山の上の家に通う道 ―「物の哀」を知るとは

心臓の鼓動が坂の途中でもう最高潮に達する、こうしてようやく小林秀雄先生の旧宅、山の上の家の裾までたどりつく。ハアハアとした息はみっともないと思うのだが、つい立ち止まって来た道を振り返りたくなる。竹林に覆われた坂には静かな空気が流れている。この道を日々の暮らしの中で上ったり下ったりしながら小林先生は様々な思いを巡らせてきたのかと思うと自分の中にじわじわと熱いものがこみ上げてくる。

そしていつも、静かな空気と鎌倉の匂いが私を幼い頃に連れて行く。その郷愁によって気持ちの高ぶりが一層強くなっているようだ。鎌倉の鶴岡八幡宮は私が七五三をしてもらったお宮さんである、四十年以上も経ってからその裏山をこうして息を切らしながら登る自分が不思議でならない。

 

私事であるが、それを話さなければ、私と小林秀雄先生とのつながりへ到達しない。

母と私の思い出の匂いのする鎌倉にまた来ようとは思いもよらぬことであったが、小林先生のことをこの塾で学び始めたばかりの駆け出しの私が、初めて「自問自答」したことは、

“「物の哀」を知る”

ということについてであった。

母は文学好きで一日の終わりに読書をしていた。トルストイやカミュなどの世界の名著を読んでいたかと思うと、團伊玖磨さんや佐藤愛子さんの軽妙なエッセイも好んで読んでいた。夕餉の支度を父にそろえるとゆっくりと晩酌をする父を居間に置いて、母は隣の部屋で読書をしていた。父の晩酌は二時間以上かかったし、よく同僚を引き連れて自宅で宴会をしていたから、母は働くだけ働いて、あとは少しの間、本を読むことを一日の至極の楽しみの時間としていた。夢中で読書する母に声をかけてもなかなか返事をしてくれない。私の手の届かない世界へ母は連れ去られていた。そんな姿をみて子供心に本の世界の魅惑とはどんなものだろうかと憧れを抱いた。読書は何はさておき、人から声をかけられても気が付かないほどに自分を夢中にさせる物であるという印象が私に植え付けられていた。そんな母だったから、幼少期は読みたい本があれば文句を言われずに買ってもらうことができた。母の真似をして、大人の仲間入りをさせてもらえたようで嬉しかった。

その読書好きな母は、短歌を作ることも趣味としていた。『神奈川新聞』の“神奈川歌壇”にせっせと投稿し、自分の歌が新聞に掲載されるだけでわくわくしたに違いない。鎌倉の瑞泉寺の花々を歌に詠んだ。時には自分の生活の憂さを晴らすために詠むこともあった。

だが、それだけではない、母は精神的苦悩を詩歌に込めていた気がしていた。

だから、「物の哀」という言葉を小林先生の「本居宣長」で読んだとき、特別な思いが私の中で引き寄せられたことは間違いない。外から見れば普通そうに見える主婦だった母が、父との生活の鬱憤を詠歌や読書で紛らわせていることは子供心に感じていた。

しかし、長い間、時には友人となり、時には姉妹となり、大きな愛情で育ててくれた母との濃密な母娘関係は、母の末期癌が発覚したことであっけなく幕を下ろすことになった。母がこの世を去ってから三年の月日が流れた。

 

人間は有限の命である。生命と名がつくものは有限の命である。母の死を、体のすべてで受け止め、骨の髄まで思い知らされていた。そんなことから、「物の哀」とは万物の生命が起源であると私は思っていた。しかし宣長は、まるで違うことを言っていた。

小林先生は、次のように書いている。

 

「事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこゝろぞ 人のまごころ」と歌われている「まごころ」とは、「紫文要領」で考え抜かれた、人の心の「おのづからなる有りやう」なのだが、多様に錯雑する心の動きに即した宣長の分析を、注意して追っていくと、「わが心ながら、わが心にもまかせぬ物」たるところに、その驚くべき正体があるという、そういう所に、行着いているのが感得される。それが彼の「物の哀」論の土台を成している。―「是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然と忍びぬ所より感ずる也」という言葉にしても、この土台から発言されていると見てよいので、感情は分別を曇らせるというような忠告を、彼はしたいのではない。「まごころ」というものは私の命令などに決して従うものではない。その不思議に注目せよと言っているのだ。

宣長は「動く」「思ふ」「知る」「感ずる」という言葉を、その時その時で、同じ意味合いに使う。「物の哀をしる」とは「自然としのびぬ所より感ずる」事だ。「世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀はある」がそのどれを選ぶかは、私の自由だと言うような事はありはしない。私が「哀」を求めて、これを得るのではない。むしろ私が「哀」に捕えられ、「哀」をしらされるのだ。

(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第28集71頁、『本居宣長」37章)

 

小林先生の緻密に考察された文章は、読んでいく者がその言葉のすべてに取り囲まれ、その世界へ連れ込まれる。本居宣長がそこに座って机に向かい、熱心に考えている世界に自分も一緒に居るような気持ちにさせられるのだ。自分の中には無い未知の部分の皮をはがされ、最後は刃物で抉られたように深く感じ入った所がある。以下に引用する。

 

我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には当然、己れの意図や関心に基づいて、計算できる世界しか映じてはいない。当人は、それと気附かぬものだが。宣長が考えるのは、そういう自我が、事物と人情との間に介入して来て、両者の本来の関係を妨げるという事である。これは、宣長の思想の決定的な性質であって、学者の「つとめ」は道を「行ふ」にはなく、道を「考へ明らめる」にあるという、「うひ山ぶみ」で強調されている思想にしても、本はといえば、其処に発している。

事物と人情の間に、おのずから成立している親和がないところに、歌はない。これは彼の歌学を貫く一番大事な考えだ。

(同72頁から73頁)

 

人間には執着があり、自分都合というものを捨てられない。これは私に突き刺さる言葉だった。我執を捨て去り、計算づくではないと主張したところで、やはり人間は自分の思うとおりにしたいし、そのように生きている。完全に我執を捨て去ることができなくとも、自分と対象となる事物との間に強引に関係性を作り上げたり、理由をつくったりする。それが人間ではないのか。本当に精神の奥深いところまで薄皮をめくりすすめていけば、「物の哀」というものは、自分の思う通りではない場所からやってきて、思い知らされるのだという。それは、知覚でもなく、自覚でもない。自我でないところの何かに思い知らされるのだという。

 

とは言え私は、宣長の言う「物の哀」を知る境地に辿り着くまでの道のりはまだまだ遠いと自覚せざるをえない。この自覚は、母の思い出とともに父の思い出にさかのぼる。母に続いて一昨年、教師だった父は、満開の桜の日に亡くなった。父を病院から連れて帰る霊柩車の中から見た、桜の花びらが、ひとひらずつ、ゆっくりと散る様は私の目に焼きついている。桜の花びらを見ながら私は、父が入学式で生徒を講堂へ迎え入れる姿を思い浮かべた。今もその光景はリアルなのだ。だからどうしても私が感じる「物の哀」は、人間の“死”というものに結びついてしまう。外から“知らされる哀”ではなく、私は「哀」を実感として自分の中に重い大きな石のように抱えているのだ。そんな大きな実感の石を抱きながら、桜の花びらを見つめる気持ちにはなれない。宣長の言う「物の哀」を知るというのは、外から知らされ、捕われるのだから、私が本当の意味での「物の哀」を知るには時間の経過が必要かもしれない。

いまの私には、桜の花びらが散る景色を見つめる勇気もなく、その情景がただ怖いのだ。

しかしこの怖さも、宣長の言う「物の哀」なのかもしれない。“いや、まだ違う”と考えつつ、これから宣長の言う「物の哀」に私が出会えたとしても、それは言葉や文章に尽くしがたい“何か”なのではないかと自問自答している。

 

学びの入口に立ち、苦悩した私は、山の上の家の「自問自答」の質問台に立った時、塾頭から「余計なものを捨てて小林先生の文章には素直に、真っ直ぐに向き合いなさい」という示唆をもらった。人から受け入れてもらう、認めてもらうことは、人は誰しも嬉しいが、自分以外の考えを素直に受け入れること、素直に小林先生の思想を受け入れることがこんなにも心地よいことだったとは知らなかった。小林先生の言葉が胸にしみいり、時には突き刺さる。そうした経験は新たな気持ちで「物の哀」に向かう姿勢を教えてくれたような気がする。山の上の家への坂道を一歩ずつ登るように、これからも「自問自答」を続けていこうと思う。

(了)

 

宣長さんの思想の緒

二年前の春、本居宣長の奥津おくつを訪れる機会があった。三重県松阪市山室山の妙楽寺にあるこの墓所をかつて訪れた小林秀雄氏は、その様子を『本居宣長』の中で次のように記している。……山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……この文章に誘われ私の期待は膨らんでいた。奥津紀へ向かう道中、ご案内くださった本居宣長記念館の吉田悦之館長が仰った「奥津紀の桜はあまり元気がないんです」という一言が耳に残っていた。私たちは山道を上り、奥津紀を目指した。

 

小林氏は、『本居宣長』全五十章の冒頭で、宣長自身がしたためた「遺言書」を紹介している。七十二歳で没する一年ほど前に書かれたその遺言書について、……書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている……と言い、……これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える……とも書いている。その遺言書には、自身の死骸の始末の方法、菩提寺である樹敬寺までの葬送の仕方、実際のお棺は山室山妙楽寺に埋葬してほしい旨、その墓の図解などが淡々と綴られている。私にとってもこの遺言書は、『本居宣長』を読めば読むほど、興味の尽きない大きな存在となっている。小林氏の言う「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのであろうか。

 

その遺言書にはいくつかの宣長直筆の挿絵が入っていて、その中の一つに、妙楽寺の奥津紀の絵がある。私はそれを時々じっと眺めている。実物のお墓を訪ねる前からずっと眺めていた挿絵の、あのお墓が目の前にあらわれたとき、感激からなのか、とまどったからなのか、私はしばらく言葉が出なかった。墓石の奥に目をやると、桜の木が一本確かにそこにあった。が、私が心の中で想像していた桜の木とは違っていた。がっしりと根を張った枝ぶりのよい幹がすくすくと墓石のうしろで成長しているのを勝手に想像していたのだが、実物のそれは、右後方の木々の間から差す陽射しの方向にひょろひょろと斜めに伸びる細みの木であり、たった一本、奥津紀のために存在している桜にしては、やや頼りなげな印象であった。

 

宣長の桜に対する強い思いを、小林氏はたとえば次のように書いている。……宣長ほど 、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい 。宝暦九年正月 (三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよわがおいらくの春迄もわかぎの桜うへし契を」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……私が実際に見た奥津紀の桜は、道中で吉田館長が話されていたとおり、「あまり元気がない」といった様子だった。はたして、これが遺言書で宣長さんが望んでいた桜の木の姿なのだろうか……そう感じて以来ずっと、心寂しい、宣長さんに申し訳ないような気持ちが私の中にあって、宣長さんと桜の契りについて深く知りたいと思うようになった。

 

その遺言書からは桜に対する宣長の並々ならぬ思いが読み取れる。……墓地七尺四方計、真中少後へ寄せ、塚を築候而、其上へ櫻之木を植可申候、さて、塚之前に石碑を建可…とあるように、まず墓地に塚を築き、そこに桜の木を植えることから先に書いている。石碑のことは後回し、といった印象さえ受ける。続けて、……塚高三四尺計、惣體芝を伏せ、随分堅く致し……と書かれており、その通りに奥津紀はつくられているのであるが、水平に根をはる桜の木にとってみたら少々根っこが「高三四尺計」の塚の中で窮屈そうではある。しかし、宣長さんにあっては、どうしても塚を築かなければならない理由があったに違いない。

そして、遺言書には続きがある。……勿論後々もし枯候はば、植替可申候……とあり、桜の木が枯れてしまったならば植替えてほしい、との指示まで書かれている。歌人の岡野弘彦氏は「山室山の桜」という文章の中で宣長さんの奥津紀のことを書いている。……皇学館の学生時代、毎年の秋の宣長さんの命日に大八車に山桜の苗を積んで、伊勢市から松阪まで運び、お墓のまわりに植える行事があった……と。宣長さんが亡くなったのは、享和元年九月二十九日である。岡野氏の記述を読んで、はたと気が付いた。九月二十九日とは現代の暦では十一月五日である。そして十一月から十二月にかけては桜の苗木を植えるのにちょうど適した時期にあたるのである。宣長さんはつくづく桜との縁が深いようである。それにしても不思議なのは、せっかくのお墓の桜を、満開の時期に訪れてほしいということは遺言書に書かれておらず、奥津紀へのお参りは年に一度の祥月のみでよいとしていることである。

 

亡くなる二年前の春、宣長さんは吉野水分みくまり神社へ参拝している。宣長の父が、かつて子供を授かる祈願に参詣して宣長を授かったとされている神社である。多忙な仕事の合間に行ったのであろう、そして生涯最後となったその吉野行きでは、満開の桜には少しばかり時期が早かったようで、見ることは叶わなかった。期待していた吉野の桜を眺めることができなかった無念の思いがその際に詠んだ、いくつもの歌から強く伝わってくる。

 

この頃は はや咲く年も あるものを など花遅き み吉野の山

なかなかに 見捨てや過ぎむ 吉野山 咲かぬ桜を 見れば恨めし

(吉野百首詠より)

 

遺言書には、祥月に生前愛用していた桜の木のしゃくを霊牌として用い、細かな部屋の設えまでも含めた法事を行うようにという記述がある。その桜の木の霊牌には「秋津あきつ彦美ひこみさくらねの大人うし」というのちのなを書くよう定めた。新潮日本古典集成「古事記」によると、“秋津彦”は「水戸みなと、河口」の神の名、“”は「水」の意味とされている。また、吉野水分神社の「水分みくまり」とは文字通り、水を分ける、配る、という意味がある。吉野の桜の命の源ともいえる、水をたたえたこの神社の申し子である宣長さんは、奥津紀において自身が桜根となり、愛して止まない桜の木の下に眠り、桜の根に豊かな水の恵みをもたらし、見事な山桜を毎年咲かせることができるように、と願ったのではないかと思わせるような真直ぐな表現ののちのなであると思う。

のちのなに託した宣長さんの思いは、私などには計り知れないものがあるが、自身の墓に桜の木を植えてほしいと書き残す宣長さんのこころは、愛して止まない桜とともに此の世に在りたい、との切なる願いのように思わずにはいられない。そして、毎年祥月には、宣長さんがずっとそうしてきたように、いつもの場所で歌会をしてほしい、と書いている。その際は、桜の木のしゃくに書かれた後諡とともに像掛物の中の宣長さんが確かにそこにいて、歌会に参加しているはずである。

 

二年前に奥津紀を訪れ、「あまり元気がない」桜の木を見た際に感じた、心寂しい、申し訳ないような感じは、宣長さんの桜への愛情が私に乗り移ったせいかもしれない。その得も言われぬ感情のおかげで、私は宣長さんと桜の深い契りの一端に思いを馳せる機会を持てたのではないだろうか。宣長さんの思想とは……、小林氏の言う「思想の結実」とは何か……。次は開花の時期に奥津紀を訪れ、桜を眺めながら宣長さんの声をききたいと思う。

(了)

 

藤樹さんに会いに行く

(テーブルを囲む四人の男女。山の上の家での「自問自答」の提出期限を控え、話はどうしても『宣長』談義となる)

 

いまどきの元気娘(以下「娘」)  今度の質問のお題、やばくネ?

粋な若い衆気取りの青年(以下「青年」)  藪から棒に、なに言い出すんだい。するってえと、質問が出せなくて、べそかいてるな。

娘  そうじゃない。だって「道」でしょ。人生いかに生きるべきか、自分はどう作られているか。ボクがこんなスゴイこと考えてるなんて、これってやばい!

青年  こりゃまいったね、とんだ怖いもの知らずだ。で、質問は、どうするんだい。

娘  でもくらしい、だよ。

青年  ええっ? デ・モ・ク・ラ・シ・イ?

娘  ボクの心の中で、下剋上が起きるんだ。

青年  なんだそりゃ。

存在感の希薄な男(以下「男」)  おや、『大言海』の下剋上の語釈、「この語、でもくらしいトモ解スベシ」っていうあれだね。

青年  それは知ってるよ。『本居宣長』の第8章、中江藤樹のところで引用されている。(娘に)でも、それがお前さんとどう関係するんだい。

娘  ボクってさ、(『本居宣長』を手に取って)こういう本を読んでたりして、クラスでもちょっと浮いてるんだよね。女の子たちのトークになんとなく入っていけない。男はバカばっかだし。でも、トージュ君はイケてる。

江戸紫の似合う女(以下「女」)  あら、面白いこと。藤樹さんのどこが気に入ったのかしら。

娘  トージュ君の声が聞こえるんだ、心の中に「でもくらしい」があり、「下剋上」もあるって。ボクはボク、この世の中で独りぼっちかもしれないけど、独りぼっちってことに価値があるって。ちょっと元気が出た。

青年  そいつぁ、牽強付会ってやつでしょ。ちゃんと本文を読まなきゃ。

娘  うざっ!

青年  藤樹の生きた時代のこと、分かってるわけ?

男  小林先生が、「藤樹先生年譜」の「六年庚申。先生十三歳」の項を長々と引用しているね。

青年  藤樹が育ったのは、戦国からまだ日も浅く、領主配下のお奉行にさえ武力で刃向かう野武士みたいなのがいて、日常生活のなかで命のやりとりが行われる、そんな時代だった。それが「藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった」ということ。

女  それはおっしゃるとおりですけれど。でも、小林先生は、その先のお話をされているわ。「下剋上」とは「でもくらしい」であるという『大言海』の語釈も、藤樹さんならよく理解しただろうって。

男  下剋上が、秀吉が裸一貫から実力でのし上がって天下人になったみたいなことだとすると、「でもくらしい」って、人々が内心に秘めていた本音をむき出しにするようになったということかな。

青年  そいつはね、伝統や因襲の束縛から逃れ、欲望を肯定する人間が現れた。つまり、近代的自我の萌芽ってやつね。僕の歴史観からすると。

男  ほうほう、歴史かね、歴史。

青年  もうひとつ言わせてもらうとね、宗教の呪縛から解放されて、世俗化というか、脱魔術化というか、そういう面も指摘しときたいのね、思想史的に。

男  思想ね、なるほど、なるほど。

女  懲りないのねえ、二人とも。

男  えっ

女  歴史も思想もお分かりになってない。聞いていて、恥ずかしゅうございますわ。だいいち、藤樹さんのお話はどこにいったのかしら。

男  いや、だから、藤樹さんの生きた時代には、「地盤は、まだ戦国の余震で震えていた」んでしょ。

女  どういう時代だったとお考え?

青年  破壊と混乱、死と再生、デモーニッシュな魅力はあるなあ。

女  おやおや。小林先生はこんなふうにおっしゃるの。「戦国」とか「下剋上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。『大言海』の解はそれを示しているって。

男  健全な意味合か。

女  こうおっしゃるのよ。実力が虚名を制する。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなる。

男  なるほど、だから「でもくらしい」なのか。で、藤樹さんの場合には?

女  小林先生は、藤樹さんが「目に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた」と書かれているわ。

娘  「眼に見えぬ克己劇」って、何だろう。

男  そういえば、小林先生は、「藤樹先生年譜」について、「長い引用を訝る読者もあるかもしれないが」と断りつつ、「この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っていると思うので、それをとらえてもらえれば足りる」と書いている。

女  「心裏に情景を彷彿とさせる」って、奥行きのある表現ですわ。

男  情景に入り込んで、藤樹さんに会いにいって、「眼に見えぬ克己劇」とはなんですかって、聞いてみたいね。

娘  それって、ひょっとして、「学問をするとは母を養う事だ」ってことじゃない?

青年  ちょっと待ちなよ。そりゃ、藤樹は、貧窮のなか家族を養いつつ学問をしたさ。でもそういう存在条件と学問の内実とは、別次元だよ。

女  これはまた大仰なお話ぶり、聞いていられませんこと。小林先生は、「学問をするとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があ(った)」と書いてらっしゃるわ。

娘  やむにやまれぬっていう感じ。ボクの心にもささるなあ。

女  そうね。藤樹さんの学問について、小林先生は「誰の命令に従ったものでもなく、誰の真似をしたものでもないが、自身の思い附きや希望に沿ったものでもない。実生活の必要、或いは強制に、どう処したかというところに、元はといえば成り立っていた」と書いていらっしゃる。

娘  真似でもなければ、思い附きでもないってところが、なんか、すごい。

男  それよりさ、そもそも、実生活の必要や強制に処するって、どういうことだろう。これも、藤樹さんに聞いてみたい気がする。

青年  そういう了見じゃあ駄目でしょう。藤樹も、師友百人ござそうろうても、独学ならでは進み申さずそうろう、といっている。自分でよく考えなさいって言われるのが関の山。

女  あなた、いいことおっしゃることも、あるのね。

青年  小林先生も、藤樹に関し、真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或いは心術の如何による、だから、「書を見ずして、心法を練ること三年なり」となると書いている。

女  さようですわ。

青年  かかる心法ないし心術において、藤樹の独創性を看取することが、、、

女  あら、それは違いましょう。よくお読みになって。「当時、古書を離れて学問は考えられなかった」。にもかかわらず、「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた」とありますのよ。

男  ああそうか。軽々しく独創だなんていっちゃだめなんだ。「心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心」であり、それが「無私を得んとする努力であった」というわけだね。

女  書物という鏡に向き合って、何かが映じて来るのを待つ、ということかしら。

娘  待つだけ? 待っていればいいの?

女  だからこそ、「絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない」ということになるのじゃなくて。

娘  えっ、どういうこと。

女  藤樹さんは「論語」を講じていても、孔子の言葉を追いかけたりなさらない。孔子の言葉を自分たちの言葉を用いて分析しようとしても、ついには、言葉で言い尽くせぬところに行き着いてしまう。でも、言葉によって古人があらわそうとした当のものは、確かな色と形をもっていたはず。

娘  言葉はアイマイ、それは分かるけど、じゃあどうやって?

女  そう、私たちの目の前には書物という言葉のかたまりしかないわね。だからこそ、その部分部分を自分が知っている言葉や人々が使っている言葉に置き換えるのはやめ、ただただ眺めて、元々の色と形が映じて来るのを待つ、こういうことじゃないのかしら。

男  それが小林先生の言われる「眼に見えぬ克己劇」なのかな。

娘  そうか、トージュ君も苦労したんだね。

男  私も、さっきの長い引用、もういっぺん読み返してみよう。藤樹少年の顔つきが見えてくるといいな。

女  それがよろしゅうございます。小林先生は、こうもお書きですわ。「『藤樹先生年譜』は、その文体から判ずれば、藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない」。

 

(四人の『宣長』談義はすずろに続いていく。「自問自答」は当分提出できそうにない)

 

(了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一九年一・二月号

発行 平成三十一年(二〇一九)二月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十七 気質の力(上)

 

1

 

第一章、第二章と、宣長の思想劇の幕切れを眺めた小林氏は、第三章に入って一気にその幕開きへ飛ぶ。第三章は、次のように書き起される。

―宣長は松坂の商家小津家の出である。……

「本居宣長」は、ここから本論が始まる。氏は第三章でまず宣長の出自を辿っていくのだが、本論最初のこの一行は、宣長伝の単なる書き出しではない。宣長の学問は、公家や武士の学問とはまったく異なる「町人の学問」だった、それを強く言いたい氏の結論のひとつである。

日本における学問は、久しく儒学が中心であり、それも江戸時代に入るまでは公家と僧侶の専有、僧侶も主には禅僧の専有だった。慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府をひらき、後に近世儒学の祖とされた藤原惺窩の周旋によって惺窩の弟子、林羅山を識り、以後、家康が羅山を重用したことで武家にも朱子学が浸透した。「町人の学問」は、この「武家の学問」から四十年ないし五十年を経た頃に芽をふいた。

その「町人の学問」の先駆けは、伊藤仁斎だった。仁斎は羅山に後れること四十年余りの寛永四年(一六二七)、京都の商家に生れ、寛文二年(一六六二)、自宅に私塾を開いて「論語」を講じ、公卿、富商から農民まで、あらゆる階層にわたって弟子を擁した。が、こうして仁斎が始めた「町人の学問」も、普及という面では未だしだった。宝永二年(一七〇五)、仁斎は七十八歳で世を去ったが、その仁斎の晩年と相前後して日本の学問に「町人の時代」が来たのである。

小林氏の文章を読んでいこう。

―宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言った町人時代の立っている組織が、いよいよ動かぬものとなった頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言わば、世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

本居宣長は、享保十五年(一七三〇)五月七日に生れた。徳川時代の中期で、八代将軍吉宗の治世が十年になろうとする頃である。「西鶴」とあるのは井原西鶴で、「永代蔵」は西鶴の浮世草子「日本永代蔵」であるが、早期資本主義時代の経済生活をリアルに描いた(「新潮日本文学辞典」)と言われるこの作品が刊行されたのは貞享五年(一六八八)だから、宣長が生れた年はそれから約四〇年が経っていた。

士、農、工、商と、徳川時代の身分制度では最下位に置かれた商人であったが、慶長五年の関ヶ原の戦いを最後に合戦はなくなって泰平の世となり、武士の存在意義はゆらいで経済的にも逼迫、寛文元年には旗本・御家人を救済するため最初の相対済令あいたいすましれいが発令されるまでになった。西鶴の「永代蔵」はそれからさらに約三〇年後のことで、商人は明らかに活力で武士をしのぐようになっていた。

小林氏の文中にある「伊勢屋」は、伊勢の国(現在の三重県)から江戸に進出し、驚くほどの財を成した商人たちのことである。彼らの多くは松坂の出で、次々と革命的な流通手法を繰出して日本橋に大店の軒を連ね、そこから「江戸に多きものは伊勢屋、稲荷に、犬の糞」、すなわち、「伊勢屋」は掃いて捨てるほどに何軒もあると言われるまでの繁盛ぶりだったのだが、ここでまずよく読み取っておくべきは、これに続けて言われている小林氏の言葉である。宣長は、そういう松坂商人の家系に連なる生れであった、しかし、彼は、

―世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

小林氏は、第三章、第四章と、宣長の出自・来歴を辿りながら、後々、前人未到の学問を大成するに至る宣長の気質を見ていくのである。その「気質」という言葉を、氏が「本居宣長」で最初に口にするのは第四章だが、そこでは次のように言われている。

―宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた。「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに(以下略)」……

大平おおひら」は、宣長の家学も継いだ養子である。ここから照らしてみれば、第三章で言われている「初心」は宣長生来の気質に発した初心と解してよいであろう。すなわち宣長は、何を措いても学問をする気質をもって生まれていた、宣長の向学心は、宣長の先天的な気質そのものであったということである。

だが、宣長が長ずる道で、この生来の気質を「町人の血」が染めた。

小林氏は、宣長の出自を五世の祖まで遡り、「すると、彼は、百五十年も続いた新興の商家の出ということになる」と言って、そうであるなら、

―彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい。……

と言う。「町人」とは、士、農、工、商の、工と商をまとめて呼んだ言葉であるが、氏は続けて、「養子の大平も、松坂の豆腐屋の倅である」と、念を押すように言っている。

 

さてそこで、小林氏が取り上げた「町人心」である。氏の文脈に沿って言えば、この「町人心」こそは「向学心」という宣長の先天的気質を染めた後天的な気質であるが、氏がそれを言うために「町人」と対置した「武士」を、わざわざ「主人持ちの」とことわって言っていることに心を留めておきたい。「主人持ち」の武士が、小林氏の言う「町人心」のありようをまざまざと見せてくれるからである。

小林氏は、暗に、こう言っているのである。宣長が家系から承けついだ精神、それが「主人持ち」の武士のものであったなら、恐らく私たちの前にはいま私たちが目にしているような宣長の「源氏物語」研究も、「古事記伝」も、残ってはいなかったであろう……と。「主人持ち」は、何事につけても主人の顔色を読み、主人に服従しようとする。そういう気質で学問をすれば、師の説になずみ、師の説に追従するだけの学者となるほかない。

だが、宣長は、そうではなかった。京都遊学から帰った年の六年後、宝暦十三年(一七六三)に三十四歳で書き上げた「源氏物語」の注釈書「紫文要領」の「後記」でこう言った。

―右「紫文要領」上下二巻は、としごろ(年来)丸が心に(私の心に)思ひよりて、此の物語をくりかへし、心をひそめてよみつゝかむがへいだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よくよく心をつけて物語の本意をあぢはひ、此の草子とひき合せかむがへて、丸がいふ所の是非をさだむべし、必ず人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまはなはだみだり也、草稿なる故にかへりみざる故也、かさねて繕写ぜんしゃするをまつべし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ。……

この「紫文要領」の「後記」については、小林氏は第四十章で言及する。そこではもっと深い含みが指し示されるのだが、今ここでは宣長が言っている三つのこと、「紫文要領」は「全く師伝のおもむきにあらず」(師匠から教えられたり伝えられたりしたものではない)、「必ず人をもて言をすつる事なかれ」(無名の人間が書いたものだからと言って私の言うところを無視したり破棄したりはしないでほしい)、「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」(発言の当否を性急に論い、それを言った人間を短兵急に切り捨てるなどということのないようお願いする)をしっかり聞き取っておきたい。これらこそは「町人心」の意気であり、「主人持ちの武士」にはとうてい言えない言葉だからである。

宣長の「町人心」については、いっそう現実的に、具体的に、第四章で語られる。後述する。

 

 

宣長は、一五〇年続いた商家の出であった。だが十一歳の年、父定利が江戸の店で死んだ。宣長は、弟一人、妹二人とともに母お勝の手で育てられ、十九歳で紙商、今井田家に養子に出されて紙商人となる。しかし二十一歳の時、今井田家を去って母の許に戻った。小林氏は書いている、

―「家のむかし物語」には、「ねがふ心に、かなはぬ事有しによりて」とある。ねがう心とは、学問をねがう心であったろう。……

「家のむかし物語」は、宣長晩年の手記で、小林氏は宣長の出自をこの「家のむかし物語」に拠って書いているのだが、今井田家離縁に際して言われた「ねがう心」は、「学問をねがう心」だっただろうと小林氏は言っている。その「学問をねがう心」は宣長生来の気質、先天的な気質だった、そこをお勝は鋭く見ぬいた。以下、「此のぬし」とあるのは父定利の家業を継いだ宣長の義兄定治、「恵勝大姉」は母お勝、「弥四郎」は宣長であるが、この定治も江戸で病死し、店は倒産した。

―此のぬしなくなり給ひては、恵勝大姉、みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねて、その心づかひせではあるべからず、れば、弥四郎は、京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、すべて此の恵勝大姉は、女ながら、男にはまさりて、こゝろはかばかしくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける……

宣長は、商いの方面にはうとく、書を読むことだけを好んだ……。ここでも宣長の先天的気質が窺われている。お勝は家産の危機をも見据え、宣長を医者にした。宣長が医者になっていたことが功を奏し、一家は実際に離散の憂き目を免れることができた、宣長の母に対する敬意と謝意はこれによっていっそう募ったのだが、宣長の本心からすれば釈然としないものがあった。医はあくまでも生活の手段に過ぎなかったのだが、

―医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也……

「ほい」は「本意」。医者を生業とすることは見苦しくあさましく、いっぱしの男子が本来の志とするところではないが、自分ひとり潔くあろうとして先祖代々の家を衰えさせるのはますます道にそむく、力の及ぶかぎり生業に励み、家を荒さず、傾けさせないように図るべきである、これが宣長の心である……。

宣長は、母の機転と才覚には敬意と謝意を抱きつつも、心の底では医者を生業とすることを恥じている。当時、医者や僧侶や儒者は、農民のように物を作りだすことをしない者であり、そういう意味では商人と同じで、そのため世間からは下に見られていたのである。

だが宣長が、「医のわざをもて産とすることは、ますらをのほいにもあらねども」という心底を表に見せることはなかった。なぜか。ここにも宣長の気質がはたらいていたのだが、それを言うために小林氏はすこし遠回りする。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

とまず言い、

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

逸話はみな、彼の心のうちに姿を消す……、これもよく念頭に留めておこう。一般に逸話は、語られる当人の目に見える行為や行動に関わるもので、武勇伝などはその代表だが、宣長には、彼の行為・行動が衆人の興味をそそるような逸話はほとんどない。わずかに表に現れ、目にとまった逸話も宣長の心の動きを垣間見させるだけのものであり、その出所も結末も杳としてつかみどころがない。鈴屋の書斎へ上がる階段も、上がりきるあたりで宣長の心のうちに姿を消すのである。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

宣長の日常生活の場と学問のための書斎とをつなぐ階段を、小林氏は宣長の実生活と思想との間の通路と見た。そして、言う。

―実際、前にあげた「これのりなががこゝろ也」の文章にしても、その姿は、この階段にそっくりなのであって、その姿を感じないで、この反語的表現を分析的に判読しようとしてみても、かえって意味が不明になるだろう。……

小林氏は、終生通じて「文の姿」に最大の関心を寄せ、文意をとろうとするより文の姿を「眺める」ことに時間をかけた。ここで言われている「その姿は、この階段にそっくりなのであって」に、「文の姿を眺める」小林氏がありありと見てとれる。

―宣長は、医というものを、どう考えていたか。「医は仁術也」という通念は、勿論、彼にあっただろうし、一方、当時、「長袖ちょうしゅう」或は「方外ほうがい」と言われていた、この生業なりわいの実態もよく見えていただろう。すると、彼が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになる、と言ったような次第だ。……

「長袖」は、当時、公家、医師、学者、神主、僧侶などをさして言われた。彼らが常に袖の長い着物を着ていたからだが、この呼び方には嘲りの響きがあった。また「方外」は、世俗を超えた世界に属する者の意で、やはり嘲りの語感があった。宣長が、医を生業とすることは「ますらをのほい」ではない、すなわちいっぱしの男として不本意だと言っているのは、そうした身分社会の通弊があってのことである。だが……、

―彼の肉声は、そんな風には聞えて来ない。言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった。彼は十六歳から、一年程、家業を見習いの為に、江戸の伯父の店に滞在した事もあるし、既記の如く、紙商人になった事もあるし、倒産の整理に当ったのも彼だった。……

氏が「これのりなががこゝろ也」の文章を反語的表現と言っているのは、医を生業とすることは気がひける、しかしだからと言って我意を通し、先祖代々の家名を損うとなればそれ以上に罪が重い、ゆえにまず家名の存続に努力する、という宣長の決心が、無理して自分を偽っていると読めるにもかかわらず、宣長は「これのりなががこころなり」と断言しているからである。

そして氏が、この反語的表現の文章を、書斎に上がる階段にそっくりだと言うのは、宣長が実生活で医を生業とすることに後ろめたさを覚えながらもこれを回避せず、思想面で宣長生来の希みである学問も断念せず、両者をともに立ててしかも両者の摩擦や衝突を避けるための工夫も怠らなかった、そういう宣長の心持ちが、この文章によく現れていると言いたいためである。その心持ちを感じとろうとせず、宣長の本意は結局どこにあったのかと、文意を分析的に解読しようとしたのでは宣長の「ほい」が不明瞭になる、ということは、宣長の学問に向かう心の糸筋が辿れなくなる、ひいては宣長の学問の姿が見てとれなくなる、と小林氏は言いたいのである。矛盾は矛盾として、軋轢は軋轢として抱えたまま、強いてそこに整合や調和を求めず、とりあえずできることをする、言えることを言う、それが宣長であった、ここにも宣長の気質が窺えるのである。

 

―佐佐木信綱氏の「松阪の追懐」という文章を読んでいたら、こんな文があった。「場所は魚町、一包代金五十銅として『胎毒丸』や『むしおさへ』などが『本居氏製』として売り出された。しかし、初めは患者も少なく、外診をよそおって薬箱を提げ、四五百よいほの森で時間を消された。『舜庵先生の四五百の森ゆき』の伝説が、近辺の人の口の端にのぼったこともあったという」。出所は知らぬが、信用していい伝説と思われる。いずれ、言及しなければならぬ事だが、開業当時の宣長の心に、既に、学問上の独自な考えが萌していた事は、種々の理由から推察される。彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである。恐らく、「四五百の森ゆき」は、その頃は、未だ出来なかった書斎へ昇る階段を、外す事だったであろう。……

彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである……、先に書かれていた、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」がここにつながる。「魚町」は宣長が起居した町、「舜庵」は宣長の号、「四五百の森」は現在の「本居宣長記念館」の一帯にあった森である。

ついでに、彼が、階段を下りて書いた薬の広告文をあげて置く。まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる。……

そう言って、小林氏は、宣長の広告文を引く。

―六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、シカル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、コレマタ世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而已サノミ其吟味ニも及バズ、レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユエニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品をエラミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しもリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、カツ又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」……

第二章に、宣長の「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものであった」と言われていた。いまここで言われる「まぎれもない宣長の文体」は、まさに「生活感情に染められた文体」そのものである。ただしこれを、薬の広告文だ、生活感情が出るのは当然だろう、などと受け流しては誤る。後年の「本の広告」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、小林氏はやはり宣長のこの広告文を引き、「注意すべきは、こういう文にも、宣長という人の気質に即した文体は歴然としているという事」であり、「彼の文体の味わいを離れて、彼が遺した学問上の成果をいくら分析してみても駄目な事」であると言っている。氏が「感じて貰えれば足りる」と言っている文体に現れた宣長の気質、そしてその気質がかきたてる生活感情が、やがて宣長の眼に、「源氏物語」や「古事記」の読み筋を映し出すのである。

そして、この広告文を引いてすぐ、間髪を容れずに小林氏は言う。

―宣長の晩年の詠に、門人「村上円方まどかたによみてあたふ、家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」というのがある。宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。……

「家のなり」は暮しを立てるための仕事、家業、「なおこたりそね」は怠るでないぞ、「みやびを」は風雅を愛する者、である。ここにも実生活と思想との「階段」がある。

小林氏は、「本居宣長」連載中の昭和五十一年新春、「新潮社八十年に寄せて」(同第26集所収)を書いてこう言っている。

―若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はっきり言える事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一っぺんも抱いた事はない。……(同第二十六集所収)。

「先ず生計が立たねば、何事も始らぬ」は、批評家であるより先に生活人であること、これを人生の根本とした小林氏の信念でもあった。

宣長は、宝暦七年、二十八歳の十月、五年余りにわたった京都遊学から松坂へ帰り、ただちに医業を始めたが、翌年の夏、「源氏物語」の講義を自宅で始め、以後「伊勢物語」「土佐日記」「萬葉集」「源氏物語」「萬葉集」また「源氏物語」……と死の直前まで続けた。しかし、

―講義中、外診の為に、屡々中座したという話も伝えられている。……

家人の耳打ちを受けて聴講者にことわりを言い、薬箱を提げて出ていく宣長の背が見えるようである。

この一行には、小林氏の思いも託されている。若い頃から曲りなりにも批評文を生活の資にできた小林氏と、学問は生活の資にならなかった宣長とでは一概に言うことはできないが、小林氏も筆一本で生活できるまでには長い道のりがあった。昭和七年、三十歳の四月から立ち、四十四歳の八月まで務めた明治大学の教壇は、講義とはいえ小林氏にとっては宣長の外診にあたるものであった。

 

3

 

こうして見てくると、宣長の気質とその力は、思想と実生活がせめぎあう人生の局面、そこに最も如実に現れていたようだ。「思想と実生活」という言葉が、「本居宣長」で最初に用いられるのは第三章、書斎への階段を見せるくだりである。そこをもう一度引こう。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。

この書斎への階段を見る小林氏の眼は、氏の早くからの文学観、思想観に基づいている。その文学観、思想観はとても一言で言うことはできないし、一言で言えないからこそ氏は六十年にもわたって文章を書き続けたのだと言えるのだが、氏にまだなじみのない読者のためには、なぜ氏が「思想と実生活」と両者を並べていきなり言い、その両者は、直結しながらも摩擦や衝突を起こす関係にあったと言っているのはどういうことか、そこにはふれておこうと思う。「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏が言っていることもしっかり思い起しておこう。

 

昭和十一年、三十四歳の年の年頭から初夏にかけてのことである、小林氏はロシアの文豪トルストイの家出と死をめぐり、作家の正宗白鳥と論争した。その経緯についてはすでにこの小文の第十一回に書いたのでここには繰り返さないが、論争の発端となった「作家の顔」(同第7集所収)で小林氏はこう言った、

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。……

さらに、昭和二十六年、四十六歳での「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言っている、

―思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の眼ざめた表現である。……

この小林氏の言う「思想」と「現実」に即していえば、トルストイは、現実にあっては野垂死のたれじにという悲惨な死を遂げた、だがその死に至るまでの間に現実とはまったく別途に仮構されていた作品、「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」といった小説家としての思想において彼は生き続けた、実生活者トルストイと小説家トルストイとはひとりの人間である、したがって両者を切り離すことはできないが、両者は共存もできない、なぜなら思想は現実すなわち実生活を超えようとする精神の眼ざめた表現であり、いつまでも個人の実生活をひきずっていたのでは万人に通底する思想に行き着けないからである。これが、小林氏の言う「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」の意味するところである。

これを、宣長に即して言えば、こうなる。先に引いた、門人村上円方に与えた歌、「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の後に、小林氏は、

―宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。彼は、病家の軒数、調剤の服数、謝礼の額を、毎日、丹念に手記し、この帳簿を「済世録さいせいろく」と名附けた。彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい。……

と言っている。宣長は、「学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった」というのである、これこそは、「宣長の思想は、宣長の実生活に訣別していた」ということである。

したがって、小林氏が、宣長にとって思想と実生活の「両者は直結していた」が、「両者の摩擦や衝突を避ける」ための工夫が要った、それが書斎への階段だったと言っているのは、昭和十一年以来の氏の思想観、実生活観からなのである。トルストイと同じく本居宣長も、彼の実生活とは別途に構築された学問の思想において生き続けた、それは宣長自身がそうありたいと希い、心してそうしたからである。

小林氏は、他人のであれ自分のであれ、まず実生活を熟視した、その実生活からどう生きるか、なぜ生きるかの思想を紡ぎ、生涯かけて思想を実生活の上に位置づけようとした、そうでなければ人間は生きていけないと見てとっていた。いまここ第三章で、そういう小林氏の思想観をあえて知っておかねばならぬということはない、しかし氏が終始立っていたこういう思索の足場を頭にいれておくことは有用だ。これから徐々に小林氏が踏みこんでいく「源氏物語」の物語論、「古事記」の古伝説論が読みとりやすくなるからである。このことも、この小文の第十一回でひととおりは述べた。

 

だが、それにしても、なぜ人間は実生活を超えて思想というものを欲するのか、実生活をふりきってまで思想の独立を必要とするのか。「本居宣長」の最終、第五十章で小林氏は言っている、

―端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

ここで言われている「実際生活」は、それまでの文脈から、死の悲しみ、である。人間は、この世に生れ出た瞬間から死の予感を抱き、その死にどう向きあうかを模索しつづける、それが生きるということだとさえ言える、実生活と思想とはそういう位置関係にある。「本居宣長」第三章の段階から小林氏はそこまで見通していたと言うのではない。しかし、氏に直観はあったであろう、その直観が、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めさせたとも言えるのである。

(第十七回 了)

 

編集後記

今号は、平成三十一(2019)年、初の刊行となった。

「巻頭随筆」には、鈴木美紀さんが寄稿された。本稿は、昨年11月、山の上の家で行われた「小林秀雄に学ぶ塾」の「質問」、すなわち、鈴木さんの「自問自答」から生まれたものである。小林先生の著作「本居宣長」に幾たびも向き合い、よし自分は読めている! と我が心のなかで秘かに快哉を叫ぶ瞬間はあれど、いざ300字の質問作りに入るや絶壁が立ち現れる、という状況は、塾生なら誰しもよく実感しているところであろう。

 

そんな「自問自答」は、当日の塾頭や塾生とのやりとりだけでは終わらない。その後、各自が日常生活を送るなかでの省察や熟成の時を経て、本誌への寄稿作品として生まれ変わる。

安田博道さんは、介護のために帰省したご実家で蘇った「お父さん」という言葉をきっかけに、ある直覚を得た。久保田美穂さんは、幼い頃に入院していた病室で、思わず自ら発してしまった言葉と真摯に向き合った。本田正男さんは、弁護士として接した少女が、審判廷でおじさん夫妻に放った「なんだ、来たのかよ」という悪態のような言葉の奥底にある色調の深みまで、思い出した。そして、小島奈菜子さんは、以前より、本居宣長や小林先生が使う「しるし」という言葉を、ひた向きに追い求め続けている。

 

 

「脳科学者の母が、認知症になる」(河出書房新社刊)という本を上梓した恩蔵絢子さんは、「私の人生観」に寄稿された。急に直面することになった状況下で、日々お母さまと向き合う構えや勇気は、小林先生の言葉や山の上の家での「自問自答」を通じて得られたものだという。読者各位には、ぜひ同書も手に取って、併せて味読いただきたい。

 

 

「人生素読」は、北村豊さんによる紀行文である。北村さんが直知しようと追い求めたのは、小林先生が下諏訪の「みなとや旅館」で言った「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉であった。

有馬雄祐さんにとって、まさに「考えるヒント」となったのは、「人は歳をとるほど幸せになる」という言葉である。「高齢のパラドックス」を若者の側から見つめ直すという画期的な試みを寄せられた。

 

 

今号から新しく、三浦武さんによる連載「ヴァイオリニストの系譜」が始まった。小林先生は、旧制中学時代という若い時分から生涯をかけて、ヴァイオリンを、ヴァイオリニストを愛してこられた。今後読者が、小林先生による、音楽やヴァイオリンについての文章を読み進めるうえでも大いなる助けになるものと確信している。まずは、自ずとそう思わせる三浦さんらしい「序曲」からお愉しみいただきたい。

 

 

2019年1月某日、本年最初の塾が山の上の家で開かれた。塾生による「自問自答」発表後の午後の茶話会では、いくつもの話の輪が広がり、午前の発表内容について、「自分はこう思う」「私はこう考える」という会話が絶えない。この見慣れた光景を眺めながら、改めて感じたことがある。これは、小林先生のいう「対話」ではないか、と。

先生は、昭和53(1978)年、熊本県阿蘇で行われた、学生向けの講義「感想―本居宣長をめぐって―」の後の質疑応答で、女子学生が、身勝手な考えに陥らない自問自答について質問したのに応えて、こんなことを言っている。

「現実に語る相手がいる場合は、君は空想に陥ることはないだろう。二人で協力するし、向うの知恵もありますからね。向うが質問する場合もあるだろう。お互いに協力して知恵を進めることができる。(中略)だから最初に言ったように、ディアレクティークというもの、つまり対話というものが純粋な形をとった時、それは理想的な自問自答でありえるのです。……」(「学生との対話」国民文化研究会・新潮社編)

 

独力で作り上げた自問自答を塾頭にぶつける、塾生にぶつける、そして本誌に寄稿する。この営みの繰り返しこそ、理想的な自問自答であるし、私たち塾生が歩むべき道にほかならない。

そんなことを思っていると、窓の外には、寒風のなか大きく開いた梅一輪が、やさしく微笑んでいた。

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その一 ヴァイオリニストの話をする前に

 

「休日は ?」「クラシック音楽を聴いています」「ほぉ ! いいですねぇ」……どこかひっかかる。たしかに「クラシック音楽」は「いい」。ところが、「いい」というそのニュアンスに抗う気分もこちらにはある。ロックにもジャズにも「いい」ものはあるし、クラシックにも、こういっちゃなんだがどうでも「いい」ようなものがたくさんあるような気がするし。そもそも「クラシック音楽」が豊かな趣味的生活の、さらには、ひょっとしたら、その趣味的生活を支える富裕な経済的生活の、その象徴みたいになっていないか。それが「いい」か?

「午後のひととき、クラシック音楽をお楽しみください」……こんな文句がラジオから聞えてきたこともあった。そのとき一緒にいたK君は不自然に黙った。K君は西洋美術史を専攻する若い研究者だが、話が音楽、ことにクラシックになると、哲学者の顔で語り始め、しばしば止まらなくなるので、K君の前でクラシック音楽を話題にするときにはしかるべき覚悟を要するのである。そんなK君の沈黙だ。私は傍らにあって彼の不機嫌を悟った。

「午後のひととき、か」

「僕はそんなふうに音楽を聴いたことはありません」

「同感。では ?」

「ええと……人生の一瞬 !」

 

最小限の食物が一個の身体を支えるとき、丹念に嚙みしめられる二百グラムのパンは、深く痛切な祈りがこめられた物となる。二百グラムの重さのまま、それをはるかに越えたいわば根柢的な重さを獲得する。

(『小さなものの諸形態』市村弘正)

 

その「深く痛切な祈り」へと飛翔する想像力がなければ、人は一切れのパンがもつ「根柢的な重さ」などに気づかぬまま、それを単なる消費物へと貶めてしまうだろう。現に今日、パンならぬ芸術でさえ、少なくともこの「豊かな」国では、人々のひとときの感傷に応えるだけの、果敢ない役を担わされていないか。ベートーヴェンが、南京虫に食われながら命がけで音楽を創り、吹雪の日に雷鳴とともに死んだのは、そんなもののためだったのか。そんなはずはないのである。芸術とは、その創造にせよ、あるいはその享受にせよ、人間が人間として生きるために必須の何かだったのである。それともそんなことは、私の狭隘な芸術観に過ぎないのだろうか。

 

そうかも知れない。しかしながらたとえば、二次大戦中のベルリンでのある出来事は、芸術というものの一つの可能性についてよくよく考えさせてくれるもののように思われる。

1945年1月23日、連日の空襲で壊滅寸前にあったナチス政権末期のこの都市にあって、ベルリン・フィルハーモニーは、なお定期演奏会を開催している。それは政権の矜持を懸けたプロパガンダではあっただろうが、そうした為政者の意図を超え、民衆の切実な思いの凝縮される場にもなっていたであろう。その演奏会は日常として継続されねばならなかった。ただ、一年前の空襲でフィルハーモニーの建物が破壊されたために、演奏会場だけはアドミラルパラストという赤い絨毯の敷かれた劇場に変更されていた。モーツァルトの歌劇「魔笛」より「序曲」、同じく「交響曲40番ト短調」、そしてブラームスの「交響曲1番ハ短調」、以上が当日のプログラムである。指揮、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

既に前年、フルトヴェングラーは、自らの名がゲシュタポのブラックリストに加えられていることを知らされていた。また、ヒトラー側近の建築家として首都ベルリンの設計を担っていた閣僚アルベルト・シュペーアから、ただちに亡命すべきことを示唆されてもいた。そんな差し迫った状況に彼はあった。

連夜の空襲で、その日の開演も午後三時に繰り上げられていた。そしてプログラムはモーツァルトの「交響曲40番」へと滞りなく進んでいた。ところがその第二楽章でのこと、突然、館内は闇に閉ざされた。照明が落ちたのだ。空襲 ? だがフルトヴェングラーは陶酔から覚醒しなかった。突然の停電にもかかわらず、タクトは振り続けられた。団員たちは、一人また一人と弓を持つ手をおろし、口もとから管を離していった。もとよりそれもやむを得ないことであった。暗闇のなか、非常灯がいくつか青く光っている。第一ヴァイオリンだけが少し長く演奏していたようだが、それも束の間のことだった。やがて完全な静寂が訪れ、フルトヴェングラーの視線は音楽家たちの上にさまよい、次に背後の聴衆に振り向けられた。タクトはおろされた。それは……それは何かの敗北であった。

舞台裏にさがった団員たちは、ひとかたまりに佇んだ。その沈黙の真中にフルトヴェングラーは悄然と立っていた。聴衆は数人ずつになってロビーや中庭に散っていた。いつか夜になっていた。煙草に火を点け、手を擦り合わせながらひそひそと言葉を交わすが、彼らには何のあてもなかった。が、会場を離れる者もいなかった。皆、瓦礫を踏み越えてきたのである。これが最後だ、誰もがそう感じていたのである。

おおむね一時間の後、送電の復旧を待たずに、フルトヴェングラーは決断した。団員は持ち場に帰った。灯りのない舞台の上で、振り上げられるタクトがかすかな光芒となり、最後の音楽の最初の音が響いた。ティンパニーによる「運命」の鼓動。それは中断したモーツァルトではなく、プログラムの最後、ブラームスの「交響曲1番」第一楽章であった。それはいかにも必然的な選択であった。居合わせた人びとには、ブラームスを媒介とした沈黙の連帯こそが求められていたのである。フィナーレには黎明の旋律が「歓喜」の楽章のように流れ、聴衆は、おそらく、ベートーヴェンを起源として育んできたドイツ的伝統に陶酔したことであろう。そして緘黙の裡に熱狂したことであろう。と同時に音楽は、生存の意志を訴える叫びともなって、全楽章を貫いたのであった。

 

ブラームスは、この最初の交響曲の創作に、着想からおおむね20年の歳月を要した。ベートーヴェンの九つの交響曲があったからである。その九曲の正統に続く一曲、「第九」のあとの一曲を音楽史上に現す……ブラームスにとって、少なくとも交響曲を作曲するということは、そういうことに他ならなかった。それゆえ、数年に及んだ推敲を経てようやく発表されたこの作品には、自らベートーヴェンの後継たらんとし、歴史に推参せんとしたブラームスの、その芸術家としての人生を賭した格闘の痕跡があるはずである。ハンス・フォン・ビューローは、この一曲を「ベートーヴェンの十番目の交響曲」と称賛した。「ドイツ3B」だの「新約聖書」だのと、とかく気の効いた言い回しが印象的なビューローの言葉であるから、そのまま受け取るべきではないかも知れないが、またこの言葉によってブラームスはかえって迷惑を被ることもあったであろうから、「交響曲10番」みたいな言い方はやめておくのが賢明だろうが、それでも、そういいたくなるような鼓動は、たしかに音楽の底に脈打っているように思われる。ブラームスは1897年に没したが、その魂はベートーヴェン以来のドイツ音楽史に融け合って生き続けていたかも知れない。そして常に深い畏敬の念と謙譲とを以て史上の作曲家に向き合い、その作品を、既に存在するものとしてではなく、その都度生成されるべきものと考えたフルトヴェングラーが、いま、それを現前させた。ドイツに留まらざるを得ない多くの同胞のために、奈落にあっても生きるべき一つの根拠を提示し続けるために、亡命を選ばず母国に留まったフルトヴェングラー。そのベルリンでのフィナーレに立ち合った聴衆は、演奏会場の外で確実に進行する亡国の激浪に翻弄されながらも、信頼に足る唯一の実在である音楽に依ってそれに耐え、ドイツ民族の系譜に自らを見出したのではなかったか。

 

1945年のこのブラームスの1番は、フルトヴェングラー専属のレコード・エンジニアであり盟友ともいうべきフリードリヒ・シュナップ博士によって、停電復旧後の第四楽章のみではあるが、録音されている。

 

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注)

1945年1月23日……この日、同じベルリンで、ベートーヴェン「皇帝」も録音されている。ピアノ、ヴァルター・ギーゼキング。最初期のステレオ録音として再生音楽史に遺るものだが、そんなことより、背後に、高射砲か何かの不穏な音が聞こえるのである。

 

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)……ベルリン生まれ。1922年ベルリン・フィル常任指揮者に就任。ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュの後継である。1933年に帝国音楽院副総裁(総裁リヒャルト・シュトラウス)の地位に就くなど要職にはあったが、ヒンデミット事件での振舞い等から、単純にナチス側の人間だとは断定するわけにはいくまい。しかしながら、大戦勃発後もドイツに留まったということもあって、戦後は所謂「非ナチ化」のための裁判を闘わねばならなかった。アルトゥール・トスカニーニやヴラディミール・ホロヴィッツ、ナタン・ミルシテイン等のユダヤ系の音楽家による批判はその後も続いたが、イエフディ・メニューヒンはユダヤ人ながら、フルトヴェングラーを擁護したのであった。戦後のメニューヒンは「落ちた」との評判が専らだが、少なくともフルトヴェングラーとの共演は、そんなことはない。

 

ハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)……フリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)、ついでフランツ・リストの就いて学んだピアニストであるとともに、リヒャルト・ワーグナーの高弟として近代的指揮法を創始した指揮者でもあった。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を担当。ベルリン・フィル常任指揮者。むろんワーグナー派に属したが、妻(リストの娘コジマ)がワーグナーのもとに走った頃から、徐々に一派を離れ、古典派ブラームスに与するようになった。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3B」と名付けたり、またバッハの平均律クラヴィーアがピアノの「旧約聖書」であるのに対し、ベートーヴェンの三十二のソナタは「新約聖書」であると称賛したり、なかなかうまいことを言う、おそらくは当代きっての教養人であったと思われる。ブラームスの交響曲1番を「ベートーヴェンの10番」と賛辞を送ったのも彼だが、それをブラームスの驕りであるかのごとく受けとめる向きもあっただろう。

 

フリードリヒ・シュナップ(1900~1983)……音楽学を修めた哲学博士。実際の演奏の緊張や均衡を活かすべく、ただ一本のマイクロフォンの絶妙な配置によって優れた録音を実現した。フルトヴェングラーは「何も行わない」シュナップを信頼し、戦中録音のほとんどを委ねている。戦後は北西ドイツ放送局に移り、1951年にもフルトヴェングラーの指揮でブラームスの1番を録音した。このときのコンサート・マスターは、シュナップと同様にベルリンから北西ドイツ放送交響楽団に移籍していたエーリッヒ・レーンであった。1945年1月23日の演奏会のコンサート・マスターは、このレーンか、ゲルハルト・タシュナーか、ということになるのだが、私にはちょっとわからない。タシュナーはチェコの人であるし、1941年に入団したばかりであるから、あのライヴの民族的高揚ということを考えると、やはりレーンか……などと考えてみたくもなるが、根拠があって言うのではない。なおジネット・ヌヴーのソロとハンス・シュミット・イッセルシュテットの指揮によるブラームスのヴァイオリン協奏曲のライヴ録音があるが、それも、その音質の傾向から、シュナップ博士による録音ではないかと、私は想像している。無私の録音技術こそが、きわめて個性的な表現を実現するという逆説であるか。「そういう風にはみえないでしょうが、私は内気な人間なんです。出しゃばるのが嫌いなんですよ」。

(了)

 

幸福について

「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従って矩をこえず。(孔子『論語』)」

 

「年をとるほど幸せになる”Older people happier”」という講演がTEDの中にある。スタンフォード大学高齢化センターのローラ・カーステンセンという方の講演で、印象に残っている話の一つだ。大人になると、歳を経るということを別段に嬉しく思う人は少ないかもしれない。けれど、「あなたは日々どれだけ幸せを感じていますか?」といった幸福度の実証的な調査をすると、「人は歳を経るほど幸せになる」という結果が出るという。喜びや感謝といった感情は年齢を経るにつれて増し、ストレスや不安、腹を立てるといった頻度は減ってゆく。何度やっても同じ調査結果が出るとのことらしい。高齢者が若い者より幸せであることは、統計的な事実であるようだ。

 

幸福、それは私たちの人生にとって最も大切なものであると言えるが、捉えどころのない漠然としたものでもある。ハッピー、とカタカナで表現でもすれば何となくお気楽な感じもする。そもそも、幸福度の調査というが、幸福を測ることなど可能なのだろうかと疑問にも思う。定義のしようがないところに、幸福という概念の本質があるようにさえ思われるというのに。

 

とは言え、幸福と年齢のこうした現象は、今のところは僕にも当てはまるような気がする。実証的なデータから「人は歳を経るほど幸せになる」ものだと言われたら、そういうものかという気がしてくるし、ぜひそうであってほしい。

高齢になると一般的には体力が落ち、健康上の問題も増えてくるから、高齢者の幸福度が若い者よりも高いという観測的事実は「高齢のパラドックス」とも呼ばれている。この事実については、単なる認知機能の低下が原因だろうと考える学者も多いのだそうだ。人生は良い事ばかりではないから、悪い出来事に対する認知が低下すれば、主観としての幸福度は増すに違いない。また、高齢による認知機能の低下は確かに起きることだろうから、幸福度の増大は、認知機能の低下が引き起こす単なる副産物に過ぎないというわけだ。有り得ない理屈ではないし、僕自身も幸福そうな大人を見るたび、似たような事を密かに思いもしてきた。今でも、そうした考えの半分は正しいと思っているが、一方では、浅はかな考えであったと反省してもいる。カーステンセンはというと、パラドックスとされる幸福の現象を人間性に関わる問題として捉えている。

 

「高齢のパラドックス」は単なる認知機能の低下による結果ではない、数々の実験結果がそう示唆しているのだそうだ。なにせ、認知機能の高い者ほど「高齢のパラドックス」は当てはまるとのことらしい。歳を経た人は悲しい出来事が認識できないのではなくて、悲しみと上手に向き合っているのだと、カーステンセンは言う。彼女のそうした考えは実験の裏付けを得たものであり、多様な年齢の人たちに色々な顔の写真を見せると、高齢な者ほど笑顔に注意が向かい、嫌そうな顔や怒った顔は自然と避ける傾向があるのだそうだ。また、記憶においても、色々な映像を見せると高齢な者ほどポジティブな映像の記憶が残りやすく、ネガティブな映像の記憶は残りにくい。こうした認知的な傾向は、高齢者が幸福である事実と無関係ではないのだろう。

彼女はまた、幸福へ通じる高齢者のそうした態度は、人生に残された時間の長さに係わる問題であろうと言う。当然だが、若者に比べて高齢者に残された人生の時間は短い。だから、残された人生の時間を意識しながら、良い出来事に出来る限り目を向けて、より生産的であろうと今この時間を大切にし、より感謝し、より多くの和解を受け入れる。それが「高齢のパラドックス」の内実であるに違いないと述べている。

 

30歳の若輩者が「高齢のパラドックス」について語るのは、何となく失礼な気がしている。同じ「幸せ」という言葉で呼んでいても、40代、50代、或いは60代や70代といった年齢の方にとっての幸せは、30歳である僕のような若造のそれとは全く質が異なるものであるに違ない。それだけは、この歳でようやく分かるようになった。それなのに、どうして「高齢のパラドックス」の話をしているのかというと、このパラドックスの他方の端、若者にとっての意味合いについては思うことがあるからだ。人生に残された時間が少なくなるにつれて、物事の前向きな側面へと意識が向かい幸福になる傾向が「高齢のパラドックス」の内実であると言うのなら、若者が不幸を感じやすい傾向も同様に人間性の一端として認めていけないはずはない。だから、ここでは「高齢のパラドックス」の若者にとっての意義について考えてみたい。

 

「僕はただもう非常に辛く不安であった。だがその不安からは得をしたと思っている。学生時代の生活が今日の生活にどんなに深く影響しているかは、今日になってはじめて思い当る処である。現代の学生は不安に苦しんでいるとよく言われるが、僕は自分が極めて不安だったせいか、現代の学生諸君を別にどうという風にも考えない。不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである」(「僕の大学時代」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)

 

若者の精神について想うとき、僕にとって、自然と思い出されるのが小林秀雄さんのこうした言葉である。「精神の不安は青年の特権である、という考えを僕は自分の青年時代の経験から信じている」とも、小林さんは書いているが、僕自身は20代を通してこうした言葉に非常に支えられてきた。「高齢のパラドックス」に係わる文献について調べてみると、人生における幸福度はU字カーブを描き、50歳頃まで緩やかに下降し、その後は上昇を続けるというのが一般的な傾向のようである。だから、「人は歳を経るほど幸せになる」という話を、そのまま青年期を含む若い年代へ当てはめることは出来ないが、とは言え、感情的な側面に限ってみれば、これは人生の全般を通じてよく当てはまる事実であるようだ。ストレスや不安といった感情は青年期に上昇し、その後は歳を経るにつれて緩やかに下降する。青年の特権とまで言い切ることは統計的には難しいが、若者には年輩者よりもネガティブな感情を抱きやすい傾向が確かにある。

認知的な側面においても、若者の意識はポジティブな事柄と同様にネガティブな事柄へも向かい、悪い出来事の記憶も年輩者に比べて残りやすい。これら精神の傾向は幸福度を押し下げる要因となるに違いないが、若者の精神にはどうして、そうした傾向がわざわざ備わっているのだろうか。単なる未熟さの結果である、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、話はそう単純であるとは思えない。「不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか」。小林さんの言葉も示唆するように、若者の精神の特性にも何かしら人生における得があるように思われる。どういった意義があるのか。若者の精神の意味合いも、高齢者の幸福へと通じる態度の由来と同様に、人生に残された時間の長さから考えてみてもよいだろう。

 

若者には長い人生の時間が与えられている。人生をどのように生きていけばよいか、そうした未来に対する問いを抱くことは、だから、若者にとっては必然だろう。自分はどういった人間で、何になりたいのか、発達心理学の言葉を借りるならアイデンティティの確立が、未来を想う若者にとっては大事な課題となる。そうした選択にとっては、現実の良いも悪いもありのままに受け止める批評的な精神が不可欠であると思う。経験の蓄積が少ない、過去の惰性を知らない若者にとっては尚更そうであるように思うのだが、意識が物事のネガティブな側面へも向かう若者の精神は批評的な精神に通じるものであると言っていい。これについては、例えば、ローレン・アロイとリン・アブラムソンによる次のような面白い実験がある。

ハッピーな学生とそうでない学生の認知の傾向を比較するため、ボタンの操作でライトの点滅がコントロールできる状態と、他方で、ボタンの操作ではライトの点滅がコントロールできない状態を設定し、学生に、ライトの点滅をどの程度までコントロールできたと思うかを自己申告させてみる。気分が落ち込んでいる学生は何れの設定においてもコントロールできたか否かの判断が正確である。これに対し、ハッピーな学生ではコントロールできる状態の判断は正確であるのに対して、全くコンロトールができない状態のときにでもコントロールできたと思う者の割合がかなり多くなる。気分が落ち込んでいる者の方がハッピーな者に比べて、失敗の経験を正確に把握し記憶する、つまり、現実主義者なのである。

日常の生活においては全くコントロールが不可能な状況というのは稀だろうから、上手くいく可能性に意識が向かう者の方が、現実を正しく把握しているのかもしれない。少なくとも、物事はポジティブに考えた方が生産的である。とは言え、自分にとって本当に大事な問題を浮かれた気分のままに決断する人はきっと少ないに違いない。それは、幸せな気分というものが必ずしも冷静な判断にとっては適さないという、実験が示唆するような事実を私たちが経験的に知っているからなのだと思う。

青年時代は人生という時間軸で捉えるなら、たくさんの価値と出会い、未来に自分はどう生きていくのかを選択する時期にあたると言える。批評的な精神にとってハッピーは必ずしも適切であるとは限らない。若者の精神の傾向は、そうした事情を反映した結果であるのかもしれない。或いは、むしろ、現実への期待や無知に由来する楽観性と釣り合いをとるためにネガティブな精神も必要とされるのかもしれない。いずれにせよ、現状を正しくないと感じる精神の傾向は、未来における理想の実現へと向かう原動力にはなるだろう。

人間は自身の幸福の度合いを調節しながら生きている。若者にとっての意義も認めるなら「高齢のパラドックス」と呼ばれる現象はそう捉えることもできる。「歳を経るほど人は幸せになる」という傾向が事実であるなら、それは人生というものに適応的な精神の性質であるに違いない。満ち足りて少しでも生産的であろうとする大人と同様に、理想を精一杯に探究する若者の精神も「高齢のパラドックス」の内実の一端を担う大切な人間性なのではないだろうか。幸福と年齢の現象について知ったときそう僕は思った。

 

冒頭で引用したのは孔子が年齢に応じた心の在り様を説いた言葉である。その一つ一つについて僕には未だ知る由もないが、人間の心の在り方は、人生を通じて確かに変わってゆくのだろう。僕の場合、きちんと幸福でありたいという思いは年々強くなっている。幸福と年齢の間に法則性があるのなら、これに沿えるようきちんと努力していたいと願う。

(了)

 

メモ:

・Stone,A.A., Schwartz,J.E., Broderick,J.E.&Deaton,A. (2010) A snapshot of the age distribution of psychological well-being in the United States. PNAS, 107(22).

ギャラップ社による2008年のアメリカにおける34万人を対象とした調査に基づく、幸福と年齢の関係の統計的な分析結果。全般的な幸福度が50歳を境にU字カーブを描くという知見が再確認され、またこれに加えてネガティブな感情は20代の初期から緩やかに減少してゆくという結果を報告。

・Carstensen, L.L.&Mikels J.A. (2005) At the intersection of emotion and cognition: Aging and the positivity effect. Current Directions in Psychological Science, 14(3).

ポジティブ優位性効果(positivity effect)と呼ばれる、年齢に伴い認知や記憶がポジティブな事柄へ向けられる傾向がある事実について等を紹介。

・BiRinci, F.&Dirik, G. (2010) Depressive Realism: Happiness or Objectivity. Turkish Journal of Psychology, 21(1).

うつ傾向にある人の方が健常な人よりもむしろ現実を正しく認知しているという考えは、抑うつリアリズムの仮説(depressive realism hypothesis)と呼ばれる。今なお議論が続く問題ではあるが、健常者の認知には一般的に楽観的な偏向があることは事実として認められている。

・Alloy, L.B.& Abramson, D.Y. (1979) Judgment of contingency in dpressed and nondepressed students: Sadder but wiser?. Journal of Experimental Psychology: General, 108(4).

ローレン・アロイとリン・アブラムソンによる、抑うつリアリズムの仮説の発端となった実験。

 

下諏訪「みなとや旅館」紀行

小林秀雄先生お気に入りの宿として知られる下諏訪「みなとや旅館」に宿泊した。いつか必ず行こうと決めていたがなかなかその機会がなかった。本誌2018年6月号、8・9月号で國學院大學の石川則夫先生が宿泊した時のことを寄稿されていたのを読み、とても羨ましく思っていたところ、再訪への同行にお声かけいただき、この日がただただ待ち遠しかった。

JR中央本線上諏訪駅で下車して、レンタカーでそれぞれ離れた場所に鎮座する諏訪大社四社を参拝する計画だ。1社目は下社秋宮へ。神楽殿にて正式参拝。御神木を御神体としてお祀りしており、御神木を中心に四隅に御柱おんばしらとよばれる大木を立てる。御神木は外からは見えない。この大木を曳き立てる奇祭として知られる御柱祭について、場所を移してDVDを観る。天にも届くような甲高い声の木遣り歌が私の心を大きく揺さぶり、そしてひどく高揚させる。多くの男たちが命の危険を冒してまで大木に乗って急坂を滑り落ちたいと思うのも無理はないと思った。その大木は上社では八ヶ岳中腹横川国有林から25キロの距離を曳く。下社では八島高原東俣国有林から10キロを里曳きする。御柱祭の曳行・建立は氏子の神社への奉仕によって行われる。大祭の年は婚礼や葬儀は控えめになり、家屋新築も見送られるなど、諏訪地方では最も重要な祭事として位置づけられるのだ。

2社目、下社春宮に向う。春宮は秋宮から北西に1.2キロ離れた地にあり、毎年2月から7月まで祭神が祀られる。秋宮よりこぢんまりとした感じだが、近くには砥川が流れていてせせらぎが気持ちのよい空間をつくり出している。

そして木落し坂へ。傾斜は35度、100メートルの長さがある。上から覗くととても乗れそうにない傾斜だ。落ちたらすぐに車道で、川が車道に沿って流れている。ここで記念撮影する宿主と小林先生ご夫妻の写真、そして秋宮で宿主と撮影した小林先生の写真が写真集『みなとやつれづれ』に収載されているが、雑誌の特集などで見る緊張感のある鋭い眼差しの先生とはちがってとても柔らかい温和な表情をなさっている。

「みなとや旅館」に着く。荷物を上げて順々に入浴する。外湯で湯船からうまい具合に月が見える。諏訪大社の御神湯として千年の歴史を持つ名湯「綿の湯」が引かれている。湯船には白い玉砂利が敷かれまわりは手入れの行き届いた庭だ。「ほんとうに温泉が好きなら、この風呂で体を洗うことはコケなことだ」と小林先生がおっしゃったのもうなずける。

いよいよ夕食だ。テーブルには大皿に馬刺、諏訪湖のワカサギ、小エビ、フナ、ザザムシ、イナゴ、蜂の子、コゴミ、ヨシナのコブ、アザミ、ジゴボウなどが素材の特長を生かして調理されている。小林先生ともご一緒にいただきたいということで、席をもうけて写真を立てかけ徳利と盃を用意する。お酒がすすんでくると女将の小口芳子さんがご自分用の小椅子をもってきて小林先生のことを話して下さる。

小林先生はこの宿での白洲正子さんとの会話の中で「諏訪には京都以上の文化がある」といわれ、求めに応じて、それを書き留められた。今回実物を拝見できなかったが、先生のおっしゃる「京都以上の文化」とは何を指すのか自分で確かめてみたいという気持ちが今回の旅にはあった。小林先生は具体的に何をさしておっしゃったのだろうか。

食事の席に話を戻す。熱燗がすすむ。小林先生も一緒に召し上がっている気配を感じる。かつて私はこの諏訪の「ぬのはん」という宿で中沢新一氏の対談の収録をした。小林秀雄賞を受賞されて間もない頃ということもあってか、終った後の食事の席で小林先生のことを中沢氏が口にした。こうした席での小林先生はたいへん厳しかった、余計なことを話す編集者はひどく怒られたと聞く。それはその時の我々の不用意な言葉に対する戒めであったのだが。小林先生の著作のように文学史に残る本を出版することは、担当する編集者はいかに大変だっただろうかとその後想像をめぐらせたことを覚えている。今回偶然にも小林先生の担当をされていた池田塾頭とご一緒させていただいている。不思議な巡りあわせだ。

翌朝5時45分に宿を出発して春宮の朝御鐉あさみけ祭へ。御祭神に朝の食事を捧げる神事である。四社ともに朝六時に行われるが、「川のせせらぎが聞こえて私は一番好き」という若女将のことばが決め手となり春宮へ。まだ薄暗く静寂につつまれた境内。見物する人は我々だけで、川の流れる音に心が洗われるような時間であった。

宿に戻って朝食となる。キジのガラだしによるそば雑炊だ。小林先生もたいへんお好きだったとのこと。そう聞くとさらにおいしく感じられる。これを目当てに来る人もいるとのことだ。昨晩からここでしかなかなか味わえない品々に驚きの連続だ。ここで塾頭は突然気付いたようにおっしゃった。「『諏訪には京都以上の文化がある』の『諏訪』って、この『みなとや』を指して言われたのではないかな。『京都』というのは小林先生の定宿だった『佐々木』でしょう。つまり、諏訪の『みなとや』は京都の『佐々木』に勝るとも劣らない、それほど気に入った、という気持ちで言われたのではないかな」

「佐々木」は京都清水五條坂にあった料理旅館だ。祇園の一流の芸妓であったお春さんがはじめ、その姪の佐々木達子さんがその後を継いだ。近衛文麿、吉田茂、志賀直哉、里見淳、河上徹太郎、吉田健一等々が贔屓にしていた隠れ宿だ。

白洲正子さんの随筆集『夕顔』収録の「京の宿 佐々木達子」によると、小林先生は「この宿屋は国宝だよ」といって愛していたとある。続いて以下のように書かれている。

名妓であったおばさんには、多分にお譲ちゃん的なわがままなところがあり、それが魅力でもあったが、長年下積みで苦労した達子さんは我慢強かった。私たち一家はどんなに彼女のお世話になったかわからない。祖父、――つまりおばさんの父親が気難しい板前であったので、彼女は小さい時から料理が上手で、味にはうるさかった。京都の料理屋は隅から隅まで知りつくし、料理ばかりでなく、それは日常の生活万端に及んでおり、これはと思う老舗では「佐々木」といえばどこでも一目置かれていた。すべてそうしたことは先代のおばさんから受け継がれた訓練によるが、彼女はそれに応え、たださえうるさい客たちに至れりつくせりの接待をした。そういうものこそ私は、千年の歴史を誇る京都の「伝統」と呼びたいのだ。

小林先生は何でもご自分の体験によってでしか語られない。諏訪の「みなとや旅館」での滞在が先生にとってはたいへん満足のいくものだったのだろう。

 

2日目は最初に神長官守矢もりや資料館へ。諏訪大社の祭祀を司った守矢家の屋敷にある。この建物を設計したのは藤森照信氏だが、そのいきさつについては中沢新一対談集『惑星の風景』で藤森氏との会話の中で詳しくふれられている。照信という名は第77代神長官守矢真幸氏が付けた。第78代の守矢早苗氏も藤森氏と幼なじみというご縁があり、茅野市役所から設計を依頼された。自然の素材である石とか土とか木をかなり荒々しく使って建てられている。1991年開館で藤森氏にとってはデビュー作だ。この神長官守矢資料館には、神様と一緒に「生肉食う」とか、「血の滴る首を捧げる」とか、「脳味噌をまぜた肉」を捧げるという、当時の諏訪信仰の一番原始的な部分を再現してある。御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復元している。御頭祭では鹿の生肉や脳味噌あえや焼き皮を夜を徹して神人とともに食した。屋敷内の小高くなった場所にはミシャグチを神社として祀る。諏訪社の神事ではこのミシャグチ神は非常に重要な役割を果たしていたという。

3つ目の上社前宮へ。ここはたけ方神かたのかみが出雲から諏訪に入った時、最初に鎮座した地とされ、諏訪大社四社の中で最も古い由緒をもち、かつては祭事の中心であった。祭神は、中世まではミシャグチ神、現在は八坂やさか刀売神とめのかみで、諏訪信仰の発祥の地と伝えられる。諏訪市立博物館。4つめの上社本宮で正式参拝を終えて、最後に地元の銘酒「真澄」をおみやげに購入するため「セラ真澄」に立ち寄る。諏訪大社の宝物「真澄の鏡」にあやかって命名されたという。「みなとや旅館」でいただいた熱燗も「真澄」だ。あまりにおいしかったので買って帰ろうとするが、「真澄」にもいろいろあってどれかわからない。連れの一人、坂口慶樹さんはお酒に詳しいので「坂口さん」と呼ぶと、そばにいた塾頭は「サケグチですよ」とおっしゃる。きのうに引き続き2度目だ。1回目は単なる冗談かと思ったが、ひょっとして深い意味があるのではと思い、調べてみた。

柳田國男の『石神問答』という本によってシャグジと関係のあると思われる地名として指摘されている中に坂口山(さくちやま)とある。また『精霊の王』の中で中沢氏は批判的ながらも次のように民俗学者中山太郎氏の推論をとりあげている。

御左口神〔ミシャクジ〕を、中山太郎は酒の神であると考えている。古い時代は酒は女性が噛んでつくるものだった。今では酒造りを技とする職人を「杜氏」と言っているが……御左口神とは酒殿の御祭神であると考えたわけである。

お酒を買う。昨日「みなとや旅館」で出たお酒の銘柄もわかった。だれかがショップの人に聞いたが、サケグチさんの舌はあたっていた。帰りの電車の中でおいしくいただきながら、新宿駅に着く。別れ際に塾頭は、今回のことを原稿にまとめるようにと再度おっしゃった。行きよりもやや重くなった荷物を背負って帰路についた。

(了)

 

小林秀雄さんにいただいた向き合う勇気

昨年、『脳科学者の母が、認知症になる』という本を上梓した(河出書房新社刊、2018年10月)。

2015年秋に、私の母がアルツハイマー型認知症と診断された。私は脳科学を学び始めて約16年である。しかし私は、ずっと一緒に暮らしてきた母が脳の病気になることを止められなかったし、その病気を治すこともできないでいる。なんのために学問をしてきたのだろう、と考え続ける3年間だった。

 

私は脳科学を始めた当初から、いつか学問と、自分の人生の切実な問題とが一致したらいいと願ってきた。研究室に入りたてで、20代前半の人生に迷っていた私に、師の茂木健一郎さんが突然、「おまえにはこれだ」と言って、小林秀雄さんの講演『現代思想について』(新潮CD「小林秀雄講演」第4巻)を渡してくださった。聴いてみて、「学問は、自分の人生の中でどうしたらいいのだろう、と思っていることを、自分で考えることなのだ」と確信した。その時までは、冷静で、非個人的になって初めて、科学はできるのだと思い込んできたけれど、やはり、自分が生きて死んでいくことや、自分の感情と、まったく切り離せない学問があるのだ、と感動したのだ。

「こっちの方が本当だ」「私も、茂木さんや、小林さんみたいに、自分の人生の切実な問題について文章をいつか書きたい!」そういう思いを抱いて16年が経ち、その思いがはじめて、私が脳科学者になったのに母が脳の病気になる、という人生一の不幸で叶うことになったのである。

 

アルツハイマー病は、どんな病気か。記憶の中枢である海馬に最初に問題があらわれ、「現在のことが覚えられなくなる」という病気である。だから、毎日の出来事を正しく語ることはできなくなる。同じことを何度も聞いてくる。また、記憶が定着しないから、たとえば、味噌汁を作ろうと思って、水をコンロに掛けて、大根を切っていると、大根を切っているうちに、味噌汁を作ろうとしていたことを忘れてしまう、というふうに、実行機能障害も起こる。料理など自分が今まで簡単にやっていたことが、できなくなるのである。また、自分が何をやりたかったのか、自分は何のために今その行動をしているのか、それが突然わからなくなることは、本人に強い不安を感じさせ、鬱なども引き起こすことになる。

 

なんでもできたはずの母が、なんにもやろうとしなくなる。簡単にやっていたはずのことで失敗する。最初、私は、「え? なんでそんなことができないの?」と素直に驚いてしまっていた。海馬に問題があると記憶が定着しないということは知っていても、日常の中の具体的な母の症状は、そんな知識を超越していた。驚き、傷つき、否定して、母の異変を確信してから、受け入れて病院に行けるようになるまで、私の場合約10ヶ月の時間がかかった。

 

この10ヶ月は、私の人生の中で最もキツい期間だった。3年が経った今、母の症状は随分進んでいるが、今よりもずっとその最初の期間がつらかった。理由の一つは、慣れていなかったから。もう一つは、これからどうなるかの予想がまったくつかなかったから。

 

この間の私は、とにかく「怖い」と思っていた。アルツハイマー病は進行性の病気で、今のところ治す薬がない。だから、いつか、母は母でなくなってしまうのか、と思って夜も眠れなかった。本当に、色々なことができなくなっていって、私のことまで忘れてしまうのだろうか? それはいつ、どんな形で起こるのだろうか? 今まで小説や、映画にたくさん描かれてきたように、家族のことを忘れて、街を徘徊するようになるのだろうか? もしも全部記憶をなくしてしまったら、それは母が母でなくなるということなのだろうか? と。

 

未来が真っ暗に見えた中で、私は、何度も小林さんのことを思い出していた。考えようとしなくても、思い出されてきた。小林さんだったら、どうするだろうな、とよく思った。小林さんは、本居宣長にしても、ゴッホにしても、誰かをみるときに、客観的な条件で見ることがない。「何歳の時、どういう学校に行っていた」「どういう職業をやっていた」「どういう人物と一緒にいた」それだけで終わりにならないところをお書きになる。『本居宣長』の中では、たとえば、紫式部が書いた「源氏物語」について、光源氏のモデルを探したり、物語の出来事に対応する現実の出来事を探したりして、物語の不思議を解明した気になっている学者達に向って、「外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう」(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長(上)」p.179)と書いている。このような小林さんの文章にずっと触れてきたからこそ、私は、母が病気になって、上のような恐怖の中にいる時に、「料理が上手かったから母なのか」「音楽が好きだったから母なのか」「記憶があるから母なのか」―「そうではないだろう」「能力だけで、母を見ることは間違っているのではないか」「何を見たら母を見たと言えるのか」と自問自答した。

 

小林さんは、人の本質というのは、母親が子供を見る、そういう風に見えているものだ、とおっしゃる。子供が成長の過程で身に付けていくさまざまな「能力」とは関係のない「その人」があるわけである。そして、そういう「その人」だったら、私も、「母」をちゃんと知っている気がした。その「母」は、アルツハイマー病になっても、一生変わらないものなのだろうか? それを明らかにしたくて、できたのが『脳科学者の母が、認知症になる』である。

 

結局私は、医者ではないし、また薬を作るために脳の分子的な世界を研究しているわけでもないので、「治す」とか「メカニズムの解明」とかについては無力だった。しかし私は、母という一人の人物を具体的に一番よく知っている娘であり、「感情」と「自意識」を研究してきた脳科学者だからこそ、「その人らしさとは何か」という問題を探ることができる。自分が一番恐ろしいと思っている問題について、自分の持っているもの全てを使って、勇気を出して向き合えばいいのだ、と思った。概念だけの学問でなく、母というかけがえのない人がここにいる。人生で切実な問題を学問する、というのは、こういう勇気のいることだったのだな、と今更ながらわかった。「自分で向き合えばよい」という勇気が持てたのは、池田塾頭に毎年課されてきた自問自答のトレーニングのおかげだ。

 

私の結論はどうなったか。

アルツハイマー病で失われる能力はたくさんある。母はさまざまなことができなくなった。能力が失われることは、確かに母らしさが減ることであり、悲しいことである。しかし、母は色んなことがわからなくなってしまっているが、わかっているとき、ちゃんと伝わっているときには、これまでと全く同じ「母」の反応が見える。すなわち、「母」はこれまでと同じ「母」である。その結論に至った詳細は、本を読んで頂きたい。

 

向き合う必要があった問題に、向き合っただけのことなのだが、私と同じように認知症を「恐ろしい」と思っている多くの人に、具体的にアルツハイマー病になるとはどういう感じのすることなのか、人格と記憶とはどういう関係にあるのか、ちゃんと味がするように書いたつもりである。アルツハイマー病の人たちは、記憶の問題のせいで、発言に一貫性がなくなっていく。それゆえに、当人達の内観研究が遅れている。自分のことが表現しにくい人の代弁者に、少しでもなれていたら幸いである。

(了)