「声」と「ふり」と「しるし

溝口 朋芽

「われわれは言葉というと文字であり、文章のことだと考えがちですが、実は言葉とはなによりもまず声のことなのですね」。これは、小林秀雄氏との対談「本居宣長をめぐって」の中での、江藤淳氏の言葉である(新潮社刊「小林秀雄全作品」28集p.231)。私は日ごろから「本居宣長」の本文に登場する「しるし」という言葉について考え続けている。たとえば、以下のように「徴」という言葉が文中に登場する。

……有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。

かねて「徴」という言葉を巡って考え続けていた私に、前出の江藤淳氏の言葉は、次第に自身の思考が矮小化し、堂々巡りに陥っていたことに気づかせてくれた。言われて見れば、小林氏は本文の中で、言葉とはまず「声」であるということにたびたび言及している。「徴」としての言葉とは、いったいどういうものなのか、という私の長年の「問い」について、それは「声」で発せられたものである、ということにあらためて留意し、考え直してみたい。

 

二〇二一年の山の上の家の塾で、私は、宣長が「古事記伝」を完成させた際に詠んだ次の歌に注目して質問に立った。

……古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

この歌について小林氏は次のように述べている。

……ところで、宣長の歌だが、そういう古事ふることのふりを、直かに見聞きする事は、出来ないが、「いにしへの手ぶり言とひ聞見る如」き気持には、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気見合のものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。

小林氏のこのやや強い物言いの、特に「正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信」とはいったいどういうことであろうか? 小林氏は第三十章で「古事記」撰録の理由について触れる中で、以下のように述べている。

……諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、(中略)この書伝えのしつが何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。

外来の漢字を用いた書伝えにより、“失われたもの”があるという意識が起こったことを宣長は誰よりも鋭敏に受け止めていた、と小林氏は指摘する。

……それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えのしつは、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、よろずノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、から文章ことばひかれて、本の語はやうやクに違ひもてゆく故に、ては後遂のちついに、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看おもほしめし哀みたまへるなり」という事であった。

「かしこく所思看おもほしめし哀み」給うたのは、「古事記」の撰録を発意した天武天皇である。

 

……漢字の渡来という思いも掛けぬ事件(中略)この突然現れた環境の抵抗に、どう処したらいいかという問題に直面し、古語は、初めて己れの「ふり」をはっきり意識する道を歩き出したのである。(同第28集、「本居宣長補記Ⅰ」より)

つまり、古語がもつ「ふり」こそが、“失われつつあるもの”であるということをはっきり意識して、「古事記」が撰録されたというところに、宣長は誰よりも注目していたということになる。そして、

……(「古事記」の)仕事の目的は、単なる古語の保存ではない。「邦家之経緯、王化之鴻基」を明らかにするにあった。

とある。「邦家之経緯」とは国家組織の根本、「王化之鴻基」とは、天皇政治の基礎(同第27集p.314脚注より)、を指すので、言伝えを明らかにすることは、我邦にとっての「歴史」を明らかにすることそのものであった、ということになる。

では、ここで言われている「言伝え」と「歴史」とはどう結びつくのか。小林氏は第三十二章で荻生徂徠が引いた孔子の言葉に注意を促す。

……名は、物に、自然に有りはしないだろう。物につき、人が、名を立てるという事がなければ、名は無いだろう。(中略)人間の意識的行為の、最も単純で、自然な形としての命名行為が、考えられている。言わば意識的行為の端緒、即ち歴史というものの端緒が考えられている。先王の行為を、学問の主題とした孔子にとって、名は教えの存するところであったのは、まことに当然な事であった。(中略)言語活動とは、言わば、命名という単純な経験を種として育って、繁茂する大樹である。

ここに書かれている内容をそのまま「古事記」を読む宣長に置き換えてみることはできないだろうか。「古事記」の「神代かみよのはじ一之巻めのまき」は、神の名しか伝えていない。つまりひたすら命名行為が述べられているのであるが、これが孔子の教えによるところの「歴史というものの端緒」であるとするなら、宣長が「古事記」に身交むかうことはすなわち歴史に身交うということであったことになる。では、どのように身交ったのか。またここで第三十二章の孔子の言葉に戻りたい。「述ベテ作ラズ、信ジテイニシエヲ好ム」という言葉は、孔子が「述而篇」の冒頭で言っている言葉であるが、徂徠はこの言葉を「凡そ学問とは歴史に極まると信じた孔子の、学問上の根本態度についての率直な発言」と解した、と書かれている。そして宣長もこの徂徠が引いた孔子の言葉、「信ジテ古ヲ好ム」つまり「自分を歴史のうちに投げ入れる」道を行ったと小林氏は言う。その態度で宣長は「古事記」に身交ったのである。そして小林氏は、「古事記」における命名行為について、第三十九章で以下のように詳しく述べている。

……上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。(中略)それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。(中略)神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である(中略)「其ノ可畏カシコきに触て、タダチナゲく言」にあったとするのだ。

 

宣長が、「自分を歴史のうちに投げ入れ」、古人による神の命名を目の当たりにしたときに、注目したのが「古言のふり」である、と小林氏は「本居宣長補記Ⅰ」で言い、続けて以下のように述べている。

……「古語のふり」とは、古学が明らめねばならぬ古人の「心ばへ」の直かな表現、宣長の言葉で言えば、その「徴」だからだ。と言う事は、更に言えば、未だ文字さえ知らず、ただ「伝説つたえごと」を語り伝えていた上ツ代に於いて、国語は言語組織として、既に完成していたという宣長の明瞭な考えを語っている。

……宣長が、「古事記」を釈いて、はっきり見定めたのは、上ツ代の人々が信じていた、言霊と言われていた言語の自発的な表現力、或は自己形成力と言ってもいいものの、生活の上で実演されていた、その「ふり」であった。

 

ここで「古語のふり」という言葉につれて「徴」が登場する。「徴」とは、文字のないずっと以前から古人たちが語り伝えてきたその表現の力、心に感じた歎きそのままを声と声に伴う「ふり」とともに相手に伝えてきた「実体」そのものなのではないか。小林氏は、「古言のふり」は、むしろ(宣長により)発明されたと言った方がよい。と言っている。そして、「発明されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味ったのは、言わば、『古言』に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう」と宣長の心情を語っている。この「喜び」こそが、冒頭にあげた歌を、宣長に詠ませたと言えるのではないだろうか。

 

……宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。

第二章ですでに小林氏は、こう書き記していた。小林氏が宣長から受け取った言葉は、「肉声」と表現されている。肉声は要約や言い換えができない、その声のもつ「ふり」を読者に伝えるためには、そのまま引用するしかない、と小林氏は言っているのである。それらの引用された肉声は、まさしく「徴」としての言葉として氏の前に立ち現れていたに違いない。

 

(了)