ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。
遁れよう! 彼方へ遁れよう! すでに感じる、鳥たちが
未知の泡立ちと ひろがる空の間にあって陶酔しているのを!
ステファヌ・マラルメ「海の微風(Brise Marine)」(*1)
ポール・ゴーガンは、1848年、パリで生まれた。父クロヴイスは、反君主制主義者のジャーナリスト、母アリーヌは、ペルーの太守、ボルジア家の血を引く、空想的社会主義の女性闘士フローラ・トリスタンの娘であった。翌年家族とともにペルーに渡り、55年に帰国。65年には見習い船員となり、海軍勤務を経て、71年まで海の男として働いた。その後、株式仲買人に転身し、73年、25歳で、デンマーク人のメット・ガッドと結婚、この頃から仕事の合間に絵を描くようになる。76年の官展(サロン)での入選を経て、82年の株式市場の大暴落の影響もあって翌年には失職し、画家として生計を立てることを決意した。ただしこれは、生涯にわたる生活困窮のはじまりでもあった。
最愛の家族とも別居し、1886年には、ブルターニュのポン・タヴェンに滞在。翌年、パナマに渡るも、マラリアや赤痢に苦しみ、カリブ海のマルティニーク島に移って制作に励んだ。88年、再びポン・タヴェンに戻り、10月からは、アルルでゴッホとの共同生活を行うが、たった二か月で破綻したことは周知の通りである。そして、三たびのブルターニュでは、鄙びた海辺の村ル・プールデュに赴いた。この頃から、ゴーガンの画風が変わっていく。それまでは、印象派の長老ピサロや、敬愛するドガやセザンヌの影響を受けているものが多かったが、輪郭線を入れたり、ベタ塗りのような描法も大胆に取り入れて行った。
彼は、友人のシュフネッケル宛に、こんな手紙を書いている。
「あなたはパリが好きだが、私は田舎がいい。私はブルターニュが好きだ。ここには荒々しいもの、原始的なものがある。私の木靴が花崗岩の大地に音をたてるとき、私は、絵画の中に探し求めている鈍い、こもった、力の強いひびきをきく」。(1888年2月)
小林秀雄先生が言っているように、「ゴーガンがゴーガンになったのは、ブルターニュに於いてである」。(「近代絵画」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)
ところで、小林先生は、セザンヌ論(同)の最後を、このような言葉で締めくくっている。
「『神経の組織が、ひどく弱って了った。油絵をやるだけで、どうにか生きのびている』。これは、(セザンヌ発出の;筆者注)子供宛の手紙(1906年)の一節であるが、同じ文句が、ゴッホやゴーガンの手紙のなかに見附かっても、誰も驚くまい。二人は、絵画への信仰と同時代への不信と叛逆とに於いて、セザンヌの真の弟子であった」。
二人の、セザンヌへの態度について先生は、ゴーガン論(同)のなかで、こう言っている。
「自然に対するセザンヌの信仰を、ゴッホは忠実に受けついだが、ゴーガンは、冒険し、叛逆した。ゴーガンは、セザンヌの感覚の微妙さを知らなかったわけではない。セザンヌを、相も変わらず自然という『古風なオルガンをひいている』(*2)信心家と見なしたかったのである。ゴーガンにとって、色彩とは感覚であるよりもむしろ意味であった。セザンヌが純粋と信じている感覚も一つの意味に過ぎない、文明人の言葉に過ぎない。成る程ゆるぎない程に見える古い感覚かも知れないが、それはせいぜいギリシアまでとどいているに過ぎない。エジプトはどうするか。ペルシア人は、カンボジア人は。ゴーガンを悩ましたものは、ボードレール流の『象徴の森』であったが、それは、もっと気難かしい美の歴史の遠近法を持っていた」。
ギリシアまで? エジプトは?
小林先生が言う「美の歴史の遠近法」の内容も含めて、ゴーガンの冒険と叛逆のあり様を探る旅に出てみることにしたい。
小林先生は、1952(昭和27)年12月から翌年7月にかけて、今日出海氏と欧州、エジプトを旅し、2月の末に、エジプトから空路ギリシアのアテネに入った。(*3)そこで先生は、「エヂプトとギリシアの美の姿の相違について、非常に激しい感覚を経験した」と言い、その感覚について「その後、ヴォリンゲル(*4)の有名な『抽象と感情移入』を読んだ時、当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして、面白く思った。私は、美学というものを、あまり好まないのだが、ヴォリンゲルの本には、美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人の叫びのようなものが、感じられて面白く思ったのである」と述べている。(「ピラミッドⅡ」、同第24集所収、傍点筆者)
ここで、ヴォリンゲルの考えについて概括しておきたい。彼は、人間の芸術意欲を駆動するものとして、「感情移入の概念」と「抽象作用の概念」の二つに峻別する。前者は、「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」であり、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これを凡ての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」(同)とする。そこで、後者こそ第一義とするものであり、その内容については、小林先生の言葉に耳を傾けてみるのが、理解への早道であろう。
「ヴォリンゲルは、ギリシアとエヂプト芸術様式の相違を、原理的に対立した芸術意欲の結実と考えなければ承知しなかった。ピラミッドが、単に知的な構成を持つと言っても何にも言ったことにはならぬ。この力強い様式には、生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがある。それはわれわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である。彼等の芸術意欲にとっては、感情移入など問題ではなかった。問題ではなかったどころではなく、彼等は、生命感情を否定し、これから逃れようと努力したのである。ロマンチストのルッソオが考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、制作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」。(同)
後段の、読者にも自らにも、断言するが如く畳みかけるような先生の語り口に、今から2,500年前のギリシアの文化と、そこからさらに2,500年程遡ったエジプトの遺跡を眼の当たりにして、体感された「非常に激しい感覚」というものが、感じられないだろうか。
わけても、直近、大地震や大型台風、そして新型コロナウイルス禍という自然の災厄に直面してきた者として、「人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない」、という言葉を忘れまい。
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ゴーガンは、好きだと言っていたブルターニュから、遁れた。
1891年、ポリネシアのタヒチへの出発直前に行われた『エコール・ド・パリ』紙のインタビュー記事が残っている。
「私はひとりになるため、そして文明の影響から逃れるために出発するのです。私が創造したいのはシンプルな芸術です。……そのために私は無垢な自然のなかで自分を鍛え直さなければならない。そして未開人たちだけとつきあい、彼らと同じ生活をする。私はそこで、子供のように自分の頭の中にある観念を表明してみたいと思います。この世で唯一正しく真実である、プリミティブな表現手段によって……」。
タヒチに到着した彼は、首都パペエテから80km離れたマタイエアに移り、13歳の現地の女性テハアマナと同棲した。1893年にはフランスにいったん帰国し、パリのラフィット街で初の大展覧会を開催、詩人ステファヌ・マラルメとの交流も深まった。
1895年にはタヒチに戻る。97年に最愛の娘アリーヌの訃報に接し絶望。妻メットとの文通もついに途絶えた。そんななかで、大作「私達は何処から来たか、私達は何か、私達は何処に行くのか」を成し、その後自殺を試みるも、果たすことはできなかった。
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ここで再び、芸術意欲に関する小林先生の言葉に戻ろう。引き続いて先生は、ゴーガンが、ブルターニュやマルティニーク島、そしてタヒチなどの原始芸術に、画家としての「突破口を見つけた」ことについて、「ヴォリンゲルの理論も、同じ身振りから出たものだ」(同)と断言している。その背景にあったのは、タヒチから、ダニエル・ド・モンフレー(*5)に宛てたゴーガンの手紙(1897年)のなかにある、「どんなに美しくあろうと、ギリシア人は大きな誤りをやったのだ。君達の眼前に、ペルシア人を、カンボジア人、エヂプト人を捉えてみよ」という一言であった。
「ゴーガンの叫びのうちに、どんなに当時の文明に対する嫌悪の情が働いていたにせよ、彼の無私な直覚には動かせぬものがあったであろう。ヴォリンゲルの仮説は、恐らく同じ直覚の上に立つものである。彼の仕事は、体系をなしてはいない。やはり一つの叫びの、美術史上の資料に基く、出来得る限りの解明であった」。(「ピカソ」、同前)
改めて、ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」は、1908年に「まるで絵画の革新運動に狙いでもつけた様に」(同)出版されたものである。まさに、その革新運動に大きな影響を与えたのが、感覚的な写実が極端に走ってしまった印象主義の難点を、それぞれの個性的なやり方で乗り超えて進もうとした、セザンヌ、そしてゴッホとゴーガンであった。さらに、その運動は、ピカソのキュービスム(*6)、マチスのフォーヴィスム(*7)の他、未来派(*8)、表現派(*9)、抽象派(*10)、超現実派(*11)というように、主義主張が乱立展開していく。だが「どんなに多くの流派を競おうと、これら凡てのものには、前世紀の絵画に見られなかったと言うだけで、容易に名附けられない或る共通な性質なり志向なりがたしかにある」(同)と小林先生は言っている。
ゴーガンの直覚もまた、そういうところに、先んじて触れていたのではなかったか。
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ゴーガンは、タヒチからも、さらに遁れた。
1901年、千数百キロ離れたマルキーズ諸島のヒヴァオア島に移住し、最後の力を振り絞って創作に打ち込んだ。02年、人生最後の作品群を制作する一方、先に現地に進出していた役人や憲兵、宣教師らと激しく対立した。遁れても遁れても、純然たる未開の地はなかったのである。健康状態の悪化は止まらず、モルヒネ注射や内服薬が手放せない状況であった。
そして、1903年5月8日、終に力尽きる。54歳であった。
その一か月前、彼は、著作「ノア・ノア」を共著したシャルル・モーリス宛にこんな手紙を遺していた。
「僕たちは、物理や、化学や、自然の研究によってひきおこされた芸術上の錯乱の時代をへてきたばかりだ。野蛮性を失い、本能――想像力といってもいい――を失った芸術家たちは、自分たちの生み出すことのできなかった創造的な要素を見出すために、あらゆる小径に迷い込んでしまった。その結果、一人でいると駄目になってしまうので、臆病になり、無秩序な群れをなして行動するようになったのさ…… しかし、僕には、自分自身のものであるこのほんのわずかなものの方がいいんだ。このわずかなものが、他の人々に利用されて大きなものにならないと、どうして言えよう? ……」。(1903年4月)
ゴーガンは、独り、さらに遠くへと遁れた。「ほんのわずかなもの」だけを遺して……
(*1)「マラルメ 詩と散文」(松室三郎訳、筑摩書房)
(*2)「『カルタをする二人の男』をセザンヌは何枚も描いているが、そのうちの傑作と覚しいものがルーヴルにあって、私はそれを見た時に実に美しいと思った。『セザンヌは、セザール・フランクの弟子である。いつも古風な大オルガンを鳴らしている』という何処かで読んだゴーガンの言葉を思い出した」。(「セザンヌ」同)
(*3)この時の旅行の様子は、「ギリシア・エヂプト写真紀行」として、新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集、冒頭の口絵の後に、小林先生撮影の写真と文章が所収されている。
(*4)ドイツの美術史家、1881-1965年
(*5)フランスの画家、1856-1929年
(*6)立体主義。二十世紀初め、フランスに興った美術運動。対象を幾何学的にとらえて画面構成する技法。ピカソ、ブラックなど。
(*7)野獣主義。主観的感覚の表現に自由な色彩を用い、奔放な筆触が特徴。マチスをはじめ、ルオー、ヴラマンクなど。
(*8)二十世紀初頭、イタリアを中心に興った。キュービスムを動的に推進し、機械文明の感覚を表現するなどした。ボッチョーニ、セヴェリーニなど。
(*9)第一次世界大戦前のドイツに始まる。作者の感情、思想、夢などの主観的表現を通して事象の内部生命に迫ろうとした。カンディンスキーなど。
(*10)抽象美術。現実世界を再現したり、想起させたりすることのない美術の総称。二十世紀の初頭、キュービスム、フォーヴィスムなどが発展したかたちで現れた。カンディンスキーなど。
(*11)1920年代、フランスに興った。フロイトの深層心理学や超常現象への関心を背景に、無意識の世界や衝動の表現を目的とした。ミロ、ダリら。
【参考文献】
フランソワーズ・カシャン「ゴーギャン――私の中の野生」田辺希久子訳、創元社
高橋明也「ゴーガン」六燿社
ダニエル・ゲラン編「ゴーギャン オヴィリ」岡谷公二訳、みすず書房
(了)