶妙の言葉(本気で禁煙するなら煙草は持ち歩きなさい)で禁煙させた赤坂の大堀泰一郎医師であり、もう一人が、西洋医学の欠陥を見抜き、自然を基本に置いた診療をしていた、漢方の専門家である蒲田の岡山誠一医師である。

人間を分割せずトータルで見る、そもそも人間とはエレメントに分割できるような代物ではない。これは医師にとっては、患者を臓器で分割せずトータルで診るということを意味する。木だけを見ていたら森は見えないのである。私は実を言うと、医師生活がちょうど三十年になったところであるが、この三十年の間には、医師としての仕事や研究が忙しく、本居宣長や小林秀雄から少し遠ざかっていた時期もある。しかし、患者をできるだけトータルで診ようとする診療態度はなぜか崩さなかった。内科の中でも腎臓病を特に専門にするようになってからも、その専門だけに固執したり専門外を蔑ろにしたりはしなかった。意識してそうしていたというより、結果的にそうなっていたという方が実感に近い。高校時代から小林秀雄を愛読していた結果、細かい臓器別診療に徹した医療には知らず識らずのうちに嫌悪感を抱いていたせいかも知れない。

医学の自然科学的側面が進歩していることには私も異論が無い。小林先生が苦しんだ胃潰瘍を例にとると、昭和四十年代頃までは非常に治療が難しい病気で、外科的手術が必要なことも多かったというが、今は薬だけで比較的簡単に治る時代になった。しかし、だからと言って、現代の医師達が皆、大堀泰一郎氏になったわけではないし、無論、大堀医師を超えたわけではあるまい。岡山医師のように、大きな自然の中で人間を見る、患者を診る大切さがわかっているであろうか。更に遡って、江戸時代の本居宣長医師に並ぶような臨床を現代の医師達が本当にやっているのか、現代医療は本当に本居医師の医療よりも優れていると言えるのか、真剣に自問自答しないといけないように私には思われる。

(了)

 

編集後記

編集担当としては、嬉しくもまた、奇遇に驚くばかりなのであるが、その嬉しい驚きを繋ぐテーマは、私たちの学び舎、山の上の家の「椅子」である。

光嶋裕介さんは、「巻頭随筆」において、その「肘掛のついた上品なアンティーク調の椅子」に注目された。ただし、その視線が注がれた対象は、坐っているべき人の「不在による強い存在感」である。建築家ならではともいえる、その「空席」への視線は、「師への眼差し」へと昇華する。

奇しくも、「人生素読」で、冨部久さんの眼が向かった先もまた、その「二脚の木製椅子」である。素材や製作の起源を求めて、関連書籍の著者まで辿って行かれた熱意は、木材の専門家としてのそれだけではない。日々の生活のなかでも、美を求める心を持ち続けておられた小林先生に対する「深い愛情」でもある。

お二人の視線は、私たち塾生の、その「椅子」を見る眼もまた変えさせてくれる明眼である。

 

 

「美を求める心」に寄稿された、橋岡千代さんは、地元京都で求道を続けている「茶の湯」の世界における美について、からだ全体で味わうという実体験をもって綴られている。読み進めるにつれて、あたかも自分自身が静謐の茶室に坐し、一期の喫茶に臨んでいるように感じてくる。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、櫛渕万里さんと村上哲さんに寄稿頂いた。

櫛渕さんは、小林先生が「うひ山ぶみ」から引く、「此身の固め」、「甲冑をも着ず素膚にして戦ひて」という言葉に注目された。あきらめることなく追い求めた結果、その正体が「やまとたましひを堅固くする」ことにあったことを突き止める。それは「生きた心が生きた心に触れる」体験でもあったという。

村上哲さんは、「古事記伝」の「伝」たる名付けの由縁について、思いを馳せておられる。宣長さんにとっては、外からの註釈で「古事記」を説きなすのではなく、「古言のふり」に従って「ただ『伝へ』る事こそが重要であったに違いない」という。このこともまた、宣長さんが言うところの「やまとだましひ」「やまとごころ」の現れと言えよう。

思えば、光嶋さんが「巻頭随筆」で、「知識としての情報を手に入れるといった類の『交換原理』」ではなく、「模範解答のない『切実な問い』を発見し、その答えらしきものを『考え続ける』深度」こそが肝心と感得されていることも、くわえて橋岡さんが実践されている、五感を十全に発揮し、茶の湯と一体化する態度もまた、「やまとごころ」と言えるのではなかろうか。

 

 

謝羽さんの小説「春、帰りなむ」は、後編に入り、いよいよ話もクライマックスを迎えた。小説という、私たちの実生活に、より近い形の描写として読み直すことで、参考附記の小林先生の文章にある「大和心、大和魂」について書かれた内容を、より親身に、さらに深く味わえることと思う。夫婦による、歌の贈答の織りなす綾とともに、じっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

私たちの塾も、新しい仲間を迎え、新しい年度を迎えようとしている。本号の原稿を読み直してみて、こういう思いを新たにした。

2018年度もまた塾生の皆さんとともに、「やまとだましひ」を知るという直き態度で「本居宣長」にむかい、その「椅子」に坐っておられるべき小林先生との対話を深めながら、百尺竿頭に一歩を進めていきたい。

(了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年四月号

発行 平成三十年(二〇一八)四月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十一 思想と実生活

1

 

藤原定家が残し、契沖が受け継ぎ、宣長に渡った「詞花言葉を翫ぶべし」、すなわち「源氏物語」を読むにあたってのこの心得は、宣長に「物語といふもののおもむき」は「物のあはれといふこと」にあるという発見をもたらし、さらには、彼の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花言葉による創造世界に即した真実性をどこまでも追い、光源氏は、「もののあはれ」を知り尽した人間としての像を詞花言葉によってのみ形づくられていると見て、この像の持つ特殊な魅力を究明することが宣長の批評の出発点であり、帰着点でもあったと小林氏は言った。

 

なるほど、そうか、とは思う。しかし、この「詞花言葉による創造世界に即した真実性」ということは、私たちにはおいそれとは合点がいきにくい。それというのも、私たちは、幼い頃から文学鑑賞のための特殊な眼鏡を持たされているからだ。一言で言えば、「写実」という眼鏡である。小林氏もそのあたりはわかっていて、というより、この眼鏡の強度を警戒して、「詞花言葉による実」に「写実」の「実」を対置し、それによって「詞花言葉による創造世界に即した真実性」とは何かを合点してもらおうとかなりの頁を割いている。

この「写実」という眼鏡が、日本に現れた最初は、明治十八年(一八八五)から十九年にかけて、小説家であり評論家であった坪内逍遥が書いた「小説神髄」である。

―坪内逍遥は、「小説神髄」で、欧洲の近代小説の発達にかんがみ、我が国の文人ももう一度小説の何たるかを反省するを要すると論じた。文学史家によって、我が国最初の小説論とされているのは、よく知られている。「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態の描写にある」事を悟るべきである。その点で、本居宣長の「玉のをぐし」にある物語論は、まことに卓見であり、「源氏物語」は、「写実派」小説として、小説の神髄に触れた史上稀有の作である。……

小林氏は、こう説き始めて、続ける。

―この意見は有名で、「源氏物語」や宣長を言う人達によって、屡々言及されるところだが、逍遥が、「源氏」や宣長の著作に特に関心を持っていたとは思えないし、ただ小説一般論に恰好な思い附きを出ないのだが、逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはないのだから、思い附きも時の勢いに乗じて力強いものとなった。……

「写実」とは、何かを表現するにあたって、素材としての現実と、その現実の正確な描写を重視する技法を言う。したがって、「写実」の「実」とは「現実」、すなわち事実として目の前に現れている物事である。十八世紀のイギリスに興り、十九世紀のヨーロッパでは自然主義と呼ばれる一大文学運動の土台となり、日本には開国とともに押し寄せた西欧文化の一環として明治十年代に入った。小林氏が、「逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはない」と言っているのは、そういう時代背景を踏まえてのことである。

こうして私たちは、写実主義とか現実主義とか呼ばれる強い考え方の波に乗り、人情世態の描写を専らとした小説が「文学」の異名となるほどまでに成功を収めた文芸界の傾向のうちに今もいると小林氏は言い、逍遥の後、与謝野晶子の「源氏物語」の現代語訳が現れ、谷崎潤一郎の訳も現れた。こうして、現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、今日では「源氏物語」に行く最も普通の通路となったが、そこを通っていく人たちは、その道が写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないことに気づいていない、それほどに、言葉そのものよりも言葉の現わす事物の方を重んじる現実主義の時代の底流は強いのだと小林氏は言うのである。

 

2

 

谷崎潤一郎の「源氏物語」訳は、昭和十年(一九三五)から十三年までをかけて行われ、戦後も二回にわたって訂正版が出された後、三十九年、現代仮名づかいによって決定版が出された。それほどに谷崎は、「源氏物語」に打ちこんだのだが、これはひとえに「源氏物語」の表現技法を体得するところにその眼目があったようだと小林氏は言う。谷崎には、代表作のひとつに長篇小説「細雪」があるが、

―「細雪」は、「源氏」現代語訳の仕事の後で書かれた。谷崎氏が「源氏」の現代語訳を試みた動機、自分には一番切実なものだが、人に語る要もない動機は、恐らく「源氏」の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい、と私は思っている。……

だが、それとは裏腹に、谷崎は次のように言っている。谷崎には、光源氏はよほどやりきれない男と映っていたらしく、

―例えば、須磨へ流されたこの男の詠んだ歌にしても、本心なのか、口を拭っているのか、「前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる」、「源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら捜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓えこひいきをしているらしいのが、ちょっと小癪こしやくにさわるのである」……

作家・谷崎潤一郎にとっては、別して「源氏物語」の偉大さを論じてみなくても充分であったろう、しかし批評家・谷崎潤一郎としては、「源氏物語」の作者の「めめしき心もて」書かれた人性批評の、「おろかげなる」様は記して置かねばならなかった、と小林氏は言う。つまり、批評家・谷崎潤一郎は、光源氏を自分と同じ人間社会の人物同然に見て不服を言っている、というのである。

 

そしてもうひとり、「源氏物語」の読者として小林氏が挙げているのは正宗白鳥である。正宗は、谷崎とはちがって「源氏物語」悪文論者だが、昭和八年、たまたまイギリスの東洋学者ウェレイ(ウェイリー)の英訳に接し、これを、「源氏物語」の原文の退屈と曖昧とを救った「名訳」と感じ、この「創作的飜訳」を通じてはじめて「源氏物語」に感動することを得た、「紫式部の『物語』にはいて行けない気がして、この舶来の『物語』によって、新たに発見された世界の古文学に接した思いをしている」と『東京朝日新聞』に書いた。

そして、「源氏物語の偉大さ」については、このように言った。「日本にもこんな面白い小説があるのかと、意外な思いをした。小説の世界は広い。世は、バルザックやドストエフスキーの世界ばかりではない。のんびりした恋愛や詩歌管絃にふけっていた王朝時代の物語に、無限大の人生起伏を感じた。高原で星のきらめく広漠たる青空を見たような気がした」……

さらに正宗は、昭和九年に発表した「文学評論」ではこうも言った。

―「源氏物語」、特にその「後篇たる宇治十帖の如きは、形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し、千年前の日本にこういう作品の現われたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」……

 

谷崎潤一郎と正宗白鳥、いずれも「源氏物語」に高評価を与えた人だが、どちらも双手を挙げてというふうには行っていない。問題は、ここである。小林氏は、与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、実は北村透谷以来、写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないと言ったあとに言う。

ことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない。……

谷崎も正宗も、逍遥と同じく「源氏物語」を写実小説と読んだのである。谷崎は、光源氏を語る「源氏物語」の言葉よりも、言葉によって語られた光源氏という事物の方を重んじて不服を並べた。正宗は、「源氏物語」を原文ではなく英訳で読み、そこにヨーロッパの近代小説との酷似を見て絶讃した。どちらも、「源氏物語」を「詞花によって創造された世界」と読み、そのうえでその詞花によって創造された真実を読むということはしなかった。そこに問題があった。

ただし、念のために言い添える。小林氏は、こう論じたからと言って、正宗と谷崎を誹謗しているのではない、無力だと言っているのではない。逆である。正宗白鳥、谷崎潤一郎、この二人は、小林氏が同時代の作家のなかでもとりわけて敬愛した作家である。この日本の近代を代表する大作家二人にしてなお宣長が経巡った「詞花言葉の世界」は目に映らなかった。それほどに、「写実」という眼鏡は日本の近代文学全体に行きわたり、その「写実」という眼鏡から自由になることは並み大抵のことではなかった、小林氏はそれが言いたかったのである。

そこをまた逆から言えば、小林氏は、ことほどさように紫式部が「源氏物語」に張った物語作者としての深謀遠慮は読み解きがたく、それを読み解いた最初で最後の読者である宣長の炯眼が、どれほどのものであったかを近代文学の側から照らそうとしたとも言ってよいのだが、逍遥、正宗、谷崎と、「源氏物語」を「写実小説」と読ませた現実主義の底流は、自然主義と呼ばれた世界文学の激流であった。

 

3

 

自然主義とは、元は十九世紀の後半、フランスを中心として興った文芸思潮である。これに先立って十九世紀の半ば、ヨーロッパに写実主義が興り、現実を尊重して客観的に観察し、それをありのままに描き出すことを標榜したが、自然主義は、その写実主義の延長上に興った。『新潮日本文学辞典』等によれば、人間の生態や社会生活といった現実を直視し、その現実のありのままを忠実に描写することを第一とする思潮であり運動であった。

フランスで、十七世紀以来急速の進歩を遂げた自然科学に刺激され、自然科学の方法こそが真理探究の手段と信じて文学に導入したゾラに始り、モーパッサンらに受け継がれたが、フロベール、ゴンクール兄弟などもゾラの先駆と位置づけられ、日本には明治の後期に伝わって四十年頃から顕著になった。

その日本では、作家自身の内面的心理や動物的側面を赤裸々に告白したり、平凡な人生を平凡のまま描写したりする行き方をとった。島崎藤村の「破戒」や「新生」、田山花袋の「蒲団」などがよく知られているが、他に岩野泡鳴、徳田秋声らがおり、正宗白鳥も自然主義の代表的作家とされている。

いっぽう谷崎潤一郎は、反自然主義の旗手として立った永井荷風の推賞によって文壇に出、彼も自然主義を批判する側で作品を発表しつづけた。だが荷風も潤一郎も、人間を情念の奴隷と見る点においては自然主義の感化を受けており、自然主義の延長上にいると『新潮日本文学辞典』の筆者、中村光夫氏は言っている。

 

この文学界の自然主義が、私たち読者にも「写実」という眼鏡を持たせたのである。中村光夫氏は、こうも言っている。―ヨーロッパ文学の影響のもとに日本文学の近代化を企図してきた明治の文学者は、近代化される社会における文学の存在意義を探求し、近代人の鑑賞に耐える文学を求めて二〇年を費やした、自然主義はたんなる文学者の主張ではなく社会にみなぎる時代思潮の文学への現れとみなされ、同時代の作家たちで、芸術的にはそれに反対した者も倫理的にはその影響を強く受けた……。

こうして日本の小説は、私たちに、小説として書かれている事件や物事は、小説の素材となった事件や物事がそのまま写されているという先入観を植えつけ、その先入観で、小説だけでなく文字で書かれたものすべてを読む癖をつけるに至った。

そこへさらに、実態如何はともかく「事実の正確な報道」を謳うジャーナリズムの発達があった。近年では出版界にノンフィクションというようなジャンルも現れて、ますます言語表現と現実とは相似の関係にある、否、相似でなければならないというような考え方さえ強くなっている。

小林氏に、「源氏物語」という「詞花言葉による創造世界に即した真実性」と言われても、なかなか合点できないというのは、こうして刷りこまれた先入観に気づくこと自体がまずもって容易でないからである。

 

さてそこで、正宗白鳥である。正宗も自然主義を代表する作家である。したがって、先に引いた正宗の「源氏物語」に対する驚嘆と感服は、「源氏物語」が「形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し」ていたというところにあったのだが、ここで言われている「欧洲近代の小説」は、正宗自身が言っているバルザックやドストエフスキーの小説もさることながら、「欧州の自然主義小説」と受取ってよいだろう。小林氏は、正宗の「源氏物語」の読み方に対して、「どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい……」と言っていたが、正宗の身に染みついた自然主義の観点だけは、正宗があえて設けようとしなくても常に設けられていた。

小林氏は、「源氏物語」に関しては正宗の自然主義を表に出していないが、氏の口調には、畑違いの「源氏物語」を読んでもおのずと現れていた正宗の自然主義気質に苦笑しているさまが明らかに読み取れる。正宗の「源氏物語」に対する発言は、昭和八年と九年だが、十一年の年明け早々、氏は正宗と熾烈な論争を繰り広げていた。

小林氏は、自然主義であれ浪漫主義であれ古典主義であれ、主義という規格に則って文学を鑑賞したり批評したりすることは文壇にデビューした「様々なる意匠」以来、厳しく指弾していた。その線上で、正宗とも、自然主義という思考の型をめぐって烈しく衝突したのである。

 

発端は、昭和十一年の一月、正宗が『読売新聞』に書いた「トルストイについて」だった。一九一〇年一〇月、八十二歳になっていたトルストイは、侍医ひとりを伴って家出した。途中、肺炎に罹り、家を後にしてからほぼ十日後、田舎の小駅の駅長官舎で息をひきとった。日記によれば、彼の家出は妻を怖れたからであるらしい。人生救済の本家のように言われている文豪トルストイが、妻を怖れて家出し、最後は野たれ死にするに至ったと知ってみれば、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけて見るようだと正宗は書いた。

小林氏は、ただちに「作家の顔」を書いて反駁した。トルストイにかぎらない、「偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない」、偉人英雄が、その一生をかけた苦しみを通して獲得し、これが人生だと示してくれた思想は、とうてい凡人の獲得できるものではない、せっかくのそういう思想を棚上げし、偉人英雄の一生を凡人並みに引下ろして何になる、「リアリズムの仮面を被った感傷癖に過ぎない」と詰め寄った。

小林氏が「思想」と言うとき、それはイデオロギーではない。イデオロギーは、特定の社会階級や社会集団の主張を総括した信条や観念のことだが、「思想」は本来、個人のものだ。各個人がそれぞれの個性で獲得した人生への認識をいうのである。このことは、この小文の第二回でも述べたが、私たちは一人一人、何かを出来上がらせようとして希望したり絶望したり、信じたり疑ったり、観察したり判断したり、決意したりしている、それが「思想」というものだと小林氏は言っている。

小林氏の「作家の顔」に正宗は反論し、これに対する小林氏の「思想と実生活」にも反論したが、小林氏の第三弾、「文学者の思想と実生活」には答えず、この論争は結局のところは決着を見なかった。だが小林氏は、この論争を通じて、氏の批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行った。

 

まずは、「作家の顔」で言った。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

これに対して正宗は、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を怖れたことに変りはないと言い、「トルストイの思想に力が加わったのは、夫婦間の実生活が働きかけたためである。実生活と縁を切ったような思想は、幽霊のようで力がないのである」と切り返した。

小林氏は、「思想と実生活」で、正宗の文学観の根本に舌鋒を向けた、正宗らは、

―彼(トルストイ)の晩年の悲劇は人生そのものの象徴だという。人は欲するところに、欲する象徴を見る。彼の晩年の悲劇が人生そのものの象徴なのではない。そこに人生そのものの象徴を見ると言う事が、正宗氏らのように実生活に膠着し、心境の練磨に辛労して来たわが国の近代文人気質の象徴なのである。……

さらに、「文学者の思想と実生活」ではこう言った、

―僕は、正宗氏の虚無的思想の独特なる所以については屡々書きもしたし、尊敬の念は失わぬ積りであるが、氏の思想にはまたわが国の自然主義小説家気質というものが強く現れているので、そういう世代の色合いが露骨に感じられる時には、これに対して反抗の情を禁じ得なくなるのである。わが国の自然主義小説の伝統が保持して来た思想恐怖、思想蔑視の傾向は、いろいろの弊害を生んだのである。……

続けて、言った。

―文学者の間には、抽象的思想というものに対する抜き難い偏見があるようだ。人間の抽象作業とは、読んで字の如く、自然から計量に不便なものを引去る仕事であり、高尚な仕事でも神秘的な仕事でもないが、また決して空想的な仕事でもない。抽象的という言葉は、屡々空想的という言葉と混同され易いが、抽象作業には元来空想的なものは這入り得ないので、抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。何故かというと抽象の仕事は、自然から余計なものを引去る仕事であり、自然の骨組だけを残す仕事だからだ。……

今日、「抽象的」という言葉は、否定的に扱われることが圧倒的である。君の話は抽象的でよくわからない、もっと具体的に言ってくれ、といったふうにである。しかし、たとえば『日本国語大辞典』には、「抽象的」とは「個々の事物の本質・共通の属性を抜き出して、一般的な概念をとらえるさま」とある。すなわち、「抽象する」とは、まさに小林氏が言っているとおり、「自然から余計なものを引去る仕事」であり、「自然の骨組だけを残す仕事」なのである。

ここから小林氏が最初に言った言葉、―あらゆる思想は実生活から生れる、併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか……を読み直せば、およそ次のような意味合になる。

思想とは、むろん実生活から生まれるものだが、実生活という自然には、余計なものがたくさん貼りついている、その余計なものを引き去り、実生活の骨組みだけを残した最も端的な実生活の像、それが思想である。したがって、思想が実生活に訣別するとは、人それぞれの実生活から汲み上げられた様々な想念も、個人レベルの行動経験も、徐々に、意識的に濾過して、人間誰もにあてはまる人性、すなわち、人間誰もに具わっている人間としての基本構造に対する認識、それだけを得るということである。

だから小説は、現実をなぞって写しただけでは何物でもない、そこに現実の骨組み、すなわち「思想」が映っていなければ、あるいは鳴っていなければ、小説として書かれた現実に意味はないのである。

そうであるなら、読む側も、そこに書かれていることを作者の実生活へ引き戻すのではなく、実生活を透かして見える「思想」、作者が実生活から抽象した「人性の基本構造」を読み取る、それが大事である。「源氏物語」は紫式部の実生活が書かれたものではないが、そこに書かれていることの素材やモデルを当時の歴史に求めたり、現代の私たちの実生活に引き比べて読もうとしたりするのは徒労である、読むべきことは厳然としてある、それこそが「詞花言葉による創造世界に即した真実」、すなわち、紫式部が語って聞かせようとした「もののあはれを知る」という思想である。

 

4

 

小林氏は、第十八章で言っている。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。「源氏」という、宣長の言う「夢物語」が帯びている迫真性とは、言語の、彼の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならず、この創造の機縁となった、実際経験上の諸事実を調査する事は出来るが、先ずこの調べが直知出来ていなければ、それは殆ど意味を成すまい。……

「諸抄」の「抄」とは、注釈書である。それら過去の注釈書は、いずれも「源氏物語」は一種の夢であるとは思わず、現実社会の写し絵と読んで道徳・不道徳を論じたりしていた。たしかに「源氏物語」は、一見精緻な世間話とも見えるが、その迫真性は、紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴ったことによる。したがって、「源氏物語」で言われていることと、人間社会の現実とはまったくの別物であると知っておかなければならないと、小林氏は、正宗白鳥との論争で言ったことをここでも言うのである。

では、その迫真性は、言語の、宣長の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならぬ、とはどういうことだろう。

―歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。……

「歌人にとって最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは、およそこういうことである。歌人には、詠みたいと思う自然なり人事なりが先にあることはあるのだが、それが歌人自身にも明確に見えていたり感じられたりしているのではない。感動であれ悲傷であれ、歌人自身にも確とは見届けられない、掴みきれない心の動揺がある。それを見届けたい、掴みたいと思う気持ちが歌になっていくのだが、そのために、動揺する心をまず鎮めて見届けよう、掴もうとするのではなく、とにもかくにも何か手がかりになるような言葉をひとつ書いてみる、そうすると言葉が言葉を呼んで、いつしかおのずと歌が出来上がる。この出来上がった歌から最初に動揺していた心を照らし出すことはできる、しかし、最初に動揺していた心で歌を説明することはできない。なぜならそこに出来上がっている歌は、もはや最初の心の写しではない、言葉が歌になろうとしていくつかの言葉を呼んでいるうち最初の心は抽象され、心という自然から余計なものが引去られ、心の骨組だけが残っている状態、それが歌である。心という「自然の最も正確な像」である。この歌というものの出てくる仕組みは、第二十二章に精しい。そこへはいずれ、しっかり足ごしらえをして訪ねていくことになるのだが、ここにも骨子は引いておこう。

―「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と言う。「ソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ、大口訣ダイクケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ、案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ、歌ハ出来ヌ也。サレバ、ソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、辞ノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニ、ウカメ置テ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノヅカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。(中略)マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノテガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」……

紫式部は、「源氏物語」をこういうふうに、歌を詠むのと同じように書いた、だからその迫真性は、現実生活の事実性とは手が切れている。そして、ここでこうして私たちを襲ってくる迫真性こそは、「詞花言葉による創造世界の真実性」なのである。

 

先に、小林氏は正宗白鳥との論争を通じて、生涯にわたる批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行ったと言ったが、それを統べるのは次の一言であった。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

私がこれを、小林氏の批評活動の主調低音とみなした理由は、もう察してもらえていると思う。つい先ほど読んでいただいた「本居宣長」の第十八章でも鳴っているが、これに類する発言は「小林秀雄全集」の随所で見られるのである。

だがいま、「本居宣長」を読むうえで、しっかり聴き取っておきたいのは第三章である。小林氏は、

―松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

と言い、次いで、こう言っている。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

(第十一回 了)

 

ブラームスの勇気

十一

「批評文も創作でなければならぬ。批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」と発言した同じ座談会で、小林秀雄はまた、「こんな風なことも考える」と断った上で次のように語っていた。

 

例えば、僕は長い間中絶してから、「ドストエフスキイの文学」をまた書こうと思っていますけれども、彼に関するいろいろな批評を読んでしまうと、いろいろな意見が互に相殺して、結局何も言わない原文だけが残るという感じをどうしようもないのだね。批評家は誰も早く獲物がしとめたい猟師のようなものでね。ドストエフスキイはこういうものだと、うまく兎を殺すように殺してしまって、そうして見せてくれる。兎を一匹二匹と見せられているうちは、まず面白い。兎の死骸がしこたま積み上げられるとなると閉口するのだよ。全然兎が捕まらない批評だってあっていいだろう。そうすると、批評というものがだんだん平凡な解説に似て来るんです。勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る。昔の人は原文というものを非常に大事にした。古典といってね。批評精神が発達しなかった証拠という風にばかり考えたがるが、そこにはやはり深い智慧があるのだ。原文尊重という智慧だ。古典を絶対に傷つけたくなくなるんだ。勝手に解釈するのが嫌になるんだ。古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法もあるのだ。

 

この「批評の方法」とは、後に「ゴッホの手紙」において見出される「『述べて作らず』の方法」そのものであろう。同時にここで言われた古典という「原文」は、「無常という事」で語られた「解釈を拒絶して動じないもの」としての歴史であり、それを合点していよいよ美しく感じられたという一つの「形」としての歴史であった。その発見は、既に見たように「ドストエフスキイの生活」において彼が経験した、「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」(「歴史と文学」)に端を発し、それとほぼ時を同じくして遭遇した骨董への開眼を一つの契機としてなされたものであった。さらに言えば、「自己を没却出来る」という小林秀雄生得の「或る批評家的性向」をその源泉とするものであった。

だが一方、彼には、批評文もまた創作であり、芸術であらねばならぬという強い要求と野心とがあった。それは元来作家を志した小林秀雄の文学者としての矜持であり、嘗て志賀直哉へ書き送った「やつぱり小説が書きたいといふ助平根性」の残滓でもあっただろう。「ゴッホの手紙」の連載を開始する四ヶ月前の昭和二十三年八月、坂口安吾との対談の中でも、彼は、自分のレーゾン・デートルは「新しい批評文学形式の創造」であると語っている。作家である安吾が信長が書きたい、家康が書きたいと思うのと同じように、自分はドストエフスキーが書きたい、ゴッホが書きたいと考える。その手法はあくまで批評的だが、結局達したい目的は、そこに「俺流の肖像画」を描くということだ。それが「最高の批評」であり、そのための素材は何だってかまわないのだと。

「扱う対象は実は何でもいい」とは、「コメディ・リテレール」座談会でも言われていた。だが彼の言葉を誤解してはならないだろう。彼は、「それがほんとうに一流の作品でさえあれば」と保留している。対象は何でもかまわぬとは、どんな対象を描いても同じ自画像に仕上げてみせるという自負ではない。対象は何であれ、それが一流の作品でありさえすれば、いつでも彼には「自己を没却出来る」用意がある、ということなのである。小林秀雄の批評活動とは、彼を芸術としての文学創造へと駆り立てる或る詩人的性向と、自分が信じ愛する古典を前にして「自己を没却出来る」という或る批評家的性向の、言わば二つの焦点から成る楕円軌道を描くということであった。折々の作品たる軌道上の点は、常にこの二つの定点からの距離の和を等しくしたが、「無常という事」から「モオツァルト」にかけての作品群において、その軌跡は詩人的性向の極に大きく振れたのである。そしておそらく、小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」とは、この楕円軌道を「螺階的に上昇」しつつ、二つの焦点が限りなく接近して行く道であった。すなわち詩人と批評家とに引き裂かれながら、しかし互いに曳き合いながら歩み続けた彼の足取りが、遂に一つの中心点を見出し、その軌跡が正円へと収束していく道であった。

「モオツァルト」を発表した三ヶ月後、都美術館の広間に懸かっていた「烏のいる麦畑」の複製画の前に立った時、小林秀雄はおそらく詩人的性向の臨界点に達していただろう。「ゴッホの手紙」の冒頭に書かれた彼の烈しい「逆上」ぶりと、その感動が描き出したあの嵐の吹き荒れる海原の黙示録的ビジョンがそのことを物語っている。だがまたそれは、「自己を没却出来る」という批評家的性向の極に向って、彼が大きく旋回し始めた転回点であり跳躍でもあったのだ。

先に引用した発言の中で言われた「『ドストエフスキイの文学』をまた書こうと思っています」とは、直接には「ゴッホの手紙」の連載開始直前に発表された「『罪と罰』について Ⅱ」を指すが、その後、足掛け四年にわたった「ゴッホの手紙」の連載を終えると、彼はすぐさま次なる「ドストエフスキイの文学」の執筆に取りかかった。「『白痴』について Ⅱ」がそれである。ゴッホの書簡と生涯を辿りながら、そこに「ゲルマン風のムイシュキン」(「近代絵画」)の面影を見ていた小林秀雄にとって、ゴッホの肖像画を描き上げた後に、ムイシュキンという「スラブ風のゴッホ」を描くのは自然な筆の流れではあっただろう。しかしそれは、「書簡による伝記」によっていったん「自己を没却」した小林秀雄が、ふたたび「批評文に於いて、ものを創り出す喜び」(「再び文芸時評に就いて」)を求め、ドストエフスキーという大理石に向って鑿を振るい始めたということでもあったはずである。だが、その新たな批評的創造の試みにおいても、「予め思いめぐらした諸観念」は次第に崩れ去り、遂に「批評的言辞」が彼を去るという、「ゴッホの手紙」の時とほとんど同じことが起こった。連載の半ばを過ぎたあたりから、小林秀雄はイポリートやレーベジェフ、イヴォルギン将軍といった脇役たちの告白を、彼自身の言葉で言えば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところを、本文も殆ど参照せずに」綴り続けることになるのである。

「『白痴』について Ⅱ」の連載はしかし、八回続いたところで半年間のヨーロッパ旅行によって中断され、帰国後、新たに開始されたのが「近代絵画」であった。小林秀雄は「モオツァルト」について、あれは文学者の独白であって音楽論というものではない、もし今度音楽について書くとしたら同じやり方では書きたくない、もっと勉強して専門的なものを書きたい、と幾度か語っていたが、ヨーロッパで半年間、西洋美術の洗礼を受け、その後四年間、計四十五回に及んだこの近代画家論が、まさにそれに当たると言えるだろう。少なくとも「近代絵画」は、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「一つのたしかな美の形式」としての批評文というより、同じ座談会で言われていた「一番立派な解説が一番立派な批評でもある」という批評作品の系譜に属している。もともとこの連載は、ラジオでの講演をきっかけに始まったものであったが、この作品が野間賞を受賞した際、小林秀雄は、「長く書いたが、苦労ではなかった。苦労もあったが、それも楽しく、読者に訴えようという気も強く持っていなかった」と語っている(「『近代絵画』受賞の言葉」)。「読者に訴えようという気」とは、彼が言った「早く獲物がしとめたい猟師」としての野心であり邪念でもあっただろう。そしてこの「平凡な解説」者に似て「一番立派な批評」家たらんとする覚悟を、彼は「近代絵画」を上梓した翌月以降、五年間、計五十六回にわたって断行した。それが、「感想」という名で『新潮』に連載されたベルクソン論であった。

 

実は、雑誌から求められて、何を書こうというはっきりした当てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルグソンの哲学を説くに及ぼうとは、自分でも予期しなかったところであった。これは少し困った事になったと思っているが、及んだから仕方がない。心に浮かぶままの考えをまとめて進む事にするが、私の感想文が、ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせないで終ったら、これは殆ど意味のないものだろう、という想いが切である。

 

母親の死にまつわる或る忘れ難い経験の回想から書き出され、話がベルクソンの哲学に及んだ第三回の冒頭で、すでに彼はこのような「想い」を吐露している。きっかけは何であれ、連載がこのような形で始まった以上、彼の目的はベルクソンの哲学の「解説」を書くことであり、それは畢竟、「ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせ」ることに尽きる。とすれば、「勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る」のは必至であろう。「扨て、余談にわたったが」と断って、彼は「意識の直接与件」でベルクソンが扱った自由の問題に分け入るのだが、その後五年間、「余談」はもはや一行も書かれなかったと言ってもいい。そしてベルクソンの著作の、「『白痴』について Ⅱ」の言葉をふたたび借りれば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところ」が延々と記述されて行くのである。「ゴッホの手紙」では、翻訳はあくまで翻訳としてその体裁を最後まで崩すことはなかったし、「『白痴』について Ⅱ」では、自由に再構成された登場人物たちの告白が地の文にそのまま現れるようになるとはいえ、それはあくまで小林秀雄の声色で語られ、彼の批評作品と呼べる姿を保っていた。それに対し、ベルクソンの著作をひたすら祖述しようとするこの「感想文」は、回を進むにしたがって、小林秀雄の解釈は勿論だが、彼の文体までもが消失して行き、遂には「平凡な解説」としか呼びようのないものに限りなく近づいて行く。まさに「全然兎が捕まらない批評」を、彼は書こうとしたのである。

ところが「『白痴』について Ⅱ」の時と同じく、第五十六回を発表したところで彼はソビエト旅行へ出発し、連載はまたしても中絶した。その理由については、彼自身が語った片言がいくつか残されている。だがその詮索よりも、彼が五年間もベルクソンの「解説」者に徹し続けたという事実の方が遥かに重要であると思われる。「自己を没却出来る」という小林秀雄の批評家的性向が、ここまで徹底して発揮されたことはなかった。先に引用した「余談」に続けて、彼は、「はからずも、ベルグソンの処女作を、又読み返して見る様な仕儀になり、書きながら、以前、この哲学者に抱いていた敬愛の情が湧然と胸に蘇る」と書いている。「無私ヲ得ントスル道」は、小林秀雄の胸中に湧出するこの「敬愛の情」から常に出発し、いつもまたそこへ帰って来る道であった。

(つづく)

 

沈黙の花

このごろは、季節と言えば春、それも淡雪が思い出したように降る時季が一番気になるようになった。それは数年前の三月、明日我が子に会えるという臨月に見た景色がきっかけである。

しばらく外をゆっくり歩けないと思った私は、桂川の土手を散歩することにした。少し向こうには吹雪でぼんやり霞む嵐山が見え、淡雪が横から下から顔にはり付いてくる。引き返そうかと思っていたら、一瞬にして雪が止み、今度は木漏れ日にぽかぽかした浅みどりの山肌が現れた。薄紅色の小枝も交り、なんとも長閑な春の山だと思っていたら、また吹雪……数秒後に山のてっぺんは雪化粧である。こんなことがあるのだなぁと、この繰り返し反転する景色を眺めていて、私はそうかと楽しくなった。以前から気になっていたが、嵐山の麓の渡月橋や中州は強風がよく吹いている。「嵐」という国字は、もともと山から降りてくる風を表すそうだが、もしかしてこの言葉はこの場所で生まれたのかもしれない……そう思って見ると、山の上から川に吹き下ろす風の道が見えるようだ。

 

吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ

(古今和歌集 巻五・秋下 文屋康秀)

 

昔の人の心を想像すると、なお勝手な思い込みを正当化したくなるが、それにしても自分の目に間違いないと思わせるほど、一瞬の中にある自然の力は凄まじい。こんなことを思いながら、実際には大きなお腹に眠る命を抱えて、あの時は訳のわからぬ不安と愛おしさで胸が締めつけられそうであった。けれど、この泣き笑いの景色を眺めているうちに、私の気持ちは治まっていったのである。

小林先生は、「眺める」ことについて、『本居宣長』の中で宣長のこんな言葉を引用されている。

 

物思ふときは、常よりも、見る物聞く物に、心のとまりて、ふと見出す雲霞草木にも、目のつきて、つくづくと見らるゝものなれば、かの物おもふ事を、奈我牟流ナガムルといふよりして、其時につくづくと物を見るをも、やがて奈我牟流ナガムルといへるより、後には、かならずしも物おもはねども、たゞ物をつくづく見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし(「石上私淑言」巻一)

 

今は、このような、心に這い上ってくる、直な自然は、わざわざ会いに行かなければ出会えないほど身近なものではなくなってしまったが、古の人は、どんな瞬間にも自分の心を現しているかのような自然と、当たり前に対話をしていたように思う。それほどに、自然には「人目を捕らえて離さぬ」美しさがあり、これは小林先生が『美を求める心』で仰っている「私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験」であると思う。

心動かされるものに出会うため、展覧会に出かけるのは楽しいことであるが、何となくここ数年、徐々にその回数が減ってきた。私の場合、それが自然を取り込む「お茶」に移行し、流れる時間の中で、からだ全体で美に出会う方が楽しくなってきたのかもしれない。

「茶の湯とは ただ湯を沸かし 茶を点てて のむばかりなる事と知るべし」と利休居士は言っているが、この一見日常の所作を非日常にすり替えていく一連の時間には、小林先生の言う「小さな、はっきりした美しさの経験」が、何百年もの人々が導く知恵や経験と相まって詰まっている気がするのだ。「お茶」は、ガラスケースの向こうの作品と向き合うのとは違って、数人の人の気が行き交う中で、感じることの蓄積された「自分」が、直に五感を通して動き出し、突然現れる美を待つ時間なのである。

 

三月の初旬、まだ雪が落ちては溶ける中、私と友人五名は山裾の知人宅の茶事に出かけていった。私たちは身支度をして、寒い腰掛待合で晴れたり曇ったりする空に淡雪を見ながら、ご亭主が迎えに来るのを待った。庭の木々や敷き詰められた苔は水分をたっぷり吸ってきらきらしている。どこからか種が飛んできたのだろう、つぼ菫がつくばいの石の間から顔を出している。露地の丸い飛び石も、よく打ち水を吸い込み、朝の陽光に湯気が立っている。茶庭に飛び石が敷かれたのには実用もあるけれど、その形や配置は大人でも飛んで渡りたくなる楽しさがある。気持ちが弾んだ先に、小さなにじり口が静かに待っている。

薄暗い三畳ほどの茶室の戸を開けると、何か背筋の伸びる難しい禅語が床に掛けてあり、私はわからないながら拝見し、自席に着いた。

ご亭主は、まず一番に火をおこしてくださる。これがうまくいかなければ、おいしいお茶がいただけないし、部屋もぬくもらない。釜が上げられると、真っ赤に菊の花が燃えているような種火が三つ炉中を暖めていた。それをのぞく私たちの顔も火照ってくる。そこへご亭主は大小きれいに洗われた炭を配して、最後に香をべる。

釜が煮える間、私たちは時季の一汁三菜と酒をご馳走になる。このころから気持ちが和ぎ、会話も弾んで掛物の字のありがたさがわかってくる。「明歴々露堂々」。なるほど、森羅万象は堂々とその姿をあらわにして真理を語っているという、春の自然の躍動を感じ、この時期には噛みしめやすい言葉である。

私たちは一旦、庭に出て気分をリセットする。見上げると、雲の間から真っ青な空が美しい。あんなに寒かったのに、冷たい空気が気持ちよくて、思い切り深呼吸をした。どこからか遅がけの梅の香りがし、鶺鴒せきれいが木の上で鳴いている。もう一度手や口を蹲で清めて茶室に入ると、今度は軸に替わって暗い床に一輪の白い花が、ぽっと明かりのように活けられている。その小さい蕾をそばでよく見ると、薄桃色の西王母という椿であった。西王母は、孫悟空にも出てくるが、一度食べたら三千年寿命が延びると言われる桃を庭に持つ仙女の名前である。霧が落ちたように瑞々しく活けられた姿は、部屋いっぱいに広がる練り香の清い香りに包まれ、妖艶な仙女が確かにいる気配が感じられた。上巳じょうしの節句を祝って数ある椿の中から、ご亭主があちこち探されたに違いない。

ここからはクライマックス。ご亭主はすっと襖を開け、無言でお辞儀をし、私たちも無言でそれを受ける。音は、シュンシュンと湯けむりを立てる釜の煮え音と、かすかにご亭主が茶を練る茶筅ちゃせんの音だけだ。その間、薄暗くしている窓の簾が外から巻き上げられ、畳にゆっくり陽が差し始める。陰から陽への室礼である。

そこで、出された一碗の濃茶を皆でいただく。分かっているけれど、実際、その茶の甘さは至福である。あとからあとから、ご亭主のお気持ちが全身に行き渡ってくる。私たちは、皆で回しのんだ茶碗をゆっくり拝見する。古萩で、少しゆがんだ形が州浜のように三角であり、釉薬ゆうやくは薄く、手にしっとりなじみがいい。色は川のような空のような、少し寒そうな色合いの景色で、銘は「帰鴈」。この時季、北方へ帰っていく渡り鳥……後になって知ったのだが、本居宣長も「朝帰鴈」という歌を詠んでいる。

 

朝霞 月も今はの 山端を 越えて消えゆく 春の鴈金かりがね

 

茶の湯はできるだけ日常の言葉を少なくし、自然や、人々の手仕事の技、道具の語らない力に話させて、美を求めようとする時間だ。小林先生は、「言葉の邪魔が入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう」と仰っている。茶事は、同じ道具、同じ季節、同じ場所で行われたとしても、そこで味わう豊かな時間はそのたびごとに一回きりだ。それは、毎年巡り来る季節の美しさに似ている。茶を楽しむ人々はそこにしか咲かない美を見つけるために、じっと心を開けて待ち続けるのだろう。「お茶」にはそういう「沈黙の花」に出会う、限りない美の楽しみがある。

(了)