小林秀雄氏が考える「批評家」とは

松広 一良

小林秀雄氏の「本居宣長」には「批評家」という言葉が使われているところが三個所ある。まず第14章で「この大批評家(=宣長)は、式部という大批評家を発明した」としているところであり、次は第17章で「谷崎氏には、秋成の場合とほぼ同じように、言わば作家と批評家の分裂が起った」としているところ、三個所目は第27章で「彼(=貫之)の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだった」というところ、および「『女もしてみむとてするなり』という言葉には、この鋭敏な批評家(=貫之)の切実な感じが籠められていた」というところである。最初の第14章については既に「好・信・楽」2019年9・10月号で橋岡千代氏が論じている。ここでは三個所目の第27章について、なぜ氏が貫之を批評家と呼んだのかをみてみる。

 

まず一個所目の「本居宣長」第27章の「彼の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだった」とあるところの「批評家」だが、これは「古今集」の「仮名序」に関連して説かれたものである。「古今集」は貫之自身が編集に参加した勅撰集であるが、当時の和歌は、宮廷における権威、すなわち漢詩漢文に追われて「すっかり日蔭者」になっていた。それをまた「改まった場所に引出す」にあたって貫之は和歌の「本質や価値や歴史を改めて説く序文を必要」と考え、漢詩文に慣例として使われている序文としての「真名序」とは別に「仮名序」を和文で書いて用意したのだった。貫之が「仮名序」を書いた理由は、そもそも「和文は、和歌に劣らぬ、或る意味では一層むつかしい、興味ある問題として、常日頃から意識されていた」からだった。また「万葉集」以来の「言霊の不思議な営み」に対して貫之はかねてから感慨を抱いていたことから、和歌が「反省と批評とを提げて出て来る」にあたっては「言霊が、自力で己をつかみ直すという事が起」こった、それを受けて「言霊の営みに関する批評的意識を研い」でいたのであり、それを「仮名序」に反映させた。加えて貫之は「漢文の日本語への翻訳」にも習熟していたため、これが「自国語の構造なり構成なりに関する、鮮明な意識」を養い、和文の体を生み出す下地になっていたのであろう。そうした結果として「古今集」の代表的歌人である業平の歌について「心余りて、言葉足らず」という評を残すにいたり、それは後に名評として宣長も引くほどだった。小林秀雄氏は以上のことがらを踏まえて貫之のことを「批評家」と呼んだものと推定される。

 

つぎに貫之についての二個所目の「『女もしてみむとてするなり』という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じが籠められていた」とあるところの「鋭敏な批評家」だが、これは「土佐日記」に関連して説かれたものである。「土佐日記」は「女が書いたという体裁になって」いて、「当時、男の日記は、すべて漢文で書かれていた」のを貫之は「女性自身に語らせるという手法を取って」和文を書いた、しかも「自分には大変親しい日常の経験を」「統一ある文章に仕立て上げ」たのだった。貫之は生活のうちで磨き上げられてきた和歌の体に対抗して「平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕える」ことを狙って「和文制作の実験」をした。つまり「言葉が、己れに還り、己れを知る動き」であるところの「日記の世界」に入って、当時「女性に常用されていた」「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて「和文に仕立て上げ」ることを試みたのだった。小林秀雄氏は以上のことがらを踏まえて貫之のことを「鋭敏な批評家」と呼んだものと推定される。

 

上述の「鋭敏な批評家の切実な感じ」の文中には「鋭敏な」と「切実な」という二つの形容詞が付されている。これは「仮名序」が「真名序」に対抗したのに対し、「土佐日記」で意識された和文の体が対抗したのは和歌の体であったことからきたと思われる。すなわち、「和歌の体と和文の体との基本的な相違」は、和歌では「必ずしも文字を必要としない」のに対し、和文には「黙って眼で読む体」であることから文字が必須であり、且つ和文の体は平仮名があって初めて磨かれるものであるところにあった。しかも平仮名は「女性に常用され」ていたのに対し男性が常用していたのは相変わらず漢文だった。これら、わが国の言葉が初めて経験する新事態を前にして、貫之が「和歌では現すことが出来ない、固有な表現力を持った和文の体」を目指し、「観念という身軽な己れの正体に還ってみて、表現の自在」を自得しつつ言霊をも取り込んだ和文の体を明らかにし、且つ漢文の形式的内容的依存性から脱却するためには女性を騙ってでも和文の日記を書くという実験に着手せねばならないという切迫感があったのだと思われる。しかも貫之にはそれができた。以上のことから「鋭敏な」と「切実な」という二つの形容詞が付されたものと推定される。

 

「『源氏』が成った」のは上述の実験と「同じ方法の応用によった」のだということ、このことは「宣長を驚かし」ていた。そして「宣長は、『古今』の集成を、わが国の文学史に於ける、自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始と受取っ」ており、「その一番目立った現れを、和歌から和文への移り行きに見」ていた。貫之は「古今集」の「仮名序」で「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」としたが、「やまと歌の種になる心が、自らを省み、『やまと心』『やまと魂』という言葉を思いつかねばならないという事は、『古今』時代からの事」であり、「そういう事になるのも、から歌は、作者の身分だとか学識だとかを現すかも知れないが、人の心を種としてはいないという」貫之の批評がまずあったからなのだった。

 

宣長は「土佐日記」にある「『もののあはれ』という片言」が「源氏」に至って豊かな実を結んだことにも驚いていた。貫之自身はこの問題の深さに特に注目はしていなかったものの「仮名序」では「人麿なくなりにたれど、歌の事とどまれるかな」としており、これは「自信に溢れた、歌の価値や伝統に関する、わが国最初の整理された自覚」だったといえるのであり、宣長はこれを起点として「物のあはれ」論を書いたのだった。以上述べた宣長を驚かせた二通りの件は、宣長も貫之のことを、今日の言葉で言うなら批評家と暗に認めていた、小林秀雄氏はそこをも確と見て取っていたと思われる。

 

以上、小林秀雄氏がなぜ貫之を批評家と呼んだのかをみてみたが、最後に、冒頭に述べた三個所のうちの二個所目の谷崎潤一郎と上田秋成の場合について概観してみる。氏は谷崎潤一郎について、その晩年の随筆集である「雪後庵夜話」の中の「源氏という人間は好きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳には行かない」という個所を取り上げ、「作家と批評家との分裂が起こった」としている。氏は谷崎が「源氏」の現代語訳を試みたのは「『源氏』の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい」とした上で、谷崎が「『源氏』の偉大さ」そのものを論じることなく式部の「人性批評の、『おろかげなる』様」のみを記したという点に注目し、谷崎の「源氏」経験のことを「大変孤独な事件」とした。このことから氏は谷崎が作家としてはともかく「源氏」の批評家としては失格だったとみなしたといえる。上田秋成についても谷崎と同様のことがいえるのであり、秋成の「ぬば玉の巻」は「源氏」論だが、氏はこれをまともなものではないとしている。秋成は「『源氏』の詞花言葉」を「もてあそんで、『雨月物語』を書いた」人だが、「ぬば玉の巻」では「式部の文才を称え」たものの「源氏」について「物語の内容」や「大旨」を問うておらず、これは谷崎が「源氏」の偉大さを論じなかったことと似ており、秋成も谷崎同様「源氏」の批評家としては失格だったと氏はみなしたといえる。以上より、氏が考える批評家とは対象の作品及びその作者を合わせてきちんと論じることのできる人のことを指していると推定される。

(了)