宣長の「ふり」とふるさとの言葉

安田 博道

尾張から三河地方にかけて、「とろくさい」という方言がある。

三河出身の人は解ると思うけれど、あまりいい言葉ではないから、面と向かって「とろくさい」と言われたらむっとするかもしれない。

とろい、という言葉とも似ていて動作がのろいとかグズグズしているという意味で使われるが、それが転じて頭の回転が鈍いことから馬鹿とか、阿呆とか、要するに利口でないことも意味する。

ただ、この言葉を日常使っている人にとって「とろくさい」と言われる場面で、例えば「馬鹿」と言われたら妙な違和感があるだろう。その微妙なニュアンスの違いは、特に子供の時から使い慣れている言葉であればなおさらである。

 

小林秀雄は、『本居宣長』で、その微妙なニュアンスの違いについて次のように説明している。

 

例えば、「言詞をなおざりに思ひすつる」ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だという。辞書というもののからくりを超えることは容易ではない。彼らは、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。

    ……中略…………

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずることに他ならないからである。さらに言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合いを認めるなら、この意味合いは、表現と理解とが不離な生きた言葉のやり取りの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、練磨され、成長もするであろう。

(『小林秀雄全作品』第28集p.48)

 

人々は言葉の実際のやり取りの中で言語を学習し、習得し、その言葉の持つ音声と意味とが不離な状態になる。だから、ある場面で慣習的に使われる言葉が、たとえ意味が同じでも違う言葉が使われるとどことなく居心地の悪さを感じてしまう。

 

同じように三河地方の方言で、「ふんごむ」という言葉がある。

それは、ぬかるみに足がはまる、程度の意味だが、もともと「踏み込む」という言い方が使われるうちに変化し「ふんごむ」という言い方になったと思われる。数センチから十数センチほど足を取られる程度に踏み込まなければこの言葉は使わなくて、水たまりに足を入れた程度では「ふんごむ」とは言わない。例えば田植えの時期に田んぼに足を入れた時、その状態の総称を「ふんごむ」という。

しかし、最近は殆どこの言葉を使わなくなった。それと言うのも、都市部に出てきてから方言で話さなくなったこともあるが、地面がアスファルトなど舗装で硬い場所ばかりで「ふんごむ」ような場面に遭遇することがなくなったからである。

僕はこの言葉を想像するたびに、田園風景を思い出す。もう少しいうと、春の田植えの風景を思い出す。水田に足を踏み入れた時、床土に確かな抵抗がなくぬるぬると足がはまっていき十数センチのところでようやく体を支える程度には足が固定される。しかし、今度はその足を引き上げるときに注意しないと、不安定な足もとでバランスを失ってしまうので、そろーりそろーりとぬかるみから足を引き上げる。そんなディテールまで含めた風景を思い出す。この方言には、子供のころの体験と離すことは出来ない、懐かしさも含めたそんな思い出がある。

 

本居宣長は、彼が訓詁するまでは誰もまともに読んだことのなかった「古事記」を読んだ。「古事記」は8世紀の日本最古の歴史書であり、宣長がそれを読み始めたのが1764年というから、その間実に千年の歳月が流れている。僕達が平安時代の書物を読むようなもので、もはや外国語を訳すような作業であり、そんな太古の言葉で書かれた「古事記」をなぜ読むことが出来たのだろうか ?

その謎を解く鍵が宣長の歌にある。

「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」

宣長が「古事記伝」を書き上げた年に詠んだ歌であり、「古事記」を読めば、その時代の手ぶりや言葉を交わしていることが、(目の前で)見たり聞いたりしているようによくわかる、という喜びの歌である。

ここで歌われた「手ぶり」の「ふり」が、宣長が「古事記」を読む際に常に心がけていたことであり、重要なキーワードとなっている。「ふり」とはどのようなものか ? 小林氏の話を聞いてみよう。

 

安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。

(同第27集p.348)

 

「古事記」は安万侶の表記によるが、その言葉一つ一つに古事の「ふり」があるという。そして、そこには生きた「言霊」が働いているという。

もう少し聞いてみよう。

 

主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるものの、内にある古人の意(こころ)の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」という。古学する者にとって、古事の眼目は、目には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえる、その「ふり」である。

 (同第27集p.349)

 

僕がこのエッセイを方言から始めたのは、既に察していただいたと思われるが、方言には標準語では失われてしまった、風景のようなふるまいを含んだ映像とも呼べる鮮明な記憶があるからだ。幼いころから慣れ親しんだ方言には、忘れることの出来ない懐かしさがあり、記憶があり、いつ覚えたとも知れない方言に宣長の言う「ふり」を理解するきっかけを見たからである。

もう少し、先へ行ってみよう。

大学から上京し横浜での生活が始まるが、其処からは殆ど標準語しか使わなくなった。話す言葉は、方言からやがて標準語へと変わり、外来語、専門用語等新しい言葉が増えていった。

このようにして、話し言葉は高等教育を受けた後の言葉が多くなってきたが、しかし言葉を覚えた時間を逆向きにたどるなら、幼少のころに覚えた言葉のほうが、記憶やその繊細なニュアンスはより多くを含んでいるように思われる。

例えば、「family」は、元来英語であるけれども今では外来語として日本語に定着している。しかし、「家族」と呼んだほうが、自分の家族を思い出すにはより適切な言葉であるし、さらに言えば、子供のころ呼んでいた「お父さん」「お母さん」「お姉ちゃん」のほうが、僕と家族との関係を、より鮮明に思い出させてくれる。幼いころ口にしていた父母の呼び名や兄弟の呼称は、誰の心にも思い出を掻き立てるなにか不思議な力が宿っているのではないだろうか。試しに、「お母さん」と口にして想像の世界に入ってみれば、幼少の頃のエピソードの一つや二つは、直ぐに蘇ってくるだろう。この呼びなれた呼称が引き受けてきたものは、喜びや、悲しみ、怒り、信頼など、僕と家族が接した痕跡であり、数えきれないほど呼んだ呼称は、いつしか自分と相手との記憶の貯蔵庫と化している。それを考えると、「family」はおろか「家族」という言葉すら、この呼称の確かさから比べたら、まだまだ不確かであり抽象的に響いてしまう。

最近こんな経験をした。

父は、最近徐々に新しい出来事を記憶に定着できなくなってきて、昔の記憶の中を生き始めるようになった。介護が切実な問題として近づいてきており、週末には実家に帰ることが多くなった。ある日、父と話をしていて、ふと「お父さん」という言葉が脳裏によぎった時、まだ若かったころの父との思い出が、堰を切ったように、溢れるように記憶によみがえってきた。それは懐かしさと寂しさを交えたどうにもならない心が動揺する経験だった。「お父さん」は、僕が幼少のころ呼んでいた呼称であり、僕と父との関係をより鮮明に徴した言葉である。その言葉には、記憶を呼び覚ます呼び水のような何か不思議な力が宿っていた。それは「父」ではなく、勿論「パパ」や「親父」でもない。僕が昔使っていた呼び名である「お父さん」である。言葉にはそんな力が宿っているのだろうか。

幼い子は自分に必要なものだけを本能的に感じ取るものであり、それが両親であり、生きていく上で体得した実践的な言葉が「お父さん」であり「お母さん」であった。習い覚えた概念としての「家族」などは、この呼び名の確かさには匹敵しない。「お父さん」と発する時の心の働きのほうが、はるかに確実なものがあったように思う。

 

宣長は古代人の言葉の使い方にある深い洞察を見ようとした。そこに宣長の認識と精神の働きの驚くべきものがある。

「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」

宣長は、「古事記」を読むにあたって、「古言のふり」を丁寧に読み、古代の言葉を自ら慣れ親しんだ言葉のようにして読んだ。単なる言葉の意味や概念を知るのではなく、言葉に詰め込まれた風景や記憶を呼び戻した。そこには言葉に対する深い愛情があったのだろう。「古事記」を読む際に、言葉に慈しみをもって接していれば逆に言葉がそのニュアンスなり風景なりをいくらでも携えて返してくれる、そんな体験をしたのだろう。

それは、呼び慣れた家族の呼称なり、幼いころに使っていた方言なりを思い出すことと、どんな違いがあると言えるのか。

(了)