荻生徂徠が信じた[言葉]

安田 博道

かつて小林秀雄氏は、日本の哲学者の文体に対して次のような不満を洩らした。

「極端に言うと、日本人の言葉としての肉感を持っていない。国語で物を書かねばならんという宿命に対して、哲学者達は実に無関心であるという風に僕らには感じられるのです。如何に誠実に、如何に論理的に表現しても、言葉が伝統的な日本の言葉である以上、文章のスタイルの中に、日本人でなければ出てこない味わいが現れて来なければならんと思う。そういう風なことを文学者は職業上常に心掛けて居る。それが文学のリアリティというものに関係して、人を動かしたり、或いは動かさなかったりする。その中に思想が含まれる」(冨山房百科文庫『近代の超克』p248 )

これは、昭和8年(1933)から小林氏たちが出していた雑誌『文學界』の17年10月号に載った座談会「文化綜合会議 近代の超克」のなかでの発言である。当時、日本の哲学者は西欧哲学を翻訳して日本語にしていたが、その翻訳文章が日本語の「姿」をなしていない、という批判であった。それは、次の様に言い換える事ができるだろう。例えば、「世間」とか「分別」という言葉に慣れた人に、「社会」や「理性」という新しい翻訳語を対応させるとどうなるか。日本人は、「世間」や「分別」がその言葉でなければ言い表せない経験を所有している。翻訳語は、そのような微妙な経験を切り捨ててしまう。小林氏の不満は、哲学者たちにその自覚が欠けている事にあったと思う。

ところで、この発言では日本語に対する文学者の思いを小林氏が代弁しているように読めるが、その背後には、言葉を通して深層にある内的感覚に降りて行こうとする小林氏の洞察がある。同時に言葉に対する強い信頼があったように思う。この小論では、その小林氏の「本居宣長」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集・第28集所収)に拠りながら、江戸時代の思想家、荻生徂徠を採り上げて、言葉に対する洞察と信頼について考えてみたい。

 

荻生徂徠は、江戸時代の儒学者である。彼は儒の本質を追及する基本の態度として「古文辞学」を提唱した。古文辞学とは、儒の本質は中国古代の尭舜ら、聖人たちの経世済民の道を記した古典にあるとし、古典(主に六経、すなわち「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」「楽経」の六種の経書)を当時の言葉通りに、正確に理解する必要を説いたものである。

それでは、具体的にはどのようなものであったか、彼の発言を聞いてみよう。

「宇ハ宙ノゴトク、宙ハ宇ノゴトシ」(同第28集p15)

「宇」は空間を指し、「宙」は時間を指す。時間の隔たりは、空間の隔たりと同じような事だと言う。

「故ニ今言ヲ以テ古言ヲミ古言ヲ以テ今言ヲミレバ、均シク之レ朱離シュリ鴃舌ゲキゼツナルカナ。科斗クワト貝多バイタト何ゾエラバン」(同上)

「朱離鴃舌」は、音声は聞こえても意味の分らないさまを言う言葉、「科斗」は中国上古の文字、「貝多」は古代インドの経文、もしくはその文字である。

古代と現代という[時間]の隔たりは、中国やインドという[空間]の隔たりと同じである。今日からみれば、過去の書物は外国語を読むように意味の解らぬものになっていると言う。

「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」(同上)

世の中は人間の使う言葉を載せて移り変り、その言葉は「道」というものを載せて移り変る。今日「道」とは何かが解らなくなったのは、主としてこういう「世」と「言葉」と「道」との相互関係によったのである。

徂徠は、「道」とは古註に「道ハ礼楽ヲ謂フ」とあるとおり、中国古代の聖人たちが遺した具体的な治績、すなわち政治上の功績を指した言葉であると見、ここを離れて別の道もあるなどとはまったく考えていなかった。ところが、「道」は、“時代とともに移り変わる言葉”で書かれている。変わる言葉と変わらぬ「道」、この難問に対して、徂徠は、「道」の何たるかを知るために六経が書かれた時代の言葉をそのままに読もうとした。その時代のあらゆる文献から語彙の一つ一つを正して当時のままに読んだのである。「論語」を学ぶものにとっては、まず古語の習得が必須だったが、朱子学以降の宋儒ではその自覚がなく、大儀こそが根本で言葉は末だと考えていた。言葉を軽視した宋儒は、書物を離れ議論の中で「道」を説こうとしたが、徂徠の不満は、宋儒が「論語」を自己流に解釈して「道」を説いたことにあった。著書「弁名」に、次のように言っている。

「今文ヲ以テ古文ヲ視、而シテ其ノ物ニ昧ク、物ト名ト離レテ而ル後義理孤行ス」。

 

徂徠には、文章に対するはっきりとした認識があった。徂徠の著書である「答問書」を取り上げて、小林氏は次のように言う。

「『答問書』三巻は、『学問は歴史に極まり候事に候』という文句で始まり、『惣而学問の道は文章の外之無候』という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち、『古文辞学』と呼ばれた学問の体裁なのである」(同第28集p9)

ここで言われているのは、学問の道は歴史を知る事に尽きる、学問の道を文章以外に求めてはならない、という認識である。小林氏は、これを「文章が歴史の権化となるまで見る」と記しているが、徂徠の言葉に対する強い信頼がほとばしっている。

徂来は、古人の心を理解するために、自分も同じ言葉で詩文を作ったと言われている。古代の理解は、古代の言葉を自在に使えるようになって初めて可能となり、それはただの知的理解から、感性を伴う全人的な理解を求めるものといえる。六経に肉迫する徂徠の考えは徹底していて、発音も中国語で読む事を勧め、返り点等で読む当時の儒者を批判していたという。六経の辞書的・概念的理解に留まらず、その根幹部に触れるまで付き合うという態度である。そこには、聖人への強い信仰の背後に、言葉への深い洞察があったことが伺える。

 

「辞ハ事トナラフ」(同第27集p117)

徂徠は、ことばは事(事実)と一致して離れることがないという独特の認識を持っていた。別のところでは、「物ト名トガタガワヌ」とも言っているが、本来、命名行為こそ人間の意識的行為の端緒であり、物(実物)と名(言葉)はピッタリ一致しているとの認識であった。それは、先に触れた書物を読めば歴史が解る、一つ一つの言葉の変移を知れば、時代の変遷を知ることが出来るという認識につながる。言い方を換えれば、ことばを通して、ことこころを知ることであり、徂徠の認識は、やがて本居宣長に受け継がれて行くことになる。

 

「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」(同第28集p18)

徂徠はただただ正確に明瞭に六経を読もうと努めただけだった。僕は、この一節を読むたびに、鬼の形相で六経と向き合っている徂徠を想像する、と同時に徂徠の誠実さを感じる。六経(文章)は、という徂徠の信念が伝わる一節であり、この盲信的とも思われる信念の中に、徂徠の言葉への信頼を強く感じる。言葉にはある秩序と法則があり、人間には、であった。それを信じる事が、徂徠の古文辞学へ向かう強い動機づけとなっていたように思う。

例えば、家という言葉がある。家族が住む建物を指すこともあれば、家父長的な制度を指すこともある。しかし、家[イエ]という言葉は、決して誰かの恣意によって勝手な意味(例えば[イタ]とか[イト]とか「イヌ」)に使われることはなかった。だからこそ安心して言葉によるコミュニケーションが出来る。いつの時代でも、どこの国でも、ある断面を切ってみれば、言葉にあるこの法則は必ず守られている。徂徠は其処を信じた。「辞ハ事ト嫺」っている。

 

古典が世代を超えて読まれているのは、言葉がつくる共通の基盤に人々が信頼を寄せているからだろう。

「絵は物を言わないが、色や線には、何処にも曖昧なものは無い」

「論語」を読む中江藤樹の心境について小林氏はこう応えるが、[絵]を[古典]に、[色や線]を[言葉]に置き換えてもよいと思う。古典は物を言わないが、言葉一つ一つはどれも完成された姿をしている。少なくともそう信じなければ、僕らは古典に向かう事が出来ない。古典が斯くも時代を超えて読まれてきたのは、「辞ハ事ト嫺」っているという基盤があったからである。作者は、言葉への信頼なくして、どうして共感できる文章が書けただろう。言葉への信頼があってこそ豊かな表現力を身に付けたのである。また、読者も、なぜ難解な文章に向かい、言葉一つ一つを吟味し、精読してまで読もうとするのであろうか。「何処にも曖昧なものは無い」という言葉への信頼は、僕らを古典に向かわせる強い動機づけにもなっている。

 

言葉に対する洞察と信頼は、徂徠から宣長にしっかりと受け継がれた。

「物のたしかな感知という事で、自分(宣長)に一番痛切な経験をさせたのは、『古事記』という書物であった、……中略……言葉で作られた『物』の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずから繋がっていった」(同第28集p43)

 

僕は「本居宣長」という著作を通して言葉への信頼を学んだが、この本の全編を通じて絶えず感じるのは、小林氏自身が、言葉への信頼を最も強く受け継いでいたのではなかったか、ということである。

 

「小林秀雄に学ぶ塾」では、池田雅延塾頭に水先案内をしていただいて、難解と言われる小林氏の「本居宣長」を精読している。繰返し繰返し読む。それは、そこに書かれている言葉への信頼、という信念、そして、この本には何か大切な事が書かれているという期待からである。

(了)