「譜づら」というもの

桑原 ゆう

楽譜には「譜づら」というものがある。「譜」と「面(つら)」を組み合わせた造語で、文字通り、楽譜の顔立ちのようなものを意味する。「譜面づら」ともいう。初対面の人との会話で、顔つき、表情、声色や仕草などから、咄嗟に人となりを察知するように、初めて相見える楽譜の「譜づら」から、その音楽の気質を読もうとする。

楽譜を前にして、「譜づら」を見るのと、音を読みながら頭の中で鳴らすのとは、ほとんど同時に、ほぼ自動的に行われるので、どこからどちらの領域に入るか、はっきりと意識も区別もしていない。が、音をひとつひとつ精査する以前に、どんな音楽で、作曲家が何を意図したか、内容の善し悪し(音楽にそういうものがあれば、の話ではあるが)などを、「譜づら」が語ってくれる。善い面構えの楽譜は、不思議と善い音が鳴り、善い音楽にできあがっている。

高校生のとき、レッスンに持って行った出来たてほやほやの作品の楽譜を、ピアノに広げながら、ひとつも音を出さずに「まず、譜づらで判断する」と師匠がおっしゃっていたのは、記憶に新しい。そのとき初めて「譜づら」という言葉を耳にし、「譜づら」とは何だろうかと考えながらも、おっしゃる意味は直観で理解できた。師匠譲りか、やがて私も、自然とそういう楽譜の読み方をするようになった。

「譜づら」という語は、こうして、音楽をする者のあいだで、なかば曖昧に使われていて、明確に定義された用語ではない。なので、使う人や、時と場合によって、用いられ方は微妙に異なり、その意味するところにはいくつかのレベルがある。

 

「譜づら」とは、まずひとつに、楽譜の「景色」である。音符、休符や発想記号など、楽譜上に書かれた全てを、絵や模様のように捉えたとき、それらが楽譜の1ページにどう配置されているか。黒と白の割合、音符の分布や密度の具合、要素間のコントラスト、線の動きと流れなどを、まるで絵を見るかのように観察する。加えて、音楽には必ず時間がともなうので、ページをめくりながら、絵の状態とその変化を追っていく。すると、音楽的時間がどう構成されているか、音響がどのようにオーケストレーション、すなわち、デザインされているか、その大体のところは把握できる。

私は、作曲に行き詰まると、そこまでの楽譜を床に広げてみることがある。時系列に沿ってずらっと並べた楽譜をぼんやりと眺め、音楽の稜線みたいなものを、なるべく客観的に辿るようにする。かと思えば、ある一部分を凝視したり、焦点が合わないくらい近づいてみたりする。そんなことを繰り返しているうちに、その先どうすべきかが見えてくるのだ。

 

より細かいレベルで「譜づら」を考えると、作曲家が如何に楽譜をつくるか、という話になる。西洋音楽の文脈で、作曲と演奏がほぼ分業化するようになってから、楽譜は、作曲者と演奏者をつなげる重要なメディアだ。

ところで、聴衆は楽譜で音楽を享受するのではない。音楽はあくまでも、音として聴かれ、聴き手のなかで完成する。音を発するのは演奏者である。奏者が、楽譜という設計図から読み取ったものを、音楽という建築物にして、この世に現出させる。作曲者が曲のためにできるのは、思いえがく音楽を楽譜にし、奏者に託すところまでだ。運良く、もう一歩進んで関わることができたとしても、リハーサルに立ち合い、演奏を聴いて意見を述べるところまで。公演やコンサートで、楽譜が音楽として具現化される、まさにそのとき、作曲者は曲に対して、何もしてあげられない。奏者の手に委ねるしかない。よって、作曲者が自らのなかに聴き出した音楽を、できるだけ精度を保った状態で聴衆に届けるために、奏者の協力は不可欠だ。まず、奏者に納得してもらえるか、共感してもらえるか、善い音楽だと思ってもらえるかにかかっている。

そうすると、作曲家に必要なのは、楽譜というメディアを高精度につくり、作品に説得力を持たせることだ。私は、その音を出すために必要なことはすべて楽譜に書くタイプの作曲家である。私の作品は、音程の正しさ以上に、細かなニュアンス、質感、ダイナミクスのコントロールを要求する。音ひとつひとつの抑揚が重なり合い、相互に関わり、作用し合って、音楽の身振りがつくられていく。なので、例えば、弦楽器の作品であれば、右手の弓の位置や力の加え方までも、仔細に指示する。伸び縮みしたり、揺らいだり、溜まったりする時間を何とか書き留めようとするため、拍子も一定でないことの方が多く、結果的にとても複雑な拍のとり方になる。だから、私の作品の楽譜は、情報量が多い。それが奏者にプレッシャーを与えてしまうことも稀にあるので、何事も塩梅が肝要だとは思うものの、「書かれている通りに演奏したら、ちゃんと音楽になる」と言われるのはうれしい。

一方、奏者にある程度任せたいタイプの作曲家もいて、その場合は、その意図が伝わる楽譜にする必要がある。制限する要素とオープンにする要素の区別、楽譜に何を書き、何を書かないのか。作曲家の仕事は、さまざまな段階で、求めるものを詳細に決定していくことだ。

 

また、すべて書くとはいっても、本当にすべてを楽譜に書き留められるかといったら、それは無理な話である。音の方向性、身体性、形、細さ太さの加減、いきおい、緊張の度合い、手触り、少しの翳りや煌めき、呼吸、間の取り方など、書き表せないものの方が、むしろ多いくらいだ。それらは、リハーサルに立ち会って、口頭で伝えるしかないが、善い「譜づら」はそういう「微妙さ」まで、奏者に伝えてくれることがある。

どうしたら善い「譜づら」になるのだろう。まず、奏者が現実的に演奏しやすい譜面にすべきなので、無理なく感覚的に音楽の流れをつかめる譜割り、音の長さがぱっと把握できるような各小節内の音の配置に気を配る。そのうえで、各パートの五線の幅、五線同士の間隔、ページ上のレイアウトと余白の割合、奏法を指示する用語や文章の字のフォントやサイズ、グリッサンドやスラーの角度など、気にし始めるといくらでも手をつけるところは出てくるが、実際の音楽に直接の影響は無いと思われる細かな点にまで腐心する。1ページ1ページをアートピースのように、大事に「譜づら」を整えていくと、そこには作曲家の姿勢が宿る。裏を返せば、「譜づら」は、その作曲家が、音、音楽や楽譜をどのように考えているかを、否が応でも表出させてしまう。

作曲と演奏とは相互関係にあるので、楽譜が音になる経験を積めば積むほど、「譜づら」を洗練させていくことができる。私の楽譜のつくり方も、十年前と今とでは別人のようにちがう。私の作品は、海外と国内と、半々くらいの割合で演奏されている。とくに海外で演奏されるにあたって、言語感覚の違いを、むしろ楽譜で超える必要があった。一時間半×三回のリハーサルと本番で、音楽を理想とするクオリティにまで持っていくために、楽譜をどこまでつくり込めばよいか、その試行錯誤を繰り返してきて、私の「譜づら」はずいぶんと鍛えられた。

 

今日、作曲家は、コンピューターの浄書ソフトによって楽譜をつくることが多い。私の場合は、編成や作品の意図、奏者にどのような演奏を求めるかに照らし合わせ、手書きと浄書ソフトとを使い分けている。タブ譜や、グラフィックなど、いわゆる通常の五線譜ではない記譜を用いることもしばしばだ。私の作曲は、記譜のフォーマットをえらんだり、時には発明したりするところから始まる。

そういえば、一般に、浄書ソフトは、手書きよりも手軽に綺麗な楽譜がつくれると思われていて、かちんと来ることが時折あるので、付け加えておきたいのだが、浄書ソフトを用いて、実用的且つ美しい「譜づら」をつくるのは、手書きよりよっぽど難しい。むろん、ただの綺麗な楽譜をつくるだけなら、浄書ソフトのほうが容易いだろう。しかし、「譜づら」を追求した楽譜をつくろうと思ったら、ソフトに予め設定されているレイアウトそのままでは、思うようにはならないのだ。小節幅の変更、音符や発想記号の位置の修整など、ひとつひとつ手作業で、骨の折れる微調整を重ね、やっと理想の「譜づら」を実現できる。クリックひとつで簡単にできあがるわけではない。また、別の角度から考えると、手書きで楽譜を書いた経験なしに、浄書ソフトで音楽的な楽譜をつくることはできないだろう。楽譜を書く最初の経験がすでにコンピューターである場合、理想とする「譜づら」の姿を自分のなかに持つことは難しいのではないかと思う。

 

浄書ソフトで楽譜をつくるとき、私はマウスもMIDI鍵盤(*1)も使わないので、コンピューター付属のキーボードを時々叩きながら、トラックパッド上で指を動かす作業がひたすら何時間も続く。そうすると、指の動きがそのまま音の身体性に変位していくような感覚を覚える。手書きのときも、シャープペンシルを持つ指先が、音自体の身体と直結しているように感じる。ちなみに、私は作曲をするときに楽器は一切使わない。浄書ソフトで楽譜をつくるときも、プレイバック機能は使わない。つまり、作曲をするときに音は出さない。自分の内部に音をひたすら聴きながら、トラックパッドや紙の上で指先を動かす、その内なる聴覚と触覚の連動が、音を探し当てていく。粘土を捏ね回しながらオブジェの形を見出す過程や、絵の具を一筆ずつ塗り重ねて徐々に絵が出来上がっていくのと同じ感覚ではないだろうか。「譜づら」で音楽の全体像を俯瞰しながら、指先の動きが細部を積み上げていく。

「神は細部に宿る」というが、全体があって細部があるのではない。細部を積み重ねていくことによって全体が成る。本居宣長の歌論に「姿ハ似セガタク、ココロハ似セ易シ」という言葉がある。小林秀雄先生は「姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、先ずそういう含意が見える」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集286頁13行目)「意は似せ易い。意には姿はないからだ」(同287頁8行目)という。おそらく「意」は、「姿」を丹念に整えて行った先に、自然と現れるものだ。先に「意」があることはない。

 

さらに付け加えておくが、多くのバージョンが出版されている大家の作品、また、助手や浄書者などを付けている作曲家の場合、その作品の「譜づら」は、編集や浄書の影響を多大に受けていることがある。それを鑑みて、研究熱心な演奏家は、遺された自筆の楽譜から、作品の意図を得ようとする。私の作品もドイツで出版され始めたところだが、それらについては、私がつくった譜面をそのままpdf化したものが使用されているので、「譜づら」にはほとんど手が入ることなく、奏者にわたるのがありがたい。

 

ここまで読んでくださった方の中には、自分の音楽を表現するために、楽譜というメディアを介すことによって、こんなに苦労するのであれば、自作自演すれば良いじゃないかと考える方もいるかと思う。が、それはまた別の話である。私の音楽は、作曲と演奏の行為のせめぎ合い、そして、演奏家の持つ能力と表現力の限界で、やっと成立する種のものだ。善い作曲家であろうとするなら、善い「譜づら」をつくるための闘いはずっと続くのであろう。

 

(*1)Musical Instrument Digital Interfaceの略称。電子楽器やコンピュータ等のメーカーや機種に拘わらず音楽の演奏情報を効率良く伝達するための統一規格。

(了)