「反省」するということ―小林秀雄の眼が宣長と土牛に見たもの

小島 由紀子

二十数年前、「西行桜も見たい、醍醐の桜も見たい」という母に連れられ、京都を西から東へと横断した。西は西行が出家を果たしたといわれる勝持寺へ、東は豊臣秀吉の醍醐の花見で知られる醍醐寺へと向かった。

その時、日本画家の奥村土牛さんが、「醍醐」という作品で枝垂れ桜を描いている、と聞いた。その後、展覧会で、この絵に出会い、淡く透明な桜の色に一瞬で魅せられた。それからというもの、土牛さんの画集や絵葉書、著書などを集めてきている。

 

時が流れ、一昨年、「小林秀雄に学ぶ塾」への入塾が叶ったことで、土牛さんの作品と再会することができた。『小林秀雄全作品』(新潮社刊)第27集と28集の表紙カバーに、単行本の「本居宣長」に使われた、土牛さんの山桜の絵が印刷されていたのだ。

27集の目次を開くと、「土牛素描」というタイトルも目に飛び込んできた。だが、すぐ読み始めたものの、驚きのあまり途中で、先に進むことができず、また最初へと戻った。

冒頭で、小林先生は、昭和43年刊行の画集「土牛素描」の「あとがき」から、土牛さん自身の言葉を引いている。

 

私は写生をしている間が一番楽しい。それは、無我となり、対象に陶酔出来るからである。短い時間に、その時の心境が恐しいほど現われる。それが重なって制作につながってくるのである。(同27集「土牛素描」p.12 2行目~)

 

そして、小林先生は、「自分の全制作は、写生に発している、と強く言い切るのを、画家自身の口から聞いた感じで、この動かせぬ事実につき、想いを新たにした」と驚きを語り、こう続ける。

 

素描と制作という言葉が使い分けられ、素描は制作につながるとあるが、素描は制作に行き着くとは書かれていない。実際、「土牛素描」を見る者の、かな感じから言えば、どの素描も皆完結した姿をしていて、制作のための準備、下描きという様子は見せていない。成るほど、これが、物を見る時の、この画家の心境、画家当人にも恐ろしいと感じられている、その現れ方であるかと、そう思わせるものがある。(同p.12 8行目~)

 

土牛さんの素描を見て小林先生も描いている、鉛筆を握ってデッサンしている、いや、眼そのものが鉛筆の芯になっている……と、感じた。

自分も土牛さんの素描作品が好きで見ていたとはいえ、「ただぼんやり見ていただけだった……」と、愕然とした。思わず赤ペンを握り、また最初から読み返し、はっと驚いたところに線を引いた。3ページ強の短い文章とは思えなかった。

 

それから約一年、「本居宣長」を読む途上も、驚きの連続だった。特に、松阪で「古事記伝」の素読会に参加した時と、その後、「本居宣長全集」で「古事記伝」の註釈を読んだ時は、衝撃を受けた。その宣長さんの言葉は、緻密で、強く確かに、よどみなく流れる。時空を超えた時空がつかまれ、物も人も、その心も、そこで確かに動いている。

なぜ、この註釈を生み出せたのか? それはまさに小林先生の「本居宣長」がすべて体現しているところで、具体的にも随所に示されている。

 

古事の「サダマリ」については、「万葉」を初めとする、手に入る限りの、同時代の文献に照らして、精細な調査が行われたが、それは、仕事の土台に過ぎず、古人の「心ばへ」を映じて生きている「古言のふり」を得るには、直覚と想像との力を、存分に行使して、その上に立ち上らなければならなかったのである。(同第28集「本居宣長」p.76 2行目~)

実際、「古事記伝」の註解とは、この古伝の内部に、まで深くり込めるか、という作者の努力の跡なのだ。(同p.113 1行目~)

 

宣長さん自身も「古事記伝」が完成した年に、歌にこう詠んでいる。
 古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし

 

だが、それはいったいどのような状態なのか? 宣長さんのような「物まなび」をしていない自分に、ましてや、書く、描く、作るといった創造的、かつ非常な忍耐を要する営みを経ていない自分に分かるものではない、と百も承知でいながら、疑問が募った。

折しも、池田塾頭に質問を提出する期日が迫っていた。「小林秀雄に学ぶ塾」では「自問自答」といって、自分で立てた問いに、自分で答えを出した上で提出しなければならない。だが、問いは立ったが、答えが見つからない。焦ってひたすらページをめくっていたら、「本居宣長」第47章の小林先生の言葉に引き寄せられた。

 

神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。(同p.161 9行目~)

 

宣長さんが、自宅二階の書斎である鈴屋で、文机に向かって「古事記」に見入る姿が浮かんできた。そうか、こういう状態か、と感じた。だが、「信ずる心が己れを反省する」という部分が分からず、七転八倒した。とうとう山の上で質問に立つ日が目前となり、池田塾頭が「全作品27集の12ページのここからをしっかり読みなさい」と導いてくださった。それはまさに、「土牛素描」の赤ペンで線を引いた部分だった。

 

奥村さんにとって、素描とは、物の形ではなく、むしろ物を見る時の心境の姿という事になる。更に言えば、物に見入って、我れを忘れる、その陶酔の動きから、おのずと線が生れ、それが、無我の境に形を与える、そういう線の働きという事になるようだ。この場合、無我の心境が、突如、反省され、己れの姿が見えて来るのに驚く、という言い方をしてもよかろう。(同第27集「土牛素描」p.12 13行目~)

 

まさにここに「反省」という言葉があったのだ。

その時、宣長さんが「古事記」に見入って註釈を書く姿、土牛さんがものに見入って素描する姿が重なった。宣長さんの註釈も「本文をよく知る為の準備としての、分析的知識」ではなく、土牛さんの素描も「制作のための準備、下描き」ではない。どちらも対象に見入って、無私となり、無我となり、そこからおのずと言葉が生まれ、線が生まれてくる……。

この重なりを感じて興奮し、そのまま質問の日を迎えた。肝心の「反省」の部分の読みがすっかり抜けていることも気付かず、話し続けていた。

それに対して、池田塾頭は、まさにずばりと「肝心な『反省』の部分がすっぽ抜けてます! 小林先生のお使いになる『反省』という言葉は、文脈によって違います。ここでは一般的な意味での反省ではありません」と言って、「土牛素描」の次の箇所を読んでくださった。ここにも赤ペンで線は引いてあったが、まったく見落としていた。

 

様々な動機や目的で混濁している普通人の自然な見方を、こんていから建て直さなければならない、そういう画家の覚悟が、に、立ち現れて来る。先きに書いた「土牛素描」のどの頁にも直覚される完結性というものも、この上に立つ。雑念を去って、静かに、物に見入る心の象徴としての描線、ほとんど実体を持たぬ、その固有な表現力、これについての奥村さんの確信には並外れたものがある。それは、素描と制作とを貫き通している、―私は、それを考えるのである。(同p.13 4行目~)

 

静かに、物に見入る心の象徴としての描線……。土牛さんの眼と、宣長さんの横顔も見えた気がした。雑念を去って、静かに、神代の伝説に見入る。その見えたままを信じて、ひたすら古人の心に推参していく。そうして無私となった心に映っているものが、そのまま註釈となって現れる……。

「反省」の真意に気づいた時、土牛さんと宣長さんの姿に、小林先生、そして池田塾頭の姿が重なった。そして、「小林先生の作品を読む時は、全集を通じて、同時代に書いたものもあわせて読み、その当時の心境に思いを馳せてください」という池田塾頭の言葉も、あらためて身に染みてきた。

 

その日、池田塾頭は、小林先生と土牛さんの親しい交わりと、「本居宣長」の刊行にあたって、土牛さんに絵を依頼した経緯を語ってくださった。そして、単行本の見返しを開き、山桜の絵を掲げ、宣長さんと小林先生が山桜を愛した思いが、そこに表れていることを示してくださった。

宣長さんの「しきしまの大和心を人問はば朝日ににほやまざくらばな」という和歌について、小林先生は、「学生との対話」(新潮文庫)に収録されている「講義 文学の雑感」でこう語っている。

 

「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。……山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。

 

この言葉どおり、土牛さんが描いた山桜は、白い花びらに、赤みを帯びた葉と、金色を放つ地色が映え、まさに朝日を映して淡く色付いているように見えた。

 

その後、山種美術館での「生誕130年記念 奥村土牛」特別展を再訪し、長野県八千穂町にある奥村土牛記念美術館も訪れた。土牛さんの作品と新たに出会えたような気持ちになった。

小林先生がお持ちだった昭和43年刊行の「土牛素描」も古書店で入手した。縦40cm、横30cmと大判で、紙も生成り色で画用紙のようにざらつきがあり、本物のスケッチブックを思わせる形をしている。それを抱えていた土牛さんの温もりが残っているようで、また、この画集を「繰り返し、見て来た」という小林先生の眼がそこに在るようで、手が震えた。

 

何枚かページをめくり、はっとした。

二十数年前に訪れた「西行桜」の素描があったのだ。

小林先生は、新たな出会いや驚きをくださるだけでなく、こんなふうに、ふいに思いがけない形で、大切な思い出とも出会わせてくださる。

(了)