スマホはオフに

荻野 徹

いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する4人の男女。今日は、第25章の最後の方を開いている。

 

元気のいい娘(以下「娘」) あのさ、「姿は似せ難く、意は似せ易し」って、やばくない?

江戸紫が似合う女(以下「女」) そうね、一度聴いたら耳から離れませんわ。

凡庸な男(以下「男」) 逆説というか、常識をひっくりかえす発言だね。

生意気な青年(以下「青年」) そうかな、分かりやすいともいえるんじゃない? 抽象的な概念の伝達は容易だが、その表現形式には巧拙があり、説得力も違う、みたいなことでしょ。

娘 そんな単純な話なの?

男 宣長さんは、同時代の学者の歌論を批判して、彼らは、「文辞の姿を軽んじ、文辞の意に心を奪われて」おり、「意と言わず、義と言い、義では足りず、大義」といったあげく、「言語文字の異はあれども、唐にて詩といひ、こゝにて和歌といふ、大義いくばくの違あらんや」などと論じるが、物が分かっていない、というふうに言っていたね。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集285頁。以下引用は同作品集から)

娘 どういうこと?

男 それらの学者にすれば、漢詩だろうが、和歌だろうが、なんらかの意味を、たとえば感情や感慨を表すものであって、同じ意味を表しているのなら、言語の違いすら関係ないということになるね。

女 同じ意味だなんて、ずいぶん簡単におっしゃるのね。

青年 いや、彼らも、それが簡単だと言っているのではないよ。むしろ、意味を理解するのは容易ではないことで、だからそれが大事なのであって、表現をまねるだけなら子供にでもできる、というんだな。

男 彼らは、小林秀雄先生の言う「言葉とは、ある意味を伝える為の符牒であるに過ぎないという俗見」の持ち主だったわけだね。

青年 宣長さんの逆説は、それをひっくり返した。だから僕の言ったとおりでしょう。抽象的な概念の伝達は容易だが、その表現形式には巧拙がある。

女 いいえ、そう簡単に、表現と内容を分けられないのではなくて? 小林先生が「歌人の心とその詞、歌の意とその姿という問題の、困難な微妙な性質」と仰っている、そこが大切なんですわ。

青年 なにが微妙なのさ。宣長さんも、「よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物」と言っている。今で言うインフルエンサーかな。SNS上で、鋭く、分かりやすく発言すれば、たくさんのフォロワーが付く。でも、誰にもそれができるわけではない。それが「似せ難い」ということでしょ。

娘 そうかな、何が伝わっているかってこと自体、問題じゃん。

女 SNSについて、エコーチェンバーという言葉がございますね。同じような意見の人たちが、聞きたい言葉だけをやりとりして盛り上がるのでしょう。スローガンのようなものがやりとりされているだけですわ。概念の伝達が容易だなんて、大仰におっしゃるけど、伝わり易い概念だけが容易に伝達される、それだけのことじゃなくて?

青年 そうかな、さっき、誰かが、宣長さんの同時代の学者の、漢詩でも、和歌でも「大義」は同じだという説を紹介していたね。それでいいんじゃない?

男 確かに、僕らだって、西洋文学を日本語訳で読むし、ミシマやハルキが外国語に訳されて広く読まれている。そういうのと、どう違うのだろう。

女 むずかしゅうございます。でも、こういうことかしら。たとえば、ゴッホの手紙を日本語訳で読んでも、他ならぬゴッホその人の叫びのようなものが、私の心の中で鳴り響くの。でもそれは、「この部分はゴッホの絶望を現わします」とか、「この部分は悲しみです」とか、テストの答え合わせをするように、私の中で、単純に言葉が感動へと置き換わっているわけではないの。翻訳を介してであっても、言葉が、私の中に、何らかの像を形作っているのですわ。

青年 それって、言語文字の違いを乗り越えて、意味が伝わったということでしょう。宣長さんが批判した学者が考えていたとおりじゃないの。

女 そこは、違いますわ。言葉が像を作るというのは、変換コードに従った置き換えではないの。さっき、「歌人の心とその詞、歌の意とその姿」が微妙で困難な問題だという、小林先生のお話をご紹介したわね。歌人が和歌を詠む。それは、歌人の心の中に、Aという気持ちがあって、それを、変換コードに従って、aという詞に置き換える、という作業ではないの。歌人にとっても、歌を詠むという行為、言葉を連ねるという経験を通して、初めて自分の気持ちが形作られるということじゃないかしら。

娘 歌の姿ってこと?

女 そうね。歌となる前の気持ちそのものは、どろどろとした不定形のもの、本人にとっても意味が定まらないものだけれど、優れた歌というのはそれに姿を与える、そうして、本人の心にも、読み手の心にも、まざまざとした像が映ずるようになる、ということかしら。

男 じゃあ、学者たちの言っていた、「唐にて詩といい、こゝにては和歌という、大義いくばくの違あらんや」って、なんの話、してるのかな。

女 たぶんこういうことかしら。歌に詠もうとする気持ちというのは、その人独自の、たった一回きりのかけがえのない体験だから、それに姿を与えるというのは、とても複雑で、微妙な作業でしょう。単純な置き換えではない。でも、そういう複雑さ、微妙さを無視して、単純な変換コードを持込めばどうなるか。たとえば、学校の参考書の鑑賞の手引きのように、この歌は別離の悲しみを、この歌は恋の喜びを詠っているというレッテル貼りをするとか、あるいはもっと精巧に、心理学用語をちりばめた感情リストを作るとかすれば、学者たちのように、「文辞の姿」と無関係に「文辞の意」を云々することができる。

娘 それが、「意は似せ易い」ということだね。

女 「万葉集」はますらおぶりだとか、古代人は朗らかだとかいう予備知識から出発すれば、個々の歌も、心理学用語や、文芸批評用語を使っての分析の対象になる。そういう作業は、やってる当人には難しい知的作業に思えるかもしれないけれど、結局、自分の作った変換コードに当てはめているに過ぎない。自分で先回りして結論を決めているようなものだから、実は簡単な作業よね。

娘 そういう「知的作業」では、一つ一つの歌が、なぜ、このような姿に歌われたのか、分かんない。なぜ、そのような姿の歌が時代を越えて万葉人の心情を伝えられているのか、感じらんないね。

女 小林先生は「ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか」と仰っている。万葉の秀歌たちが、作品として自立しているというか、それ自体で一つの世界を作っていて、いつ、だれがどんな読み方をしようと、万葉人の命があふれ出してくるというような、歌の姿を味わうのですわ。

娘 姿って、なんだろう。なんか、難しい話になったね。

女 そうでもないわ。宣長さんや、小林先生のおっしゃる要点は、「文辞の伝える意を理解するよりも、先ず文辞が直かに示しているその姿を感ずる」ということだけれど、これは、歌道や歌学の話だけではなく、日常生活にも当てはまるし、現にみられることよ。

青年 でも、さっきのインフルエンサーの話、「かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物」の話は、評判悪かったですよね。

娘 君はちょっとずれてるから。

青年 そうかな。弁舌というものは、確かに効果がある。ものの言いようで、伝わり方が違う、もっといえば、伝えようとする側の心持も変わってくる。さわやかな弁舌、理路整然とした行論、声涙ともに下る熱弁は、社会生活上それぞれの活用場面みたいなのがあるのじゃないですか。

女 確かにそうですけれど、私たちの生活にはそれとは別の場面がありますわ。

青年 どういうことですか。

女 自分の人生は自分だけの一回限りのもので、誰にも追体験できないし、その時々の気持ちも共有できるものではないけれど、じゃあ、人間はみんなばらばらかというと、そうではなくて、それが、ある人の体験が他の人に生々しく伝わるということも、ときには起きますでしょう。

男 伝わりそうにないものが伝わるということ?

女 ええ、そこで用いられた言辞の姿が、「人目を捕らえて離さない」もの、つまり、「人生の生ま生ましい味わいを湛えている」ものだからこそ、受け手の心を動かすことになるのね。

男 そう簡単に見聞きできる言辞ではなさそうだ。

女 小林先生も、そういう言辞というのは、「比較や分析の適わぬ、個性とか生命感とかいうものに関する経験」を現わすものだが、そういう経験は「『弁舌』の方には向いていない。反対に、寡黙や沈黙の方に、人を誘うものだ。『姿』の経験は、『意』に抵抗する事も教えている筈である。『文辞の麗しさ』を味識する経験とは、言ってみれば、沈黙に堪えることを学ぶ知慧の事」であると仰っている。(第27集287、288頁)

男 沈黙に堪えるって言われても。

青年 まずは「弁舌」から距離をおくのかな。「意」に抵抗するってなんだろう?

女 そうね、抽象的な概念の多用やキーワードの流行から逃れ、もっともらしい今風の議論の進め方に与しないということじゃないかしら。

娘 そうか、スマホをオフにしよっ。

 

四人の話は、とりとめもなく続いていく。

 

(了)